これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
この件については過去に断片的には書いてきたが、まとめて書いたことはないように思う。
病理解剖というのは、死亡した患者を解剖することであり、その人の体の中で何が起こっていたのかを明らかにする行為であって、執刀するのは病理医である。 これを行うには本人または遺族の同意が必要であり、その点が司法解剖とは異なる。 従って、患者が死亡すると、主治医は病理解剖の承諾を遺族から得ようと試みるのだが、我が北陸医大 (仮) の場合、病理解剖実施率は低い。
この解剖実施率の低さは、一つには、臨床医の病理解剖に対する意欲の低さに起因する。 臨床経過について、よくわからない点がある、と主治医が思っている場合には、遺族に対し、解剖を承諾してもらえるよう、積極的に説得を行うことが多い。 一方、主治医が特に疑問を抱いていない場合、自然な経過による死亡であると考えている場合には、 「もし希望されるなら解剖しますが、どうしますか」というような態度で遺族に説明することがあるらしい。 その場合、遺族が解剖を希望しないのは自然なことである。 カルテをみても「承諾を遺族から得られなかった」ではなく「遺族は解剖を希望されなかった」というような表現がなされていることが多い。 しかし本来、遺族の「希望」を問うのではなく、遺族の「承諾」を得られるように試みるべきなのである。
無論、病理医側にも問題はある。臨床医や遺族の要請に応えられるだけの水準で病理解剖を実施できているだろうか。 また、中には、病理解剖を依頼した臨床医に対し「何のために解剖するのか」というようなことを尊大に述べ、臨床医の意欲をくじく病理医もいるらしい。 言語道断である。
病理解剖に、理由は、いらない。 患者が死亡したから解剖する、で十分なのである。 臨床経過に不明な点があるかどうかなど、解剖をするかどうかには無関係である。 そのあたりを理解していない臨床医と病理医が非常に多い、というのが日本の医療の現状であろう。
死に至る患者の体内において何が起こっているのか、本当に理解して診療している医師など、いない。 解剖をしても何も得ることがなかった、などということは、あり得ないのである。 もし、不幸な転帰をたどった患者から解剖を通じて教えてもらうことが一つもないとすれば、それは診療にあたり思慮が不足していたということであって、 真摯な態度で患者と向かい合っていなかった証左である。 あるいは、解剖した病理医の頭脳と腕が悪かったのである。
病理医の、解剖に対する意識の低さは、極めて重篤である。 私は次の 4 月から北陸医大の病理部に所属することになるが、それにさきがけ、来月からは研修医の身分で病理部で研修を受ける。 それに際し、病理解剖の手引き書を入手しておこうとして、愕然とした。
病理解剖を論じた日本語の成書が、存在しないのである。 一応、金芳堂から、清水道生『徹底攻略! 病理解剖カラー図解』や齋尾征直『"わからん" が "わかる" へ 病理解剖』という書籍は出版されているが、 これらはタイトルから容易に想像されるように、アンチョコ本の類であって、成書とは呼べぬ。 また、「病理と臨床」誌の臨時増刊号として 2012 年に「病理解剖マニュアル」というものが刊行されたらしいが、 これは雑誌であって、増刷される性質のものではないから、当然、既に絶版となっている。
キチンとした成書を探すと、舶来物に頼らざるを得ない。 病理診断学の分野では有名な Elsevier `Diagnostic Pathology' シリーズには `Hospitai Autopsy' という書もあるが、 このシリーズは、よくできたアンチョコ本であって、教科書と呼べるような立派な代物ではない。 すると、しっかりした文献としては Connolly AJ et al., Autopsy Pathology, 3rd Ed. (Elsevier; 2016). ぐらいしか、みあたらない。 これは、副題に `A Manual and Atlas' と書かれてはいるが、マニュアルというよりも教科書と呼んで差し支えない書物である。
なぜ、これほどまでに、教科書が少ないのか。 教育に対する病理医のセンセイ方の姿勢には、いささか問題があるのではないか。