2015/06/30 Diamond-Blackfan 貧血

私は、再生不良性貧血について全くの無知であったが、今日、少しだけ勉強したので、ここに記録しておく。

まず「貧血」という言葉の定義には統一されたものがなく、曖昧であるが、ここでは「赤血球またはヘモグロビンの減少により、その機能が不足している状態」としよう。 また、「再生不良性貧血」という語は、意味がわかりにくく、不適切な術語であるように思われる。 英語では aplastic anemia であり、MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』では骨髄無形成 marrow aplasia によって引き起こされる貧血、としている。 すなわち、造血幹細胞が何らかの理由により減少し、または機能低下したことによる貧血をいう。

さて、リボソーム蛋白質の遺伝子にある種の変異を有する場合、だいたいは流産になるように思われるが、中には出生する例もある。 このうち、骨髄において赤芽球系細胞の減少を来すものを Diamond-Blackfan 症候群という。 理屈からわかるように、`Nelson Textbook of Pediatrics' 20th Ed. によれば、患者の約半数は何らかの先天性奇形を有するらしい。 また、患者は悪性腫瘍を罹患する頻度が高いらしいが、これも当然である。

さて、日本では基本的に、Diamond-Blackfan 症候群は先天性赤芽球癆の代表として取り扱われるようであり、南江堂『血液専門医テキスト』にも、そのように記載されている。 赤芽球癆とは、骨髄において赤芽球系の細胞のみが減少することによって貧血を来す病態をいう。 実際、Diamond-Blackfan 症候群では典型的には末梢血において赤血球のみが減少するし、骨髄所見では赤芽球の著明な減少がみられる一方、 巨核球系や骨髄球系には明らかな異常は認められない。 従って、これを赤芽球癆とみるのは、間違ってはいない。

しかし「Nelson」によれば、血小板の増加または減少、または好中球減少を来す例もあるらしい。 理屈で考えて、リボソームの機能異常があるのだから、巨核球系や骨髄球系にも異常が生じるのは、何ら、おかしなことではない。 その意味では、障害は造血幹細胞レベルで既に生じているのであって、これは再生不良性貧血であると言えないこともないだろう。 「血液疾患の病態生理」で Diamond-Blackfan 症候群を再生不良性貧血に分類されているのは、たぶん、こうした理由である。 また、「Nelson」は中庸路線を取っているようであり、`Hypoplastic Anemia' と表現している。

Diamond-Blackfan 症候群が再生不良性貧血であるかどうか、という議論にはあまり学術的な意味はないが、病態を正しく理解することは重要である。 治療としては、ふつう、グルココルチコイドが用いられるが、その作用機序は不明である。 「Nelson」によれば、一部のリボソーム蛋白質が異常になることで、正常なリボソーム蛋白質が過剰に蓄積し、p53 を介したアポトーシスを誘導する、とする意見もあるらしい。 もっと単純に、異常蛋白質が細胞膜上に発現して自己免疫性に赤芽球が破壊される可能性もあるように思うのだが、よくわからない。 いずれにせよ、赤芽球系が比較的選択的に障害を来す、という事実を説明できない。 たぶん、アッと驚くような仕掛けが、背後に隠れているのだろう。

2015.06.30 語句修正

2015/06/29 北陸医科大学 (仮) での研修

以前にも書いたが、私は北陸医科大学 (仮) で初期臨床研修を受ける予定である。 北陸医大は、全国的にとりわけ有名な大学、というわけでもなく、初期臨床研修医の大半は北陸出身者や、北陸医大の出身者であるらしい。 人材の多様性、という観点からすれば、外様の学生や研修医が、圧倒的に不足しているのである。

一部の同級生に、北陸医大での研修を勧めてみたが、あまり好意的な反応は得られなかった。 それもそのはずで、「北陸医大は、何が良いのか」と問われた際に、私は、力強い返答をできなかったのである。 北陸医大の魅力は、「大学であること、巨大で硬直した組織でないこと、そして教育・研究・診療をキチンとやっていること」の三点であると思う。 大学である、つまり学生がいる、という事実は、初期臨床研修医といえども教える立場にある、という意味で、非常に良い環境である。 他人に教えることは、自分自身の理解を深める上で、たいへん有益なのである。 上述の三点は、大学病院としては基本的な事項であるにもかかわらず、全てを本当に満足している大学は、かなり少ないのではないか。 その意味で北陸医大は魅力的なのだが、この魅力は、なかなか、他の学生に伝わらない。

もう一つ、私の勧誘が「ぜひ、あなたに来て欲しいのだ」というものではなく、「誰でも構わない」という姿勢であることも、反応が鈍かったことの原因であろう。 「誰でも構わない」と言われて「じゃぁ、私が」とはならないのは、当然といえば当然である。 正直なところ、「ぜひ、あなたに」と思うような相手は同級生の中に一人ぐらいしかおらず、しかも、 その人にはイロイロと事情があるので、北陸医大を勧める気にはなれなかった。

しかし、彼らも、狭く閉じた名大ネットワークの中で生きていくことに、不安は抱いているだろう。 東海地方の出身で、名大医学科を卒業し、名大ネットワークの中で就職した人は、まず間違いなく、東海地方の平凡な医師として生涯を終える。 一度、安楽な道に足を進めた者が、後から外の世界に飛び出すことは、最初から外に出るのにくらべ、ずっと、たくさんの勇気を必要とするからである。 このことに対する不満や不安はあっても、しかし名大ブランドが威力を発揮しない外の世界に独りで出ていく勇気もない、という者は多いのではないか。

私では頼りにならない、というより鬱陶しいかもしれないが、我が北陸医大であれば、独りで雪に埋もれることはないので、迷っている人には、ぜひ、当大学にお越しいただきたい。 北陸医大の正式名を知りたい人は、メールでお問い合わせいただくか、あるいは私の過去の日記をみれば、たぶん、わかる。


2015/06/28 臨床医による病理部批判

以前、ある病院で、複数の臨床医から、病理解剖のあり方についての不満を聴いたことがある。 簡潔にいえば「病理部の奴らは怠けている」「なんで、あんなにエラそうなんだ」という内容である。

その病院では、原則として病理解剖は平日または土曜日の日中に行うことになっている。 たとえば患者が土曜日の夜に死亡し、遺族から解剖の承諾を得た場合、月曜日の朝を待ってから解剖することになる。 人は、死亡するとただちに死後変化が始まるため、解剖までの時間が長ければ長いほど、生前の状態はわかりにくくなる。 従って、診断の観点からいえば、死亡した直後に解剖するのが理想的である。 臨床医、特に ICU や救急部は、24 時間 365 日の体制で診療を行っている。 そうした人々からすれば「土曜日の晩に入院した患者を、月曜日の朝まで待たせてから診療する」などという姿勢は理解できまい。

また、その病院では、病理解剖に臨床医が立ち会い、解剖所見を記録する係を務めるのが慣例であるらしい。 これも、忙しい臨床医からすれば「雑用を押しつけられている」と感じられ、大いに不満であるらしい。

もちろん、病理部側にも、それなりの言い分はあるのだろう。 しかし病理部と臨床医の間で軋轢が生じていることは確かであり、健全な診療体制であるとはいえない。

近年、全国的に病理解剖の件数が減少傾向にあるという。 病理解剖には、主に三つの目的がある。第一は、患者の死因や病態を明らかにし、今後の診療の改善につなげる、というものであり、患者に対する最後の医療行為である。 第二には、病理医の教育、という意味がある。 そして第三には、解剖を通して得られた所見を医学研究に活かし、新しい診療の道につなげることである。 これらの目的は、他の手段で代替不能なものであるから、少なくとも一定数の病理解剖件数は保たねばならない。 本当は、死亡した患者は全例、病理解剖した方が良いぐらいである。 しかし、上述の理由をみればわかるように、病理解剖を行いたいというのは医者側の都合であって、患者や遺族には、 「本当の死因を知りたい」という場合を除いては、あまり利益がない。 「解剖」という行為に対して抵抗を感じる例も多いであろう。

遺族から病理解剖の承諾を得るに際しては、主治医の協力が不可欠である。 主治医が病理解剖に消極的であれば、遺族が首を縦に振ることは、まず、ないであろう。 従って、病理解剖のあり方については、病理医と臨床医の間で、互いに不満のない良好な関係を維持せねばならぬ。

他にも、病理解剖について思う所は多々あるが、あまり書くと支障が生じるかもしれないので、とりあえずは、このあたりで止める。


2015/06/26 「静脈還流量の増加」とは何か

この記事には誤りがある。2017 年 7 月 3 日に訂正した。

循環器内科学などを勉強していると「静脈還流量が増加し云々」というような記述に遭遇する。 この「静脈還流量」という言葉を、諸君は、どれだけ正しく理解しているだろうか。

医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば「静脈還流量」とは「全身の静脈循環から上・下大静脈を経由し, また冠状静脈洞を経由して右心房へ戻る血液の量」をいう。 なお、同じ「かんりゅう」であっても、「潅流」は「組織や器官の血管内あるいは表面に液体を流すこと」であるから、意味が全然ちがう。

一部の教科書には「吸気時には胸腔内圧が低下するため静脈還流量が増加する」などと書かれているらしい。 この記述を読んですぐに納得した人は、抜群の秀才であるか、さもなければ、思慮が不足している。 普通の感性があれば、まず「なぜ、胸腔内圧と静脈還流量が関係あるのか?」という疑問を抱くであろう。 そして、多くの学生は「よくわからないが、教科書にそう書いてあるから、そうなのであろう。」と「納得」するのであって、実に、素直な「良い子」である。

『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3 版や `Harrison's Principles of Internal Medicine' 19th Ed. では、明記はされていないが、 次のような理解に立脚しているようである。 胸腔内圧が低くなると、肺循環系の毛細血管や静脈が拡張する。その結果、肺循環系の血管抵抗は低下する。 なお、動脈は、俗にいえば「壁が頑丈である」ために、多少の胸腔内圧変化では明らかな拡張を来さない。 心臓の収縮力は呼吸の状態に依存しないため、結果的に、吸気時は右心拍出量が増加する。 換言すれば、右心室の収縮末期容積が少しだけ小さくなる。 微小な経時的変化を気にしなければ静脈還流量は右心拍出量に等しいから、これは、つまり、静脈還流量の増加になる。

上述の議論の中で、キチンと考えている人は「オヤッ」とか「ムムッ」とか、思ったであろう。 「肺循環系の毛細血管や静脈が拡張するから静脈還流量が増加する」という理屈であるならば、吸気時は呼気時に比して、肺循環系の血液量が増加していることになる。 その増加した血液は、一体、どこから来たのだろうか。

水は血管壁を透過し、組織液との間で往来する。 しかし、この移動は急速には起こらないため、呼吸に伴う血液の分布の変化を議論する際には、血液の総量は一定であると考えて良い。 また、動脈は弾性的に伸縮するが、これは心周期の中で重要な働きをするものの、今回のような呼吸性の変動を議論する際には寄与が小さいので無視できる。 動脈の平滑筋による収縮は、呼吸性の変動と関係あるかもしれないが、この影響は小さいと考えられるし、議論が複雑になるので、今回は無視しよう。

生理学の名著である `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology' 13th Ed. によれば、 生理的な血液分布の変化において重要な役割を担っているのは、静脈であると信じられている。 その根拠は、動脈や心臓にくらべて静脈は、僅かな圧変化によって大きな容積変化を示す、という事実である。 従って、吸気時には、体循環系の静脈が、ほんの少しだけ、虚脱気味になるであろう。 もちろん、体循環系の静脈は、肺循環系の静脈よりも圧倒的に豊富なので、この変化は僅かであり、 エコー検査などで検出することは極めて困難である。


2015/06/24 臨床実習レポート

本日、偶然、昨年度に某診療科の臨床実習で自分が提出したレポートの原稿ファイルを開いた。 「遺憾である」という文言が目に入ったので、「一体、何が遺憾だったのであろうか」と思い、自分が書いたレポートを読み返して「ウェッ」と思った。 そこには、次のようなことが書かれていたのである。

実習中に気になったこととしては、先生方から「試験に出る」というような発言が頻回に聞かれたことが挙げられる。 医師国家試験に合格することは重要ではあるが、本来、試験合格は大学における主たる教育目的ではない。 栄えある名古屋大学医学部の教育課程において、かかる卑近な目的意識を学生に植えつけるかのような発言が為されている現状は、遺憾である。

間違ったことは書いていないが、しかし我ながら、よくもまぁ、このようなことを書いて提出したものである。


2015/06/23 教科書レビュー: 医学書院『標準脳神経外科学』 第 13 版

通読していない状態での仮レビューである。

本日、脳神経外科学の試験が行われた。予定では、標題の書を通読した上で受験したかったのだが、諸般の事情に精神的に疲弊していたことなどにより 総論と脳腫瘍の章のみ、ページ数でいえば全体の半分程度しか読んでいない状態で受験した。 読んだ範囲については余裕であったが、未読部分の問題はよくわからず、想像力に任せて解答した。もし仮に合格したとしても、まぐれである。

『標準脳神経外科学』は、「標準」シリーズの中でも、全体を通したストーリー性が高く、楽しんで読める部類の教科書である。 その意味では標準精神医学と似ている。 しかし「精神医学」では「ロマンの香り」などの、やや軟派な記述がみられるのに対し、「脳神経外科学」は硬派な記述で一貫している。

美しい図や写真が豊富に掲載されており、イメージをつかみやすいのも特徴である。 特に、脳腫瘍については典型的な組織写真が載っている。これは、「造影効果の有無」などを丸暗記せずとも自然に想起できるように、との配慮であろう。たいへん、よろしい。

記載内容にも、特に不満はない。 一点だけ、難癖をつけるとすれば、神経外胚葉性腫瘍の分類についてである。 第 6 章 E は「神経上皮性腫瘍 (神経膠腫)」と題されており、「脳の神経上皮細胞 (神経膠細胞, グリア細胞) から発生する腫瘍を総称して 神経膠腫 (グリオーマ) という.」と書かれている。 たぶん、この「上皮細胞」という表現は「外胚葉」の誤りであろう。神経膠細胞は外胚葉由来であるが、上皮ではない。 この節には、髄芽腫、原始神経外胚葉性腫瘍 (primitive neuroectodermal tumor; PNET), および神経細胞腫が含まれている。 このうち、神経細胞腫は神経細胞の腫瘍であって、グリア細胞由来ではない。 また、髄芽腫と PNET についても、細胞起源は明らかではないが、たぶん、グリア細胞由来ではない。 従って、冒頭の「神経上皮細胞 (神経膠細胞, グリア細胞)」という表現は、不適切である。

また、本書では、髄芽腫や PNET という分類が持つ繊細な問題に触れられていない。 そもそも「髄芽腫」は、起源が全く不明な腫瘍であり、名称も不適切である、との批判も少なくない。 PNET と髄芽腫を分けるべきではない、との意見もあるらしい。 PNET 自体も、概念が不明瞭であり、神経外胚葉性腫瘍の Not Otherwise Specified なもの、いわゆるゴミ箱的な区分と考えてよかろう。 本書の記述では、まるで髄芽腫とか PNET とかいう、明確に分類された腫瘍群が存在するかのように誤解されかねないが、実際には、そんなことはないのである。

たぶん、著者としては、そうした議論は「学生のレベルを越えている」という認識なのであろう。 しかし、何事も、最初が肝心である。初学者向けの教科書だからこそ、「こうした分類は、あくまで便宜的な区分に過ぎない」ということを明記するべきである。

初学者が通読するための教科書として、強く推奨する。


2015/06/22 統計調査

「臨床研究」と呼ばれる分野の論文には、何らかの医学的介入がもたらす転帰について、統計的に調査して報告するものが多い。 臨床医が、診療の片手間に行う「研究」としては人気のある分野である。 しかし、こうした報告には、労力を費している割には考察の甘いものが多く、特に統計処理については話にならない内容のものが、しばしば、みられる。 たぶん、論文を「上司に命令されたから」とか「学位をとるため」とか「経歴にハクをつけるため」とかいう目的で書いているから、こうなるのであろう。

ランダム化比較試験とは、患者を、ある介入を行う群 (介入群) と、行わない群 (対照群) に振りわけて、両群で転帰に差が生じるかどうかをみる調査をいう。 特に、それぞれの患者がどちらの群に属するかを、患者も、治療を行う者や成績を評価する者も知らない状態で行われるものを二重盲検という。 可能であれば、統計調査は二重盲検ランダム化試験として行うべきであるが、様々な制約から、盲検でない例も多い。

患者をどちらの群に割り付けるかは、ふつう、コンピューターを用いて無作為に決定する。 以前は、封筒に入ったカードを使って割り付ける方法、すなわち封筒法が主流であったが、不正を行うのが容易であり、実際に不正が行われる例が多いことが指摘されている。 現代ではコンピューターを使用しない理由はないから、封筒法を用いて調査した報告においては、現実に不正が行われたとみなすべきである。 封筒法を用いた論文には、読む価値がない。 それにもかかわらず、いまだに封筒法を用いた調査報告が、それなりに有名な論文誌に掲載されていることは、驚きである。

また、コホート研究とは、患者をどちらの群に割り付けるかは主治医らの判断に任せた上で、その後の転帰を調べる調査をいう。 ランダム化比較試験に比べて、実施にあたり社会的障壁が低いという利点がある。 しかし、両群の転帰に差が生じたとしても、それが介入の結果なのか、それとも別の要因によるものなのか判別することができない。 仮に介入群の方が予後が良かったとしても、それは、その介入の結果であると考えることはできない。 コホート研究が威力を発揮するのは、理論的予想がコホート研究によって否定された場合のみなのである。 この事実は、理論的思考の乏しい臨床医や学生からは、しばしば軽視される。 コホート研究を根拠に「エビデンスがある」などと主張する者は、理論的思考の能力と意欲が乏しいと言わざるを得ない。

ランダム化比較試験にせよ、コホート研究にせよ、報告においては、ふつう、まず両群の患者の性別だとか、年齢だとかの統計データが表にして掲載される。 「どちらの群にも、特に偏りは生じませんでしたよ」ということを示すためである。 このとき、しばしば p 値を示して「有意差はなかった」などと主張する者がいるが、彼らは統計学をわかっていない。 その表について有意差の有無を議論しても、意味がないのである。

p 値で評価できるのは「両群が同じ分布に従っていると考えられるかどうか」である。 コホート研究においては、その過程を考慮すれば、両群が異なる分布に従っていると考えざるを得ない。 仮に p 値が大きく、いわゆる有意差がなかったとしても、それは誤差に埋もれているだけである。 「有意差がなかったから問題ない」という論理は、認められない。

一方、ランダム化比較試験においては、その過程から論理的に、両群が同じ分布に従っていることが保証されている。 仮に p 値が小さかったとしても、それは偶然であって、両群の分布が異なるという根拠にはならない。 もちろん、偶然の結果による偏りは最終的な統計値に影響を与えるが、最終的に評価項目の p 値が小さければ、 そうした偶然の偏りが生じた可能性は充分に小さいといえるため、問題にならない。 この点に、コホート研究とランダム化試験の決定的な差異がある。

統計処理がデタラメだと、多大な労力を費した臨床調査も、何らの学術的意義を生み出すことができない。 まともに統計処理をできないのなら、調査をしても意味がないのである。 努力自体に価値が認められるのは、小学生までである。このことを認識していない医師や学生が、かなり多いように思われる。


2015/06/21 説得力

私は「説得力」という言葉が嫌いである。特に学問上の議論においては、決して、この言葉を使わない。 ふつう「説得力がある」という表現は、「論理的整合性がある」という意味ではなく、「もっともらしく聞こえる」「その気になる」というような意味で使われる。 セールスマンの営業トークであれば、そうした説得力は重要であるかもしれないが、学問においては、無意味である。

学問的素養の乏しい人は、学問上の命題の真偽を判断する際に、自身の頭脳ではなく、「それを誰が言ったか」に頼ることがある。 たとえば「有名な○○先生が言っていたから、たぶん、正しいのだろう」とか、「著名な△△の教科書に、そう書いてあったから、正しいのだろう」とかいう具合である。 逆に、私が何か風変りな学説を唱えても「あいつは、いつもデタラメばかり言っているから、今回も、たぶん間違っているだろう」などと言われ、信じてもらえない。 つまり、○○先生の言葉には説得力があるが、私の言葉には説得力がないのである。

しかし私は、説得力のある話術を身につけようとは思わない。 たとえ世の中の大半の人が私を嗤っているとしても、ごく一部の人々の胸には、私の思う所は届いているようであり、それで充分であると考える。

少なくとも学問上の議論をする限りにおいては、真偽は専ら論理によって検証されるべきであって、その判断に権威が影響を与えてはならない。 私の意見を馬鹿にする一方で、同じことを教授が言えばウンウンと頷く、などという態度は、科学者として、医師として、学生として、恥ずべきものである。 また、そういう人々に迎合し、「説得力のある話術」によって人を魅きつけて牽引することは、反知性的である。

物理学や数学、生理学、生化学といった基礎学問が重要なのは、これが理由である。 基礎を理解することなしには、自身の頭脳で考えることは不可能だからである。 しかし現在の医学科生は、基礎学問を著しく軽視し、試験で点を取る能力ばかり鍛えている。 彼らが専ら権威に依存して「判断」する医師になることは明白である。 日本の医学教育の腐敗は、かなり深いところまで進行していると、言わざるを得ない。

以上の意見に対し、次のような批判があるだろう。「そうは言っても、おまえは、ハーバード大学の教授連中が書いた教科書を愛好し、つまり、権威に依っているではないか。」 この批判は、当たっていない。私がハーバード発の教科書を愛用しているのは事実だが、これは、ハーバード故に信頼しているわけではない。 その記述を自身の眼と頭脳で検証し、信頼に足ると判断したから、愛好しているに過ぎない。 相手がハーバードであろうと、ジョーンズ・ホプキンスであろうと、内容がくだらぬと思えば、 私は「この著者は、全然、わかっていない」ぐらいのことを言い、その教科書を放り捨てるであろう。 とはいえ、今まで実際にはそういう事例に遭遇したことはない。ハーバードは、さすがに、名門である。


2015/06/20 医学部 不満

ふとアクセス履歴をみていたら、「医学部 不満」というキーワードで検索して、このサイトに来た人が複数、いるらしい。 試しに Google 検索してみると、2 ページ目に、このサイトが出てきた。 このような検索をする人は、たぶん、不満と鬱憤を抱えている医学部生なのだろう。

「医学部 不満」で Hit した他のウェブサイトを少しだけ閲覧してみた。 あるブログに「医学部に対する不満」という記事があったので、一体、何の不満を抱いているのかと思い、読んでみた。 すると、要するに「祝日まで授業があって嫌だ。もっと遊びたい。理学部に行けばよかった。」という趣旨の不満であるらしい。 また、講義で「プロフェッショナリズム」のような話があったらしいが、その講師の言葉は、この学生の心には届かなかったようである。 この記事を読んだ時、私は「嫌なら辞めろ。我々は、医学を学びたいから学んでいるのであって、意欲のない学生に来られては迷惑である。」と思うと同時に、 「理学部に行って遊び呆けたいということか。馬鹿にするな。」とも思った。

しかし、そのブログの過去記事をみると、どうやら、この学生を責めるのは、あまり適切ではないらしいことに気がついた。 どうやら、彼は海城高校出身の順天堂大学医学部一年生であるらしい。 海城高校は、もともと海軍兵学校への進学を目指す生徒を集めて開かれた学校であり、いわゆるスパルタ式の厳しい教育をする、ということで有名である。 海城から順天堂医学部、という進路は、本人が希望したのではなく、たぶん、親が開業医であり、息子に跡を継がせたくて医学科行きを強要したのであろう。

プロフェッショナリズムは、本人の内から湧き起こる誇り、信念に類するものであり、他人から授与されるものではない。 本人が医学・医療に対して無関心であるのに、プロフェッショナリズムを持て、などと言っても、無理である。 また、慶應義塾以外の私立大学の医学科は学費が非常に高額であり、ありていにいえば、医師免許を取得するために金を積んで入る大学、という面がある。 結果的に、開業医の息子や娘が、親の意向に従って入学する例が多いという。

以上のことから、彼は、彼自身の人格に無関心・無理解な親による歪んだ教育の犠牲者であると推定される。

なお、名古屋大学などの国立大学医学部においても、本人の意思に関係なく、親の意向に従って入学する者は少なくない。 さらに卒業後の進路についても、親の意向を最大限に尊重する例が多いという。 彼らの話を聴くと、「育ててもらった恩があるし……」などと言う。 まったく時代錯誤であって、到底、理解できない。

我々は、親に頼んで生んでもらったわけではない。親が勝手に生んだのである。 これまで養育に費した金銭や時間の「恩」については、既に、スクスクと成長してきたという事実のみで、十分に返済している。 これからの人生は、我々自身のものであり、我々自身が、我々自身の意向に沿って決定すればよく、親の意思を考慮する必要はない。 逆に、我々が将来、親になった時には、子の人生に不必要に介入してはならぬ。

このあたりの問題について、私のスポンサーはよくわきまえており、人格者であるといえる。


2015/06/16 正しい表現

言葉遣いについての全三回の連載は、本日で終了する。

医者や医学科生の多くは、言葉に無頓着である。 カルテをみると、だいたい、日本語がおかしい。 おそらく、医学的な用語や概念を正しく理解していないために、正確な表現をすることができないのである。 当人は「通じれば良い」などと弁明しているが、実際には通じていない。 話す側も聴く側も想像に頼って会話している状態であり、正しい情報交換が行われておらず、医療過誤の温床となる。

たとえば「脳梗塞」という概念を説明する表現として 「脳梗塞は、脳血管の塞栓などによる虚血により引き起こされ、組織学的には壊死がみられる。」などという文章があったとする。 医学の教科書では、なぜか、こういう表現を好んで用いるものが多いが、実によろしくない。 というのも、「定義」と「傾向」が不明瞭なのである。 この例でいえば「梗塞以外の虚血性壊死は、あり得るのか?」とか、「壊死を伴わない脳梗塞は、あり得るのか?」ということが、わからない。

定義を踏まえた適切な表現は、次のようなものである。「脳梗塞とは、虚血により脳の組織が壊死することをいう。虚血の原因は、塞栓であることが多い。」 多くの人が、わざわざ定義を曖昧にして記述するのは、たぶん、書いている当人が定義をよく理解していないからである。 自信がないから、つっこまれないように、ぼかして表現するのである。

そして学生は、「世の中には『脳梗塞』というものがある。その特徴は……」というように、「まず脳梗塞ありき」という考えで暗記する。 それが、国家試験で効率的に点を取るためのテクニックなのであろう。 しかし本当は、「脳の虚血性壊死」とイチイチ言うのが面倒だから「脳梗塞」という言葉を発明しただけであり、 天の神様が決めた摂理として「脳梗塞」という概念が存在するわけではない。 従って、我々は「脳梗塞」と聴いた時には必ず「脳の虚血性壊死」と、意識的に、あるいは無意識に、翻訳して理解するべきである。

大学では「医学英語」を教える前に、まず「医学日本語」を教えるべきである。


2015/06/14 SOAP 方式

診療録、いわゆるカルテを記載する際には「SOAP 方式」が推奨されることが多い。 これは、記載内容を S, O, A, P の四項目に分け、順番に記載するものである。

`S' は subject であり、患者による訴えの内容を記載する。 「患者の言った言葉を、そのまま書きなさい」と指導されることもあるため、 「よく眠れたよ」「おはよう」などと話した内容をそのまま記載する者がいるが、彼らは「そのまま書く」という言葉の意味を誤解している。 「そのまま」というのは、患者が「足がズキズキする」と言ったならば、それを「足が痛む」などと勝手に解釈してはならない、という意味である。 「痛いのですか?」と問うて、患者が「うん、足が痛い」と言ったならば、そこで「下肢が痛む」などと記載するのが正しい。 日常用語の「足」は、解剖学的には「下肢」とするのが正しく、「足」といえば「足首から先」を意味するので、そこは言葉を置換するのが正しい。

`O' は object であり、自分が観察した事実や検査所見を記す。 視診や触診などの所見だけでなく、血液検査所見もここに書くのが普通である。

`A' は assessment であり、S や O の内容に対する医学的解釈を記載する。 ただし、これを適切に記載している人は極めて稀である。 S や O に記載した内容に対しては、例外なく、assessment をしなければならない。 S で「下肢が痛む」と書いたならば、なぜ痛いのか、という点について、原因の推定を含め、必ず何らかの記載をしなければならない。 また、O に血液検査結果の数値を記載したならば、それは正常なのか異常なのか、異常ならば原因は何か、といったことを記載しなければならない。 それを怠った場合、医師法違反 (診療録の記載義務違反) であるか、藪医者 (何も考えていない) であるかの、どちらかである。

`P' は plan であり、今後の診療方針などを記載する。

稀に、<A> に「CRP 下がった」などと書く者がいるが、これはダメである。 「CRP 測定値が下がった」というのは観察事実であるから、書くなら <O> にするべきである。 <A> に書くなら「炎症が治まった」などの評価内容でなければならない。 また、形式は満足していても良くない記載例は、たとえば次のようなものである。

<S>
三日前から腹痛が続いている。
<O>
腹部の右上四半部に圧痛あり。他に身体診察上の異常所見なし。
血液検査で WBC 14000, CRP 1.3. 他に異常なし。
<A>
ウイルス性腸炎か。
<P>
経過観察。

記載が簡素すぎる、とか、単位を省略するべきではない、というのも問題点ではあるが、ここで取り上げるのは <A> の「ウイルス性腸炎か。」という記載である。 そもそも、これは日本語として成立しておらず、せめて「ウイルス性腸炎を疑う。」とするべきである。 何よりまずいのは、なぜ「ウイルス性腸炎」と考えたのか、その思考過程が一切記録されていないことである。 例えば、なぜ「癌ではない」と考えたのか。

中途半端に臨床をかじった学生や研修医は 「積極的に癌や慢性疾患を疑う所見はない。まず疑うのはウイルス性腸炎であって、長引くようなら内視鏡検査などを行えば良い。」 と述べるであろう。 それならば、<A> の項目は、少なくとも、次のようでなければならない。

<A>
悪性疾患や慢性疾患を疑う所見はない。 急性ウイルス性腸炎と考えられる。

学生であれば、さらに詳しく、<A>, <P> を次のように書くべきであろう。

<A>
悪性疾患や慢性疾患を疑う所見はない。 有病率から考えて、急性ウイルス性腸炎が疑われる。
<P>
経過観察の上、改善がみられなければ結腸内視鏡を施行する。

このように、論理がキチンと成立するように記載することは重要であり、わかりきった、あたりまえの内容に思われたとしても、手を抜いてはならない。 なんとなく「あたりまえ」だと思っていたのに、いざキチンと書いてみると自分の思考が論理破綻していることに気づく、という事例が、しばしば経験されるからである。 このあたりを徹底するかどうかに、名医と凡医の差が表れるのであろう。


2015/06/13 ドイツ語もどき

近代日本の西洋医学は、杉田玄白らによってオランダから輸入されたものである。 その後、明治の頃にはドイツから当時の最新医学が輸入され、第二次世界大戦後は米国の後を追ってきた。 有名な医学の教科書には、日本語で書かれたものは極端に少ない。 学生や初期臨床研修医向けのものには清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版などの名著があるが、専門性はあまり高くない。 キチンとした専門書となると `Harrison's Principles of Internal Medicine' 19th Ed. だとか、 `Nelson Textbook of Pediatrics' 20th Ed. だとかの、英語の書物や、その訳書になってしまうのである。 日本の医学教育が米国より大きく遅れていることは、このあたりの事情をみるだけでも、明白である。

こうした事情もあって、若い医師や医学科生の中には、外国語を不適切にありがたがる者がいる。 たとえば、血液検査所見で「白血球数」のことを「ワイセ」などと呼ぶ者がいる。 白血球のことを英語では leucocyte と言うが、日本語と同じように white blood cell と呼ぶこともある。 ドイツ語でどうなるのかはよく知らないが、英語の white にあたる部分が weissen となるらしい。 標準ドイツ語の発音では「ワイセン」という感じになるのだろう。これを縮めて「ワイセ」になったのだと言われる。

他に、赤血球に含まれる「ヘモグロビン」は「Hb」と略記されることがあり、これをドイツ語風に「ハーベー」と読む者がいる。 また「死亡」はドイツ語で「ステルベン」であるらしく、これを「ステる」と言ったり、「死亡退院」を「ステ退」と呼ぶ者もいる。

何を言いたいのかというと、わざわざ「ワイセ」などと呼ぶぐらいなら、単に日本語で「白」と言えば良いのである。 それを、ドイツ語の、しかも不適切に略した表現を用いるのは、歪んだ形で専門家ぶった、滑稽な様式である。

現代においては、日頃から英語で医学を修めることには一定の意義があるから、会話の中でついつい英語が混ざり、 「転移」という言葉が咄嗟に出ず「metastasis」などという英単語が日本語文の中に混ざるのは、おかしなことではない。 しかし、日頃からドイツ語で学ぶことには意義がないから、ドイツ語を会話文に混ぜ込むのは、単に格好つけているだけである。 また、正しい英語を用いずに、「転移」を「メタ」などと表現するのも、熟練者ぶっているだけである。

これらの表現を用いる者は、言葉を正しく使う意識が乏しく、形だけ取り繕っているのだから、その中身はカラッポである。 みっともないので、やめた方が良い。

2015.06.14 誤字修正

2015/06/11 医師の「常識」

名大病院に限らないし、診療科にもよるが、医師は、製薬会社から薬剤の「情報提供」を受けることがある。 時に、それは通常の勤務が終わった後の 18 時頃から開始されるが、医師はだいたい忙しいし、疲れているから、10 分ぐらいで終わるのが普通である。 時間帯もちょうど空腹になる頃なので、製薬会社が弁当を供与することも稀ではない。 弁当といっても、詳しくは知らないが、もちろん、学生が日頃食べるような価格帯の弁当ではない。 これは、あくまで薬剤の「情報提供」である。断じて、接待ではない。

似たような薬剤を複数の会社が販売している時、どの薬剤を採用するかは、病院や医師の裁量である。 それを思えば、医師が製薬会社から接待を受けることは道義上の問題があるので、もちろん我々は、李下に冠を正すようなことは、していない。 情報提供は情報提供に過ぎないのであって、弁当によって薬剤の選択が左右されることはない。 ……などと思っている医者や学生は、稀ではない。 話にならない。アレは、誰がどうみても、接待である。疑われたくないのであれば、弁当は断わらなければならない。 実際、一部のまともな病院は、弁当などの物品の供与を業者から受けることを、院内規定で一律に禁止している。

診療録、いわゆるカルテは、高度にデリケートな情報を含んでいる。その秘密は、厳重に守られなければならず、第三者の目に触れるようなことがあってはならない。 従って、カルテのコピーを不必要に院外持ち出すことは許されないし、院内であっても、決して紛失しないよう、細心の注意を要する。 こんなことは中学生でもわかる理屈であるが、それをわかっていない大学生が少なくないようである。詳しく書くことは、ここでは控える。 また、医師の中にも、そうした感性の鈍い者がいるようである。

カルテといえば、カルテの開示請求は、患者が持つ当然の権利である。 自分のカルテなのだから、特に理由がなくても、興味本位で開示請求して構わない。 ところが、医師の中には「カルテの開示を請求する」という行為を「診療内容に疑義を抱いている」という意味に解釈する者が少なくないようである。 そういう医師は、患者がカルテの開示を請求した、と聞くと、不愉快に感じるらしい。ここには二つの問題がある。

一つは、そもそも開示請求されて不愉快に思うようなカルテを書いてはいけない、ということである。 逆に、医師の方から「カルテをお見せしましょうか。あなた自身のことなのですから、できれば、自分でも目を通しておいた方が良いと思いますよ。」ぐらいのことを 言った方が良いぐらいである。患者がカルテ開示を請求した、と聞けば「なんと治療に熱心な患者なのだろう」と喜ぶべきなのである。 当然、カルテに記載する際の言葉遣いにも注意が必要であり、不信感を抱かれるような表現は避けなければならない。

もう一つの問題は、患者に疑義を抱かれた際に、反省するのではなく不愉快に感じる、という精神構造である。 疑義を抱かれたならば、大抵の場合、それは医師の説明がまずかったか、そもそも診療内容がまずかったかの、いずれかである。 「私は適切な診療を行ったのに、疑われるとは、心外だ」などと思う医師がいるとすれば、その人は、インフォームド・コンセントというものを、わかっていない。


2015/06/10 日記を書く目的

私は、こうして日記と称する随筆を web 上に記しているが、これには二つの目的がある。 一つは、言うまでもなく、自分の思う所を発信し、それを読んだ人が何かを感じ、考えることを期待するものである。

もう一つの、より重大な目的は、将来の自分自身に対する戒め、の意味である。 私は、もともと医者が嫌いである。高校生の頃には「医者は、他人の弱味につけ込んで金を稼ぐ邪悪な連中である」というような発言をしたことがある。 医学部に来た現在でも、その基本的な考えは変わっていない。 以前に調べたところでは、国立病院の勤務医の平均年収は 1400 万円であるという。 私には、医師が、それだけの高給に値する仕事であるとは思われない。 もちろん、人々の健康を支える、重要な、責任の重い、厳しい仕事ではあるが、同様に社会的に重要な、重責を担う厳しい仕事は、他にもいくらでもあるのだ。 どう取り繕ったところで、医師の高給は某職業組合などによる政治的な活動の成果であって、他の職業と不釣り合いに高いことを否定できない。 そして、給料だけでなく、思考や文化の面で、医師の「常識」は世間と著しく乖離している。 そのあたりの具体例は、後日、記すことにしよう。

しかし私も、医学部で三年余りを過ごす中で、いささか、歪んだ医師の社会に染まりかけているように思われる。 このまま十年、二十年と経てば、私も、自身がかつて軽蔑した「典型的な医者」の一人になってしまう可能性を、否定はできない。 それ故に、今のうちに最大限の批判を述べておくのである。

自分自身がかつて述べた批判は、他の誰の言葉よりも、自分の胸に鋭く突き刺さるものである。 私が将来、道を誤りそうになった時、それを正してくれるのは、他の誰でもなく、私自身の言葉であろう。


2015/06/09 勇気の欠如

スキルアップセミナーなどとして、市中病院が医科学生を招いて講習会のようなことを行っている例は多い。 目的がよくわからないが、たぶん、病院の宣伝としての意味合いが強いのであろう。 学内某所の掲示によれば、某病院は、今夏、心電図判読を目玉企画として、セミナーを行うらしい。 セミナー自体は結構だが、その宣伝文句が、とても気になった。 「『基礎はわかった理論はわかったでも実際の心電図を見ると自信がない』という方が多いのではないでしょうか」というのである。 はたして、心電図の基礎や理論がわかっている学生が、どれだけ、いるのだろうか。

心電図は、Einthoven が理論抜きの経験的診断方法として 1902 年頃に編み出した技法である。 爾来、百余年にわたり、心臓の電気的活動を理論的に説明する試みは精力的に続けられてきた。 しかし、今なお、心電図の形成機序を定量的に説明することに成功した者はいない。 定性的な説明については「説明に成功した」と主張する者がチラホラと存在するものの、明確な合意を得るには至っていない。 すなわち、心電図理論を正しく理解している者は、世界中に一人として存在せず、心電図は、ただ経験に基づく技法として受け継がれてきたのである。 「理論はわかった」などと言っている者は、一体、何をわかっているのか。

たぶん、大抵の学生は「○○がみえる」や、それに準ずるマニュアル本などの、よくわからない説明を納得できないままに受け入れて 「理論はわかった」と主張しているのではないか。 このあたりに、多くの学生の「勉強」方法の問題があるように思われる。 納得できないなら、なぜ、そのように言わないのか。 先生のおっしゃることに、なぜ、そのように素直に従うのか。 若者なのだから、「世の中に、自分の頭脳よりも信頼できるものなど存在しない。 自分が納得できないなら、それは、教科書や先生の言葉の方が間違っているのである。」ぐらいのことを、なぜ、言わないのか。 結果的に自分が間違っていることが判明したら、その時、訂正すれば良いではないか。

この勇気の欠如は、試験に対する姿勢にも表れているだろう。 昨日行われた麻酔科学の試験は、いささか、内容に疑問があった。 全身麻酔における薬剤の投与量を書かせる設問があったのである。 そのようなものは、マニュアルや教科書をみれば良いではないか。専門医試験で問うならともかく、なぜ、学生が覚える必要があるのか。

いわゆる過去問をみて、そうした「理不尽」な出題がなされると知った少なからぬ学生が、それに対応すべく、投与量を暗記したようである。 理不尽だと思うなら、なぜ、無視して試験に臨まないのか。 きっと彼らは、医師になってから、その勇気のなさゆえの苦労をするであろう。


2015/06/08 教科書レビュー: 南山堂『TEXT 麻酔・蘇生学』 改訂 4 版

精神医学の試験に合格した。本日は、麻酔科学の試験である。

標題の書について、各論の一部を除いて通読した上でのレビューである。

本書は、生理学や薬理学の基本的な部分をキチンと修得していない者は読むべきではない。 なぜならば、そうした基礎的な部分について、あまり一般的でない説明がなされているからである。 特に、「消失半減期」や「PT-INR」などの重要な概念の定義に誤記がある。

また、いわゆる「サードスペース」の概念は、いわゆる浸透圧に関するスターリングの法則に基づく苦し紛れの発想である。 これは生理的実態とかけ離れており、不適切であることが明らかにされているが、そうした点への言及もない。 現在では、体液の分布については glycocalyx などを含めた比較的複雑な理論が必要であると理解されつつある。 また、長く論争が続いている「晶質液と膠質液のどちらが良いか」という問題について、膠質液派の論拠であったスターリングの法則が崩れたことにより、 現時点では膠質液を用いる理論的根拠が存在しないにもかかわらず、この点についても偏った意見が記載されているように思われる。

さらに、プロポフォールには蓄積効果がない、という記述があるが、これはプロポフォールの脂質親和性が高いことから薬理学的に不自然である。 正しくは、プロポフォールは fat group の分布容積が極めて大きいために、通常の手術時に用いる程度の投与量では蓄積効果が臨床的には問題とならない、ということである。 こうした薬理学的理解に言及せず、臨床手技に偏った記述がなされている点は遺憾である。

また、麻酔科学に特に関心のある学生にとっては、内容が浅薄であり、ものたりないであろう。 そういう人々は、Miller's Anesthesia 8th Ed. などの立派な書物を、初期臨床研修が終わる頃までに通読するのがよろしいかと思われる。

全体として、生理学や薬理学の基礎を修得した学生が、医師としての教養として麻酔科学や蘇生学の基礎を学ぶには良い教科書である。 ただしペインクリニックや緩和医療については、Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed. のような一般的な内科学書より記述が乏しい。 また、日本語の乱れが随所にあり、文章としての品格がいささか損なわれているように感じられる。

なお、 序文に「医師国家試験の出題基準を重視し, 学生が必須事項をもれなく学習できるように構成した.」と書かれていることが、最も遺憾である。 それは、仮に事実であったとしても、教科書としての品位を損なうので、公然と書くべきことではない。


2015/06/07 大動脈弁逆流症患者に対する大動脈バルーンパンピングの補足

5 月 20 日に書いた、大動脈弁逆流症患者に対する大動脈バルーンパンピング (IABP) についての補足である。 先の記事では、IABP が心不全を進行させるリスクについて、大動脈弁逆流の有無は関係ない、と書いたが、これは、厳密には正しくない。 しかし、適切な方法で IABP を施行すれば、重症大動脈弁逆流症でも利益がリスクを上回る例がある。

心室収縮期に大動脈は弾性変化により拡張し、心室拡張期には収縮する。 このため、IABP を施行しない例においては、拡張期全体を通して大動脈が収縮することにより、その容積変化分の血液が、腹部、腕頭部、および心臓のいずれかに移行する。 それぞれの部位への移行量は、各々の血管抵抗によって決まる。 重症大動脈弁逆流症においては、心臓や上行大動脈の血管抵抗が小さいために拡張早期には心臓への移行が主となるが、 拡張末期には心室圧が比較的、高くなっているため、ある程度は横隔膜以下にも移行する。

これに対し IABP では、通常、大動脈弁の閉鎖直後に胸部大動脈でバルーンを拡張させる。 これにより胸部大動脈の血液が、上述の三つの領域のいずれかに移行する。 大動脈弁の不完全な閉鎖直後には心室内圧が低いことから、横隔膜以下への移行は少ない。 このため、健常者に比べると、心不全が進行する恐れが高い。

では、IABP において、心房収縮期に同期してバルーンを膨張させてはどうか。 この場合、IABP による心室への逆流は比較的少ないから、横隔膜以下への血流を増やすことができる。 大動脈圧が比較的高い状況において急速にバルーンを膨張させることで内皮傷害を来す恐れはあるが、 心不全のリスクは低下し、また、冠状動脈の血流増加の利益は大きくなるであろう。 この場合、かなりの程度の大動脈弁逆流があっても、IABP が有効と考えられる。 もし急速なバルーンの膨張による内皮障害が怖いのであれば、拡張期全体を通して緩徐に膨張させるという手もある。


2015/06/01 医師国家試験批判

近頃、Francesca Laylah Jamilah 氏のプロジェクトに協力している関係上、第 108 回医師国家試験問題を一部閲覧した。 その上で申し上げるが、医師国家試験問題は、実に、くだらない。 医師として備えているべき基礎知識を問うているわけではなく、一方、医師として備えているべき基本的教養が問われていない。 ただの医療クイズである。医学ではないし、臨床医療的ですらない。

具体例を挙げる。 A 問題の 13 は、MR 画像をみて症状を当てさせる問題である。 画像から「子宮平滑筋腫だろう」と診断した上で、「粘膜に及ぶ平滑筋腫では、しばしば過多月経を来す」という知識があれば正解できる、という問題である。 しかし、この「問題」は、放射線診断学的に禁忌である。

画像診断においては、まず患者情報や臨床所見を確認した上で、画像をみて診断するのが鉄則である。 病理診断においても、臨床所見をみずに組織像だけで診断することは禁忌である。 放射線科医の集まりにおいては、「画像だけみて診断する」というゲームが行われることがあるし、 病理医も同様に組織像だけから診断する遊びに興じることがあるが、これらは、あくまで遊びである。 つまり、画像所見から症状を当てる、などということは、単なるゲームであって、臨床医学的には許されないのである。 それを、国家試験で行わせるとは、いったい、どういう了見なのか。

また、A 問題 52 では、免疫不全状態の患者が真菌性肺炎と考えられる所見を呈し、CT でびまん性のスリガラス陰影が認められる時に、適切な治療は何か、という問題である。 免疫不全で真菌性肺炎といえばニューモシスチスかアスペルギルスの頻度が高く、スリガラス陰影を成すのは前者の蓋然性が高いだろう、と推定させたいのだろう。 そして、ニューモシスチスは細胞膜にエルゴステロールではなくコレステロールを使うからアムホテリシン B が効かず、ST 合剤などが使われる、という趣旨の設問である。

ニューモシスチスの細胞膜が、真菌にしては珍しい構造をしている、という事実は、真菌マニアなら誰でも知っている。 が、はたして、これは医師として必須の常識だろうか。 臨床的には、電子カルテに診断名として「ニューモシスチス肺炎疑い」と入力した時点で 「ニューモシスチスには普通の抗真菌薬が効きませんよ。ST 合剤が普通ですよ。」という注意を表示するようにすれば、済むことではないか。 そうした細かな薬の選択など、医師になった後に、実際に処方しながら身につけていけば良いではないか。 そんなことをイチイチ記憶するより、もっと他に、医師の卵として身につけるべきものが、たくさんあるのではないか。

一部のエラいセンセイから、次のようなお叱りの言葉があるだろう。 「機械に頼ってはいけない。ミスを防ぐためには、電子カルテがなくても正しい処方ができるように、訓練する必要がある。」 意味がわからない。ミスが起こらないように電子カルテのシステムを設計すれば済むだけのことである。 機械に頼るな、というなら、内視鏡手術など、やめるべきである。心臓外科医は、人工心肺を使うべきではない。ロボット支援手術など論外である。

エラいセンセイは、自分の若い頃には電子カルテがなく、ひたすら記憶に頼らざるを得なかったために、コンピューターの威力を知らないのだろう。 そういう老人達が、やみくもに新しいものを否定することで、日本の医学教育を荒廃させているのである。

そして何より腹が立つのは、「試験に出る内容こそが基本であり、重要な事項である」などという言い訳に基づいて、 ひたすら試験対策勉強にはしる学生連中である。 彼らは、老人達の妄言に、なぜ、反抗しないのか。

このように、日本の医師国家試験は、医学的に重要でないことばかり出題するようである。 従って、いくら医学をキチンと勉強しても、たぶん、それだけでは、国家試験に合格するのは難しい。 過去問をみるかどうか、という点について、私は2014 年 7 月 17 日に 「要は、私が出題者を信じきれるかどうか、の問題である。」と書いた。 結論として、私は、出題者を全く信じられない。


2015/05/31 「血圧を下げる薬」

新聞などの一般大衆向けの記述において、「血圧を下げる薬」という表現に、しばしば、遭遇する。 また、医学科三年生以上ぐらいの学生でも、これを熟語で表現した「降圧薬」という語などを好んで用いる人がいる。 しかし、この表現が本当に適切である例は、少ない。 「高血圧」というのは、単なる検査所見であって、何らかの生理学的、解剖学的な現象を直接には意味していない。 そもそも血圧は、血管の部位によってそれぞれ異なるので、一概に「血圧」と言った場合、どこの血圧の話をしているのか、わからない。 さらに、心周期について最高血圧を問題にしているのか、最低血圧の話をしているのか、平均血圧なのかも、よくわからない。 従って、高血圧そのものが治療対象になることはない。

血圧とは、血管内の圧力をいう。 これは、位置によって異なる。 厳密にいえば重力の影響などによる例外があるものの、生理的には、だいたい、血液は圧力の高い所から圧力の低い所に向かって流れる。 「血液が流入するから圧が上がる」などという現象は、まず起こらない。 さて、血圧は、技術的には、カテーテルを用いて任意の位置で測ることが可能ではあるが、多くの場合は、上腕の周囲にカフを巻いて測定されることが多い。 世間一般で「血圧測定」という語から想起されるアレである。 これは、上腕動脈の血圧を測定しているものと考えられている。 なぜ上腕動脈で血圧を測るのかというと、単に、測りやすいから、というだけの理由である。 全身性高血圧の長期的変動や、交感神経刺激などによる血圧変動をみる目的であれば、どの部位で測定しても同じことであるから、 測定しやすい部位で測定するのである。 従って、血管収縮などに伴う局所的な血圧の変化は、この上腕動脈の血圧測定ではわからない。 あたりまえのことではあるが、時に、この基本的なことが忘れられてしまうので、注意が必要である。

いわゆる降圧薬は、機序によって三種類に大別できよう。 第一は血管平滑筋弛緩薬であり、血管径を大きくすることで血管抵抗を減らし、血圧低下を来すものである。 ホスホジエステラーゼ阻害薬や、グアニル酸シクラーゼの活性化を促進する硝酸薬などが含まれる。 第二は利尿薬であり、循環体液量を減少させることにより収縮期左室圧を低下させ、結果として血圧を低下せしめるものである。 第三は心筋収縮力を低下させる薬であり、β1阻害薬やカルシウムチャネル阻害薬が該当する。後者は血管平滑筋弛緩薬でもある。 これらは、心筋収縮力低下により収縮期左室圧を低下させるのである。

ひとくちに「高血圧」といっても、病態は多様であり、適切な薬剤を選択する必要がある。 何らかの事情、たとえば褐色細胞腫のために、ノルアドレナリンによる血管収縮作用が亢進して高血圧を来している患者の場合、 治療の目的は「血圧を下げること」ではなく「血管を拡張させること」であるから、α1阻害薬などの血管平滑筋弛緩薬を用いるべきである。 カルシウムチャネル阻害薬もある程度は効くであろうが、原因がノルアドレナリンであるならば、α1阻害の方が合理的である。 もし何も考えずにβ1阻害薬や利尿薬で血圧をコントロールしようとすれば、急性心不全を来し、場合によっては多臓器不全を来して、患者は死亡するかもしれない。

逆に大動脈解離による上腕動脈の高血圧であれば、治療の目的は上腕動脈の血圧をどうこうすることではなく、 「大動脈の解離している部位や、その近傍を機械的刺激から保護すること」であるから、 大動脈圧を下げることが重要である。従ってβ1阻害薬やカルシウムチャネル阻害薬により、心筋収縮力を低下させるのが良い。 利尿薬もよろしいだろう。しかしα1阻害薬を用いても、あまり意味がない。

いわゆる本態性高血圧で全身性に血圧が高い場合は、難しい。なぜ高血圧が心血管疾患のリスク因子になるのか、よくわかっていないからである。 この場合は、たぶん全身の血管抵抗が亢進し、また心筋収縮力も亢進しているのだと考えられており、 この血管抵抗の亢進状態が持続することがまずいのだと推定される。 この観点からは、血管平滑筋弛緩薬により血管抵抗を低下させるのがよろしいと思われる。 こういうことを述べると、エビデンスが云々とか統計的に云々とか言う人がいるが、だいたい、彼らは統計的エビデンスの何たるかを理解していない。

過去にも何度か書いているが、統計的エビデンスは万能ではない。 「一見、理論的に正しそうな主張が、実は間違っている」ということを示すには統計的エビデンスは有用である。 しかし「理屈はよくわからないが、統計的に有効である」という主張は、だいたい、何らかのバイアスの影響をみているだけであり、事の真相を反映していない。 従って、臨床的に用いられるガイドライン等には、理論的根拠のない統計的エビデンスは、あまり記載されていない。

以上のことからわかるように、 「治療として、具体的に何をどうしたいのですか?」と問われた際に「血圧を下げたいのです」と答える人は、 質問者を馬鹿にしているか、そうでなければ、少しばかり思慮が足りない。 血圧そのものが本当に重要な意義をもつ例は、稀だからである。

2015.06.01 語句修正

2015/05/30 5 月 21 日の補足

5 月 21 日に「留年せよ」と書いたことについて、一部に誤解があったようなので、補足する。 私が言っているのは、低学年の頃にさんざん怠けて、然るべき学業を修めてこなかったのであれば、その責任は自身で負わねばならぬ、ということである。 時間が足りないならば、医師になる前に留年してでも時間を作るべきである。自己の怠慢ゆえに患者にリスクや障害を負わせることは、道義的に許されないからである。 留年するのに要する学費や生活費が足りないのであれば、借金してでも賄わねばならない。

これに対し「お前は経済的に恵まれているから、気軽に借金などというのだ」という批判があるだろう。 確かに、私には強力なスポンサー (parents) がついており、非常に恵まれている。 しかし、それが何だというのか。

懐に余裕のある学生が「いざとなったら留年すればいいや」と思って低学年の頃に怠けるのは、個人の自由である。 大学の規則も、最大六年は留年を認めているのであって、これは、何人にも妨げられない、学生としての基本的権利である。日本は、自由の国なのである。 しかし余裕のない学生が「いざとなったら国家試験特化勉強で凌いで医者になろう。それで患者が死んでも、私は困らないし。」と考えるのは、道義的に許されない。 経済的制約から留年できないなら、低学年のうちから、しっかりと勉強しなければならない。 明治や大正、昭和初期の文学作品を読んでも、苦学生は勤勉である、と相場が決まっている。 怠慢が許されるのは、金持ちだけなのである。

「なんという暴論だ。金のありなしで、そんな差が生じて良いはずがない。」という声が聞こえる。 私も、そう思う。だが、それを許すのが資本主義である。だから、私は、資本主義が嫌いなのだ。


2015/05/29 腎機能検査

腎機能検査について考える。 稀に、血液生化学検査におけるクレアチニン濃度だとか、尿素窒素濃度だとかを「腎機能の値」と呼ぶ医師や学生がいるが、よろしくない。 これらの検査所見は、糸球体瀘過量をある程度は反映しているとはいえ、他の要因にも多分に影響されることなどから、腎機能の評価としては精度が低いからである。 かの有名な The New England Journal of Medicine に連載されている `Case Records of the Massachusetts General Hospital' において、 私が最も気にくわないと感じているのは、血液生化学検査所見において `renal function' とか `liver function' とかいう表現が多用されていることである。

そもそも「腎機能」とは何か。 臨床医の中には「腎機能とは糸球体瀘過量のことである」と主張する者がいるが、暴論である。 腎機能とは、腎臓の機能のことである、と考えるのが普通である。 現代生理学において、腎臓の機能とは、尿の生成および内分泌の両方であると考えられている。 尿の生成は、糸球体における原尿の生成、および尿細管や集合管における電解質等の再吸収や分泌によって為される。 一方、内分泌はエリスロポエチンやレニンの産生、ビタミン D の 1 α ヒドロキシ化、などが知られている。 これらの総称が「腎機能」なのであって、糸球体瀘過は、腎機能のごく一部に過ぎない。

糸球体瀘過量を測定する方法としては、24 時間蓄尿によるクレアチニンクリアランスの測定が、臨床的にはしばしば行われる。 しかしクレアチニンクリアランスと糸球体瀘過量は、似てはいるが、厳密には異なる。 また、イヌリンクリアランスは糸球体瀘過量と概ね一致するが、測定が煩雑であり、患者の身体的負担も軽くない。 さらに、クレアチニンにせよイヌリンにせよ「両側腎臓のクリアランスの合計の 24 時間平均」しかわからないことに注意が必要である。

腎癌の手術などに関連して、左右の腎臓の機能を別個に調べたい場合がある。この場合、クリアランス法は使えない。 そのような目的には、放射性物質を用いた、いわゆる核医学検査が適する。 金原出版『核医学ノート』第 5 版によると、99mTc で標識したメルカプトアセチルトリグリシン (99mTc-MAG3) は、 主に腎尿細管から分泌されることで尿中に排泄される。糸球体で瀘過されるのは全体の 5 % 以下であるらしい。 瀘過されにくいのは、99mTc-MAG3 の大半が血漿中で蛋白質に結合しているからである。 従って、99mTc-MAG3 は、腎尿細管機能をみていると考えてよかろう。 これに対し、99mTc で標識したジエチレントリアミン五酢酸 (99mTc-DTPA) は、 尿細管から再吸収や分泌されることなく、専ら糸球体瀘過により尿中に排泄されるという。 すなわち、糸球体瀘過の評価に適した物質である。

糸球体瀘過と尿細管分泌は、厳密には異なる現象であるが、生理的には両者は密接に関係しており、一方が機能障害を来せば他方にも障害を生じるらしい。 急性尿細管壊死が急性腎不全を来す、というのが、その好例である。 そのため、臨床的には両者をあまり区別せず「腎機能」という漠然とした言葉でごまかすことが多いようである。 しかし、曖昧な言葉を使えば議論が曖昧になるから、基本的には、こうした意味のよくわからない言葉は避け、正しい表現を心掛けるべきである。 私も、時に横着して「腎機能」とか「肝機能」とかいう言葉を用いるが、だいたい、後で反省している。

さて、腎シンチグラフィとは、狭義には、これらの放射性薬剤の腎臓への集積の様子を画像化するものをいい、定性的な評価を行う。 これに対し、腎臓への集積量の時間的変化をグラフ化するものをレノグラフィといい、定量的な評価を行う。 実際上は、シンチグラフィとレノグラフィは同時に施行されることが多い。 定量的評価は定性的評価よりも優れているかのように思われるかもしれないが、レノグラフィでは腎実質の異常と、尿路の閉塞ないし狭窄を区別できない、などの弱点がある。 腎核医学検査に限らないが、定性的評価は、常に重要である。

さて、腎核医学検査において、利尿薬、たとえばループ利尿薬であるフロセミドを投与して「負荷試験」を行うことがある。 ここでいう「負荷試験」とは、どういうことか。 医学的センスに富む人は、これだけの情報で「あぁ、たぶん、こういう検査だな」と想像できるであろう。 なお、遺憾ながら私には、そこまでのセンスはなく、某医師から少しのヒントをもらって、ようやく察することができた。

腎シンチグラフィにおいて、尿の腎盂や腎杯への貯留が認められることがある。 しかし、これが尿路の閉塞によるものなのか、あるいは機能的な事情により尿が停滞しているのかを区別するのに、利尿薬が有効である。 すなわち、解剖学的閉塞がある場合には利尿薬は何らの改善ももたらさないが、機能的な停滞であれば利尿薬により流出の改善が起こると考えられる。 これが負荷試験である。 つまり、ここでいう「負荷試験」とは「負荷をかけて腎機能をみる」試験ではなく「負荷をかけて尿路障害をみる」試験なのである。 私は、ここを勘違いしていたために、負荷試験の趣旨や原理をなかなか理解できなかったのである。 なお、利尿薬は、ふつうはフロセミドを使うが、理屈からいえば何でも良いことになる。

こうした核医学検査は、みていてワクワクする楽しい検査であり、私も一度、受けてみたい。 しかし、これは少なからぬ被曝を伴う、つまり侵襲性が高い検査である上に、費用も高い。 そのため、なかなか受ける機会がなく、残念である。


2015/05/28 医師と看護師の服装の違い

病院によって事情は異なるようだが、名古屋大学医学部附属病院の場合、医師と看護師は、服装がだいぶ異なる。

看護師は、看護服などと呼ばれることもある、専用の服を来ている。作業服のようなものであり、上下はセパレート式で、上は概ね半袖、下は長ズボンである。 胸元は完全に閉鎖されている。長髪の者は、おだんご状にしている。 これが明文化された規則によるものなのかどうかは知らないが、合理的である。 看護服は、血液等の汚染から身を守るための装備であるし、頭髪は感染源となるから、まとめるのが衛生的である。 かつては看護帽などと呼ばれる帽子を被っていた時代もあるらしいが、これは不衛生なので、現在では使用されない。 看護師の卵たる学生も、だいたい、これに準じる服装をしている。

これに対し医師の服装は、統一されていない。 血液などによる汚染のリスクが特に高い行為をする際には手術衣に着替えるが、それ以外は、普段着の上に長衣型白衣を着用するか、 あるいは普段着を脱いで短衣型の、いわゆるケーシー型白衣を着用する。 短衣型白衣の場合、下半身は普段着のまま、丸出しである。長衣型の場合も、だいたい膝丈ぐらいなので、下腿部分は普段着が丸出しになる。 そして長衣型は、ふつう、胸元が開いている。 すなわち、長衣型にせよ短衣型にせよ、防護着としては、実に隙だらけなのである。 その上、白衣の前のボタンを外している医師も多く、この場合、白衣は本来の目的をほとんど果たしていない。 しかも医師は髪型も多様であり、長髪を束ねただけの者も少なくない。看護師で肩より下に頭髪を垂らした者がいないのとは、対照的である。 稀に、診療にあたり指輪を着用していたり、 しかも手袋を着用せずに患者に触れる医師がいるが、極めて不衛生なので、いけない。 ピアスなどの装飾品も、可能であれば外した方が良いだろう。

技師は、衣服は看護師に近いが、頭髪は医師に近いように思われる。

衛生的な観点からすれば、医師も、看護師と同様の服装をするべきである。 少なくとも、白衣の前をはだける行為に関しては、弁護の余地がない。 ただ、胸元が開いている長衣型白衣を着用することについては、一定の意義がないわけではない。

個人的には好きではないのだが、ネクタイを着用し、襟のついた白衣姿を「カッコイイ」とする意見は、世間では一定数、存在するらしい。 患者の中にも、そういう格好をみて「キチンとした、信頼できそうな医師」と感じる例があるという。 そういう心理を利用し、良好な医師患者関係を築くための手段として、衛生面を若干、犠牲にしてでも、このような服装をすることは合理的であるかもしれない。

以上の議論から、次のことが結論できる。 一部の医師や学生は、胸元の開いた長衣型白衣を着用する際に、白衣の前ボタンを外したり、あるいは男性であってもネクタイを着用しない例があるが、これは不適切である。 私は、性別によってネクタイの有無を分けるのは不当な男女差別、不適切なステレオタイプだと思うが、 一応、現代日本の多数意見として「ネクタイは男性のもの」というような雰囲気があるようなので、女性はネクタイをしなくても良いかもしれない。 ただ、一部の高等学校の制服などでは女性でもネクタイを着用することもあるから、女性医師もネクタイをして構わないのではないかとは思う。

2015.05.29 誤字修正

2015/05/27 「そんなことは看護師でもできる」

昨年度の臨床実習において、標題のような発言をする医師に出会った。 この発言から、諸君は、一体、何を想像するだろうか。

医師は、看護師に比べ、だいたい 2 倍から 3 倍ぐらいの給料をもらっている。 あたりまえだが、これは、医学科は看護学科よりも入学が難しく、すなわち医師の方が看護師よりもエリートだから、というわけではない。 もちろん、医師免許の方が看護師免許よりも偉いから、というわけでもない。 医学科というのは不思議な場所であって、免許の違いや身分の違いが給料の違いを生んでいる、などと勘違いをしている学生が一定数、存在するらしく、恐ろしいことである。 医師の高給は、当然の権利ではない。それに相応の能力と行為が伴っていない者には、それを受け取る資格がない。いわゆる Nobles oblige である。

看護師は、直接的に患者のケアをすることの専門家である。 一部に例外はあるものの、全体としてみれば、患者とコミュニケーションをとり、その悩みを聴き出したり、その異状をいちはやく察知することや、 清拭その他の身体的ケアを実施することにかけては、看護師は医師よりも優れている。 さらに、熟練の看護師であれば、定型的な患者に対する抗菌薬の選択が云々とか、輸液が云々とかいうことにも通じている。 いわゆるマニュアル診療的な内容であれば、医師に比して遜色ないのである。 その一方で、予め指示されていない内容を、看護師が判断して実行することは禁じられている。 異状のある時は、緊急避難的な場合を除き、医師に報告することが看護師の職務であって、独自の判断で診察や治療を行うことは違法である。

従って、医師に求められるのは、マニュアル的でない部分、広く深い学識に由来する臨機応変の能力である。 標題の言葉は、まさに、そういう意味で発されたものであった。 「教わったことを、教わった通りにやるのは、看護師でもできる。諸君に求められているのは、そういうことではない。」という訓示である。

私は、医科学生が、あまり早いうちから臨床的な知識を蓄え、あるいは臨床的手技の訓練をすることは、あらぬ勘違いの源であり、有害であると思う。 知識を蓄え、基礎的な手技を学ぶことは、比較的容易であり、やれば、誰でもできる。 そして、臨床のことをよく知っていれば、一見、優秀にみえる。 しかし実際には、それは医師として一番に重要なこと、本当に求められることではない。 初期臨床研修医などが同期の友人と話すと「○○の手技をやらせてもらった」などと、「経験を積んでいること」を自慢する例が多いらしいが、これについて 「大事なのは、そういうことじゃないんだよね。」と渋い顔をする指導医は多いのである。

医学科の学生は、だいたい、大学入学時点では、いわゆる優秀な層、エリート連中であった。 しかし卒業する頃には、他の理工系学生と比較すると、抜群に、知性的でない。 このことを公言して憚らないのは、さすがに私ぐらいかもしれないが、密かに思っている人は少なくないようである。 某教員と個人的にお話しした時、彼は「解剖学をはじめとした現状の医学教育は、実にまずい」という意味のことを述べた。 ひたすら丸暗記を要求する「教育」の結果、学生が何も考えなくなる、というのである。 確かに解剖学も、この情報技術の発達した時代において、はたして、本当に暗記する必要があるのか、疑問である。

「では、暗記ではなく、何を勉強するのか」という問いを発する学生は、遺憾ながら、少なくないであろう。 理学部や工学部の人々には理解できないであろうが、医学部では、こういう発想なのである。「勉強」と「暗記」が同義なのである。

医学科の学生は、一冊で良いから、いわゆるアンチョコ本ではない、キチンとした成書を、最初のページから最後のページまで、通読するべきである。 それも、試験に関係なく、また自分の将来の進路にも直接は関係ない分野の本が良い。 ただ教養として、興味本位で、読むべきである。 そうすれば、おのずから、疑問や興味が湧き起こるであろう。それが「勉強」というものである。


2015/05/26 教科書レビュー: 医学書院『標準精神医学』 第 6 版

5 月 16 日に書いた仮レビューに対する、(ほぼ) 通読した上での追加である。

先にも書いたように、『標準精神医学』は、「標準」シリーズにあっては珍しくストーリー性に富んでおり楽しんで読める教科書である。 現代精神医学理論の背景となる歴史にも触れており、無味乾燥な丸暗記を避けるよう配慮されている。 もちろん、同書に記されているのは、膨大な精神医学史の、ほんの一端であろうが、精神医学を専門としない一般学生の教養としての必要最低限度は満足しているものと思われる。

その一方で、あくまで DSM-5 に準拠した疾患分類を重視し、「標準」シリーズの原則に従って「医師としての最低限の教養」をまとめた構成であるために、 精神医学的議論は乏しい。 たとえば、同書の記載からは、適応障害と、急性ストレス障害と、心的外傷後ストレス障害の関係は、不明瞭である。 これらを別個の疾患とみるか、あるいは同一スペクトラム上の、すなわち連続した病態の便宜上の区分とみるか、 あるいは適応障害は他二者を包含する疾患とみるかは、明らかなではない。 また、全て本質的には同一の疾患であるとみる考えもあるかもしれない。 こうした精神医学的議論については同書では触れられておらず、いささか、不満は残る。

もっとも、こうした議論を教科書に期待すること自体が、本来は、不適切なのであろう。 教科書の役目は、問題を提起し、基調となる意見を提供することであって、それに解答を与えるべきではあるまい。 かつての医科学生達は、こうした学術上の議論を、学生同士で、時に酒杯を片手に、徹夜で語り合ったという。 精神医学に限らず、学問は、古来、ロマンに満ちているのである。

2015.06.08 標題変更

2015/05/24 アドラー心理学

過日、ある友人から、岸見一郎, 古賀史健 『嫌われる勇気』なる書籍を借りて、サラリと読んだ。一部は飛ばしながら眺めただけであり、熟読はしていない。 同書は、いわゆる「アドラー心理学」の入門書であり、対話形式の軽い文章で表現されているため、素人にも実に読みやすい。 内容的には、少なくとも私にとっては、あたりまえと思われるようなことばかりであり、特に斬新なことは書かれていないように感じたが、 その「あたりまえのこと」が、よく整理されて記載されており、その点では楽しめた。 ニヤニヤ、クスクスしながら読める書物である。

同書の内容で、最も気に入ったのは「安直な優越性の追求」についてである。簡略に述べれば、これは、次のようなものである。 人は誰しも、劣等感を持っている。これは、自分が他人より劣っている、という認識をいうのではなく、 自分にとっての理想像に比して、現在の自分が劣っている、という認識をいう。 この劣等感の解消を目指し、理想に近づこうとして生きるのは、健全な姿である。この意味において、劣等感は、人間の活力の源といえよう。

しかし劣等感は、時として不適切な方向に向かうこともある。 劣等コンプレックスとは、劣等感を、ある種の言い訳に用いるものをいう。 たとえば「私は大学院中退し、33 歳になるまで大学生をやっていたから、出世できない。」などと考えるのは劣等コンプレックスである。 そういう言い訳をする人は、仮に大学院を優秀な成績で修了していたとしても、何か別の言い訳を探してくるに違いない。 33 歳まで大学生をやっていても、それでも、これらか世に出て存分に活躍することができる、と考えるのが健全な精神なのである。 これに対し、優越コンプレックスとは、逆に自分がまるで実際以上に優れているかのように振る舞うものをいう。 「私は地元で最も有名な名門高校の出身で、東海地方随一の名門大学医学部を卒業したエリートであって、年収 2000 万円である。」などと自慢するのが、その典型である。 こういう自慢は、劣等感が歪んだ方向に表出されているのである。 可能であれば、彼らの捻れた精神を正してやりたいが、なかなか難しい。私は、こういう残念な人に対しては「ハハハ、くだらない。」とだけ言って立ち去ることにしている。 この点について、『嫌われる勇気』p.143 には「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざが引用されている。 私の場合、自ら水場を求める馬を導くことはできるかもしれないが、草原にただ寝そべっている馬を水場に連れていくことには、成功していないことになる。 今後の課題である。

さて、不健全な劣等感は、劣等コンプレックスや優越コンプレックスだけではない。 アドラー心理学的には、劣等感は、あくまで自分の理想像との対比から生じるべきであって、他人との対比から生じるべきではない。 周囲より優れた人になりたい、と思っても、実際には、なかなか、なれないものである。 子供の頃は世界的なサッカー選手になりたくて、一生懸命練習しても、結局プロにすらなれず、挫折した、というような例が、これにあたる。 それでも、とにかく特別でありたい、周囲とは違う存在でありたい、という気持ちから、安直な解決にはしる者がいる。 たとえば、いわゆる不良、チンピラになって、反社会的な行動に及ぶのである。 安易な方法で「自分は周囲とは違うのだ」ということを示そうとしているのであり、これを「安直な優越性の追求」という。

この「安直な優越性の追求」の記述を読んだ時、私は「アァ、ナルホド、ソウカ」と思った。 医学の世界でいえば、「自分は医学をわかっていない」という劣等感から、まずは教科書などの成書を読み、次いで実習・実践に臨むのが正道である。 しかし、この正道は、茨が生い茂り、長く、険しく、孤独であり、辛く、厳しいものである。 そして、正道を歩んだとしても、少なくとも学生時代には、あまり客観的に評価できる成果として表れないため、その価値が他人には理解されにくい。 卒業して医師になってからは、正道を進んできたか邪道に逸れたかで、絶大な差が生じるのであるが、そんなことは、学生時代には、とてもわからない。 そこで、少なからぬ学生は「安直な優越性の追求」に逃げるのであろう。 具体的には、試験対策特化型の勉強である。

試験特化型勉強で点を取ることなど、簡単である。 しかも「国家試験で 9 割の得点を得た」とか「米国医師国家試験に合格した」とか、あるいは「CBT や模試で学年一位だった」とかいえば、 客観的にわかりやすい指標なので「すごい」「優秀だ」などの評価を得やすい。 実際の利益にならないことは、薄々、あるいは明確に、認識しているにもかかわらず、楽をして周囲からの賞賛を得ようとするのだから、 これは典型的な「安直な優越性の追求」である。

一部の学生は私に対し、「試験で点を取るのが簡単だなんて、そんなことは、試験で一位になってから言えよ」などと反撃を試みるだろう。 実にくだらない。どうして私が、そんな馬鹿げたことを、しなければならないのか。


2015/05/21 大動脈弁逆流症の続き

5 月 30 日, 6 月 7 日に補足記事を書いた

昨日の記事を途中まで読んだ人の中には、途中部分を読み飛ばし、最後の部分だけみて 「なんだ、結局、結論は一緒じゃないか」と思った人が少なくないのではないか。 しかし私は、その発想が危険だ、と述べているのである。

問題は「何をもって『重症の』大動脈弁逆流症とみなすか」ということである。 昨日の議論によれば、ここでいう「重症」とは、心室内の逆流ジェットや心不全の程度によって決められるのではなく、 大動脈圧波形によって規定される。 たとえ著明な逆流ジェットがあり、甚だしい心不全症状があったとしても、もしかすると、拡張期の始まりには大動脈弁の動きによって引き起こされる 大動脈圧変化が明瞭にみられるかもしれない。 そのような場合には、IABP の結果として左室への逆流も増えるだろうが、冠状動脈の血流も相当に増加することを期待できる。 この場合、IABP がリスクを上回る利益をもたらすことが期待できるから、一概に「禁忌」と判断するべきではない。

ここまで読んだ一部の学生は、次のように反論するであろう。 「中にはそういう例もあるかもしれないが、それは高度に特殊で応用的な症例である。 我々は学生なのだから、まずは基本を身につけるべきであって、そういう特殊例を考慮する必要はない。」

学生は基本を重視するべき、という考えには、私は全面的に賛同する。 だからこそ、生理学や生化学、病理学、薬理学、そしてそれらの背景にある物理学や数学を、キチンと学ぶべきだと主張しているのである。 IABP の適応だの禁忌だのというのは、高度に専門的で応用的な問題であって、決して、基本ではない。

すると、彼らは方針転換して次のように主張する。 「それは、もしかするとそうかもしれないが、今さら、そこまで遡って勉強する時間はない。国家試験に合格せねば何にもならない。」

おかしいではないか。我々は、一年生の頃に物理学や数学を学び、二年生の頃に生理学や生化学を学んだことになっている。 それを自ら放棄しておいて、今さら「勉強する時間がない」などという言い訳は、認められない。 その不始末は、医師として患者の前に立つ前に、自己の責任において、解消しなければならない。 時間が足りないなら、留年するなり浪人するなりして、勉強しなおすべきである。 たかが一年や二年、留年したからといって、何だというのか。


2015/05/20 物理や数学を学ぶ必要 (大動脈バルーンパンピング)

5 月 21 日, 30 日, 6 月 7 日に補足を書いた。

放射線医学の試験に合格した。受験者は全員合格であった。アレで合格とは、かなり、合格基準が緩かったものと思われる。

少なくとも名古屋大学においては、医学科生のかなりの部分が、「将来の役に立つこと」に集中して勉強しようとしているように思われる。 確かに、役に立たないことを勉強する必要はないのだが、問題は、何を基準に「役に立つ」か「役に立たないか」を判定しているのか、ということである。 たぶん、予備校講師や、悪い先輩の言うことを鵜呑みにしている例が多いのではないか。 彼らのようにガイドラインに「忠実に」従ったマニュアル診療を行う限りは、基礎医学などの系統的な理解は不必要である、という認識であろう。 しかし実際には、ほとんど全てのガイドラインには、「このガイドラインに盲従するな」という意味の記載がなされているし、 教授陣をはじめとしてエラい先生方は、ほとんど例外なく「系統的な学識が重要である」という旨のことを説諭している。 要するに、その種の学生は、甘い言葉、都合の良い言葉だけを選んで耳に入れているに過ぎない。

最も重大な問題は、多くの医学科生が、物理や数学を学んでいない、という現状である。 物理がわからないのだから、生理学もわかるはずがなく、丸暗記で試験だけ誤魔化すことになる。 その結果、たとえば「血圧」という概念を、ほとんどの者が理解しない。 「圧力」という言葉を、日常的な感覚で「押す力」ぐらいの意味でしか捉えていないから、自分が臨床現場で何を測定しているのか、わからないのである。 また、初等的な数学もわからないから、CT や MRI が何をやっているのかもわからない。 従って、それらの画像が真に意味するところを理解できず、「T2 強調像で白いのは脳梗塞である」などという、論理の飛躍した危険な丸暗記に依存することになる。

たとえば大動脈弁逆流について 「血液が大動脈からも左房からも左室に流入するのだから、左室は拡張する。血液がたくさん流れ込むのだから、左室圧も上がる。」などという論法に遭遇したことがある。 無茶苦茶である。論理が全然つながっていない。「だから」の前と後の関係を、誰か、説明できるだろうか。 また、重症大動脈弁逆流症においては、大動脈内バルーンパンピング (Intra-Aortic Balloon Pumping; IABP) は禁忌とされているが、 その理由を正しく説明できる学生は稀である。 「逆流量が増えて心不全が増悪するから」というのは、論理が飛躍していて、説明不足である。 このように理屈を抜きに結論だけ丸暗記すると、本当は IABP を施行するべき状況であっても、適切な判断ができない。 結果、不適切に患者を苦しめ、時には死なせることになる。 しかも、患者を死なせた医師は、それが自身の過失であることを自覚できない。

大動脈弁が閉鎖不全である場合、なぜ、逆流が起こるのか。 弁が開いているだけでは、大動脈から左室に血液が流入するとは限らない。 流入が起こるのは、大動脈の圧が上がったか、あるいは左室の圧が下がったかのために、大動脈圧が左室圧を上回った時のみである。 しかし大動脈の圧を上げる機構は存在しないから、現実的には、左室圧が低下し、大動脈圧を下回った時にのみ逆流は起こる。 具体的には、こうした左室圧の低下は、心室筋の弛緩によって起こる。

次に、逆流の有無が拡張末期心室容積に与える影響を検討する。 まず、拡張期のうち、心房収縮期の開始時点について考えよう。 この時点の心室容積は、リモデリングが起こっていないとすれば、逆流の有無にかかわらず、概ね等しいであろう。 厳密にいえば、肺静脈や左房の圧よりも大動脈の圧の方が高いであろうから、その分だけ、逆流がある場合の方が容積は大きい。 この「余分に心筋が進展されている」ことによって生じる圧と、大動脈圧が、だいたい釣り合うはずである。 「だいたい」というのは、現実には平衡が達成されているという保証はなく、大動脈圧の方が少しだけ高いかもしれない、という意味である。

この状態から、左房が収縮し、血液を左室に送り込むわけである。 心房収縮期の開始時点では、逆流がある場合の方が、左房容積は僅かに大きいかもしれない。 なぜならば、心室に流入した血液のうち少なからぬ部分は大動脈から供給されたために、左房から左室に既に流入した血液量が比較的少ないからである。 しかし、この時期には心房は完全に弛緩しているのだから、左房に流入する血液量と左房から流出する血液量は概ね等しいはずであり、左房の容積は、ほとんど変わらないであろう。 さて、心房収縮により血液が心房から心室に至り、両者の圧が等しくなると、僧帽弁は閉じる。 このときの心室体積は、どうであろうか。 リモデリングがないならば、心室容積と心室圧は一対一に対応する。左房容積と左房圧も一対一に対応する。 従って、僧帽弁が閉鎖する時点の左室容積は、逆流があろうとなかろうと、だいたい同じである。

すなわち、大動脈弁逆流自体は、拡張末期の左室容積を、ほとんど増加させない。 ただし生理的には、大動脈弁逆流は心不全を来すため、心室や心房に、リモデリングや肥大などの代償性変化を生じる。 左室容積の拡大や、左室圧の上昇は、専ら、この代償機構に依る。

さて、本題の IABP である。これを「心室拡張期にバルーンを膨張させ、心室収縮期にバルーンを収縮させる」と理解している人は、認識が甘い。 正しくは、「大動脈弁が閉鎖したる後にバルーンを膨らませ、大動脈圧が十分に低下したる後にバルーンを収縮させる」というものである。 この両者の違いがわからない人は、循環器生理学を勉強しなおす必要がある。 バルーンの収縮は、大動脈弁が開くよりも少しだけ早いことが望ましい。

大動脈弁閉鎖後にバルーンを膨張させる目的は、上行大動脈の血圧を上昇させ、冠状動脈血流を増加させることにある。 「平均大動脈圧を上昇させる」というような記述をしている文献もあるらしいが、「平均大動脈圧」なるもの自体に 生理学的意義はないので、適切な説明とはいえない。 一方、大動脈弁が開く直前にバルーンを収縮させるのは、左室圧よりも大動脈圧を十分に低くすることにより、心筋の収縮に要するエネルギー、 すなわち ATP の消費を抑えることである。 その意味においてはバルーンの収縮はもっと早くても良いのだが、そうすると冠動脈の血流が減少してしまう。 それ故に、収縮は大動脈弁開口の直前に行うのである。 「後負荷」などの用語を使って説明する教科書もあるようだが、私は「前負荷」とか「後負荷」とかいう言葉は極力、使わないことにしている。 というのも、これらの概念は心臓の働きを簡略化したモデルにおいて定義されたものであり、生理学的・解剖学的な実体と完全には一致していないからである。

さて、重度の大動脈弁逆流がある場合に IABP を施行すると、どうなるか。 バルーンの膨張により、冠状動脈の血流だけでなく、大動脈弁を逆流する血液量も増えるだろう。 従って、冠状動脈の血流増加は、逆流がない場合に比べ乏しく、すなわち IABP による利益は少なくなる。 一方、先に考察したように、逆流そのものは拡張末期心室容積の増大を来さない。 また、一回心拍出量は増加するものの、それはバルーン収縮によるアシストの結果なのだから、心筋への負荷は増加しない。 この意味では、大動脈弁逆流に対して IABP を行ったからといって、直接的に心不全を来すことはない。

ただし、バルーンの膨張は下行大動脈以下、特に腎臓への血流量を減少させる。 そのため、アンギオテンシンやアドレナリンなどを介する機序により、血管や心筋のリモデリングが亢進し、結果として心不全が進行する恐れがある。 このリスクの程度は、大動脈弁逆流の有無に関係ない。

以上をまとめると、逆流の有無にかかわらず、IABP により心不全が進行するリスクはある。 一方、逆流があると IABP の利益が減少する。特に、重症大動脈弁逆流においては、ほとんど利益がなくなるかもしれない。 従って、重症大動脈弁逆流がある場合には、IABP を行うべきではない。


2015/05/19 図書館における風紀の乱れ

近頃、名古屋大学医学部附属図書館において、風紀が著しく乱れている。

言うまでもなく、図書館内は、飲食禁止である。これは、世界中どこにいっても当たり前のことである。 図書館には、公共の財産たる文献が多量に蔵されており、特に大学では、学術的に貴重な文献が豊富である。 館内で飲食することは、これらの財宝を直接的に汚損する危険を生じるばかりでなく、 Blattella germanica などの繁殖を招き、虫害を来す恐れもある。 もちろん、名大図書館においても、館内での飲食は禁じられている。

しかし現実には、図書館蔵書の貴重さを理解しない野蛮人が、館内で飲食している。 図書館職員や、一部有志利用者が注意を与えているが、改善される様子はない。 特に、図書館内の男子トイレに設置されているゴミ箱には、飲食物の包装紙や、飲料のペットボトルが無造作に廃棄され、溢れている。女子トイレについては、知らぬ。 「医師の卵」などと称して威張っているが、彼らは人間として、あまりに未熟であり、反社会的であり、破廉恥である。

かかる現状については、図書館側の対応のまずさにも問題があるだろう。 第一に、図書館では、飲食物の持ち込み自体は認めている。 図書館で勉強や調べ物をしていれば、口渇をおぼえるのは生理的に不可避である。 そこで利用者の便宜を考え、飲物を持参した上で「一時退館して」水分補給し、再入館することを認めているのである。 これを「館内での水分補給を認めている」と曲解する者が、いるらしい。 そうした認識が広まっている以上、もはや、持ち込み自体を禁止せざるを得ないのではないか。

第二に、館内で飲食している利用者を発見しても、警告を繰り返すばかりで、実際には利用禁止などの措置をとらないことも問題である。 不埒な利用者は「どうせ、図書館側は厳しい対応をしない」と、たかを括っているのである。

私は、貴重な図書館資料を守るために厳しい措置を講ずるよう、図書館に要望しようと考えているが、要望書を書くのが億劫で、未だ実行していない。 遅くとも今週中には、やろうと思う。


2015/05/18 「シュワノーマの診断は簡単である」

正直に告白するが、私は一時期、標題のようなことを思っていたことがある。 実に恥ずかしい、無知丸出しの誤解である。

本題に入る前に、Schwann 細胞について述べなければならない。 Schwann 細胞とは、末梢神経において、神経細胞の軸索を包む髄鞘を形成している細胞をいう。 軸索には、髄鞘に包まれている「有髄神経」と、髄鞘をもたない「無髄神経」があり、前者の方が神経伝導速度は速い。 これは、いわゆる「跳躍伝導」が起こるためである、と説明されることが多い。 すなわち、髄鞘は細胞膜を「絶縁」する効果があり、この絶縁のために跳躍伝導が起こり、それゆえに伝導が速くなる、というのである。 この説明には二つの問題点がある。 ここでいう「絶縁」とは何か、という点と、なぜ絶縁されていると伝導が速いのか、という点である。

絶縁とは、電気抵抗が非常に大きく、事実上、電流を通さない状態をいう。 細胞膜は脂質二重層からなる膜でできているため、物理学的な意味でいえば、もともと、絶縁体である。 従って、「髄鞘により『絶縁』される」というときの「絶縁」とは、何か特別な意味を持つ言葉のはずである。 この点について、受験参考書などには明記されていないことが多いようだが、`Molecular Biology of the Cell' 6th Ed. などは 「絶縁とは、イオンチャンネルを排除し、あるいは不活化させることである」という意味のことを暗に述べている。

跳躍伝導が速い理由については、いささか説明が厄介である。 まず念のために確認すると、膜電位は、細胞内で一様ではなく、特に軸索においては、位置によって異なる。 さて、軸索のある部分が興奮すると、そこでは細胞外から陽イオン、すなわちナトリウムイオンが流入する。 軸索の上流側は既に興奮しているため相対的に高電位であり、また下流側は静止電位であり相対的に低電位である。 そのため、陽イオンは下流方向に、陰イオンは上流方向に、移動する。 この結果、下流側の細胞内電位、すなわち膜電位が、いささか高くなる。脱分極するわけである。

さて、未興奮の軸索では、膜上のカリウムチャネルは開口している。 従って、無髄神経において、軽度に脱分極した 部分では、カリウムイオンが細胞外に流出する。これは再分極を促す電流である。 全体としてみれば、軸索内電流は脱分極を促し、膜を横断する電流は再分極を促すのだから、この部分の膜電位が閾値を超えるには、なかなか、時間がかかる。 これに対し、有髄神経においては膜上にカリウムチャネルが乏しく、あるいは不活化しているため、脱分極は比較的、急速に起こる。 結果として、上流から流れてくる電流を、そのまま、厳密にいえば少しだけ弱めて、下流に伝えることになる。

このようにして軸索内電流は下流に伝わり、次のランビエ絞輪に至る。 ここにはカリウムチャネルもナトリウムチャネルもあるので、十分に脱分極すれば、興奮する。 以上のことと、「チャネルが開くには、かなり長い時間がかかる」ということを組み合わせて計算すると、 ランビエ絞輪の間隔が一定の距離より短い場合には、有髄繊維の方が無髄繊維よりも早く伝導する、ということがいえる。 難しい計算ではないので、大学受験時代、あるいは大学一年生の教養の物理学を思い出して、各自、方程式を描いてみると良い。 有髄繊維の方が無条件に速いわけではない、ということに注意が必要であるが、現実には、この条件はほとんど常に満足される。

全体としてみれば、「細胞内から細胞外への電流がない」ということが有髄繊維の最大の利点である。 このために、ランビエ絞輪における脱分極が「速く」なり、閾値に達するのが「早く」なるため、興奮の伝導が「速く」なる。 ただ、これを本当に説明するためには、どうしても、数式を使わないわけにはいかない。

さて、本題はシュワノーマの診断である。 シュワノーマとは、Schwann 細胞が腫瘍化したものである。良性腫瘍のことが多いが、悪性化することもある。 一部の臨床医は、末梢神経が腫瘤化しているのをみて「たぶんシュワノーマであろう」と判断することがあるが、これはあまり正しくない。 たぶん、だいたいの例では当たっているのだが、これは統計的に「末梢神経の腫瘍はシュワノーマであることが多い」という事実から当てただけのことである。 「診断なんか、八割当てれば良い。残り二割は誤診しても、私のせいではない。」という態度で臨むなら別だが、まっとうな医者であれば、 組織学的診断抜きに「シュワノーマである」などと決めつけることはしない。

多くの学生は、「シュワノーマの組織学的特徴は、核の柵状配列である」などと記憶しているだろう。 つまり、顕微鏡でみると、核がほとんど一列に並ぶという特徴的な格好をしているため、ただちに「あ、シュワノーマだ」とわかる、という寸法である。

冷静に考えれば当然なのだが、この診断法は、正しくない。 シュワノーマであっても柵状配列を成さないこともあるし、平滑筋腫などが柵状配列を成すこともある。 シュワノーマを、本当に確信を持って診断するには免疫染色などを駆使しなければならないし、駆使しても診断が難しい例も稀ではないという。 そうした難しさ、深淵さを、`Rosai and Ackerman's Surgical Pathology' 10th Ed. は、教えてくれる。


2015/05/17 iPS 細胞と再生医療

近年、induced pluripotent stem cells (iPS 細胞)が、世間でもてはやされている。 山中氏がナントカという賞を受けたことなどと併せて、 再生医療への期待が云々、というようなことが、一般向けのニュースで、しばしば言われる。 以前にも書いたが、私は主に宗教的、あるいは思想的な理由から iPS 細胞による再生医療には反対である。 しかし、それを別にして科学的見地からしても、iPS 細胞を再生医療などに結びつけて期待を煽るのは、不適切であるように思われる。

たとえば、過日、iPS 細胞をドーパミン産生細胞に分化させて、それをパーキンソン病患者に移植することでドーパミン補充療法を行う研究について、一般報道されていた。 要点だけ説明すると、現状ではパーキンソン病患者にはドーパミンの前駆体を投与することで症状を軽減しているが、 これだと投与量のコントロールが困難であるため、ドーパミンを産生する細胞を患者の体に植えつけてしまう、という治療戦略である。 厳密には、これは再生医療と呼ぶべきではないかもしれないが、まぁ、似たようなものなので、ここでは細かいことは気にしない。

一つの対症療法として、ドーパミン産生細胞を患者に植える、という発想自体は、合理的であると思う。 しかし、それを実現するために iPS 細胞を用いる必要はない。 この治療法においては、とにかく、患者自身から採取した細胞を用いてドーパミン産生細胞を作れば良いのであって、その際に 一度 iPS 細胞を作成する必要はない。 皮膚だか粘膜だかから採取した細胞を直接ドーパミン産生細胞に化生させるのに比べて、iPS 細胞を経由した方が良いと考える理由はない。 むしろ、多分化能の賦与という本質的には不必要な手順を踏むし、そのために不必要な遺伝子を導入するのだから、理屈としては、不利益が大きくなる。 その一方で、iPS 細胞を経由した方が、素人にわかりやすい印象を与え、なんとなくドラマチックであり、話題性に富み、研究予算を取りやすいものと推定される。 実際、iPS 細胞などの多能性幹細胞を利用しない再生医療を研究している人々も多いのだが、素人にはなんとなく難しい印象を与えるせいか、 マスコミには、ほとんど取り上げられないのである。

たぶん山中氏自身、iPS 細胞が本当に有益だと思って研究したわけではないと思われる。 役に立つとか立たないとかいうことではなく、単に、面白そうだから、やったのであろう。 科学者とは、古来、そういう人種であるし、私も、そういう人間の一人である。 だいたい、科学者が「役に立つもの」ばかり追いかけてしまったら、科学は滅びる。 だが、現代では、特に国立大学が法人化されて以来、研究者をいたずらに競争させる風潮が生じ、「役に立つ」と主張しなければ研究予算を獲得できないらしい。 日本国においては、もはや、科学の芽は失われつつあるのだ。 そこで山中氏らも、やむなく、再生医療云々などという、本当は信じていない看板を掲げたのではないか。

基礎科学研究者達が、生き残るために、科学的良心に背いて世間を欺くのは、科学の灯を守るためと思えば、やむを得ない面はある。 だが、我々医科学生は、医学のプロフェッショナルである。 世間の素人同様に、無邪気に科学者達の「嘘」を鵜呑みにして喜んで良い立場ではない。 各人が、それぞれの思想信条に基づいて、毅然とした態度で医学に向き合う必要がある。


2015/05/16 標準精神医学 第 6 版

通読していない状態での仮レビューである。
追加レビューは5 月 26 日の記事を参照されよ。

今年 3 月に、医学書院『標準精神医学』第 6 版が出版された。 前版では編集者であった野村総一郎・樋口輝彦の両氏は「監修」となり、「編集」に新たに村井俊哉氏が加わった。 その結果として、筆頭編集者は、我らが名古屋大学の誇る尾崎紀夫教授になった。

以前にも書いたが、『標準精神医学』は言葉の定義にこだわった名著である。 精神医学においては「言葉が命」のような面があるために、当然といえば当然であるが、これだけ定義に注意を払っている医学書を、 (病理学書を別にすれば) 私は他に知らない。

『標準精神医学』は、医学書院「標準」シリーズの中でも異色である。 「標準」シリーズは、悪い意味で医学書院らしさに満ちており、辞書のような構成のものが多い。 すなわち、よくわからない医学用語や概念について適宜調べる用途には適しているのだが、最初のページから最後のページまで通読するには 退屈であり、眠たくなってくるのである。 ところが『標準精神医学』は、第 6 版序文に 「第 2 版から継続する『読み物としても面白い, 新しい知識を盛り込んだ教科書』という姿勢は今回も維持され」 とあるように、読んでいてワクワクする、楽しめる教科書である。 野村総一郎氏による「精神医学とは何か」という総説部分には、「精神医学にはロマンの香りがある」という節があり、 「高度先端的で即物的になりつつある医学のなかにあって, ロマンと物語性を感じさせるのが精神医学ともいえるのである.」で締めくくられている。 この文章を、防衛医科大学校という日本で最も堅苦しそうな医系大学 (厳密には大学校) の病院長が書いたというのだから、精神医学は、確かに、ロマンに満ちているのだろう。

精神医学は、主に器質的異常が明らかではない疾病を対象とする領域である。 従って、厳密にいえば、精神医学分野で対象とする疾病は「疾患」ではなく、症候群ないし障害であることが多い。 その結果、精神医学領域における疾病は定義が曖昧になりがちであり、それを補うために診断基準が厳格に整備されている。

DSM は、米国精神医学界が定めた診断基準であり、最新版は 2013 年に発行された DSM-5 である。 『標準精神医学』も、第 6 版からは DSM-5 に準拠している。 従って、教科書として読む場合、第 5 版ではなく、必ず、第 6 版を使用するべきである。

2015.05.26 追記

2015/05/15 面積線量

X 線透視とは、カテーテルによる検査や治療を行う際に、X 線写真を連続撮影し、動画としてリアルタイムに画面に表示するものをいう。 カテーテルが患者体内のどこまで挿入されているかを確認する目的で行ったり、心臓の動きをみる目的で行ったりする。 一秒間に何枚も X 線写真を撮影するわけだから、当然、患者はかなり被曝する。 また、油断すると医師もかなり被曝する。 大半の医師は、照射野に自分の手などが入らないよう、すなわち不要な被曝をしないよう、細心の注意を払っており、 撮影した動画に自分の手が映っていると「恥ずかしい」と感じるらしい。 稀に、「CT 透視」が行われることもある。これは、連続的に X 線 CT を撮影し、断面の動画をリアルタイム表示するものである。 これは、普通の X 線透視よりも、さらにたくさん、被曝する。 患者の被曝を最低限にするため、透視に際しては、必要最小限の時間だけ、必要最小限の範囲に限って、X 線を照射する。 また、通常の X 線撮影に比べて、X 線発生装置の出力を低くしているため、「粗い」画像になる。

さて、注意深い学生は臨床実習中に気づいたであろうが、透視の画面には「cGy cm2」のような単位で表される数値が表示されていることがあり、 照射する度に、この値はどんどん大きくなっていく。いったい、この数値は、何を表しているのだろうか。 たぶん、放射線技師にとっては常識なのだろうが、医師の卵にとってはチンプンカンプンであろう。 しかし、多職種連携の観点から、技師の常識について医師が無知では困るので、解説する。

まず第一に、「cGy cm2」という単位をみたら、大いに違和感をおぼえるべきである。物理学的に考えて、意味不明な単位だからである。 最初の `c' は「センチ」であって、これは良い。「センチメートル」の「センチ」であって、100 分の 1、という意味の接頭字である。 次の `Gy' は吸収線量の単位である「グレイ」であり、`J/kg' と同じ意味なのだが、臨床放射線医学における「吸収線量」の意味を正しく認識している学生は稀であろう。

厳密には、吸収線量とは「対象物 1 kg あたりの、放射線から受けたエネルギーの量」をいう。対象物とは、臨床医学においては患者の体であると考えたくなる。 しかし、人体は複雑な構造をしているから、たとえば心臓のあたりを透視した場合であっても、心臓と肺とでは、放射線から受けとるエネルギーの量は異なるであろう。 すなわち「心臓の吸収線量」と「肺の吸収線量」は異なるはずである。 では、血管造影室の画面に表示されている「吸収線量」は、一体、どこの吸収線量を意味しているのか。

実は、臨床放射線医学においては「吸収線量」の定義における「対象物」とは、患者の体ではなく、計器の校正を行った際のファントムである。 装置の設定を行う際に、人体をまねた模型に X 線を照射し、その模型の吸収線量を測定する。 その結果に基づいて、どれだけの X 線を出せば、だいたいどれくらい被曝するかの対応関係を、予め調べておくのである。 そして臨床的には、X 線発生装置の出力から、その予め調べた対応関係を用いて、「ファントムの吸収線量」に換算して画面に表示しているのである。 すなわち、ここでは `Gy' は X 線出力の単位として便宜的に用いられているに過ぎない。

透視の場合、`Gy' の後に `cm2' というオマケがついて `cGy cm2' となっており、これは面積線量などと呼ばれるらしい。 これは、`cGy' 単位で表した X 線発生装置の出力に照射野の面積を乗じたものである。 すなわち、1 cm2 の範囲に、1 cGy 相当の X 線を照射した場合、面積線量は 1 cGy cm2 となる。 ひょっとすると、面積線量は、照射野の広さを加味して患者の被曝を定量的に評価しているようにみえるかもしれない。 しかし、この計算は、物理学的観点からは非常に気持ち悪い。すなわち、何らの物理的実体をも伴わない、無意味な計算であるように感じられる。 というのも、患者の体の中心で厚い部分の「1 cm2」と、指先の薄い部分の「1 cm2」では放射線防護上の意味合いが全然違うし、 さらにいえば、患者の体には当たっていない、ベッドを照射しているだけの部分も同じ「1 cm2」である。 この違いが、面積線量では考慮されていない。 しかも、狭い範囲に高線量を照射するのと、広い範囲に低線量を照射するのでは、同じ面積線量でも、患者への影響は全く異なる。

こういうことを書くと、思慮の浅い医科学生の中には、思考停止して 「そんな細かいことはどうでも良いのだ。面積線量は、そのように定義されているのだから、それで良いのだ。」などと言う。 そうではない。そもそも、患者への影響を適切に評価する方法など、天の神様が決めたわけではないのだから、我々自身が、 適切な理論的・実験的な根拠に基づいて決定するべきなのであって、先人の主張を無批判に受け入れてはならない。

なお、ある放射線技師に問うてみたところでは、面積線量は指標として不適切であるという事実は広く認識されており、 ふつう、モニタリングなどには使用されないらしい。 合理的である。

2015.10.19 脱字修正

2015/05/14 医師促成栽培講座

Francesca Laylah Jamilah を自称する、ある同級生が、あまりに低俗で反知性的な勉強法が蔓延する現状に怒りを爆発させ、 仮名でこのようなものを書き始めたらしい。 膨大な執筆量を要するプロジェクトであると思われる。 はたして需要はあるのか、完遂できるのか、予備校や「クエスチョン・バンク」より高い質を出せるのか、不明である。


2015/05/12 教科書レビュー: 医学書院『標準放射線医学』第 7 版

通読していない状態でのレビューである

通読するための教科書としては、全くお勧めできない。 この書物は、教科書ではなく、事典である。

総論部分は、MRI 以外の部分については必要最低限のことは記載されているように思われる。 MRI は記載が不十分であり、これだけではとても理解不能であるが、これは、MRI の技術自体が複雑なのだから、やむを得ないだろう。 MRI の総論を担当している荒木力氏は、MEDSi『MRI の基本パワーテキスト』第 3 版や学研メディカル秀潤社『決定版 MRI 完全解説』第 2 版などの マニアックで詳細な書物の著者でもあるので、詳細な議論は、これらを読め、ということなのだろう。 研修医になったら、これらの教科書に準じて、医師技師学生合同の若手勉強会を行いたいものである。

各論については、内科学をひと通り勉強した上でじっくり読むならば、通読する意義があるかもしれない。 私は、まだその域に達していないので、よくわからない。

私は、この書物をパラパラとめくっただけの状態で放射線医学の試験を受けたところ、予想以上にマニアックな内容が出題がされたため、壊滅的な出来であった。 さすがに不合格であろう。


2015/05/12 教科書レビュー: 金芳堂『MINOR TEXTBOOK 口腔外科学』第 7 版

この教科書は、悪くはないが、強く推奨することはできない。 内容的には、歯科口腔外科の範囲について、初心者を対象に、医学科の学生として最低限修得すべき内容は網羅しているものと思われる。 また、齲触や歯周炎などの歯科領域の話や、裂奇形については、生理学的な内容から臨床的な内容までカバーされており、私のような初心者には楽しめた。 しかし腫瘍や嚢胞などの話題については、症状や治療法を列挙するばかりで、疾患の本態についての議論が乏しく、あまり興奮しない。 さらに、一般的な内科学や外科学と重複する内容も多いため、じっくりと通読するのは退屈であり、睡魔との戦いになった。

また、日本語の乱れも気になった。たとえば p.31 で「放射状」を「放射線状」と表記したり、 p.166 で多分「有病率」を「罹患率」と誤記している部分がある。 また、「○○など」という意味で「○○とか」という表現が多用されており、あまり高尚ではない印象を受ける。 さらに p.265 では「S.C.C (扁平上皮癌関連抗原) は有用.」という体言止めもあり、いささか気になる。

とはいえ、全体を通してみれば、歯科口腔外科の基本を理解するには十分の内容であるようには思われるので、 初学者に対しては、弱く推奨することができる。


2015/05/11 比干と晏嬰

たまには、古代中国のことを書くのも悪くないだろう。 中国では、戦国時代といえば、概ね紀元前 5 世紀頃から、秦による紀元前 221 年の天下統一までの時代をいう。 天下を統一した秦王は、いずれも王者を意味する「皇」と「帝」の字を併せて「皇帝」という称号を作り、始皇帝と称した。 戦国時代の前は春秋時代と呼ばれ、いずれも諸侯が争う群雄割拠の時代であった。春秋時代と戦国時代の区分については曖昧であり、春秋戦国時代と一括りにされることも多い。 形式的には、春秋時代は周王朝の時代であり、中華の諸侯は周王朝の臣下ということになっていた。 周が天下を掌握したのは、紀元前 1046 年に商王朝を打倒してからである。商は、現代では殷とも呼ばれる。 商の最後の王は受王であり、極悪非道の王であったとされるが、これは周王朝による捏造であるかもしれない。

商の末期に、比干という名臣がいた。 彼は誅殺されることを覚悟した上で受王の非道を諫め、結局、聴き入れられずに怒りをかい、殺された。 誰であったかは忘れたが、確か唐宋八大家の一人であったと思うのだが、中国の歴史上の名士に、比干を厳しく批判した人がいた。 いわく、比干の言動は正しいが、結局、受王の行動を変えることができなかったのだから、無意味であった。 殺されてしまっては、もはや比干の能力の活かしようがない。 むしろ伯夷・叔斉のように隠遁し、次の王が立つのを待ち、それから改めて出仕して、その才を天下のために用いるべきであった、というのである。 この比干に対する批判は理解できなくもないが、受王を恐れて口をつぐむ凡庸な臣よりは、死を恐れず王を諫める比干のような人に、私はなりたい。

ところで、春秋時代の斉に晏嬰という名臣がいた。 彼も比干と同じように主君に諫言を呈して憎まれつつも、決して誅殺されず、ついに宰相にまでなった人物である。 両者を比較するなら、確かに、比干よりも晏嬰のようになりたい。 だが、両者の違いは、単に主君に恵まれたかどうか、というだけのことであるかもしれない。 晏嬰も、もし商の時代に生まれていたならば、受王に殺されていたのではないか。


2015/05/10 多型腺腫のふしぎ

Ackermanを、書棚に飾っておくだけではもったいないので、毎日少しずつ、読むことにした。 一日に 3 ページほど読み進めれば、初期臨床研修が終わる頃までには通読できる計算である。 この教科書の特に恐ろしいところは、全体の 3 割程度のページ数を参考文献リストが占めていることである。 すなわち、記載内容に少しでも疑問を感じた時には、その根拠となる論文等を容易に検索できるよう、配慮されているのである。 これほど文献リストが充実した教科書を、私は、他に知らない。

また、俗に「ロビンス」と呼ばれる病理学の教科書には三種類ある。 `Robbins Basic Pathology' は最も簡素なものであり、日本語版も出版されている。 これに対し、いわゆる「厚い方のロビンス」とは `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease' のことである。 これは Standard edition と Professional edition とがあり、具体的に何が違うのかは知らないが、 前者は学生向け、後者は専門家向けのようである。 いつまでも「薄い方のロビンス」を読んでいては、病理学者の卵母細胞として恥ずかしいので、「厚い方」の Professional edition を購入した。 こちらは、一日 4-5 ページのペースでいけば卒業までに通読できる。 実現できるかどうかは、知らぬ。

さて、「多型腺腫」と呼ばれる腫瘍がある。混合腫瘍、すなわち「複数種類の細胞が腫瘍性に増殖する」疾患として有名なものである。 Ackerman によれば、多型腺腫は肺や喉頭などにも生じることがあるらしいのだが、ふつうは、耳下腺良性腫瘍として知られている。 話は逸れるが、多型腺腫以外の混合腫瘍としては乳腺の線維腺腫が知られているものの、これは真の混合腫瘍ではない。 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、 そもそも線維腺腫と呼ばれるものの半数程度はポリクローナルな間質の増生、すなわち過形成であって、腫瘍ですらないらしい。 残りの半分、真の腫瘍であるものも、モノクローナルな増生を示すのは間質部分のみであり、乳管上皮は反応性の過形成であるらしい。 すなわち、上述の混合腫瘍の定義に合致しないのである。

多型腺腫の方は、真の混合腫瘍であるといわれる。 唾液腺上皮または筋上皮に由来する細胞が腫瘍性に増生し、しかも部分的に間葉系細胞への分化を伴い、軟骨様組織や骨様組織など 多彩な間質を形成することから、多型腺腫と呼ばれる。 この部分について、Robbins では `Pleomorphic adenomas are benign tumors that consist of a mixture of ductal (epithelial) and myoepithelial cells,' と書かれているが、よく考えると、この記述は不自然である。 `ductal and myoepithelial cells' とは、どういうことか。 細胞が腫瘍性に増殖するためには、ゲノムに相応の変異が生じていなければならない。 腺上皮と筋上皮の双方が腫瘍性に増殖するためには、両者に増殖性の変異を来す必要があるが、はたして、そのようなことが相応の頻度で起こるものだろうか。

これについては、二つの可能性が考えられる。 一つは、Robbins の記載が不適切であり、真の腫瘍は腺管上皮または筋上皮の一方のみであり、他方は過形成性の増殖に過ぎない、という可能性である。 もう一つは、もともとは一方のみが腫瘍であったのだが、他方は反応性の過形成を続けるうちに変異を獲得して腫瘍化した、という可能性である。 どちらもあり得る話だとは思うが、もし後者だとすれば、いわゆるヘテロ接合性の喪失のような現象が細胞レベルで起こっていることになり、興味深い。

もう一つ、多型腺腫には不思議な点がある。 多型腺腫は時に悪性化することがあり、carcinoma ex pleomorphic adenoma とか malignant mixed tumor とか呼ばれる。 この場合、腺癌か未分化癌の形態を示すことが多いらしい。 Ackerman によれば、どうやら、悪性化するのは通常、腺管上皮の部分であるらしい。 多型腺腫には多彩な細胞が含まれているのに、悪性化するのは腺管上皮の部分に限られる、というのである。

これらの観察事実から考えると、多型腺腫の「多型」の部分は、あくまで腫瘍ではなく、反応性の変化であると推定される。 もし「多型」部分も腫瘍であるならば、骨肉腫様、あるいは軟骨肉腫様の悪性腫瘍に変化することがあるはずだからである。 真の腫瘍は上皮部分のみであって、この腫瘍が、何らかの分化誘導シグナルを発しているのであろう。 さらにいえば、真の腫瘍は腺管上皮のみであり、筋上皮は反応性の過形成であろう。 細胞レベルの「ヘテロ接合性の喪失」は、たぶん、起こっていない。

2015.05.10 唾液腺なのに「乳管上皮」となっていた部分を「腺上皮」に修正

2015/05/09 医科学生の典型像 (2)

昨日の記事の続きである。 もう一つ、医科学生の典型像として、「勉強することと覚えることを同義とみなす」というものもある。 だいたい工学部では、物理定数などは必要に応じて理科年表などで調べれば良い、と割り切り、イチイチ記憶しないのが普通である。 中には、細かな数値を暗記している猛者もいるが、これは鉄道時刻表を記憶するようなもので、オタク的趣味に過ぎない。

さて、昨日書いた内容も含め、こうした「典型像」は、学問において最も重要な資質である 「自分で考えること、疑問を抱くこと」から遠く、かけ離れている。 学生の中には、中学・高校時代に受験対策に特化した教育を受けてきたために、「無駄な疑問」を捨て去り、 よく暗記して、効率的に得点を稼ぐ手法が体に染みついてしまった、という者もいるかもしれない。 そのような勉強法は、ひょっとすると試験で良い成績を修める「優秀な生徒」を生産しているようにみえるかもしれないが、 実際には若い才能の芽を摘み取り、その将来を潰しているに過ぎない。 東京大学に行こうが、医学部に行こうが、そうした勉強を続ける限り、その人は、きっと大成しないであろう。

本来、子供がそういう不正な勉強に手を染めそうになったら、周囲の大人が止めてやるべきである。 幸い、私の身近には、母をはじめとして、そういう優れた教育者がたくさんいた。 しかし現代では、そういう環境は極めて稀であり、むしろ親や教師こそが、子供や生徒を、不正な勉強へと駆り立てる例が少なくないと聞く。 そうした環境で育った人々は不幸である。

今年度になって、複数の友人から「君は人生が楽しそうだな」と言われた。 私はこれまで、そのようなことを言われたことが一度もなかったし、自分が人生を謳歌しているとも思っていなかったので、たいへん驚いた。 彼らの言葉を要約すると、次のようになる。 「大抵の学生は、医学が好きで医学を修めているわけではない。なりゆき上、医学科に来たから、必要だから、やれと言われたから、やっているのである。 しかし君は、必要云々というより、医学を楽しんでいるようにみえる。羨しいことである。」

私は、彼らについて、重大な誤解をしていたらしい。 私は、てっきり、彼らは試験対策勉強にヨロコビを感じ、みずから進んで、好きで、それをやっているのだと、思っていたのである。 ひょっとすると、彼らは、本当は、医師になりたいとも思っていないのかもしれない。 「生きていくためには仕事をしなければならない。特にやりたい仕事があるわけでもないから、それなら、 安定した高収入と社会的ステータスの保証される医師は悪くない仕事である。」というぐらいのことなのかもしれない。 もし、そうであるならば、彼らは、あまりに不幸である。好きでもないことを仕事にし、一日の時間の半分以上を、それに費やさねばならないとは。

もちろん、世間では、好きなことをして金をもらっている人など、少数派であろう。 私は、医師は、その少数派に含まれる幸運な人々であると思っていた。 その点、私は医者を好きでもなければ尊敬もしていないのに医者になろうとしているのだから、医者の中では不幸な部類だと思っていたのだが、 もしかすると、これはトンデモナイ勘違いであったのかもしれない。

しかし、どうにも理解できない点がある。 もし試験対策勉強が大好きではないのなら、なぜ、彼らは、それをやめないのだろうか。 医師国家試験など、受験生の 90% が合格する、極めて緩い試験なのだから、そんなに必死にならなくても、合格することは容易であろう。 それならば、好きでもない試験対策勉強に尽力するのではなく、何か一つ、少しだけでも興味を惹かれる分野を選び、 その分野について、カリキュラムだとか試験だとかは気にせずに、好きなように勉強すれば良いではないか。

5 月 20 日の記事に続く
2015.05.30 標題修正

2015/05/08 医科学生の典型像

世間では、「医者は世間知らずだ」とか、「医者は非常識だ」とか、言われる。 正確に言えば、これは医者だけではなく、教師や政治家も同様のことを言われているのだが、今回、取り上げるのは医者の話である。 日本社会の美点なのか欠点なのか知らないが、そういう批判を、医者や、その関係者に対して公然と投げつける人は少ない。 その結果、一部の医者や医科学生は、まるで、医者は世間から幅広く尊敬されていると勘違いするようである。

過去にも書いたように思うが、私は、医者が嫌いである。もちろん、医者を尊敬などしていない。 「医者になろうとしているくせに、何を言っているのか」などという指摘を受けることもあるが、全く的外れである。 誰もが医者に憧れて医者になるわけではない。 医者を嫌い、医者を蔑み、医師のあり方を正さんとして医者になろうとする者も、少数ながら存在するというだけのことである。

近頃になって、ようやく認識してきたのだが、どうも医科学生の中には、 試験に合格すること自体を目的に勉強し、しかも、そうした勉強のあり方に疑問を抱いていない者が、少なからず存在するように思われる。 彼らは「役に立つこと」しか勉強しないので、試験に出そうな内容か、 あるいは将来の自分の専門分野になりそうな範囲にのみ集中して取り組み、それ以外の事項には関心を示さない。 生化学や生理学などといった基礎医学は、試験に合格しなければ進級できないから勉強するのであって、それ以上の意味はない。 低学年の頃は「早く臨床の勉強をしたい」とか「臨床医学を学ぶ中で、必要に応じて基礎に遡って勉強すれば良い」とか言う一方で、 いざ臨床の勉強を始めると、もはや基礎には関心を示さず、生化学や生理学、あるいは病理学や薬理学などを遡って勉強することはない。 また高学年になると、臨床実習は時間を取られる鬱陶しい存在となり、そんなことよりも「自分の勉強」に時間を割きたいと考えるようになる。 「自分の勉強」とは、予備校のビデオ講座や、国家試験の過去問集のことである。 試験で高得点を取り、米国医師国家試験に合格することで、自らが優れた学生であることを示そうとする者もいる。

たぶん、高校を出た時点では、こうした考えに染まらず、本当に医学を志した学生も、一定数は存在したのだと思われるが、 名大医学科のような雰囲気の中では、その志を保つことは困難であっただろう。 本来、我々のような再受験生や編入生は、こうした一部の若い学生を精神的に支え、共に歩むことを期待されていたはずである。 しかし現実には、率先して上述のような風潮に迎合し、試験対策勉強に専念する者が少なくないようである。

次回に続く

2015/05/07 検査は侵襲性の低いものから

「検査は、侵襲性の低いものから順に行うのが原則である」というような話を聴いたことがある。 侵襲性とは、患者の心身に与える負担のことをいう。 例えば、太い針で病変から組織を採取する組織診よりも、細い針で少しの細胞だけを採取する細胞診の方が低侵襲である。 また、多少の被曝とひきかえに多彩な情報を採取できる放射線診断は、より低侵襲であろう。 さらにいえば、超音波検査や、聴診や触診などを主体とした身体診察は、さらに侵襲性が低いといえよう。 このような侵襲性の低い検査から順番に行うのが診断過程の原則だ、というのである。

私は、長いこと、この「検査は低侵襲のものから」という考えの根拠を理解できずにいた。 たぶん学生の多くは、この考えを「なんとなく」あるいは「そう教わったから」という程度の理由で信奉しているのであって、 キチンとした理論的根拠を示せる者は、まず、いないであろう。

過日、医学書院『標準放射線医学』第 7 版の総論部分を読んでいて、以下の記述に遭遇し、この問題が解決した。

適切な画像診断法の選択も画像診断に携る場合には極めて重要である. 現在, 疾患の診断には種々の検査法が開発され実用化されており, その選択に迷うことも多い. この事実は不必要に検査を増やすことにもつながり, 医療費の高騰の一因ともなっている. また, 放射線被曝に対する考慮もなされねばならないので, この点における知識も要求される. 常に診療上必要最小限の画像診断を選択するように努めなくてはならない. 類似の情報に終わる検査を重複して行わないように努めるべきである. 同じような情報を得るのであれば, より侵襲度の低いもの, あるいはより経済的なものを選ぶのが原則である. 最終的には, 被験者の利益につながるものでなければならない. したがって, 従来の X 線検査, X 線 CT, MRI, 核医学, 超音波検査それぞれの長所, 短所についてよく把握しておくことが大切である.

要するに、世間で言われる「検査は侵襲性の低いものから」という言葉には、「同じような情報を得るのであれば」という重要な句が抜けているのである。 この重大な条件を忘れて無思慮に「検査は侵襲性の低いものから」と信じ込むことの弊害は、昨年 8 月 11 日に例示した。

大切なのは、診断法を丸暗記するのではなく、キチンとした診断学の理論に基づき、自らの頭脳を駆使することである。

2015.05.09 誤字修正

2015/04/30 北陸医科大学 (仮) で初期臨床研修を受けること

私は、北陸地方の某大学病院で初期臨床研修を受ける予定である。 具体的な名前を出すのは、ひょっとすると障りがあるかもしれないので、仮に北陸医科大学と呼ぶことにする。 わざわざ天下の名古屋大学を離れ、京都大学に帰るでもなく、一地方大学に過ぎぬ北陸医大に行くからには、相応の理由がある。

一番の理由は、率直に言えば、私が北陸医大に対する強い思い入れを持っているから、ということである。 四年ほど前に私が人生の岐路で立ち往生していた時、道に光明を灯してくれたのが、北陸医大であった。 その時、人生の少なくとも一時期は、北陸医大で働きたいと心に決めたのである。

もう一つの大きな理由は、本当に私を必要としてくれる所に行きたい、ということである。 名古屋大学や、いわゆる関連病院の大半は、優秀な人が欲しい、よく働いてくれる人が欲しい、ぐらいには思っているだろうが、 彼らの基準でいう「優秀な研修医」などというものは、日本中に、いくらでもいるのである。 というより、たぶん私は、そういう一般的な尺度でいえば中の上か、せいぜい上の下ぐらいの位置付けであって、 喉から手が出るほど私を欲しがるような病院は、たぶん、名大ネットワークの中には存在しない。

北陸医大は、創立以来、ただの地方大学では終わらぬ、という野心を公にし、教育・研究・診療において独自の路線を歩み続けている。 この北陸医大は、「北陸の地方大学」というレッテルを破り捨て、名古屋大学を抜き、京都大学を凌駕して、日本一、あるいは世界一の医学の都となるために、 広く日本中から人材を求め続けている。 そういう場所でなら、後述する私の武器を活かす機会にも恵まれるのではないか。

私は、これまでの長い学生生活でスポンサーから絶大な支援を受けてきた。 このスポンサーは非常に寛大で、私の意向に反対したことは、ただ一度、大学院を辞めて司法試験を考えていた時のみであった。 今回の北陸医大行きについても、多少の懸念は抱いているようだが、明らかな反対の意思表示は受けていない。 この点について、両親には心より感謝している。

この機会に補足しておくが4 月 21 日に 「搦手から奇襲するような方法で進めていた自分の研究を、ひそかに恥じていた」と書いたのは、私の研究が低水準であった、という意味ではない。 詳細は修士課程博士課程の回顧録に書いたが、私自身は、あの研究を誇りに思っている。 あの種の奇襲にかけては私の右に出る者はなく、貴重な武器であると自負している。


2015/04/29 肺癌に対する少分割定位照射による放射線療法

過日、ある友人から、肺癌に対する放射線療法としては 10 Gy 以上の線量を少数回だけ照射する方式が現代では主流らしい、という話を聴いて驚いた。 MEDSi 『胸部の CT』第 3 版にも「1 回線量 10-15 Gy で 4-10 回照射する方法 (総線量 45-50 Gy) が一般的である」と書かれている。 古典的には、放射線療法は一回あたりの線量を減らして多数回照射するのが良い、とされており、だいたい、一回あたり 2 Gy から 3 Gy の照射量とするのが普通である。 2 Gy が良いのか、2.5 Gy が良いのか、というような議論ならわかるのだが、10 Gy となるとスケールが違う。 いったい、この少分割照射の理論的根拠は何なのだろうか。 同級生の某氏は、「患者の負担を軽くするためではないか」というようなことを言っていたが、 しかし、そのために治療失敗の危険が生じては、元も子もないではないか。

Gy という単位は、J / kg と同じ意味であって、吸収線量の単位である。 すなわち、組織 1 kg あたり 1 J のエネルギーが賦与される照射量を 1 Gy とするのである。 ふつう、放射線物理学では Gy ではなく、諸々の補正を行った Sv を単位として用いることが多いのだが、臨床医学においては、 そうした補正を適切に行うことが困難であるため、人体を水に近似して Gy 単位の吸収線量を計算して用いる。 非常に粗い近似であるが、現在の臨床放射線医学の精度は、遺憾ながら、その程度なのである。 なお、工学部の観点からすれば 1 Gy というのはとんでもなく大きな線量であって、実験などではふつう μSv などの単位が用いられる。 放射線治療とは、単位が 100 万倍、違うのである。

一回あたりの照射量を減らして多数回の照射を行うのは、次のような理論的根拠に基づく。 基本的に、細胞は放射線により傷害を受けても、ある程度は「回復」する。 この「回復」の実体は、たぶん、損傷した DNA の修復や、変性した蛋白質の分解および再生であろう。 しかし癌細胞では、こうした回復に関係する遺伝子も変異していることが多いため、だいたい、正常な細胞よりも回復が遅れる。 そのため、一度照射を行った後「正常の細胞はある程度回復したが癌細胞はあまり回復していない」ような頃合いを狙って、次の照射を行うのである。 これがだいたい、一日一回 2-3 Gy、と考えられている。 本当は平日だけでなく休日も照射した方が良いのかもしれないが、現状では、ふつう、週に 5 回の照射が行われる。 以上のことから、一回に 10 Gy を少数回の照射では、癌細胞は駆逐できるかもしれないが、正常組織への傷害も大きくなるように思われる。

そこで少し調べてみると、Int. J. Radiation Oncology Biol. Phys. 52 1041-1046 (2002) に、次のように記されていた。

The advantages of hypofractionated radiotherapy (RT) for lung tumor are a shortened treatment course that requires far fewer trips to the clinic than a conventional program and the adoption of a smaller irradiated volume allowed by greater setup position. The disadvantages are the uncertain effects of altered fractionation and the theoretical risk of worsening the normal tissue/tumor tissue ratio through the use of a high dose per treatment session.

要するに、上述の同級生の某氏が言った通りらしいのである。 定位照射、すなわち腫瘍周囲の狭い領域を正確に狙って放射線照射することが可能な施設は限られているため、 患者は、遠方の医療機関まで出向いて照射を受けねばならないことが多い。 そのため、照射回数を可能な限り減らすことが患者の身体的・経済的負担を軽減する意味で重要なのである。 その一方で、治療効果に関していえば、一回線量を増やして照射回数を減らすことは、理論上よろしくないので、兼ね合いが大切である。

2015.04.30 語句修正

2015/04/28 やってみなければわからない

「やってないのでわかりません」という言葉を、時に、耳にすることがある。 どちらかといえば、臨床医療というよりは、学術研究の話をしている時の方が多いかもしれない。 たとえば、ある人が行った実験結果などを発表したのに対し、「これをこうしたら、どうなるのですか?」と質問した時に、 「やってないのでわかりません」と回答される、という具合である。 これについて思い起こされるのは、私が修士課程一年生であった頃のできごとである。 特定個人の話を持ち出して申し訳ないのだが、まぁ、たぶん当事者も覚えていないだろうから、ご容赦いただきたい。

彼は私より一学年上の学生であった。 彼は、研究室内で進められていたあるプロジェクトの一員として、実験を主体とする研究に従事していた。 条件をさまざまに変えて、似たような実験操作を繰り返し、データを収集するのが、彼の主たる任務であった。 私は、そのプロジェクトのメンバーではなかったが、研究室内での討論会などで、彼の実験について質問する機会があった。

ある時、討論会で彼が示した実験データが、あまり理論と合致していないように思われた。 そこで問題点を明らかにするために、私は 「もし、水分量がもっと多かったら、この値は大きくなるのですか?それとも小さくなるのですか?」と質問してみた。 すると彼は「やってないのでわかりません」と答えたのである。 これに反応したのは私ではなく准教授であった。 気色ばんで「やってないのでわからないとは、何事か」と言ったのである。

准教授は、「そんなこと、予め実験しておけ」という意味で発言したのではない。 「そんなことは、実験しなくてもわかるはずである」と言ったのである。 実験とは、単にデータを収集する目的で行うものではなく、 そのデータを通じて何らかの科学的普遍性を持つ法則を発見し、あるいは何らかの仮説を検証する目的で行われるものである。 従って、得られたデータを元に考察すれば、未だ行っていない条件下における測定結果を予想できるはずなのである。 それなのに「やってないのでわからない」と発言するということは、「私は何も考えておりません」と告白しているに等しい。

京都帝国大学教授の前川孫二郎が述べたように、これは物理学に限ったことではなく、生物学でも全く同じである。 さらにいえば、研究だけでなく、臨床医療においても、何ら異なるところはない。 統計学的検証を経てガイドライン等に記載された内容は、いま我々の眼前にいる患者に、そのまま適用することはできない。 その統計検証の対象とした患者と、我々の患者とでは、背景や状況が異なるからである。 そこで、そうした差異を理論的に検証したうえで、我々は実践に臨まなければならないのである。

こんな当たり前のことを、なぜ、今さら日記に書いたのかというと、先日、学内の某所で五年生の某氏が書いたレポートを拾得し、愕然としたからである。 私は、その学生と面識があり、優秀な人物であるという認識を持っていた。 だが、そのレポートには、ある疾患群の鑑別の手順を、どこかの教科書か何かから丸々転載したような内容だけが記載されていたのである。

ガイドラインを勉強すること自体は、悪くはない。 しかし、特に学生にとっては、そのガイドラインの記述の理論的根拠こそが重要である。 ガイドラインでは多くの場合、統計的なことしか言及されていないが、 そのような統計を調べたからには、何らかの理論的考察に基づく予想があったはずである。 全く理論抜きの統計などというものは、通常、存在しないのである。 その理論の部分を調べ、自分の頭脳で考察してこそ、立派なレポートと言えるのではないか。 仮に教員から「レポートは形だけで構わない」というような指示があったとしても、自発的に調べて考えて記述するのが、学生として当然の行動である。


2015/04/27 ハリソン内科学の輪読

ハリソン内科学の輪読会を行っている。 参加者は極めて少ないが、私の知る限りでは学年で五指に入る英才の某君が参加してくれているので、実に助かっている。

教科書を輪読する、という形式の勉強会には、賛否があるだろう。 否定的な意見として最も多いのは「教科書などは自分で読めば良く、輪読は時間の無駄だ」というものであろう。 それは一理あるのだが、私は、ハリソンのような重厚な教科書は、何人かで集まって読み進める価値があると思う。

輪読を推奨する理由の第一は、独りで読むと、どうしても読み落としが出る、ということである。 教科書というものは、ふつう、一から十まで詳しく書かれているということはなく、かなりの部分を省略して記載している。 その「行間」あるいは「文章の裏側」とでも言うべきものを読み取らなければ、キチンと勉強したことにはならない。 というより、本当に大事な内容は、表面的な文言ではなく、そうした「裏側」の部分に含まれていることが多いのではないか。 私の場合、『ハリソン内科学』第 4 版であれば、じっくり調べながら読むと時速 3 ページほどになるが、それでも、かなりの見落としが生じる。 輪読会で自分が担当した時には、見落している点を鋭く指摘する質問を受けると実に勉強になるし、そうでなくても、他人に説明することは自分の理解に役立つ。 また他人の説明を聴くと、自分が読んだ時には気にならなかった疑問が続々と湧いてくるので、これも勉強になる。

輪読会を進める第二の理由は、ペースメーカーとして機能する、ということである。 たとえば時速 3 ページで読み進めるとすれば、一日 10 ページを進むためには毎日 3 時間以上が必要になる。 しかし実際には、ハリソンだけにそれだけの時間を割くのは難しいかもしれない。 そうした時は、輪読会があれば、多少、読み方が浅くなっても、限られた時間の中で規定のページ数を進めざるを得なくなる。 読み方が浅くなることは良くないが、しかし、とにかく最後まで読み進めること自体も非常に重要ではあるから、ペースメーカーの存在はありがたい。

第三は、これは私のような意志薄弱な学生に限るのだが、輪読会でもなければ通読しない、という現実がある。 率直に言えば、ハリソンは読んでワクワクドキドキする類の教科書ではなく、むしろ眠たくなってくるような記述も多い。 必要に応じて辞書的に使うことはあるが、進んで通読したくなる書物ではない。 しかしハリソンは、福井氏が言うように、一度は読んでおく価値のある書物ではあるだろう。 従って、通読するための動機付けとして、輪読会は有効である。


2015/04/26 Anna-Luise A. Katzenstein 教授

私は、医学界における権威ある教授だとか、有名な医師だとか、そういう話には興味がない。 私が知っている優れた臨床病理学者といえば、現代病理学の父たる Rudolf Ludwig Karl Virchow と、 リンパ腫で有名な Professor Nakamura Shigeo ぐらいであった。 最近、間質性肺炎の勉強をしている中で、このリストにもう一人、Professor Anna-Luise A. Katzenstein が加わった。 読み方は知らないが、たぶん、アンナルイーズ カッツェンシュタインという感じであろう。

私がはじめて Katzenstein に出会ったのは、MEDSi 『胸部の CT』第 3 版で特発性間質性肺炎の分類について読んでいた時である。 CPFE として提唱されていた疾患概念について 「真打ちたる Katzenstein がそこにみられる繊維化がコラーゲンの沈着の仕方で UIP や NSIP とは異なることを示し」と書かれていたのである。 私は権威というものが嫌いであるから、これを読んだとき、最初は 「フン、何が真打ちか。この Katzenstein というのは、きっと、偉ぶった、いけすかない奴に違いない。」ぐらいにしか思わなかった。 しかし、さらに勉強を進めていくと、いたるところに、この Katzenstein の名が登場するのである。 かつて通常型間質性肺炎 (Usual Interstitial Pneumonia; UIP) に含まれていた一部の症例が、独立した疾患群に属するらしいことを明らかにして 非特異性間質性肺炎 (Non-Specific Interstitial Pneumonia; NSIP) という概念を樹立したのも Katzenstein である。 病理学、病理診断学、放射線診断学などの領域にまたがり、間質性肺炎という謎の疾患群の解明に挑み続け、 時代と世界の先端を歩み続けているのが、この Katzenstein なのである。 「いけすかない奴」どころか、私が理想とする病理学者像、そのものである。

Katzenstein は `Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease' という教科書も著しており、第 4 版は 2006 年に出版された。 これは世界的に大好評であったらしく、多くの論文等で参考文献に挙げられている。 ところが、なぜか、この名著は絶版になってしまったらしい。一応、通信販売で一部の業者から新品を入手できるようだが、価格は高騰している。 私は、迷った。日本のアマゾンでは新品価格が 10 万円を超えており、学生にとって、容易に手を出せる金額ではない。 しかし、もし将来、間質性肺炎に関する仕事をするならば、この書物は何としても、我が書棚に納めておきたい。 十年後、二十年後になれば、間質性肺炎に対する理解は今よりずっと進むであろうが、 それでも「Katzenstein の著書」という意味で肺病理学者にとって垂涎の書物であり続けることは、容易に想像できるからである。 今月は既にAckermanを購入したために、書籍代の予算は尽きているのだが、しかし、待てば待つほど、Katzenstein は高騰する一方であろう。 そこで、懐具合のことは無視して英国のアマゾン経由で発注した。 340 ポンド、6 万円余りである。私にとって、一冊の教科書への投資額の過去最高記録を更新したが、それだけの価値はある。


2015/04/25 リンパ節転移

癌は、しばしば、リンパ節に転移する。 たぶん、原発巣からリンパ管を通ってリンパ節に移行し、そこで定着するのであろう。 この経路を特に意識する場合には「リンパ行性転移」などと表現するが、実際には、そのような単純な経路による転移であることを証明した人は、いないと思う。

リンパ節に転移があるかどうかを調べるには、コンピューター断層撮影 (Computed Tomography; CT) などでリンパ節の腫大をみるか、 生検を行って病理組織学的に検索するのがふつうである。 ただし、後者の生検は侵襲性が高いため、よほど強く転移の存在を懸念している場合にしか行われない。 このため、臨床的には、リンパ節腫大の有無を CT で検索することが多い。

さて、CT におけるリンパ節転移を疑う所見というのは、基本的には、短径 10 mm 以上程度の腫大をいうらしい。 そのような大きなリンパ節がみられない場合には、CT 上ではリンパ節転移を疑う所見はない、ということになる。 時に、これを「臨床上はリンパ節転移はない」というように表現する者がいるようである。 もちろん、これは不適切である。

リンパ節が腫大するのは、リンパ節の中で腫瘍細胞が増殖した結果にすぎないから、転移してから日が浅いうちは、当然、リンパ節は腫大していない。 従って、CT 上でリンパ節が大きくみえない、という事実は、リンパ節転移の存在を否定する根拠にはならない。 実際、組織学的には、小さなリンパ節の中に腫瘍細胞が巣状に増殖していることは稀ではないし、 さらには、HE 染色では腫瘍細胞とわからず、免疫染色を行ってはじめてリンパ節転移を認識できるような例まである。 リンパ節が大きくないからといって、「リンパ節転移はない」などとは、恐ろしくて、とても言えない。 従って、私はカルテ等に記載する際、必ず「『明らかな』リンパ節転移は認められない」などの表現を用いるようにしている。

三年生以上の医学科生であれば、上述のようなことは常識であって、「何をいまさら」などと思う人もいるかもしれない。 中には「そんなことはわかった上で『臨床上はリンパ節転移はない』と述べているのであって、 言外に『組織学的にはリンパ節転移もあるかもしれない』という意味を含んでいるのだ」と主張する人もいるだろう。 気持ちはわからないでもないが、まるで「組織学的所見は、臨床ではない」とでも思っているかのような表現である。 「臨床」という言葉の指す範囲が、狭すぎはしないか。 いったい、血液検査や尿検査は臨床であるが組織検査は臨床ではない、などという考えは、どこから生じたのだろうか。 欧米では、臨床検査医学 (clinical laboratory medicine) といえば、日本でいう病理検査や検体検査、生理学的検査などを併せたものをいうらしく、 つまり組織学的診断も、あたりまえに臨床の一部として扱われているのである。 ということは、「組織診断は臨床ではない」というような偏見は、日本独自のものであるといえよう。

たぶん、そういう偏見に基づいて「臨床的にはリンパ節転移はない」などと言う人は、半ば無意識に、次のような考えを持っているのではないか。 「組織学的には転移があるかもしれないが、そんなことは臨床的に知りようがないのだから、仕方ないではないか。 組織学的所見で云々するのは、後だしジャンケンのようなものである。 CT でみつけられないものは、どうしようもないのだから、発見できなくても私の責任ではない。それとも、全例でリンパ節生検をやれとでも言うのか。」

もちろん私は、全例で生検せよ、などと言っているわけではない。 「発見できなくて申し訳ありません」と患者に詫びる気持ちを抱いているか、 また、 「既に小さなリンパ節転移があるかもしれない」と恐れながら「画像上は転移を認めない」と診断しているか、ということを問うているのである。 みつけられないものは仕方ないが、それは検査を行い読影をする我々の、医学の至らなさが原因なのである。 医学の限界は、天与のものではなく、自然の摂理でもなく、単に、我々の研究が不足していることによって生じているに過ぎない。 すなわち、臨床的に転移を検出できないのは、法的にはともかく、道義的には、我々の責任なのである。 「研究には興味がない」などと言い放つ学生が稀に存在するが、極めて無責任である。 医療の根本である「患者を思いやる心」が決定的に欠如しており、医師としての資質を欠くと言わざるを得ない。

もちろん、放射線科医などの専門家は、そうした画像診断の限界を熟知し、悔しく思い、その技術開発に日夜、尽力している人が大半である。 私が指摘したいのは、そうした専門家と、眼前に存在する関門のことしか考えない学生との間の、温度差である。


2015/04/24 放射線皮膚炎

本日のテーマは、放射線に関する与太話である。 名大医学科には、なぜか、学術的与太話をしてはいけないかのような風潮があるように感じられる。 しかし科学の偉大な発見は、しばしば、こうした与太話から生じるものであるから、我々は積極的に学術的雑談に興じるべきである。

悪性腫瘍などに対し、X 線照射による放射線治療を行うと、ほぼ必ず、放射線皮膚炎を来す。 これは、深部にある悪性腫瘍の細胞を死滅させるほどの線量を照射すれば、表面の皮膚も相当に被曝することを避けられないからである。 では、なぜ、皮膚に放射線を当てると、皮膚炎が生じるのか。

詳細はよくわからないのだが、「乳癌の臨床, 29, 579-584 (2014)」や `Braun Falco's Dermatology 3rd Ed., pp 617-618' の記述に 私の想像を加えて解釈すれば、典型的な放射線皮膚炎は、次のようなものであるらしい。 まず照射した 2-3 日後から、免疫系が刺激されたことによる炎症反応が生じるらしい。 また、基底細胞層の表皮幹細胞も傷害されるため、表皮細胞のターンオーバーに障害を来し、びらんや潰瘍を生じることがある。 そして数ヶ月が経つと、いわゆる晩期障害として、脂腺や汗腺の障害による症状、たとえば皮膚の乾燥を来す。 真皮も、たぶん慢性炎症の結果として、脂肪組織の減少と繊維化を来すらしい。

上述のように、幹細胞傷害による症状に先行し、皮膚炎は生じるのである。 この炎症は、部分的には、間質や細胞膜の蛋白質が放射線により変性し、あるいは表皮内で壊死が生じた結果として、惹起されているのであろう。 しかし、それだけだろうか。

ここで想起されるのは、急性の移植片対宿主病 (Graft-Versus Host Disease; GVHD)において皮膚傷害を来す機序である。 明確にはわからないが、急性 GVHD の皮膚症状の背景には、慢性的に軽度の皮膚炎が生じていることがあると考えられる。 急性 GVHD では、この炎症が亢進することにより、結果的に皮膚傷害を来すらしいのである。 私は、放射線は急性 GVHD と同様に、生理的な炎症反応を亢進させることにより皮膚炎を来すのではないか、と考えた。

そこで、放射線皮膚炎の組織像を `McKee's Pathology of the Skin 4th Ed.' で調べると、どうやら急性 GVHD とは大きく異なるらしい。 放射線皮膚炎の急性期では、表皮に浮腫や壊死、アポトーシスが生じ、基底細胞層には水腫様変性がみられるらしい。 また、真皮の血管では、しばしば血栓がみられるという。 慢性期には過角化や錯角化, 血管の拡張などを来すらしい。 これに対し、急性 GVHD では異角化や、リンパ球の表皮内細胞浸潤、衛星細胞壊死などを来す。

この急性 GVHD と放射線皮膚炎の組織学的所見の相違を考えると、どうやら放射線には、直接的に炎症を惹起する働きはないものと想定される。 また、有棘細胞の壊死は、それ自身が放射線に感受性であるというより、虚血性の変化とみた方が良いだろう。 すなわち、放射線皮膚炎においては、炎症が起こるから細胞が死ぬのではなく、細胞が死ぬから炎症が起こるのだ、と考えられる。

結論だけみれば「まぁ、そりゃそうか」と思うような平凡な話であるが、与太話とは、たいてい、そういうものである。


2015/04/23 酒席での話題

修士課程の学生であった頃のことだと思うが、私は、某原子力研究機関の某部門を、実験だか見学だかの目的で訪れたことがある。 この際、その部門の懇親会のようなものに、ご相伴させていただいた。 その時に聴いた話で、実に印象深いものが、一つだけある。

その部門は、我々の業界では日本で最も有名な研究者達の集まりであった。 懇親会にも、論文等で名前だけはよく知っていた人々が何人も出席していたので、私は「あぁ、あの人が○○さんなのか」と、しきりに感心していた。 そうした有名人の中の一人である某氏は数値計算の第一人者であって、私も研究上、その人の開発した計算ツールを使用していた。 便宜上、その人のことを A さんと書くことにする。

懇親会の後で、若手研究者の一人が「A さんが、あのように酒を飲んで談笑するのは、珍しい」と教えてくれた。 A 氏は、酒席に参加はするのだが、だいたい、いつも仕事の話しかしない、というのである。 それでも、研究の上では極めて優秀な人であるから、周囲から煙たがられることもなく、尊重されているらしい。 この話を聴いて、私は「あぁ、私も、そのようになりたいものだ」と思った。

私は、恥ずかしながら学問に対して A 氏ほどストイックではなく、医学に対する愛情と熱意は人後に落ちぬ、とまでは言えない。 しかし A 氏と会い、わずかばかりとはいえ言葉を交わしたことで、自分の行動に、ある種の自信を持つことができるようになった。

私は、学生同士の集まりで出会った相手に対しては、時に、自己紹介より先に医学トークを展開することがある。 学内であれば、顔は知っているが名前は覚えていない、という程度の相手に対し、遠慮なく医学トークを持ちかけることもある。 三年生の頃は、「講義室で前の方に座っている学生は、医学のことが大好きに違いない」と決めつけて、相手の都合など気にせず話しかけたものである。


2015/04/22 名大医学科の臨床実習制度 (2)

六年次の実習については、これもいつから始まったのかは知らないが、基礎医学研究室での活動によって振り換えることができる、という制度もある。 これについては、ますます、意味がわからない。 当局の意図としては、卒業後に基礎研究に進んだり、そうでなくとも、いわゆる「研究マインド」を持った医師を育てたい、ということであろう。 研究室に通えば研究マインドが身につくのか、という点も疑問ではあるが、それについては別の機会に議論しよう。 ここでは、医学科を卒業し、医師免許を持つ者が基礎研究を行うことの意義について考える。

医学科の我々は、理学部などの出身者が修士課程学生として朝から晩まで研究している時期に、五・六年次の学部生として臨床実習に従事している。 卒業すれば、さらに二年間、初期臨床研修を受けるのが大半であるから、正味、四年間は理学部出身者より遅れるわけである。 医師として活動しない人であれば初期臨床研修は省略できるが、それでも二年間は遅れる。 それだけ時間を浪費している我々に、基礎研究者への道を勧める人が少なくないのは、なぜか。

生化学とか免疫学とか、そいういった専門分野における学識の深さ、専門性の高さについていえば、我々は到底、理学部出身者には及ばない。 だいたい、我々は生化学については二年生の頃に少し学んだだけであって、化学ばかり四年間やってきたような連中と、勝負になると考える方がおかしい。 このあたりについて、大学受験時代の偏差値に固執し、医学部が凄いなどと勘違いしている学生が稀に存在するらしく、恐ろしいことである。

我々の武器は、ただ一点、「学識のひろさ」に尽きる。 理学部の連中は、生化学のことはよく知っていても、それが実際に、人体にどう関係するかは、よく知らないのである。 もちろん、教科書的なことは知っており、細胞の増殖シグナルが云々とか、アンモニアの代謝がどうとか、何やら詳しそうなことは言うのだが、 実は彼らは、それらを教科書の中の文言として、あるいは実験室での出来事として知っているに過ぎず、心の底から湧いてきた、実感のある言葉として喋っているわけではない。

我々にもおぼえがあるだろう。たとえば私の場合、はじめて「病理診断」というものを知った時、「検体の固定に一週間ほどを要する」と聞いて、 「フーン、たいへんなんですね」というような感想を持ったし、「固定に時間を要するのは重大な問題である」ぐらいのことは、レポートに書いたかもしれない。 だがこれは、何の実感も伴わない、空虚な感想であった。 いま、臨床実習で少しばかりの経験を積んだ後では、同じように「重大な問題である」という内容をレポートに書くにしても、そこに込もる感情の程度が違う。 患者を一週間待たせることへの申し訳なさ、本当にそれだけの価値があるのかという疑念、固定技術が一向に進歩しないことへの焦燥、 そしてある種の怒りなどを、「重大な問題である」という一言に込めて、書いている。

こうした実感こそが、本当に意義のある研究計画を立案し、遂行するために必要なのではないか。 私の印象では、某大学の小児科教授は、こうした意味での実感の込もった迫力のある講義をする人物である。 その実感にねざした小児科学への情熱こそが、彼の多大なる業績の源泉なのであろう。 単に「論文になる研究」をして「業績」を稼ぐことでいえば、我々は、彼らに遠く及ばない。 しかし、本当に世の中に役立つ仕事をするためには、我々の広い視野が、必要とされているのである。 その視野を磨くための期間が、この学生時代の臨床実習であり、初期臨床研修なのではないか。 それを削って研究室に通うことは、本当に、有益なのだろうか。

ただし、これは名古屋大学だけの問題ではない。たとえば厚生労働省の医系技官になる場合、臨床経験は問われないらしい。 そして、入省後の昇進は基本的に入省後の年次によって決まるため、責任ある役職に就くためには、何年か臨床経験を積んでから入省するのではなく、 大学を卒業してすぐに入省する方が有利だという話を、とある医系技官の人から聴いたことがある。 一体、何のための医系技官制度なのか、理解できない。


2015/04/21 名大医学科の臨床実習制度 (1)

4 月 30 日に若干の補足を書いた

名大医学科 2016 年 3 月卒業予定の我々の場合、臨床実習のスケジュールは、次のようなものである。 まず五年次の 4 月から、一週間ないし二週間毎に、病院のほぼ全ての診療科や部門をまわり、実習を受ける。 産科婦人科などは単一部門で二週間であるが、病理部・臨床検査部・輸血部は、三部門合わせて一週間であるなど、期間にはばらつきがある。 そして六年次には、二つの診療科を選び、七週間ずつの実習を受ける。 夏頃には臨床実習は全て終わり、それから卒業までは、公式にな何の講義も実習もない。

この最後の半年間の位置づけが、まず、よくわからない。 工学部や理学部などであれば、だいたい卒業直前の一年程度の期間は研究室に配属されて、卒業研究に従事することが多いから、講義や実習がないことは理解できる。 しかし、名大医学科には、六年生を研究室に配属したり、卒業論文を書いたりする制度はない。一体、何をするための半年間なのだろうか。 理解できない。

いつからあるのかは知らないが、六年次の臨床実習に関しては、海外留学によって振り換えることもできる。 欧米などの一部の大学と単位振り換えのようなものを提携しており、そちらで三ヶ月間の実習を受けることで、名古屋大学で実習を受けたのと同等の扱いがなされるのである。 海外に留学することは、ファインマンも言った「事物の多様性を知ること」という意味で、有益であろう。 ただし、時期というものはある。 留学先の言語に熟達し、たとえば日本語と同程度によく英語を操る学生ならば、今のうちに留学することは、大いに有益であろう。 しかし、多くの学生は、いささかアヤシゲな英語を携えて現地に赴くわけである。 それでも、医学をよくわかっている人であれば、言葉の壁は問題にならない。 言葉の微妙な部分がわからなくても、医学という共通言語があればコミュニケーションには困らないし、先方も、 こちらが医学の達人であるとわかれば、我々の言うことを必死に聴いてくれるからである。 だが、もし、英語も医学も中途半端な学生が海外留学しているならば、彼らは一体、むこうで何を学んでくるのだろうか。

「何もしないよりは、留学する方が良いだろう」という意見や、「米国の学生はプレゼンテーションなどがうまいから、それは勉強になる」などの意見を聴いたことがある。 しかし、日本に残った我々は何もしていないのではなく、名大病院で実習などを受けているのだから、比較対象がおかしい。 というより、そういう発言をする人は、「私は名大病院の実習ではサボってばかりで、何も勉強しなかった」と告白しているに等しい。 また、プレゼンテーションの類は、わざわざ留学して学ぶようなことではない。論外である。 日本で勉強する機会を自ら放棄していた人が、海外に行ったからといって、いきなり勉強するとは考えにくい。

要するに、留学するには、まだちょっと、早いのではないか。もう少し、医学をキチンと学んで、一応は一人前の医師になってから、行くべきではないか。 留学をすることは無条件にエラいのだ、と、勘違いしてはいまいか。 基礎・基本をおろそかにして、いたずらに権威にすがる名大医学科の風潮は、ここにも表われているように思われる。

実は、名大医学科に、こうした基本を疎かにする風潮があるという事実は、私にとっては驚きであった。 大学院時代に学会などで話を聴いた限りでは、名大工学部の人々は、学生も含め、基礎を重視した系統的な学識に基づいて、堅実な研究をする、という印象があったからである。 今だから書くが、私は、原子炉物理学の基礎的な学識が不十分であるにもかかわらず、搦手から奇襲するような方法で進めていた自分の研究を、ひそかに恥じていたのである。 私が名古屋大学に来たのは、そうした名大への憧憬があったから、というのも一つの理由であった。 しかし、鶴舞大学と名古屋大学では、いささか水が異なるのであろうか。

2015.04.22 語句修正

2015/04/20 文芸春秋 「患者が知らない『医療の真実』」

今日、所用があって書店に赴くと、文藝春秋の、標題のような特集が目にとまった。 また近藤誠の類か、と思ったのだが、私は近藤氏のことが嫌いではないので、立ち読みしてみた。 この特集は、何人かの医療関係者が書いた記事の集合であって、特にどうということもないものが多かったが、 順天堂大学大学院の白澤卓二教授の「医学部エリートが病気を作っている」という記事が気になったので、結局、購入した。 文春の思惑にはまったような気がしないでもないが、医療や医学教育の現状を批判し、改革を求めるという意味においては、我々は同志といえるから、 まぁ、カンパのつもりで金を払うことは惜しくない。

白澤氏の主張は、端的にいえば先入観や利権構造に基づいて漫然と診療することを批判しているものであり、大筋では妥当である。 しかし、科学的観点からいえば論理が不適切な部分があるように思われるので、指摘する。

まず 241 ページに「世間で行われている健康診断が『元気なからだに戻す』という医療の本質からいかにかけ離れているのか」という表現があるが、 これはおかしい。記事全体を通してみれば、白澤氏は、予防医学の重要性を主張している。 予防医学は「からだが元気でなくなることを未然に防ぐ」ことが目的なのであって、その立場からは「元気なからだに戻す」ことは医療の本質ではないはずである。 たぶん筆がすべったのだとは思うが、白澤氏は、医療の本質を、どのように考えているのだろうか。

次に、氏は健康診断などにおける検査結果について、コレステロール濃度などに一喜一憂することを批判している。 これは、世間一般の素人や、不勉強な学生を批判しているのであれば妥当であるが、医学的にはあたりまえのことを言っているに過ぎない。 たとえば血中コレステロール濃度が慢性的に高い状態を「高コレステロール血症」と表現するが、これは単に「血中にコレステロールが多い」という所見を 表現しているだけであって、疾患でもなければ症候でもない。 疾患でも症候でもないのだから、これは病気ではない。 基準値から外れていること自体を病気であるかのように考えることは、臨床検査医学の観点から不適切なのであって、その点を指摘して欲しかった。

糖尿病に関しては、書いていることが無茶苦茶である。「患者さんの中には、(ヘモグロビン A1c の) 数値が九〜一〇でも元気に畑で働いている人がいます。」と 書く一方で、「糖尿病に有効なのは、食欲をコントロールして、とにかく糖のもとになる炭水化物を制限することです。 長野で元気に畑仕事をしている患者さんたちは、皆さん食事療法だけで元気に過ごしています。」と書いている。 白澤氏ほどの人物が、いかなる深謀遠慮のもとに単位を省略したのかは不明であるが、その点はここでは議論しない。 この患者がよほど特殊な体質であるなら別だが、HbA1c 分画 が 9-10 % にもなるならば、まず間違いなく、この患者は慢性的な高血糖状態である。 白澤氏の診察時に血糖値が低いのであれば、たぶん、前日の昼頃から絶食した上で受診しているのだろう。 白澤氏に叱られるのが怖いのだと推定される。 要するに、この患者は食事療法による血糖コントロールに失敗しており、糖尿病による血管障害は着実に進行しているのだが、適切な治療を受けていないのである。 糖尿病では、一応、末梢神経障害、網膜障害、腎障害が典型とはされているが、実際には心臓病や脳卒中のリスクも高まるらしく、 失明したり腎不全になったりする前に死亡する人が多いらしい。 この患者も、今は無症状だろうが、症状が出るとすれば、いきなり心筋梗塞や脳梗塞を来すであろう。そうなってからでは、遅いのである。 しかし、そうなっても「まぁ、年だったからね」などと言われ、実は糖尿病のせいで死んだのだということを認識しないまま、火葬されるのである。

また、コレステロールについて、高コレステロール群と正常群との間で「心臓病疾患及び他の原因での死亡調査では、 二つの集団で有意な差は見られませんでした。つまり、コレステロール値と心臓疾患の相関関係は見出せなかったのです。」とあり、 肺癌について、胸部レントゲン検査を受けた群と受けなかった群との間で「十年が経過して死亡率を比べてみると、どちらのグループも死亡率は同じでした。」とある。 馬鹿らしいとは思ったが、一応、元の論文のアブストラクトだけ確認した。

心臓の方は 1994 年に発表された論文 (JAMA, 272, 1335-1340 (1994)) である。そもそも、こんな古い論文を、なぜ引用したのか、理解できない。 その後の追試やメタ解析などは行われていないのだろうか。単発の論文で出ただけの結果であれば、信憑性は低い。 そして、この論文でも、結論として「有意な差はない」としか言及されていない。 「有意差がない」という統計学的な表現は、一般的な日本語の感覚からは理解し難いかもしれない。 これは「差があるのかないのか、わからない」ということだけを意味する表現であって、「どちらのグループでも同じだ」ということを示唆するものではない。 「どちらのグループでも同じ」と言いたいのであれば、もっと複雑で、ややこしい検証をしなければならないのである。 このあたりのことを正しく理解せずに、デタラメを学生に教える医師はかなり多いので、注意が必要である。 詳細は、機会があれば後日、書くかもしれないが、わかっている人にとっては当然すぎる内容なので、あまり意欲が湧かない。

2011 年に報告された肺癌の論文 (JAMA, 306, 1865-73 (2011)) の方は、もっとひどい。たぶん、白澤氏は、キチンと読まなかったのであろう。 こちらも「有意差はない」という結論なので、「死亡率が同じであった」とは言えないことは当然である。 さらに、白澤氏は「レントゲン検査を実施したグループでは、当然のことながら肺がん患者がたくさん発見されました。」と書いているが、 元論文には、そのような記載はない。 発見された肺癌の数についても、有意な差がなかったのである。 この報告を根拠に胸部 X 線による健康診断を批判するならば、「レントゲン検査では肺癌を発見することはできない」と言わなければならない。 結局のところ、肺癌は比較的稀な疾患なので、この調査の規模では統計誤差に埋もれてしまい、意味のある結論を得ることができなかった、というのが真相である。 しかも米国では、心臓病や脳卒中で死ぬ人が多く、肺癌で死ぬ人は比較的少ないから、日本とはだいぶ、事情が異なるであろう。

とはいえ、白澤教授は、医学教育を改革し、新しい医療を開拓しようとする野心家であり、立派な人物である。

2015.04.20 語句修正
2015.04.21 語句修正

2015/04/19 「真に優秀な学生は教科書を読まない」

昨日の話の続きである。 複数の友人から「欧米では、優秀な医科学生は『ハリソン内科学』などの教科書は読まない。 むしろ優秀でない学生こそが、何周も教科書を読んで、その内容をよく記憶しているらしい。」というような話を聴いたことがある。 たぶん、この話は、半分は本当であろう。 欧米の大学の中には、医学をキチンと科学として扱うところもあるらしく、工学と同様、無闇に暗記するようなくだらない学習から脱却しつつあると聞く。 そうした大学では、優秀な学生は、教科書の内容など暗記していないであろう。

しかし「優秀な学生は教科書を読まない」というのは正しくない。読んではいるが、記憶していないのである。 受験勉強に染まりきった一部の学生は、教科書を読むことの目的が「知識を得ること」だと思い込んでいるから、 「記憶しない」ということを「読まない」という意味に誤解するのである。 読んだ上で、細かなことは忘れてしまえば良い。 本当に重要な部分、医学の核となる部分だけは、忘れようにも頭から去ることはなく、いざ必要なときには、意識せずとも脳裏に蘇えるものだからである。

このあたりの問題については、『ハリソン内科学』日本語第 4 版の監訳者序文として、京都大学名誉教授の福井次矢氏が明確に述べている。

「EBM が医療の基本的パラダイムとなりつつある現在, Harrison's PIM に代表される標準的教科書の価値はもはや失われたのではないか, との考えも巷にはある。 しかし, IT の発展普及によって情報が溢れているからこそ, 溢れる情報の中から最も真実を反映している可能性の高い情報を選択する能力は, すべての医師に必須である。 そのような能力は, Harrison's PIM のような最も体系だった医学教科書と, 臨床疫学・統計学の基礎的な教科書をじっくり読み込み, それらの知識がコンピュータの OS のように活用されることで身につく。 したがって, EBM の時代であるからこそ, Harrison's PIM の普及が求められている」。

福井氏のこの記述の真意がどこにあるかは、知らない。 しかし私は、氏は暗に、無闇に統計的根拠や経験的事実を信じて指導者の言うことを無批判に受け入れるのではなく、 適切な医学理論に基づく論理的思考の重要性を述べているものと理解している。

2015/04/20 日付修正・語句修正

2015/04/18 教科書を覚える

他大学がどうかは知らないが、少なくとも名大医学部医学科では、多少の医療技術の訓練は行われている一方で、医学教育は行われていない。 確かに、講義や実習などで、一部の教員は学術的なことを説諭する。 特に病理学の某教授は、医学とは何か、病理学とは何か、という問題について格調高い講義をし、私はいたく感銘したのであるが、 遺憾ながら、大半の学生の心には届いていないものと思われる。 というのも、名大医学科では、医学以前の、学問に対する姿勢、学ぶとはどういうことか、という点が教育されていないらしいのである。

学問に対する根本的な姿勢の問題は、学生の多くが教科書や、いわゆるアンチョコ本の暗記に力を注いでいる、という事実に表われている。 私は、学習机の前に愛用する教科書をズラリと並べているが、これはコレクションを眺めて悦に入る目的だけではなく、 必要に応じて検索する際の利便のために行っている。 稀に、私のコレクションをみて「あいつは、こんなに膨大な教科書を勉強し、知識を蓄えたのか」などと勘違いする人がいるらしいが、とんでもない。 私は教科書に記されている知識はほとんど記憶していないし、だからこそ、必要に応じて調べるために、手の届く場所に置いているのである。

2002 年から 2006 年にかけて、私は京都大学工学部の学生であった。 少なくともこの頃には既に、たぶん実際にはもっと以前から、工学部では「知識を蓄える行為にはあまり価値がない」という認識が広まっていた。 知識などは、必要に応じてコンピューター等を用いて調べれば済むのであって、人間の不確かな記憶などに頼るべきではない。 むしろ人間は、コンピューターには不可能な柔軟な思考、いわゆる「知恵」を使う仕事に専念するべきである、というのである。 医学の場合においても、ある種の救急医療など極めて限定された高度に専門的な分野を除けば、 文献やコンピューターで調べる時間すら惜しんで診療せねばならぬ、という状況は少ない。 知識は、ヒトの頭脳に納めなくとも、適切なコンピューターの補助に頼れば良いのである。

世界的には、知識を軽視する考えは、もっと前から普及していたようである。 私が歴史上二番目に敬愛する科学者であるリチャード・ファインマンは、1918 年の生まれであり、 自伝『ご冗談でしょう、ファインマンさん』の中で、愉快なエピソードを綴っている。 彼は物理学者であるが、科学や社会について広い関心を持っており、大学院生時代に生物学の講義に参加したらしい。 もちろん彼は生物学についてはシロウトであったのだが、 ネコを使った実験についての論文を読み、他の学生に説明する機会があった。その時の記述を引用する。

このテーマで僕が話をする番がやってきた。僕はまず黒板にネコの輪郭を描き、諸筋肉の名をあげることからはじめた。 全部まで言わないうちに、クラスの連中が、「そんなもの皆わかってるよ」と言いだした。
「ええ?ほんとか?」と僕は言い返した。 「道理で四年間も生物学をやってきた君たちに僕がさっさと追いつけるはずだよ。」 それこそネコの地図を一五分も見ればわかることを、いちいち暗記なんかしているから時間がいくらあっても足りないのだ。

ここでいう「ネコの地図」とは、「ネコの解剖図譜 (アトラス)」のことである。彼は `atlas' という業界用語を知らなかったために、 `map' というような表現をして図書館司書に笑われた、という経験があり、この表現を冗談めかして使っているのである。

もう一つ、彼の学部時代の話も、紹介しておこう。このとき彼は、マサチューセッツ工科大学 (Massachusetts Institute of Technology; MIT) の学生であった。 MIT は、工学系においては米国で最も有名な大学であり、まぁ、世界的にも最高峰ということになっている。 もちろん、これには異論もあって、私の考えでは Kyoto University が世界一である。

学部生として MIT にいるころ、僕は MIT が非常に気にいっていた。こんな良いところはほかにないと思いこんでいたから、大学院ももちろん MIT と心に決めていた。 ところがこれをスレーター教授に話したところ、言下に「ここの大学院には、いれないよ」と言われた。
「ええっ?」と僕がびっくりすると、教授に「何で MIT の大学院に入りたいのかね?」ときかれた。
「何しろ MIT は理系では全国一ですから。」
「君、ほんとうにそう思うのかね?」
「もちろんです。」
「そうだろう。だからこそ君は、ほかの大学院に行くべきなんだよ。外の世界がどんなものか見てくる必要があるからね。」

そして彼は結局、プリンストンの大学院に行き、そこで MIT の「金ピカサイクロトロン」とは異なる、素晴らしいサイクロトロンに出会った。 このあたりは、引用するには長いので割愛する。

MIT は確かにすばらしかった。しかしスレーター教授が僕に他校の大学院をすすめたのは賢明だったと思う。 そしてこの僕もやっぱり同じことを学生たちに忠告している。 若者はすべからく広い世界に出て、外を見てくることだ。事物の多様性を知ることは大切なことだからだ。

私が何を言いたいか、敢えて明記はしないが、少なくとも名大医学科の関係者にはわかっていただけると思う。

2015/05/07 語句修正

2015/04/17 「呼吸器内科医」

呼吸器内科医と題するブログがある。 著者は、本人が明記しているので伏せる必要なしと判断して書くが、近畿中央胸部疾患センターの倉原氏である。 主に呼吸器内科学的事項について、専門科らしい解説が、品格の高い文章で綴られている。基本的には、読者として医療従事者を想定しているようである。 私は「スリガラス影」という術語を「モヤモヤした陰影の向こうに血管等の影が透けてみえるもの」程度に理解していたのであるが、 これが認識不足であることを、倉原氏に教えられた。 それ以来、私は氏のファンである。

ところで、4 月 14 日に肺炎の定義について書いたが、これについて追加情報がある。 倉原氏によれば、英語では pneumonia と pneumonitis は区別されているのに対し、 日本語ではいずれも「肺炎」と表現するのが最近の傾向であるために、話がややこしくなっているらしい。 しかも、pneumonia や pneumonitis の定義も歴史的に変遷しており、混乱に拍車がかかっているようである。 私の拙い文章で要約するのは憚られるので、詳細はリンク先を参照していただきたい。

倉原氏の記述などから考えると、結局、「肺炎」という術語は意味が非常に曖昧であるため、極力、使わない方が良いように思われる。 特に、学生などの場合、医学論理的思考を失わないためにも、イチイチ「細菌性肺炎」などと表現する方がよろしいのではないか。

2015.04.20 リンク修正

2015/04/15 試験対策勉強について

私は常々、試験対策勉強として、いわゆる過去問を参考に対策を練る行為を批判している。 本件について、同級生諸君の多数などから強い反発を受けているため、ここに、いわゆる過去問を用いた試験対策勉強を批判する理論的根拠を示す。 概ね、以前に散発的に書いた内容と同一であるが、まとめて書くのは、たぶん、今回が初めてである。

過去問を用いた勉強がよろしくない理由は、そうした学習法が学問の正道を歪めている、という一点に尽きる。 仮に、過去問対策を講じる中で「このような勉強法は、本当は良くないのではないか」という疑問を微塵も感じない者がいるとすれば、 その者は、もはや学生としての良心の片鱗すら残していない。 幸いにして、少なくとも名大医学科の場合、ほとんどの学生は、過去問対策を中心とした勉強に一定の疑問を抱いているように思われる。 しかし、過去問を一切無視することには漠然とした不安があるために、なんとなく、周囲との「調和」を重んじ、過去問や予備校に頼っているのではないか。

過去問を用いて対策を講ずれば、安心感は得られ、確実に試験に合格できる。 だが、その一方で実は多くのものを失っているということを、認識するべきである。 予め示された道筋に沿って「効率的な勉強」をすれば、試験には合格し、人並程度か、あるいは人並以上の医師には、なれるであろう。 しかし、そうして先人の後を追うことに長けた「人並以上の医師」と、「世界の最先端を往く医師」との間には、越えられない壁があるのではないか。 次代を拓くためには、自ら問題を発見し、自ら新しい手法を編み出し、自ら道を作る必要がある。 歴史上、大事を成した人物は、例外なく、若年の頃より、そうした開拓精神を発揮してきた。 「まずは基本を身につけてから」などと弁明して姑息な手段に走る者が、ついに大成した例は、私の知る限り、存在しない。

以上のことからわかるように、過去問を閲覧するという行為自体が例外なく不適切である、とまでは、いえない。 たとえば大学などの入学試験は、少なくとも日本の場合、他の受験生との相対評価で合格が決定される。 従って、競争に勝利することを目的として過去問を調べること自体は、やむを得ない面がある。 また、国家試験などの資格試験においても、出題範囲は予め公開され、過去の試験内容も公にされており、それを踏まえて出題されるのであるから、 敢えて過去問をみないのは、不必要なハンディキャップを背負うことになる。 ゆえに、過去の出題内容を把握する目的で、正式に公開された問題を閲覧すること自体は、不正義とはいえない。

ただし、先述の理由により、可能であれば過去問はみずに済ませた方が良い、とはいえる。 また、いわゆる試験対策本に頼り試験対策に特化した勉強をすることは、学問として邪であり、志が低いといわざるを得ない。

医師国家試験に対し、過去問をみずに挑むのはリスクが大きすぎる、という意見には同意する。 私も、厚生労働省が公開している資料ぐらいは閲覧するかもしれない。 だが、それ以上の試験対策は、医学者としての自尊心を傷つけるだけの行為であるから、控えるべきである。 国家試験対策予備校の類を「活用」するのは、自らの耳目を腐らせるだけの愚行である。


2015/04/14 肺炎の定義

同級生の某君から、先日の記事に関連して「肺炎の定義は、何なのだろうか」というコメントを頂戴した。ありがたいことである。 曰く、『ハリソン内科学』第 4 版では、肺炎を「肺実質の感染症である」と定義している、というのである。 原書の `Harrison's Principles of Internal Medicine 18e' でも `Pneumonia is infection of the pulmonary parenchyma.' とあり、誤訳ではない。 つまりハリソンの流儀でいえば、薬剤性肺疾患や膠原病などによる肺の炎症は、肺炎ではない、ということになる。

そこで他の書物をみると、`Robbins Basic Pathology' 9th Ed. には `Pneumonia' という独立した項目はない。 `Pulmonary Infections' という節の冒頭に `Pulmonary infections in the form of pneumonia are...' とだけあり、肺炎の定義は記載されていないようである。 これに対し医学書院『医学大辞典』第 2 版では「肺炎」は「肺胞および肺間質に生ずる炎症。原因は種々の微生物, 化学物質や物理的, 免疫学的要因とさまざまである。」と している。先日の記事で私が用いた定義は、これと一致する。 また、朝倉書店『内科学』第 10 版では「肺炎とは, 種々の原因による肺実質内の炎症の総称であるが, 一般には, 病原性微生物による感染性炎症を肺炎とよぶことが多い.」とある。

結局、朝倉の記述が実態を最も適切に表現しているのであろう。 すなわち『医学大辞典』の定義が本来であるが、臨床上は「ハリソン」の意味で使う人が多いものと思われる。

しかし臨床病理学者 (の卵母細胞) の立場から申し上げれば、「ハリソン」の定義は、臨床上は非常に使いにくい。 なぜならば、この定義に従う場合、「肺炎」と診断するためには「感染性である」と考えるだけの根拠を示す必要があるからである。 たとえば、発熱を主訴として咳嗽を有する患者に胸部 X 線画像や CT で肺の浸潤影がみられ、血液検査で好中球増多症や CRP 高値などが認められても、 これは炎症を示唆する所見であって、感染を示唆するわけではないから、肺炎とはいえない。 膠原病による非感染性炎症かもしれないし、肺癌に随伴する炎症をみているのかもしれない。 喀痰中から細菌が検出されて、はじめて「肺炎」といえるのである。 これに対し『医学大辞典』の定義に従うならば、放射線画像や血液検査だけで、「何の疾患かはわからないが、とにかく肺炎である」ぐらいのことは言える。 私は、今後とも、こちらの意味でのみ「肺炎」という言葉を使う所存である。


2015/04/13 教科書レビュー: 南山堂『TEXT 眼科学』 改訂 3 版

本日、眼科学の試験が行われた。この機会に標題の教科書を (概ね) 通読したので、レビューする。

同書は 36 名の執筆者によるものであり、編集は慶應義塾大学教授 坪田一男と、筑波大学教授 大鹿哲郎である。 医科学生向けの教科書であるが、医学書院の「標準」シリーズとは異なり、国家試験対策を強く意識した作りにはなっておらず、上品な書物である。

記載内容については、編集方針について執筆者間の意思統一がなされていないらしく、章によって品質のばらつきがある。 章によっては、写真などの図譜に説明が加えられておらず、初学者には、どこが病変なのかすら、よくわからないものもある。 これでは、写真を掲載する意義が乏しい。 また、全体的に術語や概念についての説明が乏しく、眼科学の専門用語を説明なしに用いている例が多いため、医学書院『医学大辞典』第 2 版などを参照しつつ読む必要がある。 さらに、専門的な内容は省略されることが多く、不満が残る。学部学生向けの書物にありがちな「痒い所に手が届かない教科書」であると、言わざるを得ない。 これらの不満を軽減するために、必要に応じて Yanoff and Sassani `Ocular Pathology 6th Ed.' や、文光堂『鑑別診断のための眼底アトラス』などを 参照しながら読み進める必要があった。

また、一般の学部学生向けの教科書であるはずなのに、まるで対象読者として眼科医志望の学生を想定しているかのような記述も一部にみられたことは遺憾であった。 たとえば、p.161 に「...小児科と連携して診療にあたる.」とあるのが、これにあたる。 学部学生向けなのだから、あくまで医師一般が持つべき医学的教養として眼科学を記述するべきである。 我々は医学の一分野たる「眼科学」を修めているのであって、眼科の臨床テクニックを習っているわけではないのだ。

しかし、総論部分や、各論の中でも糖尿病網膜症や夜盲症については、格調高く、眼科学の初等的教科書として十分に満足できるものであった。 特に糖尿病網膜症については、単なる臨床知識ではなく、その背景を流れる医学的哲理を、可能な限り学生に伝えようとする情熱が伝わってきた。

全体として、眼科学の入門書としては推奨できる。

2015.05.11 標題修正

2015/04/12 Ackerman

`Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 10th Ed.' を購入した。 これは、緻密で繊細な記述に定評がある、病理診断学の世界的な名著である。 どこの病院の病理部に行っても、まず間違いなく (旧版かもしれないが) 本棚に置かれている。 病理医が診断に困った時、原点に戻って病理診断学的疾患概念を確認する目的で、事典のように使う書物である。

もちろん、これは学生向けではない。学生が、このようなマニアックな記述を必要とする状況は、かなり限定されるからである。 しかし、たとえば「蜂巣肺とは何か」ということを正確に理解しようとすると、『ロビンス 基礎病理学』などの学生向け教科書や 医学書院『医学大辞典』のような一般的辞書では、記載が貧弱である。 当然、インターネット上には信頼できる情報が乏しい。 こうした場合には、Ackerman のような専門的書物が必要となる。 それでも、使用頻度と値段を考えれば、図書館で用を済ませるのが妥当であり、学生が個人の財産としてこれを所蔵する意義は乏しい。

それでも敢えて購入したのは、率直にいえば、書棚に飾る目的が大きい。 この「外科病理学の聖典」を日夜、視界の片隅に置くことで、病理医 (の卵にならんとしている卵母細胞) としての自尊心を忘れないようにするためである。

ついでに Mills の `Histology for Pathologists' も購入した。 これも書名の通りの内容であって、正常組織の構造について、その特徴的な所見を中心に解説した名著である。 これも、病理医が「この所見は正常なのかな、おかしいのかな」と迷った時に調べる事典である。 しばしば、Ackerman と並べて病理部の書棚に置かれている。

たぶん、卒業までに、これらの書物を開く機会は数えるほどしかないであろう。 しかし両者ともまだ数年は新版が出ないであろうから、卒後臨床研修が始まってからも使えるであろうと考え、早いうちから所有することにした。


2015/04/11 「疾患」の定義

4 月 14 日の記事も参照されたい。

「疾患」という概念を正しく理解している学生は、少ないのではないか。 これと紛らわしい術語としては「疾病」「症候」「症候群」「障害」などがあるが、それぞれ異なる概念である。 これらを混同すると、時に著しく不適切な治療を行い、患者に多大な害を与える恐れがあるから、こうした術語の使いわけは重要である。 医学書院『医学大辞典』ですら「疾患」と「疾病」を区別していないことは遺憾である。 私の手元にある書物の中で、これらの区別を最も明確に述べているのは、医学書院『標準精神医学』第 5 版である。 精神医学においては言葉の定義が極めて重要であり、名古屋大学の某教授も、この点は、さんざん、講義の際に強調している。

『標準精神医学』によれば、疾病とは「本来の生理的機能が働かなくなり, その結果生存に不利な状態」をいう。 俗な表現をすれば「体の調子が悪いこと」あるいは「健康でないこと」全般をいうのであって、実に意味が広い。

次に「疾患」とは、同書によれば「特定の原因, 病態生理, 症状, 経過, 予後, 病理組織学的所見がすべてそろった場合」をいう。 すなわち、症状や経過が同様であっても、原因が異なるならば別の疾患であるし、原因が同じでも経過や組織学的所見が異なれば別の疾患である。

「症候」とは、「症状」と「徴候」の総称である。「症状」とは、患者が自覚する感覚であって、身体の異常を反映するものをいう。 これに対し「徴候」とは、第三者が観察して得られる身体所見をいう。

『標準精神医学』によれば「症候群」とは「複数の特定症状でいつも構成される状態」をいうが、これは「複数の特定症候」の誤りであろう。 単一疾患かどうかは不明であるが、似たような疾患群と考えられ、一つのグループとして扱うのが適切と考えられるものに対する便宜的な区分である。 ただし、単一疾患であることが明らかになっても、歴史的経緯から「症候群」と呼ばれ続ける疾患は少なくない。

「障害」とは、疾病ではあるが、その基礎にあるはずの臓器障害が不明瞭である場合に「半ば苦し紛れ的に」用いる名称である。 この言葉を診断名として患者に告げるとき、心ある医師ならば、自らの診断能力の乏しさ、現代医学の未熟さに、無念の思いを募らせるであろう。

たとえば「肺炎」は、疾患ではなく症候群である。 原因は感染であったり、膠原病であったりと多様であり「特定の原因」に依らないからである。 これに対し「レジオネラ肺炎」は疾患である。レジオネラ属菌感染を原因とし、「疾患」の定義に合致する。 「細菌性肺炎」と表現する場合には際どい。「レジオネラ感染だろうが Staphylococcus aureus 感染だろうが細菌感染には違いなく、 同一の原因といえる」と主張するならば、「疾患」だと考える余地がなくはない。 しかしレジオネラ感染と S. aureus 感染では、典型的には経過や治療法が異なるので、「細菌性肺炎」も症候群とみるべきだろう。 「間質性肺炎」も、「間質を炎症の主座とする肺炎」というだけの意味であって、原因は極めて多様であるから、やはり症候群である。

疾患と症候群を混同すると、何が起こるか。 もし「肺炎」を疾患と誤解してしまうと、肺炎患者をみた凡庸な医師は「肺炎を治療するには、どうすれば良いか?」と考えてしまう。 しかし本来、治療の対象は「疾患」とするべきである。「症候群」に対する治療は姑息的なものにならざるを得ず、大抵、根治には至らないからである。 それなのに症候群である「肺炎」を治療対象と認識してしまうと、医学的に妥当な論理的思考が失われ、不適切な経験的治療が行われる恐れがある。 たとえば、肺炎の多くは感染性肺炎であって、βラクタム系抗菌薬が効くことが多い、という中途半端な知識に基づいて、セフェム系抗菌薬を処方するかもしれない。 しかし、実は患者は全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythemathosus; SLE) であって、抗菌薬は無効であり、グルココルチコイドを投与するべきであった、 ということが起こり得る。 もちろん、疾患を特定できていない状態で治療を開始することが悪いとは限らないが、「何の疾患であるかは明らかではない」という認識で慎重に治療開始するのと 「肺炎が原因疾患である」と誤解して治療開始するのでは、SLE に気づく早さが全く異なるであろう。

「何の疾患であるか診断する」ということは、「患者の疾病の原因は何なのか、患者の体の中で何が起こっているのか」を推定することと同義である。 最低限、疾患と症候群は区別して認識しなければ、疾病の原因を究明しないままに、不適切な対症療法を行うことになりかねない。

2015/04/11 日付修正
2015/05/07 「徴候」を「症候」に訂正 (恥ずかしい。。。)

2015/04/10 プラセボ効果

近頃、皮膚科医院に患者として通っている。診断名は自家感作性皮膚炎である。この疾患については、以前書いた。 治療としては、抗ヒスタミン薬であるエピナスチン 20 mg を一日一錠内服し、 グルココルチコイドであるプロピオン酸デキサメタゾン軟膏を患部に塗布している。 諸般の事情により通院間隔があいてしまったことなどにより、エピナスチンは、月曜日の夜からつい先程まで、丸四日、服用していなかった。 たぶん、これと関連し、昨晩から四肢を中心に蕁麻疹などの皮疹が生じ、鼻炎が増悪し、なかなかに苦しんだ。

「たぶん、これと関連し」と判断したことには、理由がある。 一般論としては、エピナスチンから急激に離脱したからといって、蕁麻疹を生じるかどうかは、よくわからない。 しかし、こうしたアレルギー性疾患については、プラセボ効果が著明に影響することが知られている。 すなわち、「エピナスチンを飲んでいない。これはイカン。」と思い続けることにより、広義のプラセボ効果が現れ、 実際には明らかな器質的要因がなくとも過敏性反応を来す、という現象は、医学的につじつまが合う。 なお、プラセボ効果については、以前の記事に書いた。

そこで、本当は今日の就寝前に飲もうと思っていたエピナスチン錠を、先程、服用した。 すると、足底の皮疹に伴う掻痒が、たちまち消失し、鼻腔の不快感が解消したのである。

もちろん、これを「エピナスチンが効いた」と考えるのは誤りである。 薬理学的に考えて、経口的に投与した錠剤が、そのような即効性を示すはずが、ないのである。 しかし私は、「きっと、このエピナスチンを飲めば、逆方向のプラセボ効果が生じ、たちまち掻痒が治まるはずである。」と念じながら、エピナスチンを飲んだ。 プラセボ効果は、患者がそれと知っていても、程度は減弱するが発揮される、ということを、私は知っていたからである。 そして実際に、プラセボ効果は、生じたのである。

このように、個人として行動する限りにおいては、プラセボ効果を活用することは有益である。 しかし医師として患者に対する場合には、そうではない。 学生の中には「プラセボ効果だろうが何だろうが、患者の病気が治るなら、それで良いではないか」ということを述べる者が少なくないが、そうではない。

まず第一に、少なくとも日本の場合、プラセボ効果に基づく診療は、健康保険上は認められていない。 自由診療であれば好きにすれば良いが、実際にはプラセボであるものに対し「効果がある」と称して保険金を引き出す行為は、 その資金を供出している国民全体に対する詐欺にあたる。

そして、より重要なこととして、医学的真相を探求する姿勢を放棄し、目先の診療に過度に集中することは、医道を卑しめ、何より自身を貶める行為である。 科学の徒である学生として、あるまじき姿である。

2015/04/11 日付修正

2015/04/07 非浸潤性乳管癌に対する術後放射線療法

非浸潤性乳管癌に対する乳房温存術後には、ふつう、放射線療法を行う。 これは日本乳癌学会編『乳癌診療ガイドライン 2013 年版』で推奨グレード A として「十分な科学的根拠があり、積極的に実践するよう推奨する」とされている治療である。 野心溢れる聡明な学生であれば、これをみて「乳癌学会は頭がおかしくなったか」ぐらいのことを言っても不思議ではない。 それくらい、この「科学的根拠」は、衝撃的な内容なのである。

新三年生以下の医学科生や非専門家には、この「科学的根拠」の突飛さを理解できないであろうから、解説する。 非浸潤性乳管癌は、上皮内癌 carcinoma in situ の一種である。上皮内癌とは、「基底膜を越えて浸潤をしていない癌」という意味であるが、 「癌」の定義は「浸潤性の腫瘍」であるから、「浸潤しない癌」というのは何かがおかしい。 この carcinoma in situ という病理学的な概念は、「もしかすると、我々の目に映っていない部分で浸潤しているかもしれない」とか 「基底膜に少しでも穴があけば浸潤できる、準備万端である」というような思想を根拠として、半ば臨床上の便宜のために、使われているものと思われる。

定義より、非浸潤性乳管癌であれば浸潤がないのだから、断端陰性になるように切除できていれば、すなわち 腫瘍の取り残しがないのであれば、重複癌や多発癌はあるかもしれないが、再発は、ありえない。 従って、真の非浸潤性乳管癌に対する術後放射線療法は、理論的に不当であり、有害無益である。

それにもかかわらず、臨床的には、術後放射線療法を行った方が再発率が低い、換言すれば「非浸潤性乳管癌は再発することがある」という統計的事実がある。 この、我々の医学理論を嘲笑うかのような現象を、どう理解すれば良いのか。

極めて遺憾なことであるが、もっとも合理的な解釈は、我々病理医が誤診している、というものであろう。 微小な浸潤を見落としているのか、それとも検体のうち標本化されなかった部分にのみ浸潤があるのか、真相はよくわからないが、 とにかく、結果として浸潤性乳癌を非浸潤性と誤診しているのだと考えざるを得ない。

これは、病理医の尊厳にかかわる問題であって、病理診断の存在意義が問われているのであり、病理診断学の敗北であると言わざるを得ない。 我々、次世代の病理学者に課された重要課題の一つである。


2015/04/06 放射線性腎炎および放射線性肝障害

癌に対する、X 線を用いた放射線治療の合併症としての腎傷害や肝傷害を考える機会があったので、ここにメモを残す。 胃癌や大腸癌などに X 線を当てようとすると、周辺臓器である腎臓や肝臓も、ある程度は被曝する。 このため、時に肝機能障害や腎機能障害を来す。 いわゆる重粒子線治療の場合、こうした周辺臓器への影響を軽減できると期待されるのだが、残念ながら諸般の事情により、現時点では一般的には行われない。

まず放射線による腎傷害、いわゆる放射線性腎炎について考える。 日本内科学会雑誌 第 88 巻 第 8 号 pp.79-82 によれば、放射線腎炎においては血管傷害による糸球体傷害と、 活性酸素による糸球体傷害および尿細管傷害があるらしい。 そして、これらの傷害は概ね非可逆的であり、回復は困難であるとされる。

腎不全や高度の腎炎などの徴候がみられるのは、概ね腎臓の 50 % 以上の領域に 20 Gy 以上の照射が行われた時である、とされるが、 5 Gy 程度の被曝であっても組織学的な非可逆的変化は生じるらしい。 すなわち、腎傷害については閾値はなく、低線量の被曝であっても将来的な腎不全のリスクは上昇する。 従って、腎臓の被曝は可能な限り少なくするべきである。

肝傷害の機序は、よくわからない。『がん・放射線療法 2010』によれば、肝臓の場合は、 各々の小葉が線量に応じて確率的に機能喪失する、というモデルが良い近似を与えるらしい。 すなわち、低線量の被曝であれば、機能喪失する小葉は僅かであるため、重篤な肝機能障害は来さない。 肝硬変などの合併がなければ、肝臓は再生するから、重大な後遺症も生じないと考えてよかろう。 目安としては、正常肝であれば 3-4 週間の間に 30 Gy 程度の被曝にも耐えるという。 また、最大で 70 % 程度の領域が外科的に切除されても耐えられるという。 従って、胃癌や大腸癌に対する放射線治療の合併症という意味においては、肝臓は、 もともと肝機能障害がないならば、かなりの程度、放射線抵抗性があるとみなすことができる。

解剖学的な事情により、時に、肝臓の被曝と腎臓の被曝を天秤にかけねばならないことがある。 そうした場合には、上述のような肝臓と腎臓の相違を念頭に、治療計画を練るのが良いと思われる。


2015/04/05 病理学を学ぶ意義 (2)

昨日の記事の補足である。 なぜ、疾患の定義と診断基準を区別し、病理学的理解をすることが重要なのか、という話を書こうと思ったのだが、やめた。 というのも、病理学を軽視し、典型的な症例についての診断基準と標準的治療法を記憶し、あとはガイドラインに盲従した「マニュアル診療」を行うような 学生や医師に対しては、道理を説いたところで、馬の耳に念仏を唱えるようなものだからである。 彼らも、たぶん、医師になって十年もする頃には、学生時代に病理学を修めなかったことを反省するであろう。

多くの学生や一部の若手医師は、ガイドラインについて誤解しているようである。 ガイドラインは、診療における規則を定めるものではなく、単なる指針に過ぎない。 従って、これに違反しているからといって直ちに「不適切な診療である」とはいえないし、 また、ガイドラインに沿っているからといって「適切な診療である」とも限らない。 このことは、ほとんどのガイドラインの前文などに記載されているのだが、どうやら、こうした重大な文言を読んでいない医師がいるらしい。

「適切な診療」の基準でないのならば、ガイドラインは何のために制定されているのか。 これは、個々の医師が煩雑な論文調べをする手間を省くためである。 臨床上の判断に迷うような事例について、しばしば、学術研究がなされ、論文として報告されている。 しかし、論文には様々な社会的事情などが反映されるため、論文に書かかれていることが常に正しいとは限らない。というより、しばしば、間違っている。 従って、学術論文を読んで最新情報を入手することは重要ではあるが、その情報の信憑性はかなり低い、ということを忘れてはならない。 本当に信頼できる情報は、多数の人が様々な方向から検討した上で、共通の結論として得られた内容に限られるのである。 このような「本当に信頼できる情報」を抽出する作業は多大な労力を要するので、学会などが主導して行い、成果としてまとめたのものがガイドラインである。

また、薬剤の「禁忌」についても、時に誤解されているようである。 禁忌とは、製薬会社が「このような患者に投与してはならぬ」と、添付文書に記載している内容のことである。 大抵の場合、禁忌とされている患者に投与してはいけない。また「禁忌になっているから」という理由で投与しなかった、という判断を咎められることは、 皆無ではないものの、稀である。 しかし、診療内容を決定するのは医師と患者であり、薬剤師ではない。 薬剤師や製薬会社が「禁忌である」と主張したとしても、それは医師に対する助言に過ぎないのであって、最終的な決定権と責任は医師にある。 従って、医師が投与を控える理由としては「禁忌だから」ではなく、たとえば「流産の危険があるから」などと、具体的な医学的事情を挙げる必要がある。 換言すれば、我々は「禁忌であること」自体を理由にするのではなく、「なぜ禁忌なのか」という部分を理由に挙げなければならない。

さらに、インフォームドコンセントについても、しばしば誤解がある。 インフォームドコンセントを行い、患者の希望に従って診療したならば、いかなる結果になろうとも医師に責任はない、というような言説を耳にすることがあるが、誤りである。 そもそも、完璧なインフォームドコンセントなど、あり得ない。 たとえば結腸癌の患者に対し、手術のためのインフォームドコンセントを試みたとする。 手術をしなければどうなるのか、抗癌剤の副作用はどのようなものなのか、などの事項は、医学的に深遠な問題であって、とうてい、素人である患者に理解できるものではない。 従って、医師は、ある程度「かみくだいて」「素人にもわかりやすく」説明する必要があるが、結果的に、あまり正確ではない説明になってしまうことは避けられない。 そのため、患者は多かれ少なかれ、誤解したまま、治療方針に同意することになるのである。 結局、その僅かに残った「誤解」の部分を巡って、責任問題が生じ、訴訟が生じるのである。 よく調べてはいないが、たぶん、医師が訴えられる例のうち大半は、インフォームドコンセントは行われているはずである。 インフォームドコンセントがない場合は、大抵、全面的に医師や病院側に非があり、訴訟の余地が乏しいからである。


2015/04/04 病理学を学ぶ意義

四年生の夏頃であっただろうか、病理学の某教授に対し、酒席において次のようなことを問うたことがある。 「病理学とは、疾患の原因を詳らかにし、その治療法を探る学問だと思います。 しかし形態学を重んじる現在の病理診断は、本来の病理学とは異なる、何か別のものになってしまっているのではないでしょうか。」 これに対し、教授は「その通りであって、病理学と病理診断学は異なる。」という趣旨のことを述べた。

遺憾ながら現在の名大医学科のカリキュラムでは、基礎医学としての「病理学」と、臨床医学としての「病理診断学」が分離されていない。 このため、三年次の病理学において、疾患概念すらよく理解していない学生に対し、病理診断の高度に臨床的な技術の講義がなされることがある。 もちろん、これは不適切であり、三年生がそのような高度に臨床的な知識を習得する意味はない。 そもそも、病理医になるわけでもない学生にとっては、そのような技術は、あまりにマニアックである。 まずは「病理診断学」ではない「病理学」を、キチンと修得するべきである。 病理学を修めていれば、臨床医学の多様な事項の大半は「あたりまえのこと」として容易に理解できるのである。

ただし、私は「病理診断学を三年生が学ぶ必要はない」と主張しているだけであって、 「病理組織学を学ぶ必要がない」と考えているわけではない。 疾患の本質を理解するためには、組織学的理解は不可欠だからである。

たとえば「胃癌」という疾患について、多くの学生は、いったい、どのようなイメージを持っているのだろうか。 ひょっとすると、「早期胃癌の定義は……」などという試験対策的な知識を大量に持っている一方で、 疾患そのものについては、あまり明確なイメージも抱かず、定義すら正しく認識していない学生が、少なからず存在するのではないか。 あるいは、定義と診断基準をキチンと区別して理解している学生は、どれほどいるのだろうか。

組織をみるということは、疾患の本質、癌細胞そのものをみる、ということである。 外科医は、切除した胃の病変をさして「このあたりが癌だね」などと言うが、実は彼らがみているのは繊維化している部分であって、 癌細胞の集塊そのものをみているわけではない。 「癌は硬い」などと思っている人がいるが、それは繊維化しているから硬いだけであって、癌細胞そのものは、たぶん、それほど硬くないのである。

癌細胞そのものをみずして、どうして、癌を理解できようか。


2015/04/03 ヘマトクリットと HbA1c

ヘマトクリットとは、血液中に占める赤血球の体積割合のことをいう。 これの測定には、遠心法と、自動測定法とがある。 両者は原理的に全く異なるものであるが、医師の中にも遠心法しか知らない者がいるようである。 我々も、臨床検査技師との円滑なコミュニケーションのために、こうした基本的な検査の原理ぐらいは、把握しておくべきであろう。

遠心法とは、赤血球を遠心沈降させることにより、赤血球層と、それ以外の成分から成る層に分離した上で、層の厚さから体積比を計算するものである。 これに対し自動測定法とは、自動血球分析装置を用いて個々の赤血球の体積を測定し、その積分としてヘマトクリットを計算するものである。 赤血球体積の測定法としては、電気抵抗方式が面白い。これは、脂質二重層から成る細胞は不導体であることを利用し、 電気抵抗の変化を測定することで赤血球体積を推定するものである。 すなわち、ある槽が細孔を有する隔壁で二分割されている状況において、隔壁の両側に電圧をかけ、電気抵抗を測定するのである。 何もなければ、両側が細孔でつながっているのだから、電気抵抗は小さい。 しかし赤血球が細孔を通過している最中は、細孔が塞がれてしまうために、電気抵抗がとても大きくなる。これにより、赤血球の大きさがわかるのである。 詳細は『臨床検査法提要』を参照されたい。

話は変わるが、HbA1c というものがある。糖尿病の指標などに用いられるものである。 時に、HbA1cのことを「グリコヘモグロビンともいう」などと説明する者がいるが、誤りである。

成人のヘモグロビンの 90 % は α2β2 のサブユニット構成を持つ HbA であるが、2 % 程度は α2δ2 の HbA2 であり、 0.5 % 程度が α2γ2 の HbF である。 残りの 7 % は HbA 1 であり、陽イオン交換カラムクロマト分画において HbA よりも早く溶出する成分である。 HbA1 は、グルコースなどの糖とヘモグロビンが結合したものが主体であることから、これをグリコヘモグロビンと呼ぶ。 HbA1 は三つの分画、すなわち HbA1a, HbA1b, HbA1c から成る。 この HbA1c が HbA1 の主体であって、ヘモグロビン全体の 4 % 程度を占めるのである。 以上のことからわかるように、HbA1c はグリコヘモグロビンの一部に過ぎないのだから、両者は明確に区別する必要がある。

上述のように、HbA1c は物質構造から定義された概念ではなく、測定上の分画として定義されたものである。 従って、測定方法の相違によって HbA1c の値は大きく変化してしまう。 さらに HbA1c には、どうやら安定型と不安定型があるらしく、通常、検査で測定されるのは安定型のみである。 日本糖尿病学会 (JDS) では、安定型 HbA1c のみを測定する手法の普及をめざし、試薬の標準化などを試みてきた。これが、いわゆる JDS 値である。 しかし世界的には、HbA1c のうち β 鎖の N 末端バリンが糖化したものを「安定型」と定義し、これを測定するのが主流であり、NGSP 値と呼ばれる。

本日、これを日記に記載したのは、以前『臨床検査法提要』を読んだ時、HbA1c 測定の標準化について格調高い記述があったような気がしたことを、 ふと思い出したからである。しかし、今、改めて読み返してみると、特段、感動するようなことは書かれていなかった。 私の記憶違いであろう。


2015/04/02 医学書院 『医学大辞典』 第 2 版

私は、臨床実習の班員から「定義厨」という、名誉ある異名をつけられたことがある。 これは、私が常々、術語の定義について粘着質といえるほどのこだわりを示していることから、 からかいを込めてつけられたものである。 しかし言葉を厳密に使うことは、厳密な論理展開のためには必須であるから、 こうした異名は名誉であると、私は理解している。

私は三年生の 9 月に、同級生の某氏の紹介を受けて、医学書院『医学大辞典』第 2 版を購入した。 基礎と臨床とを問わず、医学を修める上でわからない言葉や、定義がイマイチはっきりと理解できない言葉に巡りあった時、 この辞書で調べることにしている。 この日記においても、何度か、記事の論拠としてこの辞書を引用している。

もちろん、辞書の記載が常に正しいというわけではないし、この大辞典においても、 記載が曖昧で「定義」と「性質」が混同されていることも少なくない。 それでも、Google などで検索するよりは、情報源として、よほど信頼できるであろう。


2015/04/01 臨床実習の班決め

名大医学科では、五年次の臨床実習を 6 人ないし 7 人の班単位で行う。 この班は、学生間で「自主的に」決定するのが慣例となっている。 平たく言えば、好きな者同士で組める、というわけである。 実習を仲の良い者同士で行うことに、どういう利点があるのか、私にはわからない。 逆に、このような決め方をすることの問題点はいくつか考えられるのだが、とにかく、そういう慣例らしいのである。

このため、班決めを巡るかけひきが、三年生あるいはそれ以前から、密かに展開されるらしい。 予め、同じ班になろうという合意を形成しておいたり、その合意を破って別の班に移ったりと、様々な活動が行われるらしいのである。 そういう話自体は、私も耳にしていたが、特に班決めに向けた水面下の活動は行わなかった。 一つには、臨床実習の班の決定方法について大学当局からの正式な通達がないにもかかわらず、 そのように水面下でコソコソと活動するのが気にいらなかった、ということがある。 もう一つには、班を組む相手は誰でも良い、と思っていた、ということもある。

四年生の 11 月 13 日に、正式に、班決めの方法が通知された。 同月 15 日までに、既に班が決まっているかどうかを、担当者の某君に連絡されたし、という案内が、学年メーリングリストに流されたのである。 私は、もちろん、班は決まっていなかったので、その旨を連絡した。

その後、どのようにして班が決められたのか、私は、よく知らない。 同月 20 日に、「班長会議」のようなものが開かれ、「あぶれた人達」の処遇について、話し合ったらしい、という噂を耳にした。 その後、28 日に「班が決定した」旨が学年メーリングリストで告知された。 この間、この件に関する一切の告知は行われなかった。

私としては、班を決める場から排斥され、それどころか班の決め方すら知らされなかったことについては、不快であった。 しかし、上述のように班自体は誰と組むのでも構わないと思っていたため、11 月 20 日に事実関係を問い合わせるメールを担当者に送った以外には、 特に行動は起こさなかった。

繰り返すが、班自体には不服はなかったし、一言連絡さえくれれば、班の決め方は、他の人々に一任するつもりではあった。 だが、このように、当事者を無視して話が進められたことは、あまりに乱暴であり、遺憾であった。 この決定過程の問題点を理由に、学務課に対し不服申立を行うことも考えたが、それにより同級生、 特に同じ班になった諸君からの反感を買うことの不利益を鑑み、これは控えた。 しかし今になって思えば、ここでは余計な配慮をせずに、騒ぐべきであったかもしれない。


Home
Valid HTML 4.01 Transitional