これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
薬の話をしよう。 ある注射製剤についてである。 諸般の事情から具体的な内容を出すことができない点は、ご容赦いただきたい。
私は、この薬剤の作用の持続時間が非常に長い点に興味を持った。 単に注射された薬剤が血中に移行し、効果を発揮する、というだけでは説明できないほど、長時間にわたり、効果が持続するとされているのである。 添付文書やインタビューフォームなどを眺めたところ、臨床試験において高い血中濃度が長時間にわたり保たれた旨は記載されているが、詳細は記されていない。 そこで製薬会社に問い合わせて、添付文書の末尾に掲載されている参考文献のいくつかを届けてほしい、と依頼した。
私が依頼した文献は「社内資料」とされているものであって、一般には公開されていない。 患者が直接依頼した場合はどうだか知らぬが、少なくとも医師が問い合わせた場合、製薬会社は、こうした社内資料でも提供してくれるのが普通である。 なにしろ、薬を患者に投与する判断の最終責任者は医師であって、製薬会社ではない。 「社内資料をみせることはできません」などとして薬剤の重要な情報を秘匿するようでは、我々としては責任を持てないから、その薬を使うわけにはいかない。 従って、まず例外なく、製薬会社は無料で資料を病院まで届けてくれる。
その届けられた資料をみて、私は、首をかしげた。 どうも理屈に合わない、無茶苦茶なことが書かれているように思われたからである。 次のような次第である。
詳細については書かないが、社内資料には、注射を行った後の薬物血中濃度の経時的変化について、臨床試験で頻回に測定した結果が掲載されていた。 そのグラフをみて私は、3 コンパートメントモデルで説明するのが良かろう、と考えた。 ここでいう 3 コンパートメントとは、注射された直後に薬剤が貯留している分画、血液分画、貯蔵分画、である。 この「貯蔵分画」というのは、具体的には脂肪組織か何かだと思うのだが、注射された薬剤が血液を介して移行し、貯蔵される場所のことである。 このような 3 つの分画の存在を仮定するモデルで、血中濃度の変化を近似的に表現できるだろう、と考えたのである。
この血中濃度の経時的変化を理論的に説明するために、製薬会社の研究班では数値計算を行ったらしい。 ところが、その計算モデルは私の考えたような 3 コンパートメントモデルではなく、いわゆるノンコンパートメントモデルであった。 つまり、体の中での薬物の移動を考えないモデルである。 そんなモデルで、この血中濃度の変化を説明できるものか、と思い、よくよく注意して読むと、この計算モデルでは、とんでもない仮定が用いられていた。 具体的には書けないが、まぁ、常識的に考えてありえない、辻褄を合わせるために無理矢理導入したとしか思えない仮定である。
私は、医師の中では薬理学をよく勉強した方であると思うし、統計学や数学についても、医師にしてはデキる方であろう。 それでも私は薬の専門家ではなく、薬剤師などに比べれば、素人といって良い。 だから、ひょっとすると、上述の私の理解は、正しくないのかもしれない。 そう思って、私の理解で合っているかどうか、不自然な仮定のように思われるが、合っているのか、と製薬会社に問い合わせてみた。 返答は、私の理解で合っている、とのことであった。 不自然ではないか、という点についての弁明はなく、暗に「察してください」という雰囲気であった。
ここから先は、私の想像である。 製薬会社の研究員も、当然、この仮定が無茶苦茶であることは認識していたはずである。 3 コンパートメントモデルの計算も、やってみたに違いない。 しかし実測データが少ない場合、3 コンパートメントモデルの計算は誤差が大きくなる。 おそらく、臨床試験のデータが少なすぎて、キチンとした計算結果が出なかったのではないか。 そこでノンコンパートメントモデルを使おうとしたが、当然、普通の計算方法では測定結果と合わなくなる。 やむなく、不合理で無茶苦茶ではあるが、辻褄合わせの仮定を用いることで、みため上は測定結果とよく合致する計算結果を出したのであろう。
この研究者らも、そんな計算は、やりたくなかったであろう。彼らの科学的良心が痛んだであろうことは想像に難くない。 しかし、それでも我々は、彼らのやり方を非難せざるを得ない。 製薬会社には製薬会社の事情があるとはいえ、科学的に不誠実な作為は、不正であるとして詰らなければならない。 それを怠れば、科学は衰退し、医学は滅び、患者が迷惑するのである。
あの数値計算は、インチキである。