これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/08/31 病理「夏の学校」(3)

昨日の記事で最後に書いた名古屋の某教授とは、篠島から帰る船の中で語り合った。 この時、教授は既にアルコールが入った状態であったが、酩酊というほどではなく、まぁ、精神状態は概ね尋常であったと思われる。

私は教授に対し、病理医の存在意義について問うた。 「近い将来、形態学的診断については人間がコンピューターに負ける時代が来る。また免疫組織化学所見のスコアリングに医師免許が必要とは思われず、臨床検査技師で良かろう。 また基礎病理学研究に至っては、もとより医師免許は不要である。そうしてみると、病理医の存在意義は、一体、どこにあるのか。」 病理医の中には「いくらコンピューターが発達しても、それを使う人間が必要である」などと楽観的な意見を言う者がいる。 しかし「コンピューターを使う人間」は臨床検査技師で良く、医師である必要はない。近い将来、我々病理医は、コンピューターによって代替されるのではないか。 これに対し教授は、「疾患概念を構築する人が必要である。」と端的に述べた。

この教授の言葉は、いささか、わかりにくいかもしれない。 教授は、臨床的な診断業務に限るならば、病理医は不要になるかもしれない、ということを暗に認めたのである。 しかし、その上で、医学の発展を先導するのは常に病理学者であり、その任務は疾患概念を形成することであり、 そのために病理学者は臨床の前線で診断に従事することで眼を養う必要がある、ということを暗に指摘したのである。 この「眼」というのは、無論、形態診断の感性を言うのではなく、標本の裏側に隠れている細胞の活動の異常を見抜き、 疾患の本質を論理的に洞察する能力のことを言う。

教授は言及しなかったが、こうした「眼」を備えた病理医の診断は、単なる形態学的パターン認識から脱却することができる。 その場合、我々はコンピューターよりも正確で緻密な診断を行うことができると、私は考える。

また私は教授に、「悪性腫瘍」という語の定義についての疑問を投げかけてみた。 すなわち「前立腺腫瘍や甲状腺腫瘍などの中には、現在の定義に従えば悪性ということになるが、一生放置しても問題ないものが少なからず存在する。 これは、はたして本当に悪性と呼ぶべきなのだろうか。」と述べたのである。 教授は、ただちに私の意図するところを理解し「同様に、脳腫瘍などの場合、異型や浸潤がなく組織学的に良性と思われる腫瘍であっても、生命を脅かすことがある。」と受けた。 そして続けて次のように述べた。 「あなたが悪性と思うなら、悪性と言って良いでしょう。」

この教授の言葉も、余人には理解し難いかもしれぬ。 現在の良悪性の定義に拘泥する必要はない。 より医学的に適切と考えられる方向に定義を修正するのは、次代の病理学者である、あなた方に課された任務である。 そのために、適切な実験的あるいは臨床的証拠を蓄積し、その妥当性を世に問う必要がある。 これこそが臨床病理学の研究であり、病理学者の責務である。 そういう意味を、教授は、上で紹介した言葉に込めたのである。


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