これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/04/08 エフェドリンの謎

エフェドリンという薬物がある。 臨床医療においては、いわゆる昇圧薬の一つに位置付けられている。 ただし麻酔科学を修めた者は「昇圧薬」という語を用いることを避けるのではないかと思われる。

そもそも、なぜ我々は手術中、患者の血圧をモニタリングするのか。 過去にも何度か述べたが、血圧というものは、心収縮力や血管抵抗など様々な要因が複雑に組み合わさって決まるのであって、 それ自体が何か生理的に重要な意義を持つものではない。 少なからぬ学生や若い医師は、血圧を「血液を送り出す力」のようなものと認識しているようだが、それが誤りであることは ベルヌーイの定理を考えれば明白である。

臨床麻酔における、たぶん世界で最も有名なアンチョコ本である Pino RM ed., Clinical Anesthesia Procedures of the Massachusetts General Hospital, 9e, (2016). では、 血圧をモニタリングする意義について次のように述べている。

The goal of hemodynamic management is to maintain adequate organ perfusion. Since organ perfusion is difficult to measure in vivo, systemic blood pressure is monitored as an indicator of blood flow and organ perfusion.

循環動態管理の目標は、臓器を適切に潅流することである。 しかし臓器の潅流を生体内で測定することは困難であるから、臓器潅流の目安として血圧を測定する。

同書では、電流についてのオームの法則になぞらえた、生理学でいうオームの法則、すなわち 「平均動脈圧 - 中心静脈圧 = 全身血管抵抗 x 心拍出量」という近似法を紹介している。 もちろん、この近似法には少なからぬ問題が含まれているのだが、そのあたりの詳細については、ここでは議論しない。

以上のことからわかるように、麻酔科学においては「血圧を上げること」や「血圧を下げること」を目的に投薬がなされることは、あり得ない。 投薬の目標は、あくまで「全身血管抵抗」や「心拍数」あるいは「心収縮力」の調整なのであって、血圧は、それらの目安として測定しているに過ぎないからである。

さて、エフェドリンは、生薬の麻黄に含まれており、西洋薬理学的にいえば α1, β1, β2 刺激薬であり、 さらにアンフェタミン様の機序によりノルアドレナリンの分泌を促すらしい。 薬理学に疎い読者のために説明しておくと、β1 刺激薬というのは、おおまかにいえば、心筋細胞を刺激し、心拍数や心収縮力を亢進させる薬である。 α1 は血管平滑筋を収縮させることで血管抵抗を増加させる一方、β2 は平滑筋を弛緩させるのだから、 エフェドリンが血管抵抗を高めるのか低めるのかは、一概にはいえない。 ただ、臨床的には、心拍数が増加し、血圧も高くなることが多いようである。 従って、手術中にたとえば副交感神経系の刺激により患者の心拍数がやや低下し、さらに末梢血管が拡張して血圧が低下していると考えられるような場合に、 エフェドリンを投与することがある。

このように、エフェドリンというのは循環動態を調節する目的で用いられる重要な薬なのであるが、 不思議なことに、この薬物の体内動態について詳細な検討をした報告は乏しい。 おそらく歴史的に、臨床医学の担い手達は、新しいもの、センセーショナルなものばかりを追求し、 こうした基礎的で臨床的にも重要な問題を軽視してきたのではないか。 「現に問題なく使えているのだから、それで良いではないか」という、非学術的で近視眼的な発想の持ち主が多かったのであろう。

数少ない報告によれば、エフェドリンの薬物動態は、概ね次のようなものであるらしい。 エフェドリンはアドレナリンと類似した化学構造を持つが、モノアミンオキシダーゼなどの基質とならず、すなわち、体内ではほとんど代謝されないらしい (医薬品研究 4, 1-14 (1973).)。 従って、主として未変化体として尿中に排泄されるのであるが、弱塩基性であることなどから、尿がアルカリ性の場合には「例の機序」により再吸収が亢進し、あまり排泄されない (J. Pharmacol. Exptl Therap. 162, 139-147 (1968).)。 「例の機序」と言っても薬理学や毒物学に疎い人にはわからないかもしれないが、ここでは説明する余裕がない。 また、ヒトではエフェドリンの血中濃度半減期は概ね 6 時間程度のようである (Eur. J. Clin. Pharmacol. 57, 447-455 (2001).)。

この薬を臨床的に用いる場合、問題は、血管抵抗は大きくなるのか、小さくなるのか、という点である。 これについては麻酔科学の聖典である Miller RD ed., Miller's Anesthesia, 8e, (2015). を開いてみても「α1 と β2のバランスで決まる」 とのみ書かれており、はっきりしない。 眼前の患者について、エフェドリンが末梢血管抵抗についてどのように作用するか、予想する方法は、あるのだろうか。


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