これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/01/25 自我同一性

医学書院『標準精神医学』第 6 版は、自我同一性という語を次のように説明している。

自我同一性 (Erikson) とは、自己が一貫し, 連続しているという主体的な感覚である. それは、人からも自分が同様に認知されているという感覚と, 自分が社会のなかで是認される道を歩んでいるという自己評価に支えられている. それは, 幼児期や学童期の重要な人物への同一化とは異なり, それまでの同一化をもとにしながら, 現実社会と想像のなかでのさまざまな役割を試すことを通して新たに獲得される感覚である. これは, 自分のあり方や生き方を問い直し, 自分らしさや自分の生き方を見つけることということもできる.

子どもは, 将来, 何でもできる, 何にでもなれるというような幻想を大なり小なり抱いている. しかし, 学童期の終わり頃より, Piaget のいうように, 子どもの現実検討能力は高まり, 学業面でも運動面でもその他の面でも, 自身の限界がわかりはじめる. そして, 自分が特別な存在ではなく, 皆と変わらない平凡な自分であることに気づく. それは, ある意味での喪失であり, 挫折である. そこで, 改めて「自分とは何者か」が問われてくるのである.

この自我同一性の障害が、現代社会の若者にとって、しばしば問題になる。 自分は特別な存在ではない、となったとき、社会における自分の役割、立場を見失い、困惑するのである。

名古屋大学時代のことを思い返しても、北陸医大 (仮) の学生をみても、程度の差はあれども、そうした自我同一性の障害に悩む学生は多い。 それまで「成績優秀」とされてきた学生も、医学部に入ると、それほど突出した存在ではなくなることが稀ではない。 本当に医学部に来て良かったのか、本当に医者として人生を歩んで行くのか、と悩むのである。 その後、自分なりの回答をみつけて歩み始める者もいるし、研修医になってからも悩み続ける者もいるであろう。 そういった若者達の悩みに対し、周囲の大人からの支援は貧弱なのが現状ではないか。 良くいえば「学生の自主性に任せている」ということなのかもしれないが、その実態は、教育の放棄なのではないか。

一方、これは自慢であるが、昨日の記事に書いたように、私の場合、自我同一性の形成に若干の異常を抱えている。 障害ではない、という点に注意していただきたい。 「障害ではない」という言葉の意味は、それによって本人および周囲の社会生活に問題は来していない、ということである。

私自身は、私が世界一の病理学者だと信じているが、そう思っているのは世界中でただ一人、私のみであろう。 周囲の人は、私を「少しはデキる病理医の卵」ぐらいにみているかもしれないが、世界一、とまでは思っているまい。 すなわち、私には、『標準精神医学』がいう「人からも自分が同様に認知されているという感覚」もないが、 「自分が特別な存在ではなく、皆と変わらない平凡な自分」という認識もない。 いわば、子供のような心を、 35 歳になっても持ち続けている、ということになる。

自分が世界一の病理医だと確信している、というのは、妄想と紙一重ではある。 しかし、妄想の三要件、つまり 1) 事実に反する; 2) 確信であって; 3) 訂正不能、のうち、2) と 3) は確かに満足しているが、1) を満たしているとは限らない。 ゆえに、これを妄想であるとは、いえない。

そのくらいの妄想スレスレの確信がなければ、前には進めない。科学は発展しないのである。


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