これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/12/08 甲状腺機能低下症 (2)

甲状腺機能低下症は、甲状腺自体に障害がある一次性と、下垂体からの甲状腺刺激ホルモン分泌が低下している二次性とに大別するのが普通である。 一次性甲状腺機能低下症の原因としては、自己免疫性慢性甲状腺炎、いわゆる橋本病の頻度が高い。 他に、医原性甲状腺機能低下症もあり、あたりまえであるが、たとえば甲状腺癌のために甲状腺を全摘出した人などがこれにあたる。 その他に、精神医学領域で有名な医原性甲状腺機能低下症として、リチウムの副作用によるものがある、とされる。 リチウムは、臨床的には炭酸リチウムとして、双極性障害の治療薬として用いられ、治療域が 0.4-1.0 mEq/L と狭いことが特徴である。

リチウムの作用機序は、基本的には、他の一価陽イオンに依存する蛋白質の作用を阻害するものと考えられている。 薬理学の名著である Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、 甲状腺刺激ホルモンによるアデニル酸シクラーゼの活性化をリチウムは阻害するために甲状腺機能低下症を来す、と述べている。 一方、内分泌学の名著 Jameson JL et al., Endocrinology Adult and Pediatric, 7th Ed. (Elsevier; 2016). は、機序はよくわからない、と述べている。

この Endocrinology の教科書によれば、リチウムを長期投与すると半数の患者で甲状腺腫大が生じ、 20 % の患者で subclinical hypothyroidism が、また 20 % の患者では overt hypothyroidism が生じる、としている。 また精神医学の聖典 Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). も同様に subclinical hypothyroidism と overt hypothyroidism がそれぞれ 20 % の患者で生じる、としている。

このように書くと、リチウムが甲状腺機能低下症を惹起することは、広く知られた事実であるかのようにみえるが、本当だろうか。 「リチウムを投与したら甲状腺機能低下症になったのだから、リチウムが原因だったのだろう。」などというのでは論理が粗く、科学的でない。 正しい医学理論を打ち立て、次代の医療の礎を築こうとするならば、感染症学におけるコッホの 4 原則に代表されるような、緻密な論理を重視せねばならない。 現代の臨床医の中には、「治れば良い」などとして科学的思考を放棄する者も多いが、そういう態度を医者がとるようでは、早晩、科学としての医学は失われ、 呪術や祈祷と大差ない「治療」が蔓延するようになるだろう。 実際、現時点で既に、医学的にデタラメな「治療」が、巷ではしばしば行われているのである。 医学における理論軽視の風潮を厳しく批判した人物として京都帝国大学の前川孫二郎教授について 4 年ほど前に書いた。

臨床医学の分野において、理論を最も重視するのは精神医学の人々であろう。 臨床医学の教科書のうち、「疾患」という語の定義を明確に述べているのは、私の知る限り、精神医学の教科書のみである。 また逆に、キチンとした精神医学の教科書であれば、必ず、こうした語の定義を明確に述べている。 細かな表現については教科書によって多少の違いがあるが、医学書院『標準精神医学』第 6 版の 「特定の原因, 病態生理, 症状, 経過, 予後, 病理組織所見がすべてそろった場合」を疾患と呼ぶ、という記述が簡明である。

もし「リチウムの投与によって甲状腺機能低下症を来す」というのであれば、いかなる機序によって、いかなる組織学的異状を伴って、それが生じるのかを考えなければならない。 それをしないのであれば、医者などいらぬ。コンピューターと看護師で代替可能である。

2017.12.09 語句修正
2017.12.10 語句修正

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