2016/12/31 学歴について

ある人から教えられて、Yahoo ニュースの「日本で「学歴」は意味を持つか」という特集を読んだ。 「現代における「学歴」の意味と重要性とは。4 人の識者に聞いた。」という触れ込みであるが、 「識者」とは、浄土真宗の僧侶、「リクルート」グループの研究員、コラムニスト、社会学者、であって、自然科学系の人は含まれていない。

僧侶氏は、大学院博士課程修了者が、学部卒のみの者に比して就職できない、という異常な現状を指摘している。 それは良いのだが、次のように述べている点は、理解できない。

しかし高学歴の学生側も、企業採用や研究機関の仕組みが変わるのをただ待っているだけでは、道が開けないということを理解した方がいい。 研究者を目指すのであれば、academist などの学術系のクラウドファンディングを活用して市民から資金を募り、フリーの立場から研究を続けていくのもいいでしょう。

文中の academist とは、こちらのプロジェクトのことであろう。 これは、いわゆるクラウドファンディングによる資金調達を支援するものであるが、成功事例でさえも、高々 200 万円程度しか集まっていない。 大学や企業などで給与や一定の研究費を与えられているのであれば、これを補助的な財源として用いることもできようが、 一体、どうすれば、この程度の資金でフリーの立場からの研究ができよう。 「国や大学に“食い扶持”を頼る発想を捨てれば、より自由に学問を続けることができる時代でもあります。」とも述べているが、 一体、どうやって生活費を捻出すれば良いのだろうか。 大学の教授陣が、ほとんど例外なく、研究予算獲得のために東奔西走、四苦八苦している現状を、理解しているのだろうか。 僧侶であるなら、学術研究の現状について門外漢なのは無理からぬことである。しかし、それを「識者」として、こういう場に登場させるのは、いかがなものであろう。

コラムニスト氏も、よくわからないことを述べている。

今、東大に進学する高校生のほとんどは、中高一貫の有名私立校出身者で占められている。 私たちの頃は、いい大学に行けるかどうかの線が引かれるのは、高校3年、大学受験のときでした。 ところが今は、12歳でもう線が引かれる。公立中学に行くか、そこそこ意識の高い学校に行くかで、大きく分かれてしまいます。 しかも、それを分けさせているのは本人の勉強の出来不出来ではなく、親の経済力だったりしますから、いかんともしがたい。

元記事に掲載されている「2016 年 東大合格者ランキング」の表によれば、 1 位は開成高等学校で 170 名、2 位が筑波大学附属駒場中・高等学校の 102 名、 3 位が灘高等学校と麻布中学校・高等学校で各 94 名、とある。 開成と灘が「中学校・高等学校」とされていない理由は、知らぬ。 なお、我が母校が不名誉にもランクインしている件については一年ほど前に弁明した

いわゆる中高一貫進学校で、東京大学への進学者の割合が比較的高いのは事実である。 しかし、詳しい統計は引用しないが、実際の東京大学や京都大学の入学者の中には、公立高校出身者がかなり多い。 コラムニストのいう「ほとんどは、中高一貫の有名私立校出身者」というのは、言いすぎである。 さらにいえば、公立中学に行くか「意識の高い学校に行くか」が親の経済力で決まる、というのも嘘である。 経済力さえあれば開成や筑駒、あるいは桜蔭に入れるとでも言うのだろうか。 小学校を卒業する段階で既に、学問の下地の形成において相当の差がついている現実を、正視するべきである。

社会学者氏は、大学で何を学んだかが重要だ、というようなことを述べており、それには同意できる。 しかし「成績評価を厳しくした上でGPAをつけていけば、大学をまたぐ一定の共通評価ができる。」などと言っている点は、理解できない。 大学で学ぶ内容というのは、点数化して評価できるような、単純なものなのだろうか。

私の工学部時代の成績は、典型的な「京都大学パターン」であった。 すなわち、「不可」が多い一方で、合格した科目は「優」と「可」に分かれ、「良」が少なかった。 中途半端を嫌い、くだらぬと判断した授業は放棄し、必修科目を低空飛行でくぐり抜け、一方で、面白いものには全力を投入するのが、京都大学の伝統なのである。 そういう価値観を、無意味だと言うのか。


2016/12/30 臨床教育

教育をキチンとできる医師は、多くない。 初期臨床研修医に対しても、単に「これをやれ」とだけ命じて放置する指導医は稀ではない。 もちろん、「やれ」と言われても、どうやれば良いのかわからない研修医は、困る。 指導医としては「わからないなら、訊け」というつもりなのかもしれないが、必ずしも訊きやすい空気が流れているわけではないから、我々は、途方に暮れるのである。

やり方を教えて、同じようにやらせることは、易しい。 「わからないなら、訊け」というのも、指導する側としては楽である。 たぶん彼ら自身が、そういう「教育」を受けてきたのであろう。 ただ、それで本当に優秀な人材が、育つのだろうか。

学生時代に、名古屋大学で初期研修を受けた中堅医師から聞いた話を、二つ、紹介しよう。

その人が研修医であった時、感染症疑いと判断された担当患者について、指導医から「どんな抗菌薬を、どれだけ投与するか、ゆっくりで構わないから、考えたまえ」と命じられた。 もちろん、その人は抗菌薬など扱い慣れていなかったから、マニュアルや教科書をたくさん調べた。 そして 30 分だか 2 時間だか忘れたが、とにかく長い時間をかけて、ようやく、コレという案をひねり出すことができ、恐る恐る、指導医に報告した。 すると、その指導医は「うん、私も、それが良いと思う」と言い、抗菌薬投与を開始した。

その研修医が、時間さえかければ自力で答えを出すことのできる人物であるということを、指導医は見抜いていたのであろう。 そして、患者への抗菌薬投与が一刻を争う状況ではないと判断した上で、急がなくて良いから、と、やらせたのである。 もし指導医が凡庸であったなら、「こういう時は、この抗菌薬を使うんだよ」などと言って治療を開始し、研修医が自分で考える機会を奪ってしまったであろう。

また、ある時、名古屋大学の研修医が集まって、抗菌薬の使い方についてマニュアルを作ってはどうか、と考えたらしい。 考えただけでなく、実際に、文献をよく調べて、統一的な基準作りを始めた。 ところが作業は難航し、議論は紛糾したらしい。 結局「抗菌薬の選択は、患者毎に臨機応変に決定すべきものであり、マニュアル化するべきではない」との結論に達したという。 こういう、自主的な活動を行うことができる土壌が、かつての名古屋大学には、あったらしい。

さて、北陸医大 (仮) の初期臨床研修において、わずかではあるが、学生に対する教育に関与する機会もある。 はたして、私はマトモな態度で学生に接することができているだろうか。

来月から、病理診断科での研修である。 病理医を志望していない学生に対して、病理診断科での実習を通じて、何を学んでいただくべきであるか。 病理診断の基本、などというものは、一般の学生に教えても、国家試験で点数を少し稼ぐ程度の役にしか立つまい。 むしろ、疾患の本態・本質を考える、という姿勢を修得していただくことにこそ、病理診断科での実習の価値があると考える。

このことを念頭に、学生諸君を迎えることにしよう。

2017.01.02 一部修正

2016/12/29 クレアチニンクリアランス

12 月 31 日の記事も参照されたい。

最近になって知ったのだが、Cockcroft-Gault の式によって計算される値を「クレアチニンクリアランス」と呼ぶのは、 北陸医大 (仮) に限らず、臨床医療業界全般で行われている慣行であるらしい。 全く、意味のわからない風習である。

いうまでもなく、クレアチニンクリアランスとは、腎からのクレアチニンの排泄量を、単位体積の血清に含まれるクレアチニン量で除した値である。 その根底には、血清クレアチニン濃度とクレアチニン排泄量は比例する、という仮定がある。 もちろん、クレアチニンは尿細管からも分泌されるので、この仮定は正しくないのだが、大雑把な近似としては、尿細管からの分泌を無視するのが普通である。 この近似の下では、クレアチニンクリアランスは糸球体瀘過量とだいたい等しい、ということになる。 クレアチニンクリアランスは、臨床的に測定可能な量ではあるが、実務上は、その測定は、なかなか大変である。 そこで、クレアチニンクリアランスを推定するための計算式が、数多く提案された。 Cockcroft と Gault は、血清クレアチニン濃度と年齢および体重からクリアランスを推定する計算式を提案し、これは、現在でも広く用いられている。 ここまでは、医学科の学生にとっては常識である。

さて、Cockcroft と Gault の元の論文 (Nephron 16, 31-41 (1976).) を読んだことのある学生や研修医は、はたして、どれだけ存在するだろうか。 もし、この論文の Fig. 2 をみたならば、この式によるクレアチニンクリアランスの推定は、実に精度が悪いことがわかるであろう。 このことを知っていれば、この式による計算値を「クレアチニンクリアランスの推定値」などとは、恐ろしくて、とても言えるはずがない。

理由は知らないが、臨床的には、血清クレアチニン濃度のみから計算した糸球体瀘過量の推定値を eGFR (estimated gromerular filtration rate) と呼び、 Cockcroft-Gault の式から計算した値は「クレアチニンクリアランス」と表現することが多いらしい。 冷静に考えれば、これは、全く非合理なことである。 年齢や体重を考慮することで、もしかすると、多少は推定の精度がマシになるかもしれないが、粗い推定であることには変わりがない。 Cockcroft-Gault の式は、あくまで eGFR の計算方法の一つに過ぎないのであって、クレアチニンクリアランスとは、呼べない。


2016/12/28 一般教養

過日、同期研修医の某君と、医学科教育のあり方について語りあった。 彼が言うには、一年生の、医学への情熱が保たれている時期に、もっと臨床的なこと、実際の医療に関係することを教えるべきではないか、とのことであった。 同様の意見は、学生時代にも、何人かの学生から聞いたことがある。 しかし私は、その意見には反対である。

彼らの主張は、医学と関係ないことを学ぶうちに、医学への意欲が薄れてしまうのだ、という仮説に基づいている。 しかし、それは誤りである。 まず第一に、物理学や数学、社会学などは、すべて医学と関係しているのであって、それを「医学と関係ない」などと考えること自体が誤りである。 第二に、仮に、大学の講義の質が低かったとしても、医学への情熱の喪失を、大学のせいにはできない。 講義がくだらないなら、自分で、医学に関係するようなことを勉強すれば良いだけのことである。 それをしなかったのは、要するに、元々、本当は医学に興味がなかったからであろう。

もちろん、私は、現在の大学の講義に問題がない、と言っているわけではない。 名大医学科にせよ、北陸医大にせよ、同級生などの話を聞く限りでは、ろくな講義が行われていないようである。 教える側の自己満足や、試験で点を取るためのテクニック、あるいは通り一辺の、学問的ではないことばかりを教えているのではないか。

もはや北陸医大の教授陣には、任せておけぬ。 次の 4 月から、医学科一、二年生を対象にした初等的な生理学セミナーを開催しようかと思う。


2016/12/27 教科書や論文の読み方

昨日の記事で、麻酔科学の聖典である `Miller' の軽率な記載について指摘した。 読者の中には、これについて「枝葉末節に拘泥した、陰湿な批判だ」などと思った人もいるかもしれぬ。 その感想は誤りである、ということを、ここに指摘しておこう。

純粋な論理体系を重んじる数学とは異なり、物理学や化学、生物学といった自然科学、そして工学や医学といった応用科学においては「絶対に正しい事実」は存在しない。 いかに実験や理論を積み重ねようとも、ある事象が、完全に疑いの余地なく正しいことを証明することは、不可能だからである。 それどころか、特に生物学や医学の場合、広く「正しい」と信じられている事象でさえ、かなり曖昧な根拠しか持たないことも稀ではない。 教科書に「広く知られた事実である」と記載されている内容でさえ、よく調べてみれば、ろくな根拠が存在しないこともある。 たとえば「抗二本鎖 DNA 抗体は、SLE に特異的である」という説である。 これは、学生向けの平易な参考書にすら記載されている有名な事実であるが、実際には何の根拠もない風説であることは昨年、指摘した

その「事実」が、どこまで信用できるのか、あるいは、どこから信用できないのか、ということを理解しておかなければ、その知識を正しく運用することは、できぬ。

2016.12.28 余字修正

2016/12/26 レミフェンタニルの薬物動態

過日、同期研修医の某君と麻酔科学について語り合っている時、彼は「レミフェンタニルはキレが良い」と言った。 もちろん私は、すかさず「キレが良い、とは、薬理学的にどういうことを言っているのか、意味が分かりませんな」と指摘した。 そこで本日の話題は、レミフェンタニルの薬物動態についてである。

レミフェンタニルはオピオイドの一種であり、つまり、モルヒネと類似の作用機序を有する鎮痛薬である。 麻酔科学の聖典である Miller RD et al., Miller's Anesthesia, 8th Ed., (2015). によれば、 レミフェンタニルは合成オピオイドであり、モルヒネの誘導体ではない。 「オピオイド」と似た語として opiate というものがあるが、これはモルヒネおよび、その誘導体を指すものであるから、レミフェンタニルは opiate には含めない。

レミフェンタニルは、ヒトの血液中で著しく不安定である。 詳しい構造については言及しないが、レミフェンタニルには -COOCH3 という構造が 2 箇所存在し、そのうち一方は、 血漿中に含まれるエステラーゼによって速やかに加水分解されるからである。 すなわち、レミフェンタニルは体内で迅速に代謝されるが故に、クリアランスが高いのである。 さらに、この加水分解の産物はオピオイドとしての活性が非常に低いらしい。 従って、すごく大雑把にいえば、レミフェンタニルの持続投与をやめれば、すぐに効果が失われることになる。これを、冒頭の某君は「キレが良い」と表現したのである。

なお、レミフェンタニルのクリアランスが高いのは、プロポフォールの血中からのクリアランスが高いのとは、機序が異なる。 半年ほど前に書いたように、プロポフォールの場合、分布容積が非常に大きいために、 血中から速やかに脂肪組織などへ移行する結果、血中から迅速に失われるのである。代謝されているわけではない、という点に注意を要する。

さて、Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). は薬理学の名著であるが、 この書物は、麻酔薬については記述がぞんざいである点が惜しい。 299 ページに「レミフェンタニルの半減期は約 5 分である」などと書かれているが、 そもそも麻酔科学においては「薬物の半減期」という概念自体が存在しないのだから、話にならない。 この点について `Miller' には

The pharmacokinetic properties of remifentanil are best described by a three-compartment model.

レミフェンタニルの薬物動態は、3 コンパートメントモデルでよく記述される。

とあるが、これも、あまり正確な表現ではない。 なお、薬理学をキチンと勉強しなかった学生や研修医は「3 コンパートメントモデル」という言葉自体を理解できないであろうが、 このモデルについて、ここで説明する余裕はないので容赦されたい。

`Miller' の上述の記述には、参考文献が引用されていないのだが、たぶん、Egan TD et al., Anesthesiology 79, 881-892 (1993). あたりに基づいているのではないかと思う。 この報告をよく読むと、3 コンパートメントモデルでは近似しきれない、長半減期の成分が明確に存在する、という事実が述べられている。 一方で、この長半減期の成分は全体に占める割合が小さいために、臨床的には無視できるであろう、という理屈で、著者らは、3 コンパートメントで充分としたのである。

しかし、もしレミフェンタニルを長時間投与した場合に、この「第 4 の成分」が充分に小さいままであるという保証はない。 その意味では、3 コンパートメントモデルで充分であるという証拠はないのだから、`Miller' の記述は軽率であると言わざるを得ない。 `The pharmacokinetic properties of remifentanil are well approximated by a three-compartment model in most clinical situations.' などとするべきである。

なお、一部の研修医は「そんなこと、知らなくても麻酔はできるよ」などと言うであろう。 しかし、私が患者の立場であるならば、そういう発想をする医者には、麻酔をかけられたくない。


2016/12/25 組織診

世間では降誕祭の季節であったが、私は、聖書を信仰するキリスト教徒ではなく、教えの本質を聖書の文言以外の部分に求める「類キリスト教徒」であるから、 この日を特別視しない。

一昨日の記事の続きである。 先日は、病理診断と形態学的診断は同一に非ず、という話を書いた。 では、なぜ我々病理医は、かくも組織診に拘るのか、というのが本日の話題である。

結論を先に書くと、我々が組織診を重視するのは、それが、病変を直接的に観察する、現状では唯一の手段だからである。 たとえば細菌性肺炎について考えよう。 中途半端に「総合診療」を学んだ学生や研修医であれば、詳細な聴診をはじめとした身体診察で、9 割以上正しく肺炎を診断できる、と豪語するであろう。 また、胸部 X 線画像や CT などで、いわゆる「肺炎像」が認められれば、多くの研修医は「肺炎である」という自信を強めるのではないか。

ここで、本当に優秀な学生や研修医であれば「『肺炎像』とは、一体、何のことを言っているのか」と批判するであろう。 「肺炎像」という語は、若い医師を中心に一部の臨床家が好んで用いるものであるが、キチンとした医学書には記載されていない。 もちろん、定義は曖昧で、よくわからない。 「コンソリデーション」あるいは「浸潤影」と同義なのか、と問えば、たぶん、彼らは「いや、そういうわけではなくて……」などと、曖昧な返事をするであろう。 要するに、意味もわからずに、アヤシゲな他人の言葉の受け売りで「肺炎像」などと言っているのである。

閑話休題、身体診察所見や画像所見で「細菌性肺炎である」と断定するのは、シロウトに毛が生えた程度の医者である。 本当に放射線医学や呼吸器内科学を識っている医師であれば、断定はせず、肺癌などの可能性を常に念頭に置いている。 というのも、身体診察や画像診断では、肺炎と肺癌は鑑別不能だからである。 身体診察上の異常な呼吸音は「気道が何かおかしい」という程度の情報しか含んでいない。 X 線画像でみているのも、何らかの炎症の結果として生じた滲出液に過ぎず、それがいかなる病変であるのか、直接的証拠にはならない。 医療技術は進歩しているようにみえるが、病変そのものを観察する手段は、現代においてもなお、生検以外には存在しないのである。

病変を直接観察することなしに、どうして、それが細菌性肺炎であると断定できようか。 どうして、肺癌の可能性を否定できようか。 身体診察や簡単な画像所見は、医療資源の限られた僻地や、プライマリ・ケアの最前線においては患者スクリーニングに有益である。 しかし、それに頼った診断は、常に一定割合の誤診をもたらすことを留意しなければならない。

もちろん、臨床的に、全例を生検するべきではない。患者にとって不必要な侵襲となるからである。 だが、生検することなしに、間接的な観察のみで、あたかも自分が病変の性状を理解したかのように誤解してはならぬ。 「臨床的にそうするしかないのだから、それで良いだろ」などと言って診断を疎かにする医師も稀ではないが、そうした態度が不適切な治療をもたらし、患者に害を為すのである。 そして、臨床医を、そうした錯覚から引き戻してやることは、我々病理医の責務である。


2016/12/24 ある同級生を思い出したこと

過日、北陸医大 (仮) 二年次研修医の某氏と話していて、名古屋大学時代の元同級生の女性ことを思い出した。 彼女は学年で二番目ぐらいに優秀で、基礎医学も含めた医学全般に見識の高い人物であった。 彼女とは、卒業直前に一度、ゆっくりと話をする機会があった。 どうやら、私が常日頃「どうせ高卒で医学部に入る学生など、ろくな動機を持っていない」などと言っていたのに対し、不満を抱いていたらしい。 彼女自身が、いかにまっとうな理由で医師を志したかを教えてくれた。 ただし、彼女は同級生の中でも抜群に優秀な人物なのだから、一般の医学科生について「ろくな動機がない」と指摘する私の主張に対する反論には、なっていない。

上述の元同級生のことを思い出したのは、現状として医師に与えられている社会的・経済的な恩恵の妥当性を巡る論争の過程であった。 私は、道半ばで落ちこぼれたとはいえ、あくまで工学部出身の人間である。 我々からすれば、工学系の人々に比して、医師の方が社会的に重い責任を負っているとは思われない。 それを、医者は社会的責任が重いから、などと称して、チヤホヤされ高給を受けとることを当然視する意見は、到底、容認できない。

ところで、私は、北陸医大 (仮) の研修医の中で、いささか独特の位置を占めることに成功しつつあるらしい。 過日、非医師の職員と話している際に、私は公然と「医者の金銭感覚は、少しおかしいのではないか」などと述べた。 これに対し、その職員氏は「外では言えないけれど、ちょっと、(医者は) 非常識だと思うところはある」などと言った。 その場に居合わせた別の職員氏が「外では言えないって、今、現に言ってるじゃないの」と指摘すれば、 「まぁ、○○先生 (私のこと) は別よ」とのことであった。 どうやら、私は「医者」という括りに入っていないらしい。たいへん、嬉しいことである。

もちろん、その職員氏らも、私がやがて地位を得れば、現在エラそうにしている医者連中と同じようになるのではないか、との疑念は抱いているであろう。 その一方で、私だけは違うのではないか、との一抹の期待も、持たれているのではないかと思う。 ついでにいえば、某教授や、同期研修医の某氏からも、「君が、いつまで、そういう姿勢を保っていられるか、見物である」などと言われたことがある。

要するに私は、そういう人々の期待を背負って、ここにいるわけである。 変節するぐらいなら、医者を辞める。 そういう覚悟で、今後とも、戦っていく所存である。

2016.12.25 語句修正

2016/12/23 病理診断の真髄

12 月 25 日の記事も参照されたい。

病理医の卵に過ぎぬ私が、病理診断の真髄について書くなどというのは、おこがましい、と言えなくもない。 しかし、卵だからこそみえること、ひとたび孵化すれば見失ってしまうことも、あるのではないか。

出典は覚えていないが、pathologist と morphologist は違う、という話を、どこかで読んだことがある。 顕微鏡などを用いた形態学的観察は、病理診断のための手段の一つに過ぎないのであって、それ自体は病理診断の本質ではない、という意味である。 では、病理診断の本質とは、何か。

「病理診断」とは、病理学に基づく診断、という意味である。 病理学とは、病の理を詳らかにする学問のことである。 あまり一般的な語ではないが、「理論医学」という言葉に置き換えても良いだろう。 「病理診断」と対になるのは「臨床診断」である。 臨床診断においては、厳密な論理は要求されないのが普通であり、かなりの程度は経験則に頼って行われる。 これに対して病理診断では、厳格な論理、英語でいうところの reasoning が求められるのであって、それこそが病理診断の本質である。 それ故に、病理診断は確定診断である、とか、最後は病理で決まる、とか言われるのである。

具体例を挙げよう。52 歳の女性の乳房に硬い腫瘤があり、マンモグラフィで明瞭なスピキュラがあり、 そして超音波検査で辺縁不整な低エコー腫瘤がみられたならば、多くの臨床医は、乳癌を強く疑うであろう。 中途半端に「総合診療」などを修めた学生や研修医であれば「乳癌に間違いない」とまで言うかもしれぬ。 しかし冷静に考えれば、上述の所見は、いずれも癌に特異的なものではない。 これを「乳癌」と決めつけるのは、9 割方正しく診断できれば、残り 1 割の患者については誤診しても構わない、という、無責任な態度である。

我々は、違う。 診断を行う際には、その診断が間違いない、という証拠を提示する。 たとえば、標本中に著明な核異型、組織異型をみたとする。それを「異型が強いなら、それは経験上、癌である」と考えてしまったら、それは病理診断ではない。 論理的でないからである。 病理診断とは、次のような論理を展開することをいう。

細胞の極性の消失は、細胞膜蛋白質の生理的発現パターンが失われている証拠である。 核異型は、染色体の正常構造が失われている証拠である。 そうした異常な構造を有する細胞は、通常であれば、アポトーシスするはずである。 それが増殖しているという状況は、細胞の自律的増殖、すなわち腫瘍以外には存在しない。 そして現に蛋白質の発現パターンに著明な異常が生じている以上、仮に現時点で浸潤がなかったとしても、 浸潤能を獲得した細胞が出現することは時間の問題である。 従って、これは臨床的には浸潤能を有する上皮性腫瘍、つまり癌であると考えるべきである。

もちろん、病理診断レポートに、イチイチこんなことを書いていたら、読む方も嫌になってしまうから、実務上は「異型があるから、癌だ」というように書く。 しかし、それを書いている病理医の頭の中では、上述のような論理が述べられているのである。 これが、病理診断である。 論理構造を放棄して、経験に基づくパターン認識で診断するだけなら、技師やコンピューターで充分であり、病理医など不要なのである。


2016/12/22 病理解剖の受付時間について

3 ヶ月ほど前に書いた話の続きである。 詳しく調べたわけではないが、現状としては、ほとんどの病院では、夜間や休日には病理解剖を実施していないのではないかと思う。 名古屋大学や北陸医大も、例外ではない。 つまり、患者が夕方に死亡した場合、解剖は、翌朝になってから行われる。 また、週末に死亡した場合は、月曜日の朝を待ってから解剖を行うことになる。 そういう体制では、病理解剖の実施率が上がらないのは当然である。

従って、私は、病理部は 24 時間 365 日のオンコール体制を整えるべきである、と、周囲の研修医らに対して唱えている。 すなわち、いつ、いかなる場合であれ、臨床医からの病理解剖要請があらば、我々は、ただちに病院にかけつけて解剖を実施せねばならない。 私は、今は病理医の卵に過ぎぬが、やがて病理部内において相応の立場を獲得した暁には、かかる体制を早急に構築する所存である。

過日、某内科の中堅医師と立ち話をしていた際、ぜひ将来的には病理部に 24 時間 365 日の体制を構築して欲しい、と言われた。 そういう希望を上級医から聞いたのは、これまで、その一回だけである。 たぶん、少なからぬ臨床医は病理部の解剖体制について不満を持っているのだろうが、私が病理志望であることを知っている人は、敢えて、それを私には告げないのではないか。

しかし、本当は、そういう希望は積極的に表明していたいた方が、助かる。 遺憾ながら、現在の病理医の多くは、病理診断や病理解剖に対して、それほど強い誇りや情熱を持っていないように思われる。 緊急呼び出しや当直などがないことを、病理医という仕事の魅力に挙げる者も少なくない。 そういう連中からすれば、24 時間 365 日のオンコール体制など、とんでもない話であろう。 従って、私は今後、そういう怠惰な病理医連中を敵にまわして、少数勢力の改革派病理医として戦っていかねばならぬ。 そのためには、臨床医からの援護射撃が、ぜひとも必要なのである。 「それが医学・医療のために必要なのだ」という錦の御旗がなければ、数で劣る我々は、戦えない。


2016/12/21 細胞を分類することについて

たぶん、わかっている人にとっては、当然のことなのであろう。 細胞を分類する、ということについてである。

我々は、だいたい医学部一年生か二年生の頃に、生理学とか組織学とかを学び、そこで様々な「種類」の細胞について学ぶ。 キチンと勉強した学生であれば、繊維芽細胞、脂肪細胞、平滑筋細胞、骨格筋細胞、重層扁平上皮、繊毛上皮、血管内皮細胞、などと聞けば、 それぞれの形態や機能について、次々と思い浮かぶことであろう。 しかし、冷静に考えると、一体、何をもって我々は、それらを「同種の細胞」と呼んでいるのだろうか。 教科書的には「類似の形態や機能を持つ細胞を、便宜上、まとめて同種の細胞とする」というようなことになるだろう。 問題は、何をもって「類似」と呼ぶのか、ということである。

「類似」の定義が困難なことで有名なのが脂肪細胞である。 「脂肪細胞」を定義しようとすれば、「豊富な細胞質に脂質滴を蓄えており、辺縁に偏在した核を持つ細胞」とでもするのが妥当であろう。 この定義を満足する細胞は、全身の随所に存在する。 脂肪細胞は、単なる脂質貯蔵庫ではなく、どうやら内分泌細胞としての働きも重要であるらしい。 そして、その内分泌細胞としての性状は画一ではなく、臓器毎、あるいは組織毎、ひょっとすると個々の細胞毎に、異なるようである。 すなわち、「脂肪細胞」というのは、極めて多彩な細胞群の総称なのであって、単に形態的特徴が似ているから、同一用語でまとめられているに過ぎない。

別の例を挙げれば、重層扁平上皮組織、あるいはその基底細胞層を成す細胞についても同様のことがいえる。 ひとくちに「基底細胞」などと言っても、顔面の皮膚の基底細胞と、腋窩の皮膚基底細胞と、足底の皮膚の基底細胞では、その細胞としての性状は異なるはずである。 あるいは、最近流行の言い方をすれば、遺伝子発現プロファイルが異なるはずである。 もちろん、ある種の統計学的詐術を用いれば、これらの細胞が同一のプロファイルを持っているかのようにみせかけることはできるが、我々は、騙されない。

さらに細かいことをいえば、同じ空腸上皮細胞であっても、ある陰窩のパネート細胞と、隣の陰窩のパネート細胞では、 遺伝子発現プロファイルが全く同一であるとは思われない。 そうしてみると、この二つのパネート細胞を同一の種類の細胞であるとすることには疑いの余地がない、とまでは言えない。 究極的には、我々の体内には、全く同一種類の細胞などは二つとして存在しない、と言ってもよかろう。

もちろん、それでは議論が進まない。 誰であったか忘れたが、「正しく分類できる者は、賢者と呼ばれる」というようなことを言った人がいたように思う。 分類するということは、物事の本質を捉えるために必要な行為である、という気持ちの込もった表現である。

要するに、分類すること、二つの細胞を同種とみなすことは、物事の本質を理解するための便宜上の手段に過ぎない。 それを、まるで天与の法則として「同種の細胞」などというものが存在すると勘違いしては、なるまい。 このことは、特に、細胞を使った医学研究をしたり、あるいは腫瘍について深く理解しようとした際に、問題となる。 「分類」ということについては、同じようなことを 6 年生の終わり頃に書いたのだが、その時には細胞の分類にまでは私の思慮が及んでいなかった。

2016.12.22 誤字修正、語句修正

2016/12/19 従順な医師 (2)

講義や勉強会などの際に、あまり発言しない学生や研修医は、多い。 彼らの中には、話の流れについていけていない者、よくわかっていない者も多く、本当は、質問したいことがたくさん、あるらしい。 しかし何となく恥ずかしい等の理由で、なかなか口にできないようである。 こちらからアレコレと訊ねてみると、だいたい「このあたりが、よくわからない」などという疑問点が、彼らの口から出てくるのである。

学生時代のあるとき、私が「そんなの、どうせ聴衆の大半も同様に理解していないのだから、堂々と質問すれば良いのに」と無遠慮に言ったところ、 ある下級生から「誰もが、あなたのように言えるわけではないんですよ」と非難された。

質問できない、という気持ちは、わからないでもない。 私がベラベラと喋れるのは、自分が学生や研修医の中ではデキる方だという自信があり、 どうせ周囲の連中は私よりもわかっていないだろう、と思っているからである。 そういう自信がなければ、たぶん私も、あまり堂々と質問することはでないであろう。

ここまで読んだ人は、なんと傲慢な奴だ、などと不快に思ったかもしれない。 しかし、不愉快なのは、私の方も同様である。

あなた方に自信がないのは、そもそも、これまで、あなた方が不適切な勉強法を実践してきたからではないのか。 教科書に記されていること、センセイのおっしゃることを無批判に受け入れ、思考停止して丸暗記する、という勉強法を二十余年も続けてきて、それで自信がつく方がおかしい。 いつまで、そういう安楽で無責任な態度を通すつもりなのか。それを改めるべき時が、今ではないのか。 そのまま医師になって、それで患者に対して責任を負えるとでも思っているのか。 ガイドラインに書いてあるのだから仕方ない、それが標準なのだから仕方ない、と、言い訳するつもりなのか。

それとも、流れに身を任せていれば、いつか自然に自信がつくとでも思っているのだろうか。


2016/12/18 従順な医師 (1)

過日、北陸医大 (仮) 附属病院の全職員を対象として、インフォームド・コンセントの重要性を説く講演会が開催された。 これは、特に死亡事例に関連して、我々医療従事者側の身を守る手段としての、インフォームド・コンセントに重点を置いた内容であった。 もちろん、私は最前列中央の席を占めたわけだが、周囲には他の研修医の姿はみられなかった。 後で知ったところによれば、どうやら後方の座席に若干名の研修医がいたらしいが、それでも、院内に 30 名程度いるはずの研修医のうち、 参加者は 10 名にも満たなかったであろう。 今回と同様の「医療安全推進のための講演会」などは年に数回、実施されており、一定回数の参加は義務付けられているが、全部に参加する必要はない、とされている。 中には、手術などのためにやむなく欠席した者もいたであろうが、たぶん、 興味がなく、既に必要な出席回数は満足しているから今回は出席しない、という者が多かったのではないかと思われる。

こうした講演会に対して興味を持たないという姿勢自体に問題はあるものの、興味がないから出席しない、という態度自体は、 主体的な判断による自主的行動であって、結構である。 ただし、それならば、興味のない講演会に対しては、義務付けられた出席回数に関わらず、欠席すべきである。

我々は、幼稚園児ではない。それどころか、職務上、高度な倫理観を要求される立場の、医師である。 講演会に参加するべきかどうかなど、自分で判断できるはずである。 それを、病院から強制されているから参加する、などとは、一体、どういう了見であるか。

その講演会が自分にとって必要でない、有益でない、と思うのであれば、かかる無駄な講演会への出席を強要する病院当局に対し、断固として抗議・反発するべきである。 抗議が受け入れられなければ、黙って無視する、という静かな抵抗の態度を示すのも良い。 それを貫けば、最終的には懲戒処分を受ける恐れもあるが、この医師不足の時世を鑑みれば、場合によっては、こちらから自主的に退職してしまえば良い。 まともな医師であれば、再就職先に困ることなど、ないはずである。

同じようなことは、職場の忘年会についてもいえる。1 ヶ月ほど前にも書いたが、北陸医大の場合、 診療科ごとの忘年会に、研修医も招聘され、宴会芸の類を披露することが求められる例が多いようである。 もちろん、それをやりたい者は、やれば良いのだが、「やりたくありません」とは言いにくい雰囲気が、ある。

私は、11 月と 12 月の 2 ヶ月間、某内科で研修中であるが、忘年会は欠席する。 静かな食事会程度の忘年会なら参加するつもりであったが、宴会芸の類は、やるのも、みるのも、嫌いだからである。 参加したくないから、参加しない、というだけの話である。 ところが、周囲の研修医の話を聴くと、どうも一般的には、それほど単純な問題ではないらしい。 本当は参加したくないのだが、いずれ大学の「医局」に「入局」するつもりだし、関係を損ねたくないから、というような配慮の下、 不本意ながら参加する、という研修医が稀ではないらしいのである。

言うまでもなく、現代においては「医局」などという組織は公式には存在しないことになっているし、 もちろん「入局」などという制度も存在しないことになっている。 だいたい、忘年会を欠席したぐらいで上級医の機嫌を損ねて居づらくなるぐらいなら、そんな大学や病院は、辞めてしまえば済むだけの話である。


2016/12/14 理想

私は、京都大学時代には「今の京大の学生は馬鹿ばっかりだ」と言い、名古屋大学時代には「名古屋大学は、腐敗している」と言い、 北陸医大 (仮) に来てからは「教育者としての資質を欠く教授がいる」などと言っている。 その一方で、京都大学、名古屋大学、そして北陸医大に対する愛校心は強い、と自称している。 そうした私の姿勢を、同期研修医の某君は「幻想ばかり追いかけていて、現実を知らない」と揶揄した。

その通りである。私は、栄光の京都帝国大学に思いを馳せ、誇り高き名古屋帝国大学を愛し、 そして、地方大学でありながら世間に迎合せず独自の道を歩む北陸医大に惹かれて、ここに来たのである。 今の北陸医大の人々は、我が大学の建学の精神を忘れ、ただ一地方大学として生き残ることに汲々とし、先人の掲げた理想を、忘却してしまった。 それではいけない、と考える、少数勢力ではあるが改革の志を持つ人々に招かれて、私は北陸医大の研修医として着任したのである。

5 年ほど前、私は北陸医大の学士編入学試験を受け、入学を許可された。 形式としては「入学許可」であるが、実態としては、むしろ北陸医大が私に対し、暗に「あなたのような人材が必要である」と言ったのである。 これは、名誉なことである。 諸般の事情により、私は北陸医大入学を辞退して名古屋に移ったが、結局、北陸医大に帰ってきた。 あたりまえであろう。自分を本当に必要としてくれている場所で働くことを、望まない者が、いるだろうか。 給料だとか、設備や教育環境がどうだとか、大学としてのネームバリューとか、そういったものは、些末な問題に過ぎぬ。

平和に生きようと思えば、他人を否定せず、周囲に同ずることを心掛ければ良い。 それで個人の安寧は保たれようが、しかし、皆がそうすれば、社会は一体、どうなるのか。 本当に世の中をどうこうしようと思うならば、我々は、現実を肯定するわけにはいかない。改革は、否定することから始まるのである。 そうした異端者を受け入れる度量において、北陸医大に勝る大学は、あるまい。


2016/12/12 透視

放射線を用いた透視下の診療行為における不適切な被曝については、二年ほど前に書いた。 私は名大 6 年生の時、放射線科で 7 週間の実習を受けたのだが、このとき、ある教員は、透視の画面に自分の手が映ることは「死にたくなるほど恥ずかしい」と述べた。 ある時などは「おい、手が映っているぞ」という怒号が飛んでいるのをみたこともある。 その一方で、名大にせよ北陸医大 (仮) にせよ、そうした認識を持っておらず、「多少の被曝はやむを得ない」と考える医師は稀ではないようである。 たぶん、どこの病院でも、放射線科以外の人々は放射線というものをよく知らず、防護についても認識の甘い者が少なくないのではないか。 もし、本当に「多少の被曝はやむを得ない」という論理で、手が透視画面に映ることを前提として診療するならば、個人線量計を手に装着しなければならない。 これは、日本国の法令で決められているのであって、個々の医師や病院の裁量で省略できるものではない。

放射線について無知な者が、浅慮にも防護を怠って診療に携わり、結果として不適切な被曝をして自身の健康を損ねるだけならば、自業自得と、いえなくもない。 しかし大学病院の場合、指導医は学生に対して、自分の身を守るための適切な方法を教授すべき立場にある。 それならば、不適切な被曝をする現場を故意に学生にみせることは、道義上、許されない。 さらに、もし研修医等に対して、不適切な被曝を前提とした手技を実行するよう求めているならば、それは暴行罪または傷害罪にあたる。

不幸なことに、少なからぬ学生や研修医は放射線医学をろくに勉強せず、放射線のことを知らない医師による指導のみを受けているらしい。 そのために、学生や研修医は、透視下で、いかに危険で不適切な行為が行われているのか理解できず、「透視とは、そういうものだ」と誤解するようである。 遺憾ながら、私は一介の研修医に過ぎぬから、不適切な透視手技をみた際に、居合わせた学生にコッソリと「あれは、ダメだよ」と耳打ちするぐらいのことしか、できない。

放射線物理学の元専門家としての立場から申し上げるが、放射線というものは、ろくな知識も持たない素人が扱えるものではない。


2016/12/11 譫妄

2017 年 7 月 23 日の記事も参照されたい。

過日、同期研修医の某君と話していて、そういえば、そうだ、と思った話である。「譫妄」という語についてである。 この言葉の意味について、金原出版『現代臨床精神医学』改訂第 12 版 (2011). には 「せん妄は, 1) 意識混濁, 2) 錯覚・幻覚, 3) 精神運動興奮・不安などが加わった特殊な意識障害である。」 「せん妄の特徴は, 意識混濁が存在するが意識の清明度が著しく変化, 動揺し, 活発な感情の動きや運動不安があり, 錯視, 幻視などの知覚異状を伴うことである。」 と記載されているが、定義については明確に述べられていない。 ひょっとすると、この「特徴」として述べられている内容は「定義」のつもりであったのかもしれないが、 精神医学においては術語の定義が非常に重要であることを思えば、曖昧な記載をするべきではない。 「定義」であるならば、ここに挙げられた要件を全て満足していなければ「譫妄」と呼ぶことはできず、また、要件を満足していれば全て「譫妄」に該当する。 一方、「特徴」であるならば、一部を欠いていても「譫妄」と呼んで構わないし、要件を全て満足していても「譫妄」に該当しない例が存在し得るのである。

この点において、医学書院『標準精神医学』第 6 版 (2015). では 「軽度ないし中等度の意識混濁に活発な精神運動興奮が加わるものをせん妄という」と明確に定義されている。 医学書院の「標準」シリーズは、基本的には医師国家試験対策書であり、低俗なのだが、『標準精神医学』『標準脳神経外科学』『標準整形外科学』については、 医師国家試験の枠にあまり捉われず、学術的な記載が比較的豊富であり、たいへん、よろしい。 なお、この『標準精神医学』の編者には、第 6 版から名古屋大学の尾崎紀夫教授が加わっている。 尾崎教授は、精神疾患に対する薬物治療に積極的であるために、臨床的には一部の患者等からひどく嫌われているが、少なくとも精神医学研究・教育においては傑出した人物である。 「疾患」とは何か、といった点も含め、言葉を正確に使うことの重要性を我々に教えてくれたのは、尾崎教授であった。 名大医学科で私が講義を受けた中では、尾崎教授は、病理の中村教授と並び、最も素晴らしいメッセージを我々に与えた人物である。

なお、Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). では、譫妄 delirium について `a relatively acute decline in cognition that fluctuates over hours or days.' としている。 すなわち、精神運動興奮を要件とせず、hyperactive なものと hypoactive なものの、2 つのサブタイプに分類される、とするのである。 ただし、臨床的には両者は必ずしも明確に区分されるものではない、としている。 この Harrison などの流儀に対し、日本の教科書では、hyperactive なもののみを「譫妄」と呼ぶことが多いようである。

さて、精神医学的には、「譫妄」とは上述のように定義されている。 これは、症状のみによる定義であって、原因は限定しておらず、器質的な異常によるものも、そうでないものも含む。 しかし臨床的には、この語を少し違った意味合いで用いる医師が稀ではない。 すなわち、入院等により以前とは生活環境が一変することによって来す一過性の精神運動興奮発作に限定して「譫妄」と呼ぶのである。 私の知る限り、「譫妄」という語を、そうした限定的な意味で用いている精神医学書は存在しない。 おそらく、精神医学をキチンと修めていない医師の一群が、深く考えずに、曖昧な感覚だけで言葉を用いているのだろう。

そうした言葉の定義をキチンと考えない人々に対し、その問題点を認識させることは困難である。 定義が曖昧で意味がよくわからない、ということを指摘しても、彼らは「うまく説明できないが、意味はだいたいわかるだろ」と、自身の認識の甘さを認めないからである。 彼らは、自分よりエラい人から指摘されれば従うが、対等あるいは下の立場からの指摘に対しては、馬耳東風である。


2016/12/10 白衣とネクタイ

医師や医学科生の服装のあり方について、全国的な共通見解は存在しないようである。 名古屋大学時代、周囲の学生には、いわゆるケーシー型の、半袖長ズボンで上下セパレート型の白衣を着ている者が多かった。 その一方で、私を含む少なからぬ学生は、長衣型白衣を着用していた。 また、臨床実習に臨む際の注意点として、胸元がみえる型の白衣を着用する男子学生はネクタイを着用せよ、と指導されていた。 ただし、この指導には従っていない学生や医師が多かった。

私は、基本的には学生時代と同じ、長衣型白衣にネクタイ着用、というスタイルを研修中の基本的な服装としている。 しかし、これは北陸医大においては少数派である。 研修医の多くは、スクラブと呼ばれる半袖シャツを着用しており、一部の者は、その上に長衣型白衣を着ている。 白衣にネクタイ、というのは、一部の熟練内科医などにはみられるものの、少数勢力である。

実際のところ、感染対策という点からいえば、ネクタイの着用は好ましくない、という意見もある。 通常、ネクタイは毎日洗濯するものではないから、細菌が繁殖しやすく、不潔である、というのである。 その意見が正しいことは、私も、認める。 さらに言えば、私自身は、ネクタイを好きではない。 特に、学問の話をする際に、いわゆるキチンとした格好をする必要はないと考えており、大学院時代の学会発表に際してはノーネクタイを貫き、 当時の准教授から不興を買ったほどである。 それでも敢えてネクタイを使用する理由については、昨年、書いた通りである。

なお、ネクタイの不衛生さについては、頻回のクリーニングで対応することにしている。 衛生に対する意識の高い人はスクラブを毎日交換・洗濯するらしいが、北陸医大では「週に少なくとも一回の洗濯」を推奨している部局が多いようである。 そこで私は、これに準じて、ネクタイを週に 2 本、クリーニングに出すことにしている。

ただし外科系診療科においては、空気を読んで、私もスクラブを着用している。 服装などという、くだらない問題で意地を通して指導者との関係を悪くするのは、人生に一度ぐらいは必要なことであるが、一度で充分だからである。

2016.12.11 語句修正

2016/12/08 病理解剖の承諾

近年、病院で死亡した患者に対する病理解剖の実施率が低下していることが、日本だけでなく、世界的に問題視されている。 病理解剖というのは、遺族の同意の下に解剖を実施し、その死因や、死亡に至る過程で何が起こったのかを詳らかにする行為をいう。 現代においては、病理解剖の最大の意義は、疾患に対する我々の理解を深めることにある。要するに、病理医や臨床医に対する教育として重要なのである。 しかし近年では、遺族が解剖に同意しない例が多く、結果として、解剖実施率が低下しているのである。

遺族が解剖に同意するか否かは、主治医の遺族に対する説明の仕方に大きく依存する、と言われている。 すなわち「もし、ご希望でしたら、病理解剖することもできますが、いかがなさいますか」などと問えば、大抵の家族は、解剖を断るであろう。 一方「我々としては、できれば病理解剖させていただきたいのですが、お許しいただけませんでしょうか」という方向で話せば、 比較的、同意を得やすい、という話を聴いたことがある。 そこで問題となるのが、臨床医自身が、どれだけ解剖を希望するか、ということである。

実情としては、多くの臨床医は、自分の診断に自信を持っている場合には、遺族に対して強く解剖を勧めないのではないかと思われる。 解剖をしても、どうせ、新たな発見は乏しいであろう、それなら無理に解剖を求めなくても良い、というわけである。 もちろん、病理医側の立場からすれば、その考えは誤りである。 いくら診断技術が進歩したとはいえ、現在の医療技術では、患者が死に至る過程の病態生理について、生前に充分に把握することは不可能である。 その患者が死亡した経緯を知るためには、解剖は、不可欠である。 解剖しなくても死因はわかる、などというのは、とんでもなく傲慢な発想なのである。 このことについては、福井次矢らの報告 (日本内科学会雑誌 85(12), 122-131 (2006.12).) などを参照されたい。

ただし、そのような勘違いを臨床医にさせてしまったことは、我々、病理医の責任である。 「主治医が剖検の同意をとってくれない」などと嘆く前に、はたして我々が、病理解剖によって充分な情報を遺族や主治医に提供してきたのかどうか、 いま一度、反省する必要があるのではないか。 我々は、これまで、患者や遺族、そして臨床医のために、本当に全力を尽くしてきただろうか。 病理診断のためのプレパラートを「腐るものじゃないから、急がなくても良い。診断は明日にしよう」などと放置した経験のある病理医は、いないだろうか。 また、患者と真剣に向き合わずに、疑問点を全力で追究せず、おざなりな病理解剖を施行した経験のある病理医は、実は少なくないのではないか。

研修医として臨床側に立って切実に感じるのは、病理診断の結果が出るのが遅すぎる、ということである。 病理診断学の聖典である J. Rosai `Rosai and Ackerman's Surgical Pathology', 10th Ed., (2011). には、次のように記載されている。

... it is essential to keep time at a minimum. The pathologist who spends minutes enraptured in the examination of a frozen section and shares his excitement with his colleagues should remember that there is somebody else who is spending those same minutes under somewhat different circumstances and in a different frame of mind.

...診断を速やかに遂行することは重要である。 診断を済ませる前に凍結切片を眺めてウットリすることに時間を費し、また、その興奮を同僚と分かち合うようなことがあってはならない。 その同じ時間に、自分とは異なる状況で、また異なる心境で、診断を待っている人々が、いるのである。

これを本当に肝に銘じ、常に念頭に置いている病理医が、はたして、どれだけ、いるのだろうか。 その病理医側の姿勢が、臨床医に伝わり、病理解剖実施率の低下につながっているのではないか。


2016/12/7 病気がみえない

「病気がみえる」という、一部の医学科生に人気の参考書シリーズがある。 これは、様々な疾患について、その特徴などを簡明なイラストで解説した絵本であって、視覚的に「わかりやすい」ということで評判らしい。 もちろん私は、そうした低俗な書物は所有していないし、あまりジックリと眺めたこともないのだが、他人が開いているのをみせてもらったことはある。 私が名古屋大学の学生であった頃、この「病気がみえる」シリーズを「低俗だ」と批判する教授も一部にはいたが、「割と、よく書けている」などと評価する教員も少なくなかった。

いつであったか忘れたが、北陸医大 (仮) の某教員と話している際に、この「病気がみえる」に話題が及んだことがあった。 その教員は「まぁ、病気はみえないけどね」と茶化した。私は「ですよね、フフフ」と笑った。我々の間では、これで、通じたのである。 つまり、「病気がみえる」シリーズなどは、疾患の本質には全く迫っておらず、そんなものを読んだところで、何も理解したことにはならない、という意味である。

また、あるとき私は重厚な教科書を医師控え室に持ち込み、たまたま居合わせた学生にみせびらかしていた。 すると、某内科医は「そういう本の方が、本当はわかりやすいんだよね。『イヤーノート』などは、読んでもサッパリわからないが、点だけは取れる」などと言った。 「イヤーノート」というのは、よく知らないが、医師国家試験に出題されやすい内容をコンパクトにまとめた参考書であるらしい。 そういう参考書は記述が浅薄なので、何も考えずに丸暗記して試験で点を取るだけなら役立つかもしれないが、結局、何もわかったことにならないのである。

たぶん、名古屋大学時代には、私が学生であったから、センセイ方も遠慮して「病気がみえる」「イヤーノート」などを否定するようなことを言わなかったのであろう。 今は研修医であるから、北陸医大の指導医は、遠慮なく、そうした俗書を批判する言葉を口にしているものと思われる。 だから、上述のような私の経験は、北陸医大の方が名古屋大学よりも意識が高い、という証拠にはならない。

しかし私としては、天下の名古屋大学において、「病気がみえる」「イヤーノート」などを肯定するような言葉は、聞きたくなかった。


2016/12/6 腎機能障害をクレアチニンで評価する

昨日の記事で言及したセミナーを聞き流している時に、ふと思い出したのだが、腎糸球体瀘過量のことを「腎機能」と表現する医者は、少なくない。 糸球体瀘過量が減少している、という意味で「腎機能障害がある」などと表現するのである。 あるいは、血清クレアチニン濃度が高くなることを「腎機能障害を来した」などと表現することもある。 もちろん、これは不適切というより、著しく飛躍した論理である。

そもそも「腎機能」という言葉自体が、極めて曖昧である。 腎臓には、尿の生成だけでなく、エリスロポエチン産生、ビタミン D の活性化、酸塩基平衡など、様々な機能があるからである。 また、腎臓に少し詳しい人であれば、クレアチニンは本当は少なからず尿細管から分泌されているので、 多少の糸球体瀘過量の変化が生じても、血清クレアチニン濃度にはほとんど反映されないことを知っているであろう。 しかし、ここで私が言っているのは、それ以前の問題である。

あたりまえのことだが、多量に輸液を行えば、糸球体毛細血管の静水圧が上がり、糸球体瀘過量は増加する。結果として、血清クレアチニン濃度は下がる。 これを「腎機能が上がった」と表現したいのであれば、すれば良いが、そういう「腎機能」に何か臨床的な意義があるようには思われない。 糸球体・尿細管の健全性は、糸球体瀘過量を決定する多数の因子のうちの一つに過ぎない、という事実を、少なからぬ臨床医は忘れているのではないか。 血清クレアチニン濃度、あるいは糸球体瀘過量から、糸球体・尿細管の健全性、いわゆる「腎機能」を推定したいのであれば、 そうした他の因子についてイチイチ補正した上で評価しなければならない。

こういうことを書くと、諸君は「それでも、腎機能の目安にはなるだろう」と言って反発するに違いない。 だから、医者は馬鹿にされるのだ。 水分の in-out バランスや利尿薬の投与量、長期入院による骨格筋萎縮によるクレアチニン産生量低下などを考慮して定性的に補正した上で、 血清クレアチニン濃度を「腎機能」の目安にするなら、理解できる。 実際、定性的な補正で構わないなら、それは、さほど難しいものではない。 しかし、そうした補正を「面倒だから」と省略して、「目安にはなる」などと単に血清クレアチニン濃度の高低だけで「腎機能」を測るのは、ただの怠慢である。知性の放棄である。


2016/12/5 敬語がおかしい医者

まともに日本語を扱えない医者は、多い。 「白血球が上がる」「ヘモグロビンが下がる」等の意味不明で不適切な表現については 3 年ほど前に書いたので、ここでは繰り返さない。 ただし、こうした表現は不適切だ、という考えを私は現在でも変えておらず、 意識して「白血球が増える」などの表現を用いていることは、ここに宣言しておく。

まともに日本語を使える人にとっては常識であろうが、来客などとの会話の中で自分の上司のことに言及する場合、呼び捨てで謙譲語を使うのが当然である。 たとえば「まもなく山田がまいります」などとするのが正しく、「山田部長がいらっしゃいます」などとするのは不適である。 ところが、医者の中には無教養な者が多いようで、意味不明な敬語もどきを、よく耳にする。

過日、某製薬会社主催の、インターネットを介したセミナーが開催された。 率直な感想としては、インチキな統計を使って、自社製品を実際以上に優良にみせかける、くだらない内容であった。 何やら学問ぶった討論のようなものをしていたようだが、彼らが何を議論しているのか、私には全くわからなかった。 天下の大製薬会社様が、学術的に不適切な議論を公然と放映するはずがないから、たぶん、私の勉強不足なのだろう。

そのセミナーにパネリストとして登場した、東京の某有名病院の医師の敬語は、ひどかった。 自病院について説明する際に、とある診療科について「科長に△△先生が赴任されてから云々」などと言っていたのである。 身内について「先生」などという敬称をつける時点でおかしいし、さらに「赴任される」という尊敬表現を用いるのも、おかしい。 言葉通りに解釈すれば、聴衆に対して「その科長はエラい人だから、崇め奉りなさい」と言っていることになる。 一体、何様のつもりなのか。厚顔無恥と言わざるを得ない。

もちろん、私は患者との会話の中で指導医について言及する際は呼び捨てを基本にしている。 ただし、その指導医のことを患者が「○○先生」と呼んでいる場合には、状況に応じて、私も「○○先生」と呼ぶことはある。 これは、敬語の基本作法からいえば不適なのだが、「私は○○医師よりも、むしろ、あなたの側の人間ですよ」という気持ちを込めた表現であり、 その意味では誤った表現とはいえまい。 私は、全般的なコミュニケーション能力がやや低めなので、患者との関係を築くために、こうした小技を駆使せざるを得ないのである。


2016/12/1 空気を読むこと

同期研修医のある人から「あなたでも空気を読むということがあるのですか」などと言われたことがある。 どうやら、私が空気を読まずに突撃する類の人間であるかのように、みえていたらしい。 もちろん、その人の私に対する認識は誤りである。 私は、非常によく空気を読む。ただし、空気を読んだ上で、敢えて、突撃する。

過日、研修の一貫として、献血ルームでの検診を行った。 私の任務は、献血をしようという人に対し問診などを行い、献血を行うに適する健康状態であるかどうかを確認する、というものであった。 献血を行ったことのある人ならわかると思うが、検診といっても、問診票の記載事項を確認し、 口頭で二、三の質問をし、血圧を測って、明らかな問題がある人だけ献血をお断りする、という簡素なものである。

もちろん、献血者の数はそれほど多くないし、一人の検診に要する時間も短いのだから、献血ルームに詰めている時間の大半は仕事がなく、暇であった。 手持ち無沙汰なので、私は採血装置の挙動を見学したり、通路脇に立って異状がないか監視したり、また献血を終えて帰る人に対して礼を述べる、などという「奇行」を始めた。 とりわけ、この「礼を述べる」というのが、献血ルームのスタッフに好評であったらしい。 よく知らないのだが、検診医がこういうことをするのは稀である、とのことである。

常識的に考えれば、血液製剤を投与する立場にある我々が、患者に代わって、供血者に対し礼を述べるのは、当然のことである。 が、それをする医師は、多くないという。 特に仕事もないのに、ただ椅子に座って、献血者を尻目にスマホをいじって時間をつぶす医者の姿を、そこにいる他の人々は、どういう目でみているのだろうか。

他人の目、ということでいえば、大学内でも同じことである。 たとえば研修医などを対象とするセミナーや、製薬会社の MR (Medical Representative) による薬剤説明会、 またエラい先生方が参加する臨床病理検討会 (ClinicoPathological Conference; CPC) で、挙手してベラベラと質問する研修医の存在を、 他の人々は、どのようにみているか。

私の行動は、同期の研修医や学生時代の同級生には、奇行として映っているだろう。 一部の者からは、頭のネジが二、三本、飛んでいる、などと思われているに違いない。 しかし、他の立場の人は、たぶん、私を、かなり違う目でみている。 そういう意味で私は、ものすごく空気を読んでいるし、悪くいえば、強烈にゴマスリをしている。 考え方によっては、実にイヤラシイ人間である、といえよう。

空気を読んでいないのは、むしろ、あなた方のほうである。


2016/11/29 興味で質問

私が、形ばかりとはいえ医師になって 8 ヶ月になる。そろそろ、某大学の教授の悪口を書いても良い頃合であろう。

私が某大学某診療科の症例検討カンファレンスに参加した時のことである。 ある若手医師が、「ちょっと興味で質問するのですが」と前置きして、発表者に対する簡単な質問を述べた。 発表者も、特に滞りなく回答したのであるが、その直後、教授が口を開いた。 教授がおっしゃるには、カンファレンスの場において興味で質問をするな、興味があるなら自分で調べろ、とのことである。

学問というものは、「ふしぎ」とか「おもしろい」とかいう気持ちから始まるものである。 その「ふしぎ」「おもしろい」と思う気持ちを語り合い、共有することこそが、科学者同士のコミュニケーションなのであって、大学におけるカンファレンスの存在意義である。 こんなことは科学の世界では常識であって、工学部では一、二年生の頃に教わる程度のことである。 それを「興味があるなら自分で調べろ」などとは、学問を否定する態度に他ならない。 その程度の人物を教授に据えているから、その大学は、いつまでも地方大学として、京都大学や東京大学などの後塵を拝しているのだ。

だいたい、今の医学科生や若い医師に最も欠けているのは、興味を持つ、ということである。 それを思えば、興味で質問をした若い医師に対して、褒めるということはあっても、咎めるなどということがあってはならぬ。


2016/11/28 R-CHOP 療法の開発 (2)

そもそも CHOP は、単剤で有効な抗癌剤を組み合わせただけのレジメンであって、抗癌剤同士の相互作用は、あまり考慮されていない。 従って、これがリンパ腫に対する至適なレジメンであるとは、到底、思われない。 そこで血液学者達は、CHOP よりも優れたレジメンを確立するべく模索を続けた。 それにもかかわらず、CHOP は、リンパ腫に対する標準的なレジメンとして 30 年間、君臨し続けた。 つまり、CHOP に代わる新規レジメンを開発する試みは、悉く、失敗したのである。

CHOP に対する血液学者の敗北を示す報告として有名なのは Fisher RI et al., N. Engl. J. Med. 328, 1002-1006 (1993). である。 これは、非ホジキンリンパ腫に対する「第 3 世代レジメン」として開発された m-BACOD, ProMACE-CytaBOM, MACOP-B の 3 つのレジメンについて、 いずれも CHOP に対する優越性を示すことができなかった。 それどころか、m-BACOD と MACOP-B については、重大な有害事象が CHOP よりも有意に多いことが示されてしまったのである。

さて、rituximab は抗 CD20 抗体であるから、CD20 陽性の B 細胞リンパ腫に対して有効であろう、ということは容易に想像される。 実際、瀘胞性リンパ腫に対しては、多剤併用化学療法よりも毒性の低い rituximab 単剤療法が選択される場合もある。 ただし rituximab 単剤療法では、たとえ完全寛解 (Complete Remission; CR) に至ったとしても再発が必至であるため、 これは根治を目指さない緩和医療に位置づけられる (Ardeshna KM et al., Lancet Oncol. 15, 424-435 (2014).)。 再発が必至なのは、CD20 はリンパ腫細胞の生存に必須の蛋白質ではないために、腫瘍の一部には必ず CD20 陰性の細胞が存在するからであろう。

根治はできないとしても rituximab は B 細胞リンパ腫に対して有効である、という事実をふまえれば、 CHOP に rituximab を併用する、という発想は自然である。 そうして R-CHOP が誕生したのは 2002 年であり (Coiffier BC et al., N. Engl. J. Med. 346, 235-242 (2002).)、 さらに 2006 年には R-CHOP が長期予後についても優秀なレジメンであることが確認された (Feugier P et al., J. Clin. Oncol. 23, 4117-4126 (2005).)。

さて、CHOP を改良したレジメンとしては、R-CHOP の他に EPOCH と BR が挙げられる。 これらのレジメンについては、また後日、書くことにしよう。


2016/11/25 R-CHOP 療法の開発 (1)

たまには医学のマニアックな話も、書かなければなるまい。 過日、巨赤芽球性貧血について記載する旨を予告したが、そちらの方は未だまとまっていないので、今回は、R-CHOP 療法の話を書くことにする。

R-CHOP というのは、B 細胞リンパ腫に対して用いられる化学療法のレジメン、つまり抗癌剤の組み合わせの一つであり、5 種の薬剤の頭文字を並べたものである。 すなわち、抗 CD20 抗体である Rituximab, アルキル化薬である Cyclophosphamide, アントラサイクリン系である Hydroxydaunomycin すなわち adriamycin, ビンカアルカロイド系微小管重合阻害薬である Oncovin すなわち vincristine, そしてグルココルチコイドである Predonisone である。 これらの薬剤の作用機序については、Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). などの薬理学の教科書を参照されると良い。 ただし、ビンカアルカロイド系の作用機序については注意を要する。 この系統の薬剤は微小管の重合を阻害する作用を持つことが知られているが、K. Kaushansky et al., Williams Hematology, 9th Ed., (2016). によれば、 この微小管障害が抗癌剤としての作用機序がなのかどうかは、不明である。 これと類似した問題として、タキサン系の微小管脱重合阻害薬であるパクリタキセルについては半年ほど前に書いた

さて、医師の中には、医学史に対する関心の乏しい者も少なくないようである。 しかし、先人から受け継いだ伝承を盲目的に施行するのではなく、医学・医療の新境地を開拓せんと志すならば、 先人の歩いた道を悉知し、どこに改良の余地があるのかを、自身の頭脳で理解しなければならない。 歴史を学ぶとは、そういうことである。

R-CHOP の原型となったのは、Cyclophosphamide, Vincristine, Predonisone を用いる CVP 療法である。 これは 1972 年に、当時、いわゆる非ホジキンリンパ腫に対して単剤での有効性が知られていた三系統の薬剤を併用する治療法として提案された (Bagley CM et al., Ann. Intern. Med. 76, 227-234 (1972).)。 なお、類似のレジメンとしては MOPP や C-MOPP もあるのだが、読者が混乱するといけないので、その話は割愛しておこう。

1976 年には、hydroxydaunomycin すなわち adriamycin も単剤で非ホジキンリンパ腫に有効であるという事実に基づき、これを CVP に加えた CHOP 療法が提案された (McKelvey EM et al., Cancer 38, 1484-1493 (1976).)。 なお、この adriamycin というのはイタリアで開発された薬剤であり、名前の由来は、もちろん、アドリア海である。 この薬には doxorubicin という別名もあるが、私は、より雅な名称である「アドリアマイシン」を好んで使っている。

さて、CHOP の登場から R-CHOP に至るまでには、実に 30 年を要した。 このあたりの事情も書きたいのだが、記事が長くなってきたので、また後日、述べることにしよう。


2016/11/24 医師としての適性

私は、自分が医師に向いているなどとは、思っていない。 過日、九州医大 (仮) の某教授と、九州医大の学生と、三人で食事をした際、教授は「医者の仕事というのは、大半がルーチンワークだよ」などと言った。 すかさず私はニヤリとしながら手を挙げて「僕は医者に向いていません」と言った。 すると教授もニヤリとして「そんなことは知っている」と言い、さらに「俺も向いていない」と続けた。

しかし北陸医大 (仮) の一部研修医や若手医師をみて相対的に考えると、実に遺憾なことであるが、私は医者に向いているのではないかと、思わざるを得ない。 新規に受診した患者について「面倒くさい」などと極めて不謹慎な発言をし、日中から研修医室でダラダラと漫画を読み、 スマートフォンでゲームに興じる者は、一人や二人ではない。 月 31 万円の給与に飽き足らず、給料の「安さ」に不満を漏らし、 どの診療科に進めば稼ぎやすいかに興味を向け、そして「早く開業して儲けたい」などという発言をする者もいる。

何より、医学に関心を持っている者が、極めて少ない。 学生時代、「まずは国家試験に合格しなければいけないから」と言い訳して、医学から目を背けてきた者は少なくないだろう。 それが、実際に国家試験に合格して、何事にも束縛されず、好きなだけ医学を勉強できる立場になった途端、上述のような有様である。 結局、彼らのいう「まずは国家試験に」という言葉は、嘘だったのである。 本当は、単に、医学に興味がなかったのである。 楽して社会的地位と安定した高収入を獲得し、受け売りの医療技術をひけらかして、患者から感謝されたかっただけなのである。 難関の医学部を出たのだから、我々はエリートなのだ、安泰な人生を享受することは当然の権利なのだ、というわけである。

はたして、それで世間が納得するか。


2016/11/23 上下関係について (2)

11 月 20 日の記事の続きである。 上下関係ということでいえば、医師の中には、技師や看護師といった、医師以外の医療職を低くみる者が、遺憾ながら、少なくない。 また、病院の清掃員などに対して、挨拶も会釈もしない医師や学生も少なくない。 そうした医師や学生の態度について、私を医学部に送り込んだある女性は「道端の『石ころ』ぐらいに思っているのだろう」と揶揄した。

医師が、技師や看護師、清掃員などに比して、はるかに高い給料を受け取っているのは事実である。 責任の軽重でいえば、間違いなく、医師の方が、技師や看護師よりも重い。 診療における責任は、専ら医師が負っているからである。技師や看護師には、与えられた任務以上のことを行う責任もなければ、独自の判断で診療を行う権限もない。 しかし、それで医師の方が技師・看護師・清掃員らよりも格上だと思っているならば、その者の眼はフシアナである。

私は「職業に貴賤はない」とか「チーム医療では互いに対等な立場で云々」などという、胡散臭い建前の話をしているわけではない。 我々医師は、技師や看護師がいなければ、何もできない、と言っているのである。清掃員がいなければ、病院は、そもそも機能しない。 制度上は、医師免許は臨床検査技師免許の上位互換であるかもしれないが、優れた技師の人々が持つ匠の技は、到底、医師ごときの及ぶところではない。 我々が病院で働くことができるのは、彼らのおかげである。 その点に対する感謝の念、彼らの持つ技能への敬意があるならば、どうして、医師が技師より上の立場だ、などという発想が起こるのだろうか。 技師の人々は我々を「センセイ」などと呼ぶが、もちろん、内心では、我々を「先生」などと敬っているわけではない。 しかし逆に、我々がベテラン技師に対して敬意を込めて「先生」と呼ぶのは、自然なことである。

ところで、私が毎週土曜日に学生と合同で勉強会を行っていることは以前にも書いた。 この勉強会の参加者に対して、私は「先生」ではなく「さん付け」で呼んで欲しい、と言っている。 うっかり彼らが私のことを「○○先生」などと呼んだ時には、すかさず「先生じゃないよ」などと返す、といった具合である。 これは、医師に対して「先生」という敬称を用いることに対する反発でもあるが、 同時に、学問の前には皆が平等であるとする京都大学的精神の発露でもある。

ついでに言えば、この「京都大学的精神」は、実は、京都大学に固有のものではない。 私が名古屋大学の学生であった頃、病理学の某教授は講義中、我々に対して幾度となく問いを投げかけた。 最前列中央に座っていた私は、その問いに対し、挙手すらせずに答えを述べる、ということを繰り返した。 そうするうちに、私と教授の間には、何かが芽生えたように思う。 ある時、教授が私の方に視線を投げながら、ある問いを発したのだが、私は答えに窮し、沈黙した。 すると教授は平然と「○○さんが即答できないということは、私の問い方が悪かったのであろう」と言ったのである。 私は、たいへん、申し訳なく思った。


2016/11/22 訂正

9 月 25 日の記事で、『医学生・研修医のための神経内科学』の著者である神田隆氏について、 「九州大学の人」という誤った記載をしていた。 正しくは、神田氏は山口大学の教授である。 これは、私の思い違いによる誤記である。 ある山口大学の学生氏から指摘を受けて、ようやく誤りに気付き、修正した。

たいへん、失礼しました。


2016/11/20 上下関係について (1)

医師同士の上下関係というのは、実に、不思議なものである。 詳しいことは知らないのだが、一部の医師の間では、学年、あるいは卒業年度を基準とした序列意識があるらしい。 その場合、私を含め、いささかヤヤコシイ経歴で医師になった者に対しても、単純に卒業年度で上下関係が規定されるようである。 そのため、10 歳ほども年長の相手に対して、かなり横柄な話し方をしている場面を、みかけることが稀ではない。 もちろん、年長の相手に対してであっても、学識等の面で格下であると認定した上で尊大に振る舞うのなら、失礼とはいえ理解できなくもないのだが、 学年だけを根拠に格下認定するのは、私の理解の範疇を超える。

それが不愉快だ、と、言っているわけではない。 私としては、あぁ、矮小な人物であるな、という感想は抱くが、特に腹は立たぬ。 ただ、ほんとうは私から彼らに提供できるものがイロイロとあるのに、 安易な上下関係を規定することで、その機会が損なわれてしまうのは、もったいないな、とは思う。

11 月 23 日の記事も参照されたい。

2016/11/19 医師のための統計学

ここしばらく、医学の専門的な話を日記に書いていない。 これは、私が医学的思考を停止しているからではない。 むしろ、非常に難しくてマニアックな勉強をしているために、なかなかまとまらず、日記に書ける段階に到達していないのである。 近いうちに、巨赤芽球性貧血の深淵について記載する予定であるので、首を長くして待たれるが良い。

さて、本日の話題は、統計学についてである。 現在の医学科教育では、ほとんど統計学が教えられていない。そのため、多くの医師は、統計学を識らない。 これは研修医に限ったことではなく、年長の医師であっても、同じことである。 この問題についての愚痴は、この日記においても、過去に何度も書いた。 しかし愚痴をこぼすばかりでは、世の中は、良くならない。 我々が、この窮状を、何とかしなければならないのである。

統計学のマジメな教科書は、一般の医師にとっては、難しすぎる。 かといって、アンチョコ本では、統計学の初歩すら身につかぬ。 以前に紹介した『今日から使える医療統計』は、なかなかの書物であるが、 初学者がこれを読んで自習する、というのは容易なことではない。 実用的な面にばかり意識が向かってしまい、統計の真髄を見失う恐れもある。

そうした事情もあり、同期研修医の某君と共謀の上、学生や研修医などを対象にした統計入門の勉強会を開催することにした。 これは、和文論文を題材に、統計解析の部分をじっくりと読むことで、統計の考え方、インチキの見破り方を修得しよう、というものである。 題材の論文は、医学的に重要なものでもなければ、立派な統計解析を行っているものでもなく、気軽に読める平易なものを選ぶことにした。 そうした題材論文のインチキ解析をケチョンケチョンに批判してやろう、という算段である。

悩ましいのは、具体的な形式である。 参加者には統計初心者を想定しているから、輪読形式でワイワイとディスカッションする、というわけには、いくまい。 かといって、私か誰かが講義する形式でも、つまらない。 試行錯誤、ということになるだろう。

ともあれ、来週から、統計勉強会を開始する。 一部の勢力からは「また、あいつか。研修医の分際で、でしゃばりやがって、生意気な。」などと思われるであろうが、 一方で一部の指導医からは熱い声援をいただいているので、心強い。


2016/11/18 おかしな図書館

以前、北陸医大 (仮) の某医師から「この大学の図書館は (良い意味で) ちょっとおかしい」という話をきいたことがある。 というのも、開架書庫に『臨床検査法提要』第 4 版が置かれている、というのである。

臨床検査医学マニア以外の人のために、多少の補足説明が必要だろう。 『臨床検査法提要』というのは、臨床検査医学のハンドブックであって、この分野の聖典のようなものである。 近年では金原出版から刊行されており、最新版は第 34 版、大きさは 22 cm 大で、1970 ページである。 初版が刊行されたのは昭和 16 年であり、北陸医大に所蔵されている第 4 版は昭和 22 年刊行で、21 cm 大、314 ページである。 そのような、実用的な意義は皆無である骨董品、貴重書が、学生向けの教科書と並んで開架書庫に並べられているのが北陸医大の図書館なのである。

私は、過日、図書館に寄った際に上述の某医師の言葉を思い出して、この第 4 版を探し出し、ペラペラとめくってみた。 この書物を眺めていて思い出したのが祖父江逸郎氏の話である。 名古屋大学名誉教授である祖父江氏は、著書『軍医が見た戦艦大和』の中で、軍医学校時代に臨床検査法提要の「エッセンスだけやった」と述懐している。 この祖父江氏の記述を読んだ当時五年生の私は「あのマニアックな書物を、エッセンスだけとはいえ、学生時代に学ぶとは、祖父江氏もなかなかの人物だな」と感心した。

しかし、よくよく考えてみれば、祖父江氏が読んだのは「提要」の初版か、せいぜい第 2 版ぐらいであろうから、ページ数も 300 に満たない、薄い本であったはずである。 1 ページあたりの分量も、かなり少ない。情報量としては、最新版の「提要」の 10 分の 1 以下であろう。 その程度の本を「エッセンスしかやらなかった」のだと考えれば、祖父江氏も、それほど大した学生ではなかった、ということになる。


2016/11/17 名人伝

中島敦、といえば、格調高くもユーモア溢れる文体で、世の中学・高校生に大人気の作家である。 代表作は『李陵』 『山月記』 『名人伝』あたりであろう。 本日の話題は、この『名人伝』についてである。 この物語において、主人公の紀昌は、甘蠅という仙人のような老師に弟子入りし、不射之射を修得する。 不射之射というのは、次のような技である。

老人が笑いながら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。 まだ動悸がおさまらず蒼ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だったのである。 弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。

ちょうど彼等の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。 その胡麻粒ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、 満月のごとくに引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。

射術の奥義を修得した紀昌は、世間から「名人」ともてはやされるが、他人の前で、その技を披露することはなかった。 その理由を、彼は「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と説明した。 そして『名人伝』は、次のエピソードで締めくくられている。

その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。 ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。 確かに見憶えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当らない。 老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。 老紀昌は真剣になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた様子である。 三度紀昌が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎と見詰める。 相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、 彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。

「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」

その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。

若い学生や医師の中には、この最後の一文に共感できない者が多いのではないかと思われる。 自分はまだ学生だから、まだ若輩者だから、と、名人の技には及ばないことを、恥じることもなしに認めているのではないか。


2016/11/15 ある指導医のこと

今月は、北陸医大 (仮) の某内科系診療科で研修を受けている。 この診療科では、毎朝、カンファレンスを行っているのだが、教授が臨席するのは週に 1 回だけである。 先週、つまり私にとっては初回の教授臨席カンファレンスにおいて、私は新規入院患者について報告した。 既に入院してから 3 日ほどが経過していたから、ある程度の診断はついていたし、治療もすでに行われていた。 しかし教授は、我々の診断が厳密さを欠いている点が不満であったらしく、診断内容に対し厳しい批判を加えた。 厳しい、というよりも、有無を言わさぬ決めつけのような口調であった、という方が正しいかもしれぬ。 ただし、教授の知識には正しくない点もあったようで、批判の内容は、部分的には的外れであった。

私は、実に謙虚でオクユカしい研修医であるから、決めつけるような教授の発言に対し、反論を述べて良いものかどうか、躊躇した。 そこでチラリと指導医の方をみると、その若い指導医は憤然と「何をおっしゃっているのか、理解できませんな」というような調子で、教授に対する反論を開始した。

私は、反省した。アレを、指導医に言わせてはならなかった。 教授の考えが間違っていることは、私にもわかっていた。 それならば、それを指摘することは、本来、発表を担当した私自身の任務である。 まずは私が反論して、それに対して教授が「研修医風情が、生意気を言うな」などと憤慨してから、指導医に出馬を請うべきであった。

後で知ったことであるが、その指導医は、実は私と同年齢であるらしい。 医学の分野に限れば、彼の方が数年、経験豊富ということになるが、学問全般のことでいえば、私が彼よりも経験や才覚において劣るということはない。 さらに、彼も学究派であるから、15 年後には、我々は病理学教授と内科学教授として、北陸医大の中軸を担う立場にある。 そのことを思えば、やはり、彼一人を突撃させるわけにはいかぬ。 私は、孤軍奮闘して学問の道を進むことの苦しさ、寂しさを知っているのである。

次のカンファレンスでは、私が先陣をきることにしよう。


2016/11/14 謝恩会と忘年会

名大医学科の卒業式に併せて行われた謝恩会を巡るトラブルについては、昨年度末に書いた。 当時の記事で、一つだけ、書き忘れたことがあったので、ここに記載しておこう。

「ベスト教授賞」などを廃止し、代わりに学生代表からの感謝の言葉と花束を贈呈する、という案を私が提出したことは既に述べた。 これは何の変哲もない提案ではあるが、先生方に対する感謝の気持ちを述べるには、最も適切な形式であると、今でも思っている。 しかし、この案は、謝恩会実行委員の多数の反対にあい、結局、採用されなかった。 反対理由には「例年と内容を変更する必要はないから」などというものもあった。 「変更する必要がないから、変更しない」というのはトンデモナイ論理であるが、それに対する愚痴は昨年度末の記事で述べたので 、ここでは繰り返さない。

他には「感謝の言葉などを準備するのは大変だから」という理由もあった。 要するに、手間を省くために「ベスト教授賞」などを設ける、と言っているわけである。 もちろん、感謝の意を伝えようという催しに際して、言葉を用意する労すらも省こうなどというのは言語道断である。 が、そういう主張は、謝恩会実行委員会の席では、通らなかった。 今さら昔のことを蒸し返そうというわけではないが、私としては、謝恩会の場から追放された無念を忘れるわけにはいかないので、ここに記録しておく次第である。

ところで、私は北陸医大 (仮) の某内科系診療科で 12 月の研修を受ける予定になっている。 その診療科の忘年会に、研修医も参加されたし、との通達を受けた。 私は、宴会の類は好きではないが、参加すること自体はヤブサカではない。 しかし、どうやらこの種の忘年会では何らかの出し物をしなければならないらしい。 そうなると、私としては、参加する気が全くなくなる。 出し物をするのも嫌だし、他人の出し物をみるのも、好きではない。 そういう会は、私にとっては、単なる苦痛でしかない。 どうして、耐え忍んでまで、忘年会などに参加する必要があろうか。

たぶん、私と同じように感じている人は、それほど稀ではないのだと思う。 しかし「参加したくありません」などとは言いにくい雰囲気であるから、やむなく、我慢して参加している、というのが実情ではないか。 エラい先生方も、口では「強制しない」などと言っていても、本当に我々が欠席すると、気分を害するのではないか。

もし、そうであるならば、私としては、何が何でも、参加するわけにはいかない。 そういう会は、本当にやりたい人だけでやれば良いのである。 参加したくないなら、参加しなくて良いのである。 そういう考えを、誰かが、行動で示さねばならない。誰かがやらねばならないのなら、それをやるのは、私でなければならない。


2016/11/12 34 歳

気がつくと、34 歳の誕生日が過ぎていた。 これは文字通りの意味である。 今月の初頭には「もうすぐ誕生日だな」と認識していたのだが、当日には何も思わず、日付が変わって誕生日翌日になってから 「そういえば、昨日は誕生日だったな」と、気がついたのである。

まぁ、そんなものであろう。


2016/11/11 妄言に非ず

昨日の話の続きである。 私は常々、30 年後には北陸医大 (仮) を日本一に押し上げるのだ、と唱えている。 もちろん、何をもって「日本一」とするのか、という定義は曖昧であるが、ここでは重要な問題ではない。

こういうことを言える立場にいるのは、今の北陸医大においては、私ぐらいであろう。 教授やら病院長やらといったエラい立場の人が言っても、「寝言を言っている」ぐらいに思われ、下々の者は誰も耳を貸さないであろう。 こうした野心を口にするのは、若者の特権なのである。 しかし北陸医大出身の若手は、いわゆる名門に対する劣等感を拭いきれず、「名大ごときに負けてたまるか」などとは、なかなか、言えないようである。 その点、私ならば問題はない。

もちろん、周囲の人々の多くは、こうした私の発言に対し「あいつは、少し、頭がおかしい」というような感想を抱くようである。 しかし一部の指導医は、「なかなか野心的な男であるな」というような反応を示してくれるし、中には 「日本一などと矮小なことを言うが、戦うべき相手は世界ではないのか」とまで言う人もいた。 これに対して私は、しれっと「世界一になるには、50 年ほど必要ですな」と返した。

このように、北陸医大には、未だ野心を失っていない指導医も少なくない。 さらに、学生の平均水準では北陸医大は名大や京大に及ばぬとしても、学内トップレベルの学生同士で比較すれば、 我が北陸医大が名大医学部より劣るとは思われない。 これだけの人材が揃っているのだから、充分、勝負になる。


2016/11/10 一度は勝負した

私は京都大学を出て、名古屋大学を経て北陸医大 (仮) に来た。 実態はともかく、世間におけるネームバリューとしては、京都大学や名古屋大学というのは、なかなか輝かしい。 そのため、まるで、私が華々しい学問の道から医学に転向してきたかのように誤解する人が、稀に、いる。 そういう人に対しては、私は「学士編入や再受験というのは、要するに、その道でドロップアウトした人が流れてくるところですよ」と言うことにしている。

上述のような私の発言は、事実に反するものではあるまい。 一方で、見識の高い教授などの中には「しかし編入や再受験の人々は、一度は勝負したのだ」などとフォローしてくれる人もいる。 これもまた、的確な指摘であろう。 人生において、勝負することを避け、安全な道、無難な方向を選ぶ若者が少なくない中で、我々には、敗れたとはいえ一度は戦った、という事実を誇る資格がある。

ただし、遺憾であるが、一度敗れたことで戦闘意欲を喪い、残りの人生を無難に送ろうとして医療の道に逃げる者も、稀ではない。 むしろ、編入・再受験組の過半は、そういう者が占めているのではないかとも思われる。

そうは、なりたくない。


2016/11/09 極端に偏った武器

私の武器は、極端に偏っている。 過日、同期研修医の某君が症例発表の準備をしているところに遭遇した。 発表内容について意見交換したりカルテを読み返したりしたわけだが、血液検査結果の「腫瘍マーカー」の中に「SLX」という項目があった。 私は不勉強なので、そういう腫瘍マーカーが存在するということを知らなかったから、「これは、何だい」と尋ねた。 すると、彼は「肺腺癌などで出てくる腫瘍マーカーだよ」と教えてくれた上で「医師国家試験の勉強で、やったよ」と言った。 私はニヤリとして、「国家試験の勉強で、やらなかったよ」と言い返した。

私は、学生時代から、自分の好きなこと、やりたいことしか勉強しなかった。 結果として、多くの医学科生が知っているような、いわゆる常識的な知識が、少なからず欠如している。 研修医になってからも、そうした「基本的」な知識を指導医から問われた際に答えられずに「こいつはダメ研修医だな」などと思われたことは、一度や二度ではない。 その代わり、一部のマニアックな医学上の問題については、一般的な研修医よりもはるか遠くまで見通すことができると自負している。

そういうわけで、私の医学上の知識や引き出しは、実に凸凹である。 こうした勉強法は精神的ストレスが少ないという利点を有するが、医師国家試験や初期臨床研修で苦戦することになるので、他人にはお勧めできない。

こうして他人と違った道を歩もうとすると、時々、不安になる。 そういう意味では、医学科の学生や研修医の諸君が、多数派に合わせた勉強法に走る気持ちも、理解できないわけではない。 しかし、そうした不安や孤独は、科学の道を選んだ人々が例外なく経験するものである。 むしろ、基礎科学の人々の目には、医師免許に守られた私などは、ぬるま湯につかった臆病者に映るであろう。

つまり悪くいえば中途半端、ということになるのだが、一方で、そういう私だからこそできる仕事、私にしか担えない役割というものが、あるように思われる。


2016/11/07 鶏嘴

北陸医大 (仮) の有志学生と共に、小規模な勉強会を定期開催している。 内容は、Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (2015). の輪読を毎週行い、さらに the New England Journal of Medicine の Case Records of the Massachusetts General Hospital を題材にした議論を 隔週で行う、というものである。 残念ながら現状では、私以外の研修医は参加してくれていない。

この勉強会を行う最大の理由は、単に面白いから、というものであるが、我々研修医にとっても、学生にとっても勉強になる。 この教科書や Case Records に書かれている内容は、割とマニアックなので、もちろん、医師国家試験や臨床には直結せず、その意味では「役に立たない」ものである。 しかし、あたりまえのことであるが、疾患の成り立ちをよく理解し、医学的に合理的な思考を身につけることで、将来の臨床や研究などに大いに役立つであろう。

この勉強会に参加してくれている学生の中に、二名、恐ろしいほど学識豊かな者がいる。 的確な疑問を投げかけ、また、私が少々は疑問に思いつつも解決せずに放置していた点について鋭い指摘が加えられたことは、一度や二度ではない。 そうした医学的思考の充実という点について、私が彼らの学年であった時のことを思い返すと、自信を持って「私の方が優秀であった」と言うことはできない。 なお、医学知識の量に関しては、間違いなく、学生時代の私よりも彼らの方が上である。

そういう恐ろしい学生がいるものだから、勉強会の予習も、否応なしに細かくなる。 教科書を読むにしても、いつも以上に厳格に読み、批判しなければならない。 「北陸医大の研修医は、この程度か」などと彼らを失望させることは、何としても回避せねばならぬ。

大学入試の序列でいえば、我が北陸医大は京都大学や名古屋大学などに及ばないが、だからといって、 医師、医学者としての資質において、北陸医大の学生が京都大の学生より劣るという道理はない。 そして、これは京大や名大で暮らした経験から言うのだが、こうした名門大学は一見「すばらしい」教育システムを備えているものの、 実際にはそれを享受したからといって、人が育つわけではない

昔の人は、寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ、と言った。鶏の嘴は、時として、牛の角よりも鋭い。

2016.11.23 脱字修正

2016/11/06 空洞について

医学の分野において、時に曖昧な使い方をされる語に「空洞 cavity」というものがある。 医学書院『医学大辞典』第 2 版では、この語を 「臓器の一部が壊死に陥り壊死物質が排除された後に残った空間をいう。」としていう。 この医学書院の定義は、正確で、病理学的にも合理的であるように思われる。

しかし、この医学書院の定義は、必ずしも一般的なものではない。 Webb WR et al., High-Resolution CT of the Lung, 5th Ed., (2015). では、次のように述べられている。

A cavity is an air-filled space, seen as a lucency within an area of pulmonary consolidation, mass, or nodule.

空洞とは空気を含む空間であって、コンソリデーション、腫瘤、あるいは結節内にみられる X 線透過性の領域をいう。

これだけみると、医学書院の定義を画像所見の観点から述べただけであって、同じ意味であるようにもみえる。 しかし、問題は、その続きである。

A cavity is usually produced by the expulsion or drainage of a necrotic part of the pathologic lesion...

空洞は、通常、病変部に含まれる壊死物質が排出されることによって生じる。

この `usually' という語は、つまり、こうした形成機序は「空洞」という語の定義に含まれない、ということを意味する。 もし、この定義を採用するならば、たとえば間質性肺炎によって、肺嚢胞の壁が肥厚しコンソリデーションを形成した場合も「空洞」である、ということになる。 しかし病理学的には、そうした「壁肥厚を伴う嚢胞」と「壊死物質が排出されて生じた空洞」とを同一の語で表現することが合理的であるとは思われない。 臨床的にも、壁肥厚を伴う嚢胞を、一般的には「空洞」と呼ばないように思われる。

些細といえば些細な点ではあるのだが、言葉の意味、定義は重要である。 明確な定義がなければ、厳密な議論ができず、結果として、本当に論理の通った診療など、できるわけがないからである。


2016/11/05 医師の資質

私は北陸医大 (仮) の検査部で、二ヶ月の研修を受けた。 その間、臨床検査を巡るマニアックな勉強や、腹部超音波検査の練習などを行った。 技師がつきっきりで対応してくれるという、極めて贅沢な環境での研修であった。 もちろん「仕事」という意味でいえば、私は検査部の業務を邪魔するばかりで、診療の役には全く立っていない。 たとえば、技師の監督下で私が腹部超音波検査をするより、その技師が直接に検査した方が良いに決まっている。 それなのに、私の訓練だけのために、私が検査を施行したのである。 研修としては理想的な環境であるといえるが、患者の利益は、むしろ損ねるばかりであった。 それでいて給料はシッカリと受け取っているのだから、考え方によってはトンデモナイ話である。 我々は、それだけの恩恵を患者や技師、その他の人々から受けていることを忘れてはならず、将来にわたり、適切な形で社会に還元せねばならない。

さて、検査部で腹部超音波の訓練を受けた、などと言うと、「では、腹部超音波検査をできるようになったか」などと訊かれることがあり、困る。 ここで「いえ、あまりできません」などと言えば、私の研修態度が疑われるだけでなく、 検査部は何を教えていたのか、などと批判の矛先が逸れて、検査部の人々に迷惑をかける恐れがある。

実際のところ、一応、通り一遍の検査は、できないわけではない。 しかし専門の技師の人々の華麗な検査手技を思えば、私ごときが「腹部超音波検査をできます」などとは、とても言えぬ。 そこで私は「『できる』などとは恐れ多くて言えませんが、研修医としては及第点ぐらいなのではないかと思います」などと答えることにしている。

似たようなことは、他の分野においてもいえる。 たとえば私は、一般の医師に比べれば、放射線物理学や統計学、計算機科学などに、かなり長けているといえよう。 しかし工学部の人々のことを思えば「統計学がデキます」などとは、とても言えないし、理学部の人々からすれば、私の統計学などは素人同然であろう。 だから、私は学生時代には「『医学部の中では』デキる方だと思います」というような表現を多用し、卒業してからは「医師の中では」という修飾語を使っている。

実際、医師というのは、広く、浅く、物事を修得するものであろう。 手技は技師に及ばず、学識は基礎科学者に及ばない。 ただ、この「広さ」は、臨床においても研究においても極めて強力な武器になる。 それを思えば、医師にとって最も重要な資質は、興味・関心の幅の広さ、であろう。


2016/11/04 千葉県がんセンターにおける検体取り違え事故報告

昨年、千葉県がんセンターにおいて生じた病理診断の検体取り違え事故については、今年の 1 月 6 日に書いた。 3 月 20 日には「続報がなく、一体、何ヶ月も、何を調査しているのかは、よくわからない。」などと悪口を書いたが、 実は2 月 17 日に調査報告が発表されていた。 これは、事故自体の公表記事からのリンクがなかったために、私が見落としたものである。 失礼した。

さて、調査報告によると、結局、どこでミスが起こったのかは、わからない、とのことである。 しかし、報告書を信じるならば、検体を容器に入れてラベルを貼付した後には取り違えが起こる余地がないように思われるので、ラベルの記載間違いなのではないかと思われる。 この病院では検体容器に貼付するラベルなどを手書きで作成しているようなので、そこで何かのミスがあったのではないか。 なお、報告書の中の「改善のためのコメント」としては、伝票の記載が不適切な例があることや、バーコードシステムを用いた検体管理システム導入の必要性などが指摘されている。

この報告書において気になったのは、 米国においては 1000 件に 1 件はラベルの間違いがあり、そのうち 1 % は臨床に影響を与えている、という報告が引用されていることである。 千葉県がんセンターでは、2014 年の一年間で 47 万件の病理診断があったらしいので、それを思えば 「検体取り違え事故がこれほどまでに少ないのは、現場の病理検査技師を含む病院全体の医療スタッフの非常な努力に支えられている。」 という報告書の記載は、事実に反するわけではない。 それでも、報告書の中でこれを引き合いに出すことは、不適切である。 この報告書の書き方では、「検体の取り違えは根絶しなければならない」という意味には読み取れない。 「一定数の事故は不可避なのだ」「我々が特に悪いわけではない」という弁明にしか、みえない。

病理診断には、万が一の誤りもあってはならない。 もちろん、病理診断で確定できないことはあり得るが、その時には「確定できない」という診断をしなければならないのであって、誤診は、あくまで許されない。 これが、臨床診断と病理診断の決定的な違いである。

学生時代、病理医が臨床医に対して不必要な配慮をしたのではないかと疑われる事例を、みたことがある。 これについて同級生と議論した際、ある人は「そうはいっても、君がみたのは、その一例だけであろう。」と言った。 滅多にあることではないのだから、まぁ、構わないではないか、というような意味合いである。 それに対し私は「病理医が日和るなどということは、一例たりとも、あってはならぬ。」と即答した。

病理診断とは、そういうものである。


2016/11/03 結核の定義

この日記は赤裸々を旨とするのだから、私の恥ずかしい話も、書かねばならない。 本日の話題は、結核の定義についてである。 細菌学や感染症学をキチンと学んだ学生にとっては常識なのだろうが、これまで私は本疾患の概念について無頓着であったので、その反省を込めて、この記事を書く。

私は、結核 tuberculosis という疾患概念を 「M. tuberculosis を原因とする感染症」と理解していた。 医学書院『医学大辞典』第 2 版でも、「結核」を「結核菌の主として飛沫吸入によって起こる感染性疾患。」としており、 さらに「結核菌」は Mycobacterium tuberculosis のことである、としている。 上述の私の理解と、ほぼ一致しているといえよう。

この私や医学書院の理解に対して「いや、それは違う」と即座に反応できなかった読者は、私と同様、不勉強であると言わざるを得ない。

Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed., (2015). では `Tuberculosis is a serious chronic pulmonary and systemic disease cosed most often by M. tuberculosis.' としており、M. tuberculosis 以外の原因による結核の存在を認めている。 具体的には M. bovis が原因菌として挙げられている。

Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). でも、 `Tuberculosis (TB), which is caused by bacteria of the Mycobacterium tuberculosis complex' としており、この complex のメンバーとして、M. tuberculosis の他に M. bovis, M. caprae など 8 菌種が挙げられている。 感染症学の聖典たる Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th Ed., (2015). をみても `The term tuberculosis describes a broad range of clinical illnesses caused by Mycobacterium tuberculosis (or, less commonly, Mycobacterium bovis).' などとあり、結核の原因菌を M. tuberculosis に限定していない。

実は医学書院『医学大辞典』第 2 版でも、「ウシ結核 bovine tuberculosis」という語を 「結核菌属 (Mycobacterium tuberculosis complex) の中のウシ型菌 (M. bovis) によって発症する結核」としており、 「結核」の項とは矛盾するものの、M. tuberculosis 以外の原因による結核を認めている。 なお、ここでいう「結核菌属」は「結核菌群」の誤りであろう。 この『医学大辞典』は、こうした細かい部分において、いい加減で不正確な記述が多いように思われる。

このように、「結核」という疾患概念を正確に表現すれば、 「結核菌群 (M. tuberculosis complex) を原因とする感染症」とするのが正しい。


2016/11/02 京都大学工学部

ある人から紹介されて京大受験生のための京大退学エントリという記事を読んだ。 簡潔に紹介すれば、京都大学工学部情報学科を退学しようという人が 2015 年 11 月に書いた、教育機関としての京都大学を批判する内容である。 著者は匿名で性別はわからないが、一人称が「僕」となっているので、ここは仮に「彼」と呼ぶことにしよう。 同じ中退といっても私は大学院博士課程であるから学部中退ほど深刻ではないし、しかも医学に逃げて再起しつつある私を、彼は「同類」とは認めてくれないであろう。 さらにいえば、中退の動機も彼は教育、私は研究、と、異なる。 それでも私としては、同じ京大中退であり、しかも彼の文章からは学問に対する真摯な姿勢がうかがえることから、彼に対して強い親近感をおぼえる。

彼の京大入学は 2007 年のようであるから、2002 年入学の私より五年、遅い。しかも彼は情報学科、私は物理工学科であるから、カリキュラムの縛りも、だいぶ異なる。 彼の文章を読んで、私は、同じ京大でも、ここまでも違うのか、と驚いた。 私の場合、一年次に配当されている微分積分学や線形代数学を「講師が気に入らない」という理由で放棄し、三年次や四年次になってから「再履修」という格好で単位取得した。 英語にしても、やはり「講師が気にくわない」という理由で単位放棄し、コンピューター上で自習教材、いわゆる CALL を使う再履修者向けの枠で、四年次までかけて単位取得した。 そういう選択が、あたりまえに認められていたのである。 しかし彼の場合、そうしたやり方はカリキュラム上、許されなかったようである。 彼は、物事をよく調べ考える人物のようであるから、私が使ったような抜け道に気づかなかったわけではなく、本当に、抜け道が存在しなかったのであろう。

私は、京都大学時代には成績優秀な学生ではなかったし、物理学や工学の学識は、学年でトップレベルといえるようなものではなかった。 しかし、学問において本当に大事なこと、学び究めるとはどういうことか、という点だけは、確かに受け継いだ。 彼の文章を読み、私のいた環境は京大の中でも極めて恵まれたものであったのだと、今さらながら、我が幸運に感謝した。

私は 10 年前に京都大学を離れた人間であるから、あの大学の現状は、よく知らぬ。 しかし、彼のような、よく考える学生を伸ばすことができず、むざむざ中退させたことを恥じる精神が、はたして総長以下、京大教授陣に、残っているだろうか。

京都大学の時代は終わった。 今となっては、京都大学は競うべき相手、我が北陸医大 (仮) の諸君と共に追いつき、追い抜くべき目標でしかない。 かつて京都大学は楽園であった。 そこで受け継いだ学問の灯を守り、北陸の地で次代に受け渡し、愛する母校・京都大学を打倒することこそが、私の役割である。


2016/11/01 続・不動産投資

しばしば、不動産投資斡旋業者からの電話がかかってくる。 中には、不正に入手した麻布中学校・高等学校の卒業生名簿をみたと思われる勧誘電話もある、という話は一年半ほど前に書いた。 どうやら彼らは、私を卒後 10 年程度の、小金を貯め込んだ医者だと勘違いして電話をしてくるようである。 もちろん実際には、私は年収 372 万円の 33 歳研修医に過ぎないのだから、とてもマンション投資するほどの余裕はない。 そもそも、そんな余剰資金があるなら、マンションなどではなく、もっと医学的な何かに投入するであろう。

多くの業者は、興味ありません、と断わればすんなり引き下がる。 しかし、何という会社であったか忘れたが、やたらと激しく食い下がる勧誘員がいた。 私が何度断わっても、何週間か、あるいは何ヶ月か空けて、土日を狙って電話をかけてくるのである。 彼の話術はなかなか巧みで、特に不快感はおぼえなかったので、暇なときは私も世間話に応じる一方、投資の話については一貫して「興味ありません」を繰り返していた。 よくわからないが、もしかすると、私が世間話に応じたせいで、脈ありと勘違いされたのかもしれない。

過日、彼から電話がかかってきた際に、私はとうとう、以前から気になっていたことを質問してしまった。 つまり「もし本当に投資が有益であるなら、私などに紹介するのではなく、あなた方が自分で投資したらどうですか」と尋ねたわけである。 これに対して彼からは、あまりはっきりした答えを得られなかった。 そこで、私は敢えてイヤラシく「本当にマンション投資が儲かるなら、建てたマンションをすぐに売却するのではなく、 そのマンションを担保に銀行から融資を受けて次のマンションを建てる、とした方が良いんじゃありませんかね」などと述べた。 これに対して彼は、マンションを売却して得た利益で次のマンションを建てる、というのが当社の方針であって云々、などと答えて逃げた。

真相は知らないが、たぶん、マンションを担保にしても、建設費用にみあうだけの融資は受けられないのであろう。 一部のマンション投資斡旋会社のウェブサイトをみても、かなり甘い見積りをしないと、利潤が得られないようにみえる。 そこで、無知な小金持ちをたぶらかして「投資」させるのが、連中の手口であると思われる。

嫌われついでに、私は「名簿を買って、金を持っていそうだと思って電話をかけていらっしゃったのでしょうが、 そういうのが胡散臭く感じられる、という点はご理解いただけると思いますが……」と言ってみた。 すると彼は、当社は 25 年の実績があって云々、などと墓穴を掘った。

25 年ほど前といえば、ちょうどバブルの終末期で、不動産は持っているだけで値段が上がる、という意味不明の時代であった。 その頃に発足した不動産斡旋業者といえば、どう考えても、胡散臭い。とても「実績」などといえるものではない。 さすがに、その点を指摘するのは気が引けたので、私は「ハァ、25 年ですか、結構長いんですね」と軽く流すに留めた。

それ以来、彼からの電話はない。


2016/10/31 髄膜炎菌と淋菌 (2)

昨日の記事の続きである。

髄膜炎菌や淋菌が低温に弱い、という考えの歴史は古いようで、1931 年の Lancet に掲載された著者不明のレビューには、既に

the meningococcus rapidly perishes when exposed to temperatures lower than 22 ℃

という記載がある(The Lancet 217, 418-420 (1931).)。 この時代には、採取した検体は、なるべく速やかに培養を開始すべきである、ということが認識されていたようである。 しかし現実には、採取してから検査室に運搬するまでに、少しばかり時間がかかってしまうこともある。 そこで R. D. Stuart は、こうした輸送の間に淋菌が死滅するのを避けるための「輸送培地 transport medium」を開発した。

Stuart による輸送培地の最初の報告は 1954 年の J. Public Health 45, 73-83 (1954). のようである。 あいにく、この文献は北陸医大 (仮) に所蔵されておらず取り寄せ中であり、まだ私自身は内容を確認していない。 しかし Diagn. Microbiol. Infect. Dis. 36, 163-168 (2000). によると、Stuart は当初、輸送培地は冷蔵せずに常温保存すべきだと考えたらしい。 その後、さらなる研究の末に彼は考えを変え、Public Health Rep. 74, 431-438 (1959). では、輸送培地は冷蔵せよ、という立場を示している。 Stuart 以後も輸送培地の改良や保存方法の検討は続いたが、基本的には、輸送培地は冷蔵した方が淋菌の死滅を抑制することができる、という報告が多いようである。

結論として、淋菌が低温に弱いという事実は存在しない。 現状では、ろくな根拠のない風説を皆が受け売りしているものと考えられる。

髄膜炎菌はどうかというと、J. Clin. Microbiol.43, 1301-1303 (2005). では、 常温に比して低温の方が髄膜炎菌が速やかに死滅することが報告されている。 これは、昨日紹介した「低温の方が自己融解しにくい」という報告とは、一見、矛盾する内容である。 おそらく、培地中に含まれる何らかの物質が、低温では髄膜炎菌を死滅させる作用を発揮したのであろう。

輸送培地においては、なるべく細菌を活動させず、かつ死滅させないような環境が望まれる。 栄養が豊富すぎても、いけないのである。 髄膜炎菌の保存が難しいのは、その「活かさず、殺さず」の許容幅が狭いためであると考えられる。

世間で言われる「髄膜炎菌は低温で死滅する」というのは、たぶん、正しくない。 これは「特定の培地上では、髄膜炎菌は低温で死滅することがある」というのが正しいだろう。 現時点では、臨床的には検体を冷蔵すると髄膜炎菌が死滅するのかもしれないが、それは髄膜炎菌自体が低温に弱いからではない、という事実を正しく認識する必要がある。


2016/10/30 髄膜炎菌と淋菌

10 月 31 日に続報がある。

髄膜炎菌 Neisseria meningitidis と淋菌 Neisseria gonorrhoeae は、環境中で死滅しやすく、培養しにくいことで有名である。 臨床検査上は、これらの細菌は低温で死滅しやすいと考えられているようである。 少なくとも北陸医大 (仮) では、これらの細菌の培養を目的とする検体は冷蔵保存しないよう取り決められている。 この「低温に弱い」というのは、本当だろうか、というのが本日の話題である。

まず教科書の記載を確認する。 学生向けの教科書である医学書院『標準微生物学』第 12 版 (2015). では、髄膜炎菌について 「本菌は低温に弱いので, 採取した検体は冷温保存してはいけない.」とあり、 また医学書院『標準臨床検査医学』第 4 版 (2013). でも髄膜炎菌は「低温で死滅しやすいため, 検体は冷温に保存してはいけない.」とある。 しかし、いずれの教科書でも、淋菌が低温に弱いとは記載されていない。

もう少し格調高い教科書である南山堂『戸田新細菌学』改訂 34 版 (2013). をみると、 いずれの菌種についても、高温や乾燥に弱い、とは記載されているが、低温に弱いとは述べられていない。 特に、淋菌については「培地上のコロニーは室温で 2 日, 4 ℃では 10 日以内に植え継ぐ必要がある。」としており、 特に低温で死滅することはなさそうである。 さらに、Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases 8th Ed., (2015). にも、 特にこれらの細菌が低温に弱いというような記載はない。

そこで過去の研究報告を調べてみたのだが、細菌学はドイツ語圏で発達したという歴史的経緯のせいか、英語や日本語の文献は、比較的、少ない。 まず淋菌については、Brit. J. vener. Dis., 52, 246-249 (1976). によると、温度が高いほど死滅しやすいようで、 37 ℃ や 22 ℃ に比べると、0 ℃の方が保存に適するようである。 その理由は、J. Bacteriol. 122, 385-392 (1975). によれば、低温では自己融解酵素の活性が低下するからである。 髄膜炎菌はどうかというと、Acta Pathol. Microbiol. Scand. Sect. B 92, 73-77 (2984). によれば、こちらも淋菌と同様、温度が高いほど死滅しやすいようである。 さらに、Zbl. Bakt. Hyg., I. Abt. Orig. A 236, 16-21 (1976). によれば、4 ℃ よりも -20 ℃の方が保存に適するようである。

このように、細菌の性質としては、いずれの菌種も、特に低温に弱いということはなさそうである。 一方で、J. Clin. Pathol. 37, 428-432 (1984). によれば、脳脊髄液には髄膜炎菌の増殖を抑制する作用があるらしい。 何らかの抗菌ペプチドのようなものが含まれているのであろう。 この抗菌ペプチドのために、脳脊髄液などを低温保存した場合に髄膜炎菌が死滅する、という可能性はある。

ところで、Neisseria という名称は、発見者の Albert Ludwig Sigesmund Neisser に由来する。 彼の業績については Semin. Pediatr. Infect. Dis., 16, 336-341 (2005). に、まとまった記事がある。 彼は淋病の原因菌と考えられる細菌を分離したが、この細菌が淋病を引き起こすことまでは確認できなかった。 これを確認してコッホの 4 原則を満足させたのは、スイスの Ernst von Bumm とウィーンの Ernst Wertheim であるらしい。 なお、Neisser は、癩病の原因菌たる癩菌 Mycobacterium leprae の発見を巡って Hansen と争ったことでも有名である。 癩菌を初めて分離したのは、間違いなく Hansen である。Neisser は、その検体を Hansen から譲り受け、詳細に観察して単一の細菌であると示した。 そのために、癩菌の第一発見者はどちらなのか、という問題が残り、両者譲らず、大喧嘩になったようである。


2016/10/29 肝逸脱酵素と炎症

過日、北陸医大 (仮) の研修医室で少しばかり盛り上がった話題について記載しておこう。 薬剤性肝傷害の患者において、血液検査上、肝逸脱酵素である AST は 500 U/L, ALT は 800 U/L と高値である一方、 白血球数や白血球分画、CRP は基準範囲内で、明らかな炎症はみられなかった、という症例がある。 このとき、著明な肝細胞傷害が起こっているのに炎症が起こらないというのは、本当だろうか、という問題である。

炎症を伴わない細胞傷害、とすれば、これはネクローシスではなくアポトーシスなのだろう、と考えるのが自然である。 では、肝細胞のアポトーシスで血中肝逸脱酵素の増加を来すだろうか。 これは、実は生物学や医学ではなく算術の問題である。 アポトーシスでは、細胞は多数の小さな小体、すなわちアポトーシス小体に分割される。 このとき、細胞膜の量、つまり細胞表面積の和は保たれると考えられる。 すると、幾何学的な事情から、アポトーシス小体の体積の総和は、元の細胞容積よりも、だいぶ小さくなってしまう。 この体積の差分だけ、細胞内容物が細胞外に流出していることになる。 たとえば、細胞を球形に近似して考えれば、直径が元の細胞の半分であるような四個のアポトーシス小体に分割される場合、細胞内容液の半分は流出することになる。

このように、アポトーシスでは細胞内容物が細胞外液、つまり血液中に放出されるわけであるから、肝逸脱酵素が血中に出現することになる。 一方で、アポトーシスなのだから炎症は惹起せず、白血球の増加や CRP の増加はみられない。 つまり、ネクローシスを伴わない純粋なアポトーシスであれば、冒頭で述べたような検査所見が得られるのは自然なことである。

では、ウイルス性慢性肝炎の場合は、どうか。 ウイルス性肝炎では、ウイルス感染細胞の表面に、ウイルス由来のエピトープが HLA class 1 と共に発現し、 細胞傷害性 T リンパ球の作用によりアポトーシスが誘導され、肝傷害に至る。 しかし臨床的には、CRP 高値や白血球増多を伴うのが普通である。なぜか。

Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed., (2011). によれば、慢性肝炎では組織学的にはアポトーシスとネクローシスの混在した細胞死がみられる。 このネクローシスの原因は、よくわからない。 たぶん、ウイルス由来エピトープに反応したリンパ球が諸々のサイトカインを放出し、それに補体やマクロファージが反応し、細胞傷害を引き起こしているのであろう。 なお、いわゆる活動性慢性肝炎であっても、好中球はあまりみられない。

ところで、アポトーシスでも細胞内容物は流出する、と言われると、少し頭の冴えた人であれば、ただちに「それでは炎症が起こってしまう」と考えるかもしれぬ。 というのも、細胞質には mRNA などの核酸も含まれており、これは Toll-Like Recepter (TLR) などによって認知され、免疫応答を惹起しそうな気がするからである。 塩沢俊一『膠原病学』改訂 6 版 (丸善; 2015). によれば、TLR3, TLR7, TLR8 などの受容体が RNA を認識するが、これらの TLR は小胞体に局在しているという。 これらがアポトーシスに伴って放出された RNA に反応しない機序は、よくわからない。

2017.02.07 誤字修正

2016/10/26 教授を弁護する話

この日記において、私は既に何度か、北陸医大 (仮) 教授陣の教育体制を詰り、その責を問う内容を記載してきた。 ただし、私は、北陸医大の教授陣が他大学に比して特別に劣っているとは思わないし、日本の大学教授として標準的な水準に達していないとも思わない。 そのあたりについて誤解を招くといけないので、少しばかり、教授陣を弁護する内容を書いておく必要があるかもしれぬ。 と、思ったのだが、私が日和ったと思われるのも不本意であるし、自分が間違ったことを書いたとも思わないので、やめた。

私が言っているのは、いわゆる底辺の学生、つまり学識が乏しいだけでなく学問に対する意欲をも欠く人々に対して、 医学への情熱と関心を植えつけることこそが教授陣の責務である、ということである。 これに対して多くの人々は、馬鹿をいうな、そんなこと、できるわけがないじゃないか、君の言うことは非現実的だ、と反発するだろう。 しかし、はたして、そうだろうか。 何を根拠に、無理だと決めつけるのか。不可能であることを証明したとでもいうのか。

誰もが「無理だ」と嗤うような理想に向かって、自分だけでも信じて突き進むのが科学者という人種ではないのか。 大学教授は、科学者であると同時に教育者でもあることを、忘れてはなるまい。


2016/10/25 我が不明を恥じた話

見識の高い人と話をしていると、ときどき、アッと、我が不明を恥じ入るようなことがある。 特に印象深かったのは五年生の時、病理学の某教授に対し、形態学に基づく病理診断の限界について問うたときのことである。 これについては 2 年ほど前に書いた

過日、北陸医大の某医師 (仮) と話していて、久しぶりに強烈な衝撃を受けた。 ふつう、臨床的には、抗凝固薬であるワルファリンの効果モニタリングにはプロトロンビン時間 (Prothrombin Time; PT) を、 ヘパリンの効果モニタリングには活性化部分トロンボプラスチン時間 (Activated Partial Thromboplastin Time; APTT) を、それぞれ用いる。 私は、学生時代から、「そんなものでモニタリングして、本当に大丈夫なのかなぁ」ぐらいの疑念は抱いていたが、 「そんなものは駄目だ。話にならん。」というような批判までは、行っていなかった。 批判しなかったということは、つまり、PT や APTT でモニタリングするという手法に対し、暗に同意していたことになる。 ところが、上述の某医師が教えてくれたところによると、金沢大学血液内科の人々は PT や APTT によるモニタリングは不適切だとして批判しているという。

言われてみれば、当然のことなのである。 我々がワルファリンやヘパリンによって血液凝固因子活性を抑制するのは、あくまで望ましくない血栓形成を予防するための手段なのであって、 凝固因子の抑制自体が目的なのではない。 それならば、凝固因子活性そのものを反映する PT や APTT ではなく、血栓形成の具合を反映するフィブリン/フィブリノゲン分解産物 (Fibrin/Fibrinogen Degeneration Products; FDP) や D-ダイマー、トロンビン・アンチトロンビン複合体 (Thrombin-AntiThrombin complex; TAT) などを指標に用いるべきである、という理屈らしい。

モニタリングは PT や APTT で行う、などという先入観を捨ててみれば、金沢大学の主張は、至極、あたりまえである。 私は、世の一般的な学生や研修医などに比べれば常識にとらわれない類の人間であると自負していたが、どうやら血液学については、無思慮なシロウトに過ぎなかったようである。 深く、恥じ、反省した。


2016/10/23 志について

我が北陸医大 (仮) は、北陸地方随一の名門医学部である。 現時点では、名古屋大学や京都大学などに多少の遅れをとってはいるものの、21 世紀後半に日本の医学を導くのは、我々、北陸医大である。 と、私は思っているのだが、どうも周囲の研修医からは、あまり賛同を得られていないように感じられる。

過日、初期臨床研修のマッチング結果が発表された。 これは、主に次回の医師国家試験を受験する現六年生などについて、来年 4 月からの研修先病院を決定する催しである。 我が北陸医大附属病院についても三十余名がマッチしたが、その大半は北陸医大出身者である。 彼らが、どういうつもりで自大学の附属病院を選んだのかは知らぬが、高い志と未来への野心を抱いて、この地に留まることを選んだのだと期待している。

北陸医大の多くの学生や研修医が、名古屋大学や京都大学の連中より劣っている点があるとすれば、それは学識や手技の巧拙ではなく、志の高さであろう。 医師としての最低水準を満足すれば良い、与えられた任務を遂行できれば充分である、そうした卑屈な思考が、遺憾ながら染みついてしまった者が多いのではないか。 研修医室で、空き時間に医学や医療を議論するのではなく、スマートフォンのゲームで時間を潰す研修医が少なくないという現状は、北陸医大の恥であると言わざるを得ない。 彼らの大半が北陸医大出身者であることを思えば、この惨状の責任は、医師としての誇りと情熱を学生に伝えることを怠り、 国家試験対策に特化した教育を施してきた、北陸医大の教育当局ならびに教授陣にある。

私が北陸医大に行くと決めた時、少なからぬ人々から、やめた方が良いのではないか、と言われた。 初期研修の後も当面は北陸医大に残るつもりである、ということを言うと、エラい先生方の一部は、やめた方が良いのではないか、と、親切心から助言してくれる。 確かに、名古屋大学とか京都大学とかいった、しっかりした教育システムのある場所の方が、医師としての良質な訓練を受けることができるであろう。 日本の医学の第一線で病理学者、あるいは病理医として活躍するためには、たぶん、その方が確実である。 しかし、それでは、せいぜい「極めて優秀な病理医」ぐらいにしか、なれまい。

だいたい、私に「やめた方が良いのではないか」などと言った人々は、せいぜい、どこぞの大学教授程度なのであって、医学の神様でも何でもない。 確かに京都大学や名古屋大学は名門だが、そんなものは、単なる看板に過ぎない。 極一部の例外はあるものの、京都大学や名古屋大学の中の人の大半は、実はそれほど大したことはないということを、私はよく知っている。 それに比べれば、荒涼たる原野の広がる北陸医大の方が、開拓の余地を残している分だけ、将来性があるといえよう。


2016/10/22 新谷歩『今日から使える医療統計』(医学書院)

常々、私は、医学科生や研修医向けに推薦できる統計の入門書はないものかと思っていた。 本当は、小針アキ宏『確率・統計入門』(岩波書店, 1973 年) のような、古典的なキチンとした教科書を読むのが良いのだろうが、 現実的には、一般の医学科生や研修医には荷が重いであろう。 ある日、「臨床検査」であっただろうか、医学書院が発行している雑誌を眺めていた際に、標題の書物の広告が目に入った。 「今日から使える」という、いかにもアンチョコ的なタイトルは気に入らなかったが、なかなか真面目な内容の書物であるようなので、さっそく、購入してみた。

結論としては、この書物は、医学科生や研修医向けの統計入門書としては非常に良い。 数式を使った定量的な議論はされていないから、この書物だけでは統計をキチンと扱えるようにはならないが、 統計学の基本的な考え方、基礎的な事項については、概ね、網羅的に記載しており、明らかに不適切な記述も少ない。 また、

ただ, 外れ値だからといって解析から外してよいわけではありません。 データが明らかに測定ミスなどの間違いだった場合を除いてデータの削除は絶対に避けてください。 また削除したときは, どのデータをなぜ削除したかを必ず論文に表記する必要があります。

というような、現実に横行していると考えられる不正なデータ処理、改竄について釘を刺す記載もなされている。 また、本来は正規分布ではないであろうデータに対して t 検定を用いる、といった、 医学研究と称する論文でしばしばみかける不正なデータ処理についても、注意を促している。

このように、同書は、医師が論文を読んだり書いたりするための基礎的な統計学の教養として、十分とはいえないが、入門としては満足できる内容といえよう。 ただし、どうにも容認できない点が二つ、ある。

一つは「確率」という語の使い方についてである。 著者の新谷氏は、いわゆる生物統計学の専門家ではあるが、物理学への造詣は深くないとみえる。 19 ページの「コラム」には、次のような内容が記載されている。

私がエール大学在学中に学んだ基礎統計の講義で教授が行ったデモンストレーションを思い出します。 教授は「今から投げるチョークが床にあらかじめつけられた印の位置に落ちるかどうかの確率を計算します」と言いながらチョークを投げました。 チョークが宙に浮いているとき「はい, 確率はまだ存在しますね」そして床に落ちた瞬間に「はい, 確率が今消滅しました」と言いました。 チョークが床に落ちた瞬間に, どの位置に落ちたかはもう ``決まっているので'' 確率計算すること自体に意味がなくなってしまうと教授は言いたかったのでしょう。(以下略)

教授は「確率 probability」ではなく「可能性 possibility」と言ったのではないかと思うのだが、もし「確率」と言ったのならば、この教授の言葉は正しくない。 チョークが投げられた時点で、チョークの運動や周囲の風の動きなどを含めて考えれば、既に、印の位置に落ちるかどうかは決定されているといえる。 つまり、これは確率事象ではないのである。 ただし、現実的には、我々にはチョークの落ちる位置を正確に予想することはできないので、その意味で「可能性」という言葉を使うのは、間違いではない。

臨床的なことでいえば、ある患者に、その薬が効くかどうかは確率によって決まるものではない。 単に、我々の科学力が不足しているために、効果を予め言い当てることができないに過ぎないのである。 そこで未来を占う手段として何らかの確率モデルを使うことは不適切とはいえないが、その結果は作為的なものにならざるを得ない。 従って、「確率」というものが、天与のもの、神の決めたまうものとして存在するかのように考えるのは、誤りである。 「確率事象なのか、単に我々が知らないだけなのか」を区別することの重要性は、物理学の分野では量子論を巡ってよく知られているが、 医学においては無頓着な者が多いようで、困る。この区別の医学における重要性については、一年ほど前に書いた。 この問題は、素人にとってはなかなか難解であり、確率論の入門における最大の難所なのであるが、そこに言及していない点は、この書物の一つの問題点である。

もう一つの問題点は多変量解析についてである。 新谷氏は、101 ページで次のように述べている。

通常ランダム化の行われていない観察研究では, 効果を明らかにしたいリスク因子と絡みあってさまざまな因子がアウトカムに影響を及ぼすため, それらの因子 (交絡因子) の影響を補正する手段として, 多変量回帰分析が有効であることを Lesson 4 でお話ししました。 回帰分析にこれらの交絡因子を説明変数として加えることにより, 数学的に交絡の影響を取り除きます。

回帰分析の手法は多様であるが、たとえば、しばしば用いられるロジスティック回帰分析は、説明変数が互いに独立である、ということを前提とした理論である。 しかし現実には、この仮定が本当に満足されることは、むしろ稀である。 そのように、理論の前提が満足されていない回帰分析の結果は、もちろん信用できないし、事実に反する結果が得られてしまうことも多い。 新谷氏は、そうした問題を私などよりもずっと熟知しているはずであるが、統計初学者には難しすぎる内容であるとして、敢えて言及しなかったのだろう。 それは理解できるが、しかし、結果として、まるで多変量解析が万能であるかのような錯覚を読者に与えているように思われる。 この点も、この書物の重大な問題点であると言わざるを得ない。

このように、いささかの問題点はあるものの、私のような粘着質な者でさえ問題点を二つしか挙げられなかった、と考えることもできる。 そうしてみると、この書物は、非常に優れた統計学の入門書であるといえよう。

2016.10.22 誤字修正、語句修正、若干の加筆
2016.10.25 誤字修正

2016/10/21 敗血症検査

10 月 21 日付の北日本新聞に「敗血症検査法 製品化へ」と題する記事が掲載されていた。一部を抜粋する。

細菌やウイルスなどの感染症により全身の返照や多臓器不全が起きる「敗血症」について、富山大学大学院が進めてきた検査法が (中略) 国の助成を受け、同検査法の製品化と先進医療化を目指す。

感染症の原因菌を検出する段階で遺伝子の塩基配列を読まずに菌を特定することができる。 従来の血液検査では特定に 2 〜 3 日かかるものが、3 時間程度で可能になるため、早期に抗菌薬を選択して効果的な治療ができるという。

私は、偶然、この研究について以前に聞いたことがあったから、この記事が述べている内容を理解することはできた。 しかし、この記事の記載は医学的に誤っており、記者が内容をよく理解しないままに書いたことが明白である。

まず第一に、これは敗血症に対する検査ではなく、菌血症に対する検査である。 要するに、血液検体内に存在する細菌の菌種を同定するための検査なのであって、それが感染症の原因菌なのかどうか、などは、もちろんわからない。 従って「敗血症検査」という表現も「感染症の原因菌を検出する」という表現も、いずれも不適切である。

また、知らない人にとっては「遺伝子の塩基配列を読まずに」という記載も、脈絡のない突飛なものにみえるだろう。 記事では明記されていないのだが、これは検体中の細菌 DNA を検出することで菌種を同定する、という手法である。 類似の手法としては、Polymerase Chain Reaction (PCR) を用いる方法や、DNA 配列を同定する方法が考えられる。 しかし、これらは費用などの面から、臨床的に多用するには向かない。 それをふまえて、安価に DNA の塩基配列を調べる手法として開発されたのが、この手法なのである。 私は、その内容もある程度は知っているのだが、どこまでプレスリリースされたのかは把握していないので、 富山大学の広報へのリンクを記載するに留めよう。

要するに、記者の水準が低いのである。 医療系の記事を書くなら、最低限、基本的な細胞生物学や生化学ぐらいは学んでおくべきであろう。 また、研究者の側も、素人相手の説明の仕方が、あまりよろしくないのではないかと思われる。相手の水準に合わせた説明をするべきである。

2017.02.13 誤字修正

2016/10/20 レボフロキサシン (3)

大丈夫だとは思うが、私の書くことを無批判に鵜呑みにして妊婦にレボフロキサシンを投与するノータリンな医師がいないとも限らないから、一応、書いておこう。 某製薬会社の MR 氏から頂戴した情報によれば、ヒトにおいてレボフロキサシンが胎児に悪影響を与えることを示唆する報告はない。 しかし、妊娠中のラットに対してレボフロキサシン 810 mg/kg を経口投与した場合に、胎仔に発育抑制および骨格異常の出現率上昇が認められたという。 なお、これが 810 mg/kg 単回投与なのか、一日あたり 810 mg/kg なのか、それとも分割投与で総量 810 mg/kg なのかは、確認していない。 いずれにせよ、ヒトに対する常用量は一日一回 500 mg が基本であるから、810 mg/kg という投与量は尋常ではない。

レボフロキサシンは DNA トポイソメラーゼ阻害薬であるから、作用機序としては、アントラサイクリン系抗癌剤と同じである。 ただし細菌の DNA トポイソメラーゼに対する選択性が高いので、臨床的には抗癌剤ではなく抗菌薬として用いられる。 このことを考えれば、大量投与すれば胎仔に有害な作用を及ぼすのは、当然である。 私が 10 月 17 日に書いた「『DNA 合成阻害薬である』という機序から来る気持ち悪さ」とは、そういう意味である。 もちろん、大量投与した際に有害事象が生じるからといって、少量投与でも多少の有害事象が生じる、とは限らない。 ヒトには、多少の DNA 損傷に対しては何事もなかったかのように修復する機能が備わっているからである。

以上のことからわかるように、妊婦に対してレボフロキサシンを投与することを忌避すべき医学的に合理的な事情は存在しない。 しかし、製薬会社からは「(妊婦に対しては) 一切の投与を控えて頂きたい」とのコメントを頂戴した。 気持ちはわかる。私が製薬会社の人間であったとしても、万が一の場合に責任を持てない、という理由で、同様のコメントを発するであろう。 やるなら、製薬会社としては関知しないから、医師自身の責任でやってくれ、という立場である。

これに対して、医師側が「製薬会社がこう言っているから」というだけの理由で、一律に妊婦への投与を忌避することは不適切である。 我々は、我々自身の学識と良識に基づいて、患者の意思を最大限に尊重した上で、個別の事例に対して個別の対応をする責任を負っている。 我々が法外に高い給料を与えられているのは、そうした責任を遂行することに対する報酬なのであって、 無思慮に製薬会社の主張に従うような医師には、それを受領する資格がない。 法的にも、薬の使い方は、患者の同意および医学的妥当性の範疇において医師に決定権があるのであって、添付文書などには束縛されないのである。

たとえば腸チフスから重篤な敗血症を来したな妊婦に対しては、添付文書上は禁忌であっても、 充分なインフォームドコンセントの元に、レボフロキサシンの投与を検討するべきであろう。 それで有害事象を来して訴訟沙汰になったとしても、それが医学的に合理的な判断であったならば、我々が負ける法理はない。


2016/10/19 炎症による貧血

炎症が貧血を惹起する、という事実自体はよく知られており、英語では Anemia of Inflammation (AI) と呼ばれる。 その機序については、臨床的な観察事実に基づき、IL-6 や TNF-α などのサイトカインの作用により鉄利用障害を来し、 赤血球造血が抑制されるらしい、という説明が長らく一般的であったようである。 血液学の入門書である MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』の原書は 2011 年に出版されたが、この教科書でも、 鉄利用障害の観点から説明がなされている。 一方、血液学の名著である Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed., (2016). では、 炎症による鉄利用障害の説明に多くのページを割きつつも、赤血球破壊の亢進や、造血を促すホルモンであるエリスロポエチンの産生低下についても、 炎症による貧血の機序の一つとして簡略に言及している。 ついでにいえば、Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). でも、簡素ではあるが Williams と同様の趣旨の説明がなされている

炎症により赤血球破壊が亢進するという事実は古くから知られていたようである。 このあたりについては Cartwright による 1966 年のレビュー (Semin. Hematol., 3, 351-375 (1966).) が参考になる。 この時代に既に、炎症による貧血では古い赤血球が選択的に除去されていることが知られていたが、その機序については、よくわからなかったらしい。

炎症に伴う赤血球除去の機序については、近年になって、マウスを用いた動物実験によって部分的に解明されつつある。 Kim らの報告 (Blood, 123, 1129-1136 (2014).) によれば、炎症により末梢血中に破砕赤血球が出現するらしい。 破砕赤血球は、細い血管内で赤血球が部分的に破壊された結果として生じるものであって、いわゆる血管内溶血や微小血管傷害を示唆する所見である。 しかし Kim らは同時に、破砕赤血球の比率は 1 % 未満であり、他の溶血性疾患で 2-9 % 程度の破砕赤血球がみられるのに比して著しく少なく、 これが貧血の主たる機序とは考えにくいことを指摘している。

一方、同じくマウスを用いた動物実験に基づく Zoller らの報告 (J. Exp. Med, 208, 1203-1214 (2011).) によれば、 炎症に際して IFN-γ 依存的に増加するマクロファージは、脾臓において赤血球を貪食するらしい。 どうやら、炎症による貧血の機序としては、この脾臓における破壊が主であると考えるのが最も自然なようである。

この炎症による貧血に対する理解の歴史的変遷を巡り、よくわからない点がある。 炎症による貧血では比較的若い赤血球の割合が増加する、という事実は、遅くとも 1966 年には知られていたはずである。 これは、鉄利用障害による赤血球産生障害は軽度であるか、あるいは、むしろ逆に赤血球産生は亢進していることを意味する。 それにもかかわらず、ハーバード大学テキストや Williams, Harrison などで、 あたかも鉄利用障害が主たる原因であるかのような印象を与える記載がなされているのは、なぜなのだろうか。 だいたい、Williams でも Harrison's でも、炎症による貧血では、鉄欠乏性貧血に比べると平均赤血球容積 (Mean Corpascular Volume; MCV) は比較的大きく、正球性正色素性であることが多いと記載されており、 「鉄利用障害による貧血」という説明とは矛盾しているのである。

ひょっとすると、炎症による貧血の機序については、その臨床的重要性に反して、多くの人が深く考えず、 機序について多少の疑問を抱きつつも、そのままにして来たのかもしれぬ。

なお、Harrison's によれば、急性炎症では 1-2 日のうちにヘモグロビン濃度が 2-3 g/dL 低下する程度の勢いで貧血が進行し得るという。 急性に進行する貧血の原因を検討するにあたっては、この値が参考になるだろう。

2016.10.19 語句修正

2016/10/17 レボフロキサシン (2)

10 月 20 日の記事も参照されたい。

レボフロキサシンは、テトラサイクリン系抗菌薬などと同様にヒト細胞内への移行性に優れるため、サルモネラ属菌などの細胞内寄生菌に対しても有効である、とされる。 添付文書上の「適応症」にも、腸チフスやパラチフスといった、サルモネラ属菌感染症も挙げられている。 しかし、レボフロキサシンの組織中への移行性については報告があるものの、細胞内への移行性を実験的に検証することは困難である。 そのため、添付文書やインタビューフォームでも、「臨床的に有効であった」という内容しか述べられていない。 もちろん、臨床試験などというものは、多くのバイアスを含んでいるから、そのまま信用するわけにはいかない。 結局のところ、細胞内寄生菌に対してレボフロキサシンが本当に有効なのかどうか、仮に有効だとして適切な投与量はどれだけなのか、ということは、よくわからないのである。

さて、レボフロキサシンを巡っては、次のような問題がある。 たとえば妊婦が腸チフスを患った場合、治療薬としてレボフロキサシンを用いることは、妥当であろうか。

レボフロキサシン製剤の添付文書をみると、冒頭に「【禁忌】」として、妊婦に投与してはならぬ旨が記載されている。 その理由としては「妊娠中の投与に関する安全性は確立していない。」とある。 もしレボフロキサシンが使えないとなれば、腸チフスに対する抗菌薬としては、セフトリアキソンが候補に挙がるだろう。 そこでセフトリアキソンの添付文書をみると、 「妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与すること。 [妊娠中の投与に関する安全性は確立していない。]」とあり、禁忌とまでは記載されていない。 いずれも「安全性が確立していない」というだけのことであれば、「添付文書に禁忌と記載されている」というだけの理由で レボフロキサシンを避けてセフトリアキソンを選ぶことは合理的でないように思われる。 さらに、レボフロキサシン製剤のインタビューフォームをみると、ラットにおける動物実験でサンプル数も 4 と少ないものの、 どうやらレボフロキサシンの経胎盤的な胎児への移行は少なそうなデータが示されている。

もちろん、添付文書に「禁忌」と明記されている以上、それを投与して患者に有害事象が生じた場合には、投与した医師の立場が悪くなる恐れはある。 しかし私が調べた限りでは、「DNA 合成阻害薬である」という機序から来る気持ち悪さを別にすれば、 レボフロキサシンの妊婦への投与を特別に忌避すべき事情はないように思われる。 この点について、某製薬会社の MR 氏に問い合わせを行った。回答待ちである。


2016/10/16 レボフロキサシン (1)

レボフロキサシンについての話題である。 これは、抗菌薬の一種であって、細菌の DNA トポイソメラーゼ II, いわゆる DNA ジャイレースの阻害薬である。平たくいえば、DNA 合成阻害薬、ということになる。 Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). によれば、この薬の選択性、つまり細菌には効くがヒトの細胞には効かない理由は、 ヒトと細菌では DNA トポイソメラーゼの形が違うから、とのことである。

レボフロキサシンの投与量としては、一回 500 mg を一日一回、というのが一般的であるが、過去には一回 100 mg を一日三回、という用法が主流だったようである。 この投与量の根拠を巡る議論が、本日の主題である。 というのも、薬剤の投与量をいかにして決定すべきか、ということについて、つい先日まで、私はキチンと勉強したことがなかったからである。

レボフロキサシンの添付文書をみると、この薬は体中の様々な組織への移行性が高い、という内容が、実際の測定値と共に示されている。 たとえば肺組織には、血中濃度の 1.06-9.98 倍である、といった具合である。 一体、どのようにして、肺組織中の薬物濃度などを測定したのだろうか。 以前、北陸医大 (仮) の某教授に対して、そういう疑問を投げかけてみたところ、 教授は「たぶん、手術予定の患者に予め薬剤を投与して、切除した臓器内の薬物濃度を調べたのではないか。」という想像を述べた。

添付文書には根拠文献が示されていなかったので、私は、レボフロキサシン製剤を販売している某社の MR 氏に問い合わせた。 すると、数日してから、氏は同製剤のインタビューフォームの一部を印刷したものを持ってきてくれた。 インタビューフォームというのは、薬剤に関する詳細情報のうち、添付文書には記載されなかった細かな内容をまとめたものである。 実は私は、それまでインタビューフォームをキチンと読んだことがなかったのだが、そこには、キチンと参考文献を挙げて細かなデータまで記載されていた。 それによると、確かに、上述の教授が想像した通りであった。 この方法による組織中の濃度の測定には、いくつかの問題点があるのだが、それについては、ここでは議論しないことにしよう。

杏林大学の藤田らは、患者にレボフロキサシンを一回 100 mg, 一日三回を三日間投与し、 その後に手術中に採取された肺組織をホモジナイズし、さらに遠心沈降して得られた上清中のレボフロキサシン濃度を報告した (Jpn. J. Anitbiot., 52, 661-666 (1999).)。 これによると、血中濃度と肺組織中の薬物濃度比は、患者によらず、概ね一定であった。 しかし肺組織中の濃度自体には個人差が大きく、最も低い患者では 0.17 μg/g, 最も高い患者では 8.08 μg/g, 中央値は 3.55 μg/g であった。 肺炎の原因菌は多様であるが、たとえば 2 μg/mL 程度の濃度のレボフロキサシンに曝されれば治療効果が得られる、としよう。 藤田らの報告では、14 例中 11 例で肺組織中のレボフロキサシン濃度が 2 μg/mg を超えている。 すなわち、この投与方法では、だいたい 8 割ぐらいの患者において有効な治療効果が得られるが、残り 2 割の患者では効きが悪い、ということになる。 もちろん、投与量を増やせば有効率は上がるだろうが、有害事象の頻度も上がることになる。

あたりまえのことではあるが、同じ量の薬を投与しても、血中や組織中の濃度には大きな個人差が生じるのである。 たまたま血中や組織中の濃度が低くなってしまう人であったために「効くはずの抗菌薬が、効かない」という状況に陥った場合には、理屈としては、 投与量を増やせば良い。 従って、本当は、それぞれの患者について血中濃度を測定して投与量を調節するのが望ましいのだが、それには費用がかかるため、現実的には、 多くの薬においては血中濃度の測定は行われない。

レボフロキサシンの投与量については、もう少し述べておきたいことがあるのだが、少しばかり長くなってきたので、続きは後日にしよう。


2016/10/15 間質性肺炎

遅い夏季休暇を取得して九州医科大学 (仮) 病理診断科を見学してきた。予定では四日間を九州医大で過ごすつもりであったが、 たまたま四日目は東京で間質性肺炎の勉強会があるとのことなので、教授、医員および私の三人で参加してきた。 なお、この会は「共催」という形で某大手製薬会社が関与しており、会場も、その会社の本社ビルであった。

私は、間質性肺炎には関心があるが、日本における間質性肺炎の専門家性たちがどういう仕事をしているのかは、よく知らなかったので、その意味で勉強にはなった。 しかし印象としては、臨床的な診断と治療にばかり話が集中し、間質性肺炎という謎の疾患の本質、正体に迫ろうという意欲は、乏しいように思われた。 これまでに欧米で提唱され、承認されてきた診断基準に乗るばかりであって、自分達で、より適切な基準や概念を捻り出そうという空気が、全然、感じられないのである。

発言者が誰であったかは知らぬが、「近年では、特発性肺線維症の診断について概ねコンセンサスが成立してきたように思われる。」というような発言まであった。 とんでもない暴論である。「特発性肺線維症」というのは、「通常型間質性肺炎」と呼ばれる、明確な定義の存在しない漠然とした形態学的特徴を有するが、 しかし原因不明である肺疾患を総称するものであって、症候群ですらない。当然、明確な疾患概念など存在せず、診断についてコンセンサスが成立するわけがない。 ただ、皆が付和雷同して盲目的に「診断基準」なるものを適用しているから、なんとなく、皆の合意が得られているかのように錯覚されているに過ぎない。

質疑の時間も、私の印象としては、どうも病理学的本質からは遠く離れた議論ばかりがなされていたように思われた。 ただし、間質性肺炎というよりも膠原病を専門にしているらしい一人の人物は、鋭い指摘を繰り返していた。 彼は、現行の膠原病の診断基準は間違っている、というようなものを含め、かなり野心的な発言を連発していたのである。 遺憾ながら、会場の一部からは失笑も聞こえ、彼の言葉は、ほとんど黙殺された。これが、日本の間質性肺炎の「専門家」の現状である。 残念ながら若手が気軽に発言できるような雰囲気の会ではなかったので私は黙っていたが、彼の主張に対して「おっしゃる通りである」という気持ちを込めて頷きながら聴いていた。 僅かではあるが視線も合ったことだし、たぶん、こちらの思いは伝わったであろう。

ところで、私が訪ねた九州医大の病理学教授は、かつて北陸医大 (仮) で教授をやっていた人物である。 しかし北陸医大の閉鎖的体質に嫌気がさし、九州に移ってノビノビと活動しているようである。 確かに、正直にいえば、現状では北陸医大より九州医大の方が優れた環境であるように思われる。それでも、私が九州医大に移るという選択は、少なくとも当面は、ないであろう。 私は、名古屋大学での四年間で何もできなかった。 また北陸で何もできないままに九州に移るとなっては、おそらく私は、一生、何もできずに終わるであろう。 私が九州に移るとすれば、北陸で何事かを成した後のことである。

2016.10.15 語句修正
2016.10.15 語句修正
2016.10.20 表現を一部修正

2016/10/14 健康診断における PET

九州の某駅で列車を待っているとき、たまたま、健康診断を主に行っているかのような看板を掲げる病院がみえた。PET 診断部、というような看板の建物もあった。もしや、と思い、後ほど確認すると、どうやら、健康診断の一環として PET 検査を施行している病院であるらしい。

この病院のウェブサイトをみると、PET の仕組みなどについて素人向けの説明が書かれているが、内容は、医学的に明らかに間違っているとまではいえない。しかし、極めて重大な事実に触れられておらず、優良誤認を誘う意図が明白であり、怒りが湧き起った。

PET というのは、陽電子を放出する放射性同位元素を用いて、消滅γ線を測定することで病変の検出を行う核医学検査である。最も高頻度に行われるのは FDG-PET であり、詳細は割愛するが、ブドウ糖の取り込みが亢進している病変を検出する目的で施行される。 「ブドウ糖の取り込みが亢進している病変」の代表は悪性腫瘍であるが、通常の炎症性病変も該当する。 重要なのは「PET では、悪性腫瘍と炎症性病変の鑑別は困難である」ということである。

一部の医療従事者は「PET では癌の発見率が高い」というような宣伝をしており、これを信じている素人も少なくないようである。 しかし、この「発見率が高い」というのは、感度を高めるために特異度を犠牲にした場合の話である。つまり本当は炎症性病変であるものを「癌疑い」と判定する例が多いのである。

「それでも癌を見逃すよりは良い」という人もいるだろう。 そういう考え方も、あり得る。 たとえば PET で「陽性」と判定され、確認目的に腹腔鏡手術で生検を行ったが癌ではなかった、というような事例が多発するのを覚悟した上ならば、の話である。 しかし、その心理的、身体的、そして経済的な負担の重さを、本当に理解した上で PET 健診を受けているのか、私には、よくわからない。

放射線医学的には「PET で癌かどうかを診断することは極めて困難である」ということは常識である。PET が威力を発揮するのは、既に癌のあることがわかっている患者について、その転移の程度を検索する場合、などに限られる。 癌かどうかを判定する目的で PET 検査を行っても、ほとんど役に立たないし、保険上も、そういう PET は認められていない。

ただし、この点に関しては、不正な保険請求が横行しているようである。 私の父は、胸部 CT で肺癌を否定できない腫瘤性病変がみられたため、定期的に CT でフォローアップを受けている。彼は、関東地方の某有名私立大学病院で FDG-PET の検査を受けたが、その際、保険が適応されたらしい。 癌かどうかわからない、というよりも、たぶん癌ではないと考えられている患者に対して、どうして、PET が保険適応になるのか。 その大学病院では、不正な保険請求が日常的に行われているものと推定される。 なお、こうした不正請求は、全国的に横行しているわけではない。 少なくとも名古屋大学では、このあたりは厳格な運用がなされていた。

さて、以上のことからわかるように、健康診断で PET を行うなど、馬鹿げているとしか思われない。 それなのに、私は、実際に「PET 検査までやったのに癌を見逃されて・・・」と、医学的にはトンチンカンな不満を述べる患者をみたことがある。悪い医者に騙されたとしか思われない。

遺憾ながら、素人に対し、不正確な説明をして特定の方向に誘導して儲ける医者は少なくない。 しかも患者は、自分が、そうやって食い物にされているという自覚がない。 そして、そのことに憤る医師は少ない。 研修医や医学科生といった若い人々でさえ「本人が納得してるなら、いいんじゃないの」と、悪徳医師の肩を持つ者が多いのである。

彼らのいう「患者を救いたい」というのは、「患者のために行動したい」という意味ではなく、「患者を救ってやったという優越感、満足感に浸りたい」「患者に感謝されたい」という意味であろう。 「患者を助けること」自体ではなく「感謝されること」に喜びを見出す者は多い。 麻酔医や放射線診断医、病理医のような、患者から感謝されることなしに水面下で動き続ける人種は、医師の中でも稀なのである。


2016/10/13 京都と瀬戸内海

今週、私は遅い夏季休暇を取得し、九州の某大学病院病理診断科の見学に来ている。仮に、九州医科大学と呼ぶことにしよう。 北陸から九州は、なかなか、遠い。 私は特急サンダーバードで京都まで行き、そこから普通列車で神戸へ、そこから夜行フェリーで門司に上陸した。本当は、途中の京都で一泊したかったのだが、連休のせいか、手頃な値段のホテルがみつからなかったので、京都は日帰り観光で済ませた。

京都での滞在時間は 5 時間足らずである。その限られた時間の中で私が向かったのは、もちろん、京都大学である。 地下鉄で市役所前まで移動した後、かつての私の住居前を通って大学まで徒歩 30 分程度である。鴨川沿いの風景も、一部は変わりつつも、概ねは 15 年前から変わらない。

別段、京都大学に用事があったわけではない。時計台ショップで買い物をし、大学の附属博物館を視察し、ついでに医学部キャンパスを偵察して、帰途についた。 京都大学の良い所は、何かの役に立つとか役に立たないとか関係なしに、面白いから学問するのだ、という空気が、今なお残っている点である。 これは、名古屋大学や北陸医大 (仮) が、いつの間にか忘れ去ってしまったものである。 長いこと名古屋や北陸で過ごしていると、この京都大学的精神をつい忘れそうになるので、私は、自らを戒める目的で京都大学の空気を吸いに来たのである。

誤解のないよう明記しておくが、私は、何も、北陸医大の我々よりも京都大学の人々の方が優れている、などと言っているわけではない。 医学部キャンパスは閑散としていたが、大学院生らしき学生風の一人の男をみかけた。 彼は死んだ魚のような眼をしてトボトボと歩いており、医学に対する情熱の炎を内に秘めているようには、到底、みえなかった。 彼一人をもって京都大学代表とするわけにはいくまいが、つまり、器が立派であっても、中身も相応に優れているとは限らないのである。

さて、私は神戸から門司まで、阪九フェリーの 2 等客室 (個室) で移動した。運賃は 9000 円足らずと格安であったが、まぁ、値段相応のサービスであった。 船内のレストランも、とりわけ上等というわけではない。 あくまで格安の交通手段と考えるべきであって、ヘルシンキ - ストックホルム間を結ぶ Silja Line のような豪華クルージングとは異なる。

神戸を出港した後は、右舷方向に兵庫の夜景が続いていた。さらに船が明石海峡大橋の下を通過する際には、少なからぬ乗客が甲板に上がり歓声を挙げていた。確かに、きらびやかな風景であった。 しかし、実は趣があるのは左舷方向であった。ちょうど、沈みつつある上弦の月が左舷前方の高度 35 度の空に輝き、水面は月光を反映し、彼方には淡路の街の灯がわずかにみえた。 この情景を眺める乗客の少なかったことは、実に、もったいない。


2016/10/12 「医者変わり者説」

「名大医学部学友時報」の 2016 年 9 月号に、愛知県の某病院長が「医者変わり者説」について寄稿されていた。 医者に対する他職種からの苦情は多い、という。 周囲から「先生」などと呼ばれてチヤホヤされるうちに、何かを勘違いして周囲との調和を損ねる医者が少なくないのであろう。 そして、今後、現在のような医者に対する過剰な優遇は失なわれていくであろうし、諸君は常識ある社会人として成長して欲しい、というような内容の記事である。 私としては、基本的には同意できる内容であったが、いくつか不満もある。

天下の名門、名古屋大学の出身者であれば、これからの日本を牽引する立場にある。 従って、もちろん周囲との調和は重要であるものの、 ある程度は常識から逸脱した「変わり者」であっても構わない、むしろ、そうあるべきだと、私は思う。 日本を牽引する、という観点からすれば、名古屋大学の弱点の一つは、常識的であり過ぎること、変わり者が少なすぎることではないか。 しかし、この病院長は「変わり者」という語を「社会不適合者」というような意味で使っており、その点には同意できない。

この病院長は、学生時代の医科学生は、特に社会性が乏しいというわけではないように思われる、というようなことも書いている。 しかし名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、そもそも学生時代に、既に歪んだエリート意識を抱えているように、私には思われる。 多くの医科学生は、医師を特に崇高な仕事であると考え、その医師になる将来が約束されている「医学科生」という立場に、ある種の誇りを持っているように思われる。 しかし、はたして他学部の人々は、そういう目で医学科生をみているだろうか。

少なくとも京都大学や名古屋大学などの場合、工学部や理学部などに進む人々の多くは、医学部に行くだけの得点能力がなかったから工学部や理学部を選んだわけではない。 医学部に魅力を感じていない、換言すれば、医師という職業に魅力を感じていないから、医学部を選ばなかったのである。 「医師の、一体、何が良いのか。安定した高収入と社会的ステータスだけではないか。」 「科学の発展と人類の未来のために貢献する我々の方が、偉い。」 ぐらいのことを思っている者も少なくないであろう。 要するに彼らは、医学部などという安易な安定に逃げた我々を、低くみていると考えて良い。

もちろん、医学部と工学部のどちらがエラいか、などというのは、客観的に決められるものではない。 しかし、我々は、我々が思っている以上に、世間から蔑まれていると認識しておくべきであろう。

このあたりの意識の違いのために、医科学生は、学生時代から既に、一般社会から乖離しているように思われる。


2016/10/11 法医解剖

法医解剖とは、司法解剖、行政解剖、および、いわゆる新法解剖の総称である。 病理解剖が専ら医学的関心に基づいて行われるのに対し、法医解剖は、公衆衛生や犯罪捜査を主眼にして行われる。 監察医制度が機能している東京や大阪、神戸などを別にすれば、法医解剖は、基本的に大学の法医学教室の教授などが行っている。 詳しいことは、法医学の教科書を参照されたい。

詳細は公表していないようにみえるので具体的な数字は書かないが、名古屋大学では法医解剖の件数が少なかった。 一方、北陸医大では年間 150 件以上が行われているようである。 私は学生時代、何回か法医解剖を見学し、たいへん、勉強になった。

この日記は赤裸々を旨としているので正直に書くが、私は北陸医大 (仮) に来てから、一度も解剖を見学していない。 研修が忙しくて時間がなかったから、というわけではない。単に怠慢であっただけのことである。 これではいけない、と思い、10 月某日、初めて法医学教室を訪ねた。

病理解剖にせよ法医解剖にせよ、その件数の少なさが問題視されるようになって久しい。 解剖が行われないということは、つまり、その患者がなぜ死亡したのか、よくわからないままに済まされる、ということである。 臨床医は遺族に対してもっともらしい説明をするが、その説明は、実は充分な根拠なしに推測だけで述べられていることが多い。

若い医師や医学科生と話すと、「日本人の国民性として、解剖は遺族が嫌がるから、仕方ない」などと言う者が稀ではない。無知丸出しである。 解剖を嫌がる、などというのは、日本人に限らず、世界中のどこに行っても同じことである。 もちろんキリスト教圏でも、長い間、解剖は禁忌とされてきた。 それにも関わらず北欧などでは解剖率が高いことは有名である。 これは、解剖による死因究明が、医学の発展や、犯罪究明すなわち治安維持のために重要である、という理解を得られているためであろう。 詳細については、根拠文献を孫引きする格好になって恐縮であるが、ある法医学者のブログを参照されたい。

若い医師や医学科生の多くは、関心の幅が狭いように思われる。 多くの者は、医学の中の特定分野、自分の専門分野にしか興味がない。 さらに言えば、そもそも医学に興味を持っていない者も稀ではない。もちろん、金にならない法医解剖や病理解剖などには、見向きもしない。 医師がそうなのだから、一般国民から解剖に対する理解など、得られるはずもない。 日本の医学教育は、根本から腐敗していると言わざるを得ない。


2016/10/10 非劣性試験

過日、北陸医大 (仮) において、主に研修医を対象としたセミナーに伴って開催された「薬剤情報提供会」においてのことである。 これは、某製薬会社の MR (Medical Representative) が、自社製品についての「情報提供」を行うという趣旨の、15 分ほどの会である。 この MR 氏の話の中で、自社製品を類似の先行薬剤とを比較する「非劣性試験」の結果が示されていた。 非劣性試験というのは、新しい薬剤や治療法が、従来のものと比較して効能の点で「劣っていない」ということを示すための試験である。 遺憾なことに、一般的な医師や医学科生は統計学について無知であるから、こうした試験の内容をよく理解することができない。 そこで、キチンと内容を吟味することなしに製薬会社の主張を鵜呑みにし、結果として患者に不利益を与えている、というのが現状である。 非劣性試験についての入門的な解説は専門家の手によるものをはじめとして、 インターネット上に数多くあるが、その多くは、一般的な医師にとっては難解に過ぎるか、あるいは内容が不正確であるかの、どちらかであろう。

さて、その MR 氏が示した「非劣性試験」の結果について、私は、いわゆる非劣性マージンを大きく設定しすぎなのではないか、という趣旨の質問をした。 しかし、どうやら MR 氏は「有意差なし」と「非劣性」の区別を明確に理解していなかったようであり、質問の意図が伝わらなかった。 率直に申し上げるが、不勉強に過ぎる。怠慢であると言わざるを得ない。 もっとも、その程度の学識の者が MR として北陸医大に派遣される背景には、我々の側の落ち度もあるだろう。 これまで我々は、MR に対して学術的に真摯な議論を行わず、ナァナァの関係を築いてきたために、MR 側にも油断が生じたのではないか。

何をもって「非劣性」とするか、という指標として、一般的な基準は存在しない。 ここでは例として「新薬による治療奏効率が、従来薬に比べて劣っていない」ことを示す場合について考える。 もちろん「奏効率」という語の意味は曖昧であり、このあたりをうまく細工すれば、試験結果をある程度、任意に操作することができるのだが、ここでは問題にしないことにしよう。

まず臨床試験において、新薬と従来薬の奏効率を調べ、両者の差 (新薬の奏効率 - 従来薬の奏効率) を計算するわけだが、当然、ある程度の統計誤差は生じる。 そこで 95 % 信頼区間を調べるのが普通である。ここで、いかなる統計モデルを採用するかによって、95 % 信頼区間をある程度、自由に操作することができる。 そうしたテクニックを駆使すれば、新薬を実際以上に有効にみせかけることも可能なのだが、そうした問題についても、ここでは議論しないことにしよう。

さて、奏効率の差が正であれば新薬の方が優れている、ということになるし、もし負であれば従来薬の方が優れている、ということになる。 つまり、もし 95 % 信頼区間の下限が正であるならば、まぁ、まず間違いなく新薬の方が優れている、といえる。 これを確認するのが「優越性試験」である。 一方、95 % 信頼区間が 0 をまたいでいる、つまり区間の下限が負で上限が正であるならば、新薬と従来薬のどちらが優れているのかは、何ともいえない。 この状態を「有意差なし」という。 以前にも何度も書いているが、「有意差なし」とは「わからない」という意味なのであって、「同じ」という意味ではないのである。

では、非劣性、とは、どういう意味か。 「有意差なし」の場合について、仮に、95 % 信頼区間の下限が -5 % であったとする。 これは、ひょっとすると奏効率は新薬の方が低いかもしれないが、しかし、その差は 5 % 以内である、ということになる。 このとき、「5 % ぐらいなら、臨床的に重大ではないから、気にしないことにする」という立場をとるならば、この結果をもって「新薬の非劣性が示された」と言うのである。 つまり「非劣性」とは、「劣っているかもしれないが、その程度は僅かである」という意味なのである。 そして、「どの程度までなら劣っていても許容するか」という幅のことを、「非劣性マージン」などと呼ぶ。 もちろん、非劣性マージンをいくつに設定すべきか、などという問題に客観的で明確な決まりはないので、製薬会社の設定したマージンを鵜呑みにしてはいけない。


2016/10/09 製薬会社からの贈物

過日、一年次の研修医宛に、某製薬会社からの贈物が届けられた。 添えられていた手紙の文言は、次のようなものである。一部は伏せ字にする。

○○病院
○○先生侍史

平素より大変お世話になっております。○○株式会社 ○○と申します。 お手紙にて失礼申し上げます。
○○株式会社では、研修医 1 年目の先生方に「レジデントノート」をご提供させて頂いております。 日常の業務の中でお役立て戴けましたら幸いです。 また、○○株式会社では多くの製品を取り扱っております。何かお困りの点や、ご不明な点がございましたら遠慮なく下記の連絡先にお問い合わせ頂けましたら幸いです。
今後も何かとお世話になりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

研修医宛に挨拶状の類を送るのは、良いと思う。 我々としては薬剤の不明な点について質問しやすくなるし、彼らとしても、結果的に営業効果を上げられるとなれば、間接的に経済的利得につながるだろう。 もちろん、患者の利益にもなるし、誰も損をしない。 ただ、「レジデントノート」は余計である。

レジデントノートというのは、羊土社が出版している雑誌であって、研修医受けする内容を集めたマニュアル本の類である。 羊土社というのは、重厚な専門書ではなくアンチョコ本を得意とする出版社であって、私は、この会社が好きではない。 ○○株式会社から贈られたのは、このレジデントノートの 2014 年 5 月号に掲載された特集を抜き出し、この○○株式会社の広告をくっつけて作った「別冊」である。 この「特集」というのは、救急外来診療についてのマニュアル的な内容である。 理由は知らぬが、初期研修といえば救急、というような風潮が一部にあるので、それを意識して、こうした内容にしたのであろう。 このレジデントノート別冊を少しだけ眺めたところ、掲載されていた記事の一つに、「成書で学ぶ習慣をつけるべきだ」というようなことが書かれていた。 たぶん、著者は、このような低俗な雑誌に寄稿することに対し、科学的良心の呵責を感じているのだろう。

さて、医療、特に現在の健康保険制度の公共性を考えれば、医師と製薬会社は、適切な距離を保たねばならない。 特段の事情もないのに、製薬会社から医師に一方的に贈物をするなどというのは、社会通念上、健全な関係とはいえまい。 このあたりについて、多くの医療関係者の感性は、かなり世間から乖離しているように思われる。


2016/10/08 グラム染色法 (2)

グラム染色法の原理については 10 月 6 日に書いた。 過日、グラム染色法に対する理解を深める目的で、ちょっとした実験を行ったので、結果をまとめておこう。 実験というのは、つまり、グラム染色法の一部を変更して、敢えて不適切な方法で実施することにより、染色結果がどうなるのか調べる、というものである。

(1) 通常のグラム染色
グラム染色の手順として完全に定まったものはないが、今回は、次の手順で行った。 1) 培養した S. aureusE. coli をスライドガラス上に塗布して乾燥させる; 2) 火炎固定する; 3) クリスタル紫で染色 (30 秒) する; 4) ヨウ素液で処理 (30 秒) して水洗する; 5) アセトン・エタノールで脱色 (10 秒) して水洗する; 6) サフラニンで染色 (30 秒) して水洗する。 この方法で、S. aureus は紫に、E. coli は赤に、それぞれ染まった。

(2) 火炎固定の省略
固定としては乾燥だけでも充分と考えられるので、火炎固定のステップは省略しても、染色性に大きな影響はないと考えた。 実際、そのようになった。

(3) ヨード処理の省略
ヨード処理をしないとクリスタル紫が沈殿しないので、陽性に染まりにくくなるが、それでも多少は染まるのではないかと考えた。 しかし実際には S. aureus も完全に赤に染まった。

(4) ヨード処理を省略し、脱色時間も 3 秒程度に短縮
脱色時間を短くすれば、ヨード処理をしなくても多少は染まるのではないかと考えた。 しかし実際には、S. aureus も完全に赤に染まった。

(5) 脱色の省略
グラム陽性菌と陰性菌の違いが出ず、いずれも紫に染まると考えた。 実際、E. coli もグラム陽性菌と全く区別がつかないような紫に染まった。

(6) 脱色時間を 30 秒に延長
脱色時間が長くてもグラム陽性菌のペプチドグリカン層が破壊されるわけではないから、染色性に大きな影響は与えないと考えた。 実際、通常のグラム染色と同じように染まった。

(7) 脱色時間を 30 秒に延長し、3 回繰り返す
脱色操作を繰り返してもペプチドグリカン層が壊れるわけではないから、染色性に大きな影響は与えないと考えた。 しかし実際には、S. aureus の紫が薄くなり、グラム陰性菌に近い染まり方になった。 水洗を繰り返したために、クリスタル紫が細胞外へ少しずつ流出したのであろう。

(8) サフラニン染色を省略
グラム陰性菌は染まらない、と考えた。 実際、E. coli は全く染まらなかった。薄紫ですらなかった。

(9) ヨード処理までで止める
グラム陰性菌もグラム陽性菌と同じように染まると考えた。 実際、E. coli もグラム陽性菌と区別できないほど明瞭な紫に染まった。

まとめると、全て、理論的に予想されるものと完全に一致する結果であった。 これはこれで、なかなか、面白い結果である。

今回、行いそびれたのが「エタノール処理をクリスタル紫より先に行う」というものである。 理屈としては、通常のグラム染色と同じような染まり方をすることも可能のはずであるが、 水洗だけではクリスタル紫ヨウ化物をキチンと洗い流すのが難しいために、グラム陰性菌もやや紫に染まるであろう。


2016/10/07 Mohs 顕微鏡手術

Mohs 顕微鏡手術と呼ばれる手術法がある。これについては昨年、書いた。 当時の記事では「多くの皮膚科医や形成外科医らは、この手法に懐疑的であるらしい。」と書いたのだが、これは誤りのようである。 この私の記述は Rosai J, Rosai and Ackerman Surgical Pathology, 10th Ed., (2011). の次の記載に基づいて書いたものであった。

Somebody has commented that the statements made by many Mohs surgeons regarding the merits, superiority, and uniqueness of their technique have alienated "the great majority of dermatologists, plastic surgeons, [and] head and neck surgeons". I would like to add "pathologists" (at least one of them) to that list.

しかし、この Ackerman の記述には語弊がある。これは N. R. Friedman の記述 (J. Am. Acad. Dermatol., 19, 908 (1988).) を引用したものである。 元の文献を調べると、実は Friedman は、「再発した基底細胞癌には全例 Mohs 顕微鏡手術が良い、というのは言い過ぎであって、 多くの再発した基底細胞癌には Mohs 顕微鏡手術が良い、とするのが正しい」という文脈で majority of dermatologists に言及しているに過ぎない。 つまり、少しばかり過大な宣伝が行われている点に苦言を呈する皮膚科医もいる、という程度の意味であって、 米国の皮膚科医の多くは Ackerman とは異なり、Mohs 顕微鏡手術の有効性自体は認める立場のようである。

実際のところ、英国の皮膚科学の名著である C. Griffiths et al., Rook's Textbook of Dermatology, 9th Ed., (2016). でも、 ドイツの皮膚科学の名著である Burgdorf BHC et al., Braun-Falco's Dermatology, 3rd Ed., (2008). でも、 また日本の著名な教科書である 清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版 (2011). でも、Mohs 顕微鏡手術は、 費用はかかるが有効な手術法として紹介されており、否定的意見は記載されていない。 論文検索しても、Mohs 手術の有効性を唱える報告は多いが、この手法を積極的に攻撃する報告は、みあたらない。

余談だが、私は Braun-Falco の教科書は所有しておらず、北陸医大 (仮) の図書館にも最新版は所蔵されていない。 そこで他大学の図書館からの取り寄せを依頼したところ、名古屋大学図書館のものが届けられた。 みると、スピン (紐) が、Mohs 手術のページに挟まれている。 たぶん、私が昨年の記事を書く際に開いた時のものであろう。 当時のことが懐しく思い出されると共に、この一年間、この書物を開いた学生が一人もいなかったのではないかと、寂しくもあった。

閑話休題、Ackerman では、昨年の記事で紹介したような内容の批判が Mohs 手術に対して加えられているが、 一方で、Mohs 手術は予後が良い、という統計データも報告されている。 これらの統計の信憑性は不充分であるとはいえ、どちらかといえば、Ackerman の方が旗色が悪いように思われる。 Ackerman は、明確な根拠を示さずに「Mohs 手術の科学的妥当性は疑わしい」と述べて Mohs 手術を攻撃しているのだが、一体、なぜ、そう考えるのか。

この問題について解答を与えてくれたのは、米国の J. D. Seidman らの報告 (Mod. Pathol., 4, 325-330 (1991).) である。 この文献は北陸医大に所蔵されていないので取り寄せ中なのだが、Abstract を読むだけでも充分である。 Seidman によれば、基底細胞癌を切除する際には、断端が陽性か陰性かという問題よりも、病変が連続的か不連続か、という問題の方が重要だ、というのである。 冷静に考えれば、そんなことは理論的に当然なのであって、むしろ、それが 1991 年になるまで指摘されなかったという事実の方が驚きである。

読者の中には専門外の人も少なくないであろうから、もう少しばかり、補足説明がいるだろう。

Mohs 手術の目標は、断端陰性となる最小の範囲で腫瘍を切除する、ということである。 断端陰性とは、切除面に腫瘍細胞が存在しない、という状態のことをいう。 もし断端陽性であれば、腫瘍の取り残しがあるということになるから、再発のリスクが高いので、断端陰性となるように切除するのは自然な発想である。 しかし、たとえ断端陰性であっても、腫瘍の本体から不連続に浸潤する病変が存在する場合には、その部分を取り残し、再発する恐れはある。 Seidman が指摘したのは、このことである。

皮膚癌のうち有棘細胞癌も Mohs 顕微鏡手術が適するとされることがあるが、これも、理屈としては、おかしい。 有棘細胞癌は明確に悪性であり、不連続な浸潤を生じるのであるから、断端陰性であることは、病変の取り残しがないと考える根拠にはならない。

Ackerman が「科学的妥当性が疑わしい」と書いているのは、この点であろう。 断端陰性となる最小範囲で切除する、という Mohs 手術の基本的な考え方自体が、理論的に不適当なのである。


2016/10/06 グラム染色法 (1)

10 月 8 日の記事も参照されたい。

細菌を顕微鏡下で観察する際には、グラム染色と呼ばれる手法で標本を染めることが多い。 この染色法は、Christian Gram が 1884 年に発表した方法が原法であるらしいが、その報告はドイツ語のようなので、私は読んでいない。 原法の詳細は忘れたが、現代において頻用されるグラム染色変法の一つにおいては、まずクリスタルバイオレットで細菌を全て染める。 そしてヨード液で「安定化」させた後に、エタノールで処理する。 この段階で、黄色ブドウ球菌に代表される Staphylococcus 属菌などは脱色されないが、 大腸菌、つまり Escherichia coli などは脱色される。 その後にサフラニンで染色すれば、黄色ブドウ球菌は紫に、大腸菌はピンクに、染まり上がるという寸法である。 しかし、こうした染色性の違いが何に由来するのか、という機序については、長年、謎とされてきた。 南山堂『戸田新細菌学』改訂 34 版によれば、この問題が概ね決着したのは、1980 年代であるらしく、T. J. Beveridge らの報告 (J. Bacteriol., 156, 846-858 (1983).) を参考文献に挙げている。

多くの研修医は、グラム染色のやり方を知っていても、自分が何をやっているのかは理解していないであろう。 もちろん、それでも臨床は、回る。 某大学で細菌学を教えている某教授も、私がグラム染色法における「ヨード処理」の意義について質問した際には即答できなかったし、 私も、つい最近までグラム染色法について無知であった。 しかし、我々は臨床を回す肉体労働者ではなく、医学の次代を担う開拓者なのだから、グラム染色とはそういうものなのだ、と、天下り式に認めるわけいはいかない。 私は、過日、ふとしたきっかけにより少しばかりグラム染色法について勉強したので、ここにまとめておこう。

クリスタルバイオレットは、C+{C6H4N(CH3)2}3 という構造を持つ。 我々が使う試薬としてのクリスタルバイオレットは塩化物であり、もちろん、水溶性である。 しかしクリスタルバイオレットのヨウ化物は、水に不溶であるらしい。 Beveridge らは、グラム染色の工程で細胞内に起こる現象を電子顕微鏡的に観察した。 彼らの観察手法にはいささかの問題があり、充分に信頼できるとまではいえないが、彼らの観察からは次のような仮説が考えられた。

まず大腸菌の場合について考える。ヨード処理を行うと、クリスタルバイオレットのヨウ化物が細胞質に沈殿する。 その後にエタノール処理を行うと、外膜は著しく損なわれ、また、内膜も、ある程度の損傷を受ける。 この種の細菌では、外膜と内膜の間のペプチドグリカン層は極めて薄く、また不連続な箇所もある。 従って、エタノール処理により細胞内外を隔てる障壁が失われることになり、クリスタルバイオレットのヨウ化物が細胞外へ流出するのである。

これに対し黄色ブドウ球菌では、ペプチドグリカン層が厚いため、エタノール処理により細胞膜が損なわれても、細胞内外は隔離されたままである。 このために、クリスタルバイオレットのヨウ化物が細胞内に留まり、顕微鏡下で紫に染まってみえる。

この仮説に従えば、グラム染色では、ペプチドグリカン層の厚さが重要ではあるものの、ペプチドグリカン層そのものを染めているわけではない、ということになる。 この点を私は四年間、勘違いしていた。

2016.10.8 タイトル変更
2016.10.17 誤字修正

2016/10/05 北陸医大出身者がいわゆる名門大学に移ることについて

北陸医大 (仮) は、現状では、世間からの評価が特に高いということはない。 そのせいか、北陸医大では、北陸医大出身者が旧帝国大学などの名門大学に移っても、あまり高い評価は受けられず、まともに扱ってもらえない、と噂されているらしい。 この件について、我が愛する第三の母校のことを悪く書きたくはないが、私も科学者の端くれである以上、 自身の信じるところを率直に指摘する道義的責任がある。

実際のところ、北陸医大出身者が他大学に行った場合に、どういう扱いを受けるのかは、知らぬ。 しかし、これまで旧帝大に移った北陸医大出身者が低く評価されてきたとすれば、それは北陸医大のブランド力の問題ばかりではないだろう。

北陸医大医学科においては、国家試験対策を重視した「教育」が行われているのが現実である。 もちろん、そうした「教育」は名古屋大学でも行われており、私は臨床実習のレポートなどで 「一体、いつから名古屋大学は国家試験対策予備校になったのでしょうか」というような批判を何度も述べた。 これは、そうした攻撃が、名古屋大学の人々の自尊心に訴えかけ、羞恥の心を呼び起こすことができると信じていたからである。 実際、そうした不満、教育当局への批判に対して、教授陣はともかく、同級生や下級生の友人諸君からは一定の理解を得られていたと思う。 しかし北陸医大に来てからの半年間、私は、その種の批判を北陸医大の人々に対して公然と口にしたことはない。 極めて遺憾なことであるが、もし、私がそれを述べたならば、北陸医大の人々の多くは 「まぁ、北陸医大は、医師になるための職業訓練学校だよ」などと開き直るであろうことが容易に予想されるからである。

北陸医大の学生の中にも、こうした教育のあり方に対して不満を抱いている者はいる。 しかし、その数は圧倒的に少なく、また、彼らの不満を理解できる者も少ないのではないかと思われる。

もちろん、こうした「教育」を施さねばらないセンセイ方の事情は理解できるし、それを内心では恥じていることも、心苦しく思っていることも、私は知っている。 北陸医大は、地元に臨床医を供給するという使命を帯びており、そのために彼らとしても苦渋の決断を迫られたのであるから、一概に責められるべきではあるまい。 しかし、結果として、北陸医大が優秀な若者達から未来への野心と希望を奪い、その可能性の芽を摘んできたことは事実であり、その罪は重い。 そうした先人の罪を贖うことは、我々、北陸医大の若手の責務である。

私が何を言いたいのかというと、外の世界をみろ、ということである。 なぜ、あなた方は、医学的な物事の判断基準として「(北陸医大の) ○○科では、こうしている」とか「(北陸医大の) ○○先生が、こう言っていた」などということを持ち出すのか。 たかが北陸医大の教授、北陸医大の医師の言うことを、なぜ、それほど重視するのか。なぜ、県外や国外の動きに目を向けないのか。 どうして、疾患の本態、本質を理解しようと努めないのか。 それで「国際水準」などと、胸を張って言えるのか。


2016/10/04 大隅博士

ノーベル賞を受賞するのが立派なことだとは思わない、というより、科学的業績を賞によって評価することは、むしろ学問に対する冒涜である。 これについては、2014 年にも2015 年にも書いた。 だから私は、今回の大隅博士のノーベル賞受賞の件についても「オートファジーの研究をした人らしい」ということ以上には、詳しく調べていない。

今朝、病院内で、たまたま、テレビで大隅博士が「サイエンスの本質は、他人と異なることをやることだ」というような発言をした旨が報じられているのをみかけた。 この種のコメントは、近年のノーベル賞受賞者が、こぞってマスコミを通じて発しているメッセージである。 それだけ、彼らが共通して強く危機感を抱いているのであろう。 これは、流行に乗れば研究予算を獲得しやすく、また有名な論文誌にも掲載されやすいが故に、 安易にそれに飛びつく者が多いという昨今の科学界の風潮に対する警鐘である。 近年の工学部や理学部の事情は知らぬが、少なくとも名古屋大学医学部では、他人と同じであることを良しとする風潮があった。北陸医大 (仮) については、言うに及ぶまい。 こうした状況を鑑みれば、今後 20 年間、名古屋大学医学部や北陸医大から、研究者として大成する者は現れないであろう。

ついでに書けば、文部科学省直轄の研究機関である科学技術・学術政策研究所報告によれば、近年の日本人ノーベル賞受賞報道の前後で比べると、 子供の自然科学指向は強まっている一方、保護者の自然科学指向は弱まっているという。 これは、ノーベル賞受賞者の苦労話などの報道を受けて、子供に苦労させたくない、と考える保護者の姿勢が反映されたのではないかと考察されている。

ノーベル賞といえば、私が京都大学工学部一年生の時、某教授から言われたことは印象的であった。 京都大学は自然科学の分野において多数のノーベル賞受賞者を輩出してきたが、多くの場合、他大学の教授などとしての業績が評価されたものであって、 京都大学教授が受賞した例は少ない。 つまり、京都大学には人をみる目がなく、京都大学の研究体制が優れているわけでもなく、 稀に突然変異的に京都大学に現れる優れた人物が、京都大学とは関係なしにノーベル賞を受賞しているのである、とのことであった。 教授は、さらに、純真な一年生たる我々に対し「そういう突然変異を別にすれば、君達は、大阪大学の連中よりも活躍しないであろう」とまで言った。 京都大学に合格して天狗になりかけた我々の鼻を、いきなり、へし折ったわけである。

さて、我が北陸医大は、その「理念」の中で「国際水準の教育及び研究を行い」と明言している。 これを公に掲げている以上、我々は、実際に国際水準の教育と研究を、行わなければなるまい。 つまり、京都大学並の教育・研究では不足である、ということになる。

2016.10.04 余字修正、紛らわしい表現を修正
2016.10.17 誤字修正、たいへん失礼しました

2016/10/03 細胞の分化について

細胞の「分化 differentiation」とは、医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば 「多細胞生物個体の発生過程において, 部域, 器官, 組織, 細胞の間に形態的, 機能的な差異を生じること。」とある。 しかし、この記述は、いささか不正確であろう。 というのも、通常、「分化」という語は「個体の発生過程」に限定せず、多分化能を持つ幼若な細胞が、 他種の細胞とは異なる機能を持つ成熟した細胞に変化する過程のことを言うからである。 リンパ球におけるクラススイッチや体細胞超突然変異を別にすれば、分化はゲノムの変化を伴わない、いわゆるエピジェネティックな過程であると信じられている。 すなわち、DNA の塩基配列は変化せず、化学的修飾などによる遺伝子発現パターンの変化によって生じているらしいのである。 現代生物学を修めた我々は、これを、あたかも当然のこと、常識として認識しがちであるが、冷静に考えれば、 分化に際してゲノム上の何らかの変化を伴っていても不思議ではない。

細胞の分化については、血液細胞において、よく研究されている。 Alberts B. et al., Molecular Biology of the Cell, 6th Ed., (2015). によれば、多分化能を持つ造血幹細胞は、まず骨髄球系前駆細胞とリンパ球系前駆細胞に分化し、 骨髄球系前駆細胞は巨核球系前駆細胞と顆粒球探求系前駆細胞に分化し、という具合に、stepwise に分化する、という。 ただし、この「stepwise である」という記述の根拠を、私は知らない。 理屈としては、実は分化は全て連続的に起こっているのだが、我々が形態的に類似した分化段階の細胞をまとめて同種の細胞と認識しているが故に、 観察上、stepwise な過程であるようにみえているだけだ、という可能性もあるのではないか。

これは、もちろん第一には、基礎医学的な知的好奇心という意味において重要な問題なのであるが、実は臨床的にも重大な意味がある。 急性前骨髄球性白血病 (Acute Promyelocytic Leukemia; APL) は、前骨髄球が腫瘍化したもの、と考えられている。 前骨髄球というのは、好中球の前駆細胞であり、形態学的には、やや好塩基性の細胞質にアズール顆粒を持つことを特徴とする。 白血病というのは、もちろん、血球が腫瘍化する疾患をいうのであり、赤芽球系や巨核球系の腫瘍も含む。 急性白血病とは、白血病のうち、血球の分化が途中で止まるものをいい、慢性白血病とは、一応は分化が最終段階まで進行するものをいう。 MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』では、急性白血病を来すには 細胞の異常増殖を促す「クラス 1 の変異」と、分化を停止させる「クラス 2 の変異」の両方が起こらねばならない、という仮説を述べているが、 理論上、これは自然な考えである。

急性前骨髄球性白血病では、t(15; 17) (q22; q12) 転座などによる PML/RARα 融合遺伝子の形成がみられる。 K. Kaushansky et al., Williams Hematology, 9th Ed., (2016). によれば、PML はどうやら癌抑制遺伝子であるらしく、 PML/RARα 形成によりこれが機能障害を来し、すなわちクラス 1 変異となる。 一方、RARα というのは Retinoic Acid Receptor α、つまりレチノイン酸受容体の一部をコードする遺伝子であり、 リガンドとの結合により細胞の分化を促す作用を持つ。 PML/RARα になると、レチノイン酸との親和性が著しく低下するらしい。 この意味では、PML/RARα の形成は、クラス 2 の変異でもある。 つまり、PML/RARα の形成は、クラス 1, 2 両方の変異を兼ねているのである。

問題は、ここからである。 急性前骨髄球性白血病においては、しばしば、腫瘍細胞にアウエル小体と呼ばれる針状構造物が出現する。これはアズール顆粒が変性したものであるらしい。 「ハーバード大学テキスト」では、本疾患について「細胞の成熟停止は, ほぼ完璧にみられることも, 部分的であることもあり, 症例でさまざまである.」とあるが、 臨床的には、本疾患は急性白血病であり、腫瘍細胞は成熟した好中球にまでは分化しない。 換言すれば、未治療の段階では、分化した好中球にアウエル小体がみられることは、ない。 念のために補足すれば、本疾患に対する治療としてレチノイン酸大量投与を行うと、親和性が低いなりに PML/RARα が働き、腫瘍細胞の分化が促される。 その結果としてアウエル小体を有する成熟好中球が出現するのは、自然なことである。

話を元に戻す。 もし仮に、細胞の分化というものが stepwise ではなく連続的であるならば、いくら PML/RARα のレチノイン酸に対する親和性が低いとはいえ、 分化は緩徐に進行し、従って、未治療であっても腫瘍細胞の一部は成熟好中球にまで分化するはずである。 一方、分化が stepwise であるならば、つまり分化は進行するか進行しないかの all or none の現象であるならば、 腫瘍細胞では分化が完全に停止し、一般に言われているように、未治療でアウエル小体を有する成熟好中球は生じない。 この場合、たとえば「アウエル小体を有する成熟好中球が存在する」という根拠で「急性骨髄球性白血病ではない」と判断することができる。 この意味において、分化が stepwise かどうか、という問題は、臨床的にも重要なのである。

実際のところ、どちらが正しいのかは、知らぬ。


2016/10/01 風邪について

「風邪」という語はキチンとした病理学的定義を持たないが、一応、「かぜ症候群」という言葉は医学用語であるとされている。 医学書院『医学大辞典』第 2 版では、これを「急性上気道炎」と同義であるとしている。 さらに「普通感冒」という語を「かぜ症候群の中で鼻症状を主体とし、最も軽症のものを指す」としている。 もちろん、「普通感冒」と対になるのは「流行性感冒」であって、これはインフルエンザのことである。

さて、過日、同期の研修医の某君との間で論争になったのが「下垂体機能低下症のために免疫能が低下し、風邪をひきやすくなる」という論理は適切かどうか、ということである。 結局のところ、我々の間で合意は形成されなかったのだが、なかなか面白い話ではあったので、ここに記載しておこう。

私は、「下垂体機能低下症のために風邪をひきやすくなる」という現象はあるが、しかし、それは「免疫能が低下したため」ではない、と考える。 「下垂体機能」という語は曖昧で幅広いが、ここで問題となるのは副腎皮質刺激ホルモン (AdrenoCorticoTropic Hormone; ACTH) 分泌能であろう。 何らかの原因により ACTH 分泌障害を来した場合、結果的に副腎皮質からのコルチゾールの分泌が乏しくなる。 コルチゾールの作用は多彩であるが、糖新生亢進に代表される代謝調節作用と、いわゆる抗炎症作用に大別されよう。 もちろん「抗炎症作用」というのは非常に漠然とした表現であるが、Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed., (2017). によれば、 これは NF-κB を阻害することによりサイトカインの放出を抑制する、というものであるらしい。

炎症の調節機構の詳細は、特に膠原病学の分野において重要視されているが、未だ詳らかにされていない。 しかし、おおまかにいえば、正のフィードバックと負のフィードバックが共存し、それらが適切なバランスを保つことで、 必要なときに限定して炎症が起こるようになっているらしい。 上述のように、コルチゾールは炎症の正のフィードバックを抑制する作用を有するので、これが欠乏すると、過剰な炎症が起こることになる。 炎症というのは免疫細胞の活性化と表裏一体である。 従って、結局のところ、コルチゾールの欠乏は免疫応答の過剰な活性化を引き起こす、といえる。 たとえば、正常であればどうということはないような、上気道への極めて軽度の刺激であっても、活発な免疫応答、すなわち上気道炎を惹起するのである。

以上の考察からわかるように、一見、逆説的ではあるが、「下垂体機能低下症のために、免疫応答が過剰に活性化し、風邪をひきやすくなる」というのが適切であろう。


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