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「腫瘍」という語を、どう定義するか、という問題である。 臨床医の中には「定義」と「診断基準」を混同している者が少なくない。 多くの臨床ガイドラインでは、診断基準のことを「定義」と書いている例が稀ではないため混乱に拍車がかかっているが、両者は明確に区別しなければならない。 臨床医は、しばしば「○○のガイドラインで定義が変わった」などと表現するが、それは大抵の場合、定義ではなく診断基準である。 医学用語や疾患概念の定義は、そうそう変わるものではない。 が、我々は今、診断基準ではなく、「腫瘍」という語の定義を変えるべきではないか、という問題を議論している。
「腫瘍」というのは疾患名ではない。広範な疾患群、ともいえなくはないが、むしろ病態を表す語であると考えた方がよかろう。 歴史的に、腫瘤性病変は「腫瘍」と「過形成」に大別されてきた。 腫瘍とは、その病変が本質的に細胞増殖性なのであって、その病変そのものに対する治療介入なしには増殖を止めることができないものをいう。 ただし、増殖の速さは問題にしていないので、無治療経過観察でも患者の生活に、生涯にわたり、何らの影響も及ぼさない腫瘍も存在する。 たとえば前立腺や甲状腺などの latent 癌が、これにあたる。 これらは浸潤性腫瘍であるため、現行定義では悪性腫瘍ということになるが、 むしろ良性に分類されるべきではないか、という件は過去に書いた。 一方で過形成というのは、「反応性」と同義であって、病変の外部からの刺激に対する応答として細胞の増殖を来しているものをいう。 原理上、外部からの刺激を遮断すれば増殖を抑制できるのだから、病変そのものに対する治療介入は必須ではない。 それゆえに、腫瘍と過形成は、区別する必要があったのである。
なお、厳密には、細胞増殖を伴わない腫瘤性病変、というものもあり得る。これは腫瘍でも過形成でもない、いわば「第三の腫瘤」ということになるが、現実には多くない。 細胞が膠原繊維などの間質成分を過剰に形成して腫瘤を成す病変は、ヒトの場合、まず例外なく細胞の増殖を伴っているので、腫瘍または過形成にあたる。 本当に細胞増殖を伴わない腫瘤性病変というのは、血腫や浮腫ぐらいであろう。
さて、以上のような事情を考えれば、腫瘍と過形成は必ずしも明確に区分できるものではない、と考える人もいるだろう。 つまり、昨日述べた Inflammatory Fibroid Polyp (IFP) のように、遺伝子異常を背景として、外部からの刺激により過剰な細胞増殖が惹起される病変は、 腫瘍と過形成の境界にあたる、とする立場である。 細胞増殖を促す遺伝子異常がある、という意味では増殖の原因の一部は病変内部にあり、腫瘍のようにみえるが、 外部からの刺激がなければ実際の増殖は起こらない、という意味では過形成である、と考えられなくはない。
とはいえ、「腫瘍と過形成は明確に区別できないのだ、無理に分けなくても良いのだ」と安易に逃げるのは、科学的な態度ではない。 疾患の分類は、天与のものではなく、病態を理解し、診断と治療に役立てるために、人間が恣意的に作り出したものである。 自明な区別がないからといって、区分しなくて良いということにはならない。
現代では、いかなる疾患も、程度の差こそあれ、環境要因と遺伝子要因の複合によって生じると考えられている。 必ず、少しは、遺伝子要因が関与しているのである。 従って、「原因の一部は遺伝子異常にある」という理由で「腫瘍である」と考えるのは、全ての細胞増殖性疾患は腫瘍である、と考えるのと同じことである。 それでは、病態の理解にも、診断や治療にも、役に立たない。
腫瘍と過形成を隔てるのは、「外部刺激に依存する細胞増殖であるか否か」という点に尽きる。 胃癌や肺癌は、その形成には喫煙などの環境要因が関与するが、ひとたび成立すれば、環境要因に依存せずに細胞増殖を来す。これが腫瘍である。 一方、Inflammatory Fibroid Polyp は、その形成に遺伝子異常が関与しているとはいえ、外部からの刺激なしには過剰な細胞増殖を来さない。これは、腫瘍ではない。
すなわち、遺伝子変異が背景にあるから腫瘍だ、という論理は、誤りである。