これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/10/16 貧血の定義

「貧血」という語の定義が混乱していることは4 年近く前に書いた。 過日、某所で若い医師と貧血の話をした時に、ふと、この件を思い出したので、改めて、これについて書くことにする。 というのも、当時の私は医学科 4 年生で、今ほど医学に通じておらず、臨床医学界の現状を知らぬままに、少しばかり的を外した記載をしているからである。

「貧血」の定義について、ハーバードの連中が書いた学生向けの参考書 Aster JC et al., Pathophysiology of Blood Disorders, 2nd Ed. (McGrawHill; 2017). は

Anemia is defined as a significant deficit in the mass of circulating red blood cells. ... The presence of anemia is documented by measuring either the concentration of hemoglobin in the blood or the hematocrit, which is the ratio of the volume of red cells to the total volume of a blood sample. ... Occasionally, tests for anemia are confounded by a concurrent alteration in the plasma volume.

貧血とは、循環赤血球量が有意に減少することをいう。 貧血の存在は、血液中のヘモグロビン濃度や、ヘマトクリット、つまり全血に対する赤血球の体積割合を測定することによって確認できる。 時に、赤血球量と共に血漿量も変化することがあり、貧血の検査結果の解釈が難しくなることもある。

と述べている。 この記載が全てであり、その点については 4 年前の私の記載とも一致している。 しかし、この定義を巡る臨床医の理解については、かつての私の認識は不充分であった。

他の教科書が「貧血」をどのように述べているか、紹介しよう。 血液学の名著 Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGraw Hill; 2016). は次のように述べている。

Anemias are characterized by a decrease ... of the red cell mass. In most clinical situations, changes in red cell mass are inferred from the hemoglobin concentration or hematocrit.

貧血は、赤血球量の減少によって特徴づけられる。多くの臨床場面においては、赤血球量の変化は、ヘモグロビン濃度やヘマトクリットの変化として表われる。

ここでは `characterized' という曖昧な表現が用いられ、定義を明確に述べている箇所がみあたらない。 これは内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (McGraw Hill; 2015). も同様であって、

Impaired O2 delivery to the kidney can result from a decreased red cell mass (anemia)

との記載はみられるが、定義を明確には述べていないようである。 どうやら定義を軽んじる風潮は、日本だけでなく、米国の臨床医の間にも蔓延しているのではないかと疑われる。

それでも、ここまでは「濃度 concentration」ではなく「量 mass」を定義としているようだから、表現は気に入らないが、記載内容自体はよろしい。 問題は、次である。

英国オックスフォードの集中治療学の教科書 Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed. (Oxford; 2016). は `Anaemia is a haemoglobin concentration (Hb) below expected population values...' と述べている。なお、e ではなく ae として anaemia, haemoglobin と表記するのが英国式である。 Oxford は、さらに `The World Health Organization (WHO) defined anaemia as a haemoglobin < 130 g/dL (haematocrit < 39 %)...' と述べている。もちろん、この 130 g/dL というのは 130 g/L の誤りであろう。 つまり Oxford は、WHO による「定義」に従って教科書を記載しているわけである。

このあたりの事情は日本の朝倉書店『内科学』第 11 版でも Oxford に近い。 「貧血は末梢血の赤血球成分が減少した状態を指し, ヘモグロビン濃度の低下で定義される.」 「WHO 基準では成人男性で 13.0 g/dL 以下, 成人女性では 12.0 g/dL 以下とされ, この基準が広く用いられている」と記載されている。

問題は、この「WHO 基準」である。 朝倉『内科学』では、WHO の Worldwide prevalence on anemia 1993-2005 を文献として挙げているが、私が読む限り、この文書では貧血の定義には言及していない。 WHO は、統計を取るための客観的基準としてヘモグロビン濃度に閾値を設けてはいるが、これを「貧血の定義」とは述べていないのである。 WHO の識者達は、上で紹介した Williams やハーバードの連中が述べているようなことはよく承知しているために、慎重に「定義」と「基準」を分けて考えているものと思われる。 これは、あくまで統計のための分類基準に過ぎず、定義ではなく、臨床的な診断基準でもない。 しかるに、オックスフォードや朝倉『内科学』の著者らは、定義と基準とを混同し、不適切な記載をしているのである。

疾患概念と分類基準とは、明確に分けて理解しなければならない。


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