これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
週刊 `The New England Journal of Medicine' 3 月 30 日号の Perspective 欄に `From Trial to Target Populations' という記事が掲載されていた。 いうまでもなく、臨床試験で得られた統計データやガイドラインの内容を、眼前の患者に、そのまま当てはめることはできない。 臨床試験は、様々な背景を持つ患者について集計したものに過ぎないから「その集団においては、この治療法が有効な患者が多かった」という結果があったとしても、 「眼前のこの患者にも有効であると期待できる」と推定することはできない。 ガイドラインに盲従する医師が馬鹿にされるのは、そういう理由からである。
この記事の主旨は、臨床試験のデータを、眼前の患者の予後を占う目的に合わせて適切に重みづけして集計し直すことで、より「実用的」な情報を得ることができる、 というものであった。 それを読んで私は、バカな、と思った。 統計学というのは、魔法の技術ではない。そのような再集計によって本当に意義のあるデータを得ることなど、不可能であろう。 おそらく、何か重大な、とても容認できないような仮定を暗に導入することで、そのような魔術的解析が可能であるかのように錯覚させているのだろう、と私は推定した。
私だけでなく、科学者というものは、ある新しい意見を聞いた時、それが「正しそう」か、「正しくなさそう」かを、論理的に検討する前に、まず直観的に判断する。 実は物理学者でさえ、そうなのである。 数式を丹念に展開した結果として結論を得るのではなく、直観的に結論を得た上で、確認のために数式を展開しているに過ぎない。 このあたりのことはリチャードが『ご冗談でしょう、ファインマンさん』で書いているので、興味のある人は、読んでみると良い。 そういうわけで、私は、この記事の内容を「間違いである」と、まず決めつけ、次に、記事の論理がどう間違っているのかを確認する作業にとりかかった。
上述の NEJM の記事は、その技法の統計的基礎として S. R Cole らの報告 (Am. J. Epidemiol. 172, 107-115 (2010).) を引用している。 この報告では、少しばかり数式や小難しい用語が駆使されており、率直に言えば、一般の医師には理解できないような論文である。 私も、これをキチンと読むのは骨が折れそうだな、と思った。 しかし私は、もとより、この論文を信じておらず、何か決定的に重要な仮定、おそらくはロジスティック回帰分析か Cox の比例ハザードモデルを使っているのだと予想していた。 そこで、文章をキチンと順番に読むのではなく、統計モデルの部分にだけ、サラサラと目を通した。
はたして、この報告は、Cox の比例ハザードモデルに基づくものであった。 この解析法は便利ではあるが、あまりに厳しい仮定に基づいているため現実の問題に適用することは困難である、という事実は統計学者の間では常識である。 従って、この報告を基礎とする、上述の NEJM に掲載された魔術的技法も、所詮は子供騙しに過ぎない。
学問的素養を欠く者は、そうした論文の「裏側」を読めない。 そのため、著者の主張する「結論」を安易に信じてしまい、その理論的前提や制約について失念してしまう。
私が京都大学大学院時代に扱った、原子炉物理学の「固有函数の完全性」でも、そういう問題があった。 昔の原子炉物理学者は「固有函数は厳密には完全ではないが、『充分になめらかな中性子束分布函数』を展開するには充分である」と慎重に言及していたのに、 現代の原子炉物理学者には「固有函数は完全であり、任意の中性子束分布函数を展開できる」と誤解している者が多かったのである。 その誤解があまりに広まっていたために、私は、自分の研究内容を同業者に説明する際、たいへん苦労した。
また、ある時、私は自分の数値計算の結果として「未臨界度を従来法より何パーセント精度良く推定できた」という内容を学会で話そうとした。 すると教授 (私の在学中に退職した人であり、私が喧嘩した相手とは違う) は「具体的な数字は出さない方が良い。」とアドバイスしてくれた。 というのも、この数字は計算モデルによっていくらでも変わるものであって、何ら普遍的なものではない。私も、単に計算例として示すだけのつもりであった。 しかし発表を聴いた側は、そういう部分にまで思慮が及ばず、数字だけが独り歩きしてしまう恐れがある、というのである。 医学の世界に移ってから、この教授の言葉の正しさを、幾度となく痛感した。