これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2018/08/30 参加型の教育

近年、大学などにおける授業の形式として「参加型」が良い、とされているらしい。 つまり、従来のような、講師が一方的に話すだけの講義ではなく、学生が実際に手を動かすなどして、主体的に参加する形式の方が学習効果が高い、というのである。

この「参加型」信仰が、どこから生じたのかは知らぬ。 なぜ彼らは、講義が「講師が一方的に話すだけ」のものであると思い込んでいるのか。 講義というものは、本来、講師が学生に対し語りかけ、学生はそれに反応し、各自の頭脳で思考を巡らせるものである。 そして適宜、意見を表明し、あるいは質問する、というのが、私が京都大学時代に経験した普通の講義であった。

こうしたキチンとした講義であれば、学生は、仮に発言を一切しなかったとしても、自分でよく考えながら講義に参加しているのだから、学習効果が低いとは思われない。 むしろ、自分で手を動かす実習であっても、頭をカラッポにして決められた操作を遂行するだけであれば、講義より高い学習効果を得られることはない。 もっとも、とにかく手を動かせば、学生は「自分が何かをやった」という実感を得やすいので、満足度は高いかもしれぬ。 実習としての評判も、良くなるかもしれぬ。 が、教育としての良し悪しは、それとは別の話である。

そもそも、講義の際に学生が受け身になり、参加せず、ただ漫然と話を聞き流すだけになってしまうのは、講師側の問題である。 相手の学識や興味を無視し、対話をせず、自分が話したいことを話すだけの、ひとりよがりな「講義」をするから、学生が退屈するのである。 私が名大医学科で経験した例でいえば、救急医学の教授が 8 回ほどにわたり行った一連の名講義では、 普段は授業をサボりがちな学生までがこぞって出席するものだから、教室が満席であった。 むろん、これは出席確認や小テストなどのために渋々参加したのではなく、教授の話を聴きたいがために、学生が自主的に出席したのである。 そして、最終回の講義終了時には、自然に拍手が湧き起こった。このような講義は、京大時代と名大時代を通して、その一回だけしか、私は経験したことがない。

このように、学生が自らの判断で出席し、聴講するような講義であれば、たとえ形式的には講師が一人で話しているだけの講義であっても、 実際には学生も積極的に講義に参加しているのであって、高い学習効果があるといえよう。

ところで、多少なりとも医学に興味を持ち、医者になろうとしている者であれば、医学の根源である病理学について関心を持たないはずがない。 実際、学生と話をしてみると、病理診断学はともかく、基礎病理学については、ほとんど皆が興味を持ち、勉強せねばならぬと思っているらしい。 ところが少なからぬ大学では、病理学の講義や実習は学生の評判が悪いようである。

一体、誰の責任であるか。

遺憾ながら私は、まだ、学生教育に深く関わることのできる立場にない。 その場に立つためには、あと何年かが必要であろう。


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