これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/08/09 医師になって忘れそうになったこと

経験を積めば積むほど、人は良い方向に成長するかといえば、むろん、そうとは限らない。 学生時代には理解していたことを、医師になってから忘れてしまうこともある。

日本では、概ね臓器別に「癌取扱い規約」というものがある。 これは、悪性腫瘍の分類法や、その所見の記載法についてまとめたものであって、手術検体の切り出し方法、つまり、どこを標本化すべきか、というようなことも書かれている。 ただし、これは「規約」という名称ではあるものの、拘束力のある規則ではない。 「こうするとわかりやすいのではないか」と、用語や手法について指針を示しただけのものであって、最終的には個々の医師の裁量に委ねられており、これは 臨床的なガイドラインと同様である。

臨床にせよ病理にせよ「これは、こうする」というような規則があって、それに従えば良い、というものではない。 というより、そのような規則があるなら医師は不要である。 画一的な規則はなく、個々の症例に応じて臨機応変に対応せねばならないから、我々医師は医学を修める必要があり、また、医師には高い給与が保証されるのである。 とはいえ、現状では医学をろくに修めていない医師でさえ高い給与を受けているのだから、何かおかしいのだが、その話はまた別の機会にしよう。

いうまでもなく、上述のようなことを、私は学生時代から充分、認識していた。 ところが研修医として二年間を過ごし、病理医としての一年目を始めた最近になって、それを少し忘れかけてしまったようである。恥ずかしいことである。 過日、非常勤医として務めている某市中病院の常勤病理医から指導を受けた際に、自分が「規約の何たるか」を忘れかけていたことを認識した。

少し専門的な話になる。 たとえば「大腸癌取扱い規約 第 9 版」では、大腸壁内の癌巣について、次のように記載されている。

原発巣を含む病理標本上で, 筋層外脂肪織内に存在する癌巣に関しては, (中略) 原発巣から 5 mm 以上離れている癌巣を EX (註: リンパ節構造のない壁外非連続性癌進展病巣) として取り扱う。

要するに、原発巣から 5 mm 以上離れていればリンパ節転移として扱い、5 mm 未満であれば原発巣の直接進展として扱う、ということである。 たとえば他に明らかなリンパ節転移がない場合、その壁内病変が原発巣から 4.9 mm であればリンパ節転移陰性ということになるが、5.0 mm であればリンパ節転移陽性である。 リンパ節転移の有無は、術後療法の選択などについて重大な影響を与えるが、この 0.1 mm で、それが分かれるのである。

素人、あるいは臨床に染まっていない学生であれば、これはおかしい、と気づくであろう。 その 0.1 mm の差が、それほど重大な差を生じるということは、常識的に、あるいは病理学的に考えて、理解不能である。 だいたい、その「距離」は、標本作成の際に最短距離を切片に乗せるか、少し斜めの断面を切片に乗せるかで、容易に変化するではないか。

その通りなのである。 規約には何も書かれていないが、仮に距離が 4.5 mm であっても、形態的にリンパ節転移だと強く信じる根拠があるならば、それはリンパ節転移として扱うべきである。 逆に 5.5 mm であっても、直接進展が強く疑われるなら、安易にリンパ節転移とみなすべきではない。

規約にそう書いてあるから、とか、WHO 分類でそうなっているから、とかいう言葉を言い訳に使う者は、藪医者との謗りを免れることができない。


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