これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
リチウムが甲状腺機能低下症を引き起こす可能性を最初に指摘したのは、1968 年のデンマークの M. Schou らの報告であろう (Brit. Med. J. 3, 710-713 (1968).)。 これは、リチウムを 5 ヶ月から 2 年の間、投与された双極性障害の患者 330 名のうち、12 名に甲状腺腫大が生じた、というものである。 なお、甲状腺腫大のことを普通は甲状腺腫と呼ぶが、この名称は甲状腺の腺腫と紛らわしいので避けた方が良いと思う。
近年、リチウム投与を受けた患者のうち、特に女性の方が甲状腺機能障害を来しやすい、と報告された (Bipolar Dis. 16, 72-82 (2014).)。これは Kaplan の教科書が参考文献として挙げているものである。 この報告は、リチウム投与を受けた患者では TSH の検査値異常に男女差があったが、リチウム投与を受けていない患者では男女に有意差はみられなかった、というものである。 ひどい論文である。著者はトルコの A. Ozerdem らであるが、統計学を修めていないか、あるいは識った上で敢えて詐術を弄したかの、どちらかである。
「有意差がない」という言葉の意味は、「統計誤差が大きいため、差があるかないかわからない」という意味である。 それを理解していれば、「リチウム投与群では男女に有意差があったがリチウム非投与群では男女に有意差はなかった」とう結果には、何の統計学的意義もないことがわかる。
本当に女性の方がリチウムによる甲状腺機能障害を来しやすいかどうかを調べたいならば、次のような解析を行わなければならない。 まず女性について、リチウム投与を受けた人と受けていない人の間で、甲状腺機能障害が生じる頻度の差を調べる。 同様にして、男性についても差を調べる。 すると、「リチウム投与により甲状腺機能障害が生じる頻度の男女差」を表す確率分布を、正規分布として得ることができる。 この正規分布が中心から 2 σ の範囲に 0 を含むかどうかで、リチウムに対する感受性に男女差があるかどうかを評価できる。
検定に必要な数値は全て Ozerdem らの報告に記載されていたので、上述の検定をやってみた。 なお、Ozerdem は甲状腺機能低下症と甲状腺機能亢進症を区別せずに「甲状腺機能障害」として解析したが、 ここでは、リチウム投与で問題とされる甲状腺機能低下症に限定して解析した。 結果は、次の通りであった。
女性における甲状腺機能低下症の有病率は、二項分布に基づいて計算すると、リチウム非投与群で 0.258 ± 0.040, リチウム投与群で 0.353 ± 0.041 であった。 男性における甲状腺機能低下症の有病率は、リチウム非投与群で 0.157 ± 0.044, リチウム投与群で 0.317 ± 0.046 であった。 リチウム投与による有病率の増加量は、女性で 0.095 ± 0.057, 男性で 0.160 ± 0.063 であった。 この「有病率の増加量」の男女差をみると、男性の方が 0.066 ± 0.085 だけ高い。 これを両側検定すると p = 0.441 である。
以上のことから、女性の方がリチウムによる甲状腺機能低下症を来しやすいとはいえない。 むしろ、男性の方が感受性が高いかもしれないぐらいである。 Ozerdem らが見出した「男女差」は、単に、「リチウムとは関係なしに、女性の方が男性より甲状腺機能障害の頻度が高い」という事実を反映しているに過ぎない。 なお、Ozerdem の解析において、リチウム非投与群で有意差が出なかったのは、単に患者数が足りなかったからである。
さらにいえば、女性の場合、リチウム投与で甲状腺機能低下症が増えるかどうかも怪しい。 両側検定すると p = 0.098 であり、明らかな有意差はないのである。