これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/04/10 症例報告

医学の世界に来てから常々思っているのだが、この業界では「学会」とか「論文」とかいう言葉が、実に気軽に用いられている。 特に「珍しい症例を経験したので報告します」という類の症例報告を「学会発表」とか「論文」とか表現することがあり、たいへん違和感がある。 学会とか論文とかいうものは、かくも安易に発表する場であるのか。

私は何も、症例報告は学術的意義が乏しい、などと言っているわけではない。 むしろ、本当にキチンとした症例報告であれば、医学的にたいへん重要であるから、積極的に発表するべきである。 しかし遺憾ながら、世の中には、診断や考察が甘く、医学的探究の乏しい「症例報告」が多すぎるように思われる。 特に和文での症例報告に至っては、何を考えているのか理解できない。

珍しい症例を経験したのなら、「なぜ、そのような珍しいことが起こったのか」を検討するのが、医学というものである。 物事には、必ず、原因がある。「たまたま、そうなったのだ」という態度は、知性の放棄であって、学問とはいえない。 もちろん、その前提として診断は厳格に、正しく行われていなければならず、「診断基準を満足したから、そう診断しました」などというのは言語道断である。

臨床医療においては、診断に悩んだ際に、症例報告を検索することがある。 自分の診断に自信が持てず、似たような症例がないかどうか、調べるのである。 似たような症例の報告があれば「そういうこともあるのだ」と安心できる、というわけである。

しかし冷静に考えれば、この発想は、おかしい。 そういう症例が過去にあったからといって、眼前の患者も同様であると考える根拠にはならない。 逆に、過去に報告がなかったとしても、医学的に合理的な診断であるならば、それと診断して構わない。 だいたい、その先行報告の診断が正しいという証拠は、あるのか。

診断に自信がなければ、病理医に相談すれば良い。 我々病理医は組織診や細胞診を専らにするわけではなく、その本分は、病理学を武器とする理論医学を担うことにある。 臨床医を悩ませる診断困難症例こそ、我々の本領を発揮する場なのである。 もちろん「そんなの相談されても、生検でもしなけりゃわからないよ」と逃げる自称病理医もいるだろうが、それはマトモな病理医ではないので、相手にしなくてよろしい。

そうして医学的検討を尽くした症例報告であれば、医学の歴史に積み上げる一つの小さな石として大いに意義があるから、堂々と、英文で世界に向けて発表すると良い。


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