2015/03/31 年度末

来月から、私も六年生である。名古屋に来て、丸三年になる。 少なくとも名古屋大学医学部医学科では、医学教育はまともに行われておらず、遺憾ながら、医療技術専門学校と化している。 他大学の実情はよく知らぬが、たぶん、どこも大差はないであろう。 問題は、学生が「世の中、そんなもんだ」などと、環境に適応することばかり考えていることである。 現行制度の下では、医師は医師免許制度に守られているために、不適切な診療を行っても、まず責任を問われない。 これは、個々の医師が高い倫理観と志を持って医療や医学に取り汲んでいることが前提とされた制度であるが、 現実には、そうした精神を持つ医師や学生は、稀である。 学生の中には、こうした風潮を疑問視する者もいるようだが、それを公然と批判する人は少ない。 「他人に考えを押しつけてはいけない」というのが、多数派が掲げる標語だからである。 この件について、他人に考えを押しつけることの正統性は以前書いた

名大医学科の最大の問題点は、こうした邪悪な勉強法を、多くの若手医師が支持していることである。 たとえば、若い医師には『病気がみえる』シリーズを「必要なことは概ね記載されている」などと評価する者も少なくない。 しかし同シリーズは、疾患概念すら正しく説明しておらず、全く理論抜きで臨床的な事項を列挙しただけの俗書である。 各々の検査や治療は、背後に隠れている深淵な哲理に基づいて行われているのに、同シリーズは、その表面だけを記載しているのである。 多くの学生は「まずは初心者向けの簡単な本で勉強する」などと言い訳するが、一体、『病気がみえる』で何を勉強するのか。 実に、有害無益である。 たぶん、誰もが内心では一抹の不安を抱えているのだろうが、そこに「それで良いんだよ」と、根拠のない安心感を与えてくれるのが、今の名大医学科である。

また、「現在、どのような治療が標準的であるか」を記憶することには関心があっても、その妥当性を批判的に検証する姿勢は欠如している者が多い。 要するに「変なことをやって、患者に訴えられたら困る」とか「標準的とされる治療をやって、それが実は不適切であったとしても、それは私の責任ではない」などと 考えているのである。 名大医学科は、その程度なのである。 その程度の医師や学生が、私のことを「臨床向きではない」などと評するのだから、 つまり名大のいう「臨床」とは、その程度のものなのである。 もちろん、教授陣には高い見識を持っている人が多いように思われるが、その見識が若手医師や学生には伝わっていないのだから、 その点については、講座の長としての責任を免れ得ない。

責任意識が、欠如している。我々は、天下の名大医学科である。 我々こそが、明日の医学を牽引するのである。我々がやらなければ、一体、誰がやるというのか。


2015/03/30 学生 CPC

名大医学科の五年生は、病理学実習として、臨床病理検討会 (ClinicoPathological Conference; CPC) を行う。 狭義の CPC とは、死亡した患者について、遺族の了承の下に病理解剖を行い、その所見と臨床所見とを照らし合わせて医学的討論を行うものをいう。 一方、広義には、臨床的な症例に基づく医学的討論全般を指す。The New England Journal of Medicineに 連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital は、広義の CPC の抄録である。

本年度の学生 CPC は、学生からの自発的質問が盛んで、活発な討論がなされたとのことで、先生方からは概ね好評であったらしい。 ただし、いささか残念であったのは、学生からの質問に対して、指導にあたった病理医が答えすぎることであった。

こうした討論の場においては、自らの頭脳を駆使して質問を繰り出すことも、それに対する回答を考えることも、貴重な教育機会となる。 従って、会場から提出された質問に対しては、まず学生が回答を試みるのが原則であり、どうにも窮する場合には指導者が助言を述べる、という形にするべきである。 しかし実際には、学生が何も言わないうちから、指導者がマイクを握って答え始める場面が、しばしば、みられた。 私は一度、指導者が答え始めた時点で、それを遮って「できれば学生の見解を教えていただけますでしょうか」と言ってみたことがあるのだが、無視されてしまった。

ひょっとすると、指導者は「この質問には、学生では答えられまい」と考えたのかもしれないが、それならば「何でも良いから、言ってみたまえ」などと促すべきである。 学生側も、「代わりに答えてくれてラッキーである」と考えるのではなく、「侮辱された」と憤慨し、指導者の言葉を遮って回答するべきである。


2015/03/24 臨床手技の補足

血液凝固の件は、少しばかり手のかかる仕事になるので、いましばらく、お待ちいただきたい。

昨日の記事で、学生が早期に臨床的な手技を学ぶことはいかがなものか、という旨のことを記したが、 これは四年生や五年生で、基礎的な縫合・結紮や血圧測定などの実技を学ぶことを批判しているものではない。 これらは臨床実習において必要な技能であるから、むしろ、習得するべきである。 私が批判しているのは、いわゆる埋没縫合であるとか、気管切開であるとか、中心静脈穿刺であるとか、そういう高度な手技のことである。

特に、中心静脈穿刺のトレーニングとして、超音波ガイドを使わない盲目的穿刺を行うこともあるようだが、これは、歴史教育を意図しているのでなければ、無意味であろう。 かつて超音波断層撮影装置がなかった時代には盲目的穿刺が普通であったから、その時代に育った医師の中には 「ブラインドで十分正確に穿刺できるし、速くてやりやすい」と主張する者もいる。 しかし現代においては、超音波ガイドを使わない利点はない。 「ブラインドでイケる」などと主張するのは、患者のことを考えず、ただ自らの技量を、誤った方法で誇示しているに過ぎない。

さらに、特に市中病院や医院での実習において、学生に皮下注射などの侵襲的手技を実施させる例があるらしい。 これは、教育云々以前に、違法である疑いがある。

まず前提として、注射を行うという行為は、原則として犯罪、すなわち傷害罪にあたる。 ただし医師や、医師の指示の下に看護師が行うような場合には、医師法等の規定により、傷害罪の適用対象外となる。 なお、看護師が注射を行うことについては議論があるが、近年、行政解釈の変更により、容認されるようになった。 さて、学生は医師でも看護師でもないから、基本的には傷害罪または医師法違反である。 ただし、教育上の相当な必要がある場合には、医師の監督の下で行われる限りにおいて、違法性は阻却されると考えられている。 この場合も、学生が行うことについてインフォームドコンセントがなされていない場合は、違法性を免れ得ない。

しかし遺憾ながら、私が他の学生から聞いた限りでも、医師がキチンと監督していない例や、インフォームドコンセントがなされていない例が、少なくないようである。


2015/03/23 血液凝固に関する試験

先日、臨床検査医学の試験があった。 同級生の間で、なにやら「TAT が云々」というような会話がなされているのが耳に入って来たことがあるのだが、いったい TAT とは何のことかわからなかった。 何やら過去問を巡る話題のようだったので、イチイチ訊くのもどうかと思いその場では気にとめなかった。 後で気づいたのだが、これはどうやらトロンビン・アンチトロンビン複合体のことであったらしい。ずいぶんと、マニアックな話をしていたものである。

トロンビン・アンチトロンビン複合体を測定する目的は、トロンビンの産生量を知りたい、ということである。 トロンビンは、産生されるそばからアンチトロンビンと複合体を形成して不活化するため、この複合体の量から、トロンビン産生量を推定できる、という理屈である。 トロンビン産生量を知りたいと思うのは、血液凝固カスケードが活性化している、すなわち凝固亢進状態にあるかどうかを調べるためである。

ところで播種性血管内凝固 (Disseminated Intravascular Coagulation; DIC) において凝固系と線溶系のバランスを知りたい場合がある。 凝固系が優位であれば血栓症を来すし、線溶系が優位であれば出血傾向を来すからである。 この場合、両者のバランスが重要なのであって、たとえば健常人より凝固亢進状態であったとしても、 線溶系がそれ以上に亢進していれば出血傾向を来すであろう。 従って、DIC における凝固/線溶のバランスを調べる目的ならば、フィブリン分解産物であるフィブリノーゲン E 分画と D ダイマーの比を調べるのが有用である。 前者は、フィブリノーゲンやフィブリンが分解されることで生じる産物、すなわち線溶系亢進の程度を反映するものであり、 フィブリン分解産物 (Fibrin/fibrinogen degradation product; FDP) の一種である。 後者は、架橋された安定化フィブリンが分解されることで生じる産物であるから、凝固亢進の程度と、部分的に線溶系亢進の程度を反映するものである。 すなわち、E 分画の割に D ダイマーが多ければ凝固系優位であるし、E 分画が多いならば線溶系が優位であるといえる。 なお、トロンビン・アンチトロンビン複合体と D ダイマーの比を調べるのは、違うレベルのものを比較していることになるので、診断根拠としては精度が低くなる。

ところで、血液凝固に関する試験としては、トロンボテストとヘパプラスチンテストという、面白いものがある。 両者はいずれもプロトロンビン時間の測定と同じようなものであるが、用いる試薬が異なる。 教科書的には、前者は PIVKA (Protein Induced by Vitamin K Absense) による血液凝固阻害作用を受けるのに対し、後者は受けない、と書かれている。 すなわち、ビタミン K 欠乏症などにおいて、正常な凝固因子が産生されないことだけでなく、PIVKA の存在自体が凝固を阻害するというのである。 そこで、たとえば両者を測定することで、PIVKA による凝固阻害の程度を知ることができる、という、ワクワクするような試験がある。 これらの試験については、面白い話が豊富なので、後日あらためてレビューする。


2015/03/22 学生が高度に臨床的な技術や知識を学ぶこと

3 月 24 日の補足も参照されたい

学生が高度に臨床的な知識が技術を学ぶことについては、議論の余地があるだろう。 たとえば、様々な疾患の診断基準や分類法について学生が勉強することの是非である。 世の中に「診断基準」や「分類」というものが存在することを知らないのは、さすがにまずいので、少なくとも多少は勉強しなければならないことには、議論の余地があるまい。 しかし診断基準や、疾患の分類、たとえば悪性腫瘍の TNM 分類などを記憶することに、どれほどの意義があるかは、疑わしい。 こうした細かな基準の中には、医師国家試験などで出題されるものがあると聞くが、本当は、 電子カルテ上ですぐに参照できるようにするなり、診察室に掲示するなりすれば良いのではないか。 あるいは、TNM 分類などはハンドブックに付箋をつけて机上に置いておけば、それで十分ではないか。 特に、これらの基準が理論ではなく臨床的な観察や統計を根拠として定められている場合には、それを記憶することの診療上の価値は乏しい。

本日の主題は、上述の記憶のことではなく、巷で学生を対象に行われている勉強会や講習・セミナーの類についてである。 私の印象では、こうした公開の学習会は、各専門学会主導のものを別にすれば、救急医療や総合診療の分野の、特に臨床的な診断や手技を扱うものが多いように思われる。 総合診療については、近年、学生や若手医師を中心に流行しているらしいから、学習会が多いのも理解できる。 問題は救急医療であって、これはおそらく、少なからぬ病院では救急外来を初期臨床研修医が中心となって運用していることから、 「卒業後に直ちに必要となる知識や技能」として、学生に人気なのだと思われる。

そもそも救急外来を研修医中心に運用すること自体にも疑問はある。 時に誤解されるが、救急医療は、医療の基本でも基礎でもない。 少なくとも日本の場合、救急外来は原則的には正しく診断を行う場ではなく、おおまかに言えば「急がねば取り返しのつかない事態に陥る恐れのある患者」だけを見極めて 「とりあえず重大な事態を回避するための処置」だけを行い、後の正確な診断や治療は専門科に委ねることが多いらしい。 これは、医師が誰しも当然に修得しているべき技能ではなく、高度に専門的な技能である。 たまに「もし市中で医師が急病人に出会った時、救急医療の技能がなければ困るではないか」などと言う人もいるが、 そういう場合には設備も薬剤もないのだから、救急外来における技能とは、直接は関係ない。 この意味ではむしろ、疾患を「直接」観察する病理診断の方が、よほど医療の基本・基礎というべきであり、初期研修では病理診断を必修にするべきかもしれない。

こうした救急医療の取り扱いは別にしても、学生が早い段階、特に四年生ないし五年生以下の段階で臨床的な手技を学ぶことは、 私は、無益というよりも、むしろ有害なのではないかと思う。 数学にたとえれば小学生に微積分の高度にマニアックな公式を教え込むようなものであって、 一見、英才教育のようにみえるが、実は教育としては非常によろしくないのではないか。 段階を飛ばした勉強をすることで、物事の本質、根本が、みえなくなってしまうのではないか。

しばしば総合診療の分野で扱われる診断学について考える。 以前にも書いたが内科診断学は、内科的な学識を根拠に、所見から、患者の体内で起こっている現象を推定するものであるから、 基本的には内科学の「逆引き」である。 従って、本来、内科学を修得することなしに内科診断学を修めることは、不可能である。 しかし、よほど勤勉な一部学生を別にすれば、内科学をあまりよく理解していない状態で、総合診療的な診断学をかじる例が、少なくないのではないか。 換言すれば「なぜ、それで診断できるのか」ということを理解しないままに、診断方法を機械的に習得しているのではないか。 もちろん「いや、きちんと原理まで理解している」と主張する者も少なくないだろうが、それは、先生のおっしゃることを暗記しているだけではないのか。 理解するとは、先人の言行を真似ることをいうのではなく、その背景にある医学的哲理を自らのものとし、自然な思慮の結果として、先人と同じ結論を得ることをいうのではないか。 この意味において、病理学 (病理診断学ではない) を修めることは、医学において最も基本的なことの一つである。 臨床医学の多くの部分は、病理学的理解から発する自然な思考の結果として得られるからである。 すなわち、病理学抜きには、臨床医学の理解は不可能である。

単に私が不勉強なだけかもしれないが、私は、未だ、診断学や臨床的手技を学ぶ段階には至っていないと自覚している。 おそらく、私が今、そうした技能を学べば、まるで自らが臨床手技を理解したかのように錯覚し、基礎的な医学を疎かにし、医の基本を忘れ去ってしまうであろう。 あるいは医学的に誤った高度に臨床的な対応を習得してしまうかもしれぬ。

私は病理医志望であるが、学生の頃に病理を志しても、臨床研修を経るうちに、より臨床的な方向に関心が移る者が少なくないという。 そのため、某病院の病理部長に病理医志望である旨を告げた時には「心を強く持ちたまえ」という、ありがたい助言をいただいた。 臨床の魅力、あるいは魔力は、それほどに、強いようである。 私は生来、意志薄弱であるから、よほど強く警戒していなければ、病理医 (の卵、になる前の卵母細胞) としての誇りをやすやすと失い、凡庸な医師になってしまうであろう。 その意味でも、高度に臨床的な技能を現段階で学ぶことに対しては、慎重にならざるを得ない。

いささか別の話になるが、時に、学生だけの勉強会では間違った方向に議論が進んでしまうかもしれないから、 矯正してくれる監督者・指導者がいた方が良い、ということを指摘される。 そもそも何をもって「間違っている」と言うのかわからないが、仮に学生同士の議論で「間違った」結論に至ったとして、何が問題なのか。 議論の結果として誤った事実認識が生じたとしても、そのような誤解は、いずれ適切な時期に自ら矯正される。 仮に結論が間違っていたとしても、そうした思慮・議論を繰り返すことで、はじめて、深淵なる医の哲理を垣間みることができるのである。 学問とは、本来、そういうものである。 むしろ、「すぐに役立つ知識や技能」に飛びつき、医学的思考を欠き、診療の背景にある深遠な哲理に近づくことさえなく、 ただ機械のように先人の軌跡を踏襲ことの方が、よほど有害ではないか。

なお、基礎医学の教授陣の多くは、ここで私が述べたような趣旨のことを、さんざん学生に説諭していたのだが、 遺憾ながら、多くの学生の心には届かなかったようである。


2015/03/20 地下鉄サリン事件 20 周年

しばらく間隔が空いてしまった。久しぶりなので、医学と関係ないことを書く。 本日は、いわゆる地下鉄サリン事件からちょうど 20 周年にあたる。 当時、私は小学六年生であり、東京都民であったが、八王子市在住であったため、事件の現場は地元というわけではなった。 しかし、翌月から通うことになっていた麻布中学の最寄り駅は営団日比谷線の広尾駅であったことから、事件現場に多少の親近感はあった。

昨今では、同事件のことを「オウム真理教によるテロ事件」などと表現することが少なくないようだが、当時はテロという言葉はほとんど使われていなかったと記憶している。 「テロ」と表現されるようになったのは、2001 年のニューヨークの事件以後であって、 「日本も大都市でのテロを経験しているではないか」という外国からの指摘などを受けて、テロと表現され始めたように思う。 これは「テロ」という言葉の定義は曖昧で、政治的意図の影響を強く受けて用いられるという実例の一つである。

この事件を巡っては、オウム真理教に対し破壊活動防止法を適用するかどうかという点が、政治的に大きな問題となった。 同法は、歴史的には、日本共産党をはじめとした、いわゆる左翼団体が暴力的な活動、いわゆる非合法活動を活発に展開していた時期に、 こうした団体を取り締まる目的で制定したものであり、戦前の治安維持法と趣旨を同じくするものである。 破壊活動防止法は、治安維持法に比べ、いささか規制の程度は弱いとはいえ、それでも言論の自由を不当に侵害し、違憲であるとする見解も根強い。 さらに、これをオウム真理教に適用することは、法制定の本来の趣旨からは明確に逸脱しており、反対する声は強かった。 適用賛成派の主張は、「オウム真理教は危険な団体であるが、破壊活動防止法以外には、これを取り締まる法律がない」というものであったように思われる。 そこで、折衷案としていわゆる団体規制法が新たに制定・適用されたのであるが、法の不遡及の観点からこれを批判する声もあった。 これに対しては「過去に行った行為ゆえに規制する」のではなく「これから犯罪的行為をする可能性があるから規制する」のだ、というような理屈が述べられたが、 結局「過去に行った行為を根拠に規制対象としている」のであって、やっていることは法の遡及適用と変わらない。 要するに「オウムは危険な団体であるから、これを規制・処罰するためには、多少、道理を曲げても構わない」というような考えが、まかり通ったのである。 こうした不公正を許す日本社会が、私は、嫌いである。

不公正といえば、いわゆる国旗・国歌法も同様である。これが「成立」したのは私が高校生の頃であった。 それまで、日本国には、正式には国旗も国歌も存在しなかったが、慣例的に、日章旗や君が代が国旗・国歌として用いられていた。 しかし日章旗や君が代は、悪しき日本軍国主義の象徴であるなどとして敵視する意見も強く、教育現場などで混乱を来していたことから、法制化されたものである。 情報源は忘れたが、制定にあたり、責任ある立場にあった官僚の一人は「儀礼上の必要があるから国旗や国歌を法律で定めるが、 しかし個々の国民が国旗や国歌とどう向きあうかは、 国が指示するものではない。日本という国には、そうした自由があるべきではないか。」ということを述べたという。 この法律は、衆議院だか参議院だかの法務委員会であったかで「強行採決」されたことを忘れてはなるまい。 すなわち、議論が紛糾し、まとまらないまま議長が無理矢理採決を行おうとしたところ、野党などの反対勢力が猛然と反発し、つかみあいの事態になった。 到底、まともに採決を行える状況ではなかったのだが、議長は一方的に「採決を行った」と主張し「可決された」と宣言したのである。 「強行採決」どころか、そもそも採決すら本当は行われていなかったようであるため、猛烈な批判が巻き起こったのであるが、 当時、与党は衆参両院で安定多数を確保していたため、野党を無視するような形で、法律の制定が行われたのである。 私は、民主主義においては「多数決の原則」に基づくが「少数意見の尊重」が重要であると教わったのだが、その観点からすれば、日本の政治制度は民主主義的ではない。 私は、もともと日章旗も君が代も嫌いではなかったが、法制化されて以降、国歌を歌っていない。 遺憾ながら、国旗と国歌は、民主主義に対する冒涜の象徴となってしまったからである。

上述のように過程に問題があったとはいえ、法制化されたからには、 公立学校教職員は公務員である以上、式典において国旗を掲揚し国歌を斉唱する職務上の責任を負うと考えるのは、不合理ではない。 しかし、公立学校に通う学生・生徒には、「国旗掲揚や国歌斉唱は義務ではない」ということを、正しく教えられる権利があることを、忘れてはなるまい。 幸い、我が麻布中学校・麻布高等学校は私立であり、自主自律を旨とする学校であったから、校旗を掲げ校歌を斉唱する一方で、当然、国旗掲揚も国歌斉唱も行われなかった。


2015/03/08 学士試験

ここ半年ほど医学から離れ、遊んでばかりいたのだが、近頃ようやく、医学の世界に戻りつつある。

少なくとも名大医学科の場合、単位認定試験を「学士試験」と呼んでいるようである。 俗には「卒業試験」あるいは略して「卒試」と呼ばれることもある。 臨床科目の学士試験は、例年、五年生の終わり頃から六年生の夏頃にかけて実施されるようであり、 今年は 3 月 13 日の臨床検査医学が先頭である。

詳しいことは知らないが、名大医学科では例年、インターネットを介して過去の試験問題や解答例が共有されているらしい。 科目によっては、試験問題の持ち帰りが禁止されているらしいのだが、そうしたものについては、 受験した学生が協力して、試験後に「再現問題」を作成し、下級生に伝えているという。 こうした行為には、二つの問題点がある。一つは学生としての倫理的な問題であり、もう一つは著作権問題である。

まず第一に、過去問をよく「勉強」することで試験を乗り切ろうという発想が、実に卑しい。 出題者側が事前に問題や過去問を公表している場合には微妙な問題が生じるが、 基本的には、学業の目的は試験対策ではないはずであって、正しく勉強していれば自ら試験には合格できるはずである。 もし正しく勉強しても合格できないならば、それは、たぶん、出題内容がおかしい。 出題者が試験問題の持ち帰りを禁止しているならば、それは、過去問に頼らなくても合格できるはずだ、 むしろ過去問に頼らなくても合格できる程度に勉強すべきだ、というメッセージであろう。 それなのに再現問題を作成して後輩に伝授することは、学業のあり方を歪め、信義に背く行為である。

第二に、再現問題の作成や、試験問題のインターネット等を通じた頒布は、著作権の侵害にあたる疑いがある。 再現問題の作成は、著作権法でいうところの「翻案」にあたり、同法第 27 条によって、著作者が専有する権利として定められている。 さらに、再現問題であろうと、持ち帰った試験問題であろうと、それをインターネット上で頒布する行為は、 同法でいう「公衆送信」にあたり、それを行うことも同法第 23 条によって、著作者が専有する権利とされている。 すなわち、著作者である出題者の許可なしに、これをインターネット等により頒布することは、違法である。

これらの理由により、私は、過去問や解答例の再現・共有には与しない所存である。 京都大学時代も含めて、私はこれまで、大学の試験で過去問に頼ったことはない。 ただし、このやり方で全ての試験を合格してきたわけではなく、三年生の「微生物学」の本試験では不合格となり再試験を受けた。 たぶん、臨床科目においても、少なからず再試験を受けることになるだろう。 それは一重に、私の不勉強ゆえである。


2015/03/06 不動産投資

過日、我が母校である麻布中学校・高等学校の卒業生名簿が刊行された。 事前に掲載内容の確認書類が送られてきたのだが、私は、現所属として「名古屋大学医学部 (学生)」と記入して提出した。 しかし実際には「名古屋大学医学部」とのみ掲載されたために、まるで、私が名古屋大学の教職員であるかのような表現になってしまった。

さて、先日、不動産投資を斡旋する胡乱な業者から電話がかかってきた。近頃、同様の電話が何件か続いており、どこから電話番号が漏れているのか不思議であったが、 どうやら、情報源は上述の卒業名簿であるらしいことがわかった。 というのも、その業者は、私が麻布高校出身であることも、名古屋大学医学部の所属であることも知っているのに、私が学生であることは知らなかったからである。 電話がかかってきた時、私はたまたま、某デパートメントストアで買い物をしていた。 興味がない旨を伝えても、なお相手は食い下がってくるので、急ぎの用事はないし、と思い、少しだけ相手をすることにした。

業者は、私が名古屋大学医学部の所属であることを確認した上で「もしかしてドクターですか?」と問うた。 もちろん、私は博士号も持っていないし、医師でもないからドクターではないのだが、「まぁ、一応、ドクター(になる予定)です」と答えた。嘘はついていない。 連中は、一般的な医者の懐事情について、少なくとも私よりはよく把握しているようであった。 年金の代わりだとか、保険のようなものだとか、万が一のことがあった際のためだとか、よく意味のわからないことを述べて、 私にマンションを買わせようとしていた。買ったマンションを賃貸することで、安定した収入が得られる、というのである。 そんなに儲かるなら、彼ら自身がマンションを運営すれば良さそうなものなのに、どうして私などに、そのようなウマい話を教えてくれるのだろうか。 実に不思議である。

私は、徹頭徹尾、「興味ありません」「全く魅力を感じません」「いりません」などと言い続け、何度も話を打ち切ろうとしたのだが、彼は、実に執拗に粘った。 よくわからないのだが、ひょっとすると、医者は格好のカモであると思われているのかもしれぬ。 しかし、不正に名簿屋から入手した個人情報に基づいて営業活動をする業者が信用できないことは、当然である。 アレに引っかかるのは、一体、どこのどういう世間知らずなのだろうか。


2015/03/05 中途半端な「臨床技術」

学生の中には、妙に臨床的な「知恵」を身につけている者がいる。 たとえば、「内視鏡的に癌を疑うが、生検するかどうか迷っている」というような場合について考える。 臨床医の中には「内視鏡で癌と癌でないものを鑑別できる」などと豪語する者もあるが、これは、誤りである。 確かに九割程度は、内視鏡で鑑別できるであろうが、内視鏡でわかるのは細胞の増生、繊維化、血管増生などの様子であり、これらは いずれも腫瘍に特異的なものではない。従って、非典型的な例について誤診するリスクは、常にある。 この点において、病理診断、特に組織診は、適切な検体採取さえできていれば、誤診は、ない。

さて、内視鏡的に癌を強く疑っている、あるいは臨床的に確信している場合に、生検を行うべきかどうか、という問題を考える。 上述のように、生検なしでは、絶対に癌だ、と断言することはできない。 しかし生検を行えば、生検部位が瘢痕化して、その後の治療が少しやりにくくなる、とか、診断までに時間がかかる、という問題もある。 そこで、生検を行うかどうか、迷うのである。 「模範的」な回答として「生検する場合としない場合のリスクを患者によく説明し、患者自身に選んでもらう」というものがある。 すなわち、結果がどうなろうと患者自身の責任であり、医者は無罪である、という形に持ち込むのである。 もちろん、そのような選択を迫られた患者は困るのであるが、そんなことは、医者としては、知ったことではないのだ。 こういう「臨床的な技術」は、教科書などには記載されていないが、臨床現場、特に市中病院での実習を通じて、修得する例が多いらしい。 学生のうちから、こうした高等技術を身につけた者は、きっと将来、「良い医者」になるであろう。

もちろん、こうした手口がまかり通っている病院は、まともではない。 確かに、診療方針の決定権は患者にある。 しかし「医者は患者の命を預かる責任重大で高尚な仕事なのだ」などと自称するからには、責任は、患者に転嫁するのではなく、あくまで、我々が背負わねばならぬ。 もし本当に、生検してから病理診断結果が出るまでの一週間を待てない、とか、瘢痕化は何としても避けねばならない、とかいう事情があるならば、 術中迅速診断という手がある。 これは、手術等で採取した標本を急速に凍結し、染色して検鏡するものであり、30 分とかからない。 いわゆる永久標本に比べれば診断はいささか難しくはなるが、それでも、炎症と癌をみわけるぐらいなら、大抵、問題ない。 ただし、病理医側からすれば、時間を縛られるし、手間もかかるため、あまり歓迎されないことも多いらしい。 従って、内視鏡的な検査・治療のために術中迅速診断する、ということは、一般的には行われていないようである。

つまり、医者のいう「患者のため」は、この程度なのである。 病理医は、患者の顔をみる機会が少ないために、病理診断の存在意義と重要性、そして病理の誇りを、忘れてしまっているのではないか。 臨床医も、「病理部がやらないなら、自分の責任において、自分で標本をみて迅速診断するよ」ぐらいのことを、なぜ、言わないのか。


2015/03/04 SIADH による意識障害に対する輸液 (考察)

昨日の症例提示についての考察である。

MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』によれば、血漿浸透圧が緩徐に変化した場合、細胞内の浸透圧は、アミノ酸などの濃度変化によって調節されるらしい。 この際に増減する「アミノ酸など」のことをオスモライトと呼ぶ。 たとえば、低ナトリウム血症による血漿浸透圧低下の際には、オスモライトが減少する一方、細胞内カリウム濃度は大きく変化しない。 この濃度変化が、細胞外との輸送によるのか、それとも細胞内での代謝によるのか、私はよく知らない。 もしここで、急速に高張食塩水を大量輸液すると、オスモライトが増加することは増加するのだが、この変化は、比較的、遅いらしい。 従って、細胞内浸透圧が充分に上がらない状態で血漿浸透圧が急速に上昇することになり、水が細胞内から血漿に移動する。 このため、全身の細胞が脱水により萎縮する。 特に橋などにおいては、これが著明であるらしく、脱髄が起こり、重篤な神経傷害を来す。 これは橋中心髄鞘崩壊などと呼ばれる。 従って、オスモライトの移動が血漿浸透圧の上昇に遅れないようにするため、高張食塩水は少しずつ投与するべきである。 だいたい、血清ナトリウム濃度の補正は毎時 0.5 mEq/L 以下ぐらいにするのが良いとされるが、この補正速度の上限については明確なコンセンサスがない。 なお、以上の議論からわかるように、もし低ナトリウム血症が急速に進行して、オスモライトの減少が追いついていないと考えられる場合には、 高張食塩水を急速に輸液した方が良い。

さて、以上の議論は、輸液内容にカリウムを含めなくて良いことの説明にはなっていない。 カリウムについて議論する際には、全身の細胞において、カリウムチャネルは豊富に開口していることに留意が必要である。 生きている細胞では、膜電位は適切に保たれているはずであるから、Nernst の式あるいは Goldman-Hodgkin-Katz の式より、 細胞内外のカリウム濃度比も適切に保たれているはずである。 従って、細胞外液について低カリウム血症を来していないならば、細胞内カリウム濃度も適切に保たれているはずである。 先の症例では、名古屋さんは低カリウム血症を来しておらず、脱水も来していないのだから、全身のカリウム量に過不足はないはずである。 以上の検討から、カリウムを投与するべきではない、といえる。 逆に、低カリウム血症を来している場合には、細胞内も低カリウム状態であるから、かなりの量のカリウムを投与する必要がある。 細胞内液と細胞外液の量の比は 2:1 程度であり、カリウム濃度の比は 30:1 程度であることに留意すると、 もし、総体液量 20 L の名古屋さんの血清カリウム濃度を 1 mEq/L 上昇させたいならば、400 mEq 程度のカリウムが必要になる。

以上の考察によっても、なお、輸液内容が食塩水で良い理由の説明にはならない。 昨日記載した計算式によってナトリウムを投与した場合、ナトリウムは細胞内に移行しないことから、血清ナトリウムは過剰になり、尿中に排泄されるであろう。 理論上は、細胞内に移行しないナトリウムを投与するよりは、オスモライトとして細胞内に移行しそうなグルタミンなどを投与する方が、良いのではないか。

これについては、次のような反論が予想される。 第一に、食塩水だけの投与であっても、細胞内外の浸透圧はヒトの神秘的なホメオスタシス維持機構によって適切に制御されるのだから、 イチイチ医者が余計な心配をしなくても、実際には問題がない。 第二に、過剰なナトリウムが尿中に排泄されるということは、水も一緒に排泄されることになるから、 もともと体液が過剰な低ナトリウム血症患者においては、かえって都合が良い。

これらの反論は、まぁ、もっともである。 臨床的に高張食塩水を投与することは、適切であると、私は思う。


2015/03/03 SIADH による意識障害に対する輸液 (症例提示)

ややマニアックな生理学の話である。臨床知識の話ではないことに注意して、次のような症例を考えていただきたい。

F 医師は、東京都の某離島において、島で唯一の診療所に勤めている。 島に住む 88 歳の女性である名古屋ウメさん (仮名) が肺小細胞癌に罹患していることが分かったが、 手術や根治的な抗癌剤治療には耐えられそうにないので、積極的な治療は控え、緩和ケアを重視した診療を続けていた。 名古屋さんは、最近、足がむくむ、ということを気にしていたが、投薬治療は拒否していた。

ある台風の晩に、名古屋さんは意識障害を来し、息子が運転する軽トラックで診療所に搬送されてきた。 診察所見は、以下の通りであった。 意識障害がみられ、Glasgow Coma Scale (GCS) は E 3 V 3 M 6 = 12 点、すなわち中等症であった。 体温 36.2 ℃, 脈拍数 92 /min, 血圧 120/75 mmHg, 呼吸数 18 /min, SpO2 98 % (室内気) と、バイタルサインに異常はみられなかった。 全身に軽度の浮腫を認めたが、それ以外の身体診察所見は正常であった。ただし神経学的診察は行わなかった。 名古屋さんはこれまで小細胞癌以外は健康で、特に既往歴もなく、薬物投与も受けていない。サプリメントや漢方薬も使用しておらず、違法薬物とも無縁である。 血液検査をしたところ、Na+ 107 mEq/L, K+ 4.2 mEq/L, Cl- 70 mEq/L と、著明な低ナトリウム血症, 低塩素血症がみられた。 その他の検査所見に明らかな異常はなく、血糖値も正常であった。

F 医師は、抗利尿ホルモン不適正分泌症候群 (Syndrome of Inappropriate ADH secretion; SIADH) による低ナトリウム血症、と診断した。 これは、しばしば肺小細胞癌などに合併するもので、腫瘍細胞などから抗利尿ホルモンが異常に多量に分泌されるものである。 このため、腎尿細管における水の再吸収が亢進し、尿量が減る。 さらに体液が不適切に貯留するために、浮腫を来すことがあり、また、希釈性に血中ナトリウム濃度が低下する。 これが高度に進めば、意識障害などの神経症状を来すことがある。 血中カリウム濃度が正常であったのは、レニンの分泌が抑制されていたためであろう。

F 医師の診療所には、基本的な薬剤は全て揃っている。 そこで彼は、低ナトリウム血症を補正するための輸液を行うことにした。 念のため救急医学の教科書を開いて確認すると、3 % 程度の高張食塩水を使い、0.5 mEq/(L hour) 以下の速度で補正すると良い、と書かれている。 そこで、体液の貯留が気になったのでフロセミド (ループ利尿薬) を併用しつつ、高張食塩水の輸液を開始した。 しかし彼は内心、不安であった。こんなことをしたら、脳の神経細胞が萎縮して変性し、名古屋さんは死んでしまうのではないか、と心配していたのである。

彼は先日、MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理 第 2 版』の教科書に記されている次の式を読んで、ウムム、ナルホド、と感心したばかりであった。

血漿浸透圧 ≒ 2 × (細胞内液や細胞外液に含まれるナトリウムおよびカリウムの総量) / 体重

この式は、浸透圧は、ほとんどナトリウム塩やカリウム塩によって形成されている、という近似に基づいている。 もう少し詳しく書けば、細胞外液の浸透圧は概ねナトリウム塩によって、細胞内液の浸透圧は概ねカリウム塩によって、形成されているのである。

さて、名古屋さんは体重 40 kg であったので、総体液量は概ね 20 L である。 従って、教科書に記載されている計算式によれば、血清ナトリウム濃度を 107 mEq/L から 120 mEq/L まで上げるとすれば、 260 mEq のナトリウムを投与すれば良い、ということになる。

ここで、聡明な F 医師は、躊躇した。 もし、投与したナトリウムが全身の体液に等しく分布するならば、確かに 260 mEq のナトリウムが 20 L の体液に広がり、血清ナトリウム濃度は 120 mEq/L になるであろう。 しかし体液のうち、細胞内液と細胞外液の比は概ね 2:1 であり、ナトリウムはほぼ細胞外液にのみ分布し、細胞内液にはほとんど移行しない。 従って、投与したナトリウムは細胞外液にのみ留まり、細胞内外に著しい浸透圧較差を生じ、結果として細胞内から細胞外への水の移行を促すのではないか。 その場合、たとえば脳の神経細胞が萎縮し、重度の脳傷害を来すのではないか、と考えたのである。

もちろん、F 医師の懸念は、杞憂である。 彼の考察の、どこが間違っているのか。長くなってきたので、解説は後日にする。


2015/03/02 Bertrand の逆理

過日、ベイズ推定を用いる診断法に理論上の問題があることを述べた。 多くの医学科生や臨床医を含め、世間では「確率」という概念を正しく認識していない人が多く、 そのため確率論が誤用されがちである、ということも述べた。 「確率」の概念を正しく認識することの重要性は、確率論の世界では「Bertrand の逆理」によって教えられている。 この逆理は幾何学的な問題について唱えられたものであるが、これを診断学的な問題に置き換えたのが、 昨年 11 月9 日, 10 日に書いた記事である。 しかし、これらの記事はいささか煩雑であり、たぶん、ほとんどの人が読み飛ばしたであろうから、改めて要点だけを抽出すると、次のようになる。

仮に、咳嗽は感度 80 % で肺炎を検出し、感度 60 % で上気道炎を検出するとしよう。 議論を簡単にするため、他の疾患による咳嗽は無視できるほど稀であるとする。 では、咳嗽は、どの程度の特異度で肺炎や上気道炎を検出するのだろうか。

たとえば、ある医院で呼吸器疾患を有する患者に限って統計をとり、肺炎の有病率が 5 %, 上気道炎の有病率が 80 %, であったとする。 小さな医院では、呼吸器疾患といえば、まぁ、風邪なのである。 このとき、特異度を計算すると、咳嗽は特異度 49 % で肺炎を検出し、特異度 80 % で上気道炎を検出することになる。 従って、肺炎について陽性尤度比は 1.6, 陰性尤度比は 0.4 となるから、咳嗽があるならば肺炎である「確率」が少しばかり高くなる、ということになる。 これに対し上気道炎については陽性尤度比 3.0, 陰性尤度比 0.5 となるので、咳嗽があるならば風邪である「確率」は、なかなか高くなる、といえよう。

次に、ある大病院で呼吸器疾患を有する患者に限って統計をとったところ、肺炎の有病率は 60 %, 上気道炎の有病率は 5 % であった。 風邪で大病院を受診する人は稀であるし、大病院では肺癌などの患者も多いために、このような有病率になる。 この場合、咳嗽は特異度 93 % で肺炎を検出し、特異度 49 % で上気道炎を検出する。 すなわち肺炎について陽性尤度比は 11.4, 陰性尤度比は 0.2 であるから、咳嗽があれば、肺炎が強く疑われることになる。 一方、上気道炎については陽性尤度比 1.2, 陰性尤度比 0.8 であり、咳嗽があっても風邪の「確率」は少しだけ高くなるに過ぎない。

以上のことから、特異度は、医療機関によって異なるのである。当然、尤度比も医療機関によって異なる。 換言すれば「肺炎でない患者が咳嗽を呈しない確率、すなわち特異度は、不定である」といえる。 「確率が不定」とは、一体、どういうことなのか。意味がわからない。これが「Bertrand の逆理」である。

同様の疾患であれば、どの医療機関であっても感度は大きく変わらない、という仮定は、概ね妥当であるように思われる。 一方、特異度は有病率によって大きく変化し、従って、尤度比も医療機関によって著しく異なるのである。 従って、「肺炎でない患者が、咳嗽を呈しない確率」などというものは、普遍的な値としては存在しない。 それなのに、まるで普遍的な「特異度」なるものが存在するかのように考えることが、そもそも誤りなのである。

そこで「マクギー」などの流儀では、「検査前確率」を臨床経験に基づいて調整せよ、ということになっている。 ところが、経験的に検査前確率を調整するぐらいなら、そもそも、経験に基づいて自院での感度, 特異度を設定すれば良いのであるから、 わざわざ文献に記載されている感度, 特異度, 有病率の値を利用する意味がない。

2015.03.06 語句修正

2015/03/01 尤度比の誤用

いわゆる総合診療を好きな学生の中には、「尤度比」などを用いて「理論的な診断」を好む者がいる。 そういう人々は『ベイツ診察法』とか『マクギーの身体診断学』などを重宝するようである。 以前にも書いたが、これらの尤度比を用いた診断は、理論的なようで、実際には論理が破綻している。 医学書院が発行している「週刊 医学界新聞」の 2015 年 2 月 9 日号に、尤度比を過信する記事が掲載されており、私のハラワタは煮えくりかえった。

彼らの論理の、どこがどう破綻しているかを説明するのは、難しい。 およそ彼らの主張は「犬は哺乳類である。従って、猫は鳥類である。」と言っているようなものであり、意味不明で論理が全く成立していないために、 どこをどう批判すれば良いか、わからないのである。 彼らの論理の問題点を簡潔に突くならば、「彼らは『確率』という概念を理解していない」ということになる。 しかし彼らは「そんな言葉の定義なんか、どうでもいいよ。確率とは何か、なんて、なんとなくわかっていれば充分ではないか。」と反論するであろう。 彼らは自分が使っている言葉の意味を理解しておらず、しかも、それを恥じる心すら持っていないのだから、議論の成立する余地がない。

ベイズ推定派の理論は、基本的にはベイズ推定に基づく確率論に基づいている。 この際、文献に記載されている「感度」「特異度」の値を用いることは不適切であるということは、 昨年 11 月 9 日, 10 日に書いた。 さらに、複数の所見を組み合わせる際には、それらが独立であるかどうかが非常に重要なのであるが、この点は、しばしば、何の根拠もなしに「些細なこと」として軽視される。 これらの理論上の制約により、ベイズ推定による診断は、臨床的には、おおまかな推定の域を出ることができない。

さらに、そもそも診断は確率事象ではないのだから、確率論に基づいて診断すること自体がおかしい。 我々病理学者は、この根本的な事実を重視し、確率や統計に頼らず、論理的な診断を行う。 この点が、ベイズ推定派と、我々との相違である。

はたして、ベイズ推定派の学生や医師は、本当に、その理論を自分で理解して納得した上で使っているのだろうか。 たぶん、ベイズ推定による診断法を最初に提唱した人は、これらの理論的制約が重大であることを指摘していたのであろう。 しかし後世の凡庸な臨床医は、理論の中核を理解せずに結論だけを抜き出して使用するようになり、その精度を過信するようになったものと想像される。 ただし、私は、このベイズ推定法の初出文献を知らないので、ご存じの方は、教えていただけるとありがたい。

2015.03.02 日付修正

2015/02/28 医学なき医療技術

文章を、うまくまとめることができなかった。日頃の鬱憤を吐き出しているだけであり、あまり意義のある記事ではない。

よく知らないのだが、学生や研修医の中には、救急医療や、いわゆる総合診療に関心の強い者が少なくないらしい。 学生向けの臨床的な勉強会の中には、救急対応の技術を主眼に据えたものが多いようである。 以前は、多くの病院において、研修医は日中は「雑用」ばかりやらされ、救急外来においてのみ「医者らしい仕事」をする機会があったらしい。 そのため、研修医の主たる仕事は救急外来である、というような認識が広まり、そのため、学生も救急対応に関心を持つようになったのかもしれない。 なお、私は、「雑用」や「医者らしい仕事」が具体的にどのようなものを指すのかは、知らない。

救急対応を学ぶこと自体が、悪いとは思わない。 だが、彼らの関心が専ら臨床的な手技や診断方法にばかり向き、基礎的、根本的な医学の理解を伴っていないとすれば、問題である。 患者から感謝されれば気分は良いだろうが、正しい医学的理解抜きに手技ばかり磨いても、本当に適切な医療を患者に提供することはできない。

私は、もともと医者が嫌いであったし、明確な動機もなく医学部に進学する連中を軽蔑していた。 今となっては私自身も、数学や物理学、工学、特に原子炉物理学の人々から蔑まれても仕方がないと思っている。 その一方で、医学部に来て確信したのは、医科学生の多くや医者は、医学を好きではない、ということである。 彼らは、医療技術は修得しても、医学は修めないのである。論理的思考も、放棄している。 それ故に、医師国家試験対策の予備校講師らが論理の破綻した説明をしても、それを批判することができず、自らの頭脳により正しい説明を編み出すこともできない。 というよりも、そもそも、論理が破綻ないし飛躍していることに気づかないようである。 そうした人々が、砂上の楼閣に「名大医学部」の看板を掲げ、世間からチヤホヤされているのである。

名古屋大学医学部の栄光は、失われた。 もはや何人たりとも、これを建て直すことは不可能である。 僅かばかりとはいえ学問を識る我々は、名古屋を離れ、地方に脱し、医学の灯を後世に遺すよう、努めるべきであろう。


2015/02/27 脳梗塞の分類

臨床医学において、疾患を分類することには、疾患概念を正しく理解し、適切な治療を行うために、必要である。 膠原病は、現代においてもなお症候群として区別されているに過ぎず、適切な疾患分類は確立されていない。 私は将来、膠原病病理学の世界において、疾患概念を整理する仕事を行いたいと考えている。

過日、ある同級生が図書館で勉強しているところに遭遇した。 彼は、なにやら国家試験対策問題集のような教科書の「脳梗塞の分類」などというページを開いていた。 この教科書は、医学科生の間では有名かつ人気であり、名大医学科の学生の多くが読んでいるものと思われる。 それによれば、脳梗塞は「アテローム血栓性脳梗塞」「ラクナ梗塞」および「心原性脳梗塞」の三つに分類されるという。 このうち、前二者は緩徐進行性であり、心原性は急性発症するという。特に、心原性脳梗塞では背景に心房細動があることがあるとされる。 以上の記述に納得した人は、はなはだ勉強不足であるだけでなく、論理的思考に基づいて教科書を批判的に理解する姿勢が欠如している。 たとえば、内頸動脈の粥腫が破綻したことにより、比較的太い脳血管が閉塞して生じる脳梗塞は、どれにあたるのか。 名称からはアテローム血栓性脳梗塞であるように思われるが、しかし、こうした症例では、典型的には急性発症する。 また、いわゆるエコノミークラス症候群において、静脈系で生じた血栓が奇異性塞栓症を来した場合、どれに該当するのか。 こうした事例を考えれば、彼が読んでいた教科書の記述が不適切であることは明白である。 こうしたデタラメを公然と記載する連中にも、それを読んで納得したフリをする学生にも、実に、腹が立つ。

朝倉書店『内科学』は、脳梗塞の適切な分類を記載している。 まず、脳梗塞は心原性脳塞栓症と脳血栓症に大別される。 前者は、不整脈や弁膜症などにより心臓で塞栓が形成されるものだけでなく、卵円孔開存などの右左シャントによる奇異性塞栓症や、 脂肪塞栓, 空気塞栓, 腫瘍細胞塞栓なども含む。 すなわち、不適切な名称ではあるが、「脳血栓症以外の塞栓症」を心原性脳塞栓症という。 これに対し脳血栓症とは、脳血管内において血栓が形成されて塞栓症を来すものをいう。

脳血栓症は、さらに三つに分類される。第一はラクナ梗塞であり、これは脳実質を栄養する細い血管が閉塞することによる小さな脳梗塞のことをいう。 閉塞の原因は何でもよく、高度の粥状硬化による閉塞, 血管変性による閉塞, 心原性の微小塞栓、が考えられる。 ラクナ梗塞が緩徐に発症するという決まりは、ない。 第二はアテローム血栓性脳梗塞であり、これは脳血管の粥腫による狭窄や閉塞, 狭窄部で生じた血栓による遠位側の閉塞, 狭窄や閉塞による低潅流, によって生じるもののうち、ラクナ梗塞でないものをいう。 これも、緩徐に発症するとは限らない。 第三は血行力学的梗塞であり、脳血管病変による血行障害が、病変の遠位部における血管拡張などにより代償されていた患者において、 脱水等を契機に非代償性血行障害を来し、梗塞に至るものをいう。これは、通常は急性発症するであろう。

2015.02.28 語句修正

2015/02/26 美しい組織

過日、乳腺の組織標本をみた。 手術により摘出された検体から、乳癌の広がりの程度や、乳癌の性状を調べるための病理診断を目的として作成された標本である。 手術では、「明らかに癌である部分」だけでなく、その周囲の「たぶん正常な部分」も切除するのが普通である。 なぜならば、現代の検査技術では、事前に「癌が広がっている範囲」を調べることができないため、充分な余裕をもって切除しなければ、 癌細胞を取り残してしまうリスクが高いからである。 従って、私がみた組織標本においても、その大部分は正常組織であり、癌組織は、ごく一部にあったのみである。

ふつう病理医は、弱拡大で標本の全体をみた上で、「明らかに異常な部分」や「ちょっと違和感のある部分」だけを強拡大でみるらしい。 しかし私は、学生であるから、「明らかに正常ではあるが、ちょっと面白そうな部分」も、拡大してじっくり眺めることが少なくない。 たぶん、これは、時間に比較的余裕のある、学生時代にだけ許される贅沢な特権である。 上述の乳腺標本について、私は、明らかに正常で、HE 染色において完全な二層性が明瞭に認められる、 実に美しい乳管に目を奪われ、ホホゥ、と嘆息しながら観察した。 また、拡張した乳管の一部において、一見、アポクリン化生様ではあるが、よくみると核は腫大しており、基底側ではなく管腔側に偏在し、 時に二核であり、さらに、「間違えて核の含まれる側を『アポクリン』しているかのような像」もみられた。 後に、エキサイトしながら、これらの所見を友人に伝えたところ、「おまえは変態ではないか」と言わんばかりの、冷ややかな反応が返ってきた。

この興奮、ヨロコビを、どうすれば正しく他人に伝えられるのだろうか。


2015/02/25 感染徴候

「感染徴候」という言葉を耳にすることがある。 たとえば手術後の患者について「創部に感染徴候はみられない」と言ったり、救急外来を受診した患者について「感染徴候はない」などと言ったりする人がいる。 しかし、この言葉は、一部の学生や若い医師のみが好んで使うものであるように思われる。 私は、この表現を学識豊かな医師の口から聞いたり、専門書で読んだりしたことはない。

たぶん、この「感染徴候」という言葉は、正しい医学用語ではない。 インターネットで検索した限りでは、どうやら、「感染徴候」という言葉は、「炎症所見」という意味で使われることが多いようである。 それならば素直に「炎症所見」といえば良いものを、なぜか「感染徴候」などと言い換えているらしい。 たぶん、「感染症は恐ろしい」という考えから、「炎症をみたら、とりあえず感染を疑う」というような文化が、一部にあるものと思われる。

医学的には、感染には特異的徴候がない。 感染を明らかにするためには、感染が疑われる部位から採取した検体を培養試験するしかない。 それにもかかわらず、多くの臨床医が身体所見だけで感染症を診断しているのは、感染症以外の疾患による炎症が、比較的、稀だからである。 「炎症をみたら感染と思え」という診断方式で、まぁ、八割ぐらいは当たるのである。

このように炎症と感染を同一視する不適切な文化のために、私は一度、失敗したことがある。 とある病院の救急外来を見学した時のことである。 救急搬送されてきた患者の身体所見として、意識障害, 頻呼吸, 頻脈, 酸素飽和度の低下, および低体温が認められた。 初期治療にあたったのは研修医であり、私も同伴していた。 治療室で血液培養検査を行うかどうか、という話になった際、看護師が「でも、熱はないし……」と発言した。 「熱はない、すなわち感染はなさそうだから、血液培養は不要なのではないか。」という意味である。 もちろん、診療方針を決定し責任を負うのは医師であるが、このように看護師が積極的に発言できる文化は、たいへん、すばらしい。

さて、研修医も私も、「まぁ、そうか」と思い、その場では血液培養の検体採取を行わなかった。 明確な診断がつかないまま、少し時間が経過し、血球算定検査の結果が届いた。この検査結果において、白血球増加が認められたのである。 この時、私はようやくハッと気がついて、「もしかして、敗血症ではないでしょうか。」と述べた。

この話を、敗血症を専門とする某救急科教授が知ったら、落胆するであろう。 敗血症、すなわち感染による全身性炎症反応症候群においては、体温は高くなることもあれば低くなることもある、という事実は、救急医療においては常識である。 従って「熱がない」という理由で「感染はなさそうだ」と考えるのは、論理が破綻しているのである。 むしろ、上述の症例においては、身体所見から直ちに敗血症を疑うべきであった。

2015.03.06 語句修正

2015/02/24 続・ネフローゼ症候群

以前、ネフローゼ症候群について少しばかり書いた。 当時、私は腎臓というものをよく知らなかったので、かなり歯切れの悪い表現になってしまった。 過日、『体液異常と腎臓の病態生理 第 2 版』を読み、腎臓について少しばかり理解したので、ここに記録しておく。 同書は「ハーバード大学テキスト」という冠を戴いてはいないが、著者はハーバードの教授であり、生理学からキチンと疾患を理解するための名著である。 原書は第 3 版が出版されているが、私は英語が苦手であるので、訳書を読んでいる。 なお、同書は臨床的な検査等について記載が乏しいことから、日本の医師国家試験には不向きである、などと主張する人がいる。 しかし、疾患について生理学的に正確な理解をせずに、ただ臨床医療に特化した知識を詰め込むことが、医師として適切な姿勢であるとは思われない。

ネフローゼ症候群とは、糸球体障害により蛋白質が尿中に漏出することに起因する症候群をいう。 ネフローゼ症候群では、体液が貯留し、浮腫を来すのが典型的である。 その機序について、通俗的な書物等では、血漿膠質浸透圧が低下することで水が間質に移行するため、などと説明しているらしい。 以前、私は「この説明にケチをつけようとしているわけではないが、しかし、この説明では不十分である」と書いたが、この記載は誤りであった。 次のように訂正する。 「この通俗的な説明は、生理学的観点からは、誤りである。」

血漿膠質浸透圧の低下は、確かに、間質への水の移行を促す。 しかし生理学でいう「三つの安全機構」があるために、この水の移行は僅かであり、浮腫の主たる原因にはならない。 三つの安全機構とは、水の移行に関する負のフィードバック機構のことであって、間質への水の移行に続発する 「リンパ流の増加」「間質膠質浸透圧の低下」および「間質静水圧の上昇」である。 ただし、後二者はヒトが持つ機構というよりは、物理法則である。

ネフローゼ症候群においては、血漿中の膠質浸透圧低下に伴って間質の膠質浸透圧も低下するため、膠質浸透圧変化に起因する水の移動は乏しいようである。 この問題を、一部の予備校講師らは、どのように理解しているのだろうか。

少なくともハーバード大学においては、ネフローゼ症候群における浮腫の根本的な原因は、腎の集合管におけるナトリウム再吸収の亢進であると考えられているらしい。 これは、血液から組織液への水の移行による有効循環血漿量減少に対する代償性のものではないという点が重要である。 すなわち、ナトリウムが貯留するから体液量が増加し、結果として浮腫が生じる、というのである。 この考えは、J. Clin. Invest., 71, 91-103 (1983) の報告に基づいているらしい。 なお、このナトリウム貯留の詳細な機序は不明であるが、局所的な神経液性因子に依るものであり、全身の有効循環血漿量とは無関係である。

問題は、これらの研究は、1980 年代に行われていた、ということである。 三十年間、一部の自称教育者は、一体、何を教えてきたのだろうか。

2015.02.25 語句修正
2015.02.28 語句修正

2015/02/23 札幌農学校

旧札幌農学校演武場は、「札幌時計台」として知られる歴史的建築物である。 有名な観光スポットであるらしいが、建物の規模は小さく、周囲を近代的なビルディングに囲まれていることなどから「がっかりスポット」などと呼ばれることもあるらしい。

私は大学院博士課程時代に、学術集会のため北海道大学を訪れたことがある。 このとき、札幌市街を散策していて、たまたま、この時計台を通りがかった。 当時、私は、これが有名な建築物であることも、「がっかりスポット」などと称されていることも、知らなかった。 私は、趣きのある建物である、と思い、札幌農学校の歴史を今に伝える素晴らしい遺産である、との感想を抱いた。 後に、これが「がっかりスポット」と呼ばれていることを知り、私は、かえって驚いた。

北海道大学の附属博物館には、札幌農学校の歴史を伝える展示品も多かった。 中には「学問の中心は、政治や経済の中心と、必ずしも同一ではない」として、北海道こそ日本の学問の中心たるべし、と唱えた人々の記録もあり、いたく印象的であった。

私は、初期臨床研修先として北海道大学病院は考えていないが、将来的に、人生の一時期は北海道大学で過ごしたいと考えている。


2015/02/22 アトピー性皮膚炎と自家感作性皮膚炎

一年以上前から、慢性皮膚炎を患っている。 当初は膝窩に限局していたが、後に会陰部、上肢、臍周囲にも皮疹を生じた。 昨年春に、実習の一環として血球算定を行ったところ、著明な高好酸球血症がみられた。 これらの所見から、私は、アトピー性皮膚炎であろう、と考えていた。 ただし、私の場合は首から上は無症状であり、アトピー性皮膚炎としては、やや非定型的である。 私は医者嫌いなので、医療機関は受診していなかった。 昨年 1 月から、薬局で購入した外用グルココルチコイド剤を使用しており、春頃からは、アレルギー性鼻炎用の抗ヒスタミン剤を off-label で使用していた。 いうまでもないことだが、こうした自己判断での薬剤の長期使用は、危険なので、やめた方がよい。

以前にも書いたが、アトピー性皮膚炎とは、アトピー素因を背景に生じる皮膚炎をいう。 アトピー素因とは、アレルギー反応を来しやすい遺伝的素因をいう。 従って、アトピー性であることを厳密に証明するためには遺伝子を調べる必要があるのだが、臨床的には、それは行われていない。 そもそも、現時点ではアトピー素因に関係する遺伝子が、フィラグリン filaggrin の他にはあまりよく知られていないため、調べようがない。 このため、臨床的には「アレルギー性皮膚炎」という意味で「アトピー性皮膚炎」という言葉が使われているように思われる。

さて、私の皮膚症状は一向によくならず、むしろ増悪傾向にあり、しかも最近では両側手背にも著明な皮疹が生じ、実に見苦しくなってきたので、観念して近医を受診した。 その医院の待合室に「にんにく注射, ビタ C 注射, はじめました」というような掲示がしてあるのをみて、私は「さては、ヤブ医者だな」と思った。 「にんにく注射」とは、ビタミン B1 の注射であるという。「ビタ C」とは、ビタミン C のことであろう。 ビタミン B1 やビタミン C の注射に疲労回復などの効果があるという医学的根拠はないし、理論的にも、そのような効能は考えられない。 実際に経験した人の中には「よく効くよ」などと言う者もあるらしいが、それは、プラセボ効果である。 「にんにく注射」などの商売に手を染める者を、私は、まっとうな医者とは認めない。

その医者は、私の上下肢の病変を視診し、膝窩や肘窩に皮疹がないことから「自家感作性皮膚炎であろう」と診断した。 自家感作性皮膚炎とは、もともと限局していた皮膚炎から、何らかの抗原が播種され、全身に皮疹が多発するものをいう。 「何らかの抗原」とは、炎症により生じた変性自己蛋白質や、外因性の病原体が考えられる。 播種された先でも抗原が産生されるようになると、慢性の経過をたどることになる。 アトピー性皮膚炎は外来抗原に対する免疫応答が持続しているのに対し、 自家感作性皮膚炎は一種の自己免疫性疾患といえよう。

では、両者をどのように鑑別するか。 アトピー性であるならば、外来抗原の刺激を受けやすい部位、たとえば膝窩や肘窩がいずれも健常であることは、考えにくい。 私の場合、当初は膝窩に湿疹を来し、これはアトピー性であったと考えられるが、その後は膝窩も肘窩も健常であった。 このことから、アトピー性皮膚炎に続発して自家感作性皮膚炎を来したものと考えられる。 私は、自家感作性皮膚炎という疾患自体は知っていたが、自分がそれであるとは、考えていなかった。 しかし、言われてみれば、これはアトピー性よりも自家感作性と考えた方がもっともらしい。 あの医者は、胡散臭いが、診断は確かである。

私は、外用プロピオン酸デキサメタゾンと内用エピナスチンを処方されて、家路についた。 前者は very strong に分類されるグルココルチコイドであり、後者は抗ヒスタミン薬である。 いわゆるステロイド剤は、「患部への移行しやすさ」によって strongest から weak の五段階に分類されている。 これは、薬の「作用の強さ」を表しているわけではないことに注意が必要である。 私が処方されたのは、二番目に強い群の very strong に分類されるものである。


2015/02/20 公正であろうとすること

昨日の話の続きである。

言葉の定義は、重要である。 昨今の社会情勢の中で、日本や米国などでは「テロ」などの言葉が多用されるようであるが、英国の国営放送である BBC では `terror' という語を使わずに `attack' などと表現するという。 なぜならば、「テロ」の定義は曖昧であり、基本的には「不適切な武力行使」というような、非難の意味で使われ、公平でないから、ということらしい。 反米武装勢力が米国の高層ビルを破壊し、民間人を殺害すれば「テロ」であり、 米軍がアフガニスタンで結婚式場にミサイルを撃ち込んだり、 ロシア連邦軍がチェチェンの学校を砲撃したりするのは「軍事行動」である、という区別は、不適切である。

攻撃を行ったのが国家の正規軍であるか非正規の武装集団であるか、という区別は、無意味である。 たとえば、いわゆるイスラエル軍がパレスチナ難民キャンプを襲撃し、家屋を破壊し、非武装の民間人を殺害した事例について、 日本政府は「イスラエル国の軍事行動」と表現するかもしれない。 しかしイラン共和国からすれば、イスラエルと称する連中はパレスチナを武力によって不当に実効支配している「テロリスト」なのであって、 いわゆるイスラム国と、根本的には同じである。 従って、いわゆるイスラエル軍の活動がテロなのか軍事行動なのか、という点については、客観的には判断できない。 そこで BBC は、全て `attack' と表現するのである。

医師が政治的な活動をすること自体には、私は賛成である。 しかし、医は、元来、政治的思惑によって左右されるものではなく、全ての人に広く平等に提供されるべきものである。 「平等」の定義は曖昧であるから、必ずしも米国型の医療保険制度が悪いとは限らないが、何にせよ、公正であることを追求すべきである。 そのことを、我々は、忘れてはならぬ。


2015/02/19 民医連

医師の中には、ある種の社会的理念に基づいて、政治的活動をする者が少なくない。 たとえば、国政選挙や地方議会選挙などでは、候補者の中に、チラホラと医師が含まれている。 日本医師連盟は、直接または間接に多額の、いわゆる政治献金を行っており、有力な政治団体であると考えられている。 また、全日本民主医療機関連合会、いわゆる民医連は、反原発、反戦、などを掲げて、積極的な政治活動を展開している。

このように医師が政治活動に積極的に参画することには、一定の合理性がある。 というのも、一般市民がこうした政治活動に参加すると、しばしば社会的地位が脅かされ、また重い経済的負担が生じることがある。 しかし医師は、良し悪しはともかく、医師免許に守られて安泰な地位にあり、社会的地位は保全されている。 また、「勤務医の給料は (開業医に比べて) 安い」などと妄言を述べる者はいるが、実際には、医師は非常に高収入である。 すなわち、医師は、ほとんどリスクを負うことなしに、こうした活動に参加することができるという、特権的な立場にある。 そうした特殊な環境にいる以上、積極的に政治活動に加わる社会的、あるいは道義的な責任がある、といえよう。 同様の理由で、1960 年代から 70 年代を中心に、社会的しがらみの少ない学生が、政治闘争に積極的に加わっていたこと、 特に医学部の学生が激しい活動を展開したことは、適切であった。

しかし、私は、民医連や日本医師連盟の活動には、全く賛同しない。 医師が個人的に政治活動を行うことは結構であるが、医療行為と政治活動とは、明確に分離すべきである。 私自身は、民医連の政治的主張については、賛同はしないが、嫌いではない。 しかし、少なくとも名大医学科では、民医連関係の病院は「偏った政治的色彩が強い」と噂され、忌避される傾向にあるらしい。

民医連の活動目的は、その綱領によれば「無差別・平等の医療と福祉の実現をめざす」ことのはずである。 その精神自体には、たぶん、多くの学生が共感するであろう。 しかし、民医連関係の一部の病院においては、その具体的な活動内容の問題から、医師や学生から避けられ、人手不足に陥っている面があるのではないか。 たとえば憲法第 9 条や原子力発電所を巡る問題については、ほとんど医療と関係ないにもかかわらず、 民医連は明確な特定の方針でまとまっているようであり、「政治的に偏った団体」という印象を受ける。 たぶん、患者の中にも、こうした政治的特性をふまえて、民医連の病院を避ける者が、少なからず、いるのではないか。 そのように、患者や医師を遠ざけてしまっているとすれば、民医連の活動は、本来の目的から乖離していると、いわざるを得ない。


2015/02/17 臨床検査所見

昨年 10 月に、低ナトリウム血症と平均赤血球容積 (MCV) の関係について記した。 これについて、私がみた事例に基づいて補足する。

低ナトリウム血症に合併する「小赤血球症」は、手術後でなくても生じるようである。 また、長期にわたり緩徐に進行した場合、代償性あるいは反応性に 平均赤血球ヘモグロビン量 (MCH) が減少するようである。 機序は不明であるし、私の乏しい観測経験に基づくものであるから 信憑性は高くないが、もし事実ならば、不思議な現象である。

MCV といえば、当たり前のことではあるが、著明な高血糖では MCV は減少する。 血糖値が 200 mg/dL 程度では明瞭な検査所見としては表れないが、500 mg/dL 程になれば、赤血球は明確に小さくなる。 一度、計算してみるとよろしい。

話は変わるが、医学書院から『臨床検査データブック』の 2015-2016 年版が 2 月 1 日に発行された。 これは、各種臨床検査値の、いわゆる基準値や、異常値が出る機序、頻度の高い疾患などを簡潔にまとめたハンドブックである。 非常に有用であり、医学科五年生以上の学生にとっては必携といえる書物である。ぜひ購入されたい。


2015/02/16 ハーバード大学と名古屋大学

ハーバード大学医科大学院といえば、医学の世界においては、まぁ、世界的な名門とされる。 これに対し名古屋大学医学部といえば、東海地方では随一の医学部とされるが、全国的には、いわゆる旧帝大の一つ、ぐらいの位置付けである。 京都大学、東京大学、大阪大学などに比べれば、名古屋大学は格下である、というような評価を受けることが多いように思われる。 そのため、名古屋大学からハーバードに留学した、とか、東京大学の教授になった、とかいうと、すごい、とか、優秀である、とか、言われることがある。 しかし、これは、事実誤認である。

世間からの評価についていえば、名古屋大学が、ハーバード大学や東京大学より下にみられているのは、事実である。 ハーバードは名門であり、その教授陣は名著というべき教科書を多数、出版している。 また、The New England Journal of Medicine に連載されている The Case Records of the Massachusetts General Hospital では、見事な医学的論理展開がなされている。 それに比べて、名古屋大学教授の手による名著は、少ない。 私が所蔵する教科書の中で、名古屋大学教授の手によるものは上田裕一『最新 人工心肺 第四版』の一冊のみであるが、 これは、かなりマニアックな書籍であり、学生一般に勧められる教科書ではない。 強いて挙げれば伊藤隆氏の『解剖学講義 改訂 3 版』や『組織学 改訂 19 版』もあるが、伊藤氏は名古屋大学出身とはいえ、教授としては北海道大学の所属である。 北海道大学教授の著書には、他に清水宏『あたらしい皮膚科学 第 2 版』という名著があることを思えば、 我が名古屋大学は、この面において、北海道大学の後塵を拝していると言わざるを得ない。

それでも、名古屋大学が、ハーバード大学より格下だということはない。 いったい、ハーバードの連中にできて、我々にできないことが、何か一つでも、あるだろうか。 彼らと我々を隔てるものがあるとすれば、彼らは自分達が世界一だと信じているのに対し、我々は東海一などという矮小な自尊心しか持ち合わせていない、という点ぐらいであろう。 我々に不足しているのは、専ら、この科学的自尊心である。 名古屋大学は、ハーバードに並ぶ世界的名門なのであって、その構成員たる我々は、それにふさわしい、学術的品格ある言動を心がけるべきである。

(具体的なことは、書くと下品になるから、書かない。)


2015/02/15 学力低下

学力低下、という言葉がある。近年、高校生や大学生などの学力低下が進行していることが懸念される、などということが、マスコミ等で、だいぶ昔から言われている。 工学部時代であったと思うが、新聞記事で、学力低下について複数の「有識者」の見解を載せているものを読んだことがある。 その「有識者」の中には京都大学教授も含まれており、立派なことを述べていた。

その教授は「そもそも、学力とは何なのか。学問の能力、才能は、試験などで測定できる性質のものではない。 仮に試験の点数が低下傾向にあるとしても、それが学問の能力の低下を反映するとは言えない。いったい、学力低下という言葉は、何のことを言っているのか。」 という意味のことを述べていた。 私は、さすが我らが京都大学の教授であり、学問に対する真摯な姿勢が示されている、と思った。

しかし、記事を編集した記者には、教授の言葉を理解するだけの教養が備わっていなかったらしい。 記事では「○○氏のように、学力低下が実際に起こっているのかどうかを疑問視する声もあった。」などと書かれていたのである。 全く、理解していない。 教授は、そもそも「学力」という概念に対して疑問を呈しているのであって、「学力低下」が起こっているかどうかを疑問視しているわけではない。 「学力が上がっているのか、下がっているのか」という議論自体が、無意味なのである。

名古屋大学に来て、薄々感じているのは、学生の多くが「学力」という曖昧な概念に捉われているのではないか、ということである。 試験で悪い点を取ることに対する漠然とした恐怖にかられている、と言い換えても良い。 自己の学識に充分な自信があるならば、仮に試験で悪い点を取ったとしても「あれは、試験問題の方が悪い」ぐらいのことを言えるはずである。 また、仮に単なる不勉強で悪い点を取ったなら「勉強していないのだから点を取れないのは当然であって、私が無能であるということにはならない」と述べ、平然としていれば良い。

天下の名古屋大学において、単位認定試験や国家試験などに振りまわされて右往左往することはみっともない、という認識が持たれていないことは、実に遺憾である。


2015/02/13 副腎不全

10 月 3 日の記事も参照されたい。

副腎不全は、しばしば、医原性に生じる。 臨床的に特に注意を要するのは、グルココルチコイドからの離脱による副腎不全であろう。 医者の中には、グルココルチコイドのことを「ステロイド」と呼ぶ者もいるが、 本当は、ステロイドといえばミネラルコルチコイドやアンドロゲンも含む。 従って、グルココルチコイドの意味で「ステロイド」と表現するのは、不適切である。 ただし、グルココルチコイド活性に比べて有意なミネラルコルチコイド活性を有するような薬剤の場合、他に適切な表現がないから、「ステロイド」と呼ぶのも合理的である。

さて、膠原病などの治療を目的として、グルココルチコイドを経口投与、すなわち全身投与することがある。 ここでいう全身投与とは、軟膏などによる局所投与に対して、全身の臓器に行きわたらせる、という意味である。 こうした外来のグルココルチコイドは、下垂体からの AdrenoCorticoTropic Hormone; ACTH の分泌を抑制する。 その結果、副腎は萎縮し、機能低下するが、これは通常、可逆的である。 いきなりグルココルチコイドの投与をやめると、内因性のグルココルチコイドが充分に産生されないため、重度の血圧低下などを来し、時に、生命を脅かす。 これが急性副腎不全である。 従って、グルココルチコイドから離脱する際には、投与量を漸減し、長い時間をかけて離脱する必要がある。 注意すべきは、臨床的には「グルココルチコイドの投与をやめたことで、急性副腎不全を来した」というように表現されるが、 副腎の機能低下は、本当はそれよりもはるか前に生じており、外因性のグルココルチコイドによりマスクされていた、という点である。

臨床的には、副腎不全では低ナトリウム高カリウム血症を来すことがあるという。 これは、副腎がグルココルチコイドだけでなく、アルドステロンも産生しなくなっているからである、と説明する文献があるらしい。 しかし、通常、アルドステロンは ACTH に反応して分泌されるものではない。 どうして、グルココルチコイドがアルドステロンの産生も低下させるのだろうか。

私は、この問題についてキチンと調べてはいない。が、食卓での話題として、ある友人と、この問題を議論したことがある。その時、彼は、実にもっともらしい仮説を述べた。 生理的には、コルチゾールは腎臓では可逆的に酸化されて、不活性のコルチゾンとなるため、ミネラルコルチコイド活性を発揮しない。 しかし、ミネラルコルチコイド活性を有する大量のステロイド薬を投与した場合、 不活化されずに残ったわずかの活性型ステロイドが、充分に高いミネラルコルチコイド作用を発揮するであろう。 このとき患者は、腎機能障害などがなければ重大な高ナトリウム血症は来さないと考えられるが、時に重度の低カリウム血症を来し、 カリウムの投与も受けるかもしれない。 このような状態では、生理的なアルドステロンの分泌は高度に抑制されている。 それが長期に及べば、副腎皮質の球状帯は萎縮し、アルドステロン分泌能は著しく低下するであろう。 この状態で突然、ステロイドの投与をやめれば、急速に低ナトリウム高カリウム血症を来すことになる。

彼の仮説は、少なくとも部分的には、クッシング病からヒントを得たものであろう。 クッシング病とは、機能性下垂体腺腫などにより ACTH が過剰分泌されることでコルチゾール過剰となるものをいう。 このとき、腎臓において不活化されずに残っているコルチゾールが有意なミネラルコルチコイド活性を発揮し、低カリウム血症を来すことがあるという。 ナトリウムについては、アルドステロン以外の調節機構が亢進するため、著明な高ナトリウム血症は来さないことが多い。

もし、彼の仮説が正しいならば、ミネラルコルチコイド活性が充分に低いステロイドを投与されていた患者の場合、 副腎不全であっても低ナトリウム高カリウム血症は来さない、ということになる。 また、ステロイド投与中に血中アルドステロン濃度は低下し、その一方で低カリウム血症を来しているはずである。 こうした点も含めて、いずれ、キチンと調べてみようとは思っているが、一般的な教科書等には、詳細な記述がない。 適切な文献をご存じの方は、ぜひ、教えていただきたい。

2015/02/14 語句修正

2015/02/12 たこつぼ型心筋症

「たこつぼ型心筋症」は、いささか、ふざけた名前であるようにも感じられるが、正式な医学用語であり、英語では takotsubo cardiomyopathy と呼ばれる。 「心筋症」とは、何らかの事情により心筋の機能障害を来す病態をいう。ただし、ふつうは、虚血性心疾患は心筋症に含めない。 「たこつぼ型心筋症」は、何らかの原因により、左室心尖部付近の収縮障害および心基部の過収縮を呈する病態をいう。 多くの場合、たこつぼ型心筋症は、交感神経系の過剰な興奮によって惹起されると考えられているが、詳細な機序は不明である。 通常、たこつぼ型心筋症は可逆的変化であり、2 週間程度で回復する。 このことから、本症の本質は刺激伝導系の異常ではなく、心筋細胞自体の可逆的変性であると考えられる。

心筋細胞の可逆的変性、という言葉から想起されるのは、虚血性心疾患で生じる stunning myocardium (気絶心筋) や hibernating myocardium (冬眠心筋) である。 『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』によれば、両者は、次のようなものである。 壊死を来さない程度の著しい虚血が起こると、詳細な機序は不明であるが、血流が回復しても、心筋細胞の収縮障害は持続することがある。 これは心筋細胞の可逆的な変化によるものであると考えられ、徐々に回復する。これを stunning という。 これに対し慢性的な血流低下も心筋細胞の収縮力を低下せしめ、これを hibernation という。 たぶん、たこつぼ型心筋症においては、心尖部、すなわち冠状動脈の末梢において stunning が生じているのであろう。 しかしながら、なぜ、梗塞せずに広範な stunning が生じるのかは、よくわからない。

さて、少なくとも現代の医学水準においては、心電図によって虚血性心疾患、特に心筋梗塞と、心筋症とを鑑別することは不可能である。 なぜならば、梗塞した部位と、心筋細胞は生存しているが活動低下ないし停止した部位とは、電気的な活動についていえば、ほとんど同等であるため、 同様の心電図変化を呈するからである。 従って、たこつぼ型心筋症と診断するためには、心エコーや冠状動脈造影によって、虚血性心疾患の可能性を否定する必要がある。

臨床的には、たこつぼ型心筋症は特別に珍しいものではないらしいから、臨床医ならば、かかる疾患群の存在をよく知っておく必要があるだろう。 その一方で、たこつぼ型心筋症の本質、特に病理学的実体は未だ不明である。 従って、我々は「たこつぼ型心筋症」という診断に満足することなく、その本態を解明すべく、探究する心を忘れてはならない。

2015.02.22 誤字修正

2015/02/11 書聖と医聖

書聖、といえば王羲之であろう。彼は晋の時代の書家であり、作品としては「永和九年歳在癸丑」で始まる『蘭亭序』や、『楽毅論』が有名である。 朝倉書店『内科学』の題字は、王羲之の書からとったものであるという。 もちろん、彼の時代には「内科学」という熟語は存在しなかったであろうから、彼が書いた「内」「科」「学」の文字をそれぞれ拾ってきて、並べて題字を作ったのであろう。 本来、書とは、個々の字を単に並べただけのものではなく、字と字の関係やつながり、連綿が重要である。 従って、王羲之の文字をバラバラにして並び換えるなどとは、書道を冒涜し、書聖を侮辱する行為であると、いえなくもない。 だが、書物の題字に、かかる芸術的風格を取り入れようとする朝倉書店の姿勢は、たいへん、素晴らしい。

医聖、と呼ばれた医家は、歴史上、何人かいたが、筆頭は張仲景であろう。 彼は『傷寒雑病論』を著したが、この書物は『傷寒論』と『金匱要略』に分割されて後世に伝えられている。 張仲景の理論は、漢方医学、すなわち日本の伝統医学の理論の中軸となっている。 ただし、張仲景の時代には、人体解剖学が正しく理解されていなかったために、彼の理論は、正しいとはいえない。

神医、という言葉はあまり広くは用いられていないが、しかし、この尊称にふさわしいのは、華陀であろう。 彼は三国時代の医師であり、記録の上では、歴史上、初めて麻酔を用いて外科手術を行ったとされる。 しかし彼が著した医書は、遺憾ながら散逸してしまい、現代には伝わっていない。

さて、我々も医を修める学徒であるからには、後世に、医聖として称えられる程度の業績は遺したいものである。


2015/02/10 失礼な研修医と失礼な学生

病院見学や実習などで、研修医や若い医師と医学的な話をする機会がある。 すると、「これは国試に出るよ」などという発言を、しばしば、耳にする。 国試とは、ここでは医師国家試験のことであろう。 彼らは「医師国家試験で高頻度に出題されるから、これはよく覚えておくと良い」と、親切にも教えてくれているのである。

いうまでもなく、私は、医師国家試験を念頭に置いた低俗な勉強は、していないし、するつもりもない。 従って、「国試に出る」などと言われた場合には、苦笑してやり過ごすことにしている。 一方で私は、時々、医学の話をしながら「まぁ、試験には出ない」と発言することがある。 私としては、「こういう面白い話は、試験には出ない。だから、試験というものはくだらないのだ。」というようなつもりで発言しているのだが、伝わりにくいようである。

ある時、同級生の中で特に優秀な学生と医学の話をする中で、つい「まぁ、試験には出ない」と言ってしまったことがある。 この学生は、非常に優秀なだけでなく、学問に対して真面目な人なので、試験に出る出ないなどという低俗な内容を私が口にしたことについて、いたく不快感をおぼえたらしい。 その学生はムッとした様子で、「そんなくだらないことは、どうでもいい」と言った。 私は、意図せぬこととはいえ、たいへん失礼なことを言ってしまったと、反省した。


2015/02/08 医師の資質と医学部の理念

以前、某大学の医学部編入試験を受けた際に、集団面接で「良い医師になるためには、最も重要な資質は、どのようなものだと思うか。」と問われたことがある。 何人かの受験生が「思いやり」あるいは「優しさ」というような意味のことを答えていたように思う。 私は「物事の本質を適切にみぬく能力」を挙げた。 その理由として「なぜ、そのような疾患が生じるのか、あるいは、なぜ、その薬が効くのか、ということを、正しく理解することが重要である。 そうでなければ、非典型的な症状を呈する患者に対し、適切に対応することができない。」ということを述べたように記憶している。 明確には意識していなかったが、私は当時から、病理学や薬理学の正しい理解なしには、適切な治療を行うことができない、という考えを持っていたようである。 遺憾ながら、現在の医師国家試験では病理や薬理は軽視されているようであり、学生も、臨床的な事項の暗記に走り、基礎医学を軽んじる傾向があるように感じられる。

もっとも、医師として重要な能力は、どのような医療機関で働くかによって、異なるであろう。 たとえば開業医や、小規模病院で、軽症の、典型的症候を呈する患者を中心に診療し、よくわからない患者は大病院に紹介する、という医師であるならば、 非典型的な症例への対応は放棄してしまうことができる。 その場合、病理学や薬理学を理解していなくても、業務に支障はない。 むしろ、地域に密着し、住民や患者との距離を縮めることが重要であるとすれば、思いやりや優しさこそが、最も重要な能力であるかもしれない。 逆に、大学病院などで高度に専門的な医療に従事するならば、思いやりも重要ではあるが、それ以上に、医学を基礎から臨床まで幅広く適切に修得していることが求められよう。 結果として、某病院の某部長が言うように、 小規模病院や開業医には、思いやりがあって優しいが診療能力は「それなり」の医師が多く、 大規模病院では、人格にいささかの問題があっても診療能力の高い医師が多く、なるのであろう。

地域に密着して医療を提供する医師も、大病院で高度に専門的な医療を提供する医師も、どちらも社会にとっては必要である。 たとえば愛知医科大学の場合、 医学部の理念として 「新時代の医学知識,技術を身につけた,地域社会に奉仕できるヒューマニズムに徹した医師及び医学指導者の養成を目的とする」ことを掲げており、 どちらかといえば前者の、地域に密着した医師の養成を主目的としているものと考えられる。 これに対し我が名古屋大学医学部では、 パンフレットの中で、 「名古屋大学医学部の理念」の筆頭に「人類の健康の増進に寄与する先端的医学研究を進め、新たな医療技術を創成する」ことを挙げている。 どちらが優れているというものではないが、愛知医科大学と名古屋大学医学部では、その理念が大きく異なるのである。

2015/02/15 語句修正

2015/02/07 細胞診

細胞診とは、患者の病変に細い針などを刺して細胞を採取し、それを顕微鏡で観察することにより、いかなる疾患であるかを診断するものをいう。 組織診との違いは、針が非常に細いために、病変の組織構造を保ったまま検体を採取することができない点である。 組織診より診断の精度は落ちるが、患者への侵襲は比較的軽い。 細胞診は、乳腺腫瘍や、甲状腺腫瘍、子宮頸部腫瘍の診断や検診目的で行われることが多い。 細胞診と組織診を総称して、病理診断という。

さて、多くの病院では、細胞診の際、まず細胞検査士が検体を調べて、明らかに正常なものについては、そのまま正常と診断されるらしい。 細胞検査士が、異常、または異常の疑いがあると判断したもののみを病理医が調べ、正常か否かを判断するという。 ここで、医師法との兼ね合いが問題となる。

以前は、病理診断が医行為にあたるかどうかは、曖昧にされていた。 すなわち、医師でない者が病理診断を行って良いかどうかは、明確にされていなかったのである。 しかし平成元年に、厚生省により「病理学的所見に基づいて『診断する行為』は医行為にあたる」という趣旨の判断が示された。 これ以後は、病理診断は医師が行わなければならない、と考えられるようになったのである。 この理屈からいえば、「形態学的異常がない」という所見に基づいて「異常なし」という診断を行うことは、医行為にあたる。 従って、細胞検査士のみの判断により「正常である」と判断することは、医師法違反にあたる、ということになる。

一応、「細胞検査士は『形態学的異常を認めない』という所見のみを臨床医に報告しているのであって、『異常がない』という診断を伝えているわけではない。 あくまで臨床医が、細胞検査士の所見に基づいて『異常なし』と診断しているのである。」という弁明は、可能である。 しかし「形態学的異常がない」ことは「異常がない」ことと同義なのであるから、 「細胞検査士は所見を述べているだけであって、診断はしていない」という論理は、詭弁である。

私は、現状の細胞診のあり方が良くない、とは思わない。 熟練した細胞検査士は、少なくとも並の病理医よりは正確に細胞の性状を判断できるのだから、 明らかに正常なものを医師にみせずに「正常」と判断したからといって、それで誤診のリスクが生じるとは思われない。 私は、単に、制度の不備を問題にしているだけである。


2015/02/06 細胞異型と構造異型

病理診断の技術的な話である。対象読者としては、医学科三年生以上を想定している。

組織学的診断においては、細胞異型と構造異型とを総合的に判断して診断する。 異型とは「正常とは違う形態」という意味である。 すなわち、「細胞異型」とは「細胞の形態がおかしいこと」であり、「構造異型」とは「組織の構造がおかしいこと」である。 正常な組織に比べて、反応性の変化、良性腫瘍、悪性腫瘍、の順で、細胞異型や構造異型が強くなっていくのが普通である。 反応性の変化とは、外部からの刺激による変化であって腫瘍性の変化でないものをいい、多くは炎症によるものであり、過形成を伴うことが多い。

さて、私は先日、病理診断の勉強をしていて、結腸腫瘍の診断に迷った。 隆起性の病変であって、細胞異型は軽度であり、核は腫大し明調であるが細胞の極性はよく保たれている。 しかし腫瘍細胞は分枝が多く不整な腺管を形成しつつ増生しており、一部に篩状構造にもみえる腺管があった。 これを「高異型度の腺腫」とみるか、それとも「高分化型腺癌」とみるか、という問題である。 つまり、組織構造だけをみれば、高度の構造異型があることから、腺癌と考えられる。 一方で、細胞の形態だけをみれば、極性は保たれていることから、良性腫瘍、すなわち腺腫に思われる。

私は、組織構造を重視して「高分化型腺癌」と診断した。 だが指導医は「これは難しいところであって、癌という診断もあり得るが、私なら腺腫と診断する。」と述べた。 極性が非常によく保たれていることから、癌とみるのは抵抗がある、とのことである。

私は、その場ではフゥム、と唸ったばかりであったが、後でじっくり考えた結果、指導医の意見に全面的に同意した。 構造異型を重視するという立場の根拠は、構造異型は細胞レベルの異常をよく反映する、という考えにある。 それならば、細胞が明確な極性を保っている以上、「篩状構造にもみえる腺管」は単に腺管の分岐部が、たまたま、そのようにみえたものと解釈するべきであろう。 篩状構造は、細胞極性が失われない限りは、形成され得ないからである。 何より、腫瘍が浸潤するためには、細胞接着を失い、原発巣から離れて遊走する必要がある。 細胞が明確な極性を保ちながら、そのような遊走能を獲得すると考えるのは無理がある。 従って、本当に明確な細胞極性が保たれているならば、構造異型がどうであろうと、腺癌ではなく腺腫とみるべきであろう。


2015/02/05 空飛ぶ病理医

顕微鏡で標本を観察するのは、実に、楽しいものである。 低倍率で標本の概略を眺めるのは、ちょうど、高空を飛ぶ飛行機の窓から、遥か地上に広がる田園風景を一望するようなものであり、爽快である。 この飛行機を操縦するのは自分自身であるから、気になる構造物を地上にみつければ、対物レンズを高倍に切り換えることで、対象によく接近して観察することができる。 自在に飛びまわるのは楽しいものであるから、のんびり気ままに観察していると、一枚のプレパラートを眺めるだけで 30 分ないし一時間は、ゆうに過ぎてしまう。 もちろん業務として病理診断を行う場合には、そのような時間をかけるわけにはいかないであろうが、学生のうちは、ゆっくりと遊覧飛行する贅沢も許されよう。

時として、病理診断はパターン認識である、などと言われることがある。 組織像のパターンから病名を言い当てるのが病理診断である、というのである。 この意見に従えば、地上の風景をみて、地名を言い当てるのが病理医だ、ということになる。 しかし私は、その意見には賛同しない。 「病理」とは「病の理」という意味である。患者をみて、組織をみて、疾患の成り立ちを詳らかにするのが病理診断である。 地名を当てることも重要ではあるが、「なぜ、そのような地形になったのか」「地上では今、何が行われているのか」といったことまで見通して、 はじめて病理診断を行ったといえよう。これは、単なるパターン認識で実現できるものではない。

病理医は、普通、組織を診るときには低倍率での所見を重視する。 この話を初めて聴いたとき、私は、釈然としなかった。 細胞レベルで詳細な観察をしてこそ、組織学的診断の真価が発揮されるのではないのか。 低倍率でも診断はできるかもしれないが、詳細な観察を省略するのは怠慢ではないのか。 そのように、思ったのである。

少しだけ病理診断の勉強をして、少しだけ組織を診られるようになって、ようやく、病理医が低倍率の所見を重視することの意味が理解できてきた。 要するに、高倍率でみても、わからないのである。 細胞レベルの異型は、ちょっとした炎症でも、しばしば生じる。 また、悪性腫瘍と良性腫瘍では、細胞異型の程度は、必ずしも明瞭には違わないのである。 細胞をいくらみても、確信を持って良性と悪性を鑑別できないし、これこそが、組織診が細胞診よりも信頼される所以なのである。

よくよく考えてみれば、疾患、特に腫瘍性病変による組織構造の変化、すなわち低倍率での所見も、細胞レベルの変化が蓄積して表現されたものである。 一個一個の細胞レベルの僅かな相違を高倍率で観察するよりも、それらの相違の蓄積である構造異型を低倍率でみた方がわかりやすいのは、当然といえば当然である。 従って、一部の学生が病理学や組織学の試験対策として、標本の肉眼ないし低倍率での所見をひたすら記憶する、 いわゆる「マクロアタック」を行うことは、完全に不適切であるとまではいえない。 だが、これはあくまで、診断に限定した場合の話である。 現場で一体何を起こっているのか、という病の理を知ろうと思うならば、高倍率での所見も非常に重要であることは、言うまでもない。


2015/02/04 不必要な被曝

昨日の記事で不必要な被曝、と書いて、思い出したことがある。 一部の若手医師などの中には、放射線防護の意識が欠如している者がいるように思われる。

胸部 X 線画像や CT などの放射線を用いる検査は、多少とはいえ、侵襲的である、という事実を、理解していない者がいるように思われる。 これらの検査による吸収線量は、それほど高くはないから、これらの検査により癌などを来すことは、稀である。 従って、診療に必要であると考えられる限りにおいては、これらの検査を忌避することは、基本的には、推奨されない。 もちろん、妊娠中の場合は胎児に比較的大きなリスクが生じるから、例外である。

しかし理論上、こうした検査が癌などを生じせしめ、結果として患者の命を奪う事例は、稀ではあるが、存在する。 ただし患者も医師も、検査が発癌の原因であったとは、最後まで知ることがない。 また、検査中も患者は痛みを感じないし、特に侵襲的であるという印象は受けないであろう。 それでも、稀に患者の命を奪う、という意味においては、注射などよりも、よほど侵襲的な医療行為なのである。

以前、某病院において X 線による透視下の診療行為を見学していた際に、驚いたことがある。 画面上に、検者の手が、写っていたのである。 要するに、X 線が、検者、すなわち病院スタッフの手に、当たっていたのである。 これは、検者の手の位置が悪かったのか、それとも放射線照射のタイミングが悪かったのか、とにかく、不適切な被曝である。

実習を終えて帰る際、アンケートへの回答で、私は上述の事例に言及し、放射線防護上の問題があるように思われる、と指摘しておいた。 その後に改善がなされたものと信じている。


2015/02/03 『軍医が見た戦艦大和』と『臨床検査法提要』

以前、ある同級生から勧められて『軍医が見た戦艦大和』という書籍を購入したのだが、読まぬまま書棚の肥やしになっていた。 昨日から、実習のために名古屋市内の某病院まで電車で通っているので、その通学時間に、これを読んでいる。 著者である名古屋大学名誉教授の祖父江逸郎氏は神経内科医である。 この書物は、彼が戦艦「大和」の軍医を勤めた経験などの回顧録である。 格調高さよりも平易な読み易さを重視した文体であるが、品の良い日本語である、との印象を受けた。 京都帝国大学の前川孫二郎博士もそうであったが、昔の内科学教授は、こうした美しい文章を書く人が多かったのだろうか。 現代の教授がどうであるかは、よく知らない。

一部マスコミなどで「右傾化」が騒がれる昨今であるから、この書名をみれば「軍国主義を美化する」云々と眉を顰める人もいるかもしれない。 しかし内容的には、政治的なメッセージはほとんどなく、軍艦という特殊な環境における医療、医学に関する内容に終始している。 医学教育のあり方については、いささか懐古主義に偏った記述があるように思われるが、読んでいて憤りを感じるほどのものではない。

しかし一点だけ、とても容認できない記述があった。 78 ページから 79 ページにかけて、「放射能」という語の使い方が、物理学的に、また放射線医学的に、誤っている。 たとえば「原発事故による放射能被害」とあるが、「放射能被害」とは何なのか、よくわからない。 たぶん「放射性物質が放出されたことにより、不必要に被曝したこと」をいっているのであろうが、それならば「放射能」は関係ない。 正しくは「原発事故による放射線被曝」などとするべきである。 言葉を正しく使う、ということは、科学者としての基本である。 祖父江氏は優れた医学者であったと聞くから、その彼が、このように無頓着で、無責任なマスコミに倣ったかのような「放射能」という語を用いていることは、遺憾である。

「放射能」という語自体は、物理学用語として存在する。しかし、その定義、あるいは概念について正しく理解している者は、物理学の専門家を除いては、多くないようである。 しばしば「放射性物質」の意味で「放射能」という語が使われるようであるが、これは誤用である。 ある物体の「放射能」とは、その物体の構成原子が単位時間あたりに来す放射性壊変の回数をいう。 放射線が物体に与える影響の程度は、同じ数の放射線であっても、そのエネルギーの大小などによって大きく変わる。 従って、人体などへの影響を議論する際には、放射能の高低にはほとんど意味がなく、放射線量で議論する必要がある。 私が工学部にいた頃、某准教授は「『放射能』という語は、『放射能測定』という表現以外では、まず使う機会がない」と述べた。 放射線の専門家である准教授ですら、そうなのだから、一般人が「放射能」という語を使う場合には、まず間違いなく誤用である。

言葉を正確に使うことは、まず第一に、情報を正確に伝達するために重要である。 「伝われば良いのだ」と弁明する者がいるが、不正確な言葉遣いをした場合、実は言語によって情報を伝えているのではなく、 相手の想像力や常識によって情報が補われているに過ぎない。 従って、可能な限り、正確な言葉遣いを心掛けることが、正確な情報伝達のために望ましい。 それ以上に重要な問題として、曖昧で不正確な言葉遣いをしている者は、しっかりとした論理的思考をしていないのではないか。 「放射能」という語を誤って用いている者は、実際には放射能とは何かを理解していないにもかかわらず、 知ったかぶって、自分でもよく理解していない内容を話しているものと推定される。

なお、同書の 112 ページでは『臨床検査法提要』に言及されていて、驚いた。 これは私も愛用している書物であるが、各種臨床検査の測定手法の解説書である。 祖父江氏らは、軍医学校時代に、これの「エッセンスだけやった」とのことである。 私は以前、主たる読者は臨床検査技師であろう、というようなことを書いてしまったが、 実はその後、某小児科医院の医師がこれを愛用しているのをみたことがある。 祖父江氏の記述も併せて考えると、どうやら、キチンとした医師にとっては、この書などを通じて臨床検査法を勉強することは、当然であるらしい。


2015/01/27 清潔と不潔

臨床医学的には、「清潔」とは「滅菌されている」という意味である。「滅菌」とは、「病原体が悉く死滅あるいは不活化されている状態」をいう。 滅菌するには、高温高圧の蒸気で処理したり、放射線照射したりすることが多い。 これに対し「不潔」とは「滅菌されていない」という意味である。 また、一度滅菌したものであっても、不潔なものに触れれば不潔になる、と考える。 たとえば、石鹸でよく洗った手は、滅菌されたわけではないから、不潔である。 よく加熱した牛肉も、クロストリジウムなどの芽胞は不活化されていないことがあるから、不潔である。

このように、清潔、不潔の概念は臨床医学と日常生活で大きく乖離しているから、時に、あらぬ誤解を招くことがある。 たとえば、病室で患者に何らかの処置をする際に、「不潔なガーゼで良い」などという指示がなされることがある。 このような言葉を聞いた患者は、驚くかもしれない。 従って、患者の前では「滅菌していないガーゼで良い」などと言った方がよろしいのではないかと思う。

手術室においては、青いカバーは「清潔」の意味であるから、不潔な手などで触れてはならないとされている。 ところが私は、臨床実習にあたり、そのような「常識」を特に教えられなかった。 「教えられなくても、そのくらいはわかるはずである」と言わんばかりであるが、教えられなければ、わかるはずがない。 幸い、私は某所で独自に学んでいたために、これについて重大な失敗はしなかったが、教育体制に、いささかの問題があるように思われる。

さて、手術を行う際には、術野は清潔に保つのが原則である。 術者は清潔なガウンを装着し、手をキレイに洗った上で清潔な手袋を着用する。 この際、ガウンの前面や手袋を清潔に保たなければならない。 従って、たとえば手袋を着用する際にも、不潔である手の触れた部分は不潔になるのだから、外面に手を触れないように気をつけて着用しなければならない。 また、ガウンの背面は気づかぬうちに不潔なものに触れているかもしれないから、不潔であるものとみなす。 さらに、ガウンの袖の部分は清潔であるが、首から上は当然に不潔であるから、上肢を大きく挙上する動作は、よろしくないとされる。

ところが、外科医の間では、こうした清潔、不潔の原則が必ずしも守られていないようである。 たとえば、こうした手袋は、外袋の中に、さらに紙で包まれた状態で入っており、この紙は滅菌されている。 これを、ふつうは滅菌された台の上に置いてから、手袋を取り出すのだが、素手で直接、紙包みを持ってはならない。 なぜならば、手は不潔なのだから、それで持った紙包みは不潔になり、それを置いた台も不潔になってしまうからである。 それにもかかわらず、無造作に素手で紙包みを持つ医師は少なくない。 さらに、滅菌手袋を着用する際に、手袋の外面を素手で掴む医師も、珍しくない。 極めて稀に「正しく洗った手は清潔である」と主張する医師がいるが、これは、さすがに少数派である。

実際には、ここまで細かく気にしなくても、患者の感染リスクには大差ないのかもしれない。 だが、清潔操作が可能であり、教本にもそう記されているにもかかわらず、敢えて不潔な操作をするならば、その不潔操作を正当化するだけの合理的根拠が必要である。

2015/02/14 語句修正

2015/01/22 第 Xa 因子阻害剤の補足

1 月 20 日に第 Xa 因子阻害剤について記したが、いささか、説明不足であった。 その不足分についての補足を行うが、必要に応じて、教科書に記載されている凝固カスケードの図を確認しながら読むことをお勧めする。

もし血液凝固カスケードが、フィードバックを含まない一方向のみの単純な連鎖反応であったならば、結局、 トロンビン活性と組織因子活性との比は、臓器によらず一定になるであろう。 この場合、ワルファリンもリバーロキサバンも、全ての臓器に等しく作用するのであって、後者の使用が副作用を軽減することはないであろう。

しかし実際の血液凝固カスケードにおいては、複数のフィードバック系が含まれる。 特に正のフィードバックとして、トロンビンは第 VIII 因子および第 V 因子を活性化する。 第 VIIIa 因子は、第 IXa 因子の補因子であり、第 X 因子を活性化する。 また、第 Va 因子は第 Xa 因子の補因子であり、プロトロンビンを活性化する。

従って、第 Xa 因子以降のみを抑制するリバーロキサバンの場合、脳では組織因子による第 X 因子の活性化が相対的に亢進することにより 凝固抑制効果が比較的低くなり、副作用としての大出血を来しにくい。


2015/01/21 根拠のない診断の続き

話の本筋に関係ないので割愛したが、しかし誤解があるといけないので、一応、書いておく。 1 月 19 日の記事の続きである。 ただし、具体的な診断名を挙げることには、いささかの問題があるため、伏せる。

先の「△△炎」という診断を行ったのは、担当医である、若手の医師であった。 私は、他の学生と共に、身体診察所見やカルテをよく検討した上で、「少なくとも△△炎ではない」との結論を得た上で、 「たぶん、□□障害であろう」との考察を、レポートに記した。

さて、その後、上級医による回診が行われた。 場合によっては、「学生らしい意見」を具申しようとは思っていた。 しかし上級医は、診察するや否や、担当医に対し「△△炎とは考えにくい。□□障害であろう。」と述べた。 我々の診断と、完全に一致していたのである。

このように、まともな病院であれば、若手医師が誤診しても、キチンと上級医がフォローできる体制が整えられているのである。


2015/01/20 第 Xa 因子阻害剤

1 月 22 日の記事も参照されたし。

詳細な機序は不明であるが、慢性心房細動を有する患者では、心房内で血栓が生じやすいらしい。 この血栓が血流にのって運ばれ、全身で塞栓症を来し、特に脳梗塞を生じることがある。 そこで、血栓形成を予防する目的で、抗凝固薬または抗血小板薬が投与されることが多い。

抗凝固薬とは、いわゆる血液凝固カスケードの一部を阻害する薬剤である。 これに対し抗血小板薬とは、血小板の活性化を抑制する薬剤である。 動脈血栓症は動脈硬化が関係していることが多く、この場合、異常な血管壁が血小板の不適切な活性化を来し、血栓を形成する。 このため、動脈血栓症の予防には抗血小板薬、たとえばアスピリンが有効である。 これに対し静脈血栓症は、『ハリソン内科学』第 4 版によれば主として組織因子への過剰な曝露によって凝固亢進状態となって生じるらしい。 すなわち、こちらは血小板があまり関与しないため、抗血小板薬は著効しない。 心房細動による血栓症は、機序としては動脈血栓症よりは静脈血栓症に近いらしく、 抗血小板薬よりも抗凝固薬の方が著効するとされている。

伝統的には、抗凝固薬としてはワルファリンが用いられてきた。 これは第 II, VII, IX, X 因子の翻訳後修飾を阻害する薬剤である。 具体的にはビタミン K 依存的なカルボキシル化を阻害するものであり、正常な凝固因子ではなく 機能を有さない PIVKA (Protein Induced by Vitamine K Absence) が産生されるようになる。 これに対し、リバーロキサバンは選択的な第 Xa 因子阻害薬である。 これは活性化した第 X 因子を競合阻害することで、プロトロンビンの活性化を抑制する。 その他の凝固因子にはほとんど作用せず、また凝固因子の産生自体は抑制しない。 こうした作用機序は、PMDAのサイトで閲覧できる薬剤の添付文書に記されている。 ただし、時に、添付文書の記載は根拠論文の不適切な要約になっていることがあるから、時間が許すならば、簡単にで構わないから、 添付文書に参考文献として挙げられている元論文に目を通した方が良い。

さて、ワルファリンは、脳梗塞などの塞栓症を抑制する一方で、副作用として脳出血のリスクを高めるという恐ろしい薬剤である。 なぜワルファリンが脳出血を誘発するのかは、いまいちよくわからない。 たぶん、血管の微小な破綻は日常的に起こっているのだが、通常は血液凝固により直ちに修復され、ほとんど出血していないのだと考えられる。 しかしワルファリンが大量投与されて凝固能が低下していると、微小な破綻が拡大し、大出血に至るのであろう。

リバーロキサバンは、ワルファリンに比べて、脳出血の副作用が少ないといわれている。 その機序について、不思議には思いつつも、よく調べずにいたのだが、先日、某製薬会社の人物が、次のようなことを言っていた。 脳は比較的、組織因子が豊富な器官である。 リバーロキサバンは組織因子を阻害しないために、ワルファリンとは異なり組織因子依存的な止血機構が作用するものと考えられる。 この説明は論理が非常に飛躍しているため、これで納得する人は、とてもよく勉強していて洞察力が高いか、さもなくば批判的精神が不足している。 そこで飛躍部分を私の言葉で補うと、次のようになる。

組織因子、すなわち第 III 因子は、第 VII 因子を活性化する。 血液凝固能は、凝固カスケードの各段階が相乗的に作用した全体として定まるのであるが、 組織因子が豊富な脳では、その他の器官に比して、第 VII 因子の活性化の寄与が比較的大きいものと考えられる。 従って、プロトロンビン時間 (PT) が同程度になるように投与した場合、 第 X 因子だけでなく第 VII 因子の翻訳後修飾も阻害するワルファリンは、リバーロキサバンに比して相対的に、脳における血液凝固能を強く抑制することになる。 このため、血栓症予防効果が同程度になる量を投与するならば、リバーロキサバンはワルファリンに比して、脳出血のリスクが低くなる。


2015/01/19 根拠のない診断

2015/01/21 の記事も参照されたし。

「フラジャイル」という、病理診断や臨床検査を扱う漫画がある。 基本的には、臨床医が誤診しかけたところを、病理医が適切な指摘により正しい診断に導く、という内容のようである。 第 1 話は、「腰椎椎間板症」と診断された患者が、実は……という話である。

作中では敢えて指摘されていないが、基本的に「○○症」という語は、診断名としては本来は不適切であることが多い。 というのも、「○○症」という語は、○○が解剖学的部位の名称である場合には 「よくわからないが、○○がおかしい。たぶん腫瘍ではない。」というぐらいの意味であり、疾患名ではないからである。 たとえば乳癌検診などで「乳腺症」といわれたら、それは「乳房に腫瘤はあるが、乳癌ではない。」というぐらいの意味である。 多くの場合は、病理学的に「繊維嚢胞性変化」と呼ばれるものであり、疾患名としては、こちらが正しい。 同様に「腰椎椎間板症」といえば、医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば 「広義には, 椎間板の変性を病因とする疾患の総称名」であり、狭義には「椎間板ヘルニア, シュモール軟骨結節, すべり症や変形性脊椎症」を除外したものをいう。 要するに「腰椎のあたりがおかしいが、原因は不明」という意味であるから、診断名としては非常に曖昧で、よろしくない。

さて、作中では神経内科医が「単に腰が痛いから椎間板症」という、全く理屈の通らない診断を行い、 「外傷や脳の異常がない以上は疑いは強い」としている。 主人公である岸の「発熱や悪心はどう説明する?」という指摘には「薬で抑えられていますから」と答えている。 そこで岸が「それ本気で言ってんの?」と噛みつくところから、論争が始まる。

あまり具体的なことは書けないのだが、私自身、某病院で実習を受けた際に、似たような、筋の通らない診断をみたことがある。 「△△炎」と診断された患者であるが、△△炎としては症状が非典型的で、合理的に説明することが困難である、というよりも不可能であるし、 MRI その他の検査においても、△△の炎症を示唆する明らかな所見はない。 それでも、他に疑わしい疾患がないから、という理由で△△炎と診断されたのである。 ここで「他に疑わしい疾患がない」というのが、本当に、医学的吟味を尽くしたのか、という点に、大いに疑問があった。

さて、先の「フラジャイル」の椎間板症のくだりを読んだ医師の多くは、「確かに、この神経内科医の診断は無茶苦茶である」と思うかもしれない。 しかし、忙しい日々の診療の中では、ついつい、同様の「手抜き診断」を行ってしまうことが、あるのではないか。

2015.01.10 一部修正

2015/01/14 謝恩会

もうすぐ、卒業式の季節である。 一部の大学では、卒業式に前後して謝恩会が催されることがある。 これは、ふつう、学生が主催する、教員への感謝の気持ちを表すための会合である。 我が名古屋大学医学部医学科においても、伝統的に謝恩会が開催されているという。

謝恩会は、その趣旨から考えて、あくまで学生が自主的、自発的に催すものでなければなるまい。 「毎年、開いているから」とか「そういうものだから」という考えで、無批判に行っては、かえって失礼にあたる。 また、その内容も、自分達の感謝の念を表すに適切な形式を採るべきであって、「例年、そうしているから」と、過去の例をいたずらに踏襲するのも、やはり非礼である。

しかし現状を鑑みるに、ひょっとすると名大医学科の謝恩会は、単に伝統だからという理由で、消極的に開催されているのかもしれない。 我々は 17 の班に分かれて臨床実習を行っているのであるが、先日、各班から一名「謝恩会委員」を選出されたし、という指令がどこからともなく発され、委員会が結成された。 少なくとも私が把握している限りでは、謝恩会を開くかどうかの議論すら学年内でなされていないし、委員会の意向次第では、 主催を「卒業生一同」とするのか「卒業生有志」とするのか、ということすら議論されないかもしれない。 また、例年の謝恩会では、学生に人気のあった教員を、いくつかの部門について「表彰する」というような催しがあるらしいのだが、 これは、少なくとも形式的には非礼であり、むやみに倣うべきものではあるまい。

謝恩会は、あくまで自発的な気持ちの表現として開かれるのだから、特に教員に対して感謝の念を抱いていない学生は、参加するべきではない。 感謝をしていないとしても、それは学生側の人格の問題ではなく、少なくとも半分は大学側の教育体制の問題なのであるから、恥じる必要はない。 むしろ、ずさんな教育を行ってきた名古屋大学医学科当局への批判の気持ちを持って、堂々と、欠席するべきである。 私も、もし例年通りの謝恩会が無批判に開催されるならば、当日は多忙などと称して欠席する所存である。 また、そのような学生が一人でもいるならば、その意向を尊重し、主催は「卒業生一同」ではなく「卒業生有志」とするべきである。

私が以前、工学部を卒業した際には、卒業式は欠席したし、謝恩会も、開かれたのかもしれないが出席しなかった。開かれなかったのかもしれない。知らぬ。 しかし来年は、卒業にあたり特に感謝の言葉を述べたい相手が、何人か、いる。 もちろん、直接、研究室に伺って挨拶しても良いのだが、同様に研究室を訪問する学生が多いとすれば、先方にとっては、いささか煩わしいかもしれない。 そこで、そうした挨拶をするための場として、謝恩会という形で教員と学生の有志が一同に会することは、合理的である。 そうした趣旨であるということを踏まえ、それにふさわしい謝恩会が開かれることを、切に望む。


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