これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
私は、読書家ではない。 学校の図書室の本を貪るように読んでいた小学生の頃に比べると、読書量は 10 分の 1 以下に落ちたのではないか。 特に、小説の類を読まなくなった。 ここ数年、読んだ小説といえば、宮城谷昌光と塩野七生ぐらいである。 宮城谷も塩野も、歴史小説で知られた作家であり、宮城谷は古代中国、特に戦国時代以前を、塩野はイタリアを、それぞれ舞台にした作品が多い。
宮城谷の作品の中で、私が最も好きなのは『晏子』である。 これは、春秋時代の斉国の名宰相である晏嬰と、その父である晏弱とを描いた作品である。 『晏子』には名場面がいくつもあるが、その中で、私が最も好きな箇所を引用しよう。 斉国の「光」という名の太子が、宰相である崔杼に補佐されて斉軍を率い、晋国を盟主とする連合軍の一員として鄭国を攻撃した場面である。 文中の「臨シ」は斉国の首都であって、シの字は「輜」の車偏を三水にしたものである。また、霊公というのは、斉国の君主である。 この時、太子光は霊公から疎まれつつあり、ひょっとすると太子の地位を剥奪されかねない状況にあり、それを防ぐために崔杼が腐心している、という状況である。
晋の命令で諸侯が鄭を攻めることになった。崔杼は太子光にきびしい顔をむけ、
「励まれよ」
と、いい、電光石火の速さで臨シを出ると、斉軍をすさまじい勢いで鄭国に侵入させた。
会同の場所である牛首に一番乗りをしたのが斉軍であることを知った諸侯は、いちように賛嘆し、
「さすがに崔杼よ」
と、かげでは斉の宰相をほめ、おもてでは斉の太子の速攻をたたえた。
--- ひとまず、これでよかろう。
と、崔杼はおもった。かれの気くばりと手くばりとは、晋のためではなく、遠くはなれたところでこちらをみているにちがいない霊公を意識したものである。
途中で、太子光は、
「なにゆえ、かように急ぐ」
と、不審の声をあげたが、崔杼は、
--- ご自分でお考えなされよ。
と、いわんばかりに、寡黙を通した。太子光は崔杼の気色の悪さを怪しみ、
「人変わりしたようだ」
と、左右にこぼしたので、それをきいた崔杼は舌打ちし、あえて面語して、
「この戦いは、ご自身のために、全力をつくさねばなりません」
と、諭した。全力をつくすということは、全力ですすむということからはじまる、そういうことをいちいちいわねば、この太子は理解できない。
この「全力をつくすということは、全力ですすむということからはじまる」というのは、重要な考え方である。 学生に置きかえてみれば「全力で学ぶということは、講義室で最前列に座ることからはじまる」と、いえよう。 諸君は、全力で学問に向き合っているだろうか。