これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/03/23 埼玉の某病院の件

埼玉の某病院における事件についてである。 この病院においては、施設基準を満足していないために腹腔鏡手術の保険適用が認められていないにもかかわらず、 腹腔鏡手術を実施し、開腹手術と偽って診療報酬請求していた、と、先月、報道されていた。 この腹腔鏡手術を実施していたのと同じ医師が、子宮平滑筋肉腫を平滑筋腫と誤診し、本来は開腹手術を行うべきであるのに 不適切にも腹腔鏡手術を実施し、結果として患者は肉腫を再発し、死亡したのではないか、との疑いがかけられている。 本件については、世間やマスコミが、感情に任せて不適切な病院叩きや医師叩きをすることが予想されるので、専門家として、今のうちに見解を述べておく。

まず第一に、問題の患者において肉腫が再発して死亡したのは、「開腹ではなく腹腔鏡で手術したから」ではない、という点に注意を要する。 開腹しようが腹腔鏡を使おうが、それ自体は、再発のリスクに影響はないと考えられる。 ただし、腹腔鏡下で大きな腫瘤を摘出する場合、腫瘤を切断して細かくしてから体外に取り出すことがある。 この切断する作業が、肉腫、つまり悪性腫瘍の場合には危険なのである。 腹腔鏡自体が問題なわけではない、という点を誤解してはならぬ。

第二に、この医師は通常の腹腔鏡研修を受けていなかったとか、ガイドラインに従っていなかった、などという報道もあるが、それ自体は責められるべきではない。 臨床医療におけるガイドラインというのは、「正しい医療」を規定するものではない。 状況によっては、ガイドラインに従った診療が不適切だということもあるし、ガイドラインに反する医療行為が最適な場合もある。 最終的にどうするかの判断は、医師と患者に委ねられる、ということが、大抵のガイドラインに明記されているのである。 従って、ガイドラインに従っていなかった、という事実をもって「不適切な医療行為をしたのではないか」と考えるのは、的外れである。

第三に、腹腔鏡手術を開腹手術と偽って診療報酬を請求するのは違法行為であるが、それは、その腹腔鏡手術自体が不適切だという根拠にはならない。 保険診療としては不正であるが、自由診療なら許されるのである。 しばしば勘違いされるが、「保険が適用できない」というのは、それが医療行為として不適切だということを意味しない。 日本の保険診療というのは、医学的見地からすれば、かなり不適切な規定が多いのである。

そして最後に、この肉腫の再発で患者が死亡した件については、最大の責任は執刀した外科医でも病院長でもなく、病理医にある。 NHK の報道によれば、病院側は、 「手術中に行った病理診断で良性だったのでそのまま進めた。手順に問題はなかった」と説明しているらしい。 この「手術中に行った病理診断」というのは、術中迅速診断のことであろう。 臨床検査医学を修めた者であれば容易に理解できるはずだが、術中迅速診断で「良性である」と確認することは、不可能である。 というのも、「良性である」と確認するためには「どこにも悪性の部位がない」ことを確認しなければならないので、腫瘍全体をくまなく検索することが必須だからである。 術中迅速診断は、検体の一部だけを採取して検査するものであるから、それで「良性である」と確認することは、そもそも無理なのである。

特に、この症例の場合、術前の画像検査で肉腫を疑う所見があったらしい。 それでも「病理が良性と言ったから」という理由で、良性と判断し腹腔鏡手術を敢行したのである。 しかし病理側としては、そもそも良性であることを保証することなどできないのだから、このような術中迅速診断は「不可能である」といって拒否するべきであった。

だいたい、この外科医は、術中迅速診断で良性と確認することは不可能である、という事実を知らなかったという点において、臨床検査医学を修めなかったのだとわかる。 つまり、医師免許を持ってはいるものの、医学を知らない素人なのである。 素人なのだから、誤診するのは仕方ない。それを責めるのは酷である。 だから、そういう素人による誤診から患者を守るために、我々、病理医が存在するのである。 それなのに、その責務が、この病院では果たされていなかったわけである。 つまり、本件については、教育者としての態度を放棄した病理医に責任がある。

なお、この病院には常勤の病理医がいないという。 たぶん、近くの大学かどこかから、非常勤として、俗な言葉でいえばアルバイトとして、病理医が術中迅速診断を行いに来ているのだろう。 自分の本来の所属病院ではないから、ということで、診断に対する態度が甘くなっていたのではないか、との疑いも抱かざるを得ない。


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