この違和感を、私は、うまく表現することができないので、主張のはっきりしない記事になることを、ご容赦いただきたい。
「大学というのは、自ら学ぶ場であって、教えてもらう場ではない」と、世間では言われる。 その意味において、医学科、少なくとも名古屋大学医学部の医学科は、大学とは、言えぬ。 卒業生のほぼ全員が初期臨床研修を受け医師になる、という現状に対し、これを異常と思わぬ、その精神こそが異常である。後藤新平が泣いているのではないか。 しかし、この惨憺たる現状の責任を、誰に問えば良いのかは、わからない。
同級生の中で、私ほど名古屋大学に対する愛校心の強い者もいないであろう。 私は、三年生の頃は、名大病院で初期臨床研修を受けるつもりであった。 医師としての最初の職場に、愛する母校を選ぶというのは、自然な心理であろう。 しかし四年生になり、臨床科目の講義などを受けるうちに、少しずつ心は変わりはじめ、五年生になる頃には、初期研修は北陸医大 (仮称) で、と決意するに至った。
私が医学部編入すると決めた時、半ば冗談であるとは思うが、周囲から「お前が医者になるのか」というようなことを、言われた。 もちろん「人格的に不適なのではないか」という意味である。 私自身、自分が医師向きの人間であるなどとは、思っていなかった。 しかし、やがて、この考えは完全に変わった。「私の方が、それでも、はるかにマシである」と確信したのである。
医師の道義的責任というものを、わかっていないのではないか。 言葉の上では「命を預かる」だの「健康と生活を守る」だのと言っているが、その重みを、本当に認識しているのか。 わかった上で、あのような態度で医学に臨み、そのような姿勢で診療を行っているのか。
これは、「指針」という名称からわかるように、教科書というよりはガイドラインに近いものであって、 通読して勉強するというよりも、診察室に持ち込んで辞書のように使う方が適切な書物であるように思われる。 総論部分には理論的な記載があり、たとえば胸骨圧迫の理論的根拠などは面白いのだが、 各論は概ね手技や基準値を列挙したような内容である。 手技については、手順や注意点などを詳細に記載しているため、臨床的なマニュアルとしては役に立つと思われる。
章ごとの分担執筆のため、記載内容のばらつきが大きいように思われる。 特に、参考文献について、信頼できると文献を列挙している章がある一方、 学生や研修医向けのアンチョコ本を挙げたり、また、この『救急診療指針』の前版 (改訂第 3 版) を挙げたりしている章も少なくない。 さらに、章によっては、検査や診断について、いささか古いのではないかと思われる部分もあった。
臨床の用に供するマニュアル本としては良いだろうが、学生が通読する目的の教科書としては、推奨しない。
過日、へるす出版『救急診療指針』改訂第 4 版を眺めていて、おや、と思ったことがある。 「眺めていて」というのは、「読んでいて」といえるほど丁寧に、気合を入れて著者と向き合ってはいなかった、という意味である。
同書の 372 ページに「AMI の新定義: 心筋障害マーカーである心筋トロポニン値が上昇した場合を AMI とする定義に改訂された。」とある。 AMI とは、急性心筋梗塞 (Acute Myocardial Infarction) のことである。 この「心筋障害」が「心筋傷害」の誤りであろう、ということはさておき、この定義はおかしい、と私は思った。 心筋トロポニン、特に臨床的に重視されるトロポニン T は、筋原繊維のみでなく、心筋の細胞質にも存在する。 金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、急性心筋梗塞においては虚血早期に細胞質から可溶性トロポニン T が流出し、 4-5 日経ってから筋原繊維由来の不溶性トロポニン T が流出するという。 前者の可溶性トロポニン T は、心筋が壊死には至らない、すなわち病理学的に心筋梗塞には至っていない程度の虚血においても流出すると考えられるから、 血中トロポニン T 濃度の上昇を伴う不安定狭心症は存在するはずである、と考えたのである。
そこで、この「定義」を主張している元の文献が何なのかと探ってみたところ、 `Third Universal Definition of Myocardial Infarction' (Circulation, 126, 2020-2035 (2012).) に、たどりついた。 厳密にいえば、「救急診療指針」は、この文献より古いので、同書の記載の根拠は別の文献であろうが、そのあたりは枝葉末節であろう。 `Third Universal Definition' は、それなりに長い報告なので全部を読んではいないが、定義については、次のように記載されている。
The term acute myocardial infarction (MI) should be used when there is evidece of myocardial necrosis in a clinical setting consistent with acute myocardial ischemia. Under these conditions any one of the following criteria meets the diagnosis for MI:
私が訳すと、次のようになる。
急性心筋梗塞という語は、心筋虚血が存在すると考えられる臨床的な状況において、心筋壊死が認められた場合に用いられるべきである。 この観点から、以下の基準のいずれかに合致する場合には急性心筋梗塞と診断できる。
99 パーセンタイル基準値上限、というのは「健常人のうち 99 % は、血中トロポニン T の濃度がこの値以下である」というような基準値のことである。 つまり、健常人であっても 1 % の人は、この値を超えているわけである。 換言すれば、この診断基準は、実は心筋梗塞ではなく不安定狭心症であるような患者について、1 % 程度は急性心筋梗塞と誤診しても仕方ない、と考えていることになる。 心筋梗塞を見逃すリスクの方が、この誤診よりも重大であるという判断であろう。 さらにいえば、この診断基準では血中トロポニン T 濃度の「高値」を問題しているのであって、「上昇」ではない。 「上昇」というのは、同じ人の過去の検査値と比較した場合の話であるから、両者は区別を要する。 もちろん、血中トロポニン濃度が基準値上限未満であっても、濃度上昇があるならば、心筋傷害を疑うのは合理的である。 実際には、臨床医の中には「高値」のことを「上昇」などと表現する者も多いが、たぶん、彼らは臨床検査医学に疎いのであろう。
また、この `Third Universal Definition' では、トロポニンは、あくまで診断基準として記載しているのであって、定義ではない。 日本の救急医療関係者には診断基準と定義を区別しない人が少なくないらしく、 日本版敗血症診療ガイドラインにおいても、 全身性炎症反応症候群 (Systemic Inflammatory Response Syndrome; SIRS) や敗血症の診断基準を「定義」と表現している。 しかし本来、「定義」とは「必要十分条件」と同義である。 「急性心筋梗塞の定義」を満足しない急性心筋梗塞は一例として存在せず、また「急性心筋梗塞の定義」を満足する患者は例外なく急性心筋梗塞である。 このあたりの言葉の用法に注意が必要である。
臨床医療において、しばしば定義を曖昧にしたまま用いられる言葉に「確率」がある。 少なからぬ学生は「定義なんか曖昧でも、意味さえ通じて実用に足るならば、それで十分ではないか」と主張するであろう。 その意見は正しいかもしれないが、問題は、実際には意味が通じていない、ということである。 たぶん、Wikipediaの確率の項に記載されている説明が、 多くの人の理解している「確率」の意味であろう。しかし、この説明は「確率」という語を別の語に置き換えているだけで、何の説明にもなっていない。 確率論の項に記載されている説明は正しいが、この説明を理解できる人は少ないであろう。 「確率」の問題については、この日記でも過去に何度か書いたが、結局、うまく説明できていないので、再度、説明を試みる次第である。
たとえば、「ステージ IV の乳癌患者が、その五年後に生きている確率は 34 % である」という記載があったとする。 これは、正確には「ステージ IV の乳癌と診断された患者のうち、その五年後に生きている者の割合は 34 % である」という意味であろう。 「確率」という語の不正確な用法であるとはいえ、述べている内容自体は客観的事実であり、問題ない。
では、ステージ IV と診断された患者に対し「あなたが五年後まで生きていられる確率は 34 % です」と説明するのは、どうか。 世俗的な「確率」という言葉の理解は、「ある試行を何度も反復した時、その結果が生じる頻度」というようなものであろう。 しかし、「その患者が五年後まで生存できるかどうか」という試行は、二度と反復することができない。ここでいう「確率」とは、一体、何なのか。 次のように説明する学生がいるだろう。「同じような患者をたくさん集めて統計をとった時に、五年後まで生存している者の割合のことである。」 なるほど。それでは、何をもって「同じような患者」と言うのだろうか。 これには、次のように答えるだろう。「同じステージ IV であるならば、同じような患者とみなして良いだろう。」 つまり、彼らの説明によれば、「あなたが五年後まで生きていられる確率は 34 % です」という表現は 「あなたと同じ病期の患者のうち五年後まで生きている者は 34 % です」という意味であるらしい。
彼らの説明がおかしい、ということは、容易に示すことができる。 乳癌の「IV 期」というのは、「遠隔転移がある」というのが定義である。 つまり、小さな肺転移が一つだけある患者も、脳転移や肺転移、骨転移が多発している患者も、同じ IV 期なのである。 IV 期の患者の五年生存率が 34 % というのは、前者のような、五年後の生存を比較的、期待できる IV 期の患者と、 後者のような、五年間の生存は厳しいと考えざるを得ない患者などを、全て平均した結果である。 後者の患者に対し「あなたが五年後まで生きていられる確率は 34 % です」と説明するのは、常識的に考えて、無茶苦茶である。
何を言いたいかというと、こういう問題について、確率などというものは定義できない、ということである。 正確にいえば、確率の定義は任意であるから議論する意味がない、ということである。 世の中において、確率で議論することに意味があるのは、モンテカルロ法によるシミュレーションか、量子力学ぐらいであろう。
患者や家族に「確率」について説明を求められた場合には、「ステージ IV の患者さんは云々」と説明した上で、 「予後は個人の抵抗力などによって様々なので、確率を用いて予測することは難しい」とするべきである。
昨日、医師臨床研修マッチングの中間発表が行われた。 臨床研修というのは、医師の卒後教育の一つであって、診療業務に携わる前に受けることが義務付けられている。 研修病院として認められている病院であれば、どの病院で研修を受けても良い。 大半の研修病院は医師臨床研修マッチング協議会が実施している「マッチング」制度を利用して研修医を採用している。 このマッチングでは、病院と研修希望者が、互いに希望順位リストを提出し、双方の希望が一致した順に組み合わせが決定していく。 通常、各病院は研修医採用試験を個別に行っており、その試験結果をふまえて、病院は「欲しい研修医リスト」を、 研修希望者は「研修したい病院リスト」を、それぞれ提出するのである。
中間発表では、各病院について、第一希望としてリストを提出した者の数が発表された。 最終締切の 10 月 8 日まで自由にリストは変更できるので、あくまで参考に、ということである。 ただし、中間発表の結果をみて希望順位リストの内容を変更することには、ほとんど意味がない。 たとえば 二人の希望者のうち一人だけ採用される、というような場合においては、第一志望としてリストを提出した者が優先される、というようなことはなく、 あくまで病院側が提出したリストで上位にある者が優先される。 従って、他の研修希望者の動向には関係なく、自分が希望する順位を正直に提出するのが良い。
それにもかかわらず中間発表を行っているのは、単に参加者からの要望が多いから、というだけのことであろう。 このマッチングは、一種の就職活動ではあるが、研修医の定員は医師免許新規取得者よりもかなり多い、いわゆる売り手市場の状態である。 従って、世間一般の就職活動で時にみられる必死さ、悲壮さはなく、いわば、お祭り騒ぎである。 中間発表も、経過をみてワイワイ楽しもう、という程度のものである。
ところで、このマッチングの規約には「参加者は、自己の作成する希望順位表の順位について、参加病院と話し合いをしないこと。」という条項がある。 従って、面接の際に希望順位について問われた際には、この条項を盾にして逃げることができる。 「貴院での研修にたいへん関心を持っていますが、希望順位について具体的に話すことは規約で禁じられておりますので……」とでも言えば良かろう。 ただし、話し合うのではなく一方的に宣言することは禁止されていない。 私の場合、北陸医大 (仮称) 附属病院の研修希望者懇親会において、 自己紹介の際に「研修先としては北陸医大以外、考えておりません」と宣言したが、これは規約違反ではなかろう。
その北陸医大附属病院であるが、定員に対し、中間発表時点で第一希望として提出した者の割合が 45 % 程度であった。 例年、定員割れであるとはいえ、50 % は超えるかと思っていたので、いささか残念である。 県内の某有名病院は第一希望者の方が定員よりも多くなっているので、そのあたりであぶれた人々が、第二志望として北陸医大に来るのであろう。
北陸の医学、医療に新しい風を吹き込むために、彼らと一緒に働ける日を楽しみにしている。
以前、おつかれさまという言葉について書いた。 それに類する挨拶として、電話口などで用いられる「お忙しいところ恐縮です」というような言葉がある。
たとえば学生が、ずっと目上の相手、たとえば教授なり病院の院長なりに対して電話する際に、 「たいへんお忙しいでしょうに、その中から貴重なお時間を頂戴いたしまして、まことに恐縮でございますが……」というような気持ちで使う挨拶である。 が、よくよく考えれば、「余計な配慮をすること自体が非礼」という意味で、これも「おつかれさま」に類する失礼な挨拶なのではないか。
たとえば相手が教授の場合であれば、学生を指導し、教育することは、教授にとって重要な職務である。 さらに、教授ともなれば優秀な人物なのだから、忙しい中でも適切にやりくりして、教育という重要な任務のための時間を割くことなど、朝飯前のはずである。 それを、忙しいだの、時間のやりくりが大変だのと、目下の者が配慮すること自体が、おこがましい。 緩衝目的で一語を挟むのであれば、短く「おそれいります」ぐらいの表現に留めるのが適切なのではないか。「お忙しいところ」は余計である。
逆の立場で考えると、わかりやすい。 たとえば、我々医学科六年生は、卒業のための試験が目前に迫っており、医師国家試験もあと四ヶ月程度のところに来ている。 人によっては「イカン、間に合わぬ」などと、アタフタしているかもしれない。 そこに、知り合いの下級生が何か頼み事にやって来たとしよう。 部活動関係の何かでも良いし、学業についてわからぬ点を質問に来たのでも良い。 その時に「試験前でお忙しいところ恐縮です」という挨拶が適切かどうか、という問題である。
キチンと学生らしい生活を送ってきた者ならば、試験前だからといって、さほど慌てる必要はない。 また、仮に内心ではアタフタしていても、下級生のちょっとした依頼のために時間を捻出することなど、造作もないことである。 それなのに「試験前で忙しいでしょう」などと言うのは、暗に「アンタ、ろくに勉強していないから、今頃、慌てているんだろう」と言っているようなものである。
もちろん、そういう悪意によって「忙しいでしょう」などと言う者はいないだろうが、理屈としては、そうなってしまう、という話である。 余計な気は遣わずに「すいません」「ありがとうございます」「失礼します」などの短い言葉で済ませれば良いと思われる。
以前にも書いたことがあるが、私は 13 年ほど前、京都大学工学部の一年生であった時、某教授から教科書の読み方を教わった。 すなわち、本当に良い教科書であるならば、最初のページから最後のページまで、順番にめくっていくべきであり、 必要な場所だけを抜き出して読んではならない、というのである。 つけ加えるならば、本を読むということは、著者と対話するということでもある。 「なぜ」「どうして」「それは違うんじゃないか」あるいは「確かにその通りだ」というような言葉を、常に著者に対して投げかけながら、読み進めるべきである。 もちろん、そのようにしながら読むのは、たいへんな労力を要するが、「教科書を読む」とは、そういうことなのである。
さて、名大医学科の教授陣には、英語の教科書を読むことを勧める人が多い。 というのも、医学の分野においては、遺憾なことに、優れた教科書のほとんどが英語で書かれているからである。 日本語訳されるのは、たいてい数年遅れであるし、初めから日本語で書かれた名著は実に少ない。
とはいえ、私は、最初は無理せず日本語で読めば良いと思う。 だいたいの学生は、英語よりも日本語の方が得意であろうし、そうした学生が、医学をよくわかっていない段階で英語の教科書を使って学ぶというのは、かなり無理がある。 低学年のうちは日本語で学び、五、六年生になって、時代の先端を行く医学者達の背中がみえてくる頃に、英語の教科書に手を出せば良いのではないか。
また、六年生ぐらいになったら、1000 ページ以上あるような、しっかりした英語の名著を一冊、卒業前に読んでおくのが良いと思う。 というのも、卒業して就職してしまったら、だいたい、学生時代よりも忙しくなるから、教科書をしっかり読もうなどという気はなくなるものである。 今のうちに、キチンと読むという習慣をつけておかねば、一生、そうした機会は失われてしまうだろう。
「とりあえず国家試験に受からねば」という気持ちは、わかる。 しかし、とりあえず受かっただけでは、藪医者にしかならぬ。 その一歩先まで見据えて行動することこそが肝心であろう。
日本で医師免許を取得するためには、医師国家試験に合格しなければならない。 医師国家試験の受験資格は、日本の大学医学部を卒業した者、卒業見込の者、あるいは外国で医師免許を取得した者などに与えられる。 これに対し米国の United States Medical Licensing Examination (USMLE) は、外国で医学教育を受けた者にも門戸が開かれているらしい。 そのため、日本の医学科生の中にも、USMLE を受験する者が少なくないらしい。
彼らが USMLE を受験する理由はよくわからないが、米国で医師として働きたい、と考えている人は、それほど多くはないのではないかと思う。 将来、米国に留学する可能性があり、その時に役立つかもしれないから、というようなことを言う人もいないではない。 しかし、たぶん、本当のところは、経歴にハクがつくから、あるいは、なんとなくカッコイイから、というようなものであろう。 資格というものは、持っていて損をすることはあまりないから、USMLE を受験し、資格取得すること自体は、悪くない。 ただし、自身の優秀さを示すための手段として、そうした資格に頼っているとすれば、いささか、危険であるように思われる。
自分が優秀かどうか、などということは、自分が一番よくわかっているだろう。 どうして、それを他人からの評価によって確かめる必要があるのか。 自分の優秀さを他人に示したいならば、学術的議論により自身の学識を示せば良いのであって、学位だの免許だのは必要ない。 専門家同士であれば、3 分も話せば、相手がどの程度優秀であるかなど、推定できる。 もちろん、3 分で相手の全てがわかるわけではないが、資格などよりは、よほど雄弁である。
要するに、自信がないのだろう。 中学・高校時代から、試験の点数で能力を測るという残念な教育に親しんでしまった人々の、 資格などのわかりやすい指標がなければ不安になる、という心境は理解できなくもない。 自慢話であるが、その点、我が母校である麻布中学校・高等学校の教育はすばらしかった。 高校三年生の時、大学受験を強く意識した生徒の一人が「本番では云々」と発言した時、別のある生徒が、すかさず 「本番とは何のことか。いつから、麻布は受験予備校になったのだ。」と茶々を入れたことがあった。 あれから十数年経ち、校長も根岸さんから氷上さん、平さんと交代しているが、 世間から「進学校」などと呼ばれつつも実際には進学を意識した教育はほとんど行わない、あの風土は健在であるらしい。
閑話休題、詳細は忘れたが、近いうちに USMLE の受験資格の要件が厳しくなり、現状の日本の医学部教育では、多くの大学の卒業生が USMLE を受験できなくなる、という話がある。 そこでカリキュラムを変更し、USMLE の新基準に適合させよう、という動きが、あちこちの大学であるらしい。 馬鹿げた話である。 単に現行カリキュラムが不適切だから修正する、というのならわかるが、どうして USMLE が出てくるのか。なぜ、米国の基準に、我々が合わせる必要があるのか。
現在の日本の医学部教育は、上から下まで、主体性がない、と言わざるを得ない。
過日の記事に、誤解を招く恐れのある箇所が二点あったので、補足する。 ウイルス性肝炎の記事の修正は、後日、行う。
まず9 月 17 日の件だが、意識のない患者については、 治療方針について本人の承諾を得ることが不可能であるから、近親者の承諾をもってこれに代えるのは正当であると考えられている。 従って、たとえば手術の同意書等について、本人の代理として近親者の署名をもらうことは、適切である。 その一方で、たとえ意識がなくとも、プライバシーは適切に保護されるべきであるから、 代理人たる近親者に対し、カルテ等の内容の一切を告げて良い、ということにはならない。 代理人に伝えるのは、必要最低限の内容に留めなければならない。 このあたりの線引きが、難しい。
次に9 月 18 日の件であるが、美容外科は、常識的に考えて、法律用語でいう医行為に該当する。 従って、現行法の範囲でいえば、医師でない者が美容外科的施術を行うことは許されない。 その一方で、治療にあたらない、いわゆる美容整形は、適切な医療行為でもないのだから、医師が行うのもよろしくない。 結局のところ、いわゆる美容整形は、現状として黙認されているとはいえ、本来、違法である。
これを合法であると解釈するためには、そもそも美容整形は医行為にあたらない、と主張するしかない。 それにもかかわらず「医行為であるから」と医師の独占業務にするのは、不適切である。 法律の抜け穴、いわゆる脱法行為であるといえよう。
現在の「黙認」状態が続いているのは、現状で直接的に被害を受けている人がいないからに過ぎない。 物事の道理を追求しない現代日本の歪んだ空気の象徴である。
心室頻拍による心停止を来した患者に対し、抗不整脈薬として何を投与するか、という問題を考える。
中途半端に勉強した学生であれば、「アミオダロン」と即答するであろう。 中には「アミオダロン 300 mg または体重あたり 5 mg/kg」と述べる者もいるかもしれない。 なお、私は救急医療について不勉強なので、Advanced OSCEの際には「I 群抗不整脈薬、リドカイン」と述べた。 この私の意見に対し「リドカインの使用は根拠薄弱であり、アミオダロンの方が優れているという統計的エビデンスがある。君は不勉強であるな。」と 指摘する学生もいるだろうが、彼らも、私と同程度に不勉強である。
過去に何度も書いたが、いわゆる統計的エビデンスは、伝家の宝刀、全てを決定する最終兵器、ではない。 統計は、いかなる条件で調べたか、いかなる方法で解析するかによって、いかようにも、変ずることができる。 理論的裏付けのない「統計的エビデンス」ほど脆弱なものはない。 本来、薬剤を投与する以上は、その不整脈の原因を調べ、機序を推定し、それに併せて薬剤を選択するべきである。 ある特定の患者集団で調べた統計を、無思慮に眼前の患者に適用することは許されない。
臨床指向の強い学生の一部からは、次のような反論があるだろう。 「そうはいっても、救急現場では、原因を精査する時間的余裕はない。標準的とされる治療を適用するしか、ないではないか。」 その通りである。 私は、救急現場でアミオダロンを使用することを批判しているわけではなく、躊躇なくアミオダロンと答える精神のありさまを批判しているのである。
なお、彼らの論拠は米国心臓協会の 2010 年ガイドライン (Circulation, 122, S639-946 (2010).) や、 それに類する日本のガイドラインに準拠して書かれた教科書である、へるす出版『救急診療指針』改訂第 4 版などであろう。 これらの書物は、リドカインよりアミオダロンが良さそうだとは述べているが、よく読むと、いかにも自信のなさそうな表現で、弱く推奨しているに過ぎない。
アミオダロンの投与が適切だとする、十分に信頼できる医学的根拠は存在しない。 それを思えば、「やむをえず」アミオダロンを投与するにしても、「これで本当に良いのだろうか」という不安が、常に、つきまとうはずである。 自信に満ちた態度で投与すれば患者や家族に安心感は与えるであろうが、本当に自信に満ちているならば、その者は医師としての思慮、あるいは誠実さに欠ける。
アミオダロンが推奨される論拠は、短期的な転帰においてはアミオダロンがリドカインよりも優れていた、という報告である。 短期的な転帰、というのは、つまり「すぐには死なない」という意味である。 その一方で、生存退院率、つまり「生きて退院できる頻度」については、特に差がなかったという。 なぜか、ということはよくわからないが、アミオダロンは細胞膜をいささか変性させて様々なイオンチャネルを阻害する薬剤であるから、 不整脈を止める、という意味においては強力である一方、副作用も大きい。 この副作用が、長期的には、短期的な利益を打ち消してしまっている疑いがある。 はたして、この薬剤が、本当にリドカインよりマシなのか。 実は十年後の転帰についてはリドカインの方が良い、ということも、理論的には、十分に考えられる。 患者に害を為さないように、と、アミオダロンを控える判断にも、一定の合理性はあるといえよう。
結局、どちらが良いのか、よくわからないのである。
過日、同級生の某君らと、いわゆる QT 延長症候群を巡って、少しだけ論争になった。
まず前提として、いわゆる QT 延長には二種類あって、おおまかにいえば、狭義の QT 延長と、TP 短縮とでもいうべきものである。 これについては一年ほど前に書いたので、ここでは繰り返さない。 この二つは、Einthoven の遺物とでもいうべき古典的心電図診断においては「QT 延長」と一括りにされるが、実際は全く異なる現象なので、区別して考えなければならない。
いわゆる QT 延長症候群 long QT syndrome は、先天的な遺伝子の異常によって、あるいは薬物などの後天的な事情によって、心筋の再分極が障害を来たし、 致死的不整脈を来すリスクが高くなっている状態をいう。 便宜上「症候群」と呼ばれているが、厳密にいえば症候から定義されているわけではないので、症候群ではない。 本来は心筋再分極異常症、とでも呼ぶべき疾患群である。
「QT 延長症候群」という不適切な通称ゆえに、少なからぬ学生は「QT 間隔の延長が原因となって致死的不整脈を来す」などと理解しているらしい。 また医学書院『医学大辞典』第 2 版にも「QT 時間の延長が原因となって」と書かれている。しかし、この理解は正しくない。 そもそも「QT 時間が長い」というのは、単なる心電図上の所見であって、それ自体が何らかの病的状態を意味するものではない。 実際、QT 間隔には生理的に個人差が大きく、男女差も明瞭にある、ということは古くから知られていた。 たとえば M. Merri らの報告 (Circulation, 80, 1301-1308 (1989).) では、 補正 QT 時間 (QTc) は男性で 409 ± 14 ms1/2、女性で 421 ± 18 ms1/2 であった。
いわゆる QT 延長症候群は、臨床的には、身体的あるいは精神的なストレスの下での失神発作や、心電図上での QT 間隔延長を特徴とする。 無治療であれば、最初の失神発作から 1 年以内に 20 %、10 年以内に 50 % が死亡するという。 しかし、典型的な発作や心電図異常を呈する患者はともかく、実際には「境界群」とでもいうべき、診断が容易ではない患者が少なからず存在する。 そこで P. J. Schwartz は、1993 年に、いわゆる QT 延長症候群の診断基準 (Circulation, 88, 782-784 (1993).) を提唱した。 ここでは男性であれば QTc 450 ms1/2 以上で 1 点、性別を問わずに 460 ms1/2 以上で 2 点としている。 従って、女性については健常者の 2 % 程度は Schwartz の基準で 2 点がついてしまうことに注意を要する。 この点について、Schwartz は、ホルター心電図などの余計な検査を受ける可能性が生じるとしても、いわゆる QT 延長症候群を早期発見できる利点の方を重視したらしい。
ところで、この Schwartz は、私の知る限りでも 1975 年頃 (American Heart Journal, 16, 523-530 (1975).) から、 かれこれ 40 年間、この疾患群を追い続けている人物である。 当然、彼は、この疾患について、心電図上の QT 延長は特異度が低い、ということも理解している。 そこで 1993 年に前述の診断基準を提唱した時点で既に彼は、前胸部誘導における波形の異常や、心エコーにおける異常を、特徴的な所見として指摘している。 しかし、これらは当時の水準からいって、広く世間に受け入れられるかどうか疑わしかったために、敢えて診断基準から外したらしい。
そもそも診断をする際に、所見に基づいてスコアリングを行い、何点以上だから該当する、というような方式を採ること自体に無理がある。 再分極異常症を診断したいのであれば、再分極障害自体を直接に検出するのが筋である。 Einthoven 式の心電図では再分極異常を直接検出することはできないのだから、Schwartz が試みたような、超音波なり前胸部誘導の波形解析なりを用いる必要がある。 臨床医を目指す学生諸君は、与えられた技術や手法を使うだけではなく、こうした探究心を忘れないでいただきたい。
形成外科の一分野に、美容外科、というものがある。世間では「美容整形」などと呼ばれるが、整形外科ではなく形成外科の範疇である。 美容外科が、形成外科の他の分野と一線を画する点は、病的でない状態からの整容を目指して治療を行う、という点にある。
ここで問題になるのが、美容外科の適法性である。 人体をメスなどで傷つける行為は、基本的には刑法第 204 条の規定する傷害罪にあたる。 南江堂『NEW 法医学・医事法』によれば、医師の行為が罪に問われないのは、同法第 35 条のいう「正当行為」に該当する場合に限られる。 「正当行為」と認められるためには 1) 適正な治療目的; 2) 適正な手段; 3) 患者の承諾、の全てを満足する必要がある、と考えられている。 重要なのは、「患者の承諾さえあれば何をやっても良い」というわけではない、という点である。
美容外科については、主として「適正な治療目的」が問題になる。 容姿や容貌について著しい劣等感を持っているために社会生活に支障を来している、というような患者に対し、 それを治療する目的で外科的に介入することは、個々人の価値観に由来する好みの問題はあるにせよ、法的には正当であろう。 しかし、俳優として仕事を得るため、だとか、水商売等で客の目を引くため、とかいう目的で手術を行うのは、どうであろうか。
まじめな美容外科医は、そうした「治療目的ではない」美容外科的介入は拒否しているらしい。 しかし、巷にあふれる、いわゆる美容整形クリニックの中には、顧客が求めさえすれば、治療とはいえない症例に対しても施術している例があるのではないか。
治療以外の目的であったとしても、適正な業務として行われているならば、刑法第 35 条の規定により、罪には問われない。 しかし、それは医療ではないのだから、医師免許は必要ないはずである。 いわゆる美容整形業務を医師が独占し、莫大な利潤を得ている現状には、何らの正当性もない。
ここに明言しておくが、私は、治療ではない美容外科的介入を行う者を医師とは認めないし、心より軽蔑する。
人が死亡した時、日本国においては、事件性があると判断され、かつ必要と認められれば、司法解剖が行われる。 これは、犯罪捜査のための情報収集などを目的とした解剖であり、遺族は、拒むことができない。 これに対して病理解剖は、患者本人や遺族の同意の下で、患者の体の中で本当は何が起こっていたのかを究明し、 今後の医学の発展のために、未来の別の患者のために、情報収集する目的で解剖するものである。
中には、病理診断には関心があるが病理解剖はやりたくない、という理由で、病理医にはなりたくない、と考える者もいるらしい。 その一方で、誰であったか忘れたが、「病理解剖は、医師が患者に提供する、最後の奉仕である」と、その使命の崇高なることを説いた人もいる。
考え方は人それぞれであるが、たぶん、私のように「ぜひ解剖して欲しい、それも、できれば学生とか研修医とか、若い人にやってもらいたい」などと考えるのは、少数派であろう。 「どちらかといえば、解剖されたくはない」というのが日本人の多数意見なのではないか。 それにもかかわらず「未来の誰かの役に立つのなら」と、解剖を承諾してくれる患者諸氏の厚意を、我々は、決して無駄にしてはならぬ。
現代の医療においては、患者は、自身の病状について正確なことを「知る権利」と、「知らされない権利」を持っており、 治療方針を決定する権利を独占している、と考えられている。 「独占」というのは、医師は助言をするだけであって、決定する権利はない、という意味である。 話は若干逸れるが、家族や遺族にも、患者の情報を知ったり治療方針を決定したりする権利はない。 臨床現場では、トラブル回避の目的から、意識のない患者等について無断で家族に情報提供したり、治療方針の決定を家族に委ねたりする場合があるようだが、 本当は、こうしたやり方は法令に抵触する恐れがある。
それはさておき、法的なことはともかく道義的には、この患者の権利に対する考え方は病理解剖に対しても適用されるべきであろう。 すなわち、解剖された患者には、解剖の所見や、それによって為された医学への貢献について、知る権利がある。 従って、執刀した病理医は、必要とあらば患者に対し正確に説明できなければならない。 しかし、患者は既に死んでいるのだから、と、無意識のうちに軽んじてしまっているのではないか、との疑念を抱かざるを得ない事例を、私は、遺憾ながらみたことがある。 詳細は、さすがに、ここには書けぬ。
あなたの厚意は、明日の医療に役立てるのために確かに受け取りました、と、心を込めて一礼できる病理医に、私はなりたい。
一部で話題の病理漫画「フラジャイル」は、現在、単行本第三巻まで出版されている。 これまでのところ、たとえば宮崎が、たぶん初期臨床研修修了後二年目 (つまり卒後四年目) なのに「卒後二年目」と表現されているなど、 いささか、設定に首をかしげる部分がないではない。 とはいえ、医学的には概ね妥当な内容であり、病理医を中心とした専門家からも大好評らしい。 名古屋大学鶴舞キャンパスの書籍部でも、発売直後から飛ぶように売れているとか。
第二巻に、少し気になる部分はあった。 腸炎様の症状を呈する患者の診断に苦慮している段階で、岸が次のように述べる場面がある。
今 森井くんが感染症を前提に違うアプローチを試しています。 現状ではなぜかインターフェロンに陽性反応。 あとは明日の夜に培養の中間発表が出たところで もう少し見えてくる ものがあるでしょう。
「インターフェロンに陽性反応」という言葉の意味がよくわからないのだが、文脈からすると、たぶん、結核菌特異的インターフェロンγ産生能、 いわゆるクォンティフェロンで陽性反応が出た、ということであろう。 すなわち、この時点で「結核じゃないの?」と暗に述べているものと思われる。 しかし、専門家でなければ、あの場面からそこまで読み取ることはできまい。作者は、どういうつもりで、あれを描いたのだろうか?
第二巻で特に良いと思ったのは、中熊教授の言葉である。 岸が診断に迷っていた時、なぜもっと詳しく助言しないのか、という宮崎の疑問に対して答えたものである。
あのな 俺があれを見て どう見立てたか伝えたとする。 それを聞いた医者は ちょっと安心しちまうんだよ。 判断が緩くなる。 あの人も こう言ったから 大丈夫ってな。 他人の命みたいなもん 医者はてめえで責任取れねえんだからさ。 不安と戦ってなきゃならない。 後押しなんかしてさ それを放棄させるようなこと しちゃいかんだろ。
他に、第三巻では、次のようなやりとりもあった。
岸「医学論文って書いたことある?」
宮崎「いえ 大学出てからは……」
岸「何か 2 〜 3 本書いてみたらどう?」「そうしたらわかるよ」「この うさんくささが」
これを読んで思い出したのは、名大医学科には、学生のうちから論文をたくさん読むことを勧める教員が少なくないことである。 もちろん、論文を読むこと自体は、勉強になり、良いことではあろう。 ただし、基礎があやふやで学識が浅く、その論文の裏側を推測し疑う能力の乏しい学生の場合、無闇に「論文から知識を得る」ことには危険な側面もあることを、忘れてはなるまい。
もう一つ、気になる箇所があった。岸の発言である。
ある化合物を 熱を出した たくさんの患者に飲ませてみる すると多くの人の熱が下がった 効果がある それだけわかればいい 「なぜか」なんて 僕たちには正直どうでもいい
これは、さすがに、どうかと思う。 もちろん、薬の作用機序の全てを解明し、理解することは不可能である。 しかし、ある程度まで、少なくとも簡略な薬理学的機序がわかっていないと、怖くて、薬など使えない。 特に、高齢者で、やむなく 5 種類、10 種類、あるいは 20 種類もの薬を併用しているような患者の場合、 それらが、いかなる相互作用を引き起こすのか、統計的に調べることなど不可能である。 そうした患者の場合、頼りになるのは生化学、生理学、薬理学、病理学といった基礎医学からの論理的推測のみである。 それ以外にも、非定型的な所見のある患者について、薬剤の適否を判断するには、統計は頼りにならない。 「なぜか」というのは、我々にとって、非常に重要なのである。
岸は優秀な病理医であるから、たぶん、本当に「薬理なんか、どうでもいい」と思っての発言ではないだろう。 しかし、ある種の勘違いが一部の学生や医師の間に広まっている現状において、語弊のある表現は避けてほしかった。
以前行われた脳神経外科学の試験は不合格であったので、本日、再試験を受けた。 本当は、本試験の前に通読できなかった医学書院『標準脳神経外科学』第 13 版をキチンと読んでから受験したかったのだが、 ここ三週間ほど抑鬱状態が続いており、勉強できる状況ではなかった。 昨日夕方、ようやく、なんとか勉強にとりかかったのだが、到底、通読できるような状態ではない。 やむなく、脳血管障害の部分だけ読み、同書の付録である演習問題を解き、本試験を簡略にみなおしただけで受験した。 要するに試験対策特化型の姑息的勉強であり、批判されるべき姿勢である。
やってみて思うのだが、やはり、この勉強法は、間違っている。 出題者の意図を汲み、正解をある程度「当てる」ことは、できるようになる。 しかし、何もわからずにパターン認識で「当てる」のは、コンピューターの得意分野を真似しているだけであって、人間のやるべき仕事ではなく、もちろん、学問でもない。
「当てる」ための勉強を擁護する勢力からは「どこが重要なのか把握する助けになる」という意見も聞かれるが、それは誤りである。 何が大事かなど、人によって、立場によって、異なるのではないか。 なぜ、先生のおっしゃることが大事であると思うのか。なぜ、自分の頭で考えないのか。 だいたい、「試験に出る内容」と「大事な内容」が実は異なることぐらい、皆、本当はわかっているのではないか。
臨床医として働く、という点だけからみれば、「当てる」ことさえできれば十分なのかもしれない。 その意味では、職業訓練学校である一部の医科大学等の学生であれば、それで良い、という考えもあるだろう。 しかし明日の医学・医療を開拓せんと志すならば、すなわち京都大学や名古屋大学等の医学科生であるならば、はたして、どうだろうか。
「当てる」ための勉強が主流になってしまった医学科の現状において、私のように心の弱い者が正統な勉強法を貫こうとすることは、容易ではない。 ましてや、教員が、そういう勉強法を推奨しているような状況においては、なおさらである。 しかし、それは、私が再試験不合格を恐れて姑息的勉強を行ったことを正当化する理由にはならない。
自らの不明を恥じ、悪行を為したことを忘れぬために、ここに記録しておく。
血液中には様々なイオンが含まれているが、今日は、カルシウムの話である。 血中カルシウム濃度は、細胞の働きなどに重要である。もし濃度が著しく異常になると、細胞機能、特に神経や筋肉などの機能に異常を来す。 血中のカルシウムのうち、イオンとして存在しているのは半分弱程度であって、それ以外はアルブミンなどの蛋白質と結合したり、他の酸と結合したりしているらしい。 細胞に対して機能を発揮するのはイオンとして存在しているカルシウムだけなので、臨床検査において我々が本当に知りたいのは、このイオン型のカルシウム濃度である。 臨床的には蛋白質などと結合したものも含めた全カルシウム濃度が測定されることが多いが、 金原出版『臨床検査法提要』第 34 版によれば、これは測定技術上の事情で、イオン型カルシウムの測定は煩雑なためであるらしい。
生理的条件の変化、たとえば血中アルブミン濃度であるとか、血漿の pH であるとかによって、カルシウムと蛋白質などの結合の具合は変わってくる。 そこで、1970 年代頃までに、イオン型カルシウムの濃度を評価する方法が盛んに検討されたのだが、その後は下火になったようである。 現在、最も広く支持されている補正方法は
(補正カルシウム濃度 [mg/dL]) = (全カルシウム濃度 [mg/dL]) + (4.0 - アルブミン濃度 [mg/dL])
と、いうものである。 つまり、イオン型カルシウム濃度が同じであっても、アルブミンが少なければ検査で測定される「全カルシウム濃度」は低くなるのが当然であるから、 その分を補正して評価する、という考え方である。 アルブミン濃度の基準を 4 mg/dL としていることには、深い意味はない。 また、pH などとの関係を補正することは、難しい、と考えられているようである。
さて、「臨床検査法提要」によれば、この補正式は 1973 年に R. B. Payne (British Medical Journal, 4, 643-646 (1973).) らが提唱したものである。 この式が普及した理由はよくわからないのだが、たぶん「簡便だから」というだけのことであろう。 この補正が適切だと信じるに足る根拠があってのことではない、と思われる。 なお、一部の教科書などでは「低アルブミン血症がある場合には、この式で補正する」などと書かれているが、これは Payne らのデータではアルブミン濃度が 3.0-4.5 mg/dL 程度の範囲に集中しているためである。 すなわち、アルブミン濃度が 3.0 mg/dL 以下または 4.5 mg/dL 以上の場合には、この式は適用できない。
イオン型カルシウム濃度を推定するための試みとして、多くの人が、様々な案を繰り出した。 たとえば F. C. McLean らの式 (Journal of Biological Chemistry, 108, 285 (1935).) は、次のようなものである。 Ca は総カルシウム濃度 [mg/dL], P は総蛋白質濃度 [g/dL] であり、sqrt() は平方根、^ は冪乗である。 全く理解せずに書き写しているので、間違いがあるかもしれない。
(補正カルシウム濃度 [mg/dL]) = [(25 Ca / (99 - 0.188 Ca)) x (121 x 5 P / (99 - 0.75 P)) - 6.02] x 2 + 2 x sqrt((602 Ca / (99 - 0.188 Ca)) + [(121.5 P / (99 - 0.75 P)) - (25 Ca / (99 - 0.188 Ca)) + 6.02]^2)
さて、イロイロと補正方法は提案されているが、どれもこれも使いものにならない、ということを主張したのは J. H. Landenson (Journal of Clinical Endocrinology and Metabolism, 46, 986-993 (1977).) らである。 補正して求めた値よりも、元の総カルシウム濃度の方が、強く血清カルシウム濃度と相関している、と、いうのである。
一体、何がどうなっているのか。 比較的最近の報告として、T. R. Larsen (Scandinavian Journal of Clinical Laboratory Investigation, 74, 515-523 (2014).) によると、 イオン型カルシウム濃度は、測定した施設や装置によって、いくぶん、ばらつきが生じるらしい。 (なお、現時点では、私はこの報告の本文を入手できなかったので、abstract しか読んでいない。あと半年ほどで電子ジャーナルに載るらしい。) 先の Landenson の報告は、これが原因であると思われる。 余談であるが、この雑誌には、しばしば、こうした臨床検査医学についての面白い報告が掲載される。
結局のところ、イオン型カルシウム濃度は様々な要因によって変動する一方、それを推定するのは困難であるらしい。 もちろん、「他に方法がないのだから、仕方ない」という論理で、アルブミン濃度についてだけアヤシゲな補正を行うことは、正当化できない。 設備の整った病院であるならば、積極的に、イオン型カルシウム濃度の直接測定を実施すべきであろう。 その上で、データを蓄積して、理論を捻り出し、新しい補正式を提案することが望ましい。
クマリン、という植物由来の物質がある。 慢性心房細動などの患者に対し、抗凝固薬として用いられるワルファリンは、このクマリンの誘導体である。 クマリン誘導体としては、他にジクマロールが有名である。 ジクマロールは日本ではあまり使われないが、欧州の一部の国では抗凝固薬として頻用されると、何かの文献で読んだことがある。
一部の化粧品類にクマリンが含まれていることがあるらしい。 無思慮なウェブサイト等には、「クマリンは植物由来の成分です」などと、まるで「だから安心です」と言わんばかりの宣伝をしているものがあるが、非常識である。 ワルファリンやジクマロールといった抗凝固活性のあるクマリン誘導体は、不適切に摂取すれば脳出血などを来し、時に死亡する恐れもある。 実際に、殺鼠剤としてクマリン誘導体が用いられることもあるらしい。 もちろん、化粧品に使うような量のクマリンが人体に悪影響を及ぼすことは稀であろうが、安全面に相当の配慮を要する物質であることを隠蔽するかのような宣伝は、許し難い。
過日、日本生化学会編『細胞機能と代謝マッップ』を眺めていた。 細胞内で行われる様々な生化学反応について、基質と生成物、および関係する酵素についてまとめられた図表集である。 これは、医学部編入受験生時代に某予備校講師の勧めで購入したのだが、結局、あまり使わなかった。 医学科に入った後には、時々、調べ物に使用している。
ふと、開いたページの片隅に「クマリン」という文字がみえて、驚いた。 私は、ヒトの体内でクマリンが生合成されるとは、知らなかったからである。 代謝経路をたどっていくと、フェニルアラニンの代謝産物であるらしい。 フムフム、ナルホド、と思ったところで、ページのタイトルをみると 「フェニルアラニン, チロシンの代謝 (植物)」と書かれていた。 なんだ、植物の話か、と思うと同時に、そりゃヒトがクマリンなんか生合成するわけないよな、と、笑いがこみ上げてきた。
クマリンといえば、病理学の名著 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' を読んでいた際、首をかしげたことがある。 血液凝固の話に関連して、coumadin という薬物名が登場したのである。 音の響きからクマリンのような感じではあるが、クマリンの綴りは cumarin である。 私の持っている教科書類には記載がなかったので Google で検索してみると、どうやら抗凝固薬であるワルファリンのことらしい。 もしや、と思い、米国 FDA の薬物情報データベースで検索してみると、やはり coumadin はワルファリンの商品名であった。
学術的な議論をする際には、原則として、商品名は使用しない。その理由については過去に書いた。 なぜ、病理学の教科書において、このような間違いが起こったのだろうか。
高度に専門的な話が続いたので、今日は一般向けの話を書く。一般向けといっても、あくまで医学的な「こぼれ話」のようなものである。
脳神経外科や整形外科などでは、手術に際して、骨を削ったり、つないだりすることがある。 たとえば脳腫瘍を切除するために、頭蓋骨の一部を切り外して脳を露出させ、腫瘍を切除する。 終わったら、さきほど切り外した頭蓋骨を元の場所に戻して、隙間を糊のようなもので埋める。 元と同じ場所ではあるが、一種の骨移植を行っていることになる。
ところで骨は、血管が豊富な組織である。 顕微鏡でよくみると、骨には血管が通るための管がたくさんあり、ハバース管と呼ばれている。 特に、骨の外の血管と骨の中の血管をつないでいる管のことはフォルクマン管と呼ばれる。
さて、先程の「同所性骨移植」を考えると、頭蓋骨を切り外した時点でフォルクマン管を通る血管は切断されており、 取り外された側の骨には血液が供給されなくなっている。 これを元の位置に戻す際にも、血管をつなぎ直す、などということは行われない。 これを初めて手術室でみた時、私は「そんなことをしたら、骨が壊死してしまうではないか」と思った。
調べてみると、確かに、骨細胞は壊死するらしい。 一般に、骨移植を受けた部位は一度骨吸収を受け、しかる後に再度骨形成がなされるらしい。 つまりリモデリングにより壊死した骨は作り直されるので、問題ない、というのである。
このように、骨移植に際しては、移植片は単に骨形成の足場を為しているだけであって、骨そのものを提供しているわけではない。 そう考えると、必ずしも骨そのものを移植しなくても、足場になる人工物を使えば良いではないか、ということになる。 実際、そういう方向で、いわゆる人工骨の研究開発は進められているらしい。
ところで、もし大腿骨頸部で骨折が起こると、大腿骨頭部は虚血になり、壊死し、圧壊し、股関節の機能が損なわれることがある。 いわゆる外傷性大腿骨頭壊死症である。 「頸部」とか「頭部」とか言っても専門外の人にはわからないかもしれないが、まぁ、フトモモの骨のクビやアタマの部分と思っていただければ、だいたい合っている。 この場合、骨移植の場合とは異なり、血管新生やリモデリングによる回復は起こらないらしいのである。
大腿骨頭壊死症と骨移植では、何が違うのか。 医学書院『標準整形外科学』第 12 版によれば、これは次のような事情であるらしい。 大腿骨頭壊死症の場合、骨細胞が死滅してからリモデリングを受けるまでの期間に、関節の運動に伴って、病変部はには、かなりの機械的負荷が加わる。 この機械的負荷によって圧壊が生じるのである。 つまり、もし負荷が加わらないようにしたままリモデリングを待つことができれば、外傷性大腿骨頭壊死症であっても、圧壊による股関節機能障害は起こらないのである。
整形外科学に詳しい人にとっては常識なのだろうが、私には新鮮な話であり、フーム、ナルホド、と興奮したので、ここに記録しておく次第である。
くる病とは、小児においてビタミン D の作用障害により骨の石灰化不全を来す疾患を総称していう。 同様の病態が成人に生じたものは骨軟化症と呼ばれる。 小児と成人で別疾患として扱われるのは、小児の場合は骨格の形成障害を来すために、成人とは症状が異なるからである。
ひとくちにビタミン D の作用障害、といっても、具体的な病因は多様である。 `Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' によれば、ビタミン D 摂取不足の他に、多様なビタミン D の利用障害が原因としてあり得る。 たとえば、腎臓に発現しているビタミン D 1-αヒドロキシラーゼの欠損症は、ビタミン D の活性化障害を来すものであり、ビタミン D 依存性くる病 1 型と呼ばれる。 また、ビタミン D 受容体遺伝子変異の中には、ビタミン D への感受性が低下するものがあり、ビタミン D 依存性くる病 2 型と呼ばれる。 もちろん、完全な機能喪失型変異をホモ接合で有する場合は致死的であろうから、出生した患者に限れば、完全な機能喪失型は存在しない。
理屈から考えてわかるように、ビタミン D 依存性くる病 1 型に対しては活性型ビタミン D の投与が有効であり、 また 2 型に対しては活性型ビタミン D を多量に投与すれば良い。 これらの治療を生涯にわたって続ける必要はあるが、くる病による骨の異常をくいとめることはできる。 これが「ビタミン D 依存性」と呼ばれるゆえんである。
医学書院『医学大辞典』第 2 版によると、歴史的に、「単なるビタミン D 摂取不足」以外の原因による くる病を「ビタミン D 抵抗性くる病」と呼んでいたらしい。 これらの中には、上述の 2 種類のビタミン D 依存性くる病が含まれる。「依存性」なのに「抵抗性」と呼ぶのはおかしいので、現代では、「抵抗性」という表現は普通は用いない。
本当に「ビタミン D 非依存性」のくる病としては、いわゆる低リン血症性くる病がある。 普通、いかなる食物にも十分量のリンが含まれているから、不適切な経静脈栄養でもしない限りは、リンの摂取不足で低リン血症を来すことはない。 しかし腎臓の近位尿細管におけるリン等の再吸収障害を来す症候群、いわゆる Fanconi 症候群においては、低リン血症を来すことがある。 ビタミン D の作用を直接に阻害しているわけではないが、結果的に骨の石灰化不全を来す。くる病の一型として良かろう。
遺伝性のものとしては、繊維芽細胞増殖因子-23 (Fibroblast Growth Factor-23; FGF-23) 関係のものがある。 FGF-23 は尿細管におけるリンの再吸収を抑制すると共に、ビタミン D の 1-αヒドロキシル化、すなわち活性化を抑制するらしい。 従って、この FGF-23 の作用を増強するような変異を有する家系では、遺伝性くる病を来す。
さて前置きが長くなったが、 医学書院『標準整形外科学』第 12 版には「アルカリホスファターゼ (ALP) はいずれの病態のくる病・骨軟化症でも著明高値である。」と記載されている。 この事実をどう解釈するか、という点が、本日の主題である。
学生の中には「ALP は骨破壊病変を示唆するマーカーである」と認識している者が稀ではないようだが、それは誤りである。 ALP には複数のアイソザイムが存在し、いわゆる骨型の ALP3 は骨芽細胞の膜蛋白質であるが、 分解されて血中に放出され、これを血液検査では測定しているのである。 すなわち、骨型 ALP の測定は骨芽細胞の活動性をみているのであって、臨床的には骨形成マーカーとされる。骨破壊ではない。 なおマニアックな話だが、「日本臨床」71 巻 増刊号 2 (2013) 『最新の骨粗鬆症学』 p.258 によれば、骨型と肝・腎型は翻訳後修飾の違いであるらしく、 選択的スプライシングではない。
なぜ、くる病において血中 ALP 活性が高値となるのか。 ビタミン D の作用と直接関係しない、いわゆる Fanconi-Bickel 症候群 (ややこしいが、いわゆる Fanconi 症候群とは異なり、糖原病の一型である) においても典型的には ALP は高値になるらしいから、 どうやらビタミン D の機能ではなく、低カルシウム低リン血症そのものが ALP と関係しているようである。 `Principles of Pharmacology 3rd Ed.' などの教科書も、ビタミン D は破骨細胞を活性化すると述べているのみで、 骨芽細胞に作用するとは記載されていない。
たぶん、おおまかには次のような事情なのだろう。 生理的には「分化した骨細胞あるいは成熟した骨芽細胞は、幼若な骨芽細胞の活動を抑制する」という負のフィードバック機構が存在するものと思われる。 くる病では骨基質となるリンやカルシウムが欠乏しているから、骨芽細胞は分化障害を来し、 フィードバックが適切に働かず、幼若な骨芽細胞の活動性が高まる。 その結果として、幼若骨芽細胞由来 ALP3 の血中活性が高値になるのであろう。 なお組織学的には、普通、くる病において骨芽細胞の明らかな過形成は認められないらしいから、 このフィードバックは骨芽細胞の増殖ではなく活動性を調節しているものと考えられる。
日本国では、まっとうな病院や産院で生まれたヒトは、例外なく、新生児マススクリーニングを受ける。 これは新生児に対する血液検査であって、フェニルケトン尿症やホモシスチン尿症などの先天性疾患を発見するためのスクリーニング検査である。 これらの疾患は、診断さえできていれば、かなりの率で症状を軽減できるから、早期診断が重要なのである。
一昨日、医学書院『標準整形外科学』を読んでいて、ホモシスチン尿症についての記載に遭遇した。 この疾患は、メチオン代謝酵素の一つを先天的に欠いているものであって、臨床的には精神遅滞や中枢神経系の障害などを来すが、 他に、Marfan 症候群様の身体発達異常を呈するという特徴がある。 このために、整形外科学の教科書にも記載されているのである。 具体的な所見は、本題から逸れるので、ここには書かない。
メチオニンは必須アミノ酸の一つであるが、普通の食生活をしているぶんには、だいたい、過剰になる。 そこで余った分は、(代謝中間体のことを別にすれば) 脱メチル化されてホモシステインになる。 ホモシステインは、葉酸からメチル基を転移されてメチオニンに戻ったり、あるいはセリンと結合してシスタチオニンになったりする。 このシスタチオニンを合成する酵素が欠損しているのが、古典的ホモシスチン尿症である。 他の酵素の欠損によるホモシスチン尿症については、今回は割愛する。 ホモシステインは過剰になると、S-S 結合による二量体、すなわちホモシスチンを形成する。 これが尿中に排泄されるので、ホモシスチン尿症と呼ばれるのである。
問題は、ホモシスチン尿症の患者は、なぜ、諸々の異常を来すのか、という点である。 東京化学同人『生化学辞典』第 4 版には「おそらくホモシスチン, メチオニンの増加, システインの低下などによるものと考えられてはいるが本態は不明である.」と書かれている。 しかし「本態は不明」と言われても納得せずに考察し、仮説を打ち立てるのが学生というものである。
一昨日の晩、私は、ビタミン B12 欠乏症が本疾患の本態ではないかと考えた。 ビタミン B12 欠乏症で神経障害を来すことや、ホモシステインからメチオニンを合成する反応が葉酸やビタミン B12に依存的なことから得た着想である。 しかし臨床的には葉酸やビタミン B12 の投与に反応しない例が少なくないらしいので、この仮説は、あまり説得力を持たなかった。
昨日の朝、今度はスルフヒドリル基 (SH 基) の異常な転移反応により、様々な蛋白質の構造変化を来すのが本態なのではないかと考えた。 実は、この発想こそが、私の生化学的センスのなさを示している。
昨晩、`Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' をながめていたら、124 ページに次のような記載があった。訳文のみ示す。
血中ホモシステイン濃度の上昇は、動脈性および静脈性の血栓症を来す。(中略) このホモシステインの作用は、たぶん、 ホモシステインと、フィブリノーゲンその他の蛋白質との間にチオエステル結合が形成されることによる。
そういえば、朧げではあるが、三年生の頃に日本語版の「ロビンス」を読んだ際、ホモシステイン云々という記述に出会った記憶はある。 ただ、その時は「ホモシステイン」が一体、いかなる物質であるのか理解していなかったために、記憶の片隅に追いやられてしまい、思い出せなかったのである。 ついでに言えば、一昨日あるいは昨日の時点で、こうした記述を発見できなかったことは、私の文献検索能力があまり高くないという事実も示している。
ともあれ、こういう場合に起こりやすいのは、チオエステル結合であって、スルフヒドリル基転移反応ではない、らしい。 こうした生化学的センスの欠如は、私が生化学を系統的に学んでいないことに由来するものと思われる。 私は、医学部編入受験生時代に「シンプル生化学」を読み、三年生の頃に「ストライヤー 生化学」を少しかじっただけで、キチンとした勉強は、していない。 このまま医師になると、どこかで重大な失敗をしそうで恐ろしいので、卒業前に「ストライヤー」を一度は通読しておこうと思う。
痛風、と呼ばれる疾患がある。 尿酸ナトリウムを主体とする尿酸塩が関節に沈着し、非感染性関節炎を来す疾患である。 母趾の中足骨近位趾骨関節、俗な表現をすれば「足の親指の付け根」、に好発する。 尿酸は、基本的にはアデニル酸やグアニル酸、イノシン酸といったプリン塩基の代謝産物として生じる。 このあたりまでは、一般大衆にも、割と知られている内容である。
尿酸代謝は図を描いた方がわかりやすいが、言葉で説明すると、次のようになる。 アデノシンは脱アミノ化によりイノシンになり、イノシンは脱リボシル化によりヒポキサンチンとなる。 一方、グアニンは脱アミノ化によりキサンチンになる。 キサンチンオキシダーゼは、ヒポキサンチンをキサンチンに変換する一方、キサンチンを尿酸に変換する作用もある。 痛風は、高尿酸血症と関係が深いと考えられていることから、治療薬としてはキサンチンオキシダーゼ阻害薬であるアロプリノールなどが用いられる。 キサンチンオキシダーゼが阻害された結果として高ヒポキサンチン血症や高キサンチン血症を来すが、これらは、ある程度は可溶性であるため、 結局は尿中に排泄されるのである。
さて、この痛風を巡り三つの興味深い問題がある。
一つは、キサンチンオキシダーゼの存在意義である。 ヒポキサンチンやキサンチンが、そのまま排泄可能であるならば、そもそもキサンチンオキシダーゼなど存在しない方が、痛風にならなくて良いではないか、 と考えるのは自然なことである。
ヒト以外の哺乳類は、基本的には痛風にならないらしい。 というのも、`Principles of Pharmacology 3rd Ed.' によれば、ほとんどの哺乳類はウリカーゼ、すなわち尿酸分解酵素を持っているために、血中尿酸濃度は低く保たれるのである。 ヒトは進化の過程でこのウリカーゼを失ったが、キサンチンオキシダーゼは保存されたために、このような珍妙な代謝経路を持つことになったのである。
しかしキサンチンオキシダーゼが保存されたのは、単に進化の選択圧から偶然逃れた、ということではないらしい。 というのも、`Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed.' によると、キサンチンオキシダーゼ欠損症、すなわち遺伝性高キサンチン血症では、 2/3 の症例は無症候性である一方、残りの 1/3 はキサンチン性の腎結石などを来すことがある。 すなわち、どちらかといえば、キサンチンオキシダーゼは、ないよりも、あった方が良いらしい。
以上のことから考えると、ウリカーゼを失ったという前提で考えれば、最も都合が良いのは キサンチンオキシダーゼの活性が低いような多型を有するヒトであろう。 しかし、そうした多型が広まるほどには、進化の選択圧は強くなかったようである。
第二の不思議は、コルヒチンである。 コルヒチンは微小管重合阻害薬であり、ビンカアルカロイド系抗癌剤と類似の機序を有する薬剤だが、抗癌剤としては用いられない。 医学書院『医学大辞典』第 2 版には「尿酸の排泄促進や合成阻害作用はなく, 消炎作用もない。」と書かれている。 一方 `Principles of Pharmacology 3rd Ed.' によれば、微小管機能障害により、好中球の 1) 貪食作用の抑制; 2) 遊走の抑制; 3) 運動性の抑制; 4) 細胞内シグナルの抑制、 を介して炎症を抑制するものであるらしい。臨床的には、痛風発作の予防薬ということになる。 つまり、医学書院が述べているのは「マクロファージが動員されてしまったら、もう効かない」という意味なのであろう。
さて、問題は、なぜ、コルヒチンは抗癌剤として使用されないのか、ということである。 抗癌剤としては治療域が狭いらしい、というような記述はみたことがあるのだが、どういうことなのか。 はっきりしたことはわからないのだが、`Principles of Pharmacology 3rd Ed.' によればコルヒチンは、著明な腸肝循環を行うらしく、 そのために腸管傷害を来しやすいらしい。 ではビンクリスチンやパクリタキセルはあまり腸肝循環しないのか、という点については、よくわからない。 しかし、この腸肝循環による説明が正しいならば、胆管癌などに対し、コルヒチンが有効である可能性はある。 さらに、痛風の発作予防薬として低用量ビンクリスチンは有効で、しかもコルヒチンより消化管における副作用が少ないだろうと考えられる。 臨床的にコルヒチンが用いられているのは、単なる歴史的経緯のために過ぎないのではないか。
第三の問題は、医学書院『標準整形外科学』第 12 版や `Principles of Pharmacology 3rd Ed.' に共通して記載されている 「痛風の発作時に高用量のアロプリノールを投与すると、尿酸ホメオスタシスが乱れ、痛風発作を増悪させることがある」という説明である。 何を言っているのか、さっぱり、わからぬ。
書き忘れていたが、Advanced OSCEも、皮膚科学の試験も、合格した。 明日には整形外科学の試験があるのだが、実はこの時に形成外科学の試験も併せて行われるということを、一昨日の夕方に同級生の某君から聴いて驚いた。 掲示を確認すると、確かに「整形外科学・形成外科学」と書かれている。ウカツであった。 たまたま、先日「標準形成外科学」の教科書は購入したが、到底、試験前に読み終われるはずはない。 「標準整形外科学」さえ、全部は読まずに試験に臨むことになる見通しである。一体、どうなるのだろう。
ところで、一昨日、帰宅すると宅配便が届いていた。すっかり忘れていたが、Oxford の辞書類の新版が出ていたので 英国 Amazonから購入したものである。
`Oxford Dictionary of English' 3rd Ed. は、普通の辞書である。もうすぐ 4th Ed. が出版されそうな気配もあるが、 いつまでも古い Pocket Dictionary を使っているのもどうかと思われたので、購入した。 カバーは多少ケバケバしく、やや下品な印象を受けるが、カバーを外せば格調高い装丁になっているので、問題ない。 今回購入した中で、他の三冊は Printed in Great Bretain であったが、この辞書だけは Printed in Italy であった。 せっかくの Oxford なのだから、全部 Great Bretain が良かったのだが、そうもいかないようである。
`New Oxford Spelling Ditionary' 3rd Ed. は、単語の綴り辞書である。 せっかく購入したのだから、積極的に使おうとは思うが、これは不要であったかもしれない。
`New Oxford Dictionary for Writers and Editors' Revised Ed. も、以前に購入したものと、どれだけ変わっているのかはよくわからないが、 12 ポンドと、それほど高いものではないので併せて購入した。
`New Hart's Rules' 2nd Ed. も、1st Ed. との違いがよくわからないが、古い版を使う理由はないので、購入した。
最近、少し精神的ストレスが溜まっているものと思われる。 ストレスの発散方法は人により多様であろうが、私の場合、だいたい、ショッピングである。 そんなわけで、先日大物を買ったばかりであるが、割と衝動的に、二日間で教科書類を三冊、追加購入した。
一冊目は医学書院『標準形成外科学』第 6 版である。 大学でレポートを提出する関係上、必要な資料であった、という面もある。 300 頁にも満たないので、机の上に飾っておけば、そのうち読むのではないかと思う。
二冊目は医学書院『標準リハビリテーション医学』第 3 版である。 これも同じレポートに必要であった。 しかし、それ以前の問題として、私はリハビリテーション医学の教科書を持っていなかった。 レポートを書くうちに「君は、リハビリテーションを軽んじているのかね?」という心の声が聞こえてきたため、恥じ入って購入した、という面が大きい。 これも、そのうち読むであろう。たぶん。
三冊目は、図書館の「新着図書コーナー」でみかけた中山書店『あたらしい皮膚病診療アトラス』である。 著者は『あたらしい皮膚科学』の著者である北海道大学の清水宏教授である。 帯には「すべての医療者に役立つ!」「見ればわかる!」「あのベストセラー『あたらしい皮膚科学』の著者が 5 年の歳月をかけて作った渾身の『皮膚病アトラス』」などと書かれており、いささか俗っぽい印象を受ける。 しかし信頼の清水教授であること、立ち読みした限りではキレイでみやすい写真集であることなどから、購入を決めた。
教科書的には、肝炎の原因となるウイルスには、肝炎ウイルスの他に Epstein-Barr ウイルス (EBV)、サイトメガロウイルス (CMV)、 単純ヘルペスウイルス (HSV) があり、稀ではあるがヒトヘルペスウイルス 6 型 (HHV-6) による肝炎の報告もある、とされている。 これを読んだ時、私は、そんな馬鹿な、と思った。 HHV-6 は、乳幼児で突発性発疹の原因にはなるが、それ以外には基本的に無害であると考えられている。 後天性免疫不全症候群など免疫機能に問題がある患者ならともかく、健康な若年者において、こうしたウイルスが肝炎を引き起こすと考えるのは、理論的に無理がある。 医学の世界には、理論を軽視し、中途半端な経験に基づいて飛躍した論理を展開する者が多いから、どうせ、これもその類であろう、と考えた。 そこで、その「報告」というものを調べてみると、どうやら原因不明の肝炎症例において、 肝臓の生検標本から定量 PCR で当該ウイルスのゲノム DNA を多量に検出した、ということであるらしい。 非専門家にもわかるように平易にいえば、要するに「原因不明の肝炎患者の肝臓で、これらのウイルスが増殖していた例がある」ということである。 私が調べた限りでは、どうやら EBV や CMV が肝炎を引き起こすという説も、同様の症例報告に基づいているらしい。
言うまでもなく、これは論理が破綻している。 感染症について、ある微生物が原因であるとするための必要十分条件として、 19 世紀ドイツの解剖学者である Friedrich Gustav Jacov Henle が唱えた「ヘンレの三原則」が有名である。 このヘンレは、腎臓の「ヘンレの係蹄」などで知られる、あのヘンレである。 ヘンレの三原則とは、医学書院『標準微生物学』第 12 版によれば 1) 病変部に、必ず、その微生物が存在しなければならない; 2) その微生物は、その疾患にだけ見いだされなければならない; 3) その微生物を培養して感受性のある動物に接種すると、その疾患にならなくてはならない、というものである。 さらに、ヘンレの流れを汲む感染症学の巨人 Heinrich Hermann Robert Koch は、 4) その接種されて疾患を患った動物から、同一の微生物が分離されねばならない、というものを加えて「コッホの四原則」を唱えた。
よくよく考えてみると 2) の条件は不適切である。 ヘンレやコッホは、当該微生物が「たまたま、そこに居合わせただけの passenger」である可能性を除外するために、この条件を設けたのであろう。 しかし不顕性感染、つまり感染しているが発病していない、という状態はあっても良いから、この条件は厳しすぎる。 そこで考え直してみると、もし 1) 3) 4) を厳密に満足する passenger がいるとすれば、それはヒトに普遍的に寄生している微生物であろうから、 2') 健常者においては、その微生物に感染していない例がある、というような形に変形すれば、合理的に passenger を除外でき、十分である。 ここでは便宜上、これを「改変コッホの四原則」と呼ぶことにしよう。 実際、ウイルス学の現場では、この改変コッホの四原則こそが用いられているように思われる。
さて、改変コッホの四原則に照らして考える。 肝炎に対して EBV, CMV, HHV-6 は 2') を満足しているし、1) についても、肝炎のうち一部の群を独立した疾患と考えることで、満足できるであろう。 しかし 3) 4) は満足していないことから、原因ウイルスであるとはいえない。
では、どうすれば、これらのウイルスが肝炎の原因であると証明できたことになるのか。 肝炎の原因となることが証明されている B 型肝炎ウイルス (HBV) や C 型肝炎ウイルス (HCV) の場合、 ウイルスの発見より前に、不幸にしてこれらを意図せず接種したために肝炎となった患者が多数いたから、 ウイルスの分離にさえ成功すれば、改変コッホの四原則を満足することが可能であった。 もちろん、このウイルス分離の過程には多大な苦労があったのだが、その辺りの事情については 2004 年の「日本臨床」62 巻増刊号 7, 8 (ウイルス性肝炎 上、下) で簡潔に紹介されている。
さて、我々が問題にしている EBV, CMV, HHV-6 の場合、これらを接種して人体実験するわけにはいかないから、 改変コッホの四原則を厳密に満足することは、事実上、不可能であると思われる。 しかし、それは十分な検証なしに、これらを肝炎の原因と決めつけて良いとする理由にはならない。
改変コッホの四原則に相当するだけの根拠として、次のような病理学的事実を確認する必要があるだろう。 まず、ウイルスが肝細胞傷害を引き起こす機序について、ウイルス自体の細胞変性効果によるものなのか、細胞傷害性 T 細胞によるものなのかを明らかにする必要がある。 前者であれば、そうした細胞変性効果を、後者であれば CD8 陽性 T 細胞の集簇や、その T 細胞がウイルス由来エピトープに対して反応することを、 患者の肝臓において組織学的に確認せねばならない。 そうした証拠があって、初めて、改変コッホの四原則に相当するだけの根拠とすることができる。
学問の世界においては、年次などというものは、ほとんど何の意味も持たない。 たとえば大学院生の場合であっても、研究遂行能力であるとか、発表技術だとかいう点について、上級生の方が下級生より優れている、という傾向は、あまりみられない。
かつて大学院時代、私は、相手が上級生であろうが下級生であろうが構わずに、その主張する内容について納得のいかぬ点は全力で批判した。 それが、科学に対する誠実な態度であると信じていたからである。 この件について、大学院を中退する際、教授からは、もう少し指導的というか教育的な配慮が欲しかった、という趣旨のことを言われた。 この教授の言葉は、理解できる。たとえ科学的に誠実であったとしても、その言葉が相手の心に届かなければ、学問的にも教育的にも、価値が乏しいと考えられるからである。
しかし、これについては、今でも迷っている。 中学校や高等学校ならともかく、大学において、教員と学生、あるいは学生同士の指導は、どうあるべきなのか。 常に対等の立場として議論するのが、旧制第三高等学校時代から続く、我が京都大学の伝統ではなかったか。 他人を指導する、などという、おこがましい考えは、学問の場にふさわしくないのではあるまいか。
対等に接する、という意味では、小児相手の臨床実習が想起される。 私は、小児医療に特別強い関心があったわけではないのだが、なりゆき上、小児や乳児、あるいは新生児の診察を行う機会が、何度かあった。 だいたい小児科では、聴診することを「モシモシする」などと表現することが多いようである。 しかし私は、この種の「子供扱い」が苦手である。 自分が幼少の頃、そういう対応をされて不快に感じた記憶があることが、その一因であろう。 従って、私は小児や新生児が相手でも、大人に対するのと同様に、一貫して「胸の音を聴かせてください」などと表現している。 もちろん基本は敬語である。
ある時、某小児科教授も若い頃は幼児相手にも全て敬語であった、という話を聴いて、私は、安心した。
血液は、なぜ固まるのか。 この謎は、未だに、解き明かされていない。 初等的な教科書には、たぶん、「第 XII 因子から始まる内因系経路」と「第 VII/III 因子複合体から始まる外因系経路」が存在して云々、 というようなことが書かれているのではないかと思う。 しかし、この理解が、完全に誤りというわけではないにせよ、あまり正確なものではない、ということは、専門家の間では、ほぼ合意が成立しているようである。 概略だけであればWikipediaの第 X 因子の項にも 記載されている。古典的なモデルしか知らない人は、せめて、これだけでも読んでいただきたい。
血液凝固を巡っては、V. J. Marder らの Hemostasis and Thrombosis 6th Ed. (Lippincott Williams & Wilkins; 2013.) が詳しい。 これは、かなり高価で分量もあり、マニアックな書物であるが、書かれている内容が特別に難しいわけではないので、じっくり二年ほどかければ問題なく読めるであろう。 もちろん、名古屋大学医学部附属図書館にも所蔵されている。 血液内科医志望者や、血栓症に関心のある医学科五、六年生は、初期臨床研修修了頃までに、ぜひ、通読されたい。
興味深い話として、同書によると、ヒトの「先天性第 III 因子欠損症」なる疾患は報告されていないらしい。 マウスにおける実験では、第 III 因子の遺伝子を 2 コピーとも欠く胚は、受精後 8.5-11.5 日で卵黄嚢の血管形成異常および出血を来し、死亡するらしい。 一方で先天性第 X 因子欠損症などでは、そうしたことは起こらずに出生できることから、どうやら、第 III 因子には血液凝固因子として以外の働きがあるらしいのである。
歴史的には、血液凝固因子についてはネーデルランドのライデン大学などで盛んに研究が行われていた。 第 V 因子ライデン変異の、あのライデンである。 ライデン大学の内科学 (血液学) の H. C. Hemker らは、1965 年から 1979 年にかけて、`Kinetic Aspects of the Interaction of Blood Clotting Enzymes' と題する一連の論文を発表した。掲載誌は、初めの方は Thrombosis et diathesis haemorrhagica であったが、 後半では Thrombosis and Haemostasis に改名されたようである。 電子ジャーナルにはないが、名古屋大学医学部附属図書館には、全て揃っている。 なにしろ昔の論文なので、当時の「常識」を知らない我々にとっては、かなり読みにくい。 しかも、数式の誤記または誤植が目立つ。ひょっとすると、査読者は数学的な部分をチェックしていなかったのかもしれない。 しかし、この Hemker は大層な理論家であったようで、その理論展開は見事である。
Hemker の理論については、後日、レビューしたいと思ってはいるものの、なかなか、手がまわらない。
他大学がどうかは知らぬが、名大医学科の学生は、非常に協調性が高い。
たとえば、鶴舞キャンパスの図書館棟一階のピロティや、基礎研究棟の入口前には、大量に自転車が駐輪されている。 特に、図書館棟についていえば、階段前に自転車が並べられているため、通行人は、階段の一番端の、僅かに空いている部分を通らねばならない。 もちろん、通行の便宜や美観の観点から、こうした場所は駐輪禁止指定されているし、そうでなくても、社会常識として、駐輪を避けるべき場所である。 さらにいえば、こうしたピロティや建物入口から 10 m 程度の場所に露天ではあるが正規の駐輪場があるし、30 m 程度の位置には屋根付きの駐輪場があるのだが、 そこまで移動するのが面倒だから、こうした場所に駐輪するのであろう。 その上で「他人に迷惑を掛けてはいない」と主張するあたりが厚顔無恥なのであるが、たぶん、 「自分は迷惑に感じないから、他人も迷惑には感じていないはずだ」という自己中心的な発想なのだと思われる。 あるいは、「禁止されているとはいえ、他の人もやっているのだから、自分もやって良いはずだ」という幼稚園児的な発想なのかもしれぬ。
以前にも書いたが、図書館における振舞も品行方正である。 たとえば飲食や私語について指摘を受けても、他の人もやっている、だとか、お前も私語をしているではないか、といった言い訳をする。 本来ならば小学校あたりで身につけるべき基本的社会性を欠如していると言わざるを得ない。 特に「お前も同じではないか」という弁明については、「だから、お互いにやめよう」とならずに「だから、俺もやって良いのだ」という論理を展開するあたり、 高い倫理規範を持っているといえよう。
なぜ、こうなってしまったのか。 一つには、名大医学科の閉鎖的な村社会構造、不条理な、いわゆる体育会的な上下関係に問題があるように思われる。 個々人が社会規範に照らして行動を決定するのではなく、直接関係のある先輩や上司の指示に従って、行動は決定される。 すなわち、先輩が「別に、図書館下に自転車を置いても良いんじゃないの」と言えば、それは、良いのである。 先輩が「図書館で弁当を食べるのは構わない」と言うのだから、それは構わないのである。 もちろん、ここでいう「先輩」とは部活動の上級生などに限定するのであって、直接的な接点のない上級生は含まれない。
こういう環境で育った学生が、はたして、まともな医療を提供できるのか。 「患者中心の医療」などと妄言を述べてはいるが、こうした社会的配慮の欠落した人間に、それが可能であるとは、とても思われない。
(2015.09.02 追記) 図書館棟一階ピロティの自転車については、少し前に当局により一斉撤去されて以来、慎しむ者が増えたらしく、以前よりは、だいぶマシになっている。 不正駐輪をやめたこと自体はよろしいのだが、撤去されなければやる、撤去されるならやらない、という判断基準は、いささか、卑屈な精神であるように思われる。 どちらかといえば、撤去されようがされまいが構わず不正駐輪する方が、行動の一貫性という意味においては、信頼できる。
過日、同級生の某君が、大学の私の机の上に置かれていた英和辞典をみて、「君の知性は、その程度か」という趣旨の発言をした。 曰く、使っている辞書をみれば、その人の知性の程度がわかる、というのである。 これに対し、私は、返す言葉がなかった。
その時、机上に置かれていたのは旺文社『新英和中辞典』であった。 これは、私が高校生の頃から使用してきたものである。 この辞書は、中学生や高校生といった英語の初心者には適しているであろうが、確かに、 我々のようなプロフェッショナルが言葉の一つ一つにこだわって文章を書くための用には、耐えぬ。
恥じ入った私は、ただちに自宅に戻り、かつて大学院時代に使用していた辞書三点、すなわち `Pocket Oxford English Dictionary', `New Oxford Dictionary for Writers and Editors', `New Hart's Rules' を書棚から取り出した。
`Pocket Oxford English Dictionary' は、普通の辞書である。単語の意味を調べるために用いる。 いわゆる英英辞典である。
`New Oxford Dictionary for Writers and Editors' は、繊細な表現の違いを調べるために用いる。 たとえば `inquire' と `enquire' の違いは何か、とか、`model' の現在分詞は `modeling' なのか `modelling' なのか、とか、 「かつて」を意味する表現は `one time' なのか `one-time' なのか、といった具合である。
`New Hart's Rules' は、文章を書く際の表現の規則である。たとえばシングルクォーテーションとダブルクォーテーションの使い分けであるとか、 クォーテーションの最後に . が来る場合はクォーテーションの中に入れるのか外に出すのか、といった具合である。
もちろん、こうした書法に絶対的な正しさはなく、それぞれの流儀があって構わない。 しかし、自身が何か文章を書く際には、「なぜ、そう書いたのか」を、必要とあらば他人に説明できなければならない。 そのための指標として、私はオックスフォード方式を採用した。
この辞書三点を、冒頭に登場した某君にみせたとろ「まぁ、それなら良いんじゃないかね」との言葉をいただいた。合格点であったらしい。
一年半ほど前に、いわゆるエセ科学の話を書いた。 ここ二、三年ほどであろうか、一部で話題にされているのが「ブルーライト」である。 「ブルーライト」という学術用語は存在しないが、ブルーライト研究会による 説明からすると、 どうやら彼らは短波長の可視光線および長波長の紫外線を総称して「ブルーライト」と呼んでいるらしい。 このブルーライト研究会という団体は、慶應義塾大学医学部眼科学教授の坪田一男氏を世話人代表とする、医師、医学者らの団体であり、 学術的な内容を取り扱う、まじめな団体である。 この坪田氏は南山堂『TEXT 眼科学』改訂 3 版の編者の一人でもある。
光が、人体、たとえば概日リズムなどに何らかの影響を与えることは、まず間違いない。 長波長の光と短波長の光では影響が違う、というのも、充分に考えられることである。 従って、短波長の光線が人体に与える影響を検討することは、生理学や眼科学などの観点からいって、価値があり、学術的に妥当であるといえる。 実際、ブルーライト研究会は、そうした真面目な論文を紹介しており、真面目な団体なのだとは思う。
しかし、繰り返すが、「ブルーライト」という表現は学術的にキチンと定義されていない。 一部の、科学を尊重しない営利企業が、素人を欺く目的で流布した、いわゆるエセ科学用語の一つであって、「マイナスイオン」等と同様のものである。 彼らのいう「ブルーライト」が、場合によっては人体に悪影響を及ぼす可能性はあるが、一方で、「ブルーライト」は色彩を形成する三要素の一つであり、 我々の生活にとって極めて重要な存在であることは間違いない。 液晶モニタに貼付する「ブルーライトをカットするフィルム」の類の商品については、科学を冒涜するインチキ商品であると言わざるを得ない。 なにしろ、いわゆるブルーライトを減らしたいのであれば、モニタの設定を少しいじれば済むだけのことなのであって、そのようなフィルタなど、必要ないからである。 もちろん、そのようにモニタの設定を変えれば画面の鮮かさは減少するが、ブルーライトとはそういうものなのだから、あたりまえのことである。 逆に、フィルタがモニタの色彩に影響を与えないならば、それはブルーライトをカットできていないことの証拠である。
なぜ「ブルーライト研究会」の人々は、こうした「ブルーライト」という表現を用い、まるでエセ科学商品の製造メーカーを支持するかのような、 素人を意図的に誤解させ、欺くような内容をウェブサイトに記載しているのか。
次のような疑念を、抱かざるを得ない。 すなわち、無知な一般大衆が、「ブルーライト」なるものに対する漠然とした不安を抱き、彼らの研究や業務に関心を向け、 そして眼科医を受診することを、好都合だと考えているのではないか。
「TEXT 眼科学」は多数の著者が分担執筆した書物であるから、節により、品質に若干のばらつきはある。 その中で「糖尿病網膜症」の節は、とりわけ見事な記述であり、私は、いたく感銘を受けた。 しかし、その著者が、このブルーライト研究会なるいかがわしい団体の世話人に名を連らねていることは、遺憾である。
ここ二週間、いろいろとあり、一部の友人には心配をかけたようである。 感謝するとともに、お詫び申し上げる。 日記も、本日より再開する所存である。
再開早々に医学の話を展開するのも良いのだが、ワンクッション置く意味で、政治の話を書く。 以前にも書いた私が日本国を嫌いである、という話であるが、 今回は近頃話題になっている、いわゆる安保法制についてである。 賛成派の主張も、反対派の主張も、それなりに理解はできるのだが、ここで憲法改正を議論すべし、という声があまり聞かれないことが遺憾である。 そもそも、この問題の発端は、明らかに憲法違反である自衛隊の存在を黙認してきた日本の防衛体制にあると考えられるからである。
憲法第 9 条を素直に読めば、自衛隊の存在が現行憲法下において許されると考える余地はない。 あの条文は、防衛力としての、専守防衛のための戦闘能力を保持することをも放棄しているとしか理解できないからである。 一部の自称憲法学者やら法曹関係者やらは、意味不明な理論により「自衛隊は合憲だ」などと主張しているようだが、 そうした理屈が許されるのであれば、もはや憲法に存在意義はない。
従って、憲法を遵守して筋を通すのであれば、自衛隊は解散せざるを得ない。 もちろん、あの条文は外国軍隊に頼って国土防衛することを許容しているとも読めないから、日米安全保障条約も破棄せざるを得ない。 かつての日本共産党は、実際、そのように主張していた。 主張内容に全面賛成はできないものの、当時の日本共産党は、信頼できる政党であった。 しかし、いつの頃であったか、同党も自衛隊の存在をやむなしとして認めるように方針転換したようである。 その頃より、私の同党に対する信頼の程度は著しく低下した。
いうまでもなく、自衛隊を解散し、日米安保条約を破棄して、日本の平和と安全が守られるとは思われない。 諸外国との良好な国際関係を維持するためには、ある程度の軍事的な協力関係も必要であろうとも思われる。 しかし、それならば、まず憲法を改正し、自衛隊や安保条約などを合憲化することが必須である。 それを回避し、いわゆる解釈改憲で押し通すことは立憲主義を否定することに等しいし、 諸外国から「日本は、そういうことをする、信頼できない国だ」と、みられるであろうことを忘れてはならない。
また、いわゆる北方領土については、日ソ共同宣言で「歯舞、色丹のみの返還」で合意が成立している。 それにもかかわらず、日本の政治家には「択捉、国後も含めた返還」を唱えている者も少なくないが、恥ずかしいことである。 「日本は、自国の憲法も、外国との約束も、守らない国である」と宣言しているに等しい。 この点について、日本共産党は、日ソ共同宣言自体を不当なものとして否定した上で、千島列島全体の領有権を主張していたように思う。 さらに、私の知る限りでは、いわゆる政党助成金を「税金を特定政党のために使うことは不適切である」と批判して受け取り拒否しているのは、 日本共産党のみである。 こうした点からいって、日本共産党は、他の政党と比較すれば、いくぶん、信頼に足る集団であるように思われる。
念のために確認しておくが、私は共産党支持者ではあるが、党員ではないし、党の活動に参加したこともない。参加するつもりもない。 共産党の主張には、賛同できないものも多い。他の政党よりマシだから支持する、というだけのことである。
標題のような言葉を、しばしば、耳にする。 しかし、たぶん、これは、とんでもない誤りである。
これまで述べてきたように、現状の医学科生は、医学を学んでいないし、現実の医療とも異なる「何か」を「学んで」いる。 そうした無意味な内容よりは、医者になってから学ぶ臨床技能の方が役に立つのは、当然である。
しかし本当は、学生のうちに、我々は医学の基礎を学ぶことになっている。 病理学、薬理学といった、いわゆる基礎医学や、公衆衛生学や法医学などの社会医学から始まって、臨床検査医学のような基礎と臨床の中間に位置する分野、 そして内科学や外科学などの臨床医学を、カリキュラム上では、学んだことになっている。 そうした医学を本当に学んでから医師になった者と、医学を学ばずに経験と臨床手技だけ磨いて医業に就く者では、 同じ患者、同じ検査結果をみても、そこから得るものは大きく異なるであろう。 すなわち、「医者になってからの勉強」は「学生時代の勉強」を土台として初めて成立するのであって、両者を比較すること自体が誤りである。
特に学生が軽視するのは、薬理学、病理学、臨床検査医学ではないか。理屈を考えるよりも、薬の使い方、検査結果の読み方を丸暗記する方が「効率的」だからである。 それで間違いが起こったとしても、「標準的な水準」に達してさえいれば法的責任を追及されることはないのだから、周囲に合わせておけば「問題ない」のである。
しかし「標準的な水準」とは、「多くの医師が達している水準」ではなく「医学教育カリキュラムから考えて達していることが期待される水準」と解釈するべきである。
Jamilah 氏のプロジェクトを手伝っている関係で、第 108 回医師国家試験の問題を少しずつ閲覧している。 そこで、一昨日の記事で言及した件について気づいたことがある。
第 108 回医師国家試験 D 問題 25 は、かいつまんで紹介すると次のような問題である。 「42 歳男性が 4 ヶ月前から続く微熱および 3 週間前から続く全身倦怠感および手足の関節痛を主訴に来院した。 一週間前に数秒間の眼前暗黒感を生じた。4 ヶ月で体重は 5 kg 減少した。 心尖部に体位によって強さが変化する心雑音を聴取する。 その他の身体診察所見や検査所見に異常はなく、リウマトイド因子や抗核抗体も検出されず、補体価にも異常は認められなかった。 診断のために有用な検査はどれか」
国家試験的な「論理」としては「体位によって強さが変化する心雑音」から「粘液腫」であって、心エコーが「診断のために有用な検査」だというのであろう。 もちろん、この身体診察所見だけで粘液腫と診断するのは無理がある。 ひょっとすると、実は白血病の類であって、骨髄穿刺が診断に有用なのかもしれない。 なにしろ、この設問では末梢血の検鏡所見が記載されていないので、実は白血球に異型があるかもしれない。
何が言いたいのかというと、これだけの情報では、何が「診断のために有用」であるかは判定できないのである。 出題するなら「次に行うべき検査はどれか」とするべきである。
さらに進んで推測すると、たぶん、これは医師国家試験の、くだらない「お約束」なのであろう。 「体位によって変化する心雑音は粘液腫であって、心エコーが診断に有用である」という取り決めがあるものと思われる。 もちろん、これは医学ではない。 同様に、一昨日の件でいえば、(尿路感染症などによる) 間質性腎炎においては NAG の測定が診断に有用である、という、医学ではない取り決めがあるものと推定される。
彼らは、こうした「取り決め」を必死に暗記しているのである。 世間には「医学部は勉強が大変だ」などという風評があるようだが、その実体は、このようなものである。
「腎機能」という言葉は、曖昧である。 臨床医の中には「腎機能とは糸球体瀘過量 (GFR) のことである」と主張する者もいるが、これは暴論である。 エリスロポエチンの産生や、酸塩基平衡なども重要な腎臓の機能だからである。 従って、キチンとした議論をする際には「腎機能」という漠然とした表現は用いるべきではない。
糸球体瀘過量を測定するには、イヌリンクリアランスを用いる方法や 99mTc-DTPA あるいは 99mTc-MAG3 を用いる核医学検査が有用である。 しかし、これらの検査は煩雑であるため、臨床的には、比較的簡便なクレアチニンクリアランス法や、血漿クレアチニン濃度から推定する方法が用いられることが多い。 クレアチニンを用いる方法の最大の欠点は、クレアチニンは尿細管から分泌される、という事実である。 すなわち、GFR が低下している状態であっても、クレアチニンクリアランスは低下しないことがある。
以上のことからわかるように、血漿クレアチニン濃度をもって「腎機能」の指標とするのは、かなり不適切である。 そのあたりの認識が乏しい者は、日本だけでなく、米国などでも多いらしい。
さて、本日の主題は、GFR の代償機構である。 腎臓は予備能の大きな臓器であって、腎炎などによって多少の障害を来しても、GFR は代償され、低下しない。 その機序は大別すると二つあり、尿細管糸球体フィードバックと、神経体液性の調節である。後者は、いわゆるレニン-アンギオテンシン-アルドステロン系であって、 有名であるし説明すると長くなるので、ここでは割愛する。
尿細管糸球体フィードバックは、緻密斑で管腔内液の塩素イオン濃度の低下を感知し、輸入細動脈を拡張させることで GFR を増加させるものである。 機序の観点からは、レニンが最終的に輸出細動脈を収縮させることと対照的である。
MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版は、腎臓の異常を生理学的に解説した名著である。 著者は Harvard Medical School の病理学教授 H. G. Rennke と腎臓部門の准教授 B. M. Denker である。 同書では本文中に設問が挟まれていることも理解の助けになるが、 特に第 1 章 第 4 問は味わい深い。これは、次のようなものである。
原発性糸球体疾患では瀘過に使われる部分の面積の低下によって GFR は低下する傾向にある. この変化に対する自己調節の反応はどのようなものであろうか?
これに対する解答は、もちろん「糸球体疾患であれば緻密斑を介した機序による輸入細動脈の拡張が起こり、GFR はあまり低下しない」というものである。 「GFR が正常であることは糸球体障害の不存在を意味しない」という教訓を含んでいるわけだが、 この設問において「原発性糸球体疾患では」という一言は、実は非常に重要な意義を持っている。
たとえば腎梗塞により腎臓の一部分だけが選択的に機能を失った場合や、腎癌のために腎摘出や部分切除を受けた場合、 GFR は低下するが、「残存する糸球体一個あたりの瀘過量」は不変である。 従って、直接的には尿細管糸球体フィードバックは働かず、代償機構が作動しないために GFR は明確に低下するのである。
こういった細やかな点まで考慮した丁寧な記述は、さすがハーバードである。
しばらく、医学の専門的な話が続く。 ある友人にみせてもらった書籍に、次のような設問が掲載されていた。
この設問に対して、自信を持って「○」または「×」と答えた人は、不勉強である。
まず「間質性腎炎」という術語であるが、これは医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば「炎症の主座が腎尿細管・間質にある腎炎」のことである。 すなわち「糸球体腎炎ではない腎炎」という意味である。 炎症が尿細管に限局して間質に波及していない場合も間質性腎炎と呼ぶのか、という疑問もあるが、そういう例は稀なので、ここでは議論しない。
N-アセチル-β-D-グルコサミニダーゼ (NAG) は、リソソーム酵素の一つである。 臨床検査医学においては、しばしば尿中 NAG 活性が測定され、これは主に尿細管上皮の逸脱酵素である。 従って、いわゆる間質性腎炎で尿細管細胞傷害を来した場合には、典型的には尿中 NAG 活性は高値になる。
しかし臨床検査医学的には、尿中 NAG 活性高値と間質性腎炎を単純に結びつけることはできない。 たとえば微少変化型ネフローゼ症候群の場合、尿細管細胞傷害は乏しいが、腎臓以外の細胞から排泄された NAG が糸球体で瀘過されるため、尿中 NAG 活性は高値になる。 また慢性間質性腎炎で尿細管が高度の障害を来している場合にも、肝硬変の際に血中肝逸脱酵素活性が低下するのと同じ理屈で、尿中 NAG は低値となり得る。
すなわち「尿中 NAG 活性低値は急性尿細管傷害を否定する根拠になる」というのは正しいが、それ以上のことは、この検査単独ではいえない。 それをふまえると、「尿中 NAG の測定は間質性腎炎の診断に有用である」という表現は曖昧であり、正誤の判断が難しい。
次に「67Ga シンチ」であるが、そのような検査は存在しない。 そもそも「シンチ」というのは俗称であって、正しくは「シンチグラフィ」という。 臨床的に67Ga が使われているのは現状では67Ga-クエン酸 シンチグラフィだけであるから、 「67Ga シンチ」とは、これのことを言っているのだろう。 しかし核医学検査においては「どの核種を用いるか」も重要であるが、「どの薬剤を標識しているか」も同様に重要なのであって、「クエン酸」の部分を省略してはならない。
さて、67Ga-クエン酸の集積機序は不明であるが、 基本的には、Positron Emission Tomography (PET) で用いるフルオロデオキシグルコース (FDG) と同様の集積パターンを示すらしい。 従って、歴史的に悪性腫瘍の検索目的で使用されてきたが、近年では FDG-PET の普及に伴って、実施されなくなってきている。 金原出版『核医学ノート』第 5 版によれば、投与直後には Ga-クエン酸は腎から排泄されるが、撮像を行う頃には肝排泄が主であり、腎臓はほとんど描出されないという。
もちろん侵襲性が強く時間のかかる検査であるから、腎炎を疑っている場合に、その診断目的で施行するべきではない。 しかし Ga-クエン酸は炎症部位にも集積するのだから、状況によっては、間質性腎炎の診断の助けにはなる。
Myelolipoma という稀な疾患の話を小耳に挟んだので、私が調べた内容も併せて紹介する。 どのくらい稀かというと、医学書院『医学大辞典』第 2 版や、`Harrison's Principles of Internal Medicine' 19th Ed. の索引に載っていないほど、稀な疾患である。 もちろん、このようなマニアックな疾患を学生が積極的に勉強する必要はない。 しかし、医学の深淵を覗き込み、人体の不思議と神様の悪戯に対する畏敬の念を忘れないためには、時に、こうした珍しい疾患のことを想起するのも有益であろう。
`Rosai and Ackerman's Surgical Pathology' 10th Ed. によれば、 Myelolipoma は骨髄様の組織像を示す腫瘤性病変であり、副腎皮質に生じることが多いが、縦隔などに生じることもある。 稀ではあるが両側性に生じることもある。 通常、骨髄疾患を合併しておらず、白血病などに随伴する髄外造血とは異なる。 血球は三系統とも形成されるが、しばしば、巨核球が多い。
Am. J. Surg. Pathol. 30, 838-843 (2006). によれば、X 染色体不活化の具合から考えて、造血系細胞および脂肪細胞は共にクローナルな増殖によるものである、 すなわち同一の細胞から分化して生じたものであるらしい。一方で、多くの場合、染色体転座は認められない。 細胞異型は乏しく、病変内部の血管は骨髄血管とは異なり窓が少なく、また間質も正常骨髄とは異なるらしい。 脂肪細胞と造血系細胞との比率は多様であるが、 年齢とは相関しない。 これらの状況証拠から、これは 1) 骨髄細胞が異所性に増殖したもの; 2) 胚性の間葉系細胞が分化したもの; 3) 副腎間質細胞が化生したもの; のいずれかであると考えられる。 特に 3) については、副腎皮質ホルモンの過剰な産生により myelolipomatous な病変を生じる、という意見がある。
以下は私の想像である。 この不思議な病変は、細胞異型に乏しいことや明らかな染色体異常を伴わないことから考えて、腫瘍ではなく、異所性の過形成、すなわち分離腫であろう。 細胞起源としては、上述の 2) や 3) の可能性も否定はできないが、骨髄造血幹細胞由来と考えるのが素直である。 すると問題になるのは、脂肪細胞と造血系細胞との比率は何によって規定されるのか、ということである。 考えてみれば、そもそも健常人において、加齢に伴って骨髄の造血系細胞が減少し、脂肪が増えること自体が不思議である。 造血系細胞が減少することも不思議だが、なぜ、繊維化ではなく脂肪の増加によって空間が埋められるのだろうか。 その脂肪は、一体、どこから来たのだろうか。
一口に「脂肪細胞」と言っても、骨髄の脂肪と、皮下脂肪では、細胞の形は似ていても細胞機能としては大きく異なるであろう。 さらに、健常な骨髄の脂肪細胞と、Myelolipoma の脂肪細胞でも、性状は大きく異なるに違いない。 これらの細胞間で、mRNA や蛋白質の発現具合は、どのように異なるのだろうか。 それを研究するとしたら、具体的に、何を調べれば良いだろうか。 マイクロアレイや、いわゆる次世代シークエンサーなどで網羅的に調べるのは、有力ではあるが、あまり知性的な研究デザインとはいえない。 何か妙案はないだろうか。
私は、北陸医科大学附属病院 (仮) で初期臨床研修を受け、その後も十年程度、同病院に勤めるつもりである。 このことを言うと、周囲の人は異口同音に「一体、何がしたいのか」というようなことを言う。 中には「都落ち」などと失礼なことを言う者もいる。
確かに、私自身、「これがしたい」という具体的な目的のために北陸医大に行くわけではない。 しかし、そもそも人生において、そういう具体的な目的を述べる人は、多少なりとも嘘をついているのではないか。 何かを為すという目的が第一にあるのではなく、どう生きるか、という過程そのものを重視するのが、あたりまえの姿なのではないか。
私は、いわゆる聖書そのものは信仰していないという意味において狭義のキリスト教徒ではないが、しかし「類キリスト教徒」であると思っている。 聖書は、どうすれば天国に行けるか、というようなことを民衆に教えた聖人達の言行録であるが、 しかし、その教えの本質は、天国に行くための手段を伝えることでは、あるまい。 どのように生きるべきか、ということを、無学な民衆にわかりやすく伝えるための方便が「天国」であり「奇跡」なのではないか。 もちろん、私はキリスト教学や神学を系統的に学んだわけではないから、神学者や聖職者が、この問題をどう理解しているのかは知らぬ。 ただ、私が、そのように思っている、というだけのことである。
話を医学に戻す。 なぜ北陸医大か、というならば、正直なところ、私が北陸医大を好きだから、ということに過ぎない。 四年前に私が北陸医大から受けた温情あふれる対応は、生涯、忘れることがないであろう。 彼らが私を必要としてくれるなら、私が北陸医大に行く理由としては、それで充分である。
以前に購入してから本棚の肥やしになっていた Katzenstein `Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease' を、 飾っておくだけではもったいないので、少しずつ読み始めた。 さっそく、総論部分において背筋のゾッとする記述があったので、ここに記録しておく。
まず前提として、びまん性肺疾患の組織学的診断は、難しい。 腫瘍の診断においては CT や MRI よりも組織学的診断の方が信頼できるが、びまん性肺疾患においては、そうでもない。 一般論として病理診断においては臨床所見も重要であるが、特に、びまん性肺疾患においては画像所見などの重要性が大きい。 その上で、Katzenstein は次のように述べている。
Careful correlation of clinical and pathologic findings in all cases can save the pathologist from making an erroneous (and sometimes foolish) diagnosis. It should be remembered, however, that microscopic examination remains the gold standard for diagnosis, and the pathologis must be prepared to stand by the histologic diagnosis when it is straightforward, regardless of the clinical findings.
私が訳すと、次のようになる。
臨床所見と病理学的所見を常に慎重に対比することは、病理学者にとって、誤った、そして時に馬鹿げた診断を下すことを回避するために、重要である。 しかし、検鏡所見が診断のゴールドタンダードであるということは、忘れてはならない。 臨床所見が何であろうと、病理学者は、組織学的所見が明確に何かを物語っている限りにおいて、常に、その側に立たなければならない。
当然、といえば当然のことであるし、たぶん、二年ほど前の私であれば、この文言に何の感動もおぼえなかったであろう。 しかし、一年半ほどの臨床実習を終えて、この言葉を読むと、その印象はだいぶ異なる。 たぶん、初期臨床研修を終えてから、あるいは医師を十年ほどやってから、これを読めば、また違った感想を持つのであろう。
ひさしぶりに医学の専門的な話を書く。 私の大好きな分野である臨床検査医学、特にマニアックな補体の話であり、医学科三年生以上の学生向けである。 そもそも「補体とは何か」ということをよくわかっていない人には、MEDSi 『エッセンシャル免疫学』第 2 版をお勧めする。 補体の話は、医学書院『標準臨床検査医学』第 4 版では 2 ページ弱しか記載されておらず、実に貧弱で、過剰に簡略化されているように思われる。 一方、金原出版『臨床検査法提要』改訂第 34 版には詳細な記述がなされており、意欲のある学生にはお勧めである。
ふつう、補体活性を測定したいと思うのは、全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythemathosus; SLE) などにおける慢性自己免疫性炎症反応により 補体活性が消費性に低下していることを疑う場合である。 単に急性炎症などを検出する目的では通常、測定されない。これは、補体活性の測定がややこしく、しかも、こうした目的においては CRP などの測定に比して特に優れている点がないからである。
まず基本事項として、補体系の測定としてよく検査されるのは C3, C4 の定量、および CH50 の測定である。 C3 は補体活性化の 3 つの経路の合流点であり、C4 は古典経路の因子である。 CH50 は古典経路全体の活性をみるものである。 CH50 は、感作されたヒツジ赤血球、つまり赤血球表面抗原に対する抗体のついた赤血球に患者血清を混ぜる試験で測定する。 すなわち、50 % の赤血球を溶血させる補体量を 1 CH50 単位とし、患者血清に補体が何単位含まれているかを示すのである。 これと C3, C4 の組み合わせにより、補体系にどのような異常が生じているのか、ある程度の推定を行うことができる。
C3 と C4 だけ測定すれば CH50 の測定は不要なのではないか、というのは、もっともな疑問である。 教科書的には、C3 と C4 が正常で CH50 が低値となるのは、C3, C4 以外の補体欠損症であり、 稀な疾患である。また CH50 高値となるのは感染症や悪性腫瘍など、補体価が診断根拠として重要ではない疾患である。 従って、補体価が問題になるような状況においては、C3 や C4 が異常低値であれば CH50 も当然に低値なのであって、 CH50 の測定には、特殊な場合を除いては、診断上の価値が乏しいようにみえる。
しかし臨床検査医学的な発想としては、そもそも CH50 あるいは類似の検査により補体系全体の活性をみなければ、 C3 や C4 のみで議論するのは不適切である、ということらしい。 換言すれば、実際には補体系の異常がなくても C3, C4 が「異常値」を示すことがあるので、常に CH50 を確認する必要がある。 現時点では私はこのあたりの実感をあまり持っていないので、今後、検査部における研修等を通じてよく勉強していく必要がある。
いささかマニアックな検査としては ACH50 がある。 CH50 が古典経路をみるのに対し、ACH50 は第二経路をみるものであり、試薬が異なる。 すなわち CH50 の検査ではヒツジ赤血球を使うが、ACH50 ではウサギ赤血球を用いる。 というのも、ウサギには C3 受容体があり、第二経路による溶血が起こるからである。 ただし、そのままでは古典経路も活性化するため、Ca2+ はキレートしておく。 これは、古典経路は Ca2+ 依存的であるのに対し、第二経路は非依存的だからである。
詳しい事情は知らないが、この検査は「臨床検査法提要」には記載されている一方で、 「標準臨床検査医学」や、医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』には記載されていない。 あまり一般的に行われる検査ではないからであろうか。 確かに、私がこの検査を「みた」ことがあるのは、The New England Journal of Medicine の Case Records of the Massachusetts General Hospital 11-2015 の症例 (ACH50 ではなく AH50 と表現されている) のみであり、稀な疾患で特殊な状況における検査であった。
初期臨床研修に際しては、救急科における研修が重要である、とか、救急外来が重要である、とか、いわれることが多い。 しかし私には、なぜ、どのように重要なのか、よくわからなかった。 過日、たまたま iCrip magazine vol. 28 という医学科生向けのフリーマガジンを何気なくペラペラとめくっていて、この疑問が解消した。
iCrip に記載されていた「救急科研修が重要な 3 つの理由」というものを要約すると、次のようなことになる。 1) 医師として最低限必要な common disease への対応能力がつき、見逃してはいけない疾患を鑑別する能力が身につく。 2) 患者や家族らに対しする的を絞った質問などにより、必要最低限の情報を「短時間で」聴取する能力が身につく。 3) 迅速な対応が求められるプレッシャーの強い環境の中で経験を積める。
これらは要するに「救急医療の技術が身につく」と言っているのであって、「医師としての基本的な技量が身につく」と言っているわけではない。 1) については「common disease」という言葉の意味が不明確だが、「救急科で遭遇するような疾患を鑑別する訓練になる」という意味であろう。 2) は、救急診療における特殊技能であって、一般的な外来診療では、むしろ、ある程度の時間をかけてじっくりと話を聴くことが重要である。 3) も、一般には、それほど迅速さが求められることはない。初心者は、まず、時間をかけて正確にできるようになることが重要であろう。
また、「突然の疾病や外傷などに対応する救急医療は医療の原点とも言われている」という記述もあるが、誰が、どのような理由で、そのように主張しているのか不明である。 「病理学は医療の原点である」というならわかるが、なぜ、高度な専門技能である救急医療が原点なのか、理解できない。
このように、的を外した内容しか「救急科研修が重要な理由」として挙げられない、という事実は、「実は救急科研修が重要だとする理由はない」ことを示唆している。 実情は、たぶん、次のようなものであろう。 病院にもよるが、救急科としては、救急外来などにおいて「簡単な疾患」を「まわす」ための人手が欲しい。 それには、若くて元気のある研修医が最適である。 研修医にしても、救急外来は人手が足りないから、早期から主治医のような立場で活躍でき、充実感を満喫できる。
つまり、初期臨床研修において救急科を重要視することには、合理的根拠がない。
なお、社会的側面から、全ての医師に基本的な救急の経験は積んでおいてもらいたい、という事情はある。 市中で急病人が生じた際、たまたま近くに医者がいた場合、その医者が救急診療の経験皆無であるよりは、 たとえ研修医時代だけであったとしても、一応の経験者である方がありがたい、というものである。 しかし、そういうことを言い出したら、全ての医師は病理診断の経験を少しは積むべきだし、放射線科、臨床検査科、血液内科なども必修化するべきである。 救急科だけを特別扱いする理由にはならない。
7 月 18 日に、Advanced OSCE の試験があった。 私は、前日に所用のため富山を訪れており、当日朝に現地を出発し、昼過ぎに名古屋に着き、15 時頃からの試験を受ける予定であった。 ところが、あいにくの台風のため、敦賀あたりで電車が止まっており、特急「しらさぎ」や「サンダーバード」も運休だという。 やむなく、北陸新幹線で東京まで行き、そこから東海道新幹線で名古屋へ向かい、なんとか 14 時 38 分頃に大学に到着した。ギリギリである。
Advanced OSCE では、「医療面接」「救急」「外科基本手技」「胸部 X-P 読影」の四科目が実施されることが事前に告知されていたが、 具体的な試験範囲や内容は公式には通達されていなかったように思う。 一部は四年生の実習の際に、「このあたりは Advanced OSCE で問われる」などということが口頭で述べられたようにも思うが、それだけである。
従って、当然、私は Advanced OSCE のための特別な対策は何も講じずに受験した。 試験場で右も左もわからずアタフタして失笑され、再試験となることは覚悟した上でのことである。
多くの学生は、先輩からの情報に頼って試験対策を講じて受験したらしい。 ひょっとすると、大学当局も、そのような学生の対応を前提にして、敢えて試験範囲を公表していないのかもしれない。
試験があるからといって、その内容を非公式な手段で入手して対策する、というやり方が、正当なものであるとは思われない。 それを暗に推奨する名大医学科当局の方針は、言語道断である。
(2015.08.02 追記) もちろん、試験に際して範囲を明示しないこと自体は適切であると思うし、そういう趣旨の試験であるならば、問題ない。 しかし実際には、例年同じような内容の試験が課されているらしく、どうもそういう趣旨であるようには感じられない。
だいぶ、間隔が開いた。このあたりの事情については、今は触れない。
さきほど、耳鼻咽喉科の試験結果を確認してきた。合格である。 これは臨床実習で精神的に疲弊していた時期の試験であり、ろくに勉強する気も起きなかったため、 南山堂『新耳鼻咽喉科学』を 4 分の 1 程度だけ読んだ状態で受験した。まだレビューは書かない。 それで合格なのだから、かなりの温情採点であったものと思われる。
さて、某日 23 時 20 分頃、近所のスーパーマーケットからの帰路において、路傍に倒れている中年男性を発見した。 立場上、単に通り過ぎるわけにもいかないから、意識状態の確認を行った。 声をかけただけでは反応がなかったが、肩を軽く叩くと開眼した。JCS 20 である。 発話はみられたが、意味不明であった。呼気からはアルコール臭がした。 飲酒による酩酊であろうと考えられた。 なお、後から思えば、GCS による意識障害の評価も行えば良かった。
どのように対応しようか少しだけ迷ったが、患者には重篤な様子はなく、私はあいにく電話を携帯しておらず、手荷物にはナマモノも含まれていたことから、 一旦帰宅し、電話をもって再び患者のもとを訪れた。この間、十分弱の時間が経過していたと思う。患者は、あいかわらず路上で横になっていた。 正直なところ、あまり関わりたくなかったので、警察に任せようかと思い #9110 に電話したが、相談窓口は夜間は閉まっているらしい。 しかし、こんな案件で 110 番に連絡するのも、いかがなものかと思われた。 そこで、やむなく、自分で対応することにした。
大きな声で、肩を叩きながら話しかけると、一応、会話は成立した。 立てるか、と問うたところ、ヨロヨロと患者は立ち上がった。 帰れるか、と問えば、歩き出したが、いわゆる千鳥足であり、小脳失調が疑われた。 段差につまずいて倒れて頭部打撲、頭蓋内出血などを来されては困るので、結局、患者自宅の玄関口まで送っていった。
この対応が適切であったかどうかは、難しい。 ひょっとすると、あの後、患者は自宅で嘔吐し、吐瀉物により窒息して死亡したかもしれない。 また、酩酊した患者から暴行などを受ける恐れもあった。 少なくとも、患者を自宅まで護送することは不必要であるし、犯罪予防の観点から、異性相手には原則として避けるべきである。 かといって、路上に寝かせておくのも、適切とはいえない。 多くの人が、こうした意識障害患者に対し「みてみぬふり」をするのは、こうした難しさがあるためであろう。
なお、仮に彼が自宅で窒息死していたとしても、それは、意識障害を来すほどに泥酔した彼自身の問題であり、私の責任ではない。 稀に、酔った上での行動については自身の責任ではないと誤解している者がいるが、そんなことはない。 刑法判例においても、飲酒による心神喪失や心神耗弱による免責は認められない、とされている。 酒席での暴言や乱行には、ゆめゆめ、注意されよ。
正直に言うと、私は、患者と接するのは苦手である。苦手なだけでなく、好き嫌いでいえば、どちらかというと、嫌いである。 すると、大抵の人は「君は、医師に向いていないのではないか」と言うであろう。 もし医学科の入試の面接であれば、たぶん、これを言った時点で不合格になるであろう。 しかし、本当に、それは医師にとって重要な資質なのか。医師と看護師を混同してはいないか。
「患者さんと接するのが好き、得意」と自称する学生や医師の中には、基礎医学に疎く、それどころか臨床医学にも疎く、 単に臨床手技と診断マニュアルだけを身につけている者も少なくない。 彼らには、医師としての資質があるというのか。
一部の学生や医師の、患者さんと話をするのが好き、という心情には、邪な優越感から発している面はないだろうか。 診てあげる、治してあげる、という、明確な上下関係からくる優越感である。 患者をみて「かわいそう」と思うことはあっても、医師自身が苦しむことはなく、その意味では、実に楽な立場にいる。 しかも、それで高額な給料をもらえるのだから、たいへん、結構なご身分である。
臨床実習では、適切な診断ができずに苦心する例や、適切な治療を行うことができない例にも遭遇するし、時には誤診した例をみることもある。 そうした時、患者と接するのが大好きな学生は、一体、何を思っているのか。 彼らの本音についてはよくわからないが、だいたい、彼らは自分や医療者に甘いのではないか。 「誤診したのは、明確な所見がなかったのだから仕方ない」とか、「患者が死亡したのは、そもそも治療法がなかったのだから仕方ない」とかいう具合である。 本当に所見はなかったのか。検査所見の解釈は、適切であったか。 CT を撮らなかった主治医の判断は適切だったのか。本当に治療法はなかったのか。ガイドラインの記載は信頼できるのか。
彼らは、ガイドラインや診療マニュアルに従って、訴えられない程度の診療さえ行っていれば、自分に合格点を出しているのではないか。 既存の枠組みを越えて患者を助けに行くことは、自分ではない、誰か他の人の仕事であると思ってはいないか。 本当に、患者のことを考えているのか。 そういう無責任な人間に、本当に、医師としての資質があるのか。
ひょっとすると、彼らのいう「医師に向いている」という言葉は、「訴訟リスクを回避する」「医師としてうまく立身出世する」という意味なのかもしれない。 それならば、認める。彼らは医師に向いているし、私は、明らかに医師に向いていない。見境なしに突撃しすぎであることは、私も自覚している。 だが、そういう「医師に向いていない医師」を欲する大学や病院もあり、そうした大学こそが、明日の医学・医療を切り開くのである。
昨日の記事で、引用回数をもって論文の評価基準とすることはくだらない、と述べた。 しかし純朴な学生などの中には、このくだらなさを理解できない人もいるだろうから、解説する。
そもそも、引用とは、必ずしも「過去の優れた業績を紹介する」という意味で為されるものではない。 「誤った理解を世に広めてしまった罪深い報告を紹介する」というような、悪い意味での引用も、ある。 ただし、これは数としてはそれほど多くないだろうから、あまり気にしなくても良いだろう。 そこで以下の議論では、おおまかな近似として「引用する」という行為を「褒める」という意味に理解しよう。
「たくさん引用されている論文は価値が高い」という判断は、つまり「多くの人から褒められている論文は価値が高い」という考えに基づいている。 しかし、はたして、それはどうだろうか。 現代においては、星の数ほどの論文が、日々、発表されている。 当然、その著者の中には、優秀な研究者もいるだろうが、そうでない研究者も多いはずである。 また、論文を引用する際には、本当はその対象論文に対し充分に批判的吟味を加えた上で引用するべきであるが、それを本当に実行している者が、はたして、どれだけいるだろうか。
これに関係する話として、リチャード・ファインマンは著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』の中で、次のように記載している。 第二次世界大戦後の一時期に、リチャードはカリフォルニア州教育委員会の教科書選定委員をしていたが、嫌になって辞めた頃の話である。 長くなるが、重要な話なので、引用する。
一見なかなか良さそうに見えるくせに、だんだん読み進んでゆくと化けの皮がはがれて、本当はおよそお粗末なことがわかってくる。 たとえば四つの絵で始まる本があった。第一の絵は、ぜんまいじかけのおもちゃ、第二は自動車、 第三は自転車に乗った男の子の絵で、第四は何だったか忘れてしまったが、とにかくその一つ一つの絵の下に、 「これは何の力で動くのだろう?」と書いてある。
僕は「ははあ、さてはおもちゃのぜんまいの例から機械の話、自動車のエンジンはどのように動くかを例にとって化学の話、 それから筋肉の動きの例から生物学を話そうというのだな」と察しをつけた。
これなら僕のおやじが話してくれそうなことだ。「お前、何が物を動かしていると思うかね?それはね、実は太陽が照っているからなんだよ。」 それから僕とおやじとで、きっとこれについて次から次へといろんなことを喋りあって大いに楽しんだことだろう。
「ちがうよ。おもちゃはぜんまいが巻いてあるから動くんだよ」と僕が言うとする。するとおやじなら、
「じゃあどうやってぜんまいが巻かれたんだい?」
「僕が巻いたんだよ。」
「それでお前はどうして動けるんだい?」
「物を食べてだよ。」
「その食物は太陽が照るからこそ育つんじゃないか。つまり太陽が照っているから、物は皆動けるんだよ。」
こういう話し方なら運動というものは単に太陽のエネルギーの変形だという概念をはっきりのみこませることができるはずだ。
僕は期待をもって次のページをめくった。ところが答は、ぜんまいじかけのおもちゃのところでは、「これはエネルギーによって動いているのです。」 自転車に乗った男の子のところでも、「これはエネルギーによって動いているのです」と書いてある。 どれもこれも「エネルギーによって動いているのです」だ。
しかし考えてみるとそれだけでは何の意味もなさないではないか。 エネルギーの代りに「ワカリクセス」という言葉だったらどうだろう? 「ワカリクセスによって動いているのです」というのが一般の法則だということにしてみたところで、これからは何の知識も得られはしないではないか。 子供はこれによって何も学びはしない。「エネルギー」だって「ワカリクセス」だって、そのままではただの単語に過ぎないのだ!
ここでぜんまいじかけのおもちゃの中身を調べて、中にぜんまいのあるのをみつけ、ぜんまいについて、そして車輪について学ぶのが本当なのだ。 「エネルギー」なんかどうだっていいじゃないか! しばらくあとになって子供たちが、そのおもちゃは実際にどのようにして動くのかをある程度理解したところで、 はじめてエネルギーのもっと一般的な法則について話し合うことができるというものだ。
後になって僕は、カリキュラム委員会が例の「エネルギーによって動くのです」という本を教育委員会に推薦することになったということを聞き、 もう一度だけ最後の努力をしようと思いたった。 そこで僕は公聴会に出席して (カリキュラム委員会の会議では、いつも一般の人も意見が述べられるようになっていた)、なぜこの本が良くないと思うかを説明した。 すると僕の代りに委員になった男が、「しかしあの本は○○航空機会社の六五人もの技師が良いと認めたんですよ」と言った。
なるほどその会社にはたくさん優秀な技師がいるには違いない。 だが六五人もの技師では、さぞその能力の程度も違うだろうし、数の中には無能な連中もいれなくてはなるまい。 (中略) その会社の技師の中から優秀な者だけを選ばせ、その連中に教科書を読ませる方がはるかに賢明な選考法だったはずだ。 僕が六五人の技師の誰よりも利口だと断言することはできないがいくら何でも六五人の平均よりはましなはずだ!
それでもその男は僕の言っていることがさっぱりわからず、とうとうかの本は教育委員会選定教科書として採用されることになったのだった。
つまり「皆が褒めているから、この論文は立派なのだろう」と考えることは、すなわち「私は無能でございます」と言っているに等しい。
たぶん医学科の学生の多くは、このリチャードの記述に対して「まわりくどくて、何を言いたいのかよくわからない」というような感想を持つのではないか。 結論だけを端的に教えられ、それをひたすら暗記する、というような勉強法を二十余年にもわたって続けてきた弊害である。 諸君は、大学に入ってからの六年間で、理工系の学生に比べると、知性の面で遥かに遅れてしまったということを、認識するべきである。 その上で、知性を取り戻そうとするのであれば、ただちに、試験対策特化型の勉強を放棄するべきである。 結果として留年、浪人することになったとしても、人生全体を通してみれば、間違いなく、その方が自身や患者の利益に適う。
過日、北陸医大 (仮) の初期臨床医採用試験が行われた。採用試験といっても筆記試験はなく、面接のみである。 詳細な試験内容を書くことは控えるが、試験の終わり際に、試験官から、素晴しい言葉をいただいた。
私が「病理にせよ研究にせよ、最終的に患者を治すことが目的なのであり、その部分を忘れて、 論文を書くこと自体が研究の目的になってしまっては、よろしくない。」と述べたのに対し、 試験官は、次のような言葉を発したのである。 「論文の数を稼ぐための研究を進めていくというのは、北陸医大の目指す方向ではない。」 これを聞いて、私は、試験中であるにもかかわらず、泣きそうになった。 ほんとうは、この言葉は、名古屋大学医学部の先生方の口から聴きたかった。
論文を書く、というのは、あくまで研究成果を世に知らしめるための手段であって、決して、目的ではない。 ところが、研究そのものを生業にする人々や、教授の命令によって論文を書いている大学院生などにおいては、研究の本来の目的が忘れられ、 論文を書き、有名な雑誌に掲載されること自体が目的になりがちである。 一部の学問分野では impact factor なるものを、その研究者の業績を評価する指標として用いる風習があるらしい。 Impact factor というのは、トムソン・ロイターという会社が公表している、「雑誌の質」を評価するための指標である。 これは個々の論文や研究者の業績を評価するには不適である、ということを、トムソン・ロイター自体が明言していたと思うのだが、 なぜか、少なからぬ研究者が、業績を評価する目的で impact factor を使用している。 中には、これまでに書いた論文について、その掲載誌の impact factor の合計をもって業績の指標と考える人もいるらしいが、これは、全く無意味である。
論文自体を評価する指標としては、「その論文が他の論文に引用された回数」が用いられることもあるが、これも不適当である。 こちらについては、あまりに馬鹿馬鹿しいので、議論しない。
あたりまえのことだが、学問の業績に対して客観的な評価基準など、存在しないのである。
与えられた評価基準に適合すべく努めることに関しては、名古屋大学は優秀な大学かもしれない。しかし、私には関係のないことである。 私は、卒業したら、二度と名古屋の地には戻らないであろう。
佐久友朗『売血 若き 12 人の医学生たちはなぜ闘ったのか』という書籍を読んだ。 既に絶版であるらしいが、名古屋大学医学部附属図書館には所蔵されている。
同書は、まさに標題の通りの内容である。昭和 40 年頃、まだ輸血製剤のほとんどが売血に依っていた時代に、 東邦大学の医学部生であった著者らが、血液銀行らの不正を暴き、世に問題提起をした活動の記録である。 著者は昭和 42 年卒業であり、いわゆる青医連としてインターン制度に抵抗し、医師国家試験の受験を放棄した世代であるらしい。
最近の若い学生の中には、日本の現代医療史を知らぬ者も多いであろうから、簡潔に説明する。 現在では血液製剤は全て献血によりまかなわれているが、かつては売血が中心であった。 すなわち、ドナーは、営利企業である「血液銀行」で採血され、代価として金銭を受け取る。 一見、合理的であるが、金銭目的で頻回に売血する者が続出した。 そうした者の中には肝炎などのウイルスのキャリアが多かったために、輸血後には高頻度で肝炎を来したのである。 また、ドナーが貧血であっても血液銀行は構わず血液を買い上げた。 これらの行為に対する政府の規制は、事実上、存在しなかった。 詳細は、同書を読まれたい。
さて、著者は後に青医連活動に加わったらしいが、それより少し後になって、いわゆる東大安田講堂の立て籠もり事件があった。 こちらも、当事者らが詳細な文献を多く遺しているから、私が拙く説明することは避ける。 この事件では、講堂内の壁に「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」という スローガンが残されていたことが有名である。 私は高校時代、同級生の黒川君という人物から、このスローガンのことを教えられ、いたく感心したことを覚えている。
学生運動には、賛否があるだろう。社会の不正を匡すための方法として、あのような手段が適切であったのかどうかは、わからない。 ただ、当時の学生達は、それぞれがよく考え、その信じる所に従って行動したことは確かであり、その点には敬意を払うべきである。
現在でも、京都大学など一部の大学においては、全学連などを称して「学生運動」に勤しむ者は多い。 しかし、彼らの中には、あまり深く物事を考えず、なんとなくカッコイイから、と運動に参加しただけの者が少なくないように思われる。 いわば「ファッション活動家」である。 また、社会・政治に無関心で、自分の将来と自分の社会的・経済的利得ばかりを考える、かつて「ノンポリ」と呼ばれた人種が圧倒的に多くなっている。
こうした時代にあって、我々は、医学・医療の未来を建て直すためにどう行動するか、よくよく考え、実施する必要がある。
過日の記事で「ごく一部の人々の胸には、私の思う所は届いているようであり、それで充分であると考える。」と書いて、思い出したことがある。
以前、現在の名大医学科の講義のあり方について、一部の教授陣の前で意見を述べる機会があった。 講義の度に出欠を確認し、過半数の出席がなければ試験の受験資格が得られない、という制度の撤廃を請願する、という趣旨であった。 私に賛同する学生が少なかったこともあり、請願を通すことはできなかったが、何としても言っておきたい言葉だけは、学部教育委員会で述べることができた。 それは「天下の名古屋大学において、講義の際にイチイチ出席をとるなどというのは、恥ずかしいではありませんか。みっともないではありませんか。」というものである。 この言葉だけで、教授陣には全て伝わるのであって、それ以外の発言は、全て蛇足であった。
心臓は、周期的に収縮と拡張を繰り返している。病的状態でない限りは、この周期的活動は洞房結節の特殊心筋によって制御されている。 成人においては、洞房結節の細胞は、外部からの刺激がない状態では一分間に 60 回から 100 回、興奮する。 従って、心電図学においては、洞房結節が心房の興奮を制御し、かつ心房心拍数が 60-100 回/分の範囲にある状態を「洞調律」と呼ぶ。 ここで、「洞調律」の定義に心室は関係ないことに注意を要する。 心室と心房の連動が正常に行われている洞調律を、特に「正常洞調律」と呼ぶが、 たとえば完全房室ブロックがあっても「洞調律」ではある。 臨床医や看護師の中には「正常な心電図」のことを「サイナス」と呼ぶ者がいる。サイナスとは synus rhythm, すなわち洞調律のことであろうが、 洞調律であっても異常な心電図は存在するのだから、これは不適切な表現である。 なお、洞房結節が心拍を制御している状態であっても、心拍数が 60-100 回/分の範囲になければ「洞調律」ではなく、洞徐脈とか洞頻脈とか呼ばれる。 これは、洞房結節だけで調律しているのではなく、何らかの外的要因により大きな調節を受けている状態なのだから、「洞調律」とは呼びたくないのである。
さて、洞房結節の特殊心筋では、第 4 相、いわゆる「静止状態」において持続的にカルシウムイオンなどが細胞内に流入することにより、緩徐に脱分極し、やがて興奮する。 この緩徐な脱分極の速さは自律神経系による調節を受けており、たとえば交感神経系による刺激で脱分極は速くなり、結果として心拍数は多くなる。 しかし、この心拍数の上昇には限度があり、南山堂『TEXT 麻酔・蘇生学』改訂 4 版によれば、成人ではだいたい毎分 160 回が上限である。 つまり、成人において心房心拍数が 160 回/分を超えているような場合は、洞頻脈ではなく、たぶんリエントリー性の不整脈であるといえる。
一方、乳児においては生理的に心拍数が多く、新生児であれば140-180 回/分程度であっても洞調律であるし、洞頻脈では 200 回/分を超えることも珍しくない。 なぜ、新生児の洞房結節は、成人では到達できないほどの高頻度で興奮を繰り返すことができるのか。 これについては、誰も確かなことは知らないが、たぶん、新生児ではカルシウムチャネルが成人よりも多く、第 4 相における脱分極が生理的に急峻なのだと考えられている。 この仮説を支持する実験的根拠として、ウサギにおけるカルシウムチャネルの発現量の変化 (Exp. Physiol., 96, 426-438 (2011)) や、 マウスにおける出生後のカルシウム電流の変化 (J. Physiol. Sci., 63, 133-146, (2013)) が報告されている。 また、ヒトの乳児では成人に比べてベラパミルなどのカルシウムチャネル遮断薬により徐脈などの副作用が生じやすいことが知られており、 これもカルシウムチャネルの発現具合が違うと考えれば辻褄が合う。
上述の仮説が正しいとすると、なぜ、成人ではカルシウムチャネルの発現が減少するのだろうか。 もし成人において新生児並のカルシウムチャネルを発現させることができれば、我々の運動能力は飛躍的に向上するであろう。
以前、医学評論社『ハローマッチング 2015』なる書籍の見本がロッカー室に置かれていたので、少しだけページをめくってみた。実に、つまらない内容であった。 だいたい、この出版社の書籍は、低俗な内容のものが多すぎるように思われる。
私がみた限りでは、同書は「マッチングの面接等において、担当者に気に入られるには、どうすれば良いか」というノウハウ本である。 そもそも、採用担当者に気に入られよう、という発想が、卑屈である。 マッチングは、病院と研修希望者が対等の立場で相手を選ぶ制度であり、双方が「あなたが欲しい」と思った時にのみ、カップルが成立する仕組みになっている。 従って、我々は病院に対し下手に出る必要はなく「もし、あなたが望むなら、あなたの病院で働いてさしあげても、よろしくってよ」ぐらいの気持ちで臨めばよろしい。 もちろん、互いに礼節を保つことは必要だが、卑屈になっては、いけない。
面接といえば、京都大学工学部物理工学科の入試の面接は、今でも記憶に残っている。 私は高校三年生の時に東京大学理科 I 類の前期入試で不合格となり、京都大学工学部物理工学科の後期入試は受験を放棄した。 高校を卒業してからは「自宅浪人」と称して遊び呆けるばかりで、ろくに勉強していなかった。両親は、さぞかし、心配したであろう。 父からの圧力もあり、浪人した後は立命館大学理工学部と京都産業大学理学部の、いずれも後期募集を「すべり止め」として受験した。 後者には合格したが、前者は不合格であった。
閑話休題、高校卒業一年後に受けた京都大学工学部物理工学科の前期入試は不合格となり、後期入試で合格・入学した。 この 2002 年の後期入試の科目は、英語、数学、小論文、面接、であったように思う。 私は、もちろん、何の対策もせずに受験した。英語と数学の筆記試験は、まるで神が舞い降りたかのようによくできた気がしたが、勘違いかもしれない。 小論文試験の内容は、ほとんど覚えていないが、難しくはなかったように思う。 小論文の直後に面接だったため、私はてっきり、小論文で書いた内容について受験生同士で討論でもするのかと思ったが、そんなことはなかった。
面接は個人面接であって、前の受験生が面接をしている間、次の者は、誘導スタッフと共に廊下の椅子で待機することになっていた。 私の前の受験生が退室した時、誘導スタッフが「やけに早いな」とつぶやいた。 私は、きっと彼は何も答えられずにスゴスゴと出てきたのだろう、と思い、気が楽になった。
面接室に入ると、三人ぐらいの面接官が並んで座っており、私が座るべき席の机の上には、バネの先に重りがとりつけられた玩具が置かれていた。 試験官が「振り子のように振ってみてください」というので、振ってみた。 「どのような動きをしますか」と問われたので、みた通りに、「振り子の両端の位置ではバネは伸び、重りが真ん中にある時はバネは縮んでいます」というようなことを答えた。 次の質問は「なぜ、そのような動きをするのですか」というものであった。 隣にホワイトボードがあったので、「これを使ってもよろしいですか」と尋ねた後に、図を書いて説明を試みた。 もちろん、私は、こんなヘンテコな物体の運動を考察したことはなかったから、その場で考えながら書いたのである。 私は、振り子の位相によってバネにかかる力の大きさが異なることを示し、 それによってバネの伸びを説明しようとしたが、試験官から「それだったらバネの動きが反対になっちゃうでしょ」と指摘された。 後から思えば、この物体の運動では常に加速度が非零であるために、力の釣り合いからバネの伸びを説明することはできないのである。 もちろん、試験中の私の思慮はそこまで及ばなかったが、自分の説明がおかしいことだけは理解できた。 私は、うまい説明が思いつかずに困ったが、先の受験生のことを思い出し「ここで『わかりません』などと言えば、不合格だろう」と考え、 ホワイトボードを眺めたまま硬直した。 すると試験官から「エネルギーは、どうなの」というヒントが飛んできた。 それを聞いた瞬間、私は全てを理解し、サラサラと説明することができたのである。
次の質問は「球を作るには、どうしますか」というものであった。 私が「どのような場所で作っても良いのですか」と問い返すと、「どんな場所でも、何を使っても良い」とのことであった。 そこで私は「無重力空間に水を一滴浮かべれば、ほぼ完全な球になります」と即答した。 面接官は「なるほど」と言い、「では固体であれば、どうしますか」と問うた。 私は最初、「惑星が概ね球形であることを思えば、長い時間をかけて回転させ続ければ、球になるのではないか」などとデタラメを答えたが、 これには「それでは遠心力のせいで、楕円形になるのではないか」と指摘された。 そこで私は、「木材のように軟らかいものであれば」と前置きして、「球」の定義に忠実に従って球を作る方法を述べた。
このあたりで、面接官は気分が良くなってきたらしい。 調子に乗って、「では、小麦粉を練ったようなドロドロしたものだったら、どうしますか」などと質問したのである。 私は直ちに「それは、型に流し込めば良いのではないでしょうか」と答えた。 そして面接官が「その型は誰が……」と言いかけたところで、別の面接官が「それは……」と口をはさみかけた。 しかし、それを遮る形で、私は「固体の球を作れるという前提であれば、それを使って型は作れますので」と述べた。 この点について、礼節の点から意見は分かれるかもしれないが、私が面接官であれば、大事なことは自分の口から言おうとする積極性を評価する。
もう一つの質問は、「これまでの人生で、何か自分なりの工夫をして問題を解決した、というような経験はありますか」というものであった。 私には、すぐに思い浮かぶことがなかったので、小学生時代に自由研究として月の南中時刻や高度を測定した時のことを話した。 理論上、南中時刻は毎日 48 分ずつ遅くなるとされているが、私の測定結果では、遅くなり方には 30 分から 60 分ぐらいの幅があった。 これが測定誤差であることは当時からわかっていたが、これを若干脚色して、 「月の運動は常に一定ではなく、若干、前に進んだり後に戻ったりしているのではないかと考えることで、観測結果を説明した」と述べたのである。 試験官は喜んで「今でも、そう思っていますか」などと尋ね、私は「いえ、さすがに測定誤差だと思っています」と答えた。 このあたりで、試験官はワハハと笑い声をあげた。 すると、面接室の扉がガラリと開き、廊下で待機している誘導スタッフが顔をみせ、我々に「静かにしてください」と注意したのである。 私の次の受験生は、実にやりにくかったであろう。
一部には異論があるようだが、「湿疹」という語は「皮膚炎」と同義であるとされることが多い。 同義であるならば、用語として一方に統一するべきだと思うので、私は、基本的に「皮膚炎」という表現のみを用いることにしている。 「湿疹」という語は、どうも意味がはっきりせず、いい加減な使い方をされる例が多いように思われ、好きではない。 話の流れにより「湿疹」という表現を用いる場合には、私は基本的に「いわゆる湿疹」と言うことにしている。
実は「皮膚炎」という表現も病理学的には正しくない。 皮膚科学において「皮膚炎」と呼ばれる病態は、表皮の海綿状態、すなわち有棘細胞層に炎症による細胞外浮腫がみられる状態をいう。 「皮膚」は「表皮」と「真皮」から成るが、真皮の炎症は「皮膚炎」とは呼ばれない。 従って、いわゆる「皮膚炎」は、正しくは「表皮炎」とでも呼ぶべきものなのである。 なお、「真皮の炎症」を意味する医学用語は存在しない。
清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版によれば、膨疹とは「皮膚の限局性浮腫で、短時間で消失する皮疹」をいう。 掻痒を伴うことが多いが、必須ではない。通常は真皮上層の浮腫である。 定義からわかるように、「膨疹」とは皮疹の名称であって、所見あるいは症状であり、疾患名ではない。 これに対し「蕁麻疹」は診断名であり、掻痒を伴う一過性、限局性の紅斑や膨疹を来すものをいう。定義からわかるように、これは、単一疾患ではなく、疾患群である。 蕁麻疹の原因は多様である。機械的な刺激、寒冷、温熱、日光曝露などが原因となり得る。
さて、皮膚科医の中には、蕁麻疹の患者に対して「機械的な刺激、寒冷や温熱、日光曝露を避けよ」と指導する者がいる。 これは、はたして、適切だろうか。 その患者が、温熱刺激によって生じる型の蕁麻疹を有しているならば、温熱を避けることは合理的である。 しかし、その患者が過去に温熱で蕁麻疹を来したことはないならば、たとえば熱い風呂を避けるべき理由はない。 この場合、「温熱を避けよ」というのは、いたずらに QOL を下げる指導である。
つまり「機械的な刺激、寒冷、温熱、日光曝露は蕁麻疹の誘引となる。従って、蕁麻疹患者はこれらの刺激を避けた方が良い。」という理屈は、 一見もっともらしいが、実は論理が通っていない。 こうしたエセ論理は、医学の世界には、かなり多い。注意して勉強する必要がある。
臨床実習の一環として、大学病院以外の病院や医院でお世話になったことがある。 しばしば、雑談として、将来の進路の予定などについて話すことがある。 私の場合、研究寄りの病理医になる予定であり、初期臨床研修は大学病院で受け、その後も大学病院に勤めるつもりである、と述べていた。 この点について、私を知っている人からは、いささかのご指摘もあるだろうが、今回は、その話は、しない。
ある医師は、その進路の話の流れで「すると、将来的には教授になろうというわけだね?」と言った。 私は、一瞬、言葉に詰まったが、すぐに肚に力を込めて「そのつもりです」と答えた。 すると、その医師はニヤリとして「そうでなければならない」などと述べた。 さらに、患者に対し私を紹介する際に、半ば冗談めかして「未来の教授だよ」などと言った。
日本的な謙遜の美学からすれば、ここは「いえ、教授などとは、とんでもない」とでも言うのが筋であったかもしれない。 しかし我々は、名古屋大学医学部である。医学の明日を開拓するという使命を帯びているのだ。 我々がやらねば他にやる人はいない、という事実を、我々は忘れてはならない。 「もっと他にふさわしい人がいます」などと謙遜することは簡単であるが、それは同時に、明日を創るという重荷を他人に転嫁し、安楽な道を選ぶということでもある。 無責任である。
とはいえ、「教授になります」などと公言し、患者に対し「未来の教授」などと紹介されるのは、あまり心地良いものではない。 背筋がゾッとし、実に、落ち着かない。 だから、私は「そのつもりです」と答える際に、ハラに力を込める必要があった。平然と、普通の会話で言えるものではない。
「かもしれない」とか「否定できない」とかいう言葉は、便利である。 「感染を否定できないので抗菌薬を用いる」とか、「多剤耐性菌かもしれないのでカルバペネムを使う」とかいう具合である。
物理系の学生は、大学に入ると、まず「『かもしれない』という言葉を使ってはいけない」と教わる。 「かもしれない」で良いのなら、何でも言えるのであって、その発言には意味がないのである。 「感染症かもしれない」という場合には「感染症ではないかもしれない」のであって、全く無責任で、情報を含んでいないのである。 だから、実験レポートや論文などの真面目な文章には「かもしれない」という表現は、決して、使わない。
一部の人は「臨床現場では、充分な鑑別診断を行う時間的余裕がないことも多く、『かもしれない』で治療を開始せざるを得ない」と反論する。 具体的には敗血症に対する治療などが念頭にあるのだろう。 実際、敗血症診療ガイドラインにおいても、敗血症が疑われる状況においては、確定診断を待たずに治療を開始することが推奨されている。
しかし、それでも「かもしれない」という語を、認めるわけにはいかない。 「かもしれない」を認めてしまうと、たとえば、次のような主張が成立してしまう。 「心肺停止しても、必死に祈祷を行えば、生き返るかもしれない」 「アガリクスを飲めば、癌が治るかもしれない」 「肺癌でも、放っておけば勝手に治るかもしれない」 なにしろ、これらの「インチキくさい」治療法を否定する証拠は存在せず、「かもしれない」という意見を否定することはできないのである。 特に、肺癌の例についていえば、経過観察で免疫機構により治癒する例は、確かに存在するらしいのである。
多くの学生は、これに対し「アガリクスにはエビデンスがない」などと反論するが、エビデンスのない治療など、いくらでも存在する。 彼らは「エビデンス」という言葉を、都合の良い場合にのみ後付けで用いているのであって、実はエビデンスの有無によって治療方針を決定しているわけではない。 本当は「ガイドラインにそう書いてあるから」とか「偉い先生がそう言っていたから」というような理由で、治療方針を決定しているのである。
つまり「かもしれない」という表現は、別の理由で結論が既に決まっている場合に、後付けで、もっともらしく説明する目的で利用されているに過ぎない。 先の敗血症の例でいえば、本当は「敗血症かもしれない」という理由で治療を開始しているのではなく、別の合理的根拠に基づいているのである。 すなわち、特異度は低くても感度の高い所見が複数あるならば、「敗血症である」と診断して治療を開始することは有益だと考えられている。 「敗血症かもしれない」と考えているのではなく、「敗血症である」と断言しているのである。 結果的に、後から「敗血症ではなかった」とわかったならば、その時、診断を修正すれば良い。
この「間違っていたら後から修正すれば良いのであって、とりあえずは断言する」という姿勢は、科学の世界では常識である。 間違い、それを訂正することの積み重ねによって、社会は進歩するのである。 これに対し「間違ってはいけない」などと尻込みして、無難に、予防線を張って「かもしれない」と謙虚に述べることは、結果として、何も生み出さない。
間違ったとしても、それが合理的な推論であったならば、後で訂正すれば問題ない。 しかし「かもしれない」と述べて論理の通らない治療を行うことは罪である。 このあたりに、名医と凡医の境界があるのではないか。
通読していない状態での仮レビューである。 先週末に集中して読むつもりであったのだが、感冒様の症状で寝込んでいたため、まだ 3 分の 1 程度しか読み終わっていない。
本書は北海道大学の清水宏氏の単著であり、全体を通したストーリー性のある名著である。 図や写真が豊富であり、特に組織写真が充実している。 記載は初学者を念頭においているようであり、たとえば神経鞘腫の組織像には Antoni A 領域、Antoni B 領域、verocay body といった 特徴的な領域が重ねて図示されており、たいへん、よろしい。 また、25 ページには、エクリン汗腺の導管について、驚嘆すべき見事な組織写真が掲載されている。
その一方で、基礎医学的な部分については、いささか疑問を感じる箇所もある。 たとえば「免疫反応の基礎」という節では、いわゆるパターン認識受容体についての記載がなく、マクロファージの働きについて、 いささか古い記述が用いられているように思われる。
また、グルココルチコイド製剤の分類について「作用の強さに従って (中略) 5 段階に分類されている」と述べられているが、 「作用の強さ」という言葉は曖昧で、よろしくない。 このように、あくまで臨床的な「皮膚科診療」を解説した書物という色彩が強く、学問としての「皮膚科学」には、あまり言及されていない。 ただし、これは同書の問題というよりは、そもそも皮膚科領域の問題かもしれない。 というのも、皮膚疾患には原因や機序が不明なものが多く、学問的な、系統的解説は容易ではないからである。
全体としては、豊富な図表を用いて明快に皮膚科疾患や症候群を概説しており、初学者が通読するための教科書として強く推奨する。
先日、レポート提出のために、昨年度の臨床実習の際に自分が書いたカルテを読み返していて、恥ずかしくなった。
私は、心電図が大好物である。 昨年度の実習に際しても、心電図は積極的に判読し、所見や診断をカルテに記載していた。 だが、その患者の心電図の判読には、私も苦しんだようである。 III 誘導の QRS が二峰性になっている、という所見を記載してはいるのだが、当時の私は、その意義を理解することができなかったようである。 「非特異的な変化である」と診断して、カルテに記載した。 しかし QRS の所見に「非特異的な変化」などというものは、滅多に、ない。 そのことは当時の私も認識していたのだが、診断できずに、苦し紛れに「非特異的」と記載して逃げたのである。
今回、あらためて、その心電図を読んでみたところ、小さな陳旧性下壁心筋梗塞である、と、即座に診断できた。 小さな陳旧性心筋梗塞は、直ちに治療を要するものではないが、リエントリー性不整脈を惹起する恐れがある、という意味で臨床的な意義を持つ。 従って「非特異的な変化」という私の診断は、誤診であったと、いわざるを得ない。
当時は、こんな心電図も読めなかったのか、と呆れると共に、気づかぬうちに、この一年間で少しは進歩しているらしいことが嬉しかった。