これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
4 月 18 日の記事で書いたように、「遺伝率」という概念は、疾患の原因について、 遺伝的要因と環境的要因を分離できる、という前提で導入された概念である。 しかし、この分離は、実際には不可能であると考えられるから、遺伝率というものを厳密に定義することはできない。 この点について、たとえば医学書院『標準精神医学 第 6 版』は次のように述べている。
... 集団内でその疾患を引き起こす危険因子のなかで, 遺伝により引き起こされている部分の割合が, 遺伝率 heritability と呼ばれる (ただし遺伝率は, その時点における環境に依存した値であり, 例えばある疾患のリスクとなる大規模な環境変化が起これば, その疾患の遺伝率は低下することになる).
間違ってはいないのだが、上述した分離の不可能性について言及していないという点において、適切な説明ではないように思われる。
たとえば、ある変異型遺伝子 A' を有する人が、ある化学物質 B に曝露された場合にのみ生じるような疾患があるとする。 A' 遺伝子を持っているだけでは罹患しないし、A' を持たない人が B に曝露されても発症しない。 こういう複合的な要因によって生じる疾患は、現実に珍しくないであろう。 しかし、こういう状況では、前回の記事で紹介したような Genetic variance と Environmental variance とに分離することができず、遺伝率も定義できないのである。 換言すれば、計算方法によって、遺伝率はどのようにも変わってしまう。 『標準精神医学』は学生向けの入門書に過ぎないとはいえ、こういう議論を曖昧にして「わかった気分」にさせてしまうことは、あまりよろしくないように思われる。
精神医学の聖典である Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、 こうした問題にもキチンと言及している。 詳細は割愛するが、結局のところ
Heritability has a precise technical meaning and reflects only the degree to which a given trait is associated with genetic factors. It says nothing about the specific genetic factors involved or about the mechanisms through which they exert their influence. Furthermore, the concept of heritability provides no information about how a particular trait might change under different environmental conditions.
遺伝率 は、数学的には厳格な意味を持っているが、ある表現型と遺伝的要因との関連の程度を表しているに過ぎない。 特定の遺伝的要因や、それがどのようにして表現型に結びついているか、といったことには、何も言及していないのである。 さらに、遺伝率の概念は、異なる環境でどのように表現型が変化するかということについても、何の情報も含んでいない。
と、まとめている (1995 ページ)。
「遺伝的要因が占める割合」という漠然とした表現に疑問を抱かない人は、騙されやすいので、注意が必要である。