これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/05/06 診断と治療薬

名大医学科時代について、ふと思い出したことがある。 3 年ほど前に書いたが、四年次の、症例に基づいて調べ討論する PBL 実習についてである。 ある高齢者の認知機能が低下しているために家族の勧めで近医を受診し、ドネペジルを投与されていたが一向に改善しないため大学病院に紹介された、という病歴である。 結論としては、肺小細胞癌をアルツハイマー型認知症と誤診されていた、という症例であった。

この PBL の際、私は現病歴を読んだ段階で、つまり、まだ肺癌については疑われてもいない段階で、次のように述べた。 「ドネペジルは、認知症の治療薬ではなく、アルツハイマー病の治療薬である。この前医は、いかなる根拠でアルツハイマー病と診断したのか。」 私は、これを深く考えて発言したわけではなく、単に、意味がわからないから「わからない」と言っただけであった。 しかし最終的に、ドネペジルを投与した前医の判断が誤りだったのだから、私は、図らずして急所を突いていたことになる。

ドネペジルというのは、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬であって、アルツハイマー型認知症の症状を緩和する薬である。 アルツハイマー型認知症は、中枢神経系の一部のシナプスにおいて、神経伝達物質であるアセチルコリンの放出能が低下することによって発症する。 そこで、シナプス間隙においてアセチルコリンを分解する酵素であるアセチルコリンエステラーゼを阻害すれば、少量のアセチルコリン放出でも 伝達が一応は起こるようになり、症状を緩和できる、というのが、この薬の基本的な作用機序である。 このことからわかるように、アセチルコリンエステラーゼは、症状を緩和するだけの薬であって、細胞レベルでの疾患の進行を抑制することはない。

ところが、一部の参考書では、アセチルコリンエステラーゼによりアルツハイマー病の進行を抑制することができる、というような記載をしているらしい。 また、臨床医の中には、そのような作用があると信じている者も多い。 これは、症状だけをみて疾患の進行具合を判断することによって生じる誤解である。 いわば、癌の骨転移に伴う疼痛に対し鎮痛薬で症状を緩和している状態を「骨転移が抑制されている」と表現するようなものであって、医学的には完全に誤りであり、不適切である。 たとえば薬理学の名著である Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、このあたりに気を遣って

... these AChE inhibitors have demonstrated beneficial effects ... in slowing the progression of cognitive, functional, and behavioral decline in AD dementia.

と書いている。認知症の症状の進行を緩和する、と述べているだけであり、アルツハイマー病そのものの進行を抑制するとは書かれていない。

ところで、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬を巡る Principles of Pharmacology の記載について、納得のいかない点がある。 この教科書では、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬について「パーキンソン病などによる認知症の治療薬としても、米国の Food and Drug Administration (FDA) は認可している」 と記載されているのである。 パーキンソン病とアルツハイマー病では、病態がだいぶ異なるのであって、常識的には、パーキンソン病にアセチルコリンエステラーゼ阻害薬が奏効するとは思われない。 このあたりの機序について、Principles of Pharmacology は、何も言及していないのである。

確かに臨床的には、パーキンソン病に対しアセチルコリンエステラーゼ阻害薬を投与することで認知機能が改善する例は、あると考えているらしい。 しかし、それは、アルツハイマー型認知症をパーキンソン病の症状と誤診していただけではないのか。 高齢者であれば、パーキンソン病とアルツハイマー型認知症を合併することなど珍しくないのだから、パーキンソン病患者の認知症を安易に 「パーキンソン病による認知症」と診断しては、ならないのである。 実際、薬理学の古典系名著である Brunton LL et al., Goodman & Gilman's The Pharmacological Basis of Therapeutics, 13th ed. (McGraw Hill; 2018). では、 パーキンソン病治療薬としてのアセチルコリンエステラーゼには言及していないようである。

薬理機序を考えず、病理学的考察をおろそかにし、単に「効くことがある」などという経験則だけで投薬するのは、医学ではなく、呪術である。


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