これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/12/20 明日の病理

昨日書いた研修医症例発表会の話の続きである。 私は「病理医の卵から臨床の皆様へのお願い」と題して、反省症例を提示しつつ、病理診断と臨床のあり方について思う所を述べた。 詳細は書かないが、不穏当というより、過激な発表であったと思う。 むろん、表彰はされなかった。

私の発表に対し、質問の手を挙げたのは某内科教授である。 来年から、君自身は病理診断を行うにあたり、どのような姿勢で望む意向であるか、と問うたのである。

私は小心者であり、自分の発表がやり過ぎだったのではないか、攻め過ぎだったのではないか、と内心では思っていたから、 この教授の質問に対して腰の引けた回答をしてしまった。 すなわち、病理診断報告書を可及的速やかに記載する、というような、あたりさわりのない、つまらないことを述べたのである。 すると教授は、フフン、と、せせら笑って次のように指摘した。 そんなことは技師でもできる。医師であるならば、病棟に来て患者をみるとか、そういうことを言うべきではないのか。

小生意気な研修医をとっちめてやったぞ、と言わんばかりである。が、これは、教授の指摘が全面的に正しい。 病理診断にあたり臨床所見が重要であることは Anna-Luise Katzenstein が著書 `Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease' で述べた通りである。 また診療の質を向上させるには、病理医が患者と接することが重要であるということは 病理診断学の聖典 J. Rosai, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed. (Elsevier; 2011). にも記載されている。 さらにいえば、学生時代に Johns Hopkins University で短期の実習を受けた元同級生の某君によれば、かの地では病理医が手術室に出没していたらしい。 日本ではほとんど実践されていない教科書上の「理想像」が、体現されているというのである。

なお、この Surgical Pathology の教科書の最新版は第 11 版であり、今月になって出版されたばかりである。 この教科書は、もともと Lauren V. Ackerman が著し、Juan Rosai が引き継ぎ、第 10 版までは単著であった。 しかし第 11 版からは、Rosai の仕事を引き継げるだけの人物が存在しなかったために、多数の著者による共著となっている。 さらに、総論が大幅に削減され、各論もページ数が減ったようである。 各論はともかく、前版の総論には病理診断にあたっての心構えなども記載されていたのだが、それは削除された。 単著の教科書には一貫したストーリーが生まれるという大きな利点があるが、それが失われてしまったようであり、遺憾である。 なお、私はあと 20 年ほどしたら、単著で病理学の教科書を書こうと思っている。

閑話休題、私は教授の質問に対し、本当は病棟や手術室にも行きたいのであるが、それを実現するには 10 年ほどの猶予をいただきたい、と述べた。 実際、病理医が当然に病棟や手術室を往来するような病理診断体制を日本で実現するには、そのくらいの時間を要するであろう。 が、後で冷静に考えると、日本全体のことはともかく、私個人のことだけならば、来年からでも、ある程度は実行できるのではないか。

以前、九州医大 (仮) の某病理学教授と、次のような会話をしたことがある。 教授は「リーダーというのは、将棋の駒でいえば、どれにあたると思うかね?」と問うた。 私が「まぁ、歩でしょうね」と答えると、教授はニヤリとして「その通りである」と言った。

術前術後に患者の診察に行き、カルテを記載するぐらいなら、大して時間もかからない。 それを実行しないのは病理医の怠慢ではないか、と言われれば、反論することができない。 診断以外の業務も多く抱えているエラい先生方が、今までのスタイルを変えて臨床現場に顔を出すようにする、などというのは、現実的には極めて困難である。 革命を起こすのは、常に、若い力である。 最初に一歩、前に出る者こそがリーダーなのである。

発表会の後に開かれた懇親会において、研修医同期の中で抜群に優秀な某君をつかまえて、私は、反省した旨を述べた。


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