これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
今月の 26 日と 27 日に、1 泊 2 日で愛知県の篠島において行われた日本病理学会中部支部「夏の学校」に参加した。 愛知や富山からの参加者が多かったが、それ以外の中部地方からも多くの学生や研修医が参加した他、中部以外の地域からやってきた学生もいた。
名古屋大学時代の私の同級生も、私を含めて四人、参加していた。 そのうちの一人については、てっきり腎臓内科志望だと私は思っていたのだが、病理転向を考えているようである。 聞くと、他にも、学生時代は臨床志望であったのだが諸般の事情で病理転向を考えている元同級生がいるらしく、 私を含め、一学年から 6 人ないし 7 人の病理医が生まれそうな勢いである。
また、信州大学から参加した某君とは、学生時代にとある催しで知り合い、医師国家試験の会場などで偶然、会ったことのある仲である。 この夏の学校でまた再会するとは、つくづく、彼とは縁があるらしい。
もちろん、初対面の相手も多かった。 名古屋大学の学生の某君とは、学生時代には面識がなかったのだが、夕食後の二次会で語り合った。 その時、彼から鋭い指摘をいただいたのは、以前に私が書いた病理診断には一定のセンスが必要であると書いた件についてである。 その「センス」とは、一体、何であるか、というのが彼の質問、指摘であった。
私は、即答できなかった。 定義を曖昧にしたまま、なんとなく「センス」という言葉を用いたのは、私の過失である。 しかし彼と話すうちに、次のような結論に至った。 すなわち、センスとは、適切な疑問を抱く能力のことである。
医学科の教育においては、質問をする能力が軽視されている。 センセイの言うことをよく覚えることが重視され、そういう試験が専ら行われているのである。 学生が何か質問をしても、まともに回答できない教員も多い。
では、質問をさせるよう務めることで、その「センス」を学生に身につけさせることは、可能であるか。 彼と話している時には、私は「できるかもしれぬ」と結論し述べたが、後でよくよく考えてみると、それは、容易ならざることであるように思われる。 たとえば病理組織学的に「適切な疑問」を抱くためには、いくら組織標本だけを眺めても、無理である。 組織学、生理学、細胞生物学、生化学、免疫学、あるいは臨床内科学や外科学といった、 医学全般にわたる学識があって初めて、病理学的な本質を突く疑問を抱くことができる。 結局、こうした系統的に積み上げられた学識こそが「センス」の本態であろう。
その意味では、たとえば研修医になってからでも、医学を系統的・網羅的に勉強しなおせば、「センス」を身につけることは、できよう。 ただし、普通、そんな時間はない。 だから我々には、医師免許を取得する前に 6 年間の「モラトリアム」が与えられているのである。 この期間に学問を修めず、試験対策にかまけ、遊興に耽った者は、ついにセンスを身につけないまま医者となり、取り返しがつかなくなるであろう。