これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/08/27 病理夏の学校

日本病理学会中部支部の「夏の学校」が、昨日と一昨日の二日間にわたり、富山県で開催された。 これは毎年の恒例行事であるが、私が参加したのは四回目であり、初回は 2013 年の静岡県、 2 回目は 2014 年の石川県、3 回目は昨年の愛知県であった。

名大時代に、主に病理哲学的な面でお世話になった (2013 年, 2014 年) 某教授からは、いつものように面白い話を聴くことができた。

名大時代の同級生は、私の他に 3 人が参加していた。 以前にも書いたが、私の学年は名古屋病理学の黄金世代 (と、いずれ称される予定) であって、少なくとも名大に残った 5 人と私の 6 人が病理医になった。 他に、未確認であるが関東地方に移った一人は少なくとも研修医時代には病理志望であったし、さらに別の一人も病理医になった可能性がある。 むろん、いずれも優秀な面々である。 中でも、今回の「夏の学校」に参加した一人である M 君は、人格、態度、学識のいずれも優れた医師であり、後に名大病理学教授として、 日本と世界の病理学界を牽引していく人物である。私も学生時代、彼の存在に大いに助けられた。 私が搦手からの奇襲を得意とするのに対し、M 君は、いわば正統派である。 これは、どちらが優れているということではなく、科学の発展と人類の繁栄のためには、いずれもが必要なのである。 M 君には突破できない難所でも私なら易々と越えられることがあるだろうし、逆に、私には世の人々を動かし社会を変えることができなくても、M 君には比較的容易であろう。

私は全く知らなかったのだが、「病理医ヤンデル」という、twitter 界隈で有名な病理医がいるらしい。 そのヤンデル氏が、今回、夏の学校に講師として招聘されていた。 初日の夕食後、そのヤンデル医師と深夜まで延々と語り合ったが、たいへん、実りのある対話であった。 詳細は書かぬが、これからの病理学界をどのように創っていくのか、病理学の真髄はどこにあるのか、というような話である。 あぁ、このように、深く考え行動している人は、やはり、いるのだ、と、いたく感嘆した。

今回は、京都大学からも一名の学生が参加した。 彼によると、京都大学では、教科書や指導者の言うことを無思慮に鵜呑みにしてはいけない、自分で調べ考えよ、という教育が行われているらしい。 これは、当然のことではあるものの、現在の日本の医学科教育では全く行われていない種類の教育であり、さすが京都大学である。

ところで、上述の M 君からは、たいへん鋭いご批判をいただいた。 私は夏の学校の中で行われた議論において、ある心電図について、私は、洞頻脈なのかリエントリー性頻拍なのかはよくわからない、と述べた。 それについて M 君は帰り際に、わからない、で済ませるとは、君らしくない、と述べたのである。

私は、深く恥じ入り、反省した。 どうしてもわからないものは、正直に「わからない」と言わなければならない。それが、科学者として、医師としての誠実さである。 しかし、「わからない」と結論するのは、本当に思慮を尽くし、その心電図に穴があくほど凝視し悩み抜いた後でなければならない。 私は、そこまでは深く検討していないのに、他の医師が述べた所見を安易に受け売りして「わからない」と言ってしまったのである。

大学院時代の私は、ある学生が安易に「仕方ない」と発言したのに対し「『仕方ない』と言って良いのは、それが仕方ないことを証明した後だけである」と言って批判した。 これと同じ批判を、M 君は、私に対し行ったのである。

怠慢であった。


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