本日、4 月から採用の北陸医大 (仮) 初期臨床研修医に対するオリエンテーションの一環として、県医師会の説明が行われた。 都道府県医師会は、基本的には、日本医師会の下部組織として活動している。 過去にも書いたが、私は日本医師会が嫌いであり、県医師会も含めて、加入するつもりは毛頭ない。
日本医師会といえば、何年か前から医学科の学生向けのフリーマガジンである Doctorase を発行するなどしており、新規会員の獲得に熱心である。 しかし、この Doctorase の記事にせよ、本日の説明にせよ、医師会と医師連盟との関係についての説明がなかったことは、不誠実であると言わざるを得ない。
医師会というのは医師の集まりであるが、医師連盟というのは、この医師会を母体とする政治団体であり、その活動資金は主として医師会からの寄付に依っている。 要するに、医師会員から医師会を経て医師連盟に金が流れているわけである。 そして医師連盟は、多額の政治献金を行っている。 この献金は、診療報酬の引き上げなど、医師会や医師連盟にとって具合の良い政策を実現させるためであろう、と推定する意見は少なくない。
政治献金というのは、建前上は見返りを求めない、善意による合法的な寄付であって、賄賂ではない、とされている。 私的な目的を達するためではなく、公的な政治活動を支えるための社会貢献である、というのである。 医師会の場合、これが会費の主たる使途であるのだから、やましいことがないのであれば、こうした活動実績は堂々と学生や新人医師に説明するべきであろう。 それにも関わらず、敢えてこうした「社会貢献」を伏せるのだから、医師会というのは、実に奥ゆかしい組織である。
過日、近くの医院で健康診断を受けた。 この医院の待合室には「血中遊離 DNA 濃度測定」のポスターが掲示され、パンフレットも置かれていた。 私には、そのようなものを測定して、一体、何の役に立つのかわからなかったが、どうやら、これは癌を早期発見するためのスクリーニング検査であるらしい。 パンフレットを読んで、私は「これは、インチキだ」と考えた。 というのも、そのパンフレットでは、陽性反応適中率が高いことをもって、この検査が癌の早期発見に有用であるかのように説明していたのである。
この場合、陽性反応適中率というのは、検査で「陽性」と出た患者のうち、実際に癌を患っている者の割合をいう。 少し考えればわかるように、これは、母集団の選び方によって、いくらでも変化する。 たとえば定期健康診断を受けた人について統計をとれば、癌患者は比較的少ないのだから、陽性反応適中率は低くなる。 一方、大学病院の腫瘍内科を受診した患者について統計をとれば、大半が癌患者なのだから、陽性反応適中率は、かなり高くなる。 従って、ある調査で陽性反応適中率が高かった、という事実は、その検査が有効であると考える根拠にはならない。 つまり、このパンフレットは、疫学的に意味のない内容を書いて素人を欺こうとしているのである。
少し論文検索してみたところ、確かに、血中遊離 DNA 濃度の測定を癌のスクリーニングに役立てようとしている報告は少なからず存在する。 ただし、その内容は、眉唾である。 たとえば、ある報告は、この手法が卵巣癌の検出に有効であると主張している (Oncology Letters 10, 3478- 3482 (2015))。 しかし、これは、望ましい結果が得られるように、恣意的に研究計画が立てられている疑いがある。
そもそも血中遊離 DNA 濃度による癌検出の原理は、癌患者では炎症の結果として細胞が破壊され、血中に多量の DNA が放出される、という現象に基づいている。 つまり、これは癌ではなく炎症マーカーなのであって、CRP や白血球数などと同様のものである。 上述の報告では、卵巣癌患者、卵巣良性腫瘍患者、健常者について血中遊離 DNA 濃度の測定による鑑別が行われているが、いわゆる炎症性疾患の患者は含まれていない。 一番、鑑別の難しい患者群を、最初から対象外としているのである。 また、健常者と癌患者を鑑別できるのは良いとしても、良性腫瘍患者と癌患者を鑑別できていることは不自然である。 検査の原理からいって、この手法は、腫瘍の良悪性を鑑別できないはずだからである。 たぶん、「望ましい」結果が得られるよう、調査に参加する患者をよく吟味したのであろう。
こうしたアヤシゲな検査が行われている背景には、論文にする材料が欲しい自称研究者、経営を改善したい検査会社や一部の開業医らの思惑が絡んでいるものと思われる。
なお、少なからぬ医院等のウェブサイトで、この検査の紹介がなされているが、その有効性の根拠となる文献をキチンと挙げているサイトは皆無である。
我が北陸医大 (仮) では、初期臨床研修医として採用される者に対し、3 月 29 日から 31 日にかけてオリエンテーションが実施される。 手元に書類がないのだが、採用は 4 月 1 日付であったと思うから、これは採用前に実施されることになる。 しかし、当局からの説明によれば、これは任意参加ではなく、必ず出席せねばならない性質のものであるらしい。
ここで労働基準法等との関係が問題になる。 我々は、大学に雇われる労働者であるから、業務として命令された内容を遂行する際には、報酬が支払われなければならない。 もちろん、オリエンテーションやガイダンスは主たる業務ではないが、それが義務として課されるならば、通常、それは業務の一環と解釈される。 一方、まだ確認してはいないが、たぶん、3 月中のオリエンテーションは給与支払いの対象として扱われないであろう。 そうであれば、これは、無償での労働を強いていることになり、違法である。
誤解のないよう明記しておくが、私は「もっと金をよこせ」などと下品なことを言っているわけではない。 そのオリエンテーションは、教育という意味合いが強いのだから、多少の参加費を払ってでも出席したいぐらいである。 ただ、法律に違反し、労働者の権利がないがしろにされているのではないか、という点を問題にしているだけである。 現実には、こうした違法な研修やガイダンスなどは世間で広く行われていると聞く。 日本社会の遵法意識の低さ、公正を希求する精神の乏しさの表れである。
たとえば 4 月の給与を 3 万円減らして、その分、3 月中の給与として 3 万円を支給する、というような形であれば、何の問題もない。 実際には、そういうことをすると事務手続きが煩雑になるので、やらないのであろう。 しかし、それでも、違法行為を正当化することはできない。 いずれ、折をみて、当局に意見を具申することにしよう。
昨日は卒業式であった。 医師国家試験に際して、合格発表前に卒業証明書を厚生労働省に送付しなければならない都合上、医学科の卒業日は 3 月 10 日なのであるが、式典だけは他学部に合せて 25 日に行っているのである。 医学科の場合、他学部と合同で東山キャンパスで行われる卒業式の他に、医学科内での学位記授与式も行われ、私は、後者のみに参加した。 東山の卒業式では、総長が式辞において多様性を認めることの重要性を説いたらしく、たいへん、よろしい。
ところで、私は学位記授与式にはノーネクタイの普段着で参加したのだが、こうした軽装での参加者は他にいなかった。 なにしろ私は工学部出身なので、学術会議を含め、こうした学問の場においてフォーマルな服装をする、という発想がなかったのである。 別段、式典に反発する精神の表明として敢えて軽装で臨んだわけではないのだが、ひょっとすると、一部に誤解を招いたかもしれない。
さて、問題は謝恩会である。 私は、当初、謝恩会実行委員の委員長に任じられたのだが、結局は辞任し、謝恩会自体にも不参加であった。 これについては一部に誤解と反発を招いたようであるが、敢えて弁明するのも無用な混乱を招くと思い、黙っていた。 しかし説明を求める声もあったので、一応、ここで事情説明だけしておこう。
昨年 11 月の上旬に、謝恩会実行委員の会合が開かれ、謝恩会のおおまかな内容について討議された。 例年、名大医学科の謝恩会では「ベスト教授賞」などの賞を学生から教授に対して贈呈する、というような催しが行われているらしいが、私は、これに断固として反対した。 その理由は、第一に、感謝すべき相手、目上の相手に対して賞を与える、という形式は礼法に反し、一回だけのジョークとしてならともかく、慣例とすべきではない。 第二に、例年、賞を贈られる教員はごく一部であり、それ以外の教員との差別を設けるべきではない。 中には、この賞を楽しみにしている教授もいるらしいが、これは、相手が不快に感じるかどうか、という問題ではないから、関係ない。 特に、賞を与えられない教員に対し、学生が個人的に感謝を述べるのみで全体としての感謝の表明がないならば、謝恩会の趣旨に反する。
しかし私の主張は、全く、賛同を得られなかった。 私は、賞の廃止と、代わりに学生代表が感謝の言葉を述べて花束贈呈する、という内容を提案したのだが、準備が大変である、などの理由で受け入れられなかった。 私は「せめて、授賞式は謝恩会から形式的に分離する」という案を提出したが、むしろ 「何が問題なのかわからない。反対しているのは○○さん (私のこと) だけだろう。」 「授賞式ではなく○○さんを謝恩会から分離する方向でいこう。」 という案が通された。
こうして多数意見が押し通された以上、私としては、謝恩会に参加するわけにはいかないので、やむなく、不参加とした。 また、他の委員から「謝恩会に不参加なら委員も辞めろ」という声が第三者を介して伝えられた。それも一理はあるし、そうした声を無視してまで委員を続けるわけにもいかない、結局、辞任したわけである。 委員辞任については、私がヘソを曲げて放り投げた、と解釈した人も少なくないようである。 しかし私としては、本当は、形式的には不参加であるが準備係として会場を訪れる、という裏技を使いたかったので、これは、実に遺憾であった。
そもそも、謝恩会を開催するということ自体、どのようにして決定されたのか。 私の把握している限りでは、謝恩会を開くかどうかという点について、学年全体で議論されたことはない。 たぶん、例年開いているから、という理由で、趣旨も何も考えずに、ただ慣習に従って行われているのではないか。 本来、謝恩会とは、先生方に感謝の気持ちを述べる場が欲しい、という学生側の自発的感情に基づいて開かれる催しである。 それを「やめる理由がないから」「内容を変える必要性がないから」「苦情が出ているわけではないから」などという消極的な理由で継続することは、言語道断である。
ベスト教授賞にしても、もし、これが例年行われているのではなかったなら、私の意見に賛同する委員の方が多かったのではないか。 「慣習だから」「前回もそうだったから」というのは、理由にならない。 少なくとも、そういう無責任な発想が、医療の場には持ち込まれないことを期待する。
医師国家試験では、各自の成績が郵送で通知される。 私の場合、転居関係の事務手続きに不備があったため、通知書が手元に届くのが遅れ、本日になった。 私の成績は、次のようなものであった。
区分 | 合格基準 | 得点 |
一般問題 | 125 点以上 / 199 点 | 160 点 |
臨床実地問題 | 388 点以上 / 594 点 | 438 点 |
必修問題 | 158 点以上 / 197 点 | 174 点 |
禁忌肢選択数 | 3 問以下 | 0 問 |
私は、「超低空飛行」になることを覚悟していたし、だからこそ、試験終了から発表までの不合格に怯え続けていたのであるが、蓋を開けてみれば余裕の合格であったらしい。 試験直前に昨年の過去問を解いた時には 実際にギリギリの得点であったし、この高得点の結果は、全くの想定外である。 たぶん、今回の医師国家試験では、医学的に無理のない、連想ゲームではない出題が比較的多く、結果として私には強力な追い風になったのであろう。
本日は、卒業式である。 東山キャンパスで行われた全学合同の卒業式には欠席したが、これから鶴舞キャンパスで行われる学位記授与式には参加する予定である。
私の知人から聞いた話である。 その人は 60 歳過ぎの男性で、既存症である慢性高血圧症に対し投薬治療を受けていた。 数年前から人間ドックで肺の結節影を指摘されていたが、特に大きくなる様子もないので、定期的な CT により経過観察が行われていた。 先日受けた CT では、結節の形に変化がみられたことから、肺癌ではないかと疑われた。 なお、ここ数年は頻回に勤務先が変わったために、これらの CT は、毎回、異なる医療機関で撮影された。 診断のために、FDG-PET の撮影を予定された。この PET の結果をみてから、肺生検を行うかどうか決めよう、と方針が決定された。 これと並行して、血液検査として、抗抗酸菌抗体や、クリプトコッカス抗原、結核感染を調べるインターフェロンγ遊離試験などを行うことにした。
恐るべきことに、これは、実話である。 しかも、全国的によく名の知られた、東京の某有名大学病院での話である。
非専門家のために、この診断過程の何がおかしいのか説明したいのだが、あいにく、何から何までおかしくて、とても説明しきれない。 一体、何がしたいのか、何を考えているのか、まったくわからない方針なのである。 最も大きな問題は FDG-PET であって、これは、癌の診断については感度も特異度も低い。従って、「ある病変が癌かどうか」を診断する役には立たず、癌については専ら「転移がありそうかどうか」を調べる目的に使うのが常識なのである。 従って「FDG-PET の結果をみて生検するかどうかを決める」ということは、考えにくい。 ひょっとすると、何か斬新で画期的な PET の利用法があるのかもしれないが、患者は説明を受けていないのだから、インフォームドコンセントを欠いた不当な診断法であることは間違いない。
問題は、この患者を担当した医師の肩書が「教授」であった、という点である。 教授の、かかるトンチンカンな診断法に対して、意見を述べる医師が、この大学病院には存在しないものとみえる。 教授様の言葉は絶対であり、それに疑問を呈することなど、許されない文化があるのだろう。
私のみたところでは、我が北陸医大には、こうした歪んだ文化は存在しない。 この垣根の低さこそが、地方大学の強みである。
表題の書物を読んだ。 著者の津田敏秀氏は、疫学を専門とする医師で、岡山大学の教授である。 内容は、水俣病を中心として、公害事件における医学者の不適切で非科学的な主張や活動を攻撃するものである。 最後の方には、俗に医局制度などと呼ばれる、公式には存在しないことになっている制度についての批判なども述べられている。
同書の内容について、私としては、大きな不満や異論はない。 ただし二箇所だけ、残念に思った点がある。
第一は、津田氏が、要因への暴露と疾病との因果関係を、疫学によって十分に証明することができる、と主張していることである。 津田氏は、あくまで公害や食中毒に対する社会的対応について述べているので、確かに、その限りにおいては、因果関係を推定する根拠として疫学は十分に強力である。 しかし、よく指摘されるように、交絡因子の影響が十分に小さいことを、疫学だけでは、証明できない。
たとえば水俣病についていえば、疫学的に「水俣湾で獲れた魚を食べると神経系に異常を来す」ようにみえたとする。 しかし、実は後からわかったように、問題は有機水銀なのであるから、「水俣湾で獲れた魚」であっても汚染されていない魚であれば、いくら食べても水俣病にはならない。 従って、「水俣湾で獲れた魚」と「水俣病」の間には強い相関があるものの、それは因果関係ではない。 さらにいえば、「有機水銀で汚染された魚を食べると神経系に異常を来す」という関係があるように疫学的にはみえても、実は有機水銀と共に何か未知の汚染物質が排出されており、こちらが真の原因であるかもしれない。 結局、疫学は「強い相関がある」ということまでは示せるが、「因果関係がある」ということは、本質的に、証明できないのである。
ひょっとすると、「水俣湾で獲れた魚を食べなければ水俣病にならないのだから、水俣湾の魚が原因だと言っても良いだろう」と反論する人もいるかもしれない。 しかし、その論理を認めてしまうと、たとえば「魚を一切食べない人は水俣病にならないのだから、水俣病の原因は魚を食べることである」という論理も成立してしまう。 つまり、水俣湾産に限らず、魚全般が悪い、ということになってしまうのだ。 これでは問題の本質がわからなくなり、議論が迷走するだけだから、それは、やはり「原因」と呼ぶわけにはいかない。
津田氏は「交絡バイアスの成立条件が全部揃うのは結構厳しいので、実際には交絡バイアスによる系統的誤差は疫学初学者が想像するほど著しくは測定値に入ってこない」と述べているが、これこそ、津田氏自身が激しく攻撃している「データに基づかない、非科学的な決めつけ」である。 たぶん、津田氏は相関関係と因果関係を混同しているのだろう。
もちろん、食中毒や公害への対策の根拠としては、疫学的に示された相関だけで十分である。 因果関係の証明まで待っていては遅すぎる。 だから、水俣病などの件について、疫学的根拠だけで十分であるとする津田氏の主張は完全に正しいのだが、それを「因果関係」と表現してしまうことだけは、認めるわけにはいかない。
第二は、同書で攻撃対象にしている「衞藤・岡嶋論文」についてである(衞藤光明、岡嶋透「水俣病の感覚障害に関する研究 --- 剖検例から見た感覚障害の考察」『熊本医学会雑誌』一九九四、六八、五九-七一)。なお、私は原文を確認していない。 世の中にくだらない論文は無数にあるが、津田氏がこれを敢えて取り上げて叩いているのは、この論文が「末梢感覚障害のみを呈する患者は水俣病とは考えにくい」という政府等の主張の根拠として用いられているからである。
津田氏の指摘によれば、衞藤・岡嶋論文では、疫学用語が不適切に用いられている。具体的には「偽陽性率」「特異度」などの言葉が誤用されており、キチンとした議論が成立していないという。 津田氏の引用の仕方に悪意がないならば、この指摘は完全に正しく、この論文の著者は、疫学の基礎を知らず、医師としての基礎的素養を欠いていると言わざるを得ない。 ただし、特異度や偽陽性率は、検査対象とする母集団の構成によって大きく変化するものであるから、母集団を限定することなしには、その値がいくらであるかを議論することはできない。 また、母集団が変わればその値も変わるのだから、結局、その値自体には、あまり議論する価値がない。 この根本的な問題について津田氏は言及していないから、どうも、氏の攻撃も問題の中心を外してしまっているようにみえる。 たぶん、同書はあくまで一般人向けなので、本当に核心をついた攻撃は読者の理解の範疇を逸脱すると考え、敢えて避けたのであろう。
以上のように気になる点はあるものの、基本的には、同書は、実社会と医学との関係について鋭い指摘を行ったものであり、名著であるといえる。 文庫版で 300 ページ程度のものなので、医科学生諸君には、ぜひ、一読をお勧めする。
G 50 の問題である。
6 歳の男児。発熱を主訴に母親とともに来院した。
10 日前に家族で東南アジアに旅行に出かけ 5 日前に帰国した。
4 日前に発熱と咳、鼻汁、眼脂および口腔内の粘膜疹が出現した。
昨日から高熱となり皮疹も出現したため受診した。
意識は清明。体温 39.9 ℃。
両側の眼球結膜は充血し、咽頭に発赤を認める。
両側の頸部に径 1 cm のリンパ節を数個ずつ触知する。
心音と呼吸音とに異常を認めない。
腹部は平坦、軟で、肝・脾を触知しない。
血液所見: 赤血球 455 万、Hb 12.7 g/dL、Ht 35 %、
白血球 3300 (好中球 63 %、好酸球 1 %、好塩基球 0 %、単球 8 %、リンパ球 28 %)、
血小板 20 万。血液生化学所見: AST 12 IU/L、ALT 35 IU/L、LD 446 IU/L (基準 176〜353)。
CRP 0.8 mg/dL。
咽頭ぬぐい液迅速検査: アデノウイルス陰性、A 群 β溶連菌陰性。
皮膚の写真を別に示す。
家族への説明で最も適切なのはどれか。
a 「熱が下がったら登校してもよいです」
b 「発疹が消えたら登校してもよいです」
c 「咳が出なくなるまで登校してはいけません」
d 「熱が下がった後 3 日を経過するまで登校してはいけません」
e 「すべての発疹がかさぶたになるまで登校してはいけません」
写真は省略するが、要するに麻疹であろうと診断させた上で、登校禁止期間を答えさせる問題である。 私は、選択肢から出題者の意図を推定し、当てた。そのくらいの芸当は、できる。
しかし、この問題は、ダメだろう。 日本語がおかしいとか、血球算定の単位がないとか、そういう点もダメなのだが、医療としてもダメである。 私であれば、入院を勧める。 症状や皮膚所見からは麻疹だろうと思われるが、何しろ東南アジア帰りであるから、私のよく知らない感染症を拾って来た可能性もある。 そして診察所見からは、形式的には全身性炎症反応症候群の診断基準を満足している。 従って、現時点では、敗血症と考えるべきである。 直ちに入院し、血液培養の検体を採取した上で広域スペクトラムの抗菌薬による治療を開始すべきである。
もう一つ、紹介しておこう。H 30 の問題である。
62 歳の男性。顔面の発赤を主訴に来院した。
3 日前に顔面の発赤が出現した。
37.2 ℃の発熱と顔面の熱感があり、押さえると痛みを感じた。
症状が改善しないため受診した。
顔面の痒み、日光過敏、関節痛および筋肉痛は自覚していない。
化粧品や外用薬は使用していない。糖尿病で治療中である。
喫煙歴はなく、飲酒は機会飲酒。兄が関節リウマチ。
意識は清明。体温 37.5 ℃。脈拍 96 /分、整。
血圧 122/64 mmHg。呼吸数 14 /分。
眼瞼結膜と眼球結膜に異常を認めない。
両頬部に発赤と圧痛を認める。心音と呼吸音に異常を認めない。
腹部は平坦、軟で、肝・脾を触知しない。
顔面の写真を別に示す。(両頬部の発赤は、多少、鼻唇溝を越えている。)
最も適切な治療薬はどれか。
a 抗真菌薬
b 抗ウイルス薬
c 副腎皮質ステロイド
d ペニシリン系抗菌薬
e 非ステロイド性抗炎症薬 <NSAIDs>
SLE の頬部紅斑は、通常、鼻唇溝を越えない。 従って、この場合は SLE を疑う所見がないので、まぁ、感染症だろうと考えられる。 だから正解は d であるし、私も、そう書いた。
しかし、これは「最も適切な治療薬はどれか」ではなく「現時点で適切と考えられる治療薬はどれか」とすべきである。 そもそも、本当に感染症かどうかは、わからない。 実は調べてみたら抗二本鎖 DNA 抗体が陽性で・・・などという可能性も否定はできないから、抗菌薬が「最も適切な治療薬」かどうかは、わからない。 さらに感染症であったとしても、ペニシリン系が適切かどうかは、わからない。 最適な治療薬を決定するには、情報不足なのである。
試験終了後、同室の受験生の誰かが「よくわからない、もっとヒントを欲しい問題が多かった」というような発言をしていた。 この「ヒント」という言い方が、医師国家試験の現状をよく表している。 つまり、ただのクイズなのである。 医学的に、キチンと考えては、いけないのである。
この日記では、原則として特定の個人や団体に対する攻撃は行わないことにしているが、公共の福祉に関する事案に限っては、別である。
千葉県がんセンターのウェブサイトを眺めた。 1 月 6 日に書いた千葉県がんセンターにおける検体取り違え事故については続報がなく、一体、何ヶ月も、何を調査しているのかは、よくわからない。 それはそれとして、1 月 26 日に宗教上の理由による輸血拒否に対する当院の対応についてという記事が掲載されていた。
同院の指針によれば、同院は「相対的無輸血」の方針を採る、としている。 「相対的無輸血」という言葉について、この指針ではまわりくどい表現をしているが、要するに、輸血は絶対に嫌だというような患者は受け入れないから他院に行け、という意味である。 重要なのは、緊急時に、輸血以外に救命の手段がないと判断されれば、患者本人が輸血拒否している場合であっても、輸血による救命を行う、と明記している点である。
基本的なことであるが、患者には、医療を受ける義務も、救命を受ける義務もない。 当然、輸血による救命を拒む権利も、患者にはある。 それを思えば、同指針で「患者の自己決定権を尊重する」と書いている一方で輸血を強要していることは、矛盾しているように私には思われる。 何か後ろめたいものがあるから、わざわざ「自己決定権の尊重」などと当たり前の条文を先頭に置いたのだろう。
同院が、本人の意思を無視してまで輸血を強行する方針を明確化した理由は、明記されていないのでわからない。 しかし、私の想像では、これは訴訟対策であろう。 つまり、慣れない無輸血治療を試みて結果的に何か失敗して患者が死亡した場合に、遺族とモメるのが嫌なのだと思われる。 予め指針として「輸血を強行する」ということを表明した上であれば、本人の意思を無視して輸血した場合に仮に訴訟になっても、気が楽であろう。
実に優しい病院である。
第 110 回医師国家試験に合格した。 試験前には、結局、第 102 回から第 109 回までの、厚生労働省がウェブサイト上で公開している過去問題を閲覧したわけであるから、それなりに姑息的対策は講じたことになる。 そうした対策を強要されたことについての屈辱と恨みは、生涯、忘れまい。 とはいえ、医師国家試験特有の非医学的な連想ゲームには迎合しない、という姿勢は崩さなかったし、どうしても納得できない問題については、失点覚悟で出題者の意図に敢えて背く回答もした。 だから、合格する自信は全くなかったし、先のヨーロッパ旅行中も、不合格になった後のことを常に考え続けていた。 試験当日には大きな失敗をしなかったし、特に勉強不足であったとも思わない。もし、それで不合格なら、要するに厚生労働省の設ける基準と、私の考える医師としての素養との間に、大きな乖離があるということになる。その場合、来年また受けたとしても合格の望みは高くない。 試験が終わってから今日までの一ヶ月半、一日として、心休まる日はなかった。 結局は合格なのだから、日本国厚生労働省も、どうしようもないところまで腐ってはいないようである。
厚生労働省が発表した「正答」について、いくつかコメントを書こうとは思うのだが、あいにく、転居作業の関係上、今は問題が手元にないので、後日にする。
本日より、来月 12 日までの予定で欧州旅行に行く。 その間、この日記は休止し、代わりに欧州旅行記を書くことにする。
私が通院している某皮膚科医院の院長は、診断は確かであるが、医師としての見識は疑わしい人物である。 この医院の待合室には、以前から、ハイドロキノンクリームの宣伝ポスターが掲示されている。 ポスターといっても専門家向けのものであって、ある種の色素性皮膚病変に対してハイドロキノンが有効であることを示す臨床試験の結果を示したものである。 待ち時間に、このポスターを眺めているうちに、沸々と怒りが湧き起こってきた。この臨床試験は、不誠実にも程がある。
ポスターによれば、これは二重盲検左右比較試験、とのことであった。 つまり、たとえば右上肢と左上肢とに、ハイドロキノンクリームと、ただのビタミン C クリームとを塗り、どちらがどちらであるかは 医者にも患者にもわからないようにしておく。 そして、右と左でどちらが改善したかを判定してから、どちらに塗ったのがどちらであったか、答え合わせをする、という次第である。 こういう面倒な手順を踏むのは、もちろん、プラセボ効果を排除するためである。
試験の結果では、6 割の患者ではハイドロキノンを塗った方に改善がみられ、2 割では左右とも同じ程度、 残りの 2 割はビタミン C クリームを塗った方が改善したという。 そのポスターでは、これをもって「6 割の患者で改善がみられた」というような主張をしていたように思われる。
なぜ、2 割もの患者でビタミン C クリームの方が改善したのか。 本当に盲検化できていたのなら、これはプラセボ効果ではない。 ハイドロキノンが病変を増悪させたのか、判定方法に問題があったのか、それとも単なる自然治癒による偶然なのかはわからない。 しかし、ハイドロキノンが奏効したという「6 割」のうち、少なくとも 2 割は、こうしたハイドロキノンの効果以外の原因による改善と考えられる。 患者のうち、あわせて 4 割が偶然誤差による改善または増悪を示した、というのでは、誤差が大きすぎて、とても信頼できる調査とはいえない。 というより、ハイドロキノンには、その程度の、誤差とあまり区別がつかない程度の効果しかないようにもみえる。 本当はあまり効かない薬を、実際以上に奏効するかのようにみせかけるテクニックを使ったのではないか、との疑念を抱かざるを得ない。
もちろん、差し引き 4 割の患者で少しは改善した、というのであれば、副作用や経済性の問題なども充分に理解した上で使うのは、患者の自由である。 しかし、もし、医者が薬を評価する際に公正中立な立場を放棄し、よくみせかけるための技を駆使したのであれば、職業倫理に反し、 医学と医療と、そして患者に対する裏切りである。
今月上旬に行われた医学と学問を冒涜する低俗な試験のために著しく疲弊した私は、この一週間ほどタマシイを失った抜け殻のような生活をしていた。 しかし、そろそろ、私も人間社会に復帰しようと思う。
例の試験の際、初日の朝の試験室の雰囲気には驚いた。 別段、私語禁止などの規則はないのだが、室内にいる受験生のほとんど全員が参考書の類を開き、黙々と「お勉強」していたのである。 とても友人と雑談できるような雰囲気ではない。 さながら神社仏閣のような静寂であった。 そこで私は廊下に出て友人をつかまえ、敢えて周囲に聞こえるように次のようなことを述べた。 「あの教室の雰囲気は何だ。気持ち悪い。手術室より緊張しているじゃないか。 国家試験に落ちたからといって人が死ぬわけじゃあるまい。あんなので医者になって大丈夫なのか。」 もっとも、最初の一コマが終わると緊張がほぐれたのか、皆、それぞれに雑談を始めた。健全である。
だいたい、あの種の試験の後では、知人同士で答え合わせや、ちょっとした検討会が行われる。 たとえば最終日には、私の近くの席にいた二人組が、ある症例問題について語っていた。 詳細は覚えていないが、要するに敗血症が疑われるような症例であって、まず行う治療として適切なものはどれか、という趣旨の問題である。 一人は「グルココルチコイドの投与」を選んだらしい。 しかし、もう一人は、低血圧まで呈していてショックと考えられるから「大量輸液」であろう、と言っていた。 一般的には、まぁ、後者の方が普通である。 グルココルチコイドは、投与するにしても、もう少し後である。 私も、ここは輸液にしたと思う。 眼窩底骨折の件とは異なり、この場合は大量輸液を不適とする理由はないから、出題者の意図を汲むことに異存はなかったのである。
私は、もちろん、その二人組の名前も所属も何も知らなかったが、ふと「面白そうな話だわい」と思い 「いや、ショックだからこそグルココルチコイドという発想もある」と首をつっこんだ。 こういう場合、名大の同級生であれば「面倒くさい人が来た」などと言いながら、一応、話だけは聞いてくれる優しい人が多い。 しかし残念ながら、この二人からは「何だこいつ、頭おかしいんじゃないか」と言わんばかりの視線を投げかけられただけで、無視されてしまった。遺憾である。
実際、グルココルチコイドには、いわゆる抗ショック作用があると考えられているから、この場合にグルココルチコイドを投与することが不適切であるとまでは言えない。 ただし敗血症の場合、不用意に投与すると感染の増悪を来す恐れがあるため、判断が難しいのである。 こういう時、少しばかり意識の高い学生であれば「エビデンスは、どうなっているのか」などと言うかもしれぬ。 ここでいう「エビデンス」とは、統計的エビデンスのことである。 つまり、グルココルチコイドを投与した場合と投与しなかった場合で、その後の転帰は、どちらの方が良好であるか、という統計のことである。 「転帰」というのは、この場合、致死率とか、平均在院日数とか、客観的に測定できる指標を用いるのが普通である。
しかし残念ながら、そういう統計には、決定的価値はない。 理論上、感染が優位である敗血症に対してはグルココルチコイドは控えるべきであろう。 一方、感染よりも全身性急性炎症反応が優位な場合、たとえば菌血症を伴わない高 LPS 血症のような場合には、グルココルチコイドが有効であろう。 このように、個々の患者の病態に合わせて臨機応変に対応するのが医学的には正しいのであって、 「ショックに対してグルココルチコイドを投与することの是非」については「場合による」としか言えない。 統計というのは、その繊細な判断をする際の補助的情報にしか過ぎないのである。 このあたりのことは、大抵のガイドラインでは冒頭部分に記載されているのだが、読んでいない医師や学生が多い。 なお、敗血症診療ガイドラインでは、グルココルチコイドの投与について「議論がある」というような位置付けにしている。
話は変わるが、旅券の期限が切れていたので先日再発行を申請し、本日、無事に受領した。 私はまだ何も悪いことはしていないし、日本国に対する反乱も企てていないので、問題なく発行されたのである。 21 日から欧州旅行に行くが、旅先での記録は、別途、旅行記としてまとめる予定である。
国家試験期間中に、あまり速報めいたことを書きたくはないのだが、忘れないうちに、これだけは書いておこうと思う。 第 110 回医師国家試験の C セッションでは、眼窩底骨折に関する出題がなされた。 今は問題冊子が手元にないので記憶に頼って書くが、次のような内容の設問であった。
患者は十歳台であり、野球か何かのボールが眼のあたりにぶつかり、救急搬送された。 眼球結膜下に出血を認める。 CT では、眼窩底骨折 (眼窩吹き抜け骨折) および脂肪織の陥入を認めるが、眼球に異常はみられない。 この患者でみられる可能性が高い所見を選べ。
この問題に対しては、ほとんどの学生が「複視」を選んだのではないかと思う。 「眼窩底骨折といえば複視」というのが、医師国家試験における「決まりごと」だからである。 しかし、この問題文の記載が本当に正しいならば、複視は考えにくい。
眼窩底骨折で複視が生じるのは、外眼筋や周囲の軟部組織が骨折部に陥入し、その運動が妨げられるからである。 それに対し本問では、外眼筋そのものは陥入していない。 もちろん、脂肪織だけが陥入している状態であっても、その脂肪織に牽引されるなどして外眼筋に運動制限が生じ、複視を来す可能性はある。 あるいは、眼球全体の位置がズレた結果として、複視を来すことも考えられる。 しかし、いずれにせよ、そうした眼球や外眼筋の解剖学的異常を示唆する何らかの画像所見が存在するはずである。 「脂肪織は陥入しているが『眼球に異常はみられない』」という所見のみで、外眼筋の異常が指摘されていない以上、複視があると考える合理的根拠は存在しない。
これに対し「眼球結膜下出血」という情報は、重大である。 極端な例として、眼球結膜と角膜の間に多量の血液が充満していれば、何もみえない、という状況があり得る。 出血が比較的少なく血液が重力に引かれて下方に溜まれば、下半分の半盲になるであろう。 そう考えると、本症例では「複視」より「半盲」の方が合理的である。
根本的な問題としては、そもそも「画像所見から症候を推定する」という発想に無理がある。 単に「眼窩底骨折に高頻度で合併する所見を選べ」とするか、「結膜下出血」などと余計なことを書かなければ何も問題はないのに、下手にヒネるから、おかしくなるのである。
出題者の意図が何であったのかは、知らぬ。 しかし、本症例で迷わずに「複視」を選んだ者は、思慮が足りない。 この問題について、私は失点覚悟で「半盲」を選んだ。ここは、プライドの問題として、譲れなかった。
正直に言えば、「複視」にしようかと、5 分ほど迷った。 しかし、ここで「複視」を選ぶようでは、私が医師になる意義が損なわれるのではないかと恐れたのである。
友人の某君から、第 109 回医師国家試験の G 68 の問題の正答率が非常に低かったらしい、という話を聞いた。 この問題は、それなりに長いので全文を転載することは控えるが、要約すると次のようなものである。
上部消化管内視鏡検査を行ったところ、胃に複数の小さなポリープがみつかった。(内視鏡画像が提示されている。) この病変の組織像として考えられるのは、どれか。(組織像が 5 枚、提示されている。)
画像は厚生労働省が公開しているので、気になる人は閲覧されよ。
この問題の病変は、胃底腺ポリープである。 病理医志望でもない限り、胃底腺ポリープの組織像など知らぬ、という学生が大半であろうし、そもそも「胃底腺ポリープ」という名称自体、聞いたことがないかもしれない。 しかし、医師国家試験では、そういうマニアックな知識を要求しているわけではなく、 単に「ポリープとは何か」「胃の正常組織は、どのようなものか」ぐらいがわかっていれば、キチンと正解できるように作られている。
ポリープというのは、隆起性病変の総称である。 隆起しているということは、細胞が増殖しているのであろうから、その実体は、過形成か、良性腫瘍か、悪性腫瘍かに区分することができよう。 本問では、内視鏡画像で整った形のポリープが示されているのだから、基本的には、過形成か、せいぜい良性腫瘍であろうと考えられる。 もちろん、悪性腫瘍の可能性も内視鏡だけでは否定できないが、その場合、良性腫瘍の一部だけが悪性化している、という形になるだろう。
選択肢に挙げられている画像のうち、d は組織学的異型が強く、悪性腫瘍であろう。 a b c e は、何かおかしい、と感じるかもしれないが、問題は、これらがポリープかどうか、という点である。 a は細胞の形がおかしいだけで、増えている様子がない。 b は胃底腺のあたりに異型がみられるから、もしかすると腫瘍かな、と考えるのは自然なことだが、細胞が増えている様子がない。 e も粘液腺が目立つので「胃にしては変だ」と思う人がいるかもしれないが、これも細胞が増えている様子はない。 これに対し、c では何やら異型に乏しい細胞が増えている。
こうしてみると、「胃底腺ポリープ」というものを知らなくても a b d e は違う、と判断することができる。 選択肢に示された画像は a 腸上皮化生、b 慢性胃炎 (胃底腺の異型は炎症によるものであって、腫瘍ではない)、 c 胃底腺ポリープ、d 腺癌、e 軽度の炎症を呈する幽門部、であろうが、 そんなことは、わからなくても解答には支障ないのである。
私が危惧しているのは、一部の予備校講師や学生が、本問を受けて 「胃底腺ポリープの組織学的特徴は、胃底腺が嚢胞状の拡張を示しながら増殖するものであって云々」などと言い出すのではないか、ということである。 そんなマニアックな知識は、病理医以外の医師にとっては必須でも何でもない。 むしろ、ポリープという概念を正しく理解することの方が重要である。
フジテレビ系で、テレビドラマ「フラジャイル」が放映されている。一昨日は第 4 回であったはずだが、私は、まだみていない。 いささか演出過剰には思われるが、医学的な無理が少なく、また原作では説明が省かれていた部分も、一般人にもわかるように適宜説明が加えられており、たいへん、よろしい。
第 2 回は救急科で「急性エタノール中毒」と、第 3 回は消化器内科で「クローン病」と、それぞれ誤診された症例について、 病理医の岸が検査上の矛盾点を指摘して正す、という話であった。 これらをみた同級生の中には、ちょっと臨床医に対して悪意があり過ぎだろう、というような意見もあったようである。 つまり、臨床医があまりにヘッポコであり、診断能力が低すぎる、というのである。 それは、その通りであって、まともな医者ならばやらないような誤診である。 しかし残念ながら、そういう誤診が世の中には少なくないと思われる。
大学病院などの大きな病院には、他院で「手に負えない」患者が紹介されて来ることが多い。 この「手に負えない」というのは、大別すると二通りあって、「重篤であり治療が難しい」という場合と、「よくわからない、診断できない」という場合がある。 そして遺憾なことに、両者の複合型とでもいうべき、「間違った診断により不適切な治療を受けた結果として重症化した」という場合がある。
四年生の時、我々は「PBL」として、実際の症例を参考にした架空の症例について議論する実習を行った。 この PBL で扱った症例の一つに「肺小細胞癌を原因とする ADH 不適切分泌症候群 (SIADH) により生じた低ナトリウム血症のために来した意識障害」を 近医で「アルツハイマー型認知症」と誤診され、トンチンカンな投薬を受けた高齢者が重症化して紹介されてきた、というものがあった。 肺癌を認知症と誤診するなど、常識的には考えられないのだが、なぜ、そういうことが起こったのか。 基本的な診断学を無視し、印象だけで早急に診断して治療する、という方法が、世間でまかり通っているものと推定される。 他にも、詳細は書かぬが、似たような誤診と不適切な治療を受けた事例を臨床実習中にみたことが何度かある。
そういった誤診が蔓延する背景には、紹介を受ける大病院側の態度にも問題があるだろう。 我々の PBL では、学生同士で議論した後、「まとめセッション」として専門の医師と質疑応答する機会が設けられていた。 その場で、私は 「もともとアルツハイマー病と誤診され、不適切な治療を受けていたものと考えられるが、 そういう事例をみた時、我々は患者に対し、どう説明するべきでしょうか」という質問を発した。 これに対し、その実習を担当した医師は、「そういうことは、臨床的には割とあります」という逃げ方をした。
理屈からいえば、患者に対しては「認知症という診断は、誤りであったと思われる」と告げるべきであろう。 さらに言えば、誤診にも、避けられない誤診と、医師の過失による誤診とがある。 この場合、ろくな診断根拠もなしにアルツハイマー病と決めつけて投薬したのであれば、重大な過失による誤診であって、損害を賠償すべきである。
しかし、なぜか医者は、他の医者を批判することを避けたがるようである。理由は知らぬ。 「人間、誰だって失敗するのだから、お互い、かばい合おうではないか」というような、高い協調性の賜物なのだろうか。 「医師は人の命を預かる崇高な仕事である」などという言葉は、一体、どこから出てくるのだろうか。
よく知らないのだが、医師国家試験向け受験参考書などをみると、疾患やら何やらの分類を「わかりやすい」表にしてまとめてあることが多いらしい。 学生は、こうした表を一生懸命、覚えるわけである。
分類、といえば、入学して間もない三年生の頃の細菌学の講義が思い出される。 ある時、講義の終わりに、出席確認を兼ねて簡単なクイズが出された。 「細菌を分類することの意義は、何か。」というものである。 もちろん、このような問題に定まった正解などないのだから、各自、好き勝手なことを書けば良いのである。 しかし回答用紙を提出する際、ある学生の驚くべき回答が目に入った。 その学生は「わかりません。」とだけ、書いていたのである。 名大医学科の水準は、この程度か、と、非常に印象的であった。
分類というものは、天の神様だか学会だか誰かエラい先生だかが決めることであって、我々は、それを覚えるのが仕事である、などと思っているのだろう。 そういう勉強法の、一体、どこが面白いのか理解できないが、たぶん、彼らは暗記が大好きなのだと思われる。
この日記を、どういう人が読んでいるのかは知らないが、たぶん、一般大衆ではなく、医学関係者や学生が多いのではないかと思う。 そう考えると、私の文章の書き方も、少し、まずいかもしれない。 たとえば 1 月 26 日の記事の書き出しは「原発性胆汁性肝硬変と呼ばれる疾患がある。」というものであったし、類似の表現で始めた記事は少なくない。 私は、これらの表現を、小説などで用いられるような、ある種の文学的表現のつもりで用いている。 しかし昨今の医学科生の雰囲気をふまえると、あたかも「『原発性胆汁性肝硬変』という疾患が、天の神様が決めた真理として、存在する」などと 私が思っているかのように誤解されるかもしれぬ。
もちろん、私は「原発性胆汁性肝硬変」という疾病が、世の中の真理として存在するなどと思ってはいないし、その名称が適切であるとも思っていない。 現在の臨床医学では一つの疾病単位としてまとめられているから、便宜上、その名称を利用しているに過ぎない。 名称だとか分類だとかいうのは、その時点での我々の認識を反映して、便利だから使うに過ぎないのであって、断じて、絶対的な存在ではない。
そういう観点からすると、たとえば「分類が変わった」というような表現は、おかしい。 分類が変わったのではなく、「新しい分類法が提案された」のである。 また「○○を分類せよ」というような問いは、不適切ではないのだが、ほとんどどんな解答であっても正解になる。
このようなことは、たぶん、医学科以外の人にとっては当たり前すぎて、かえって、私が何を言っているのか伝わらないかもしれぬ。 しかし医学科では、「分類」というものが、まるで何かの聖典に書かれているかのように、絶対的な存在としてみなされることが稀ではないのである。
昨日の記事に対する補足である。 近年では、こうした終末期のあり方について多少は進展があり、人工呼吸器の装着については慎重になる例が増えている。 というのも、一度人工呼吸を開始したならば、これを中止することは難しい。 敢えて中止すれば、殺人罪に問われる恐れがある。 それならば、回復が期待できない場合、はじめから人工呼吸を行わない方が良い、というわけである。
言うまでもなく、この論理は、おかしい。 人工呼吸をやめることが殺人にあたるならば、人工呼吸をはじめから行わないことも、未必の故意による殺人である。 これは、ただ単に、何もしないことで患者を死なせるより、何かした結果として患者を死なせた方が、「なんとなく」悪いような気がする、というだけのことである。 医師の側としては、遺族とのトラブルを回避し、民事や刑事での訴訟を回避する目的で、やむなく自衛措置を講じているに過ぎない。
そもそも、殺人が罪とされるのは、それによって人権が侵害され、社会の秩序が乱され、安寧が脅かされるからに過ぎない。 従って、終末期に、人の手によって故意に生命を終わらせることについては、本来、殺人罪に問う必要がない。 もちろん、キリスト教やイスラム教などの観点からいえば、生命の終わりを決めるのは神のなさることであって、人の恣意によって行われてはならない。 しかし信教の自由が認められている日本社会において、尊厳死を選ぶ権利が法的に認められていない現状は、それこそが人権侵害である。
なお、現状では尊厳死を認める法的根拠はないものの、現実には、少なからず行われていると言われている。 「塩化カリウムを投与して死なせるのは殺人だが、敢えて治療しないことで死なせるのは合法である。」などという、意味のわからない論理が、現場ではまかり通っているらしい。 過去の医師国家試験にも、そうした現状を認めるかのような出題がなされたことがある。 これに対し、具体的にどこであったか忘れたが、道理を重んじる一部の国では致死的な薬物を投与することによる積極的尊厳死が認められている。
「筋を通す」ということを軽んじる日本社会の風潮が、ここにも表れている。 よく言えば「中庸」ということになるのだろうが、むしろ「事なかれ主義」という言葉の方が、ふさわしかろう。
The New England Journal of Medicine誌に連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital は、 米国のハーバード大学附属病院である The Massachusetts General Hospital (MGH) における症例検討会の抄録である。 医学的読み物としても面白いので、一部の学生や研修医らに人気があり、世界的に広く読まれている。
この Case Records の中で、特に印象深かったのがCase 1-2012である。 以下、いわゆるネタバレなので、まず自分で読んでみたい人は注意されたい。
この 82 歳男性の患者の主訴は、難治性の皮膚病変であった。 診断に至る詳しい過程は省略するが、結局、骨髄異形成症候群に伴う壊疽性膿皮症と診断された。 骨髄異形成症候群というのは、造血系の細胞に異常が生じ、正常な血球が産生されなくなる症候群である。 一応、現在の血液内科学では、白血病ではなく「前白血病」のようなものであるとされている。 ただし、これが白血病と本質的に異なる疾患であるようには、私には思われない。
さて、Case Records の主眼は診断過程に置かれているのだが、むしろ私が感心したのは、治療の部分である。 本症例では、壊疽性膿皮症に対してグルココルチコイドや免疫抑制薬などを用いて症状を抑える一方、 骨髄異形成症候群に対しては積極的な治療を行わなかった。
骨髄異形成症候群は腫瘍性疾患であるから、これを積極的に治療しようとするならば抗癌剤などを用いたり、造血幹細胞移植を行ったりすることになる。 逆に、もし、抗癌剤ではなくグルココルチコイドや免疫抑制を投与したならば、まず間違いなく増悪し、致死的になるであろう。 従って、この Case Records を学生の勉強会で読んだ時、私は 「マサチューセッツの連中は何をやっているのか。患者を殺しにいっているのか。」と発言した。
しかし、その 3 分後、私は態度を 180 度、変えた。「さすがマサチューセッツだ。」などと言い始めたのである。 要するに、本症例における骨髄異形成症候群は、極めて予後不良であると推定され、患者の年齢等を考慮すると、根治不可能であると判断された。 そこで患者や妻とよく話し合った上で、はじめから根治を諦め、緩和医療に徹するという方針がとられた。 死を受容した上であれば、より大きな問題なのは骨髄異形成症候群ではなく、むしろ皮膚病変の方である。 そのため、骨髄異形成症候群を増悪させる恐れがあっても、壊疽性膿皮症の症状を抑えることを優先した治療が行われたのである。
このように初めから根治を放棄して緩和医療に徹する、というのは、場合によっては最適な医療であるが、少なからぬ医師が「なんとなく」抵抗を感じるであろう。 特に今回の症例でいえば、医療行為によって死を早めている可能性が高いのだから、 最大限の悪意をもって考えれば、日本の法律でいう嘱託殺人にあたる可能性すらないわけではない。 しかし、これは、日本における終末期を巡る法整備の遅れの問題であって、医学の観点からいえば、そうした治療が不適切であると考える余地はない。
日本の場合、救命が絶望的な状況であっても、とりあえず「最善を尽くす」と称して救命を試み、 それに失敗してから緩和ケアに移る、という医療が、遺憾ながら、少なからず行われているのではないか。 特に、明らかに生存不可能な新生児や、回復不可能な高齢者に対して、治療目的を曖昧にしたままで、 とりあえず人工呼吸や大量輸血などで長期にわたり生命を維持する、という行為は稀ではあるまい。 もちろん、それを行っている当事者の医師は疑問を持っているのだが、法的には尊厳死が認められていない現状では、他にどうすることもできず、困っているのである。
誰だって、他人の生命を終わらせるという重大な責任は負いたくないし、そのような決断をしたくはない。 しかし、そうして問題を先送りしたところで、誰も幸せにはならない。 このあたりの問題は、当事者の判断に委ねるのではなく、適切な法整備を含めた社会的枠組を早急に構築する必要がある。
本日は、北陸医大 (仮) 大学院博士課程の入学試験であった。 私は、同大学の某教授の勧めにより、初期臨床研修と大学院生を並行する予定であるので、これを受験した。
初期臨床研修医には研修への専念義務が課されており、研修中のアルバイト等は禁止されている。 しかし大学院に通うことは、この専念義務に違反するとはみなさない、ということになっている。 従って、研修病院と大学が許すのであれば、初期研修と並行して大学院に通うことは可能である。 実際、福井大学などのように、初期研修二年目から大学院に通うコースを設けている大学病院は稀ではない。 また、たとえば岡山大学の場合、一年目から大学院と並行するコースを売りにしている。 我が北陸医大の場合は、特にこうしたコースを設定しているわけではないが、大学院との並行を禁止もしていない。 念のため問い合わせたところでも「研修に支障がない範囲であれば構わない」とのことであった。
大学院入試科目は、英語の筆記試験と、受入先教授による口頭試問であった。 英語といっても論文の簡単な読み書きだけであるし、口頭試問にいたっては、とうの昔に教授とは話がついているのだから、何を今さら、と思わないでもない。 ほとんど形だけの試験である。
英語の試験の題材となったのは、昨年 1 月にScience 誌に掲載された論文である。 名古屋に戻ってから気がついたのだが、これは、「多くの癌が『不運』によって発生する」というような文言で、 一般向けの新聞等でも取り挙げられた論文であった。 当時、私は「馬鹿らしい」と思って気にも止めなかったし、読んでもいなかった。「馬鹿らしい」と考えた理由については、長くなるので、ここでは書かないことにする。
どうやら、この論文は発表後に専門家からの猛攻撃を受けたらしい。 そういう論文を入学試験に出題するところに北陸医大の姿勢が表れており、たいへん、よろしい。 試験問題の一つに「この論文を論評せよ」というものがあったので、私は存分に批判を展開した。楽しい試験であった。
ところで、北陸医大を訪ねたついでに、図書館に立ち寄って以前に書いた蔵書の件を問い合わせてみた。 すると、本当に `Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' は所蔵していないという。 予算が厳しく、今年度は購入できないため、来年度に購入する予定であるらしい。 図書館のスタッフは「お恥ずかしい」と苦笑していた。
これは、由々しきことである。 北陸医大の学生は、小児科学について疑問を持った時、四年も昔に出版された前版の `Nelson' を開かねばならないのか。 国家の未来を担う人材の育成を使命とする国立大学において、かかる基本的な教科書を購入する予算すら図書館に与えられていないとは、どういうことなのか。 この国において、教育というものが軽んじられていることの証左である。 もちろん、これは北陸医大が責められるべきものではなく、そのような予算運用を大学に強いている文部科学省の責任である。
とはいえ、北陸医大に全く問題がないわけではない。 「これは我が大学の恥である。予算がないというのであれば、学生諸君のために、私が『Nelson』を図書館に寄贈しよう。」ぐらいのことを言う医師が、一人もいないのだろうか。 一体、何のために、医師は高給を受け取っているのだろうか。
第 103 回医師国家試験 I 2 の問題は、ものすごくマニアックであった。
胎児水腫の原因とならないのはどれか。
a 伝染性紅斑
b Potter 症候群
c 双胎間輸血症候群
d 血液型不適合妊娠
e 胎児頸部リンパ嚢胞
胎児水腫というのは、胎児の全身性浮腫のことである。 原因は多様であるが、南山堂『ウィリアムス産科学 原著第 24 版 日本語版』によれば、臨床的には「抗 D 抗体による溶血によるもの」と「それ以外」に大別するらしい。 抗 D 抗体によるもの、というのは、胎児の血液型が Rh (+)、つまり D 抗原陽性であり、母親が抗 D 抗体を持っている場合に、 その IgG 抗体が胎盤を通過して胎児に溶血性貧血を引き起こす、というものである。 胎児は慢性的に高度の貧血を来すので、代償性の体液貯留を引き起こし、全身性浮腫を来すのである。 これを、産科学では Rh 式血液型不適合妊娠などと呼ぶ。
そもそも母親の血中に抗 D 抗体が生じるのは、血液型が Rh (-) である女性が、Rh (+) の血液を輸血されたとか、 Rh (+) の胎児を妊娠した際に胎児血液に曝露された、とかいう状況に限られる。 そこで、Rh (-) の女性が Rh (+) の胎児を妊娠した場合には、母親に対して、胎盤を通過しない形の抗 D 抗体を投与する。 これは、母親のリンパ球が D 抗原と接触して抗 D 抗体を産生することを防ぐためである。
伝染性紅斑や双胎間輸血症候群について述べることは控えるが、これらも胎児水腫の原因としてよく知られているから、冒頭の問題について迷うとすれば b と e であろう。 正解は b の Potter 症候群なのだが、これを迷わずに選んだ学生は、非常によく勉強しているか、さもなくば浅慮である。
「Potter 症候群」という語の定義は、教科書によって少しずつ異なるので困るのだが、基本的には「両側腎無形成に続発する羊水過少等に起因する症候群」と考えてよかろう。 両側腎無形成なのだから、エリスロポエチン産生障害により高度貧血を来すであろう、と想像するのは、自然なことである。 結果として胎児水腫を来しても、何の不思議もない。 ところが教科書をみると、Potter 症候群で高度貧血を来す、などという記述は、みあたらない。 一応、「ウィリアムス」では胎児水腫の原因として腎奇形が挙げられているが、腎無形成には言及がないのである。
調べてみると、どうやら、胎児でも赤血球造血はエリスロポエチン依存的であり、しかもエリスロポエチンは胎盤を通過しない。 従って胎児自身がエリスロポエチンを産生しているはずである。 それなのに、腎臓がなくてもキチンと赤血球を作れる、というのである。
H. Fahnenstich らの報告では、Potter 症候群を患って出生した 6 人の児について臍帯血中のエリスロポエチン活性を調べると、普通よりも、だいぶ高値であった。 もちろん、貧血はみられなかった。 (European Journal of Pediatrics 155, 185-188 (1996).) また、P. Haga が報告したマウスを使った実験でも、両側腎無形成であっても、造血や血中エリスロポエチンの活性に異常はみられなかった。 (Journal of Embryoology and Experimental Morphology 61, 165-173 (1981).) この Haga によれば、羊や山羊を用いた実験では、胎仔から腎臓を切除しても血中エリスロポエチン活性に著明な変化はみられなかった、という報告があるらしい。 (この報告は名大図書館に所蔵されていないので、取り寄せを依頼した。追加情報があれば、後日、別途記載する。)
これらの情報を総合的に解釈するならば、直接的な証拠はないものの、胎児では腎臓以外のどこかでエリスロポエチンが産生されている、と考えるのが自然である。 一体、どういうことなのだろうか。
名前は聞いたことがあるが、イマイチ実体のよくわからない疾病に「Reye 症候群」というものがある。 教科書的には、ウイルス感染症を患った小児にアスピリンを投与すると、稀に重篤な肝傷害を来し、これを Reye 症候群と呼ぶ、などとしていることが多いと思われる。 致死率は高く、30 % 以上、などと報告されている。 小児に対してアスピリンの投与を避ける理由としては、副作用や急性中毒のリスクなどもあるが、この症候群を恐れている、ということが大きい。
薬理学を学んだ学生であれば、アスピリンが肝傷害を来す、という説明には首をかしげるであろう。 実際、丸善『ハーバード大学講義テキスト 臨床薬理学 原書 3 版』では、次のように慎重な表現に留められている。
発熱性ウイルス感染が進行中にアスピリン治療を施すと, 肝臓障害の潜在的な原因になると関係づけられてきた. アスピリンとライ症候群の因果関係は厳密には確立されていないが, ライ症候群のおそれを理由として, 一般的にはアスピリンは子どもに投与されない.
この症候群は、オーストラリアの R. D. K. Reye が 1963 年に報告したものである。(The Lancet 2, 749-752 (1963).) この時点ではアスピリンには言及されておらず、 小児において不明な原因により肝臓や腎臓に脂肪変性を来し、多彩な中枢神経症状を呈する致死的な症候群、として報告された。 当初、臨床的には脳炎や敗血症が疑われたが、解剖の結果では、それらを示唆する所見が得られなかったようである。 組織学的には、肝臓では広汎で一様な脂肪変性がみられ、また腎臓では近位尿細管の脂肪変性が著明である一方、 遠位尿細管には著明な異常がなく、血管や糸球体は正常である、と述べられている。 未知の病原体への感染の可能性も考えられたが、決定的な証拠はみつからなかった。 Reye らは、1951 年から 1962 年の間に経験した同様の 21 名の患者について、よくわからない症候群として、報告したのである。
この、いわゆる Reye 症候群とアスピリンの関係を疑う報告は、1980 年代前半に、症例対照研究として行われた。 しかし、これらの報告では、調査方法の問題から統計の信頼性が低いと考えられたようである。 そこで米国で 1985 年から 1986 年にかけて、これを補うために 27 の症例および 140 の対照例を用いた症例対照研究が行われた。 (The Journal of the American Medical Association 257, 1905-1911 (1987).) この調査では、Reye 症候群の患者ではアスピリンを投与されていた者の割合が高く、 アセトアミノフェンを投与されていた者の割合は低い、という結果が得られた。 このことから、Reye 症候群を避けるためには、アスピリンではなくアセトアミノフェンを用いた方が良いのではないか、と推定されたのである。
もちろん、症例対照研究というのは、様々なバイアスや交絡因子の入る信頼性の低い調査方法に過ぎない。 アスピリンと肝障害を結びつける理論的説明を欠くことも問題であった。 その後も疫学的な報告は度々行われたが、あくまで「アスピリンの関与が疑わしい」という範疇を出ず、それが原因かどうかは、よくわからなかった。
1990 年頃に、アスピリンの活性型であるサリチル酸がミトコンドリアにおけるβ酸化を阻害するらしい、ということが動物実験で報告された。 そして英国の J. F. T. Glasgow らは、健常者と Rye 症候群患者から得た繊維芽細胞を使った実験により、 Reye 症候群患者ではサリチル酸によるβ酸化阻害効果が亢進しているようだ、と述べた。 (Biochimica et Biophysica Acta 1454, 115-125 (1999).) サリチル酸が存在しない場合には、健常者でも Reye 症候群患者でも、β酸化の活性に差異はみられなかった。 一方、健常人でも高濃度のサリチル酸に曝されれば酵素活性は低下するが、 Reye 症候群患者では、低濃度のサリチル酸に曝されただけでも酵素活性の著明な低下がみられたのである。 たぶん、サリチル酸と標的酵素との親和性が亢進しているのだろう。
いまのところ、このβ酸化阻害が Reye 症候群の原因であるとする直接的な証拠は存在しない。 はたして、β酸化の阻害だけで、組織学的にみられるような著明な脂肪変性を生じるだろうか、という疑問もある。 しかし患者の多くには、よく調べるとβ酸化関連酵素の先天的異常がみつかるらしい。 このことから考えると、たぶん、ウイルス感染した患者の一部では、何らかの理由で脂肪の合成と分解が共に亢進しているのだろう。 これにβ酸化の阻害が加わった場合、急性に脂肪変性を生じ、時に重篤な障害を来すものと考えられる。
記憶がいささか曖昧であるが、たぶん、内科学の単位認定試験の時であったと思う。 「ループス腎炎でみられる検査所見として正しいものを選べ」というような設問に対し、選択肢に「C3 低値」というものがあった。
ループス腎炎というのは、全身性紅斑性狼瘡 (Systemic Lupus Erythematosus; SLE) による腎傷害と考えられている。 詳しい機序はよくわからないのだが、免疫複合体が糸球体に沈着し、糸球体腎炎を来すものと考えられている。 免疫複合体というのは、抗原と抗体が結合したものであって、基本的には補体を活性化する作用がある。 従って、通俗的な説明としては、補体は消費されて減少するから、血液検査において補体の一つである C3 の量を測定すると低値になる、とされる。
以上のことからわかるように、出題者の意図としては、「C3 低値」という選択肢は正解なのであろう。そのくらいのことは、いくら私でも、わかる。 しかし私には、この「C3 低値」という表現は非常に曖昧で、不正確であるように感じられ、気に入らなかった。 そこで挙手して、「この C3 低値というのは、血液検査でしょうか」という質問を行ったのである。
何しろ選択肢には「C3 低値」としか書かれていないのだから、尿中の C3 濃度を測定したのかもしれないし、 ひょっとすると腎生検した検体中の C3 を定量したのかもしれない。 私は、そんな検査を臨床的に行うなどとは聞いたことがなかったが、理屈からいえば、ループス腎炎では組織中の C3 濃度は高値になるであろう。 また、東京化学同人『生化学辞典 第 4 版』によれば、C3 の分子量はだいたい 18 万であるので、通常、尿中には排泄されない。 もし尿中で C3 が検出されたならば、ネフローゼ症候群を来していると考える有力な証拠になる。 こういう「変な検査」には、もちろん保険が効かないが、こういう検査を禁ずる規則はないので、インフォームドコンセントさえあれば、実施しても構わない。 医学的には、不適切とまではいえない検査なのである。 天下の名古屋大学であれば、そういう珍妙な検査を試験に出題することも、あり得ない話ではない。
以上のような深遠な思慮に基づいた私の質問であったが、その意図は伝わらなかったらしく、監督者からは、協議の末「書かれている通りに読みたまえ」とのみ回答された。 遺憾である。
救急医学を修めた学生であれば、この標題から「あの話だな」と、ピンときたであろう。
低ナトリウム血症に対する対症療法について考える。 低ナトリウム血症というのは、血清ナトリウム濃度が異常に低い、という状態を意味する語であって、疾患名ではない。 医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』によれば、血清ナトリウム濃度の基準値は 135-149 mEq/L であるから、 だいたい血清ナトリウム濃度が 135 mEq/L 未満であるならば、低ナトリウム血症の疑いがある。 ただし、「基準値」というのは健常人の 95 % 程度が入る範囲、という程度の意味でしかないから、 個人差として、もともと血清ナトリウム濃度が低い人もいることを忘れてはならない。 また逆に、血清ナトリウム濃度が基準範囲内であるが低ナトリウム血症である、ということもあり得る。 従って、低ナトリウム血症を正確に診断することは、一般には容易ではない。
低ナトリウム血症の患者においては、神経や筋の興奮性が損なわれ、様々な神経系の異常を来すことがある。 従って、治療としては、低ナトリウム血症の原因を探して除去することはもちろんであるが、対症療法としてナトリウムを補給する、ということも行われる。 これを臨床医学では「血清ナトリウム濃度を補正する」などと表現している。 補正の方法としては、急がないのであれば経口的に塩化ナトリウムを摂取しても良いのだが、救急医療では迅速性と確実性を重視し、食塩水を静脈内投与することが多い。 なお、正確にいえば「食塩」には塩化マグネシウムなどが含まれていることもあるのだが、医療では塩化ナトリウムの別名として食塩という語が用いられる。 問題は、その食塩水の濃度をどうするか、ということである。
いわゆる生理食塩水というのは、質量濃度 0.9 % の塩化ナトリウム水溶液のことであって、血液と比較して概ね等張であるから、無理なく静脈内投与することができる。 これに対し高張食塩水は血管内皮細胞などを刺激するようであり、疼痛や血管壁の炎症などを惹起することがある。 そのため、3 % を超えるような高張食塩水を投与する場合には、鎖骨下静脈などの太い静脈、いわゆる中心静脈から投与するのが安全であるという。 換言すれば、3 % 食塩水というのは、細い末梢静脈から比較的安全に投与できる限界の濃度である。
さて、低ナトリウム血症の補正を急速に行うべきか、緩徐に行うべきか、という話は以前に書いた。 しかし現実の救急医療では、急性に進行した低ナトリウム血症であっても、痙攣などの重大な神経症状を来していない場合には生理食塩水を用いることが多いという。 本日の話題は、その理論的根拠は何か、ということである。
たとえば血清ナトリウム濃度が 115 mEq/L などと著明な低値であっても、重大な神経症状がなければ高張食塩水ではなく生理食塩水を用いて緩徐に補正する、 という発想には一定の合理性はある。 なぜならば、高度の低ナトリウム血症なのに神経症状がないということは、オスモライトの移動による代償が進んでいると考えられるからである。 しかし、もし診察時点で重篤な神経症状がなかったとしても、たとえば前日の血液検査結果と比較して急激に血清ナトリウム濃度が低下しているならば、どうか。 現に脳浮腫が進行している最中であり、これから重症化すると考えられ、また橋中心性髄鞘崩壊などの浸透圧性脱髄症候群を来す恐れはないから、急速に補正するべきであろう。
難しいのは、128 mEq/L などの、明かに低値ではあるが高度ではなく、病歴からは急性に発症した低ナトリウム血症と考えられ、しかし神経症状は比較的軽度な場合である。 理屈としては、急性発症であるならば脳浮腫が進行中であると考えられるので、神経障害が重篤化する前に高張食塩水による急速な補正を行うのが、よろしかろう。 しかし現実には、生理食塩水を用いて緩徐に補正することが多いようである。 この緩徐な補正の根拠としては、次のようなものが考えられる。
1) 128 mEq/L 程度の血清ナトリウム濃度があるならば、補正が多少遅くとも、生命にかかわるような重篤な神経症状は生じないと期待できる; 2) 実際に検査して確認したわけではないので、実は緩徐に発症した低ナトリウム血症かもしれず、その場合は急速な補正は危険である; 3) 急速な補正に対し医師が心理的抵抗を抱いている。
救急医療の専門家は別にして、学生や初期臨床研修医などの場合、3) が一番大きいであろう。 浸透圧性脱髄症候群を来す恐れがあるかどうかを、自信を持って判断することができないからである。 しかし医学的に本当に合理的な根拠は 2) だけなのだから、急性に生じたという確信がある場合には、高張食塩水を用いるのが正しいと考えられる。
「急速な補正は橋中心性脱髄を来すかもしれない」と、「かもしれない」ばかりを強調して過度に慎重な方法を選んでは、なるまい。 「本当にその恐れはあるのか」という点を追及することが重要である。 このあたりの際どい判断をガイドラインに丸投げすることは、医師にとっては簡単で保身の役には立つが、結果として患者の利益は損なう。
原発性胆汁性肝硬変と呼ばれる疾患がある。 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、これは 自己免疫的な機序による炎症のために、肝内胆管が破壊される疾患である。ただし、太い肝内胆管は、比較的、保存されるという。 なお、肝硬変は必発ではないため、あまり適切な病名ではない。 詳細な病因は不明であるが、抗ミトコンドリア抗体の出現は感度が 90-95 % であり、特異度も高いという。 無治療であれば、やがて肝不全や門脈圧亢進を来すが、ウルソデオキシコール酸は、この疾患の進行を抑制する効果があるという。 ただし、機序は、よくわからない。
さて、肝内胆管が炎症によって破壊される、というのであれば、肝内胆管癌を来す頻度が高かろう、と想像するのは、自然なことである。 しかし不思議なことに、この疾患は胆管癌を合併することが稀であるらしい。 一応、症例報告 (日本消化器外科学会雑誌 29, 1668-1672 (1996).) は存在する。 しかし、これは肝外胆管癌を併発したのであって、理屈から予想れる肝内胆管癌ではない。 また、この報告によれば、原発性胆汁性肝硬変の患者は他の悪性腫瘍を合併する頻度は多少高い一方で、胆管癌は稀なのだという。
一体、どう理解すれば良いのだろうか。
一つの可能性としては、炎症が激しいために、細胞が悪性化する前に繊維化してしまう、ということも考えられる。 いわば、肝内胆管は、はじめから抗癌化学療法を受けているような状態にある、とみるわけである。 とはいえ、この考えは、あまりに強引であろう。
原発性胆汁性肝硬変は、たぶん、胆汁鬱滞によって胆管が破壊される、というものではない。 そのような単純な話であるならば、抗ミトコンドリア抗体の存在を説明できないのである。 そもそも「抗ミトコンドリア抗体」という呼び方は、単に臨床検査上の所見によるものであって、その病理的な意義は、はっきりしない。 膠原病全般にいえることであるが、我々は、これらの疾患の本質が何であるのか、何も知らないのである。 そのために、グルココルチコイドや免疫抑制剤などを用いた対症療法に頼らざるを得ないのが現状である。
常染色体優性多嚢胞腎と呼ばれる疾患がある。 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、 これは両側腎に拡張する嚢胞が多数形成されることで腎実質を破壊し、腎不全に至らしめる遺伝性疾患である。 だいたい、人口の 0.1-0.3 % に生じるらしく、腎不全の原因として稀ではない疾患である。 原因遺伝子としては PKD1 と PKD2 が知られているが、これらに限らないようである。 少なくともこれらの遺伝子は、一方だけでも存在すれば機能としては充分であるらしく、その意味では癌抑制遺伝子と似ている。 これが常染色体優性遺伝するのも、von Hippel Lindau 病などが優性遺伝するのと同様の理屈であろう。 詳細な機序はよくわからないのだが、これらの遺伝子異常は尿細管の繊毛上皮の機能異常を来し、 これが上皮細胞の異常な増殖や液体の分泌などを来し、結果として嚢胞が多数、形成されるものと考えられている。
少なくとも細胞レベルでは、この異常な細胞増殖や分泌は、バソプレシン受容体からのシグナルによって亢進するらしい。 従って、バソプレシン受容体阻害薬を用いれば、腎実質の破壊を抑制することができるだろう、と考えるのは、合理的ではある。 そこでバソプレシン受容体拮抗薬であるトルバプタンは、常染色体優性遺伝多嚢胞腎による腎機能低下を予防する薬として用いられる。
あたりまえのことであるが、この治療法は、かなり無茶をしている。 バソプレシン受容体からのシグナルを抑制するということは、つまり意図的に、いわゆる腎性尿崩症を引き起こすということであって、かなりの副作用を生じるであろう。 従って、薬理学的な表現をすれば、治療域が極めて狭いか、あるいは、そもそも治療域が存在しない可能性すらある。
この治療法については、ランダム化二重盲検で効果が確認された、と言われている。 その報告は The New England Journal of Medicine 367, 2407-2418 (2012). であり、 この試験のプロトコルは American Journal of Kidney Diseases 57, 692-699 (2011). である。
私が読んだ限りでは、この試験は、二重盲検ではない。 私の読み落としでなければ、確かにトルバプタンとプラセボ群とを比較してはいるものの、プラセボとして具体的に何を投与したのかは、明記されていない。 たぶん、ラクトースの錠剤か何かを使ったのであろう。 そうであれば、トルバプタンは、常染色体優性多嚢胞腎に効くかどうかはともかく、利尿薬としては効くのだから、 投与されたものがトルバプタンなのかプラセボなのかは、患者や診察した医師にとっては明瞭であろう。 つまり、実際には盲検化されていないと考えられる。
もちろん、これは試験の設計が悪いわけではない。 この場合、盲検化することが、そもそも不可能なのである。 しかし、それならば、盲検ではないことを踏まえ、プラセボ効果が含まれていることを前提に、慎重に効果を判断する必要がある。 「プラセボと比較しているから」というだけの理由で「二重盲検だ」と短絡的に考えてはならない。
実際のところ、この試験の結果の解釈は、難しい。 確かに、腎容積の変化や血清クレアチニン濃度について、トルバプタン投与群の方が比較的良好な経過であったようにみえるが、 この差異は、患者毎の個人差、あるいは測定上のばらつきに比べて、それほど明瞭なものではない。
統計データの解析には Wald test を使ったとのことである。 私は、この手法について詳しくはないのだが、結局のところ、統計学的には「トルバプタン群とプラセボ群との間に差異が生じていた」ということを 示しているに過ぎないようにみえる。 上述のようにプラセボ効果が介在していることを考えれば、トルバプタン投与によって予後が改善したと考える統計学的根拠は不充分であろう。
もちろん、私は、トルバプタンの使用を批判しているわけではない。 理屈としては効きそうなのだから、むしろ、副作用等が許容範囲内であるなら使うべきである。 ただし、その効果について統計学的な確認は不充分であることを患者に正しく伝える必要があると思われる。
過日、三日間かけて、前回、つまり第 109 回の医師国家試験問題を解いた。 自己採点したところ、必修問題 200 点中 169 点 (合格基準 160 点以上)、一般問題 200 点中 136 点 (同 129 点以上)、臨床実地問題 600 点中 423 点 (同 405 点以上) と、 ギリギリで合格基準を超えていた。 当日、少し睡眠不足であったり、いささかの体調不良でもあれば不合格になる水準である。
ただ単に知らないから失点する、というパターンも 1 割ぐらいはあるのだが、出題内容がおかしいとしか思えない「失点」も少なくない。 出題者が問題をヒネろうとした結果、医学的妥当性が失われているのだろう。過去に何度も繰り返しているが、あの試験は、単なる連想ゲームである。 基礎も総論もいらない、ただ各論知識を積み重ねることこそが、医師に要求される勉強法なのである。 だいたい、CT や MRI の画像を、スライス一枚だけ抜き出して判読させている時点で、既に医学ではない。
第 110 回医師国家試験に私が合格するかどうかは、知らぬ。不合格ということも充分に考えられる。 私は厚生労働省に対する最大限の譲歩として、同省がインターネット上で公表している第 102 回以降の医師国家試験の過去問題と解答 (解説はない) を閲覧したが、 それ以外に国家試験特化対策を講じなかった。 それを理由に私を医師不適格と判定するならば、そうすれば良い。 仮に私が不合格になったところで、困るのは私ではない。 人材の多様性が損なわれ、周囲に合わせて保身に走る医師ばかりが量産されることになり、一般大衆が迷惑するだけのことである。 それは日本の国家的損失であり、人類の利益の逸失であるが、その責任は日本国厚生労働省にある。
こういうことを書くと「頭おかしい」「誇大妄想」などと言われるかもしれないが、むしろ、おかしいのは諸君の方である。 20 代半ばの大学生であれば、自分は天才だ、世界一の名医になる、ぐらいのことを思っていて当たり前である。 それなのに、周囲に合わせれば良い、普通で良い、などと考えるのは、病的な自己の矮小化である。
皮膚科学において、PUVA 療法と呼ばれる治療法がある。 PUVA というのは、Psoralen-UltraViolet A の略である。 清水宏『あたらしい皮膚科学 第 2 版』によれば、これは psoralen という薬物を内服ないし外用後、長波紫外線 (Ultraviolet A) を照射するものである。 紫外線により psoralen が活性化し、細胞毒性を発揮するらしい。 なお、psoralen は、日本語では「ソラレン」と表記されるのが普通である。 「あたらしい皮膚科学」では詳細な機序について言及がないが、尋常性乾癬や尋常性白斑、菌状息肉症、掌蹠膿疱症に対して用いるとしている。 なお丸善出版『ハーバード大学講義テキスト 臨床薬理学 原書 3 版』では、この治療法には簡潔に触れているが、ソラレンの作用機序には言及していない。
臨床的には、ソラレン製剤として広く用いられているのは大正製薬の「オクソラレン」らしいが、添付文書上は「尋常性白斑治療薬」という扱いであり、 尋常性乾癬などは off-label 使用ということになるらしい。 添付文書では、作用機序はよくわからないが、メラノサイトが活性化してメラニン沈着を引き起こすようだ、としている。
基本的には、ソラレンは紫外線の細胞傷害作用を増強させるのだろうと考えられているらしい。 要するに DNA 損傷を引き起こすものであって、その意味ではシクロホスファミドやシスプラチンなどの薬剤と似たようなものである。 PUVA 療法の場合、紫外線を照射した部位でのみ毒性が発揮されるので、上述の皮膚疾患のような、限局性の病変に対して用いられるのである。
乾癬に対して PUVA 療法が用いられるらしい、という話を読んだ時、私は、首をかしげた。何をしたいのか、よくわからなかったのである。 乾癬というのは、原因はよくわからないのだが、たぶん自己免疫が関係する機序により、表皮のターンオーバーが異常に亢進する疾患ないし症候群である。 ターンオーバーというのは、細胞の入れ換わり、という意味であって、つまり乾癬では表皮細胞が異常に盛んに分裂している、という意味である。 ふつうに考えると、PUVA 療法による細胞傷害は、特に免疫系の細胞に選択的というわけではないだろう。 むしろ乾癬の場合、ターンオーバーの早さを考えると、表皮細胞の方が選択的に傷害を受けそうに思われる。 どうして、それで乾癬が改善するのだろうか。 以前にも書いたが、乾癬のような自己免疫の関係する疾患においてはプラセボ効果が著効する。 それを思えば、乾癬に対する PUVA 療法はプラセボ効果に過ぎないのではないか、ということも考えた。
そこで皮膚科学に造詣の深い友人の某氏に問うてみたところ、非選択的な細胞傷害により症状を抑えることで「なぜか治まる」のではないか、との回答を得た。 要するに、いわゆる膠原病などに対してグルココルチコイドで症状を抑えると、なぜか再発しなくなる人が稀ではない、という現象と同様だろう、というのである。 言われてみれば、確かに、そういうことなのであろう。
全く何の説明にもなっていないのだが、免疫について我々は未だ無知蒙昧なのであって、 生命の神秘としか言いようのない深淵で未知の機序により乾癬を抑えるのが、PUVA 療法なのである。 なぜ効くのか、ワケがわからない、という気持ち悪さを、我々は忘れてはなるまい。
一昨日、「上部消化管出血で血中尿素窒素濃度高値を呈することがある」という話をみて、首をかしげた。両者の因果関係が、よくわからなかったのである。 血中尿素窒素とは、血清中に尿素として存在している窒素のことである。 高窒素血症 azotemia という語は、アルブミン等に含まれる窒素を考慮するかどうかという点が曖昧なので本当は良くないのだが、 血中尿素窒素濃度高値と同義で用いられることが多いようである。
医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』では、消化管出血が血中尿素窒素濃度高値を来す機序として 「腎臓における再吸収率の亢進」とのみ言及しており、意味がよくわからない。 単純に考えれば、出血により有効循環血液量が減少したことで糸球体瀘過量の減少やバソプレシンの分泌亢進を来し、尿素の再吸収が促される、ということであろう。 しかし、それであれば出血一般に成立する話であって、わざわざ「消化管出血」と限定するのは、おかしい。
世俗的には、血管から逸脱した血液が消化管から吸収されることで、いわば蛋白質が供給過剰な状態となり、 これが異化されることでアンモニアが産生され、結果的に尿素の産生量が増加するのだ、という説明があるらしい。 しかし、これは論理が成立していない。 その蛋白質は、もともと体内に存在したものである。 従って、その理屈に従えば、消化管出血により全身の窒素バランスが正味マイナスになる、ということになる。本当だろうか。 出血により血液量が減少したのだから、反応性に造血が亢進するはずであり、つまりアミノ酸需要は高まるのだから、尿素産生量は減ることはあっても、増えるとは思われない。 どうせ、どこかの予備校講師あたりが流布した俗説を、無思慮な学生が鵜呑みにしているのだろう、と思い、真相を探るため過去の文献を調べてみた。
消化管出血と血中尿素窒素濃度高値に関係があるらしい、ということは 1930 年代に指摘された。 この問題について散発的な報告が相次いだ後、1939 年に L. Schiff らが、まとまった報告を行った。 彼らは、ヒトの消化管内に血液を投与した後の血中尿素窒素濃度の経時変化が、 消化管出血に続く血中尿素窒素濃度の臨床経過と似ていることを指摘した。(The American Journal of Digestive Diseases 6, 597-602 (1939).) どうやら、この Schiff らの報告が、「血液が吸収されることで血中尿素窒素濃度高値を引き起こす」という考えの根拠になったようである。
それから 40 年経った 1980 年、T. Stellato らは Sciff の実験結果を批判する報告を行った。(The American Journal of Gastroenterology 73, 486-489 (1980).) Schiff の実験では上述の造血亢進や循環血液量減少の影響が考慮されていない上、尿素排泄能が実験結果に及ぼす影響について正しく評価できていない、というのである。 Stellato は、Ewing らが 1945 年に行ったイヌについての実験報告を引用し、 血液の経腸的な吸収による血中尿素窒素濃度への影響は、出血後、高々 24 時間に限定される、と述べた。 また、機序は不明ながらも、投与された血液量に比して血中尿素濃度の変化は小さく、 24 時間より後まで遷延して臨床的にみられる血中尿素濃度高値は、主に有効循環血液量減少による、とした。
以上の点については、論理の整合性から、Stellato の考えが正しい。 出血直後の 24 時間に関しては、造血亢進がまだ充分に起こっていないために、一過性に窒素バランスがマイナスになっているのだろう。 一方、悪性腫瘍などによる持続的な消化管出血の場合、造血亢進が追いつけば、この効果はみられないはずである。
従って、急性出血の直後を除いては、消化管出血そのものが血中尿素窒素濃度高値を来すことはない、といえる。 あくまで、それは有効循環血液量減少の結果なのである。
医師については、現在のところ、労働基準法を無視した雇用がまかり通っているようである。 この点について、中には訴訟で争う医師もいて、労働基準法に基づく時間外手当の支給等を命じた判決もあったと思うが、そのあたりは杜撰な病院も多いと思われる。 一部の勘違いした学生や医師の中には、勤務がキツいこと、睡眠をとれないことなどを自慢する風潮があるようだが、実に馬鹿げている。 このあたりについて、内科学の名著 `Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed.' は、総論において厳しく批判している。 もちろん、中にはマトモな病院もあって、私が実習で訪れた民医連系の某病院などは、 医師の出退勤をタイムカードで厳格に管理し、時間外手当も細かく支給していた。 もちろん、着替えの時間は勤務時間に含めることになっており、理想的で完全に合法な運用であった。 この病院は、患者や業者などから物品を受け取ることを院内規定で明確に禁止しており、 たとえば業者負担で弁当が供される「情報提供会」なども行われていなかった。 しかし、こういう倫理規範や遵法意識のしっかりした病院は、日本では少数派であると思われる。
病院によっては、初期臨床研修医が救急外来や麻酔などの場面で「活躍」するところもあるらしい。 良く言えば「戦力として期待されている」ということになるのだが、平たくいえば、安い労働力として活用しているに過ぎない。 もちろん「安い」と言っても一般の医師と比較した場合の話であって、大卒初任給で月給 30 万とか、病院によっては 50 万とかであるから、世間の標準からいえば高給である。 ただし「月額固定、時間外手当なし」などという、意味不明で遵法意識が微塵も感じられない病院もある。 我が北陸医大附属病院 (仮称) も、このあたりは、まぁ、あまり合法的であるとはいえない。 こうした待遇を公然と研修医募集要項等で提示しているのに、厚生労働省は何も介入しないのだから、日本というのは、そういう野蛮な国だということである。
こうした初期臨床研修医の違法な待遇がまかり通っているのは、歴史的背景によるものであろう。 かつて、いわゆるインターン制度があった時代には、医学科を卒業した者は無給で病院での研修を受け、然る後に医師免許を取得していた。 しかし、このインターンの期間に、無免許であるのに診療するなどの違法行為が横行し、 また研修とは名ばかりで単なる雑用などの労働を強いられることも多かったらしい。 そのために、昭和 42 年頃のいわゆる青医連運動や医師国家試験ボイコット運動などを経て、インターン制度が廃止され、初期臨床研修制度が始まったのである。 つまり、研修医は形式的に雇用契約を結んではいるものの、歴史的には、その給与は労働への対価ではなく、 研修期間中の生活費扶助、というような意味合いなのである。 このあたりの歴史については、下司孝之という人物がよくまとめたウェブサイトを作っている。
さて、北陸医大の場合、研修医を、あまり戦力として期待してはいないようであり、たいへん、結構である。 診療という観点だけからいえば、研修医が一人や二人、仮にドロップアウトして消えてしまったとしても、別段、困らないのである。 一方、少なからぬ学生は、むしろ研修医が診療上の重要な役割を担う病院を好むらしい。 しかし本来、初期臨床研修医は、医師免許を持っているとはいえ、あくまで研修のために病院にいる。 それを戦力として数えるというのは、まともに研修する気がないことの証左である。 「習うより慣れろ」方式でいくなら、医学部六年間など省略して、中卒か高卒の段階で直ちに病院での研修を開始した方がマシであろう。
もちろん、他人から必要とされたい、と思うのは人として自然なこと、当然のことである。 しかし、安い労働力として都合良く利用されることで「他人の役に立っている」とヨロコビを感じるのは、奴隷的発想である。 いささか、志、あるいは尊厳が、矮小なのではないか。 あなた方の能力は、もっと遠くの将来と広い世界をみすえて、別の形で他人の役に立てるべきであろう。
きっかけは、些細なことであった。 また第 102 回医師国家試験の問題であるが、I 21 は次のような問題である。
ADH 不適合分泌症候群 < SIADH > について正しいのはどれか。
a 浮腫を認める。
b 尿量は減少する。
c 尿浸透圧は血漿浸透圧よりも高い。
d 血清尿素窒素は高値である。
e 血漿アルドステロン濃度は高値である。
SIADH というのは、何らかの事情により ADH が過剰に分泌されることによる症候群である。 従って、とても濃縮された尿が出るのだから、c は、まぁ、正しいと言って良いだろう。 「まぁ」というのは、水をガブガブ飲んでいる場合などには SIADH でも希釈尿が出る可能性はあり、一概に「高張尿が出る」と言い切るのは憚られるからである。 その一方で、この問題をみた時、私は d も正しいような気がしたのである。
SIADH においても、病初期などの過渡的な状況を別にすれば、電解質や尿素などの出入りは平衡状態にある。 つまり一日あたりの尿素排泄量は、だいたい普通ぐらいだと考えてよかろう。尿量は、水の摂取量などに依存するから、何ともいえない。 一方ADH は尿素トランスポーターの発現を促すのだから、 尿素の再吸収は亢進しているはずであり、結局のところ血中尿素濃度が普通よりも少し高いところが平衡点になるだろう、と考えたのである。 こうして振り返ってみると、私の思考が、いかにシンプルであったかが、わかる。
もちろん、この私の考えは誤りであって、典型的には、SIADH 患者における血中尿素濃度は普通ぐらいか、低めである。血漿ナトリウム濃度も、低いのが普通である。 その理由について、世俗的な説明では「希釈による」としていることが多いようである。 しかし、「希釈」の一言で片付けるのが間違いである、とまでは言わないが、あまり適切な表現であるようには思われない。
正確にいえば「糸球体瀘過量が増加しているから」である。 集合管では尿素の再吸収亢進にくらべて水の再吸収亢進が顕著であり、 一日あたりの尿素排泄量が普通で、糸球体瀘過量が多くなっているならば、定常状態における血中尿素窒素濃度は低くなることが、数学的にいえる。 一方、たとえば慢性腎不全で糸球体予備能が乏しい患者の場合、SIADH を発症することで血中尿素窒素濃度は高くなるであろう。 これを思えば、「希釈による」で済ませるのは、いささか乱暴である。
ところで、30 年以上前に、SIADH に対する治療として尿素を投与してはどうか、という治療法が提案され、近年になって、ようやく臨床応用されようとしている。 この分野の先駆的な文献としては、ベルギーの G. Deaux による報告 (The American Journal of Medicine 69, 99-106 (1980).) が有名なようである。 この報告では、SIADH で低ナトリウム血症を来す主たる原因は糸球体瀘過量の増加および近位尿細管における再吸収減少である、としており、希釈という説明は用いていない。 あたりまえのことであるが、こういうキチンとした人は、「希釈」などという曖昧な説明を嫌悪するのであろう。
Deaux は、臨床的に尿中のナトリウム濃度と尿素濃度との間に負の相関があり、 これは J. L. Stephenson の理論 (Kidney International 2, 85-94 (1972).) によって説明できるとした。 Stephenson の理論というのは、いわゆる対向流増幅系について数理的なモデルを用いて説明したものであって、 モデルの妥当性はよくわからないが、少なくとも論理は数学的に厳密であるようにみえる。
Stephenson のモデルでは、尿素は集合管で再吸収される一方、ヘンレの係蹄で、ある程度は分泌される、としている。 このモデルに従うと、尿素は、いわゆる浸透圧利尿をもたらす他、結果的にヘンレの係蹄におけるナトリウムの再吸収を促すので、 SIADH の治療に尿素投与が有効なのではないか、と考えられるのである。 この尿素とナトリウム再吸収との関係については、多少の説明を要するだろう。
ヘンレの係蹄の下行脚では、基本的には水が再吸収され、上行脚では電解質が再吸収される。 Stephenson のモデルでは、尿素は集合管から再吸収され、central core の浸透圧を高める。 Central core というのは血管などからなる分画のことであるが、世俗的な教科書でいう「間質」にあたると考えても、厳密には不適切であるが、大きく間違ってはいない。 この尿素の移動は、ヘンレの係蹄下行脚における水の受動的な再吸収を促す。 これは central core のナトリウム濃度の低下をもたらし、結果として、上行脚におけるナトリウム再吸収の亢進をもたらす。
このように定性的にみてしまうと、実に、あたりまえのことを言っているに過ぎないようにも感じられる。 しかしながら、これが「風が吹けば桶屋が儲かる」ような論法なのか、本当に正しい論理なのかは、自明ではない。 これを「本当に正しい論理なのだ」と示したところに、Stephenson の理論の価値がある。
私の知る限りにおいて、 学生同士で医学的な話をすると、「教科書にこう書いてある」とか「エラい先生がこう言っていた」というようなことが論拠として示されることがある。 それに対して「その記述は、合ってるの?」「その先生、間違ってるんじゃないか」というような意見は、ふつう、出ない。 仮に、そういう意見表明をすると「こいつ、頭おかしいんじゃないか」「関わらない方が良さそうだ」ぐらいの認定をされかねない。
こういう、権威に従順な姿勢自体は、医学科に限ったことではあるまい。 工学部時代や大学院時代にも、学生同士で話した場合、「先生は、こうおっしゃっている」というような説明をする者は稀ではなかった。 ただ、それに対して「先生がどうおっしゃるかは、どうでもいい。あなたは、どう考えているのか。」と詰め寄った場合、 「いや、私は、先生とは少し違って、このように思うのだけれど……」と、控えめながらも、自説を述べる者が多かったように思われる。 このあたりが、医学科の、他学部より劣っている点であろう。
さて、本日は、昨日と同じ第 102 回医師国家試験の、E 26 の問題を紹介しよう。
我が国の悪性新生物について正しいのはどれか。
a 死亡者数は年間 30 万人を超えている。
b 死亡全体に占める割合は 50 % を超えている。
c 女性の年齢調整死亡率は上昇している。
d 部位別の年齢調整死亡率は結腸が最も高い。
e 部位別の年齢調整死亡率で胃は上昇している。
8 年も前の公衆衛生学であるが、本問は現在でも通用する。正解は、もちろん a である。 ただし、医学科四年生以上で、この問題をみて憤りを感じない者は、勉強が不足している。
年齢調整死亡率は、基準年をどこに設定するかで、大きく変わる。 日本では、年齢調整の基準年は昭和 60 年とすることが多いようである。 しかし、この 30 年間で人口構成は大きく変化したことを考えると、この基準年の設定に公衆衛生学上の妥当性があるとは思われない。 たとえば、高齢化の進んだ 2015 年を基準年とするならば、比較的若年者に多い乳癌や子宮頸癌の年齢調整死亡率は相対的に低くなるはずである。 従って、胃癌の年齢調整死亡率の推移、という議論は妥当であるが、 癌の部位別の死亡率の比較、というような基準人口依存性の大きい問題については、年齢調整死亡率で比較するべきではない。 上述の問題でいえば、c の選択肢はともかく、d e は「合っている」とか「間違っている」とかいうこと以前に、比較すること自体が不適切なのである。 議論するのであれば、粗死亡率か致死率を用いるべきであって、不適切な年齢調整は有害無益である。
なぜ、日本では昭和 60 年を基準年とする統計がいまだに頻用されているのかは、知らない。 諸外国における年齢調整の方法についても、私は、よく知らない。 ただし `Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed.' の 469 ページのグラフでは 2000 年の米国を基準とした年齢調整が行われている。 これでも 15 年前のものであるから、いささか古いように思われるが、昭和 60 年よりはマシである。
こういうものをみた時、公衆衛生学をキチンと学んだ学生であれば、教授が何と言おうが厚生労働省が何と言おうが、 自信を持って「この統計は、おかしい」「何の意味があるんだ」と攻撃することができるはずである。 むしろ、批判しないことこそ「私は無思慮でございます」と表明しているようなものであって、恥ずかしいと考えるべきである。
いささか古い話だが、第 102 回医師国家試験 F 17 の問題についてである。
43 歳の女性。倦怠感と前頸部腫脹を主訴に来院した。3 か月前からの動悸と発汗とが次第に増強し、1 か月前から倦怠感と易疲労感とが加わるとともに前頸部の腫脹に気付いた。
既往に特記すべき疾患はない。意識は清明。身長 161 cm、体重 53 kg。体温 37.0 ℃。呼吸数 18 /分。脈拍 104 /分、整。血圧 124/64 mmHg。
認められる症候はどれか。
a 体重増加
b 皮膚乾燥
c 眼球陥凹
d 手指振戦
e 腱反射低下
言うまでもないことだが、体言止めを多用した不適切な日本語である。
私は、この問題をみたとき「頸部腫脹」という単語から「リンパ腫か何かかな?」と思ったので、問題が何を言っているのか、全然、わからなかった。 そこで同級生の某君に訊いてみると、甲状腺機能亢進症であろう、とのことであり、「あぁ、そういう話をしていたのか」と合点がいった。 これは、私が藪医者であるというより、頸部の写真をみせない厚生労働省が悪い。
上述の某君によれば、出題者の意図としては、甲状腺機能亢進症を疑った時に、手指振戦があれば、 いわゆるベイズ推定の理論により「検査後確率」を上げることができる、という趣旨であろう、とのことであった。 たぶん、そういうことなのであろうし、気持ちはわからないでもないが、それは、いろいろおかしい。
まず第一に、ベイズ推定自体がおかしい。 ベイズ理論を診断に用いることに対する批判は過去にも何度か書いているが、 そもそも「確率」という概念が誤用されていることに加え、これらの診察所見は独立でないのだから、ベイズ理論を用いることはできない。 これは、もはやエセ科学の一種といってもよかろう。 前提が誤っている理論を用いることの危険性を、多くの医師は理解していないのである。 知識偏重の現在の医学科教育のまずさが、ここにも表れている。
第二に、診断が早すぎる。せめて血中甲状腺刺激ホルモン濃度ぐらいは示さなければ、診断学的に妥当であるとはいえない。 これだけの情報で疾患を「当てる」のは、もはやエスパーである。
第三に、病理や、感度・特異度の概念がない。 頸部の腫脹が仮に甲状腺であるとしても、腫脹の原因は腫瘍か、過形成か、炎症のいずれかである。 一方、手指振戦や体重減少などは、甲状腺ホルモンが過剰に血中に放出されることによる。 両者には、ある程度の相関はあるものの、本質的には異なるものであって、直結していない。 これらは明確に分離して考えるべきものであるのに、敢えて混同しなければ、この問題に「正解」することはできないのである。
こういう、いささか古い問題に対してイチイチ指摘をするのもどうかとは思うが、 しかし、現在の知識偏重理論軽視教育を皮肉にもよく反映している問題であると思われたので、紹介した次第である。
先日、ある人と食事をしていてフグの話になった。 フグの毒といえばテトロドトキシンであり、いわゆる神経毒であるが、具体的には、どういう作用のある毒であっただろうか、という話題である。 私は、オボロゲな記憶に基づいて「シナプス小胞が細胞膜と融合するのを妨げるのではなかったか」というようなことを述べたが、これは誤りであった。 丸善出版『ハーバード大学講義テキスト 臨床薬理学 原書 3 版』によると、テトロドトキシンはナトリムチャネル遮断薬である。 つまり神経の伝導を抑制する毒物である。
医学書院『臨床中毒学』によれば、テトロドトキシンはフグの肝臓と卵巣に多いが、腸と皮にも、それなりに含まれている。 この毒素は、ビブリオ属などの細菌により産生され、生物濃縮されたものと考えられている。 そしてヒトなどにおいてナトリウムチャネルを外側からブロックするが、フグのナトリウムチャネルにはテトロドトキシン結合部位が存在しないらしい。 死亡する原因は、大抵、呼吸筋麻痺である。
さて、天然の神経毒といえば、他に有名なのは破傷風毒素とボツリヌス毒素である。 医学書院『標準微生物学 第 12 版』によれば、ボツリヌス毒素は、特定のシナプス小胞付随蛋白質を切断することでアセチルコリンの放出を抑制するらしい。 私は、これとテトロドトキシンを混同していたのである。 なお、理屈からわかるように、ボツリヌス毒素は筋弛緩および副交感神経抑制の作用がある。 近年、この筋弛緩作用を美容目的で使おうとする動きがあるようだが、厳密には違法であると思われる。
いわゆるボツリヌス菌というのはClostridium botulinumのことであるが、有芽胞菌という意味では破傷風菌すなわちClostridium tetaniも類縁菌である。 破傷風毒素であるテタノスパスミンは、シナプス小胞付随蛋白質のうちシナプトブレビンを切断することで γ-アミノ酪酸などの放出を抑制するらしい。 つまりボツリヌス毒素とは、シナプスの選択性が異なるのである。 詳しいことはよくわからないのだが、抑制性シナプスの方が興奮性シナプスより抑制されやすいらしい。 「標準微生物学」によれば、破傷風毒素は細胞膜を通過して逆行性に中枢神経系に到達するという。
この「逆行性」とは、どういうことか。 単に細胞膜を拡散で通過するのではなく、本当に、軸索を逆行して中枢側に移動しているらしい。 いったい、どうしてそんなことになっているのかは、よくわからない。
昨日から、月刊アフタヌーンに連載中の病理漫画「フラジャイル」を原作とするテレビドラマが、フジテレビで放映されている。 私はテレビジョンを所有していないが、放映後一週間はフジテレビが公式サイトで配信しているので、そちらで視聴した。
いささか演出過剰であるようには思われるが、基本的には格好良く仕上がっており、医学的観点からも無理が少なく、楽しめた。 強いていえば、原作にもあった宮崎の「医者なんて いつでも辞めてやるわ」の部分を、もう少し強調して欲しかったが、このあたりは個人の好みの問題であろう。 医学、医療の観点からは、二点だけ、気になった箇所がある。
一点は、些細なことではあるが、原作にもあった宮崎が「二年目の医師」という設定である。 現行制度であれば、二年目の医師は通常、初期臨床研修医である。 たぶん、これは「研修修了後二年目」の意味であって、ふつうは「四年目」と表現するところであろう。
もう一点は、病理診断のあり方についてである。 病理医について「患者を診ない」というような表現がなされていたが、どちらかといえば、これは病理医を馬鹿にする意味合いで用いられる言葉である。 「身体診察などで得られる曖昧な情報に頼るのではなく、組織学を重視した確実な診断を行う」という意味では、むしろ 「顕微鏡を通して患者を診る」というような表現の方が適切である。
確かに、過去には「病理医は患者自身を診る必要はない」と考えられていた時代もあった。 平成元年までは、「病理検査は臨床検査の一分野に過ぎない」という観点から、血液検査等と同様に、臨床検査技師がこれを行うこともあった。 つまり、組織学的所見を技師が観察し、その報告書に基づいて臨床医が診断している、という建前であった。 しかし同年、日本病理学会からの疑義照会に対して厚生省は「病理診断は医行為である」と回答し、以後、病理診断は専ら医師が行うこととなっている。
法的な観点からいえば、病理診断に医師免許を要する理由は「医行為だから」というだけのことなのだが、これを素人にも理解できるような表現で述べると、次のようなことになる。 病理診断というのは、単に組織学的所見から機械的に行うことができるものではなく、患者の臨床所見や画像所見などと照合した上での総合的な診断でなければならない。 同じような組織像であっても、患者の背景によって、その解釈は異なるのである。 従って、組織学のみに通じた技師ではなく、医療全般に通じた医師でなければ、病理診断を行うには不適格である。 もちろん組織学的所見は極めて重要であるが、それだけで済むものではない。 かつては `The tissue is the issue.' などと、組織学が全てであるかのように言われていた時代もあったが、現代では、その考えは古いとされている。
従って `Rosai and Ackerman's Surgical Pathology 10th Ed.' などの病理診断学の教科書は、病理医が患者と接することの重要性を説いている。 特に、診断結果を患者に伝える役割は、臨床医に任せるのではなく、診断した病理医自身が行うべきであるとしている。 また、米国などでは、手術室に赴いて検体採取に立ち会う病理医も稀ではないという。 このあたりについて、日本の病理診断の現状はだいぶ遅れているようであるが、我々の世代が中軸を担う頃には、だいぶ様相も変わっているであろう。
以上の事情から、病理医の「患者に会わない」「患者を診ない」という部分を強調するのは、あまり適切ではないように思われる。
英語で rickets と呼ばれる症候群は、日本語では「くる病」と呼ばれる。 これは、小児における骨石灰化不全症のことであって、原因は多岐にわたるから、疾患ではなく症候群である。 従って「くる病」という表現は不適切であり、以後、私は英語で rickets と呼ぶか、あるいは「いわゆる、くる病」という表現を用いることにする。
Rickets の原因は主にビタミン D の作用不全であるが、カルシウムの摂取不足によるものも含めるのが一般的であるらしい。 そして臨床検査上の特徴としては、`Nelson Textbook of pediatrics 20th Ed.' によれば、原因によらず血中アルカリホスファターゼ活性の亢進がみられる。 その理由については昨年 9 月に書いたが、要するに、アルカリホスファターゼは骨芽細胞の活動性を反映しているのである。
9 月の時点では、私はカルシウム欠乏症は rickets に含めない、と思っていたので言及しなかったが、よく考えると、 カルシウム欠乏症によって血中アルカリホスファターゼ活性が亢進するのは不思議である。 血中カルシウム濃度が低いなら、骨芽細胞の活動を抑制するような機構が存在しても良さそうなものである。 しかし現実には、それが存在しないために、骨の石灰化不全を原因とする骨芽細胞活性化が優位になり、 血中アルカリホスファターゼ活性が亢進するものと考えられる。
なぜ、カルシウム欠乏症は骨芽細胞の活動性を抑制しないのか。 もし骨芽細胞の主たる任務が骨の形成や石灰化であるならば、副甲状腺ホルモンの分泌の亢進に対応して骨芽細胞の活動性を抑制する機構が存在すると考えた方が自然ではないか。
たぶん、骨芽細胞の活性を調節する機構、および骨芽細胞の未知の機能として、私の知らない何かが、あるのだろう。 カルシウム欠乏状態において、なお骨芽細胞を活性化させねばならない何らかの事情がある。
この日記で医師国家試験の問題について解説する気はないが、試験対策ではない医学の範疇においては、医師国家試験に言及することにヤブサカではない。 過日、同級生の某君と話していて、第 106 回医師国家試験 I 36 の問題が話題になった。これは、次のようなものである。
気胸の合併に注意すべきなのはどれか。2 つ選べ
a 肺分画症
b 過敏性肺炎
c Marfan 症候群
d 肺リンパ脈管筋腫症
e アレルギー性肉芽腫性血管炎
この設問自体は、単に医療知識を問うだけのクイズであって、医学ではない。 一応、正解は c d ということになっており、それ自体に文句はないのだが、問題は、それを、どう医学的に解釈するか、ということである。
リンパ脈管筋腫症とは、朝倉書店『内科学』第 10 版は「肺胞, 細気管支, 血管, リンパ管周囲, 縦隔や腹腔リンパ節に 平滑筋様細胞 (LAM 細胞) が増生し, 広汎に肺が嚢胞化する比較的まれな疾患である」としている。 なお、同書では「概念」の節で「妊娠可能な女性に好発し」としているが、これは疫学であり、疾患概念ではない。 残念ながら、臨床医学の教科書では、このように疫学と疾患概念を混同していることが稀ではない。 これに対し医学書院『医学大辞典』第 2 版では「正常の平滑筋増殖を主徴とする」としている。 両者の相違点は、増殖しているのが平滑筋細胞なのか平滑筋「様」細胞なのか、という点である。
これについて肺の非腫瘍性疾患の大家であるAnna-Luise A. Katzensteinは、 `Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease 4th Ed.' において `characterized by smooth muscle proliferation in the pulmonary interstitium' としている。 つまり「医学大辞典」と同じ立場である。 この平滑筋細胞は、組織学的に異型に乏しいが、癌抑制遺伝子である TSC1 や TSC2 の変異やヘテロ接合性の喪失がみられるらしい。 もし、これが平滑筋細胞増殖の原因であるならば、これは平滑筋良性腫瘍の一種であるということになるが、 過形成性増殖の過程で変異を獲得しているのであれば、非腫瘍性病変である。 いずれにせよ、これは、いまいち正体のよくわからない疾患である。なぜ気胸を来しやすいのか、ということも、よくわからない。
一方、Marfan 症候群というのは、フィブリリン遺伝子の異常を原因とする遺伝性疾患である。 これだけから考えると常染色体劣性遺伝かな、とも思うのだが、実際には dominant negative な変異が多いので、大抵は優性遺伝である。 Marfan 症候群には気胸の合併が多く、患者の 3 割程度が気胸を経験する、という報告もあるらしい。 しかし、その機序はイマイチよくわからない。
世俗的な受験参考書などでは、肺の弾性が低下するので引っぱられた際に破れる、というような説明をしているかもしれない。 しかし、これは子供騙しであって、覚えるためのテクニックに過ぎず、論理になっていない。 引っぱられたから破れる、というのであれば、間質性肺炎などでも気胸は多発するはずであるし、 Marfan 症候群の患者が乳幼児期に気胸を多発しないことも説明できない。 こうした後付けの強引な説明を排除し、医学に正しい論理構造を構築することの重要性は、 前川孫二郎が指摘した通りである。
`Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、 Marfan 症候群の患者では、フィブリリン形成異常が TGF-β の過剰産生を惹起するらしい。 生理的には、フィブリリンが TGF-β の産生を抑制しているのだろう。 この TGF-β は、おおまかにいえば、組織の再生を促す作用があるらしく、たとえば創傷治癒の際に活躍する。 このことからわかるように、TGF-β はマトリックスメタロプロテアーゼ (MMP) を活性化する。 `Robbins' は、Marfan 症候群において骨が過度に成長したり、僧帽弁変性を来したりするのは、この TGF-β のせいであろう、としている。
たぶん、Marfan 症候群における気胸も、この TGF-β や MMP の影響であろう。 MMP の作用により肺胞壁の破壊と再生が起こるが、その際、部分的に肺胞腔と胸膜腔が交通することがあり、気胸になるものと考えられる。 この観点からは、世俗的な「引っぱられるから」説は、完全に誤りである。
単位認定試験の結果が、全て出揃った。 結局四年間を通して、本試験で不合格になったのは、微生物学 (寄生虫学)、脳神経外科学、泌尿器科学、整形外科学、形成外科学、救急医学 のみであり、いずれも再試験で合格した。 内科学も不合格を覚悟していたのだが、得点開示されたところによれば 70-79 点、とのことであった。余裕の合格である。
ところで、この日記では、あまり社会問題を取り扱いたくないのだが、こういう時世であるから、多少は、やむを得まい。 少し前の話になるが、AFP 通信からISと戦う女性キリスト教徒部隊、シリアという記事が配信された。 AFP というのは、フランスの報道機関である。 この記事の発信地はシリアのハサカという街である。 現地に入って報道しているのであって、安全なエジプトのカイロあたりで情報収集しているどこぞの新聞社などとは、格が違う。 記事の内容は、要するに地元のキリスト教徒女性による民兵組織の紹介である。
この記事を読んで、二つ、気になった。 一つは、わざわざ「キリスト教徒」という点を強調していることである。 現在、イラクやシリアのあたりを実効支配している ISIS などと呼ばれる勢力はイスラム教を標榜しているが、 本来のイスラムの教義からは乖離しているため、他のイスラム教徒からも強く反発されている。 それを、イスラム対キリストというような、宗教対立であるかのように煽る風潮が一部にあり、好ましくない。 イスラム圏には野蛮な連中が少なくないのは事実であるが、イスラムの教義自体は、野蛮ではない。 もちろん、男女差別については不穏当な教義もあるが、それはキリスト教や仏教だって、同じことである。 現在のアラブやイスラム圏における男女差別問題は、宗教というよりも、土着の風習の問題なのである。 そして土着の風習に関していえば、日本も相当なものである。
もう一つは、彼女らが「キリスト教徒」を称することについてである。 聖書には「圧政に対し、武器を持って抵抗せよ」とは、書かれていない。「敵を殺せ」とも書かれていない。 真のキリスト教徒が、はたして、迫り来る敵に対して武装して立ち向かうようなことを、するのだろうか。
戦うのが悪いとは、思わない。しかし「キリスト教」を標榜するのは、よろしくない。 ただし、記事の内容からは、「キリスト教徒」を強調しているのは記者であって、当人達は、それを前面には押し出していないように感じられる。 組織の名前も、英語でいうと Female Protection Forces of the Land Between the Two Rivers であって、キリストという語はない。 あまり公正な報道ではない。
ひさしぶりに、医学の専門的な話をしよう。Unna 母斑についてである。 清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版では、これはサーモンパッチのうち、項部に生じたもの、とされている。 項部というのは、もちろん、いわゆる「うなじ」のことである。 同書では、サーモンパッチというのは、毛細血管奇形のうち正中部に境界不鮮明な淡紅色斑を来したものであり、 毛細血管奇形というのは単純性血管腫やポートワイン母斑と同義語である、としている。 その正体は、毛細血管の拡張であって、血管が増生しているわけではないから、ほんとうは「単純性血管腫」という表現は正しくない。 なお、医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば、P. G. Unna は、母斑 nevus という語を 「遺伝的ないし胎生的素因に基づき, 生涯のさまざまな時期に発現し, きわめて徐々に発育し, 皮膚の色調あるいは形の異常を主体とする限局性の皮膚の奇形」 と定義した。
話が逸れるが、「血管腫」と名のつく病変で有名なのは海綿状血管腫である。これは過誤腫に分類されるものであって、血管の良性腫瘍であり、皮膚や脳に生じることが多い。 過誤腫 hamartoma というのは、「医学大辞典」によれば「組織構成成分の混合の異常, 先天的迷入や本来退縮すべき組織の遺残が腫瘤を形成したもの」である。 要するに、モノとしては本来そこにあって然るべきものではあるのだが、発生段階で形がおかしくなってしまったものである。 これに対し、本来そこにあるべきではないものが腫瘤を作ってしまった、場所を間違えたものは分離腫 choristoma という。 `Robbins and Cotran Pathologi Basis of Disease 9th Ed.' によれば、過誤腫は歴史的に「真の腫瘍ではない」と思われてきたが、 実はしばしば染色体異常があり、真の腫瘍であるらしい。
閑話休題、「あたらしい皮膚科学」によれば、サーモンパッチは新生児の 20-30 % にみられ、顔面に生じたものは大抵が自然消退するが、Unna 母斑は消退しにくい、という。 これに対し「医学大辞典」では、サーモンパッチというのは顔面正中部あるいは項部や後頭部に生じる母斑であって、 新生児の 30-50 % にみられる、としている。 頭頸部以外に生じたものはポートワイン母斑であるがサーモンパッチ母斑ではない、ということであって、「あたらしい皮膚科学」とは定義が若干、異なっている。 小児科学の名著である `Nelson Textbook of Pediatrics 20th Ed.' は、サーモンパッチの定義には「医学大辞典」と同じものを採用している。 Unna 母斑という語は用いていないが、サーモンパッチのうち項部や後頭部に生じたものは `usually persist' である、としている。 ただし、この顔面に生じる病変を ポートワイン母斑と混同してはならぬ、としており、 サーモンパッチをポートワイン母斑の一型とする「医学大辞典」と完全には一致していない。
このように、用語の定義については混乱がみられるが、いずれにしても次のような点については見解が一致しているようである。 先天性の毛細血管拡張性母斑について、体幹部や四肢に生じるものはポートワイン母斑であって、消退しない。 頭頸部のうち、後頭部や項部以外に生じるものはサーモンパッチであって、大抵が二歳頃までに消退する。 しかし後頭部や項部に生じるものは、しばしば、残る。
残念ながら現在の皮膚科学は、このような、病理学的理解を抜きにした知識の蓄積に依存している部分が大きい。 たとえば、Unna 母斑が消退するかどうかは、何によって分かれているのか。 体幹部のポートワイン母斑と顔面のサーモンパッチは、何が違うのか。 そういった点は、よくわからないのである。 よくわからないけど、とりあえず、そういう傾向があるということだけ覚えておこう、というのが現在の医学科教育である。
もちろん臨床的には、そういう傾向があるということは知っておいた方がよろしかろう。 なにしろ、我が子にそういう病変を発見した保護者は不安になるであろうから、それが特に悪くなるものではないということや、 自然に消えることも多いということ、消えない場合は治療すれば消せることなどを教えるのは重要である。 しかし、「理由はわからないけれど、そういうものなのだ」と割り切ってはならぬ。 「なぜなのか」と疑問に思い続けることをやめてしまったら、もはやそれは医学ではなく、単なる医療知識である。 一般大衆は、それでも良いだろうが、医師がそれでは、いけない。 知識が多ければ、それだけで大衆から「スゴい」と思われ、チヤホヤされやすい。 それに対して「なんでだろうねぇ」と疑問を呈する医者は、大衆からの評価は低くなる恐れがある。 しかし、本当に医学に造詣が深く、理解しているのは、どちらか。
どうせわからないのだから、どうでも良いではないか、という意見が、遺憾ながら医学科生の多数派であろう。 たぶん、どこの医学科でも一年生の頃に、医学史としてフレミングによるペニシリン発見の逸話を教えていると思われる。 しかし学生は、あの話から、何も学んでいないようである。
昨年 12 月 25 日の事故である。千葉県がんセンターで、乳腺の針生検を行った検体の取り違えがあったという。 検体の遺伝子検査も行った結果から、取り違えがあったことは間違いないようである。 詳細はよくわからないが、本来は手術不要であった患者に対して、乳房切除術を行ってしまったらしい。 報道では「針生検」とあるが、なぜ穿刺吸引細胞診ではなく針生検なのかは、わからない。 千葉県がんセンターでは全例に針生検を行っているのだろうか。
同センターの記者発表には、あまり詳しいことは掲載されておらず、 マスコミ各社も、あまり熱心には報道していない。 その中で讀賣新聞だけは、独自の取材量が多いのか、記事が比較的詳しく、いくつかの記事がウェブ上に掲載されている。 ただし、その報道内容には悪意を感じる。
讀賣の記事には 「当初の診察とは矛盾する検査結果が出たにもかかわらず、同センターがこれを重視せず、検体の取り違えを疑っていなかったことがわかった。」とあるが、 これは事実に反する。 記事の内容からすると、「当初の診察とは矛盾する」というのは「臨床的に進行癌と考えられていたのに針生検で癌がみつからなかった」という意味であろう。 しかし日本乳癌学会『乳癌診療ガイドライン 2013 年版』によれば、針生検の感度は 86-96 %、特異度は 89-99 % とある。 感度は、それほど高くないのであって、癌がみつからないということは珍しくない。この病理検査結果自体は、臨床所見と矛盾していないのである。 むしろ特異度が意外と低いように思われるかもしれないが、これは「癌を否定はできない」という診断があるためである。 針生検で悪性と診断されたものが実は悪性ではなかった、ということは、まず、ない。
ただし、針生検の段階で取り違えに気づく余地は、確かにあったのかもしれない。 はたして、その組織学的所見は、MRI などの画像所見と矛盾しないものであったのだろうか。 また、今回の場合、患者の年齢は 30 代と 50 代である。乳腺の組織学的構造は、ある程度、年齢を反映するから、 熟練した病理医であれば「50 代にしては乳腺が若すぎる」と感じることが、できるのではないか。
とはいえ、検体取り違えを見破るのは容易ではあるまい。 千葉県がんセンターからの、調査報告の発表を待つ次第である。
麻布時代について書きたいことは他にもいろいろあるが、今回は、あと一つだけ紹介する。
麻布高校というのは、世間では、いわゆる進学校という扱いになっているようである。 一学年が 300 人程度で、だいたい、東京大学に進む者が 90 人程度である。これは、私が在籍していた頃から変わりがない。 他の卒業生は、高卒直後または一年程度の浪人を経て慶應大学などの、いわゆる有名所に進学し、京都大学などに入る者は少数派である。 順当に出世する者もいるが、大学中退などを経て尋常ならざる道を選ぶ者もいる。 彼らからすれば、私などは穏当な経歴であり、「あいつも、だいぶ、おとなしくなったな」などと思われているであろう。
以前、東京大学への進学者が 100 人を超えたことがある。 その時、「ちょっと、まずいかもしれないね」というような話が、教員の間で持ち上がったらしい。 というのも、「東大に行くための中学・高校」というような認識で麻布への入学を希望する者が増えては困る、というのである。 試験で点を取ることに、我々は、大した価値を見出していない。
さて、ここは「医学日記」であるから、医学の話を書こう。 名大医学科の学生には、「東大コンプレックス」のようなものがある者が少なくないようである。 平たくいえば、名大医学科というのは「東大理 III に届かなかった東海地方の高校生が行く所」というような位置付けであるらしい。 高学年になっても「東大医学部はスゴい」というような発言をする者が稀ではないが、東大の何がどうスゴいのか、よくわからない。
名大医学科の教育の最大の問題点は、こういう「試験で点を取ることは大事である」「東大はスゴい」というような偏見が、 高学年になってもなお矯正されていない点にある。 試験にしても、単純知識を問うものばかりで、独創性や個性を発揮する余地が乏しい出題ばかりがなされる。 そうした教育体制がよろしくない、という認識は少なからぬ学生が持っているようだが、それでも、周囲に歩調を合わせることをやめる者は少ない。 というのも「名大」ブランドは東海地方では最強なのだから、それにぶら下がっていれば、生涯安泰であると信じられているからである。 こうした名大の空気に嫌気がさし、卒業後は東京や他の地方に脱出する者も、少数ながら存在する。 結果として、不自由であっても物事を変える気のない者、勇気のない者だけが、名古屋に残るのである。
一歩、外に踏み出しては、どうか。
私が中学一年の時、当時高校一年の川崎さんという人物を中心として「討論部」というサークルが発足した。 討論というのは、ここでは discussion の意味ではなく、競技としての (最狭義の) ディベートである。 競技ディベートとは何か、という点は今回は重要ではないので、割愛する。 発足メンバーの他には、私と中学二年生が一人、加わった。 結局、私はしばらくして討論部から遠ざかってしまったが、翌年には新中学一年生の部員も入り、定着したようである。
この討論部の発足当初、サークル連合に加盟するかどうか、という議論が部内で行われた。 ほぼ全部員は加盟に賛成であったが、一人だけ、強硬に反対する人がいた。 加盟することで、自由な言論が妨げられる恐れがある、というのである。 その場合は脱退すれば良い、という意見もあったが、氏は、無意識に我々の思考が束縛される恐れがあることが問題なのだ、というような主張をしていたように思う。 川崎さんは、立派な人物であった。 意見がまとまらないからといって、多数決や場の雰囲気で押しきることを避け、氏と二人で懇々と語り合い、全会一致に至らしめたのである。 二人が、どういう話し合いをしたのかは、知らない。 しかし、小学校で習った民主主義における「少数意見の尊重」とはこういうことかと、初めて、実感したのである。
さて、話は全く変わるが、私はサークル連合事務局長を、任期満了の直前になって解任された。いわゆるリコールである。 解任を発議したのは、同じサークル連合の会計局長であった某君であったように思う。 解任の理由は三つあった。第一は、スキー同好会に対する活動査察を巡る不手際であり、 第二は、私が設立した某サークルのサー連加盟を巡る不祥事であり、第三は私が新高校三年生にもかかわらず次期サー連事務局副局長に就任することである。 第一の件は、スキー同好会という加盟サークルが、部室を貸与されているのに実際には活動していない、という疑いがあり、これに対し私が活動査察を行ったものである。 これについて、活動していないことは明白であったのに、いたずらに数ヶ月の査察を行い、部室返却処分を課すのが遅れた、怠慢である、というのである。 第二の件について詳細は省くが、これは、私が全面的に悪かった。ただし、その不祥事があったのは、解任が発議されたのより半年ほど前のことであり、 それを今さら蒸し返すのは、何か別の理由があるものと思われた。 第三の件は、完全に言いがかりである。確かに高校三年生が役員に就くのは異例であるが、 私の副局長就任は総会で承認されたものであるのに、それを理由にした局長解任を総会に問うのは、意味がわからなかった。 しかも、次期副局長就任を取り消すのではなく、現局長を解任する、というのである。
スキー同好会の件については、もう少し詳細な説明を要するだろう。 活動内容報告書としては、乱雑な文字で、星占術が云々と、たぶん占星術の誤記であろうが、ふざけているように感じられるものが提出されていた。 また「校外での活動が主体」とし、放課後はせいぜいバレーボールに興じており、一見、ろくに活動していないようにみえた。 それも、「つき指をした」などの理由で、なにかと中止になっていたのである。 だが、サークル連合には「主に校内で活動せねばならない」という規則はなかったし、 「校外でやっている」と言われれば、こちらとしては文句をつけにくかったのである。 予算も、例年 0 円であったが、予算をサークル連合に請求せず自費で賄うのは自由である。 また、スキー同好会という名称で「星占術」をやってはいけない、という決まりもない。 たぶん、彼らは私をからかっていたのだろう。 しかし私としては、万が一にも、キチンとしたサークルに誤って処分を下すようなことがあってはならぬ、と考えた。 私や第三者の印象だけで決めつけるのではなく、なるべく客観的な証拠を揃えようと慎重な査察を行い、 どう考えても適正な活動をしているようには思われない、という結論を得るまでに、三ヶ月ほどを要したように記憶している。 他者の自由を尊重するというのは、そういうことである。 そうした慎重姿勢を怠慢呼ばわりされるのは、納得できなかった。
全体として、解任の理由は、私のことが気に入らないから、というものであろうと解釈した。 何より、会計局長の某君とは、それまで職務上のことで対立も多かったのである。 たとえば某加盟サークルの不正会計事件について、詳細は覚えていないが、高額の不正を会計局が暴いたことがあった。 しかし私は、当該サークル会計担当者からの「部員に説明する時間が欲しい」という要請を受けて、全校に向けて広報するのを遅らせた。 この対応を知った某君は腹を立て、確か物理であったと思うが、授業開始直前であったが教室から出て行こうとした。 担当教員は「おい、授業はどうするんだ」と言ったが、某君は「そんな気分じゃありません」と言い、そのまま退出したのである。 他にもいろいろあったが、根本的なところで、彼とは思想が合わなかった。 彼は、我々のような役員が全体を指導すべきであると考えていたようであるのに対し、 私は、我々は総会すなわち大衆の意思の下僕に過ぎない、と考えていたのである。
だいたい、任期満了直前で、もう残す仕事もないような状況での解任であることから考えても、私怨であることは明らかであった。 私は、こんな馬鹿げた解任案が総会を通るわけがない、と思っていたので、上述の三つの理由に対して簡潔に反駁したのみで済ませた。 ところが採決してみると、賛成多数、棄権少数、反対は極めて少数であり、可決されてしまったのである。
私は、反省した。 解任の理由に本当に納得・同意して賛成票を投じた者は、僅かであっただろう。 それでも可決されたのは、議決に際しては無条件で賛成する者が、世の中には少なくないからであると思われる。 だから「可決されるはずがない」などと大衆の良識に期待して任せるのではなく、徹底的に抗弁するべきであった。
しばらく休んでいたが、本日より復帰する。 休み明けなので、思い出話をしよう。 何回かに分けて連載し、最後に医学・医療の話につなげる。
現在のことは知らぬが、二十年ほど前、私が在籍していた頃の麻布中学・高校には、生徒会は存在しなかった。 1970 年から 1971 年にかけて、全国の大学と同様に我が麻布学園でも学園紛争が展開された。 これは、1970 年に「校長代行」に就任した山内一郎という人物が様々な不正を行っている、と生徒側が追及したものであり、 山内代行は 1971 年に辞任、1972 年に背任か何かの容疑で逮捕・起訴された。 この紛争の際には様々な逸話が生じた。 伝説となっているのは、山内代行の要請で敷地内に突入した警視庁機動隊を、一時は生徒側が学外へと排除した、というものである。 こうした紛争の中で、生徒会は「機能していない」として、解散された。 正確にいえば、正規の議決を経た解散ではなかったので、形式的には存続していたとみることもできるが、紛争終結後にも機能は回復しなかった。 このあたりについては、私の頃は毎年発行されていた「自治白書」という冊子に詳しく記載されているのだが、 どこにしまったか覚えていないので、記憶のみに頼って書いている。
生徒会は復活しなかったが、「予算委員会」「サークル連合」「選挙管理委員会」という自治組織は結成された。 サークル連合というのは、様々な部活動や同好会の集まりである。 あくまで生徒が自主的に組織したものであって、学校組織の一部ではない、ということになっている。 従って、このサークル連合に加盟しているかどうかは、「学校の公認サークル」かどうかを意味しない。 実際、新たな団体の加盟や脱退に際しても、学校側に通知はするが、関与は受けないのである。 この、いわゆる「サー連」に加盟することの最大の意義は、予算配分が受けられ、また空きがあれば部室を持つことができる、ということであった。
選挙管理委員会というのは、主に文化祭実行委員会や運動会実行委員会の「委員長」や「会計局長」を選出する選挙を実施する委員会である。 また、全校投票が行われる際には、これも管轄する。
予算委員会は、上述のサー連や文化祭、運動会などへの予算配分を担う組織である。 以前に言及した同級生の黒川君は、高校二年の時、この予算委員会の事務局長を務めていた。 当時、私はサー連事務局長であったから、何かと話す機会も多かったのである。 なお、高校三年の時には私はサー連事務局副局長であった。高校三年生が役職に就くのは異例であったが、それを禁じる規則はなかったのである。
さて、予算委員会が配分する資金は、主に「生徒活動費」として全校生徒から一律に徴収されたものである。 これは学校側から交付されるものではない。 あくまで生徒自身が生徒全体から徴収するものであり、その集金業務を学校側に委託しているに過ぎない、と、「予算委員会規約」に明記されている。 ただし、実際には毎年、生徒数の変動があるにもかかわらず、予算委員会に渡される生徒活動費は増減していない、など、 この「業務を委託しているに過ぎない」という建前は有名無実化しているきらいがあった。 また、生徒の間にも「学校からもらった金である」というような誤解が広まっていた。 さらに、どうやら生徒活動費は、会計上、学校法人麻布学園の収入に組み込まれているらしい、という話もあり、横領ではないか、という声もあった。 そこで上述の自治組織の役員らの間では、 この業務委託をやめて自分達で徴収してはどうか、というような議論もあったのだが、漏れなく徴収することの困難などを考えて、現状維持やむなし、との結論に至った。
さて、生徒活動費は、概ね年間 1000 万円程度であったように思う。生徒数は中学高校併せて 1800 人程度であるから、一人あたり 6000 円弱である。 このうち、サー連にわたるのが 800 万円程度であり、印刷費などサー連が使う経費を除き、ほとんどが加盟サークルに交付されていた。 交付額は、前年度の「適切な支出額」の 6 割程度が基本であったように思われる。 この「適切な支出額」というのは、「適切な領収書」がある支出のうち、活動目的に合致しない支出や個人のための支出を除外したものである。 たとえば飲食物は一律に認められないが、大会参加費は認められる。 また、領収印がない領収書は無効であり、宛名が不適切なものや、但書が曖昧なものは全て「不適支出」という扱いであった。 この宛名は重要で、たとえば個人名や「麻布中学」となっているものは不可であり、「麻布中学囲碁部」などでなければならなかった。
この不適支出を巡って、私が高校二年か三年の時に、大きな問題が起こった。 当時の印紙税法では、三万円以上の領収書には収入印紙を貼付せねばならない、ということになっていた。 なお、現在では、これは「五万円以上」に変更されている。 そこで予算査定においても、三万円以上であるにもかかわらず収入印紙が貼付されていない領収書は「不適」扱いであった。 しかし、あるサークルが数十万円の大規模な備品購入をしたのに、領収書に収入印紙が貼付されていなかったのである。 原則からいえば、これは不適支出であり、生徒活動費からの補助の対象外となる。 しかし額が額だけに、これをサークル所属生徒のみの負担とするのはどうか、という議論が起こったのである。
私は「適正な領収書がないのだから、認められない」という意見を述べたが、会計局では「それでは無情に過ぎる」という判断であったらしい。 そこで「収入印紙がないのは店側の脱税であり、違法な文書ではあるが、サークルから支出が行われたことを証明する能力を妨げるものではない」という論理が捻り出された。 違法な文書を容認することに道義的問題はあったが、証明能力という点については私も反論できなかった。 結局、サー連総会での議決を経て、特別に「適切な支出」として認められることになったのである。