臨床医が診療の片手間に「臨床研究」を行い、学会などで発表することは稀ではない。 あるいは、「珍しい症例」に出会った時に、それを症例報告として発表することもある。 この症例報告については、4 月に書いた。
過日、ある臨床医がどこかの小規模な学会で発表する内容を「予演」するのを聴いた。 予演というのは、臨床医学の分野で使われる用語のように思われるが、要するに学会発表の練習のことである。 練習のことを、なぜ「予演」などと格好つけて言うのかは知らぬが、まぁ、練習すること自体は悪くない。 しかし、この発表者の問題は、発表に先立って「○○を調べて、良い結果が出たので報告します」などと述べたことである。
たぶん、この発表者に悪意はなかった。というより、何も考えていなかったのだと思う。 しかし「良い結果が出たので報告する」ということは、「良い結果が出なければ報告しない」ということである。 実際には、良い結果が出なければ「何とかして良い結果をクリエイトして報告する」というところであろう。 「調べたけれども、良い結果は出ませんでした」というのは、発表としての質が低いとみなされる風潮があるからである。
科学の観点からすれば、これは、邪である。 研究した以上、結果の何如によらず、全て発表するべきである。 「『良い結果』は出ませんでした」という報告は、「良い結果が出ました」という報告と同程度に重要なのである。 なぜ良い結果が出なかったのかをさらに探究することで、科学の新しい一歩につながるからである。 ましてや、無理矢理「良い結果」にみえるようにクリエイトしてしまうことは、科学に対する冒涜である。
このことからわかるように、特に臨床医学研究において「良い結果」が出たものを「良い研究」とみなし、 さらに、それを行った者を「優れた業績を挙げた研究者」とみなすのは、おかしい。 そういう風潮があるから、改竄が絶えないのである。 研究データなどというものは、多少の改竄を行ったところで、どうせバレはしないのだから、現状においては改竄しない方が損である。 本当に一切の改竄を行わない研究者は、おそらく、極めて稀である。 科学者としての出世を捨て、科学者の良心を守って科学に殉ずる覚悟を決めた者ぐらいであろう。
多くの臨床医は、科学的良心について考えたことがなく、エラい人々の言うことに盲目的に従うから、上が「改竄しろ」と言えば、何の躊躇もなく改竄する。 あるいは、自分が改竄を行っているという認識すら持っていないかもしれない。 たとえば、都合の悪いデータを、適当な理由をつけて省く、というのは改竄の常套手段であるが、それを不正行為だと認識していない者は稀ではあるまい。
医学に限らず科学論文というものは、そういう不正の塊でできているのだから、その記載内容を無闇に信じてはならない。 その不正を見抜く眼を持っていない者は論文を読むべきではない。 だから私は、基礎が充分でない学生が論文、特に Review ではなく Original Article の類を読むことは、基本的には好ましくないと考えている。
日本語をろくに使えない医者が多い、という話は過去に何度も書いたし、おかしな敬語についても昨年末に書いた。 おかしな敬語について、もう一つの例を紹介しよう。
ある入院患者について、たとえば何か皮膚病変が出現したので皮膚科受診を提案する場合について考える。 この時、他院の事情はよく知らぬが、北陸医大 (仮) の場合、患者に対して「皮膚科の先生に診ていただきましょうか」などと言うことがある。 もちろん、これは不適切である。 「皮膚科の医師」は、こちらの身内なのだから「先生」と呼ぶのは不適であるし、「診ていただく」も、おかしい。 こんなことは一般社会においては常識であるが、医療の世界においては、こうした不適切な表現が横行している。 医師は偉いのだ、という特権意識が根付いているためだと思われる。 これは、単に言葉だけの問題ではない。背景には、医者は偉い、医者は尊敬されて当然だ、というような意識が存在するように思われる。
我々が患者の生命を握り、人生を大きく左右する立場にいるのは事実である。 これは単に、それが我々の職務だからであって、我々が偉いわけでも、我々が特権階級なわけでもないことは当然である。 しかし、何かを勘違いし、甚だ不謹慎な言動を示す医者や学生が存在することも、また事実である。 その不謹慎な内容を敢えてここに記そうとは思わないが、医療漫画の類に登場する「不謹慎な医者」を想像していただければ、遺憾ながら、だいたい合っている。
手術室での不謹慎な言動も、患者を侮辱するような噂話も、結局のところ、相手を自分より下等な相手とみなすところから始まっている。
標題のようなことを言う人がいる。 このような弱小地方大学にいては、症例数も少なく、大規模な研究もできないから、インパクトのある論文を書くことができない。 結果として、自身の業績リストが貧弱になり、教授の選考過程で振るい落とされてしまう。 これに対し東京大学などの大きな組織にいれば、多数の研究者が参加する大規模研究に名を連らねることができ、 多数の著者の中の一人という立場ではあるが、自分の名前が入った論文が量産されることになる。 そうすると業績リストは豊かになるし、教授選で勝ち抜くことができる。 だから、教授になりたいのであれば、北陸医大に残るのではなく大きな大学に行くべきだ、などと親切にも私に忠告してくれた人もいる。
私には、到底、理解できない発想である。 東京大学や京都大学、名古屋大学などに行けば、確かに、大規模プロジェクトに参加する機会には恵まれるだろう。 しかし、そういう大組織の中で、はたして、一人の研究者が、その才覚を遺憾なく発揮することが、できるだろうか。 教授の駒として便利に使われて年月を過ごすことには、ならないだろうか。 冒頭で述べたような「出世したければ大きな組織に行け」というのは、能力のない人が人脈を頼りに地位を獲得しようとする場合にのみ成立する考え方ではないか。
あるベテランの医師は、北陸医大の教授選は結局のところインパクトファクターだ、と言った。 有名な論文誌に何報の論文が掲載されたか、という数で評価が決まるのであって、研究そのものの質では評価されない、という意味である。 くだらない論文であっても、内容を実際には理解していない形式だけの著者としてであっても、とにかく数を出すことが重要だ、というのである。 ひょっとすると、そうなのかもしれない。 そういう基準で、この大学では、教授を選んでいるのかもしれない。 もし、そうであるならば、この大学には未来はなく、私は、北陸医大の教授になろうとは思わない。 他の、どこか本当に科学的意義のある基準で人を選ぶような大学に行くだけのことである。
日本の医学界に、私のような異端児を必要とする大学が存在しないとは思われない。
たとえば造影 CT を施行する時、我が北陸医大 (仮) では、原則として、同意書にサインすることを患者に求めている。 そのサインにあたり、我々は、造影剤を使うことによって生じるリスクについて、一応、患者に伝えている。 その「リスク」には、40 万人に 1 人程度ではあるが、死亡することもある、などという物騒な内容も含まれている。 患者は、そうした危険を充分に理解した上で、造影剤を用いた検査に同意している、ことになっている。
「ことになっている」というのは、本当に、それらを理解して同意しているようには、私には思われないからである。 我々が同意書の用紙を持って患者の所を訪れる場合、もう「造影検査を施行する」ということは事実上、既に決定された上で、 念のため同意書にサインしていただく、という態度であることが多い。 我々研修医の立場からすれば、指導医に「同意書にサインをもらってきてくれ」と言われ、形式的に同意書の内容を説明し、患者にサインを求めるのである。
もし、造影剤を使うことで死亡のリスクもある、というような内容に患者が恐怖していたとしても、それで「嫌だ」とは言いにくいような雰囲気を、我々は作っている。 「どうしても、やらなければなりませんか」と問われた際には「そうですね、造影検査をやらないと、診断が難しくなって、適切な治療をすることができない恐れがあります」 などと患者を脅し、なんとかサインさせているのである。
言うまでもなく、我々は、これを善意でやっている。 死亡のリスクが僅かにあるとはいえ、適切な診断・治療につながるという利点を考えれば、総合的には患者にとって最善の選択だろう、と考えている。 しかし、何が「最善」であるかは、最終的には個人の主観、個人の価値観、人生観に基づいて決定されるべきものである。 患者にとって何が最善であるか、ということを、赤の他人である医師に決められる筋合いはない。 もちろん、素人である患者には、専門家である医師に決定を委ねる、という選択肢も与えられるべきであるが、 医師の側が初めから「我々に委ねなさい」という立場で接することは不適切である。
このように我々は、患者に選択の余地を与えず、事実上、強制的に同意書にサインさせている。 そこには、真のインフォームドコンセントは存在しない。
この問題について、同期研修医の某君と話した時、彼は、次のように述べた。 「本当に患者に理解してもらおうとして、それで患者が嫌がって同意しなかった場合、検査が進まないではないか。」 まぁ、彼は若くて経験も浅い研修医であるから、そういう発想になるのも仕方ない面はある。 しかし冷静に考えれば「検査が進まない」という物言い自体が不適切である。
「検査を進める」とは、どういう意味なのか。 診断を行うにあたり、何か予め決められた手順、決まったプロセスが存在し、それを踏襲するのが当たり前だと思っているが故の発言であるように思われる。 それは、違う。 検査や治療というものは、個々の患者の病態や価値観に基づいて、本来ならば一例一例、臨機応変に考案し、行うべきものである。 造影検査が嫌だというのなら、なぜ嫌なのかを聴き、適切な情報を提供し、それでもなお嫌であるならば、その患者の意思を最大限に尊重し、 造影せずに何とか診断する方法を考案し、妥協できる点を探るのが医師の仕事ではないのか。 予め決められたプロトコールを実行するだけなら、看護師と技師だけで充分なのである。
残念ながら上述の研修医の某君は、そういう診断を考えられる域には未だ到達していないようである。
指導医が患者に対して病状や治療内容などを説明するのをきいていると、「可能性はゼロではない」という表現を、しばしば耳にする。 たとえば「免疫抑制剤を使うことで、細菌感染から敗血症を来し、死亡するリスクもゼロではない。」といった具合である。 これは、インフォームドコンセントの観点から、死亡リスクのあることを患者に説明しなければならない一方、 死亡リスクを過大に評価されて検査や治療を嫌がられては困る、という事情から生じた表現であろう。 可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近いから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。私はちゃんと説明しましたからね。 後で「聞いてない」なんて言わないでくださいよ。というような意味である。
多くの医師は勘違いしているようだが、こういう言い方で患者の「承諾」を得て、同意書にサインをさせたとしても、インフォームドコンセントを得たことには、ならない。 このあたりの問題については、また別の機会に書くことにしよう。 本日の話題は、こうした「逃げの表現」を学生や研修医などが多用しがちな件についてである。
断言できないのである。 診断をする時に「○○かもしれない」「△△は否定的」といった言葉を多用し、表現を曖昧にする。 そのことを指摘すると「100 % 確かとはいえないから」「絶対に違うという証拠はない」などという言葉が返ってくる。 診断が結果として誤りであった場合に「断定したわけではないから、間違いではない」と弁明する余地を残そうとしているのだろう。 間違うことを極端に恐れており、断定する勇気がないのである。
我々、工科や理科の人間は、「かもしれない」という言葉を使わない。 「かもしれない」では、結局、何の情報も生み出しておらず、何も言っていないのと同じだからである。 だから我々は、文章を書く時に「○○である」と断定する。結果的にそれが誤りであったとしても、合理的な思考の末に間違ったのなら、罪ではない。 これは実は医療においても同じことであって、医学的に合理的な判断に基づいて診療した結果、不幸にして患者に不利益が生じたとしても、 誤診したこと自体について医師が法的責任を問われることはない。 換言すれば、断定しなかったおかげで法的責任を免れることができた、などということは、あり得ないのである。 こんなことは、法医学を修めた学生にとっては常識である。
たとえば上で紹介した「否定的」という言葉を、私は、一度として使ったことがない。意味がないからである。 諸君の中に、この言葉の意味を説明できる者が、いるだろうか。 もしかすると「その疾患である確率が下がった、という意味である」というようなことを言う者がいるかもしれない。 では、その「確率」の意味を、説明できるか。 確率論や統計学を修めた者なら容易に理解できるであろうが、診断は確率事象でないのだから、「その疾患である確率」というものは定義できない。 定義できないものの上がる下がるを議論するなど、不可能である。
実際、まともな教科書などで「否定的」というような言葉を、私はみたことがない。 諸君は、一体、どこで、こんな曖昧で無責任な言葉を覚えたのか。 たぶん、学識の乏しい医師が書いた「よくわかる」系の書籍か、予備校講師あたりの受け売りなのであろう。 要するに諸君は「否定的」という言葉を「なんとなく、違いそうな気がする」ぐらいの意味で使っているに過ぎない。 診断に、論理がないのである。
では、どうすれば良いのか、と諸君は問うであろう。 まず基礎を学ぶことである。 諸君は、基礎医学を怠け、「すぐに役立つ」臨床知識ばかりに興味を示すが、それで、まともな診断など、できようはずがない。 「基礎を学び直すのでは時間がかかりすぎ、間に合わない。すぐに使える方法が必要なのだ」と反論するかもしれない。 何を言っているのか。 「すぐに使える方法」があるなら、医者など不要である。 看護師や技師を少し訓練すれば事足りるのであって、年間 1000 万円も払って医師を雇う必要がない。
学生時代、我々が四年ないし六年の間を勉強し続けた一方、諸君は遊び呆け、試験直前に少しの対策を講じるだけで、医学を修めなかった。 試験対策が医学の本質から乖離していることには気づいていたはずなのに、目先の関門を抜けることに専念し、医学と向き合うことを怠ったのである。 その間に生じた差を埋めようと思えば、時間がかかるのは当然ではないか。 それとも、我々の四年間は無駄であったと、侮辱するつもりなのか。
朝日新聞の報道などによると、 着床前スクリーニングを「不適切に」実施した医師が、日本産科婦人科学会から懲戒処分を受けたらしい。
着床前スクリーニングというのは、体外受精で作った受精卵を細胞分裂させ、増えた細胞の一つを取り出して染色体を調べる検査である。 検査した細胞と他の細胞との間に染色体構造の違いがあるかもしれない等の理由から 100 % ではないが、 ダウン症候群などの先天的染色体異常を、かなりの信頼性で検出することができる。 平たくいえば、染色体異常を持つ子供が生まれることを予防できるのである。
価値観は多様であるべきだから、学会が言うように「命の選別につながる」として、この技術を使いたくないと思う両親もいて良い。 しかし、私としては、命を選別することの何が悪いのか理解できない。 だいたい、命を選別することが悪いなら、カトリックの連中が主張するように、避妊も禁止し、全てを天に任せるべきではないのか。 むしろ、特に高齢出産の場合などに、先天性染色体異常の子を育てる負担を避けたいと思うのは当然のことである。 個人的には、これは優れた技術であって、積極的に推進すべきであると思う。
私と同じように考える人は世間に少なくないようであり、また、産科医の中にも稀ではないようである。 この処分された大谷医師も、確固たる信念に基づいて学会の指針を無視したらしい。 学会から始末書の提出を求められた際にも、公然と無視したとのことであり、また、今後も着床前スクリーニングを続ける方針らしい。
だいたい学会などというものは、ただの社団法人に過ぎず、倫理などの問題について決定や規制をする権限は、持っていない。 ただ、医者という人種は権威に弱く、組織に従順な連中が多いから、学会に逆らう勇気がないだけのことである。 しかし真に自立し、自己の良心と学識に基づいて診療する医師であれば、学会が定めた意味不明で情緒的な指針などに縛られず、正しいと信じる診療を行うことができる。
もし着床前スクリーニングが社会に有害な技術だというのなら、学会の見解ではなく、法令によって規制せねばならない。 「学会で決まっているから」などと着床前スクリーニングを自粛するのは、むしろ、医者としての判断力を欠いた無責任な態度であると言わざるを得ない。
私は、読書家ではない。 学校の図書室の本を貪るように読んでいた小学生の頃に比べると、読書量は 10 分の 1 以下に落ちたのではないか。 特に、小説の類を読まなくなった。 ここ数年、読んだ小説といえば、宮城谷昌光と塩野七生ぐらいである。 宮城谷も塩野も、歴史小説で知られた作家であり、宮城谷は古代中国、特に戦国時代以前を、塩野はイタリアを、それぞれ舞台にした作品が多い。
宮城谷の作品の中で、私が最も好きなのは『晏子』である。 これは、春秋時代の斉国の名宰相である晏嬰と、その父である晏弱とを描いた作品である。 『晏子』には名場面がいくつもあるが、その中で、私が最も好きな箇所を引用しよう。 斉国の「光」という名の太子が、宰相である崔杼に補佐されて斉軍を率い、晋国を盟主とする連合軍の一員として鄭国を攻撃した場面である。 文中の「臨シ」は斉国の首都であって、シの字は「輜」の車偏を三水にしたものである。また、霊公というのは、斉国の君主である。 この時、太子光は霊公から疎まれつつあり、ひょっとすると太子の地位を剥奪されかねない状況にあり、それを防ぐために崔杼が腐心している、という状況である。
晋の命令で諸侯が鄭を攻めることになった。崔杼は太子光にきびしい顔をむけ、
「励まれよ」
と、いい、電光石火の速さで臨シを出ると、斉軍をすさまじい勢いで鄭国に侵入させた。
会同の場所である牛首に一番乗りをしたのが斉軍であることを知った諸侯は、いちように賛嘆し、
「さすがに崔杼よ」
と、かげでは斉の宰相をほめ、おもてでは斉の太子の速攻をたたえた。
--- ひとまず、これでよかろう。
と、崔杼はおもった。かれの気くばりと手くばりとは、晋のためではなく、遠くはなれたところでこちらをみているにちがいない霊公を意識したものである。
途中で、太子光は、
「なにゆえ、かように急ぐ」
と、不審の声をあげたが、崔杼は、
--- ご自分でお考えなされよ。
と、いわんばかりに、寡黙を通した。太子光は崔杼の気色の悪さを怪しみ、
「人変わりしたようだ」
と、左右にこぼしたので、それをきいた崔杼は舌打ちし、あえて面語して、
「この戦いは、ご自身のために、全力をつくさねばなりません」
と、諭した。全力をつくすということは、全力ですすむということからはじまる、そういうことをいちいちいわねば、この太子は理解できない。
この「全力をつくすということは、全力ですすむということからはじまる」というのは、重要な考え方である。 学生に置きかえてみれば「全力で学ぶということは、講義室で最前列に座ることからはじまる」と、いえよう。 諸君は、全力で学問に向き合っているだろうか。
過日、北陸医大 (仮) の某診療科に関係する某講演会に参加した。 臨床診療科の場合、この種の講演会は形式的には製薬会社が主催していることが多い。 参加費はもちろん無料であり、交通費としてタクシー代を製薬会社が負担し、さらに講演会の後には立食形式の「情報交換会」が開催された。 はたして、医者と製薬会社の関係として、これは適切であるかどうか。 この点について、医者の常識と世間の常識との間には、重大な乖離があるように思われる。
我が北陸医大には「役職員倫理規則」があるが、私が読む限り、医者にとって製薬会社は 規則上の「利害関係者」に該当せず、上述のような関係を明確には禁止されていないように思われる。 ただし、この規則には「役職員は、利害関係者に該当しない事業者等であっても、 その者から供応接待を繰り返し受ける等社会通念上相当と認められる程度を超えて供応接待又は財産上の利益の供与を受けてはならない。」という規定がある。 私の感覚からすれば、医者と製薬会社の上述のような関係は「社会通念上相当と認められる程度を超えて」いるように思われる。
今度、大学当局に問い合わせてみることにしよう。 どういう返答が返ってくるか、北陸医大の良識が試される。
さて、話は講演会である。 率直に申し上げて、この講演会の内容は、いささか残念であった。 「臨床で役立つ」ということに主眼を置き、ガイドラインの記載や、演者の経験、統計報告などにばかり重点がおかれ、学術的な要素が乏しかったからである。 過去にも何度も書いているが、統計報告自体は、学術的とはいえない。 そこに理論的考察が加えられて、はじめて、学問といえるのである。
ところで、近年、少なくとも医学の分野においては、発表に際して利益相反 (Conflict of Interest; COI) について明言することが求められる風潮がある。 つまり、演者が自分の所属機関以外の企業等から何らかの金銭的報酬などを受け取っている場合に、それを明示せねばならない、というのである。 なぜ、それが必要か、ということは、言うまでもあるまい。
今回の講演の演者は、いくつかの企業等から講演料を受け取っていたようである。 しかし、その COI を示すスライドは、ほんの 2-3 秒しか表示せず、どこから金を貰っているのか口頭で述べることもしなかった。 つまり、形式的に COI のスライドを作っただけで、実際上は、COI を伏せて講演を行ったわけである。 そういう手口を使う者は、遺憾ながら稀ではない。もちろん、まともな科学者とは、いえない。
こういう講演会などで、質疑応答の際、質問者が自身の所属と名を述べた上で「すばらしいご講演、ありがとうございました」などと述べてから質問に入ることがある。 実は私も、過去に何度か、そういう枕詞を置いてから質問したことがあるが、最近は、やっていない。 無意味で、時間の無駄だからである。 もちろん、臨床医療にはびこる因習に戦いを挑む以上、エラいセンセイから睨まれる恐れはある。 しかし、まぁ、私なら戦えるだろう。
私が紆余曲折の末に医者になることを決めた時、祖父は「まっすぐ道を進んできた医者より、そういう (回り道をしてきた) 医者の方が、私は好きだ。」 というようなことを言ったらしい。 祖父の真意がどこにあったのかは、知らぬ。 しかし、もし医学界の因習に私が屈したならば、おそらく、祖父は落胆するであろう。
工学部時代、絶対に使うな、と教えられた言葉の一つに「明らかに」というものがある。
何かを論証しようとする際に「明らかに」という語が、何らかの意味を発揮することはない。 そこで述べられている論理が正しいならば、「明らかに」などと言われなくても、それが正しいことは理解できるからである。 むしろ「明らかに」という語を使いたくなるのは、論者が「論理的には説明できないが、たぶん正しいでしょう、認めてくれるでしょう」と考えている場合である。 つまり「明らかに」という言葉を使うのは「私は、よく理解しておりません」と述べているに等しい。
学生や研修医の中には、論理よりも権威を重んじる者がいる。 彼らは、指導医の言うことは絶対に正しいと信じているから、私が「それは、論理がおかしいんじゃないのか?」と指摘しても、耳を貸さぬ。 「熟練の指導医」と「研修医」では、どう考えても「熟練の指導医」の方が信憑性が高いのだから、それを批判する研修医の言葉など考慮する価値がない、というわけである。 キチンと説明はできないが、指導医が言っているのだから正しい、少なくとも、お前が言うことよりは信頼できる、というのが、彼らの「論理」なのである。
もちろん、中堅以上の指導医であれば、そういう考えの持ち主は、稀である。 診断基準だとか、ガイドラインだとかいうものに束縛されず、病態を考察し、論理に基づいて診断・治療を行うのが当然である。 しかし、遺憾ながら多くの学生や研修医は、そういう水準に達していないから、指導医の側も妥協して「わかりやすい」説明を行う。 すると学生や研修医の中には、何かを勘違いする者が現れてしまうのである。
北陸医大 (仮) で臨床実習の学生をみていると、やたらと診断基準やガイドラインを持ち出したり、薬の名前を一般名ではなく商品名で言う者が稀ではない。 一体、この大学では、どういう教育が行われているのか。
昨日の話の続きである。 教授が T シャツ短パンで院内を歩いていた、などというと、ひょっとすると、軽薄で風格の乏しい人物を想像されるかもしれぬ。 しかし、我が北陸医大 (仮) の第二病理学教室の教授は、確かに飄々としてはいるが、決して浅薄な人物ではないので、誤解してはいけない。
過日、北陸医大附属病院病理部の職員の退職にあたり、送別会が開催され、私も参加した。 詳細な経緯は省略するが、私の右隣には第一病理学の教授、左隣には第二病理学の教授が座る、という席順になった。 この時、私は、件の第二病理学の教授と語り合ったのである。
教授は、私に対して「いずれ、ノーベル賞でも取るつもりかね?」と問うた。 私は、すかさず「賞によって学問の業績を評価するというのは、あまり適切ではないように思われます。」と返した。 これは言外に「ノーベル賞など、くだらない」と述べているのである。 並の科学者であれば、ノーベル賞などに拘泥した自身の軽率な発言を恥じ、萎縮するであろう。
しかし教授は怯まなかった。 「では、何によって評価するのだね?」と問うた。 私は「そもそも業績を評価する、という発想自体が、学問にそぐわないのではないでしょうか。」と答えた。 これに対し、教授は、次の一言によって私を粉砕したのである。
「『学問の業績は、歴史が評価する』ぐらいのことを、言ってはどうなのか。」
教授から一本取って油断した矢先に、これである。まぁ、引き分けであろう。 どうも病理学教授という人種は、名古屋大学の某教授もそうであるが、見識の高い人が多いらしい。
過日、北陸医大 (仮) の某外科に、新しい教授が着任した。 この新教授は、これまで名古屋大学に勤めていた人である。
新教授が着任して以来、この外科の人々の服装が変わった。 どうやら教授が「男子は原則としてネクタイを着用すべし」と布告したらしい。 男性医師は、それまで、いわゆるスクラブ姿で歩き回ることが多かったのだが、ネクタイに長衣型白衣、のスタイルに改められたのである。
この「ネクタイに長衣型白衣」というのは、名古屋大学における男性医師の標準的な服装である。 一方、北陸医大では、スクラブと呼ばれる半袖シャツを着ている医師が多い。 ネクタイに長衣型白衣を着ているのは、私以外には、年長の内科医ぐらいである。 これは文化の相違と呼ぶべきものであって、どちらが優れていると一概には言えない。
北陸医大に長くいる人からすると、外科医がネクタイを結んでいる姿というのは、何か異様な風景で、なかなか馴染まなかったようである。 しかし私からすると、慣れ親しんだ服装であって、何の違和感もなかった。
ところで、大学病院では、特に休日は、様々な格好をした医者が歩き回っている。 過日、私が病院の食堂の窓の外側にある通路を歩いていた際、たまたま、窓際の席に座っている壮年の男性と眼が合った。 誰であったか、すぐには思い出せなかったのだが、知っている人のような気がしたので、どこかでみた患者さんかな、と思い、会釈をして通り過ぎた。 所用を済ませて研修医室に戻る際、その男性と、今度はすれ違った。 T シャツに短パン姿のその人物が誰であったか、思案しながら研修医室に向かう途上、ハッと気がついた。
教授であった。 それも、病理学の。 私が所属しているのは、いわゆる第一病理学教室であり、この男性は、隣の第二病理学の教授なのである。 教授、一体、なんという威厳のない格好で院内を歩いているんですか、などと内心でつぶやきつつ、私は研修医室に帰った。
入院患者も、まさか、あの T シャツ短パンで院内を歩いていた男が教授様であるとは、夢にも思わないであろう。
6 月 15 日の記事に対する補足である。 11β ヒドロキシステロイドデヒドロゲナーゼの 2 つのアイソザイムの話は、調べてみると 臨床薬理学の名著 Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). の 527 ページあたりに記載されていた。 だから、よく勉強した学生や研修医であれば知っているはずだ、と述べた私の記載は、正しい。
私は、病理医である。正確に言えば、病理医の卵である。 「病理診断は臨床医療の一分野だ」と主張する人もいるが、患者の主治医にならないという意味において、臨床家ではないとみるべきであろう。 何を言いたいかというと、私は臨床の専門家ではない、患者自身を診ることの専門家ではない、ということである。 逆に、我々は診断の専門家であり、医学理論の専門家であるから、精神医学を除く全ての診療科目について、 理論面に限れば、その診療科の臨床医と互角以上の立場で議論できねばならない。
診療のあり方について、学生時代には同級生と、研修医になってからは同期の連中と、話すことがある。 すると、私の主張が現実離れしていると考えた人々は「君は臨床を知らないから」とか「ならば、君は、それをできるのか」などと私を攻撃することがある。 前者の「君は臨床を知らないから」については、問題外であるから、ここでは詳しく議論しない。 臨床医療の基盤たる医学を学生時代に修めず、卒業してから指導医のやり方をうわべだけ一、二年みて臨床を知った気になっているのだから、話にならない。
本日の議題は「ならば、君は、それをできるのか」という反論についてである。 たとえば同じ立場にある外科医同士が、術式の是非を論じる場において、そういう発言をするのなら、結構である。 しかし臨床家が、臨床の素人である私に対して、そういう方法で反撃するのは、いかがなものか。 あなた方には、誇りというものが、ないのか。
私なら、そのような醜い弁明は、しない。 ある時、膠原病内科医を志望する同期研修医の某君と、膠原病の治療について話したことがある。 私が「現状では、膠原病の治療といえば、グルココルチコイドと免疫抑制であり、何ら本質的な治療ではない。 もっと、膠原病の本質を捉えた、根本的な治療のあり方を考えなければならない。」と言うと、彼は 「それは、君達病理医の仕事である。早く膠原病の本態を解明してくれまえ。」と返した。 私はニヤリとして「確かに、その通りである。膠原病治療が未だにグルココルチコイドに頼りきりなのは、我々病理医の怠慢に過ぎない。よろしい。いずれ我々がやる。 あと 30 年、待て。」と答えた。
専門家というのは、そういうものではないのか。 自分達がフロンティアを開拓するのだ、と自負しているものではないのか。 一見、不可能にみえることであっても、そこに工夫を凝らし探究を重ね、実現するのがプロフェッショナルというものではないのか。
そういう誇り、精神の態様は、経験を積むことで自ら生じるものではない。 学生時代に卑屈であった者は、よほど深く悔い改めない限り、一生、そのままである。
臨床医療の話である。 大学病院であれば、だいたい、どこの診療科であっても、週に 1 回程度「教授回診」のようなものがある。 つまり、診療科の責任者である教授が、全入院患者を診てまわるのである。 もちろん、普段患者をみていない教授が週に一度の回診することに、どれだけ実際上の意義があるのかはわからない。 それでも、全くみないというわけにはいかないし、責任者が顔を全くみせないとあっては、患者側も不安・不快であろう。 諸々の妥協線として生じたのが、週に 1 度の教授回診であると思われる。 市中病院であっても「部長回診」などとして、同様の催しは行われていることが多いであろう。
大学病院の場合、教授回診に際して、学生や研修医などが、その患者について簡略に説明する。 これには教育的意義があるから、それ自体は、たいへんよろしい。 ただし、患者が寝ているベッドの横で、患者が聞いている状態で、そういうプレゼンテーションを行うのは、いかがなものだろうか。
大抵の場合、患者は素人であるから、病状について医学的にあまり厳密な説明を受けていない。 しかし教授と学生あるいは研修医の間では、検査項目や所見などを巡り専門的な会話が交わされる。 患者にしてみれば、聞いたこともないような話が、自分の頭の上で飛び交うことになる。 「soluble IL-2 が 1000 以上と高値で……」「LD はそれほどでもないのですが……」「マルクでは芽球が 20 % 程度で……」などと 意味のわからない会話を聞かされ、不安にならない患者が、いるだろうか。
そういう高度に専門的で理解できない会話に加えて、不謹慎な笑いが生じることがある。 ちょっとした言い間違いや冗談に対して、その場にいた医師などが笑う、という状況である。 もちろん、その言い間違いや冗談の何がおかしいのか、患者にはわからない。 患者からすると、自分のことを話している最中に、何かよくわからない冗談で医者が笑うのだから、気分が良いはずがない。 患者に対する配慮が不足しているのであって、「患者中心の医療」などとは、到底、いえない。 どうも、そのあたりの感性が鈍い医師や看護師が、北陸医大 (仮) には少なくないように思われることは遺憾である。
その点、名古屋大学では、多少の配慮がなされていたように思う。 教授に対して学生や研修医などが患者の説明を行う際には、それが患者の耳に入らないように、病室の外の廊下で行う診療科が多かったように思う。 もちろん、他の患者の耳に入ったら別の問題が生じるから、周囲に注意を払いつつ、小声で会話していた。 また、上述のような不謹慎な笑いも少なく、比較的、規律が整っていたように思われる。
ついでに言えば、名古屋大学では、少なくとも私が入学した時点では既に、患者から職員個人に対する謝礼は断わる旨の掲示が院内随所になされていた。 北陸医大の場合、これまで、そうした「個人的な謝礼」を明示的に禁止してはいなかった。 常識的に考えれば、医師等が患者から個人的に謝礼を受け取ることは非道徳なのであるが、これを明確に禁止する規則は、私の知る限り、我が大学には存在しなかった。 それが今年度に入って、ようやく、職員個人への謝礼を断わる旨のポスターが院内に掲示された。 今頃になってようやく、という時点で、倫理の面において我が大学は名古屋大学よりも大きく遅れていると言わざるを得ない。 しかし、それでも少しは前進しているのだから、この大学には未来があるといえよう。
この問題の重要性を認識できる医者は、多くないように思われる。 KALS 時代、私は、この疑問を講師に投げかけてみたのだが、話が通じなかった。 医学科の連中は、生化学など臨床の役に立たぬものと決めてかかり、学生時代の試験は暗記と過去問で凌ぐのが常であるから、こうした基本的問題を理解できないのである。 生化学や生理学といった基礎を省略して、暗記とパターン認識で「臨床医学」と称する学問をやっているのだから、 いずれコンピューターに取って代わられるのも時間の問題である。
もちろん、生化学をマジメにやっている人々は、これが重大な問題であることを認識している。 実際、この問題は過去に盛んに研究された時期があるらしく、その成果は Biochem. J. 115, 609-619 (1969). に掲載されている。 50 年も昔の論文であるが、この時既に生化学者は、アイソザイムによって反応の進む向きが異なってみえる現象の仕組を解明していたのである。
この報告によれば、反応の向きを決めているのはアイソザイムというより、補酵素であるらしい。 11-HSD type 1 は、NADPH や NADP+ を補酵素とするのに対し、 11-HSD type 2 は、NADH や NAD+ を補酵素とする。 NADPH/NADP+ 比や NADH/NAD+ 比は、環境の pH だけで決まるわけではなく、複雑な調節系が存在するらしい。 その結果、典型的には NADPH/NADP+ 比 は NADH/NAD+ 比よりも 10000 倍以上、大きいようである。 だから 11-HSD type 1 は NADPH を補酵素として基質を還元する反応を触媒しやすいのに対し、 11-HSD type 2 は NAD+ を補酵素として基質を酸化する反応を触媒しやすいのである。 だから、補酵素が適切に供給されれば、11-HSD type 1 でコルチゾールを酸化してコルチゾンに変換したり、 11-HSD type 2 でコルチゾンを活性化してコルチゾールにすることは、可能なのである。 故に、この反応の進む向きの相違を「アイソザイムが違うから」と説明するのは、正しくない。 このあたりを説明したレビューとしては Endocrinol. 146 2531-2538 (2005). が読みやすいだろう。
以上のようなことは、生化学者にとっては常識なのであろうが、私は生化学をキチンと修めてこなかったので、今さら勉強している次第である。
生化学をよく修めた人であれば、このタイトルを読んで、私が何を言わんとしているか、瞬時に理解するであろう。 まぁ、そういう人は、ニヤニヤしながら読んで下されば良い。
11-ヒドロキシステロイドデヒドロゲナーゼ (11-HSD) を例として考えよう。 副腎皮質の主として索状帯で産生されるコルチゾールは、生理的にはグルココルチコイドとして作用する。 しかし in vitro では、コルチゾールはミネラルコルチコイド活性も有することが知られている。 では、なぜ in vivo ではミネラルコルチコイドとして作用しないのかというと、 ミネラルコルチコイドの作用標的である腎臓には、コルチゾールが、ほとんど存在しないからである。 というのも、腎臓でコルチゾールは酸化され、不活性なコルチゾンとして存在しているのである。 このコルチゾンは、主に肝臓において還元、つまり活性化されて、コルチゾールに戻る。 この腎臓でコルチゾールをコルチゾンに変換する酵素が 11-HSD の type 2 であり、 肝臓でコルチゾンをコルチゾールに戻す酵素が 11-HSD の type 1 である。 つまり、臓器によって異なるアイソザイムを発現することで、臓器毎に反応の向きが異なるように制御されているのである。
このあたりまでは有名な話であって、医学の初等的な教科書にも記載されている。 ……と、思ったのだが、手元の書物を確認してみると、東京化学同人『ストライヤー 生化学』第 7 版や Hall JE, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed., (2016). などには、このあたりの事情が明記されていないようにみえる。 まぁ、少なくとも Firestein GS et al., Kelley & Firestein's Textbook of Rheumatology, 10th Ed., (2017). などの専門書には記載されているので、 しっかり勉強した研修医などであれば、よく知っている話だろう。
私が、この 11-HSD の話を知ったのは、6 年程前、医学部学士編入予備校の KALS に通っていた頃である。 その時、私は「馬鹿な」と思った。 「酵素は化学反応の進行を速めるだけであって、決して平衡点を変化させることはない」というのは、生化学の常識である。 その常識からすれば、アイソザイムによって反応の向き、つまり平衡点が、変わるはずはないのである。
上述の「生化学の常識」は、物理学でいうところの熱力学の第 2 法則と表裏一体である。 もし、この常識を破るような現象が発見されたならば、つまり熱力学の第 2 法則が破れたということになる。 その場合、いわゆる第二種永久機関が、少なくとも原理上は、実現可能だということになる。 平たくいえば、人類は、無尽蔵で完全にクリーンなエネルギー源を手に入れることができるのである。 これは世界を揺るがす大発見であり、科学史上最大の発見となることは間違いない。
熱力学の第二法則が正しいことを、理論的に、あるいは実験的に、証明した人は、いまだかつて存在しない。 それでも、この法則は、たぶん正しい、と信じられている。 換言すれば、永久機関というものは実現不可能であると、ほとんど全ての物理学者が、信じているのである。 その一方で、もちろん、世の中には変人もいる。 熱力学の第二法則は正しくないであろう、と考える勢力が少数ながら存在するのであって、私も、その一人である。 いつか熱力学の第二法則の破れを証明することが、私の人生最大の野望である。
閑話休題、「アイソザイムによって反応の向きが異なる」という説明は、それが文字通りの意味であるならば、熱力学の第二法則を否定していることになる。 はたして、本当だろうか。 KALS 時代の私は、この重大な問題について、キチンとした説明を加えている文献を発見することができなかった。
時は流れ、過日、ふと思い立って、この問題について再び文献調べを行ってみた。 すると、これについて明瞭な解答を与えている文献に出会うことができた。 詳細について書こうと思うのだが、そろそろ記事が長くなってきたので、後日にしよう。
臨床医学の分野には、名前から入る人が少なくないように思う。 何かを説明する時に「これは○○というものであり……」というような言い方をするのである。 これに対し、理学や工学の連中には「これは、△△が□□するものであって、○○と呼ばれる」というように、名称を後回しにする文化があるように思う。 教科書を開いてみても、臨床医学では、まず病名が書いてあって、次に疾患概念、疫学、病態、診断方法、などの順に述べられる。 一方で工学などでは、まず問題が提示され、それに対する解決方法が例示され、その後に初めて、その「解決方法」の名称が述べられることが多い。 この両者の違いは、些末なようであって、実は物事の考え方に対する重大な差異を反映している。
臨床医学のように名前から入る流儀は、暗に、誰か過去の人が提唱した疾患概念、その分類単位を受け入れることを強要している。 たとえば「紅斑性狼瘡とは……」という書き方は、「紅斑性狼瘡」というものが存在することが前提になっている。 「そもそも紅斑性狼瘡などという疾患単位は存在するのだろうか」という疑問を、暗黙のうちに封じているわけである。 これに対し「全身性に慢性炎症を生じる患者の中には、血中に抗二本鎖 DNA 抗体が生じている者がおり……これを便宜上『紅斑性狼瘡』として一つの疾患単位として扱う。」 などとするのが、工学的流儀である。 この場合、「紅斑性狼瘡」という分類はあくまで便宜上のものであって、その分類を否定する立場もあり得ることを認めているのであり、寛容であるし、合理的で受け入れやすい。
我々のように他学部で育った者を別にすれば、多くの医者は、上述の臨床医学的流儀に染め上げられている。 疾患の分類というものは、誰かエラい人が決めた、あるいは天の神様が作ったものとして、既に存在するのだ、という前提で思考が始まる。 重要なのは「患者の体の中で何が起こっているか」であって、「何という名前の病気なのか」ではない、という事実を、ついつい忘れてしまうのである。 だから患者に説明するときも「あなたの病気は○○というものです」という、何の意味も持たない言葉から入ってしまう医師が少なくない。 本当は、「あなたの体の中では、こういう現象が起こっています。そういう病気は○○と呼ばれるので、インターネットなどで調べてみると良いでしょう。」などというのが 適切な説明なのではないか。
これと関連するのが「考え方」という語である。 臨床医療のアンチョコ本をみると「○○の考え方」というようなタイトルの書籍が、少なくない。 もちろん、私の蔵書には、そのような低俗な書物は、ほとんど存在しない。 厳密にいえば大野博司『ICU/CCU の薬の考え方, 使い方 ver. 2』(中外医学社; 2016). というものはあるが、結局、この本は買っただけで読んでいないので、無視して良いだろう。
この手の書物では、「考え方」という語を「アルゴリズム」の意味で使っていることが多い。 これは、臨床医療の分野で広くみられる現象であって、予め決められた手順によって問題を処理することを「考える」と表現するのである。
物理学者や工学者は、「考える」という語を、全然違う意味で用いる。 彼らの言う「考える」とは、「なぜ」「どうして」と問いかけると共に、それに対して必死に答えを探すことをいう。 偉い先生が言うことや、教科書に書いてあることを、彼らは安易に受け入れない。 「なぜだ」と問いかけ、徹底的な批判を尽くし、それに耐えきった場合にのみ、それを受け入れるのである。 そういう能力を、彼らは大学の 4 年間で身につける。
遺憾なことに、おそらくは、ほとんどの大学の医学科で、考える能力を鍛える教育が行われていない。 ただし学生の中には、そうした教育体制に対し漠然と疑問を抱く者も、少数ながら存在する。 そういう人々が、次代を担うのである。
だいたい、どこの病院であっても、公式ウェブサイト上に「病院長あいさつ」のような文章が掲載されている。 我が北陸医大 (仮) も例外ではない。 病院長センセイの写真と共に「北陸医大の特徴」として各診療科等の簡潔な紹介が載せられている。 そして「以上が私達、北陸医大附属病院のスタッフです。もちろん多くの優秀な看護師、薬剤師、コメディカルスタッフの協力なくしては、チーム医療はできません。云々」 と締めくくられている。 たぶん、病院長に悪意はないのだと思う。しかし、非常に問題のある文章であると言わざるを得ない。
まず第一に、この書き方では、チーム医療というものが「医師を中心に、看護師や薬剤師等が協力することによって為されるもの」というようにみえる。 実情がどうであれ、少なくとも建前上は、チーム医療というものは医師ではなく患者を中心として、医師や看護師等は (権限の大小に差はあるものの) 対等な立場でチームを形成して行う、ということになっている。 「看護師、薬剤師、コメディカルスタッフの協力なくしては」という部分に、医師中心の考え方が滲み出てしまっているのである。
第二に「以上が私達、北陸医大病院のスタッフです。」というのも、まずい。 この「あいさつ」では、臨床診療科の他には、臨床検査部など一部の部門が紹介されているのみであって、たとえば薬剤部や栄養部などには、触れられていない。 と、いうことは、この「あいさつ」の書き方では、薬剤部所属の薬剤師や、栄養部の管理栄養士、あるいは院内の衛生を守る清掃員、 病院運営を担う事務職員などは、病院スタッフに含まれないことになる。 また、病理部にも言及されていないので、我々病理医も「北陸医大病院のスタッフ」に含まれないようである。 病院長は、そういう目で、我々をみていたのか。 「うっかりしていた」で済む話ではない。
昨年度、私は、この「あいさつ」に腹を立て、抗議しようかと思ったこともある。が、やめた。 我々病理医は、もとより日陰の存在である。 「8 割方、合っている」という診断に満足せず、残りの 2 割、つまり「誤診しても仕方ない」と臨床医が諦めた少数の患者を守るのが、病理診断である。 多くの患者から感謝され、世間からチヤホヤされる仕事よりも、誰にも知られずに最後の一線を守る任務を選んだのが我々である。 だから、病院の看板として脚光を浴びる内科医や外科医と一緒にいるよりも、病院長から忘れられた薬剤師や栄養士、清掃員、事務職員などと共に歩む方が、我々にはふさわしい。
私は世相に疎いので、よく知らなかったのだが、新潟市民病院で後期研修医が自殺したらしい。 詳しい事情はよくわからないが、過労を背景として鬱病を発症し、自殺に至ったものと思われる。 元・准看護師であり、28 歳で新潟大学医学部に入学し、34 歳で初期研修医、36 歳で後期研修医となって一年足らずで亡くなったらしい。 医学部卒業は、私の場合よりも 1 歳、遅かったことになる。さぞ、苦労されたことであろう。
報道によれば、過重労働を巡り、新潟市民病院は「大半は医師としての学習目的であって、労働ではない」と主張したという。 同じような方便は、我が北陸医大 (仮) でも用いられている。 ある診療科などは、初期研修医が事務作業員として酷使されており、実際の時間外労働は月に 100 時間を大きく超えているにもかかわらず、形式上の時間外労働は少なくなっている。 と、いうのも、時間外労働と認められるのは「指導医の指示により患者を直接診療する行為」などに限定されており、 そうした事務仕事などは、時間外労働に含まれないのである。 また、直接命じられてはいない「自主的」な診療行為は、時間外労働に含まれないが、そういう「自主的な診療行為」をしない研修医は、評価が下がるであろう。 まぁ、世間でよくみられるような不法な過重労働は、病院においても同様に存在する、という話である。
病院、特に外科系を中心とした一部の診療科に特有の問題は、そうした過重労働を自慢する時代錯誤な風潮が、現代においても存在することである。 「患者がいるのだから、診なければいけない」などと、もっともらしいことを言って、キツいこと、家に帰れないことなどを自慢するのである。 もちろん、そういう診療体制は医師だけでなく患者にも害を為すものであって、本当は、何の自慢にもならない。 人手が足りないなら、何とかして人材を確保すると共に、他職種でも可能な仕事は分担するとか、入院患者を何とか減らすとかして、対応しなければならない。 そういう工夫を怠り、単に過重労働で補おうとするのは、あまり賢明な態度ではない。 そうと知らずに、そういう診療科にマトモな人が入ってしまうと、最悪の場合、生きていくのが嫌になるであろう。
なお、私に限って言うならば、そういう過重労働は行っていない。 本当に自分がやりたいことしか、やっていないからである。あるいは、実は危機回避能力が高いのかもしれない。 たとえば、多くの研修医は空気を読んで、本当は参加したくもない「医局旅行」とか「医局の忘年会」などに参加しているようである。 が、私は、公然と欠席している。 昨年末には、当時研修を受けていた某内科の忘年会に誘われ、一度は参加する旨を返事した。 しかし、「何か出し物をするのが慣例である」と聞き、参加を撤回した。 宴会芸の類は、みるのも、やるのも、嫌いだからである。静かな食事会だと思って参加表明したのだが、話が違うようなので、取り下げたわけである。 人によっては、こういう私の態度を「空気を読めない」と批判するであろうが、私は、空気を読む必要を認めない。
遺憾なことに、他の多くの研修医は、そういう場面で指導医に対して不要な配慮をし、ストレスを抱え込んでいるらしい。
膠原病学の教科書は、多くない。日本語の書物でいえば、キチンとしたものは塩沢俊一『膠原病学』改訂 6 版 (丸善; 2015). ぐらいしか、私は知らない。 有名な書物としては三森明夫『膠原病診療ノート』第 3 版 (日本医事新報社; 2013). もあるが、これは、まえがきにも書かれている通り 臨床医療のための「マニュアル + 実例集」であって、医学の教科書とはいえない。 若い学生や医師の中には臨床的に「役立つ」マニュアル本ばかりを珍重し医学書を軽んじる者もいるが、 そういう者は初めのうちは活躍して「デキる」医師のようにみえても、結局は大成しないであろう。
残念ながら、膠原病学の分野では、舶来書にも名著は少ない。 私は Firestein GS et al., Kelley & Firestein's Textbook of Rheumatology, 10th Ed., (2017). を購入した。 しかし、膠原病学が広範で深淵な学問の集成であることを思えば、この書物の記載はなお浅薄であり、遺憾ながら、膠原病学の聖典とまでは呼べない。
ところで、初期臨床研修において、指導医の患者に対する病状等の説明を傍で聞いていると、疑問に思うことがある。 治療の方針などを医師側が一方的に決定し、その結果だけを患者に伝えるような「説明」するような事例も多い。 また、説明するにしても、「これは、こういうものなのだ」と決めつけるような言い回しを多用し、論理がつながっていないことも多い。
新しい治療を開始するとき、患者に対して「○○の治療を開始することになりました」「△△をやろうと思います」と「説明」する者は、遺憾ながら少なくない。 が、これは「宣言」であって、「説明」ではない。 日本、あるいは、少なくとも我が大学のある北陸地方の某県においては、こういう医師の態度に対して公然と反発する患者は少ない。 実際には医師の言うことを理解できておらず、納得しておらず、内心では不安や不満を抱えていても、それを表明できずに、うわべだけ「同意」するのである。 医師の方は「キチンと説明した」と思っていても、実際には何も伝わっていない。 結果として患者の自己決定権を毀損し、真の意味でのインフォームドコンセントを欠いているのである。
このあたりの問題について、いつか日記に書こうと思っている。 過日、たまたま上述の『膠原病診療ノート』の「終章」を開くと、ちょうど三森氏が、私の言いたいことをよくまとめて記載してくれていた。 いささか長くなるが、該当個所を引用する。
適切に判断する, あるいは正しいほうに修正する方法として, 言葉と表現法が重要と思われる. 診断過程について, なぜそう考えるのかほかの医療スタッフに説明し, 治療の選択肢の意味を患者に説明するとき, 矛盾なく言えればたぶん正しい判断に近いだろう (何故なら, そう言えるときは問題を合理的に把握しているときだから). 通じない言葉を使っているときは間違っているか, これから間違う可能性がある. 説明の根拠として, そう書いてある文献があるから, というのは説得力がないであろう (語る者の判断が含まれていないから).
説明責任を果たさない人は誤りを犯す, ということを筆者は (日本社会の構造を分析したオランダ人ジャーナリストの名著から) 学んだが, この原則は広範囲に適用できる. 正当さの判定基準が言葉に依存するというとき, 重要なのは結論の内容よりも結論のしかたである. 今後は……が必要とされる, とある人が言い, 理由を尋ねられて, ……が時代の趨勢だから, と答えたなら, その答は誠実でないとすぐわかるだろう. これは一般的な例で, 不誠実な答え方にも多くの変種が蔓延しているが, 医療に必須なのも論理的誠実さであって, 倫理や思いやりを持ちださないほうがよい. この意味で誠実なら, ある時点で判断を間違っても修正がきくし, 患者もスタッフも納得するだろう.
はたして、あなた方は、患者に対してキチンと説明できているか。
本日は初期臨床研修の一環として、駅前の献血ルームで献血者検診を行った。 この献血ルームでの検診は、私にとって 2 回目である。
研修医の中には、この献血者検診を「つまらない」「金をもらえないバイト」などと表現する者もいるが、私は、この検診をたいへん楽しんでいる。 なにしろ、献血ルームの中に医者は私一人であって、全ての医学的判断の責任が私に降りかかって来る。 何かあっても相談できる指導医はいない。 病院での研修でも、時には病棟で独りぼっちになることはないでもないが、指導医に電話等で報告・相談できるし、最終的な責任が研修医に降りかかることはない。 しかし献血ルームでの研修は、本当に独りぼっちの状況なのであって、たいへん緊張し、内心、盛り上がる。
前回、この献血ルームで検診をした際には、問診で要チェックとなる献血者が多く、私としてもドキドキワクワクした。 しかし今回は、なぜか「全く問題なし」となる献血者が多く、いささか拍子抜けであった。 もっとも、これは献血者が皆、健康体であった、というわけではなく虚偽申告しているためであろう。 中には「アレルギー疾患などにかかっていない」と述べる一方で「抗ヒスタミン薬を飲んでいる」という人までいた。 たぶん、花粉症やアレルギー性鼻炎は「アレルギー疾患」に含まれないと思っているのだろう。 あるいは、こんなつまらない病気で検診医を煩わせては申し訳ない、などと配慮してくれているのかもしれない。 しかし私は、献血者の健康状態を確認する目的で動員されているのであって、それが本当に「つまらない病気」なのかを判断するために献血ルームにいるのだから、 かような配慮は無用である。 素人が、そのような気をまわす必要はない。
献血バスでの献血の場合は全血の献血のみであるが、このような献血ルームの場合、成分献血を行うことが多い。 これは、血小板のみ、とか血漿のみ、とかを献血し、赤血球は献血者の体内に返すものである。 この場合、日本赤十字社の規定によれば、一年以内に心電図検査を受けていない 40 歳以上の献血者については、献血ルームで心電図検査を実施することになっている。 本日も、数名の献血者について心電図検査を実施した。
心電図の読み方には、大別して二つの手法がある。 一つは標準的で系統的な読み方であって、矢崎義直他訳『10 日で学べる心電図 --- 短期集中型ワークブック』などの教える手法である。 この書物は、タイトルこそ、いささか低俗な雰囲気を醸し出しているものの、中身は硬派なので、お勧めである。 もう一つは、山下武志『3 秒で心電図を読む本』に代表されるような、簡略に重大な所見のみを拾う読み方である。 なお、この山下氏の書物などは、系統的で標準的な読み方を習得した後に手を出すべきものであって、心電図学を修得していない学生や研修医が安易に読むべきではない。
前回、私が献血ルームで検診した際には、私は簡略に重大所見のみを拾うやり方で、心電図を読んだ。 「まぁ、献血の検診だし」というような、いささか不謹慎な態度であったことは否定できない。 実は今回も、一例目の心電図は、同様に簡略方式で読んで「正常」と判定した。
しかし、その後、私は反省した。 何も、患者が生死の狭間をさまよっているわけではなく、心電図を迅速に読まなければならない状況ではない。 ここで正統な読み方をしないことを正当化するような事情は、何ら存在しないのである。 そこで二例目以降は、私は正統派の読み方に切り換えて診断することにした。
その結果、少しだけ困ったことが起こった。 「陳旧性中隔心筋梗塞の可能性を否定はできないが、虚血性変化を強く疑う所見はない」ような心電図が、出てしまったのである。 私はこれを「陳旧性梗塞疑いであるが、採血可」と判定した。 心筋梗塞を疑うような場合は、採血不可とするのが普通であるから、この私の判定内容は、他人がみたら、理解に苦しむかもしれぬ。
こういう場合は、細かな所見にこだわらずに、敢えて簡略読みに徹する方が良いのかもしれぬ。いささか、悩ましい。
我が北陸医大 (仮) の恥部を曝すことは、私にとっても不本意ではある。 しかし、この日記は、私が何を考え、何を試みたのかを率直に記すことを旨としているのだから、恥ずかしいからといって、隠すわけにはいかない。 もちろん、事実を全て明瞭に記すことには若干の問題があるから、いささか曖昧な表現になることは、ご容赦いただきたい。
現在、北陸医大においては診療にあたり、二つの重大な法令違反が公然と反復して行われている。 そのうち一方は別の機会に書こうと思うので、ここでは、もう一方の件についてのみ触れる。
医療安全についてである。 だいたい、どこの病院でも同じだと思うのだが、我々は放射線被曝の程度を測定する個人線量計を病院から配布されている。 診療にあたり放射線を扱う機会は多く、当然、被曝の危険があるのだから、不適切な被曝を早期に発見し、早期に対応するためである。 放射線管理区域、つまり被曝の危険があると考えられる領域に入る際には、原則として個人線量計を着用せねばならない、ということが法令で定められている。
当然のことであるが、被曝の可能性がある業務に従事している看護師や放射線技師などは、例外なく、個人線量計を着用している。 もし着用していなければ、上司から厳しく叱責を受けるであろう。 一方、医師について観察してみるとと、個人線量計を着用していない者が圧倒的に多い。 もちろん、着用しないことに正当な理由はない。
「個人線量計をつける、つけないは、個人の判断だ」などと思っているのかもしれないが、着用は法令で定められた義務なのだから、個人の自由ではない。 また、放射線防護が杜撰な職場では、無知な研修医や学生が不適切な被曝をすることになる。 私は、放射線の元専門家という立場でもあるから、こうした不適切な診療・教育体制を黙って見過ごすわけには、いかぬ。
「他の医師が着用しなかったからといって、君が困るわけではないだろう」などと頓珍漢なことを言う人もいる。話にならない。 なぜ、「自分が困るかどうか」が基準になるのか。 いつから、あなた方は、そうした自己中心的な考えを恥ずかしげもなく言えるようになったのか。 不正なこと、危険なことを目撃して、ただ黙って看過することは、不道徳ではないか。
北陸医大では、定期的に、研修医と病院長の懇談会が開催されている。 その席では、研修医から病院長への要望などを述べる機会が設けられるのが通例である。 私は昨年度、この席において、個人線量計を着用しない指導医が多いことについて苦情を申し上げた。 上の者がそれでは、研修医の側にも気の緩みが生じ、医療安全上の問題が生じる、と述べたのである。 しかし、その後も個人線量計を着用しない風潮が改善された様子はないし、着用を徹底するように、との通達も受けていない。 まぁ、私の言うことに耳を貸す必要などない、と思われているのであろう。 病院側がそういう態度であるならば、私にも考えがある。
診療科によっては、個人線量計を「外すように」指導される例があると聞く。 つまり、大量の被曝を暗に前提として診療を行っており、被曝の事実が記録に残ると面倒だから、外せ、というのである。 話にならない。法令違反であり、いわゆるパワハラである。 もし、日常診療でそれほど甚大な被曝をしているのであれば、その診療のやり方に問題があるのだから、修正しなければならない。 大量被曝を前提とした診療は、不合理であり、医学的に不適切である。被曝を研修医に強いることは、暴行罪にあたる。
そうした診療科で研修を受けた研修医が、なぜ黙っているのかは、知らぬ。
医療行政上、大学病院は急性期病院と位置付けられている。 急場を凌いだ患者は、退院するか、あるいは療養病院に転院させるべきだ、ということになっているのである。 そこで問題になるのが、医療上は自宅への退院が可能であるが、自立して生活することが困難な患者、平たくいえば介護を要する患者についてである。
病院内で患者の退院後のサポートについて議論すると、基本的には家族が患者の介護をするべきである、という前提で話が進められる。 高齢の患者について、同一市内に息子夫婦が住んでいる、という情報が出ると、ホッとするのである。 それに対して子供は皆、遠方に住んでいる、という話になると、皆、頭を抱える。 だが冷静に考えてみると、息子夫婦が近くに住んでいるからといって、その息子夫婦に、老いた親の世話をする余力があるとは限らない。 もちろん、「できることなら、親の世話をしてやりたい」と思う人は少なくないであろうが、それを現実的に行うことは 経済的にも、体力的にも、そして社会的にも、容易ではない。 その点を、医療者の皆様がどのように考えているのか、私は知らない。
私の場合であれば、両親に何があろうとも、私は絶対に、介護も同居もしない。 私は独身であるが、仮に結婚して、妻が介護に意欲を示したとしても、私は断固として反対するであろう。 我が両親も、私が犠牲を払ってまで彼らの介護をすることは、望まないはずである。 実際、まだ私が両親と同居していた頃、我々は、その問題について話し合ったことがある。 その時、両親は「子供が親のために犠牲になるようなことは、あってはならぬ。」と私に厳命したのである。
もちろん民法第 877 条には「扶養義務」というものが定められており、子は親を扶養する義務を負っている。 しかし、この「扶養」というものは、扶養する側が社会的地位に相応な生活を営んだ上で、余力があるならば支援しなければならない、という程度の意味と解釈されている。 さらにいえば、これは民法の規定に過ぎないのだから、「親が子に対して扶養を求めた場合、正当な理由がなければ、これを子は拒めない。」という意味に過ぎない。 親が「子供に迷惑をかけたくない。」と言っている場合には、適用されないのである。
患者の退院支援に関する講習などで、患者の子などが介護に積極的であるような架空のシナリオをみる度に、私は、上述のようなことを考える。 その「介護に積極的」な態度は、本心から発したものなのか。 患者が予想よりも長く生きた場合、たとえば余命 3 ヶ月と思われていた患者が一年以上にわたり生存する可能性も、理解した上での決断なのか。 特に患者の子の配偶者が介護に積極的である場合、それは社会的事情から、やむなく本心に反することを言っているのではないかと、私は心配する。 しかし、そういう懸念を述べても、その種の講習会では笑われるだけで終わることが多い。
医師や看護師だって、介護する側の負担、介護したくない気持ちについて、理解できないわけではないだろう。 ただ、自分達の仕事が増えるのが嫌だから、患者を家族に押しつけたいから、その部分から敢えて目を逸らしているのではないか。
4 月と 5 月は、麻酔科での研修であった。 ひたすら手術室で麻酔をかけ続ける日々であった。 私は、もとより麻酔科学には大いに関心を持っていたから、楽しい日々ではあったのだが、 臨床麻酔手技には必ずしも通じているわけではないし、何より、手術中の患者の生命を預るのは精神的負担が重く、疲労困憊の日々でもあった。
ところで、初期臨床研修における麻酔科の位置付けについては、意見が分かれるところであろう。 たぶん、多数意見は、気管挿管や動脈穿刺などの手技を経験し、身につけることができる、という点を麻酔科研修の意義に挙げるのではないかと思う。 しかし私のような病理医の卵などにとっては、気管挿管や動脈穿刺の手技などというものは、興味はあるものの、身に付けることに実際上の意義は乏しいように思われる。 仮に、将来的に、医師が私しかいない状況において生命の危機に瀕している患者と遭遇する可能性もないではないが、 そういう場合に敢えて気管挿管したり、動脈穿刺したりするつもりはないし、やるべきでもないだろう。
では、麻酔科研修は単なる興味、楽しみだけの目的で行ったのかというと、そういうわけではない。 指導医の監督下とはいえ、自身の判断に基づき、自分の手で薬剤を患者に投与し、その結果をモニター等を通じて詳細に観察する、という経験は、 たぶん、麻酔科以外の診療科では得ることができない。 机上の学問として、プロポフォールだの、フェンタニルだの、エフェドリンだのといった薬について勉強し、その薬理学的特性を知ってはいたが、 それを現実に患者に投与して初めて気づくこと、考えることは、甚だ膨大である。 私の限られた想像力では、座学のみで、麻酔科学や薬理学、生理学の深淵に思いを馳せることは、到底、不可能なのである。
そもそも病理医にとって麻酔科学や薬理学は不要ではないか、とする意見もあるかもしれぬ。 が、それは、もちろん誤りである。 病理学は医学の根幹を成すのであって、麻酔科学を含めた全ての臨床医学の基礎にあたる。 また病理学は全ての基礎医学の上に成立しているのであって、薬理学を識らずして病理学を修めることは不可能である。 病理診断学が病理学を基礎として成立している以上、どうして、病理医が麻酔科学や薬理学を修めずにいられようか。
換言すれば、そうして医学全般に通じていることこそが、我々病理医の、他の臨床医に対する優越性の由来である。 学識の「広さ」こそが、我々の武器なのである。 さらにいえば、私の場合、学識の「広さ」が医学の範疇のみならず工学にまで及んでいる点において、他の医師よりも圧倒的に有利な立場にある。 9 年間の年齢的ハンディキャップを背負っているとはいえ、この「広さ」の恩恵は絶大であり、充分に勝負になると考えている。
だから私は、麻酔科に限らず、他の診療科においても、あまり手技の習得を重視していない。 それは指導医にも伝わっているようであり、病理志望を明言している私に対し、かなりの配慮をしてくれる指導医は多い。 まこと北陸医大 (仮) の人々は、寛大である。
本日は、北陸医大 (仮) で開催された緩和ケア研修会の第 2 日であった。 講義とグループワークを主体とする研修会であったが、特に講義の方は、質疑応答や討議の時間が乏しく、講師と参加者の双方向性が損なわれていたように思われる点が遺憾である。 せめて講義の最後に 5 分ほどの質疑応答時間が確保されていれば、事情はだいぶ違ったであろう。 もちろん、その点は終了後のアンケートに記載しておいたので、今後、改善されることを期待する。 本当は研修会で質問したかったのだが、結局、タイミングがつかめずに懐に抱えたままになってしまった問題を、ここに書いておこう。
第一は、緩和ケアの定義である。 研修会では、WHO による定義の日本語訳が引用されていた。 英語での定義は
Palliative care is an approach that improves the quality of life of patients and their families facing the problem associated with life-threatening illness, through the prevention and relief of suffering by means of early identification and impeccable assessment and treatment of pain and other problems, physical, psychosocial and spiritual
これを私が訳すと、次のようになる。
緩和ケアとは、生命を脅かす疾病に直面している患者や家族の生活の質 (QOL) を向上させる取り組みであって、 その手段として、苦痛の予防や軽減に焦点をあてたものをいう。 ここでいう苦痛には、疼痛や、その他の身体的、心理社会的、および精神的なものを含むのであって、これらを早期に察知し網羅的に評価することが重要である。
英語を読める人は気づいているであろうが、私は英語を訳すとき、あまり一般的ではない方法を用いている。 この場合でいえば、原文に忠実に一文で訳そうとすると、日本語の性質上「緩和ケアとは ... 取り組みのことをいう」という構造にせざるを得ない。 しかし、これでは原文の `Palliative care is an approach that...' という明瞭な論理構造が失われてしまう。 そこで原文の雰囲気を保つことを優先し、文を分割する訳し方を、私は好んでいる。
閑話休題、WHO の定義では、緩和ケアの対象が「生命を脅かす疾病」の患者に限定されている。 もちろん常識的に考えれば、「生命の危険はないが、さまざまな苦痛により生活が脅かされている患者」も緩和ケアの対象に含めるべきであるから、 この WHO の定義は不適切であると言わざるを得ない。 次に WHO の定義が改訂される際には、この life-threatening という表現は削除されるであろう。
話は変わるが、この緩和ケア研修会の最後に、「癌患者に対し、本当に全例告知すべきだろうか」という疑問が会場から提出された。 もちろん、患者が告知を望まない旨を述べている場合は除外した上での話である。 これは、なかなか深淵な問題である。 昨今では全例告知が当然であるかのように思われているが、それを支持する理論的根拠は曖昧だからである。 研修会においても、この疑問に対しては「臨床的には原則として全例告知しているが……」というような発言しか出なかった。
私は、この問題は緩和ケアというより、むしろ法医学の問題と考えるべきであると思う。 法令で明確に規定されているわけではないが、医療行為の違法性を阻却するためには、意識障害や認知機能障害のある場合を除き、患者の同意が必要だと考えられている。 一方、正確な情報を与えられていない状況での形式的な同意は法的に無効であるから、告知なしには「患者の同意」を得ることが不可能である。 簡潔にいえば、インフォームド・コンセントのない医療行為は違法である、ということになる。 従って、告知せずに医療行為を実施することは、違法であるといえよう。
なお、緩和ケアと法医学、ということでいえば、世界的に長年、議論され続けているのが尊厳死の問題である。 この人道上、極めて重要な問題について、緩和ケア研修会において全く触れられなかったことは、甚だ遺憾であった。 私自身は、緩和ケアにおける最終手段として、いわゆる積極的尊厳死を認めるべきであると考えている。
本日と明日、北陸医大 (仮) では「緩和ケア研修会」が行われており、私も参加している。 研修医も含め、全ての医師に参加が求められているのだが、私は昨年度、有志勉強会などの都合により受講しなかった。 すると今年の春、「もし参加しなければ、今後の研修に支障が生じるかもしれない」という強い文句で、当局から参加を要請されたのである。 誤解を招くと困るので弁明しておくが、もともと緩和医療は関心のある分野である。 昨年度の講習会に参加しなかったのは、本当に、勉強会と日程の調整がつかなかったからに過ぎない。
緩和ケアの定義を巡る問題については、別の機会に書くことにしよう。 また、オピオイドの副作用としての眠気に対し、アンフェタミンなどの覚醒剤を併用するのはどうか、という提案については 3 年ほど前に書いた。 この問題については、その後、特に文献調べもしていないので、これも別の機会に書くことにしよう。 今回の話題は、オピオイドの副作用としての依存についてである。
オピオイドというのは、要するに、いわゆる麻薬であるから、これを鎮痛目的で多用すれば依存を来すのではないか、と懸念するのは自然なことである。 オピオイドを適切に使用した場合、有害性よりも有益性の方が遥かに勝る、という点については、ほとんど全ての医師が同意するであろう。 しかし、鎮痛目的のオピオイドがオピオイド依存、俗に言う薬物中毒を引き起こすリスクについては、見解がわかれるようである。
これは日本に限ったことではなく、米国においても、オピオイド濫用の背景に、医師により処方された医療用麻薬の存在を指摘する意見がある。 週刊 The New England Journal of Medicine の最近の記事でいえば、2 月 16 日号 (N. Engl. J. Med. 376, 663-673 (2017).) には 救急外来でのオピオイド処方がオピオイド依存のリスクになっている可能性を指摘する報告が掲載された。 しかし、これに対しては反論 (N. Engl. J. Med. 376, 1895-1896 (2017).) もあり、明確な決着はついていない。 また 4 月 20 日号の Perspective 欄 (N. Engl. J. Med. 376, 1502-1504 (2017).) でも、医療用オピオイドと濫用との関係の曖昧さが述べられている。
そういった事情を踏まえて、 本日の研修会の最後に私は「特に米国では、オピオイド濫用の背景に不適切な医療用オピオイドの使用が存在すると考えられており、 オピオイドの安全性を過度に強調するのは、いかがなものかとも思われる。」という趣旨の発言をした。 しかし、その意図は司会者には明確に伝わらなかったようであり、「適切に処方することが重要であろう。」という方向でまとめられた。 もちろん、私としては「その『適切に処方する』というのが極めて難しいのではないか」と言いたかったのである。 とはいえ、敢えて議論を引っぱって抵抗することが有益とは思われないから私も引っこんだが、いささか遺憾ではあった。
ところが後で別の研修医から教えられたところによると、研修会に参加した年長の医師の一人は、その司会者のまとめ方に対して「そういう話ではないだろう」と呟いていたらしい。 やはり理解してくれる人は存在するのだ、と、私は嬉しくなった。 そういう人々に支えられて、私は、日々の研修に励んでいるのである。
医学科生や研修医の中には、新しい医学を創ろう、という意欲と志を持っている者は、遺憾ながら多くないように感じられる。 誰かが作った医学・医療を、そのまま受け売りするだけで満足する。 「ガイドラインでは云々」とか「治療法は決められている」とかいった、医学の観点からすれば荒唐無稽な発言が若者の口から聞かれることが、その証左である。 もちろん、全ての学生がそういう態度なわけではなく、名古屋大学時代の同級生の一部は当時から野心的であったし、北陸医大 (仮) の同僚にも、野望に燃える者は存在する。 が、少ないのである。
それについての彼らの弁明は決まっていて「知識が乏しいから」「経験が浅いから」「もっと勉強してから」といった具合である。 もちろん、彼らが今後、知識を積み、経験を重ね、勉強を尽くしたとしても、それで態度を変えるとは思えない。 本当に野心的な者は、学生のうちから、その眼に炎を宿しているものなのである。
たとえば、ある疾患に対する手術法について議論したとする。 私が「この層で剥離して、この部分だけ切り取れば良いんじゃないか」などと言うと、「それはできないのだ」という答えが返ってくる。 「なぜだ」と問えば「そういうデバイスが存在しないのだ」というのである。 デバイスが存在しないのなら、造れば良いではないか。 造りたいと思ったが何か問題があって造ることができない、というのなら理解できるが、そもそも造ることを考えなかったのであれば、野心が乏しいと言わざるを得ない。
過日、健康診断の結果が届いた。 血液検査で血球算定だけ行われており、私は、赤血球数が 542 x104/μL であった。 基準範囲は 400-539 x104/μL であるから、僅かに高値である。 それ以外の項目は全て基準範囲内であった。
結果表には「医師の診断」という項目があり「要経過観察」とのみ記載されていた。 何をどう経過観察するのかは、述べられていない。 なお、「健康診断を実施した医師の指名」として、県の健康増進センターの某という医師の名が記されていた。 私は、この診断にフンガイし、近くにいた研修医に対して「この○○という奴は、藪医者である」とまくしたてた。
私の赤血球数が、基準範囲上限よりも 3 x104/μL だけ高いからといって、この医者は、一体、いかなる疾患を疑っているのか。 真性多血症の可能性がある、とでも言うつもりなのか。 まさか、基準範囲から外れている、というだけの理由で「経過観察を要する」などと診断したわけではあるまい。
基準範囲などというものは、「健康な人の多くが、この範囲に収まる」というだけの数値であって、これを外れたからといって「異常である」とはいえない。 だから臨床検査医学では「正常範囲」ではなく「基準範囲」と呼ぶのである。 基準範囲を外れたから経過観察を要する、などと安直に判断するぐらいなら、医者などいらぬ。 この健康増進センターの医師は、私が北陸医大 (仮) の医師であると知った上で、この診断を下したはずである。ある意味、勇気があるといえよう。 それとも、北陸医大は、そこまで馬鹿にされているのだろうか。
まぁ、相手が私のような医師であれば、こういうデタラメな診断でも構わない。こいつは藪医者だ、と嗤われるだけで済むからである。 しかし素人相手に、安易に「要経過観察」などと報告すれば、どうなるか。 もしかして自分は何か病気なのではないか、と無用な心配を抱き、あるいは仕事を休んで近くの病院を受診してしまうかもしれない。 医師たるもの、自分が「要経過観察」と診断することが相手に与える影響を、よく理解しておく必要がある。
実際のところ、実はこの日、私は朝から充分な水分を摂らずに手術室に詰めていた。いささか脱水気味であったと思う。 血液も、多少は濃縮されていたはずであって、赤血球数が高めに出たのは、そのせいであろう。
昨日述べた心電図において、胸部誘導右脚ブロック様の所見があるのに QRS 幅の拡大がないのは、なぜか。 典型的右脚ブロックであれば、右室の興奮が遅れ、最後に興奮する右室側壁は正常よりもかなり遅れることになり、結果として QRS 幅が拡大する。 従って、もし何か側副伝導路のようなものがあり、右室側壁が比較的早く興奮するならば、右脚ブロックにおいても QRS 幅は延長しない。
この患者に、そうした側副伝導路が存在した可能性は否定できない。 しかし、前壁梗塞と右脚ブロックに、たまたま房室ブロックを合併し、しかも側副伝導路もあった、というのは、偶然が重なり過ぎているように思われる。 もう少し自然な解釈は、ないものだろうか。
そこで心臓病の薄い教科書である Lilly LS, Pathophysiology of Heart Disease, 6th Ed., (2016). をペラペラとめくったところ、ふと、気がついた。 「右脚 Right Bundle Branch」という語が厳密にどこからどこまでを指すのかは曖昧だが、この右脚の遠位側には moderator band と呼ばれる構造物の中を通る分枝がある。 このあたりの刺激伝導系の解剖学的構造の研究の歴史は Circulation 113, 2775-2781 (2006). のレビューに、よくまとまっている。
His 束から生じた右脚は、基本的には心尖部に向かうのであるが、この右脚から分かれて moderator band に向かう分枝は、心尖部を経ずに右室側壁に至る。 左脚の場合は「前枝」「後枝」という名称が用いられるが、どうやら右脚の場合には、はっきりした名称が与えられていないようである。 便宜上、心尖部に向う分枝を「右脚前枝」または「右脚遠位部」と呼び、moderator band に向かう枝を「右脚後枝」などと呼ぶことにするが、これは正式な名称ではない。
さて、もし、この右脚前枝でブロックが生じたら、どうであろうか。 右脚後枝を介して右室側壁は正常に興奮する一方、Purkinje 線維の吻合を介して、右室心尖部付近も、正常よりは少し遅れながら、正常な QRS 時間内に興奮するであろう。 その場合、QRS 幅の明らかな延長を伴わずに、胸部誘導の QRS 波形も、II, III, aVF の二峰性 R 波も、説明可能である。 なお、こう解釈した場合「陳旧性前壁梗塞のみであって右脚ブロックを伴わない場合」との鑑別が問題になるが、それは今回は割愛する。
さて、右脚前枝でブロックが生じた場合、本当に、普通の右脚ブロックとは異なる波形になるのだろうか。 その疑問については、心筋梗塞で死亡した患者の心臓を病理解剖で詳細に調べた報告 (Br. Heart J. 65, 317-321 (1991).) が参考になる。 これは、急性前壁中隔心筋梗塞で死亡した患者のうち、心電図上完全右脚ブロックを呈した例と呈さなかった例を各 10 例、計 20 例について調べたものである。 この報告によれば、完全右脚ブロックを呈した例は全て、moderator band よりも充分近位にまで梗塞が及んでいた。 換言すれば、moderator band より遠位のみの病変では、完全右脚ブロックは生じなかったのである。 これは、上述のような理論的予想と合致する所見である。
このような右脚前枝ブロックが、臨床的に、それなりの頻度でみられるものなのかどうかは、知らぬ。今後は、よく注意してみることにしよう。
心電図学を得意、あるいは好き、という医学科生や研修医は、少ない。 その原因の一つは、電気物理学をよく理解することなしには、心電図の理論を修得することが不可能な点にあるだろう。 普通の医学科のカリキュラムでは基礎的な物理学すら満足に修めないので、一般的な学生や研修医が心電図を好きになるはずがない。 幸い、私は物理系出身者であり、並の医者よりも、はるかに物理学や電気生理学に通じているので、臨床的興味とあいまって、心電図学に尋常ならざる興味を抱いている。 平たくいえば、心電図オタクなのである。
本日の話題は、心電図異常の一つ、右脚ブロックである。 もちろん、そこらへんの参考書やウェブサイトに書いてあるような内容ではなく、スフィンクスの問いかけのような、神秘的な謎の話である。
きっかけは、一枚の心電図であった。 正常洞調律、心拍数 62 /min, PR 間隔延長 (295 ms) があり、V1 で QRS 群が右脚ブロック様波形、V3 は QrS パターンであった。 心電計の自動診断機能では I 度房室ブロック、不完全右脚ブロック、前壁梗塞疑い、となっていた。 しかし私は直ちに、これは右脚ブロックではない、と判断した。 V1 は右脚ブロック様ではあるものの、よくみると RsR' ではなく RsR's' パターンであり、QRS 幅は 96 ms で拡大しておらず、V6 は qRs パターンである。 さらに II, III, aVF には s 波がなく R が二峰性であった。これらの所見は、右脚ブロックでは説明できないのである。
心電図学を少し勉強した人であれば、私が II, III, aVF に言及していることに首をかしげ、あるいは激しい人であれば私を馬鹿呼ばわりするであろう。 普通、右脚ブロックの診断に際し、これらの誘導は重視しないからである。 しかし典型的な右脚ブロックであれば、II 誘導には s 波が生じなければならない。 なぜならば、右脚ブロックでは右室側壁が遅れて興奮するので、これは II 誘導では、どうしても陰性波として検出されるからである。 また、二峰性 R 波も、普通は病的所見とはとらないが、我々は医師であるから、これが異常所見である以上、何らかの考察を加えなればならない。 II, III, aVF 誘導での二峰性 R 波は、下壁の小さな (超音波検査ではわからないような) 陳旧性心筋梗塞と考えるのが自然であるが、 この場合、遅れて興奮した部分が二峰性 R 波の後半部分を形成したと考える方が自然である。
もちろん、こんな心電図は教科書に載っていない。しかし「非特異的心室伝導障害」という診断に逃げるのは、あまり美しくない。 私は電子カルテ端末の前で頭を捻り、隣にいた研修医に話したりしながら、解釈を試みた。 なお、この研修医氏はたいへん優しい人物で、「こいつは、一体、何を言っているのだ?」と思いながらも、私のオタクトークにつきあってくれた。
結論として、私は、この心電図を「右脚遠位ブロック」あるいは「右脚前枝ブロック」と呼ぶべき異常、と診断した。 もちろん、そのような診断名は、教科書には記載されていない。 私は、一体、何を言っているのか。 続きは次回にしよう。
近年、Work-Life Balance という言葉が流行している。 それは医者の業界でも例外ではなく、無理な勤務体系を是正しようという動きが、世界的にみられる。 特に、長時間勤務は医師個人の負担となるだけでなく、医療過誤などを介して患者にも害を与える、という事実が近年では認められつつあり、 内科学の名著 Kasper DL et al. Ed., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (2015). にも記載されている。 また、週刊 The New England Journal of Medicine でも、2017 年 3 月 23 日号の Perspective 欄に、この問題に関する記事が 2 本、掲載された。 私も、不適切な労働環境は早急に是正するべきであると考える。 北陸医大 (仮) の初期臨床研修においても、某診療科で研修を受けている同期研修医の話を聞く限り、不当に厳しい労働内容が課されているようであり、たいへん、よろしくない。
ただし、少なからぬ医学科生や研修医が称える「ワーク・ライフ・バランス」という言葉には、同意できない。 彼らの主張というのは、医者も人間なのであって、仕事は仕事に過ぎず、それ以外の人生を謳歌する権利が当然に認められるべきである、というものである。 しかし、それは違う。 我々は、一個の人間である以前に一人の医者であり、一人の科学者なのである。 長崎大学の開祖が言うように、もはや我々の人生は、我々自身のものではない。 個人の享楽よりも、医師としての職責が優先されるのは当然であって かつて私の虫垂炎をみるために家族スキーを放棄したあの医者の選択は、当然というべきである。 そういう覚悟がない者は、医者になるべきではない。 それ故に、医師という人種は、社会から一定の敬意を払われ、恩恵を与えられているのである。
たぶん、この私の主張に対して医療関係者の大半は同意しないであろう。 が、これはサッカーに例えると、わかりやすい。 プロのサッカー選手が「サッカーは仕事に過ぎない。日々の生活も同様に大事だ。」と言って、普段からフライドポテトを食べ、コーラを飲んでいたら、どうだろうか。 もし、それが世界トップクラスの選手であるなら誰も何も言うまいが、たとえば J リーグ 3 部の選手がそういう生活をしていたら 「そんなだから、お前は J3 なのだ」と言われるだろう。 サッカー選手なら「俺は J3 で充分だ」と開き直ることも許されるが、医者が「俺は、その程度の医者で構わない」などというのは、患者のことを顧みない、許されざる暴言である。
学生時代に医学を修めず、従って専門的な医学書を読む能力を備えておらず、研修医になっても和文症例報告や「わかりやすい○○」というようなアンチョコ本ばかり読んでいて、 それで医者といえるのか。 それで患者の前に座って、恥ずかしくないのか。
もちろん、学問は、義務感から渋々修めるようなものではない。 一流のサッカー選手が例外なく「3 度の飯よりサッカーが好き」と述べるのと同じように、優れた医者は、3 度の飯より医学を選ぶであろう。 医学をやりたい、という自発的感情が湧き起こらないのであれば、そもそも、なぜ、あなたは医者になどなったのか。 医学・医療というのは、他の学問・技術と同様であって、決められた手順を実行すれば済むような単純なものではない。 そのあたりを認識しないまま医師になってしまった者が、稀ではないように思われる。
我々は、仕事だから医学・医療をやっているわけではない。 それが好きだから、我々は医師だから、人生とは医学・医療そのものであるから、だから、それをやっているのである。
名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、外科系診療科の多くでは「他の人がやっているのを、自分がやるようなつもりで、見学せよ」などと言われる。 何回か見学すると「さぁ、やってみろ」と言われることもある。で、まともにできないと「きちんと予習しなかったのか」などと言われる。
私は、少なくとも日本の臨床外科的基準からいえば、外科医としてのセンスが非常に乏しいのだと思う。 見学しても「みえない」し、予習をしても、いざ実際にやろうとすると、できない。 こういうことを言うと、臨床外科を好きな人達は「それは、見学の仕方、予習の仕方が悪いのだ」と言うが、私は、そうではないと思う。
これは、病理診断に例えると、わかりやすいだろう。 まず諸君は学生の頃、「自分で診断するようなつもりで」組織像を観察したはずである。 研修医となった現在でも、組織像をみるときには、少なからず、そういうつもりで眺めているはずである。 では一晩、病理診断マニュアルのようなものを予習して、翌日にたとえば胃生検の標本をみた時、キチンと所見を述べ、診断することができるか。
まぁ、十中八九、できないであろう。 私が外科手技をできないのは、それと同じことである。
私が学生時代に見学した某大学の病理学教授は「病理診断というものは、いくらトレーニングを積んでも、できない人には、できない。一定のセンスが必要である。」と言った。 私も、彼の意見に同意する。 確かに診断技術自体はトレーニングによって磨かれるものであるが、それ以前の重要なものを、我々は、病理診断学の道に踏み入れる前から、持っていたように思う。
なかなか言葉では表現し難いが、次のようなことである。 組織像をみて、そこで展開されている生命活動のドラマを想像する能力を、我々は、トレーニングで身につけてきたわけではない。 まだ組織学も基礎病理学も修めぬうちに、初めて組織標本をみた時から、我々は自然と、その細胞達の動きを想像し、空想を広げてきた。 いわば、それまでの二十年ないし三十年の人生において、そうした能力を、無意識のうちに培ってきたのである。 子供のような好奇心と興味を持ち続けてきた、と言っても良い。 しかし病理に関心の乏しい学生などと話すと、「○○の所見があれば△△病である」というような、病理学の本質からは程遠い、つまらないパターン付けに安易に走る。 それは経験の乏しさ故ではない。むしろ、つまらぬ受験戦争の波にもまれ、純真な心をどこか深い所に閉じ込めてしまったが故であろう。
別の例でいえば、2 年生や 3 年生の頃に修めた生理学や薬理学の内容を、5 年生になって臨床実習に赴く頃にはほとんど忘れてしまっている者もいる。 これは、必ずしも本人の怠慢や不勉強によるものではなく、要するに、医学の素養と資質があまり豊かではないだけのことである。 もちろん、それで立派な医師になれるのかは疑問だが、そういう人々に対し「なんで覚えていないんだ」「きちんと復習しておけ」と咎めるのは合理的ではない。
すなわち、それまでの人生を通じて形成されてきた「適性」とでもいうべきものが存在する。 私は病理学者としての適性はあると思うが、外科医としてはポンコツである。 そうした適性を欠く者、「みえない」者の存在を、教育する側の人間は、よく認識しておく必要がある。 それを無視して誰に対しても同じような指導をするのでは、まともな教育者とはいえない。
私は今までのところ、臨床系の学会に参加したことはない。 が、他の医師の話を聞く限りでは、少なからぬ学会が惨憺たる有様であるらしい。
専門医資格を維持するための要件として、学会への参加を義務付けている例は多いらしい。 その結果、参加受付をして参加費を払い、そのまま「参加せずに」帰る医師が少なくないが、それはマシな例であるらしい。 酷いのになると、同僚の中で一人だけが代表して現地に趣き、全員分の参加費を払い、参加証だけ受け取って帰ることもあるという。 要するに、医学に対する意欲が乏しく、科学者としての良心を欠いているのである。
実際に学会会場に入った者も、そのまま最後まで参加するとは限らない。 途中で抜け出して遊びに行く者も少なくないようである。 一体、何のための学会なのか。
中には「どうせ面白い発表がないから」などと弁明する者もいるが、それは言い訳にならない。 面白くないと思うのは、その人自身の興味の幅が狭いからであって、つまり、不勉強だからである。 「発表内容の程度が低い」と言う者もいるが、それなら、適切な教育的質問をするべきである。 いずれにせよ、大学等から参加費の補助を受けながら学会をサボタージュして遊び呆けることを正当化することはできない。
学会に参加する以上、前日の晩は夜更しせずに鋭気を養い、当日は全力で発表を聴き、機会あらば鋭い質問を飛ばすのが、科学者として正しい姿である。 恥というものを知らぬ医者が、多すぎる。 そして、それをみた研修医の中には「そういうものなのだ」と思う者もいるようだから、どうしようもない。 指導医も研修医も、非常識である。
もちろん、医学以外の業界においても、不謹慎な学会参加者がいないわけではない。 しかし、さすがに参加費だけ払って会場を後にする、などという話は、聞いたことがない。 何より、それを悪いことだと認識していない点において、医者連中の頭の悪さは群を抜いている。
北陸医大 (仮) では、昨年度から、一年次研修医を対象にした「メンター制度」というものが運用されている。 これは長崎大学の事例を参考にしたものであって、各々の研修医に一名、「メンター」と称される医師が割り当てられる。 研修医とメンターは、少なくとも月に 1 会程度は会って話をしたり食事をしたりすることが望ましいとされ、 研修上のことや、それ以外のことなどについて、相談する機会とすることが推奨される。 理屈としては、何か悩みや困ったことなどがあれば、メンターに限らず、研修センターのスタッフや、面識のある医師などに相談すれば良い。 しかし人によっては、そうした相談をすることに抵抗を感じる研修医もいるであろうから、その障壁を取り払う目的で、公的に「メンター」制度が設けられたのである。
メンターは、立候補した 3 年目以降の医師のリストから、研修医側が指名する。 ただし一人のメンターがみることのできる研修医は最大 2 人とされており、研修医側の希望が特定のメンター候補者に集中した場合は、適宜、調整されるらしい。 メンター候補者は、簡潔な内容の自己紹介文を研修センターに提出し、研修医は、それをみてメンターを指名する。 私は昨年度、ある年長の女性医師をメンターに指名した。 彼女は、数少ない、他大学出身かつ他県出身のメンター候補者であった。 それに加えて、彼女は自己紹介文の「趣味」欄に「特になし」と書いていたのである。
普通、「趣味は何ですか」と問われて「特にありません」とは答えない。 無趣味な人間、というのは「つまらない人間」というような意味に解釈されることが多いから、なんとなく、「趣味はありません」と言うのは恥ずかしいような気がするからである。 しかし、我がメンターは、堂々と「特にありません」と書いたのである。
これは、彼女の自信の表れであろう。 堂々と「趣味はありませんが、それが何か?」と言えるのは、自分が医師として、人間として、やましいところのない、立派な存在であると自負しているからである。
実は私は、以前は「趣味は囲碁です」と言っていた。しかし高校卒業以後は、ほとんど打っていないのだから、現状では「趣味」といえるほどのものではない。 今後は、我がメンターに倣って「趣味は医学です」と言うことにしよう。
臨床医の中には、診療に際して、治療の目的をよく考えない者がいるのではないか。
非可逆的な合併症なしに完全に治癒できる疾患の場合は、簡単である。 たとえばコレラだとか、レジオネラ肺炎だとかであれば、よほど特殊な事情がある場合を別にすれば、 患者の苦しみを取り除き、元の健康な状態に回復させることが治療の目的になる。
一方、治癒が不可能な疾患や、あるいは救命すら不可能な患者というのも、稀ではない。 その場合、何を治療の目的とするのか、患者と医療従事者の間で、また患者が望むならば家族等も含めて、よく話し合って合意を形成する必要がある。 こんなことは、緩和医療だの終末期医療だの言う以前に、社会常識として当然である。 しかし一部の病院では、そうした治療目的の確認を怠り、漫然とマニュアル的な、あるいは医師の恣意による医療が行われることがあるらしい。 これは、場合によっては極めて残酷な行為に結びついており、医師による患者の虐待といえる。
これは、特に癌や心臓病において著明である。 臨床医療における抗癌剤の「有効性」というのは、多くの場合、治療を受けた患者の生存率で評価される。 つまり極端な例でいえば、「しばらくは元気ピンピンで生活できるが半年後にコロリと死んでしまう治療法」と 「重大な副作用によりほとんど寝たきり状態になるが、一年間は生存可能である治療法」では後者の方が優れている、とされるのである。 言うまでもなく、これは、不適切である。 この二つの例でいえば、どちらを良いと考えるかは患者の死生観、主観の問題であって、医者が決めるべきものではない。
実際、上述の例ほど極端ではないにせよ、大きく異なる治療法から択一せねばならない状況というのは稀ではない。 2 年ほど前に書いた抗不整脈薬の話でも良いのだが、ここでは別の例を挙げよう。 たとえば重症心不全で、β1 刺激薬を用いなければ生存不可能な患者について考える。 生理学が苦手な人のために少し詳しく説明すると、この「β1 刺激薬を用いなければ生存不可能」というのは、次のような意味である。
心臓の拍出力は、心臓の Starling の法則に従って変化する。 つまり、心拍出量が不足しているような状態では、代償性に体液が貯留することで拍出量を増加させる。 その結果、なんとか適切な拍出量が保たれているのが「代償性心不全」と呼ばれる状態である。 しかし、この機構には限界があり、ある点を過ぎると、心臓は拡張すればするほど拍出量は低下してしまう。 この場合、体液は時間と共に貯留し続け、心拍出量はどんどん低下する。これが「非代償性心不全」である。 もともと感染症などの可逆的な病態から発して非代償性心不全に至った場合には、その原因を除去し、 また利尿薬等で体液量を減らせば、代償性心不全の状態で安定させることができるかもしれない。 しかし、いわゆる心筋症など、心臓自体が弱った結果として生じた非代償性心不全に対しては、心臓移植以外の治療法は存在しない。 なお、β1 刺激薬は心臓の収縮力を増加させるから、一時的には心不全を軽快させることができる。 しかし、これは同時に心臓のリモデリングを促し、結局、心臓の機能衰弱を加速させることが知られている。
さて、心臓自体の異常により非代償性心不全に至った患者に対して、どう治療するか。 β 遮断薬を用いてリモデリングを抑制し、体は満足に動かせないながらも比較的長い時間を家族と共に過ごしたい、という患者もいるだろう。 あるいは、書きかけた論文を完成させるために 3 週間だけ動ければ、後はどうなっても構わないから、β 刺激薬を使いたい、という人もいるだろう。 結局、その人が残りの人生をどうしたいのか、という問題を考えねば、治療方針など定まらないのである。 もちろん、それを決定する権利は本人が専有するのであって、家族や医者は、その権利を有さない。
なぜ、このような当然のことを、ここに私が書いているのかは、敢えて述べない。
5 月上旬の連休に、両親に会った。 私が齢 30 を過ぎても職に就かず、ブラブラと学問ばかりして過ごすのを黙って許し、経済的に支え続けてくれた、あの偉大な両親に、である。 なお、我が両親は私と同様、もともと医者嫌いである。 医療機関を受診するのが嫌い、という意味ではなく、医者という人種の傲慢なることを軽蔑している、という意味である。
たまたま実家に置いてあった、週刊ダイアモンドだか何だかの低俗な雑誌に、医学部特集が掲載されていた。 在籍する医師一人あたりの論文数が多い大学はどこだ、とか、入試の偏差値がどうだ、とか、大学としての格が云々とか、くだらぬ話ばかりが書かれていた。 ただ、少しばかり面白かったのは、高等学校別の医学部進学者数を比較した記事である。
その記事によれば、我が母校、麻布高等学校の一学年 300 名のうち、今年の医学部合格者は浪人勢を含め 69 名であったらしい。 もちろん我が母校は、こうした卒業生の進路についてマスコミ等からの問い合わせには回答していないはずだから、この数字は、あまり正確なものではないはずである。 一方、詳しい数字は記憶していないが、開成高等学校では一学年 400 人のうち 4 割程度、灘高等学校に至っては 6 割以上が医学部に行くらしいから、 麻布の 300 人中 2 割強、というのは、少ない。たいへん、よろしい。
卒業生の多くが医学部に進むような高校というのは、正直に申し上げて、まっとうな教育を行っているとは思われない。 社会科学まで含めた科学全般のこと、社会や政治・経済のこと、文化・教養のことなどについて、広い興味と見識を育むような教育を受けたならば、 卒業生の過半数が医者になる、などという事態には至らぬはずである。 我が母校の素晴らしいところは、こうした進学実績などの「わかりやすい指標」に捉われることなく、人として、科学者・文化人として、 生涯にわたり自己研鑽できるような人材を育んでいる点にある。
麻布から医学部に進んだ者についていえば、進学先の大学にも、なかなか、趣きがある。 京都大学医学部には 3 名が合格したのに対し、東京大学理科 III 類には 1 名だけであったらしい。 これは「麻布の連中の頭脳が東大レベルに達していない」ということではなく「麻布の連中は東大を避ける」というのが真相であろう。 ただでさえ「医学部に行く」ということ自体が恥ずかしいのに、東大理 III になど進んでは、本当に何も考えずに偏差値だけで進路を決めたかのように思われかねない。 麻布生には、それを耐え難い屈辱と考える者が少なくないのであろう。 その証拠に、防衛医科大学校には 8 人程度が合格したらしい。 どうせ医者になるなら、防衛医大に行くぐらいでなくては面白くない、と考える者が少なくないのであろう。
麻布高校というのは、そういうところである。我々の真価は、我々のみが知っている。
名古屋大学時代の同級生の某君の話を書こう。本人の許可は得ていないが、まぁ、彼なら気にしないであろう。
彼の第一印象は、非常に悪かった。 私が名大医学科三年次に学士編入学したばかりの 2012 年 4 月、彼は、頭髪を金色に染め、チャラチャラした格好をして大学に来ていた。 頻回に授業をサボタージュし、出席した場合でも居眠りしているか、友人と私語をしているかで、到底、学生と呼ぶには値しない態度であった。 もちろん私は「あの男に近づくと、馬鹿が伝染りそうだ」と考え、積極的には関わらないことにした。 ところが彼の方は社交性あふれる男であり、時折、私に近づいてきて会話を交わすことがあった。 私の方も、敢えて避けるようなことはしなかった。
私が、おや、と思ったのは、4 年生になって、当時発行されたばかりの『ハリソン内科学』日本語第 4 版を通読する勉強会を始めようとした時であった。 私は同級生の何人かに声をかけ、参加者を募った。 まぁ、どうせ参加しないだろう、とは思いつつも、一応、彼にも声をかけた。 すると何を思ったか、彼は「よし、やろう」などと言った。 私は内心、彼の正気を疑いつつも、結局、私や彼を含む 5-6 名でハリソン勉強会を定期開催することになった。 実は『ハリソン内科学』は、あまり通読して面白い教科書でもないので、結局、参加者が漸減し、この勉強会は自然消滅した。 しかし彼は、時折欠席することはあったものの、最後まで参加し続けた。 他に参加者がおらず、私と彼の二人だけでハリソン勉強会を催行したことも一度や二度ではない。
また、2014 年 2 月から 2015 年 7 月にかけて、週刊 The New England Journal of Medicine に連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital を読む勉強会を計 51 回、開催した。 私を除けば、この勉強会に最も多く参加したのも彼である。 さらに、医学上の疑問や考察、勉強した内容などを、最もよく聴いてくれ、語り合ってくれたのも、彼である。 私が名古屋での 4 年間を腐らずに過ごすことができたのは、彼のおかげであると言える。
彼は、いささか低俗ではあるものの野心的な男であり、有名になりたい、とか、金持ちになりたい、とかいったことを、口にしていた。 また、サッカー選手の本田圭佑への憧れも口にした。 いささか女性関係はだらしなかったが、少なくとも部分的には、子供のような純粋な心を持ったまま現在に至ったのであり、悪い男ではない。
もちろん彼は、名古屋大学の関連病院に就職して一生を安泰に過ごそうなどとは考えなかった。 東京の某有名私立病院の初期臨床研修医になったのである。 競争の激しい採用試験があったようだが、あの男であれば、合格したのも順当である。
過日、ひさしぶりに彼に会った。彼は、いささか研修に疲れていたようである。 「眼科に進もうかな」などと言い始めた。 失礼ながら、ここでいう眼科とは「楽に稼げる診療科」の代名詞である。 もちろん眼科医の中には、加齢黄斑変性の治療などに取り組むような志の高い医師も少なくはないであろうが、 楽で稼げる、という理由で選ぶ者が少なくないのも事実であろう。腎臓内科や糖尿病内科も、そしてもちろん病理診断科も同様である。
私は、最初は「何を言うか。馬鹿げたことを口にするな。」とか「楽で稼げるというなら、いっそ美容外科にせよ。中途半端は良くない。」などと彼をたしなめた。 しかし、ついには「まぁ、眼科でも何でも行くが良い。どうせ 3 年もすれば気が変わるに決まっている。 君は、楽して稼ぐ眼科医として人生を終えるような、ちっぽけな男ではあるまい。」と言った。
実際、彼が初期研修の後、3 年間を眼科医として過ごしたとしても 29 歳である。 29 歳といえば、ちょうど私が医学部に入学した年齢にあたる。 それから道を変えたとしても、何ら、遅いということはない。
形式的には、我々初期臨床研修医は病院に雇用された労働者である。 しかし我々の労働内容については、契約書には明記されていない。
多くの場合、研修医は、その診療科の日常診療業務内容を覚え、その末端構成員として一翼を担うことを「仕事」と認識しているようである。 だから「仕事を覚える」という言葉を、少なからぬ研修医が口にしている。 しかし冷静に考えれば、我々は、その診療科の業務を習得するために研修を受けているわけではなく、 基本的には他科の医師として働くために、医師としての教養を身につける目的で研修を受けているのである。 たとえば内科における点滴や処方のオーダーについてのローカルルールなど、覚えても仕方がない。
そういうわけで、私はこれまでの研修生活で、いわゆる仕事をあまりやっていない。 同期の研修医相手には「仕事なんか、してないよ」と、たびたび放言してきたが、それでも私は、自分が研修医として劣等であるとは思っていない。 結果、一部の指導医からは低く評価されたものの、それなりに好意的に評してくれた指導医も少なくないように感じている。 ひょっとすると指導医の方も、研修医に対する教育の仕方が分からないから、やむなく、研修医でもできそうな仕事を投げているだけなのかもしれぬ。
ところで、北陸医大 (仮) の一年次研修医の一部をみるに、何かを勘違いしている者がいるように思われる。 やれと命じられた任務さえ遂行すれば良いと思っている者が、いるようなのである。 しかし上述のように、指導医の多くは研修医を教育する能力が高くないのであって、その指導に漫然と従っていては、ろくでもない医者になることは明白である。 また、何かわからないことがあっても、自分で調べよう、勉強しようとはせず、誰かに訊いて済ませようとする。 それも、答えだけを訊いて、過程をキチンと理解することなしに、「要領良く」片付けようとするのである。 それでマトモな医者になれると思っているならば、頭がお花畑であると言わざるを得ない。
たとえば、少なからぬ医者は、感染防護に対する意識が低い。 もちろん私は、感染の危険がある行為をする際には、やむを得ぬ事情のある場合を除き、手袋を着用している。 それをみた某麻酔科医から、たいへん、よろしい、との評価をいただいたこともある。 手指衛生の徹底と手袋の着用の重要なることは、名古屋大学時代によく教えられたので、それを北陸医大でも実践しているのである。
しかし多くの医者は、患者の血管を穿刺する際にも手袋を着用しない。結果として頻回に血液曝露する者までいる。 過日、一年次研修医が「血液曝露なんて、しょっちゅうである」ということを述べているのを耳にした。 安全意識の低いこと、正規の手順を踏襲していないこと、要するに医師としての水準が低いことを、恥じるどころか、まるで誇るかのような口調であった。 さながら、悪事を誇る中学生のようである。 たぶん、そういう不適切な行為を少なからぬ指導医が実行しているので、黙って真似しているのだろう。
このように、自分が基本に反する不適切な行為を行っているという事実を、まるで「プロの医者である証拠だ」と言わんばかりに誇る研修医が、一定数、存在する。 医学の総論や医療の基本を学ばないまま、国家試験だけ通過してしまったのだろう。 北陸医大の恥部の一つである。
我が北陸医大 (仮) 附属図書館の書庫は大きくなく、また書庫を拡張するだけの予算もないらしいため、古くて価値が乏しいと考えられる書物を定期的に処分している。 これらの書物は、廃棄する前に、学内に希望者がいれば無償で譲渡されている。 昨年度、私は、処分されそうになった古書のうち白川静『字統』『字通』『字訓』の字書三部作を引き取った。 日本語学や漢文学などを修めた学生であれば、白川の名を知らぬ者は、あるまい。 その字書三部作を廃棄しようというのだから、私は北陸医大図書館員の見識を少しだけ疑ったが、 まぁ、医学関係者は教養が乏しいことを思えば、こうした文学書は需要がないと判断して処分するのも、理解できなくはない。
他にも、私は昨年度、Ackerman の Surgical Pathology の第 5 版と第 6 版を回収した。 これは病理診断学の聖典であって、最新版は第 10 版である。 病理学者としては、こうした骨董品を蒐集したくなるのは自然なことであろう。
さて、今年度も、今週から来週にかけて図書館前に不要図書が陳列されており「ご自由にお持ち帰りください」とのことである。 私は、何か珍品がないものかと物色した末に、いくつかの宝物を回収して研修医室に引き揚げた。 戦利品の筆頭は、Williams Hematology の初版である。 血液学の世界的名著といえば、この Williams と Wintrobe Clinical Hematology が双璧であり、日本に限れば他に三輪血液病学の評価も高い。 Williams の最新版は第 9 版であり、私はこれを愛用しているが、1972 年に刊行された初版が廃棄されそうになっていたので、文化財保護の目的で回収したのである。 なお、歴史としては Wintrobe の方が古く、初版は 1942 年らしい。 もちろん、Wintrobe というのは血液学の巨匠 Maxwell M. Wintrobe であって、いわゆる赤血球指数を発案した人物などとして高名であるが、私は Williams 派である。
他に私が回収したのは、永井書店『臨牀病理學』第 2 版 (昭和 29 年), 吐鳳堂書店『赤血球沈降反應』第 5 版 (昭和 14 年), 金原出版『心音図の読み方』(昭和 38 年) である。 赤血球沈降反応という検査項目は、現代では診断上の価値が乏しいと考えられており、 一部の古い診断基準で採用されているから、というだけの理由で測定されることがあるに過ぎない。 また心音図は、測定が比較的容易で情報量も多い超音波検査が登場して以来、臨床的にはほとんど用いられなくなっている。 だが将来的に心音図の測定デバイスが改良されれば、聴診と同程度に気軽に実施できる検査として、心音図が復権する可能性がある、と私はニラんでいる。
もちろん、こうした古書には、教科書としての価値はない。 しかし、かつての医学者達が何を考え、何に興味を持って研究したのか、その息吹を感じるには、こうした古書は、はなはだ有益である。
なお、金原出版『臨床検査法提要』の第 20 版などは処分されるようだが、第 4 版は開架書庫に残されるようである。 さすが、北陸医大の図書館員は、わかっている。
浸透圧については一昨年書いた。 Hall JE, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed., (2016). などの初等的な教科書には 「浸透圧は粒子の数によって決まるのであって、粒子の大きさや質量には依存しない」と記載されているものの、 これは理想溶液近似を用いた理論においての話に過ぎない、ということも述べた。 すなわち、現実に実験を行ってみると、浸透圧は粒子径や質量に依存するのである。 また、奥村伸生他編『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、臨床検査上は浸透圧は氷点降下法で測定するのが普通であるらしく、 これは理想溶液近似を前提とする手法である、ということも述べた。
現代の臨床医療水準では、浸透圧の微小な相違によって診断や治療が大きく変わることはない。 従って浸透圧の測定精度は、それほど高くなくても実用上の問題は生じず、理想溶液近似に基づく氷点降下法であっても悪くはない。 しかし基礎科学者、臨床検査医学者としては、そうした臨床上の要請の有無に関係なく、より正確で精密な測定法の開発に情熱を燃やすのは当然である。
G. N. Lewis と M. Randall は、熱力学の古典的名著 Thermodynamics (1923). において、活量 activity を用いる形式で氷点降下を定式化した。 しかし Lewis らの理論は、理想溶液からの「ずれ」を「活量」に含めることで便宜的に表現したものに過ぎず、理論としては理想溶液近似の範疇に留まるものであった。 なお、この古典的教科書の第 2 版の和訳本は我が北陸医大 (仮) の図書館にも収められており、私は、これを参照した。
一方、G. D. Fullerton らは、氷点降下は主に溶媒と溶質の間の相互作用に起因すると考え、 理論的根拠は曖昧にしたまま、理想溶液からのずれを経験式で表現したらしい (Biochem. Cell Biol. 70, 1325-1331 (1992).)。 ただし、この文献を我が図書館は蔵していないため、現在、他大学から取寄中である。 この経験式は、当初に想定したよりもはるかに優れた近似を与えることが実験的に示されたため、 Fullerton らは、この式が何か理論的に重要な事実を偶然にもよく表現しているのだと考えた。 そこで彼らが理論として定式化したのが solute/solvent interation model である (J. Biochem. BIophys. Methods 29, 217-235 (1994).)。 これは、一分子の溶質は一定数の溶媒分子の動きを擾乱 (perturb) し、それは溶質の濃度に依存しない、と近似する理論である。 この近似は、分子運動論的な観点から導入されたものであって、熱力学的な背景から生じたものではないことが特徴的である。
現在のところ、Fullerton らのモデルは氷点降下をよく近似する理論であるといえる。 この 1994 年の論文以降、いまのところ、この分野で画期的な理論は提案されていない。
ところで、この G. D. Fullerton というのは、何者なのか。 調べてみると、どうやら米国コロラド大学の教授であって、医師ではなく、1974 年に Doctor of Philosophy (PhD: いわゆる博士号) を取得し、放射線物理学を専門とするようである。 ただし PubMed や ScienceDirect で検索する限り、著した論文数は多くない。 たぶん、教育や臨床で本領を発揮しているのだろう。
PubMed でみる限り、Fullerton 教授の研究は、その一つ一つに学術的意義があり、単なる業績水増しのための論文は、ほとんど、あるいは全く、ないようである。 そもそも、放射線の専門家が浸透圧について画期的な論文を書いていること自体が素晴らしい。 氏が、幅広い科学的教養と、物理学・数学における深い素養を備えていることの証左である。 また、氏が専門とする放射線の領域においても「強度変調放射線治療における二次中性子の線量について (Med. Phys. 32, 786-793 (2005).)」といった 渋い研究を行っている。 この二次中性子の問題は、たいへん面白く、また放射線医学的にも重要なのであるが、ここで議論する余裕はないので、別の機会にしよう。
私も、Fullerton のように、なりたい。
過去にも何度も書いてきたが、医学・医療の世界には、理論を軽視する風潮がある。 これは昨今に始まったことではなく、戦時下において既に京都帝国大学内科学教授の前川孫二郎が指摘しており、 おそらくは、この国で古くから続く因習なのであろう。 しかも近年では、Evidence-Based Medicine (EBM) の旗印の下に統計を偏重する流派が勃興し、理論抜きの統計が横行している。 その結果、統計調査の結果に不合理・主観的で偏った解釈が加えられ、恣意的に臨床現場に持ち込まれている。 この 4-5 月に書いたプロポフォール、感染性心内膜炎、Kaplan-Meier 法などは、その具体例である。
そもそも医学科生や医師の多くは、理論というものを学んだことがないであろう。 ほんとうは、物理学や化学などは、キチンとした理論に立脚する学問なのであるが、大学入試科目の物理や化学は暗記とパターン認識で通過することができるようである。 また、医学科一年生で修める教養科目としての物理学や数学などは、少なくとも名古屋大学や北陸医大 (仮) の人の話を聞く限りでは、まともに学問として教えられていない。 そして医学専門科目の課程においても、知識を授けるだけの授業、やり方を身につけるだけの実習、丸暗記の知識だけで合格できる試験が行われる。 近年では「臨床推論」という言葉が作られ、論理的思考による診断を重視する勢力も登場してきたが、 これは、いわゆる総合診療の立場から進める鑑別診断と同一視されることが多いように思われる。 病理学的理解にまでさかのぼっての、本当に論理的思考には至らないことが大半であろう。 研修医になってからも基本的には同じことであって、医学理論を考えることが求められる場面は、極めて稀である。 これでは、素養に恵まれた一部の学生・医師を除いては、物事を考える姿勢、理論を追求する態度は、身につかない。
さて、私は初期臨床研修修了後も、当面は北陸医大に残る所存である。 とはいえ、一生を一箇所に留まって終えるつもりはないから、遅くとも 9 年後には去ることになるであろう。 それまでに、私が持っているものを全て、できることなら、この大学に置いていきたい。 わからない人にはわからないであろうが、私が京都大学・名古屋大学で培ってきたものは、医師にとっても、かなり役に立つはずなのである。
学生と共に行っている基礎病理学や生理学の勉強会は、軌道に乗った、とまでは言えぬものの、一応は継続開催できている。 あと、もう一押し、何かをやらねばならない。
昨日の記事で、免疫チェックポイント阻害薬の有効性が過大評価されている疑いについて述べた。 しかし普通の医師をはじめとする統計学の素人は、Kaplan-Meier 法の弱点をよく理解しておらず、私の述べた内容を理解できないであろうから、ここで補足説明を行う。 Kaplan-Meier 法の具体的な手順については、統計の教科書やアンチョコ本で述べられているだけでなく、インターネット上にもたくさんの解説サイトがあり、 その内容は概ね正しいと思われるので、ここでは概念だけを説明する。
ある治療を受けた患者の転帰を追跡調査する場合、何らかの事情で追跡できなくなってしまうことは稀ではない。 たとえばイピリムマブによる治療を受けた患者について 10 年間の追跡調査を行おうとしても、5 年後からは病院を受診せず、 電話をかけてもつながらなくなってしまうことは珍しくない。 厳密な統計解析を行おうとするならば、この患者は 5 年後の時点で死亡した可能性も、10 年後まで生存している可能性もある、と考え、 この振れ幅を統計誤差として取り扱うのが正確である。 しかし、その場合、統計誤差の数学的取扱いが複雑になるだけでなく、誤差範囲が非常に広くなってしまうため、あまり意味のある解析結果が得られないことが多い。 そこで「もっともらしい」仮定に基づいて、なるべく誤差範囲を小さくしようとする工夫の結果、編み出されたのが Kaplan-Meier 法である。
Kaplan-Meier 法では「患者は、ランダムに追跡不能になる」と仮定する。 つまり、病状の悪い患者が追跡不能になりやすい、とか、元気な患者の方が追跡不能になりやすい、といった偏りは存在しない、と考える。 たとえば 5 年後の時点で生存していた患者数が 10 名であり、そのうち 6 名は 6 年後まで生存し、2 名は 6 年後までに死亡し、2 名は追跡不能になったとする。 このとき、追跡できた 8 名のうち 6 名が一年間を生き抜いたのだから、この一年間の生存率は 75 % ということになる。 ここで、追跡不能になった 2 名の生存率についても、追跡できた 6 名と同じ 75 % であろう、と推定するのが Kaplan-Meier 法なのである。
常識的に考えて、この推定は、無理がある。 定期的に受診するよう勧められていた患者が、ある時から受診しなくなったとすれば、それは何らかの事情があるはずである。 治療が効いていないように思われるので医者を信用しなくなった、とか、副作用がつらいが言いにくいので黙って別の病院に移った、とか、 あるいは、すっかり治ったように思うので自己判断で通院をやめた、とかである。 あるいは、患者は死亡したのだが、その事実を医療機関側が把握していない、ということも考えられる。 いずれにせよ、追跡不能になったという事実と転帰との間には、何らかの関係があると考えるのが自然である。 これを無視する Kaplan-Meier 法は、みかけ上の誤差を小さくできる便利な解析方法であるものの、その信憑性は高くない。
ある製薬会社と親密な関係にある研究者が、ある邪な意図をもって統計調査を行う場合について考える。 たとえば新薬を投与された患者の病状が悪化した際には、他の病院に紹介するなどして、敢えて追跡をやめてしまうのは有効である。 そうすると、追跡された患者は死なないので、Kaplan-Meier 法によって推定された生存率は高くなる。 その患者に投与された新薬が優秀であるかのようにみせかけることができるのである。 純真な医学科生は、そこまで邪悪な医者は漫画の中にしか存在しないだろう、などと思うかもしれぬ。 しかし、生き馬の眼をもくり抜く昨今の医学界において、そうした医者の良心を信じるのは危険である。 また、故意でなかったとしても「この治療法は有効であってほしい」という願いが医者の心の奥底にあれば、 状態の悪くなった患者については追跡が甘くなり、たとえば電話をかけることを無意識に躊躇し、結果として追跡不能になることを促してしまう。 これが観測者バイアスである。
だから二重盲検法によってこうした偏りを無効化することが重要なのであって、非盲検の臨床試験など、信ずるに足らぬ。
近年、医療業界の一部で話題になっているのが、いわゆる免疫チェックポイント阻害薬である。 これは、PD-1 や CTLA-4 といった、免疫細胞の不活性化に関係する分子を標的とする抗体薬である。 腫瘍細胞の中には、こうした分子を刺激することで免疫応答を抑制するものがあるらしく、 この「免疫応答の抑制」を抑制することで、腫瘍細胞に対する免疫応答を活性化する、という治療戦略である。
これは腫瘍細胞を選択的に殺傷するものではなく、また、腫瘍が宿主の中で生存・増殖する機構の一部を抑制するに過ぎない。 従って、常識的に考えれば、癌患者の予後を僅かに改善する可能性はあるにしても、根治的ではあり得ず、革命的に画期的な薬剤であるとは思われない。 しかし一部には、これを極めて画期的な薬剤であると賞賛する向きがある。
少し古い話ではあるが、月刊「病理と臨床」 2017 年 3 月号に「免疫チェックポイント分子を標的とする分子治療薬とコンパニオン診断」という記事が掲載されていた。 コンパニオン診断というのは、ある治療が効きそうかどうかを判定するための検査のことであって、この場合でいえば、 抗 PD-1 抗体であるニボルマブが効きそうかどうかを調べるのである。 この記事は、これらの薬剤による治療が将来有望である、とする立場から書かれており、次のように述べている。
悪性黒色腫に対するイピリムマブの臨床試験の長期成績の検討では, 3 年目以降生存率は低下せず生存曲線はプラトーとなる. また, 非小細胞肺がんや腎細胞がんに対するニボルマブの臨床試験の検討においても, 治療に反応した症例では腫瘍縮小が 3 年以上の長期にわたって持続することが示されている. このことは免疫チェックポイント阻害薬により, 従来難治性であったがんも治癒を目指すことができる可能性があることを示唆している.
「治癒を目指すことができる可能性があることを示唆」というのは、いかにも曖昧な表現である。 この部分については参考文献が示されていないのだが、たぶん J. Clin. Oncol. 33, 1889-1894 (2015). などが根拠なのであろう。 この報告は、抗 CTLA-4 抗体であるイピリムマブを投与された患者について、最大 10 年間の追跡調査を行ったものである。 確かに、この報告では Kaplan-Meier 法による累積全生存率のグラフが示されており、治療開始 3 年で生存率 20 % 程度に達した後は 生存率は大きく下がっておらず「プラトーとなる」ようにみえる。
ただし、この結果を解釈するにあたっては、Kaplan-Meier 法の弱点についてよく理解しておかねばならない。 というのも、もし特定の結果を誘導する意思をもって統計をとった場合、Kaplan-Meier 法を用いれば、生存率を実際よりも高くみせかけることは容易だからである。 ここでは Kaplan-Meier 法の詳細については言及しないが、端的にいえば、「患者が死にそうになったら追跡対象から外す」という方法で、 みかけ上の生存率を上げることができてしまう。
もちろん、この詐術は、二重盲検の場合には意味を成さない。 しかし盲検化が不充分である場合や、この報告のような非盲検の試験においては威力を発揮する。 実際、この報告では、3 年以上観察された患者の死亡数は少ないものの、途中で追跡できなくなった患者は多い。 もちろん、これらは必ずしも意図的に追跡対象から外されたわけではないだろうが、いわゆる観察者バイアスは避けられない。 また、何らかの重大な交絡因子によってみかけ上の生存率が高くなった可能性も否定できず、統計的根拠としては薄弱であると言わざるを得ない。 従って、この Kaplan-Meier 曲線から短絡的に「腫瘍縮小が長期にわたって持続する」と結論することはできない。
こうした抗体薬の開発には莫大な資金が投入されており、また、尋常ならざる価格が設定されていることから、その効果についての学術論文には重大な「経済的意義」がある。 論文を解釈するにあたっては、そのことを忘れてはなるまい。
北陸医大 (仮) 一年次研修医の某君と話していて、感染性心内膜炎における発熱の頻度は、どの程度か、という論題になった。 すなわち、発熱のないことを根拠に「感染性心内膜炎ではなさそうだ」と言えるかどうか、という問題である。
Kasper DL et al. ed., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). には、発熱は 80-90 % の頻度でみられる、と記されているのだが、 根拠文献は明示されていない。 また、Lancet 誌に掲載されていたレビュー記事 (Lancet 387, 882-893 (2016).) でも、発熱の頻度を `about 90 %' と記すのみで、根拠を示していない。 こうなると、90 % という数字が、キチンとした根拠なしに独り歩きしているのではないかと疑いたくなる。
もしや、と思い、臨床的に感染性心内膜炎の診断基準として用いられている「修正 Duke の基準」の原著 (Clin. Infect. Dis. 30, 633-638 (2000).) や 「Duke の基準」の原著 (Am. J. Med. 96, 200-208 (1994).) を調べてみた。 これらの論文では「臨床的に明らかな感染性心内膜炎の症例」において、発熱の頻度が 90 % 近くでであった旨が述べられている。 発熱がなければ「臨床的に明らかな感染性心内膜炎」とは診断されにくいのだから、これは「感染性心内膜炎では発熱を来しやすい」と考える根拠には、ならない。 統計用語でいうところの選択バイアスに過ぎないのである。 一方、Duke の基準が発表された後の臨床調査においては、この基準がゴールドスタンダードとして用いられる例が多い。 この場合、「発熱を伴わない感染性心内膜炎」は母集団から外される傾向が生じるので、こうした報告も、「感染性心内膜炎では発熱を来しやすい」とする根拠にはならない。
病理学的な観点からいえば、感染性心内膜炎があっても、炎症を惹起する LPS などが血中にあまり放出されなければ、発熱しなくても何の不思議もない。 もし病理診断学的に精密な検索を行えば、発熱を伴わない感染性心内膜炎など、それほど珍しくないのではないか。
実は、私と同じようなことを考えた病理学者は、過去に何人もいる。 近年でいえば、スペインの M. L. F. Guerrero らは、病理解剖の際に詳細な検索を行うことで、臨床的に見落とされる感染性心内膜炎が稀ではないことを指摘した (Medicine 91, 152-164 (2012).)。 この報告によれば、感染性心内膜炎のうち 38 % が臨床的に見落とされていたという。 とりわけ、発熱などの典型的所見を欠く例で誤診が起こりやすい、と Guerrero らは指摘している。 もちろん、病理解剖を基準とすることで少なからぬバイアスが含まれていることは間違いない。 しかし、典型的な臨床所見に頼る診断の危険性を指摘するには充分であろう。
以上のことからわかるように、典型的所見を欠くことや、診断基準を満足しないことを理由として感染性心内膜炎の可能性を否定することは、危険である。
名古屋大学医学部から「名古屋大学特定基金 医学系未来人材育成支援事業 ご支援のお願い」とする、少しばかり上等なデザインの書状が届いた。 平たくいえば、寄付の依頼である。 「医学系未来人材育成支援事業」というのは、いかにも威厳の乏しい残念な命名ではあるが、要するに医学教育の拡充のための基金であるらしい。
近年、国立大学は国からの交付金を削減され、いわゆる競争的資金が増やされている。 「本当に意義のある役立つ教育・研究に重点的に予算を配分するため」というような名目ではあるが、 現実には、いわゆる iPS 細胞の応用などのような、本当に科学的価値が高いかどうかはともかく世間に受ける研究だとか、 金になる特許に結びつきそうな研究などに予算が配分される傾向にあるように思われる。 その一方で、その社会的意義を明確に説明することができない基礎科学研究や、ただちには社会に還元されないような研究は、予算を削減される傾向にある。 言うまでもなく、こうした基礎軽視の風潮が蔓延すれば、この国の科学は衰退し、工業力は低下し、国家の存続すら危うくなるであろう。
それに対する自衛活動の一環として、名古屋大学は従来名古屋大学基金という財源を構築してきた。 この基金のうち、特に医学部のために活用する枠として「医学系未来人材育成支援事業」なるものを設けたらしい。 私は同大学に対する愛校心が篤いから、毎月 5,000 円の寄付をすることにした。 5,000 円というのは、私にとって継続可能と考えられる上限額である。
もちろん名古屋大学に寄付して京都大学に寄付しないわけにはいかないから、京都大学にも月 5,000 円を寄付することにした。 合計で月 10,000 円というのは、手取り 26 万円の研修医にとっては、軽い負担ではない。 しかし、こういう寄付というものは、金額そのものよりも、気持ちの問題である。 月 3,000 円程度の「負担にならない寄付」では、「君の母校を愛する気持ちは、その程度か」との謗りを免れ得ぬ。
京都大学への寄付については 「京都大学修学支援基金」にしようかとも思ったが、結局、「湯川・朝永生誕百周年募金」にした。 京都大学修学支援基金というのは、要するに授業料免除などのための財源として使われる基金である。 これは、奨学金と称する経済的支援の大半がローンである日本の実態を思えば、重要な事業ではある。 しかし、誇り高い京都大学の学生であれば、たとえ親からの充分な経済的支援を得られない状況であっても、 日本学生支援機構と称する貸金業者から有利子で借り入れるなどの方法で、修学することは可能なはずである。 たとえ卒業時に 1,000 万円程度の借金を背負うことになったとしても、何を恐れる必要があろう。 なお、私がこう書くと一部の学生等から反感を買うであろうことについては過去に書いており、 思う所は現在も変わっていないので、ここでは繰り返さない。
溶血性尿毒症症候群 (Hemolytic Uremic Syndrome; HUS) と血栓性血小板減少症 (Thrombotic ThrombocytoPenia; TTP) については 半年ほど前に書いた。 この両者は、疾患概念に曖昧さはあるものの、血栓性微小血管障害 (Thrombotic MicroAngiopathy; TMA) と総称される血管障害に含まれる。 この TMA について、近頃、少しだけ勉強したので、ここに記載しておこう。
ウェブ上で検索を行うと、HUS と TTP の鑑別などについて、ガイドライン的な内容を説明しているサイトは多い。 しかし遺憾ながら、そうした記事の多くは表面的な分類を述べているだけで、病理学的本態に迫っておらず、医学的に妥当であるとは言い難いものが多い。
歴史的には、HUS も TTP も、症候群として報告されてきたのであって、その発症機序について明らかにされ始めたのは 21 世紀に入ってからである。 現在のところ、HUS は血管内皮細胞傷害などを背景に補体が異常活性化することで生じる血栓形成傾向、と理解されている。 これに対し TTP は、ADAMTS13 の機能障害により、一般には内皮細胞傷害を伴わずに、血小板の凝集が亢進することで血栓形成傾向を来すもの、とされる。 ただし理論上は、ADAMTS13 の機能障害も血管内皮細胞傷害も伴わずに、何か別の機序により血小板凝集が亢進することで生じる TMA も存在するはずである。 上述の基準で分類すれば、こうした TMA は HUS にも TTP にも該当しない、ということになるのだが、これを TTP と区別することに 何か臨床的に重大な意義があるようには思われない。 たぶん、そうした事情を念頭に、この業界の識者の間では近年、HUS とか TTP とかいう分類に拘らずに TMA という総称を好んで用いる傾向があるように思われる。 実際、疾患概念が多少なりとも明らかにされつつある現在では、HUS とか TTP とかいう、病態よりも症候を重視した古典的分類に拘泥することは、有益とは思われない。
臨床病理学的な観点からすれば、TMA を分類するならば、まず抗体介在性か否かで大別するのが有益である。 「抗体介在性 TMA」の代表は、古典的分類における TTP の典型例であって、すなわち、抗 ADAMTS13 自己抗体によって血栓形成が亢進するものである。 この場合、自己抗体を除去する目的での血漿交換療法が有益である。 もちろん、抗 ADAMTS13 抗体以外の自己抗体によって惹起される TMA も「抗体介在性 TMA」に含めるべきである。
これに対し「抗体非介在性 TMA」の代表は、古典的分類における HUS であって、いわゆる typical HUS と atypical HUS を区別する必要はないと考える。 これらは血管内皮細胞傷害を背景に補体の異常活性化などを来して生じる TMA であって、基本的には血漿交換療法は効果が乏しい。 たとえば悪性腫瘍を基礎として血栓形成傾向を来し播種性血管内凝固 (Disseminated Intravascular Coagulation; DIC) を来す場合も、基本的には、これに含まれるであろう。
たぶん、このあたりの問題をまとめたレビューがBlood誌に掲載されたのではないかと思うのだが、 遺憾ながら我が北陸医大は同誌を購読していないので、私は、まだこれを読んでいない。
医師の世界には、他分野の人々からは想像もつかないサービスが存在する。
週刊 The New England Journal of Medicine の日本国内版は、南江堂洋書部が日本国内での流通を担っている。 日本国内版といっても、内容は米国版などと同一である。ただ、日本国内で印刷しており、広告も日本国内向けのものが掲載されている。
同誌の裏表紙は全面広告になっており、薬剤の広告が掲載されていることが多い。 たとえば 2017 年 3 月 23 日の裏表紙は、大鵬薬品工業が国内販売を担っている「アブラキサン」の広告であった。 これはパクリタキセル製剤であって、つまり抗癌剤である。 冷静に考えると、患者が読む雑誌ではなく、医者が読む雑誌に広告が掲載されているというのは、恐ろしいことである。 世間の常識から考えれば、患者にどの薬を投与するかは、患者の病状や患者の希望に基づいて決定されるべきものであって、 雑誌に広告を掲載したからといって、その薬剤の販売量が増えるはずがない。 しかし現実には、製薬会社が医師に対して「ぜひ、うちの会社の薬を使ってください」と言わんばかりに、広告を掲載しているのである。
2017 年 4 月 27 日号の裏表紙の広告は、ケッサクであった。 これは東京に本拠を置く CACTUS という会社の editage というサービスの広告であって、 「多忙な医師・研究者の方へ、英語論文の生産性向上をサポートいたします。」などと書かれている。 「論文の生産性」という語にも違和感はあるが、凄まじいのは、そのサービス内容である。
「メディカル論文リライトサービス」は 25-60 万円であり「すでに執筆した医学系論文を、プロのメディカルライターがリライト。」とのことである。 このサービスを、一体、どのように使うのかは、よくわからないのだが、論文の体裁が整っていない文書を、それらしい形式に仕立て直してくれるのだろうか。
「メディカル論文執筆サービス」は 60-110 万円で「研究データは揃っているが論文にまとめる時間がない方のための論文執筆サポート。 著者の方の指示にしたがって執筆から投稿代行まで行います。」とのことである。
「メディカル論文強化・投稿サービス」は 11-25 万円であって「ジャーナル選択から投稿前ピアレビュー、投稿代行、 剽窃チェック、英文校正まで、論文投稿に必要なサポートが詰まったオールインワンサービス」らしい。
言うまでもなく、こうしたサービスは学術倫理的にまずいだけでなく、著作者人格権上の問題もある。 たとえば「メディカル論文執筆サービス」の場合、この会社の者が書いた論文を自分の名前で発表することになるのだから、明確な不正行為である。 もちろん、そのようなサービスに 60-110 万円を支払うというのだから、金銭感覚も、かなりおかしい。
何より問題なのは、自分の名前で発表する論文を他人に書かせる、という行為に抵抗を感じない点である。 真の科学者であれば、論文に使う単語の一つ、言い回しの一つにも繊細に気を配る。 緻密な論理的思考に基づいて研究を進めたのであれば、その成果を発表するための論文を、どうして、他人の手に委ねることができよう。
こういうサービスの広告を平然と掲載するのだから、南江堂洋書部の倫理観も、その程度だということである。
偶然であろうが、4 月 25 日には、京都大学においても、学生に対するハラスメントを理由に 農学研究科准教授に対する懲戒処分が行われた。 こちらは名古屋大学とは異なり、停職 2 ヶ月で、大学の公式ウェブサイト上で発表されている。 もちろん、ハラスメントの内容は異なるであろうから、名古屋大学が京都大学よりも甘い、と一概に言うことはできない。 が、学生に対する暴言というものの罪深さを、名古屋大学が真摯に受け止めているようには思われない。
ついでに、我が母校に対する悪口を、もう一つ書いておこう。 名古屋大学の公式ウェブサイトには、「WPI中間評価において最高評価のS評価を受ける」と題した記事が掲載されており、次のように述べられている。
世界トップレベル研究拠点プログラム (WPI)に選ばれている日本国内の9つの研究拠点のうち、 トランスフォーマティブ生命分子研究所(ITbM)を含む3拠点が発足4年を機に文部科学省とWPIプログラム委員会から中間評価の審査を受けました。 その結果、ITbMは最高評価であるS評価を受けました。これは、全9拠点のうち、5年前にS評価を受けた東京大学Kavli-IPMUに並ぶ快挙です。
文部科学省による審査で高い評価を受けることが、快挙なのか。 科学研究の意義や価値を決めるのは、科学者でも、一般市民でも、もちろん国家・政府でもない。 ただ人類の歴史のみが、それを決定するのである。 我々は、ただ科学に対する忠誠心によって行動し、ただ人類の歴史にのみ審判される。
いつから、我が名古屋大学は、政府による評価に一喜一憂するような卑屈な大学になったのか。
朝日新聞や 産経新聞によれば、 名古屋大学の某准教授が、学生に対し「お前は病気だ」「大学を辞めろ」「けんかを売っているのか」などの不適切な発言を繰り返し、 アカデミックハラスメントにあたるとして処分されたという。 ただし、この記事を書いている時点で、同大学のウェブサイト上には、そのような記載はみあたらない。 その処分されたという准教授の氏名も不明である。
上述の朝日新聞の記事によれば、同准教授に対する 4 月 24 日付の処分内容は「平均日給の2分の1を5月分の給与から引くというもの」であるらしい。 要するに、事実上お咎めなし、というわけである。
まぁ、情報源の朝日新聞も産経新聞も、昔から偏った悪意のある記事が多いことで有名であるから、この記事も内容は事実と異なるかもしれぬ。 ただし、もし内容が事実に相違ないのであれば、 名古屋大学を世界屈指の研究大学になどと称して 松尾清一総長が掲げる大学の指針は、妄言であるといわざるを得ない。
松尾氏のように陽の当たる道ばかりを歩いてきた人には理解できないかもしれないが、 大学における、教員による学生に対する不適切な言動、アカデミックハラスメントが、その学生に与える影響は大きい。 冷静に適切に対処すれば、そうした教員を返り討ちにすることなど造作もないように思われるのだが、 当事者の学生は、そうした冷静な判断能力を失っているのが普通である。 むしろ本件の被害学生は、よくハラスメント防止対策委員会に訴えることができたものだと思う。
アカデミックハラスメントというのは、その学生の「学ぶ権利」が損なわれるというだけの問題ではない。 教員から虐げられる学生は、必ずしも、科学者として、社会人として、能力の劣る者であるとは限らない。 ただ、その教員とそりが合わなかった、というだけのこともある。 そうした学生を教員側の恣意によって叩き潰していくことで、社会を支えるはずであった人材が損なわれ、 将来における国全体の、さらには人類全体の利益が失われるのである。
研究するだけの組織なら、大学という形をとる必要はない。国立研究所の類で良いのである。 「大学」という形態の研究機関が存在することの最大の意義は、学生、すなわち次代の科学者を育てることにある。 それにもかかわらず、一人の教員個人の恣意によって未来の科学者が傷つけられ、それに対して何らの実効的な処分も行われないとあっては、 もはや、それは教育機関ではなく、大学とはいえない。
名古屋大学の誇りは、どこへ行ったのか。
だいぶ間隔があいてしまった。 少し疲れているな、という自覚はある。
さて、「良心的兵役拒否」という概念がある。 兵役の義務が課されている国において、非戦闘員としての労務に就くことなどを条件として、信仰などを理由とした兵役拒否を認める制度である。 これに類似した「良心的診療拒否」の制度について批判する記事が、4 月 6 日号の週刊 The New England Journal of Medicine の Sounding Board に掲載されていた。
「良心的診療拒否」が問題になるのは、人工妊娠中絶などについてである。 カトリック教徒などは、信仰上の理由から、人工妊娠中絶を嫌っている。 ではカトリック教徒の医師は、自身の信仰を理由として、患者に人工妊娠中絶を行うことを拒否できるのか。
現在のところ米国では、そうした「良心的診療拒否」を認める方向にあるらしい。 つまり、信教を理由として特定の診療行為を拒否する医師などに対し、医療機関は、それを理由として不利益な措置を講じることができない、というのである。 これに対し、上述の記事の著者である University of Pennsylvania の R. Y. Stahl らは批判しているのだが、いまひとつ論点がはっきりしない。 Stahl らは、米国医師会 (American Medical Association; AMA) の指針などを根拠に論を展開しているが、 AMA は、「患者の」人種や信教などを理由とした診療拒否などを禁じているものの、特定の処置 (人工妊娠中絶など) を一律に拒否することまでは禁じていない。 そもそも、AMA は単なる業界団体、あるいは政治団体に過ぎないのであって、その見解に、個々の医師が従う義務はない。 結局のところ Stahl らは、そうしたカトリック教徒などを個人的に嫌っており、そんなのは認めたくない、という感情を何とか正当化しようと、 AMA の指針を強引に解釈して振りかざしているだけであるように思われる。
さて、日本の場合、このあたりについて明確な規定は存在しない。医師法第 19 条に
診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合は、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。
と規定されているのみである。 では、たとえば病院勤務の産科医が「人工妊娠中絶は、やりたくない」と主張した場合は、どうなるか。 良心的診療拒否を明確に認める規定が存在しない以上、仮に懲戒処分を受けたとしても、法的な対抗手段は存在しないように思われる。
ただし、良心的診療拒否全般ではなく、人工妊娠中絶に限って議論するならば、事情は少し異なる。 3 年ほど前にも書いた通り、日本では人工妊娠中絶が厳しく制限されており、 強姦による妊娠などを除いては、基本的に認められていない。 単なる「望まない妊娠」を理由とした人工妊娠中絶は違法であり、これを医師が実施することは同意堕胎罪にあたる。 もちろん、胎児の染色体異常などを理由とした人工妊娠中絶は違法である。 これに対し、少なからぬ医師が「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という要件を拡大解釈して 不法な人工妊娠中絶を行っているのが現状である。 医者という連中は、自分達が法律よりも偉いと思っており、遵法意識というものをカケラも備えていないのである。
もちろん、人工妊娠中絶に対する考え方は多様であって当然である。 しかし、法律で明確に禁止されている以上、それは、守らねばならない。 法律に違反することが正当化されるのは、その法律が憲法に違反していると信じるに足る根拠がある場合か、 あるいは、現在の政府や社会そのものを否定し、革命を志している場合のみである。 たぶん医師の多くは、どちらかといえば保守派であって、法律自体を否定してかかる革命勢力ではないであろうから、彼らは、法律に従わねばならない。
さて、話を元に戻す。 つまるところ、違法であるから、という理由で単なる「望まない妊娠」に対する中絶を拒否するのは、医師の当然の権利であって、 医療機関側は、そうした医師に対し不利益な措置を講じることはできない。
英国の某製薬会社は、プロポフォール製剤のインタビューフォームに「肝障害患者においてもクリアランスは著変しない」かのように記載している。 しかし、これは、プロポフォールが主に肝臓で代謝されるという薬理学的事実からは了解不能である。 なぜ、そのようなことになっているのか。 鋭い読者であれば、この事情について容易に想像がつくであろう。 実際、私も、「たぶん、こういうことだろう」と予想を立てた上で、インタビューフォームの記載の根拠となった 2 つの文献を閲覧した。
フランスの F. Servin らの 1988 年の報告 (Anesthesiol. 69, 887-891 (1988).) は、軽度の肝硬変患者と肝障害のない患者との間で、 3 コンパートメントモデルに基づいてプロポフォールの薬物動態を比較したものである。 この肝硬変患者というのは、生検で肝硬変と診断されてはいるが、腹水や脳症は来しておらず、血漿アルブミン濃度やプロトロビン時間、血清ビリルビン濃度にも著明な異常がない、 Child-Pugh 分類でいえば Class A にあたる。簡潔にいえば、肝機能障害は軽度の患者である。
Servin らの報告では、肝硬変群はコントロール群に比して 13 % 程度のクリアランス低下がみられた。 ただし患者数は両群とも 10 名のみであるから、統計誤差が大きく、「統計的有意差なし」と判定された。 過去にも何度か書いている通り、これは「両群でクリアランスは大きく変わらない」という意味ではないことに注意を要する。 そこで、いささか粗い近似ではあるが、私が片側 T 検定で評価してみたところ、肝硬変群のクリアランスはコントロール群に比して、 平均 22 % 程度低下する可能性がある (信頼度 95 %) という結果になった。 これを単に「有意差はなかった」と表現するのは、不適切である。 この F. Servin らは、1990 年にも同様の報告を別の論文誌に載せているが、結果は同様であった (Br. J. Anesth. 65, 177-183 (1990).)。
このように、統計の不適切な解釈が公然とインタビューフォームに掲載されているのは、なぜか。 Servin や製薬会社の研究員は、かくも統計について無知であったのか。 そうではないであろう。
Servin が、なぜ、わずか 10 症例のみの検討結果に基づいて、非劣性試験すら行わずに `this study shows that the pharmacokinetics ... were not markedly affected by uncomplicated cirrhosis of the liver.' などという安直な結論を述べたのかは、知らぬ。 しかし Servin の 1988 年の報告には、プロポフォール製剤を扱っている製薬会社からの支援に基づいて行われた研究であることが明記されている。 おぞましい想像ではあるが、Servin は「ある特定の結果」を誘導する目的で、恣意的に研究計画を立てて「患者数は各群 10 名」としたのではないかと疑わざるを得ない。
腎障害についても、同様である。インタビューフォームには「腎障害患者における薬物動態」として
腎障害患者群及び正常な腎機能を有す患者群にプロポフォールを単回静脈内ボーラス投与したとき、 薬物動態パラメータ (半減期、クリアランス) に統計的有意差は認められなかった。
と記載されている。 その根拠論文は、ベルギーの B. Ickx らの報告 (Br. J. Anesth. 81, 854-860 (1998).) である。 これも末期腎不全患者において中央値で 12 % 程度のクリアランス低下がみられているが、患者数が腎不全群とコントロール群で各 10 名と少ないため、 統計誤差が大きく「有意差なし」となったに過ぎない。 これを `the pharmacokinetics of propofol infusion were similar in ESRD (註: End-Stage Renal Disease) and control subjects.' とまとめるのは不適切である。 この報告も、共同研究者にプロポフォール製剤の製薬会社の者が加わっており、「そういう研究」であると疑わざるを得ない。
3 月頃に比べると、日記の記載頻度が低下している。記事の品質も落ちているように思われる。 これは、日々の研修や学業でそれなりに多忙であるため、日記にあまり時間を費せないからである。 たぶん 5 月末までは、この状態が続くやもしれぬ。
本日の話題は、プロポフォールである。 これは麻酔などで用いられる鎮静薬であって、経静脈投与することで、平たくいえば「眠らせる」薬である。 この薬については過去にも書いたことがある。
プロポフォールは脂質親和性が高く、分布容積も大きい。 麻酔科学の聖典である Miller RD ed., Miller's Anesthesia, 8e, (2015). によれば 2-10 L/kg 程度、 日本人を対象にした試験報告でも 5.3 ± 2.2 L/kg 程度のようである (麻酔 39, 219-229 (1990)., 麻酔 39 685-686 (1990).)。 薬理学に詳しくない人のために説明すると、分布容積が大きいというのは、つまり、その薬は血液以外のどこかの組織に大量に貯留する、という意味である。 プロポフォールの例でいえば、脂肪組織などに、よく溶け込むのだと考えられる。
現代の全身麻酔では、プロポフォールを単回投与することで麻酔の導入、つまり意識を失わせる rapid induction を行い、 麻酔状態を維持するには揮発性の吸入麻酔薬を使うことが多い。 しかし諸般の事情により、手術中も吸入麻酔薬ではなくプロポフォールの持続投与で麻酔の維持を行うこともあり、 これは Total IntraVenous Anesthesia (TIVA) と呼ばれる。
TIVA を行う際には、当然、プロポフォールの投与量を適切に調節しなければならない。 そこで、体内でのプロポフォールの薬物動態モデルに基づいて、コンピューターを用いて投与量を自動調節する Target-Controlled Infusion (TCI) を用いることが多い。 当然のことであるが、この TCI によるプロポフォールの濃度予測には限界があるので、その薬物動態学的背景について、麻酔を行う医師は悉知していなければならぬ。
プロポフォールは主に肝臓で代謝されるが、腎や肺での代謝も重要であるらしい、という話は以前の記事でも触れた。 ところが、英国の某製薬会社によるプロポフォール製剤のインタビューフォームをみると、おかしなことが書かれている。 なお、インタビューフォームというのは、薬剤についての詳細なデータシートのようなものである。 このインタビューフォームには「肝障害患者における薬物動態」として、次のように記載されている。
肝硬変患者群及び正常な肝機能を有す患者群にプロポフォールを単回静脈内ボーラス投与あるいは静脈内持続投与したとき、 薬物動態パラメータ (半減期、クリアランス) に両群間で統計的有意差は認められなかった。
まるで、肝障害のある患者でも、プロポフォールの薬物動態は健常者と大差ないかのような表現である。 しかし、それは、上述のようにプロポフォールが主として肝臓で代謝されるという事実からすれば、あり得ない。 一体、どういうことなのか。
勘の良い人であれば「統計的有意差は認められなかった」という表現から、ピンとくるであろう。 このあたりの事情について書こうと思ったのだが、いささか長くなってきたので、続きは次回にする。
予め明記しておくが、この記事は、特定の誰かのことを念頭に置いて書いているわけではない。
新しい一年次研修医が来て、一週間以上になる。 みていると、一年前の我々と同様に、医学・医療に対する態度は両極に分かれているように思われる。
すなわち、医師資格を取得したという現実と、相応の医学・医療的な実力を備えていないという現実の乖離に不安を感じ、勉強せねばならぬと焦っている人々がいる。 彼らのうちの多くは、これまでキチンと基礎を蓄えてこなかったことを、当然ながら、反省しているであろう。 もう一方の極に属する人々については、敢えて言及する必要を認めない。
学生時代に「まずは国家試験に合格せねばならない」と言い訳をして、まともに医学を修めなかった者は多いであろう。 そして、そういう人々の多くは「まずは仕事を覚えないと」と言い訳をして、研修医になってからも、やはり医学を修めないであろう。 それが多数派であることに安心して、自身が医学を識らぬという現実から目をそむけて生き続ける者も、遺憾ながら、少なくないであろう。
研修医になった今が、医学を修める最後の機会である。
「あなた方は、それで、良いのか」という問いを、私は、いくつかの形で彼らに投げかけているつもりである。 少なからぬ人数が私を煙たがっており、中には私を極力無視することに決めた者が存在することも、よく知っている。 好きにすれば良い。もとより、多数派に好かれようとは思っていない。 医者が医師免許に守られてヌクヌクと生きられる時代は、やがて終わる。我々が終わらせる。
その時に生き残るのは、はたして、誰か。
医学の世界に来てから常々思っているのだが、この業界では「学会」とか「論文」とかいう言葉が、実に気軽に用いられている。 特に「珍しい症例を経験したので報告します」という類の症例報告を「学会発表」とか「論文」とか表現することがあり、たいへん違和感がある。 学会とか論文とかいうものは、かくも安易に発表する場であるのか。
私は何も、症例報告は学術的意義が乏しい、などと言っているわけではない。 むしろ、本当にキチンとした症例報告であれば、医学的にたいへん重要であるから、積極的に発表するべきである。 しかし遺憾ながら、世の中には、診断や考察が甘く、医学的探究の乏しい「症例報告」が多すぎるように思われる。 特に和文での症例報告に至っては、何を考えているのか理解できない。
珍しい症例を経験したのなら、「なぜ、そのような珍しいことが起こったのか」を検討するのが、医学というものである。 物事には、必ず、原因がある。「たまたま、そうなったのだ」という態度は、知性の放棄であって、学問とはいえない。 もちろん、その前提として診断は厳格に、正しく行われていなければならず、「診断基準を満足したから、そう診断しました」などというのは言語道断である。
臨床医療においては、診断に悩んだ際に、症例報告を検索することがある。 自分の診断に自信が持てず、似たような症例がないかどうか、調べるのである。 似たような症例の報告があれば「そういうこともあるのだ」と安心できる、というわけである。
しかし冷静に考えれば、この発想は、おかしい。 そういう症例が過去にあったからといって、眼前の患者も同様であると考える根拠にはならない。 逆に、過去に報告がなかったとしても、医学的に合理的な診断であるならば、それと診断して構わない。 だいたい、その先行報告の診断が正しいという証拠は、あるのか。
診断に自信がなければ、病理医に相談すれば良い。 我々病理医は組織診や細胞診を専らにするわけではなく、その本分は、病理学を武器とする理論医学を担うことにある。 臨床医を悩ませる診断困難症例こそ、我々の本領を発揮する場なのである。 もちろん「そんなの相談されても、生検でもしなけりゃわからないよ」と逃げる自称病理医もいるだろうが、それはマトモな病理医ではないので、相手にしなくてよろしい。
そうして医学的検討を尽くした症例報告であれば、医学の歴史に積み上げる一つの小さな石として大いに意義があるから、堂々と、英文で世界に向けて発表すると良い。
エフェドリンという薬物がある。 臨床医療においては、いわゆる昇圧薬の一つに位置付けられている。 ただし麻酔科学を修めた者は「昇圧薬」という語を用いることを避けるのではないかと思われる。
そもそも、なぜ我々は手術中、患者の血圧をモニタリングするのか。 過去にも何度か述べたが、血圧というものは、心収縮力や血管抵抗など様々な要因が複雑に組み合わさって決まるのであって、 それ自体が何か生理的に重要な意義を持つものではない。 少なからぬ学生や若い医師は、血圧を「血液を送り出す力」のようなものと認識しているようだが、それが誤りであることは ベルヌーイの定理を考えれば明白である。
臨床麻酔における、たぶん世界で最も有名なアンチョコ本である Pino RM ed., Clinical Anesthesia Procedures of the Massachusetts General Hospital, 9e, (2016). では、 血圧をモニタリングする意義について次のように述べている。
The goal of hemodynamic management is to maintain adequate organ perfusion. Since organ perfusion is difficult to measure in vivo, systemic blood pressure is monitored as an indicator of blood flow and organ perfusion.
循環動態管理の目標は、臓器を適切に潅流することである。 しかし臓器の潅流を生体内で測定することは困難であるから、臓器潅流の目安として血圧を測定する。
同書では、電流についてのオームの法則になぞらえた、生理学でいうオームの法則、すなわち 「平均動脈圧 - 中心静脈圧 = 全身血管抵抗 x 心拍出量」という近似法を紹介している。 もちろん、この近似法には少なからぬ問題が含まれているのだが、そのあたりの詳細については、ここでは議論しない。
以上のことからわかるように、麻酔科学においては「血圧を上げること」や「血圧を下げること」を目的に投薬がなされることは、あり得ない。 投薬の目標は、あくまで「全身血管抵抗」や「心拍数」あるいは「心収縮力」の調整なのであって、血圧は、それらの目安として測定しているに過ぎないからである。
さて、エフェドリンは、生薬の麻黄に含まれており、西洋薬理学的にいえば α1, β1, β2 刺激薬であり、 さらにアンフェタミン様の機序によりノルアドレナリンの分泌を促すらしい。 薬理学に疎い読者のために説明しておくと、β1 刺激薬というのは、おおまかにいえば、心筋細胞を刺激し、心拍数や心収縮力を亢進させる薬である。 α1 は血管平滑筋を収縮させることで血管抵抗を増加させる一方、β2 は平滑筋を弛緩させるのだから、 エフェドリンが血管抵抗を高めるのか低めるのかは、一概にはいえない。 ただ、臨床的には、心拍数が増加し、血圧も高くなることが多いようである。 従って、手術中にたとえば副交感神経系の刺激により患者の心拍数がやや低下し、さらに末梢血管が拡張して血圧が低下していると考えられるような場合に、 エフェドリンを投与することがある。
このように、エフェドリンというのは循環動態を調節する目的で用いられる重要な薬なのであるが、 不思議なことに、この薬物の体内動態について詳細な検討をした報告は乏しい。 おそらく歴史的に、臨床医学の担い手達は、新しいもの、センセーショナルなものばかりを追求し、 こうした基礎的で臨床的にも重要な問題を軽視してきたのではないか。 「現に問題なく使えているのだから、それで良いではないか」という、非学術的で近視眼的な発想の持ち主が多かったのであろう。
数少ない報告によれば、エフェドリンの薬物動態は、概ね次のようなものであるらしい。 エフェドリンはアドレナリンと類似した化学構造を持つが、モノアミンオキシダーゼなどの基質とならず、すなわち、体内ではほとんど代謝されないらしい (医薬品研究 4, 1-14 (1973).)。 従って、主として未変化体として尿中に排泄されるのであるが、弱塩基性であることなどから、尿がアルカリ性の場合には「例の機序」により再吸収が亢進し、あまり排泄されない (J. Pharmacol. Exptl Therap. 162, 139-147 (1968).)。 「例の機序」と言っても薬理学や毒物学に疎い人にはわからないかもしれないが、ここでは説明する余裕がない。 また、ヒトではエフェドリンの血中濃度半減期は概ね 6 時間程度のようである (Eur. J. Clin. Pharmacol. 57, 447-455 (2001).)。
この薬を臨床的に用いる場合、問題は、血管抵抗は大きくなるのか、小さくなるのか、という点である。 これについては麻酔科学の聖典である Miller RD ed., Miller's Anesthesia, 8e, (2015). を開いてみても「α1 と β2のバランスで決まる」 とのみ書かれており、はっきりしない。 眼前の患者について、エフェドリンが末梢血管抵抗についてどのように作用するか、予想する方法は、あるのだろうか。
4 月になり、北陸医大 (仮) にも、多くの一年次研修医がやってきた。 臨床研修マッチングで我が大学にマッチした人数に比べ、実際に来た人数がいささか少ないようにも思うが、気にしないことにしよう。 今月と来月は、麻酔科学における諸問題を順に議論していこうと思っていたのだが、あまり堅苦しい話ばかりでも読者は飽きるだろうから、今日は軽い話題に留めておく。
現在の初期研修制度では、将来的に専門としない診療科での研修をたくさん受けることになる。 これは、専門分野以外のことを知り、経験しておくことは将来的に有益であろう、という考えに基づくものである。 しかし、指導医の側は、必ずしも、そうした非専門家に対する教育に長じているわけではない。 名古屋大学時代にも、学生や研修医に対する教育が「その分野の専門家を育成するための訓練」に偏っていることを某教授が指摘していた。 遺憾ながら我が北陸医大でも、同様の問題が存在するように思われる。
我々病理医の卵は、本来、臨床的な手技を修得することは必要ではない。将来的に、使わないからである。 もちろん、正しい病理診断を遂行するためには、臨床現場で何が行われているのかを知ることは重要であり、従って、研修医として臨床現場に参加することは有益である。 そして、可能であれば手技を経験することも、たとえ巧くできなかったとしても、きっと何かの役に立つであろう。 しかし、手技の修得それ自体が有益であるとは、思われない。
これは、逆の立場で考えるとわかりやすいかもしれぬ。 一般臨床医にとって、病理診断の現場を経験し、標本作成に参画し、実際に顕微鏡を覗くことは、いずれ検体を提出する側に立つことを思えば、 精神科以外の臨床医を志望する者には有益であろう。 しかし、検体切り出しの際のナイフの使い方だとか、リンパ腫の鑑別だとかいった細かなことを習得することは、一般臨床医志望者には不要であろう。
私は昨年度、病理部で研修を受けた際、臨床実習の学生と一緒に切り出しなどを行う機会も少なくなかった。 その際、私は病理診断学の話をせず、むしろ一般臨床に近い話をするように努めた。ただし、基礎病理学に基づく観点からである。
研修医に「やり方」を教える風潮は、全国のほとんどの病院に存在するのではないか。 研修医の側も、やり方を覚えて臨床診療の一翼を担うことが研修の本義である、とする考えが広まっているように思われる。 しかし、それは、本当に意義のあることなのだろうか。
週刊 `The New England Journal of Medicine' 3 月 30 日号の Perspective 欄に `From Trial to Target Populations' という記事が掲載されていた。 いうまでもなく、臨床試験で得られた統計データやガイドラインの内容を、眼前の患者に、そのまま当てはめることはできない。 臨床試験は、様々な背景を持つ患者について集計したものに過ぎないから「その集団においては、この治療法が有効な患者が多かった」という結果があったとしても、 「眼前のこの患者にも有効であると期待できる」と推定することはできない。 ガイドラインに盲従する医師が馬鹿にされるのは、そういう理由からである。
この記事の主旨は、臨床試験のデータを、眼前の患者の予後を占う目的に合わせて適切に重みづけして集計し直すことで、より「実用的」な情報を得ることができる、 というものであった。 それを読んで私は、バカな、と思った。 統計学というのは、魔法の技術ではない。そのような再集計によって本当に意義のあるデータを得ることなど、不可能であろう。 おそらく、何か重大な、とても容認できないような仮定を暗に導入することで、そのような魔術的解析が可能であるかのように錯覚させているのだろう、と私は推定した。
私だけでなく、科学者というものは、ある新しい意見を聞いた時、それが「正しそう」か、「正しくなさそう」かを、論理的に検討する前に、まず直観的に判断する。 実は物理学者でさえ、そうなのである。 数式を丹念に展開した結果として結論を得るのではなく、直観的に結論を得た上で、確認のために数式を展開しているに過ぎない。 このあたりのことはリチャードが『ご冗談でしょう、ファインマンさん』で書いているので、興味のある人は、読んでみると良い。 そういうわけで、私は、この記事の内容を「間違いである」と、まず決めつけ、次に、記事の論理がどう間違っているのかを確認する作業にとりかかった。
上述の NEJM の記事は、その技法の統計的基礎として S. R Cole らの報告 (Am. J. Epidemiol. 172, 107-115 (2010).) を引用している。 この報告では、少しばかり数式や小難しい用語が駆使されており、率直に言えば、一般の医師には理解できないような論文である。 私も、これをキチンと読むのは骨が折れそうだな、と思った。 しかし私は、もとより、この論文を信じておらず、何か決定的に重要な仮定、おそらくはロジスティック回帰分析か Cox の比例ハザードモデルを使っているのだと予想していた。 そこで、文章をキチンと順番に読むのではなく、統計モデルの部分にだけ、サラサラと目を通した。
はたして、この報告は、Cox の比例ハザードモデルに基づくものであった。 この解析法は便利ではあるが、あまりに厳しい仮定に基づいているため現実の問題に適用することは困難である、という事実は統計学者の間では常識である。 従って、この報告を基礎とする、上述の NEJM に掲載された魔術的技法も、所詮は子供騙しに過ぎない。
学問的素養を欠く者は、そうした論文の「裏側」を読めない。 そのため、著者の主張する「結論」を安易に信じてしまい、その理論的前提や制約について失念してしまう。
私が京都大学大学院時代に扱った、原子炉物理学の「固有函数の完全性」でも、そういう問題があった。 昔の原子炉物理学者は「固有函数は厳密には完全ではないが、『充分になめらかな中性子束分布函数』を展開するには充分である」と慎重に言及していたのに、 現代の原子炉物理学者には「固有函数は完全であり、任意の中性子束分布函数を展開できる」と誤解している者が多かったのである。 その誤解があまりに広まっていたために、私は、自分の研究内容を同業者に説明する際、たいへん苦労した。
また、ある時、私は自分の数値計算の結果として「未臨界度を従来法より何パーセント精度良く推定できた」という内容を学会で話そうとした。 すると教授 (私の在学中に退職した人であり、私が喧嘩した相手とは違う) は「具体的な数字は出さない方が良い。」とアドバイスしてくれた。 というのも、この数字は計算モデルによっていくらでも変わるものであって、何ら普遍的なものではない。私も、単に計算例として示すだけのつもりであった。 しかし発表を聴いた側は、そういう部分にまで思慮が及ばず、数字だけが独り歩きしてしまう恐れがある、というのである。 医学の世界に移ってから、この教授の言葉の正しさを、幾度となく痛感した。
北陸医大 (仮) に来て、ちょうど一年が経った。 我が大学の恐るべきところは、地方大学としての卑屈な精神が染みついている点である。 自分が世界一になるのだ、医学と医療の明日を切り拓くのだ、という気概を持つ学生や研修医が、今の北陸医大に、はたして何人いるだろうか。
もちろん、誇り高く才覚溢れる学生や若い医師が、いないわけではない。 将来的に少なくとも全国レベルで活躍するであろう学生を、これまでに 3 人はみた。 また、私の野望としては、内科の某医師と、外科志望研修医の某君と、病理の私とで、いずれ北陸医大を代表する三教授として我が大学を日本一の座に押し上げたい。 が、我々は圧倒的に少数派なのであって、北陸医大の若手の多数派は、医師として無難に小さくまとまろうとしているようにみえる。 だいたい、北陸医大を卒業した後、県内に残る学生が多すぎる。
北陸医大は、大学入試の偏差値表でいえば、京都大学や名古屋大学よりも格段に劣る。 が、センター試験をはじめとした大学入試の点数など、頭のデキの良し悪しを測る指標にはならぬ。 そのあたりを理解している京都大学などは、学部・学科にもよるかもしれないが、入試におけるセンター試験の比重を軽くしている。 一方、我が北陸医大に、「あんなもので、人間の才覚は測れぬ」とうそぶき、 「我々は、大学のブランド力を恃む京都大学や名古屋大学の連中に対し、実力では負けぬ」という自負と誇りを持っている人々は、どれだけいるのか。
さて、話は変わるが、過日、北陸医大の某教授と話をした後に、思ったことがある。 その教授は、なかなか好戦的な人で、北陸医大改革派の筆頭ともいうべき人物である。 当然、病院内に敵は多いようである。味方も少なくはないが、数でいえば、敵の方が多いかも知れぬ。
何事かを成そうとすれば、保守的な勢力から嫌われ、反発されるのは当然である。 好き嫌いが分かれるというのは、その教授が真に改革を試みていることの証左であって、恥じるべきことではなく、むろん、改める必要もない。 だいたい、無難に物事をやり過ごすことばかり念頭にあるような烏合の衆に嫌われたところで、何ら実害はない。
我々は、大いに嫌われる道を往けばよい。我々こそが、次代を創るのである。