私は、病理学者である。名古屋大学の某病理学教授が言うように、病理学者の本分は、疾患概念を構築し、分類を行うことにある。 従って我々は、各々の症例を、既存の分類に当てはめて診断することに専念しては、ならぬ。それは本来、人間ではなく、機械が行うべき仕事に過ぎないからである。
月刊「病理と臨床」という雑誌がある。これは、主に病理診断医を読者として想定した雑誌のようであり、学術的な内容よりも、診断業務に特化した記事が多い。 この雑誌を読んでいると、しばしば、気になる表現がある。 日本語の乱れも多いのだが、何より問題なのは「○○があるかどうかで分類が違ってくるので、注意が必要である」というような記載である。 たとえば粘膜下層への浸潤を伴う大腸癌の場合、浸潤距離が 1,000 μm 未満であれば pT1a と分類されるが、1,000 μm 以上であれば pT1b となる、といった具合である。 pT1a であればリンパ節転移が存在することは稀であるから、両者の違いは臨床的に重要である、と、される。
しかし冷静に考えれば、950 μm と 1,050 μm の間に、病理学的に歴然とした差があるとは思われない。 他の諸問題も同様で、ある cutoff 値を基準に何かと何かの分類を大きく変えることは、一般に、合理的ではない。 「浸潤距離が ○○ 以上かどうかで予後が分かれる」などという cutoff は、医学的には、ありえないのである。 ガイドライン等に cutoff が記載されていることは少なくないが、これは単に、そういう研究報告が過去にあった、というだけのことに過ぎず、 医学的、病理学的な事実を表しているわけではない。 そのあたりについて、多少の違和感は大抵の医師が抱いているのだろうが、あまり深く考えずにガイドラインや診断基準に盲従している者も少なくないであろう。 特に、思慮の浅い学生や研修医などの若い医者が、思考を停止して cutoff を信奉している例は多いように思われる。
そういう話をすると、「じゃぁ、どうすれば良いんだよ」「臨床的には仕方ないだろ」などと言う研修医は、少なくない。 諸君は、一体、これまで、何を勉強してきたのか。 どうすれば良いのか、臨床的にどう対応するべきなのか、それを考えるのが、医師の仕事である。 教えられた通りにやるだけなら、看護師と技師がいれば充分である。 なにより、技師や看護師は、そのことを、よく知っている。 あまり口には出さないが、「決められたことやるだけなら、我々だけでできる、医者なんか、いらない」と、彼らは思っているのである。
閑話休題、以前にも何度か書いたが、分類というのは、天与のものではなく、むろん、絶対でもない。 我々が便宜のために用いているに過ぎぬ。 それを、忘れてはならない。
正確にいえば「医学部」ではなく「医学科」なのだが、元の記事が「医学部」としているので、それに合わせる。 文春オンラインで扱われた、医学部あるいは医師についての特集についてである。 こういう低俗な娯楽雑誌の記事にイチイチ反応するつもりはないが、元記事がそれなりに面白かったので、取り上げよう。
特集は全部で 5 回から成っており、第 1 回では「東大より難しい! 過熱する医学部受験ブームの異常さ」、 第 2 回は「東大医師の 3 人に 1 人は医師不適格者?」、 第 3 回は「これが医学部大量留年の驚くべき実態だ」、 第 4 回「東大、慶應も凋落の衝撃 医学部ヒエラルキーの崩壊」、 第 5 回「今、医学部はどんな学生に来てほしいと思っているのか」、としている。
内容の大筋には、文句はない。だいたい合っていると思う。 ただ、少し違う、大事なところを射貫いていない、という印象を受けた。
たとえば、第 5 回の冒頭に
「医者はそんなに頭がよくなくてもできる」
この言葉を、当の医師たちから何度聞いたことでしょう。
実際には、かなり頭がよくないと医師は絶対に務まりません。
(中略)
つまり、医師として働くならば、受験偏差値でトップを獲るほどの頭脳よりも、もっと違う資質が必要だということです。
とある。要するに、この記事では、人柄、あるいは人格とでもいうべきものが重要だ、というような論調なのである。
そのこと自体に異論はない。が、少し、違う。 キチンとした医師であるためには、優れた頭脳は、不可欠である。 ただし、それは「試験で優秀な成績を修める」という意味ではなく、本当に医学を修め、学問を身につける、という意味での「優れた頭脳」である。 それができないと、ただマニュアルとガイドラインに従うだけの、低質な医者にしかならない。 そして、学問というのは、誰でも頑張ればできるというものではなく、ある種の資質は、必要なのである。 幸いなことに、純粋自然科学における「優秀さ」と、人文科学における「優秀さ」が異なるのと同様に、医学における「優秀さ」もまた別の方向を向いているように思われるので、 「優秀な人材」を自然科学や人文科学と医学の間で奪い合う必要はなく、適材適所によって社会全体が利益を得ることができよう。
なお、上述の「医者はそんなに頭がよくなくてもできる」というような言葉は、私も使うことがある。 これは、「現在の医者の多くは、その程度の低水準な医療しか行っていない」という意味である。
ところで、第 3 回では医学部教育は内容が多くて大変だ、というような論調で「医学部ではあまり遊ぶ余裕はありません」としているが、むろん、これは事実に反する。 少なくとも名古屋大学あたりでは、6 年間、さんざん遊び呆けた上で、医師国家試験対策を少しだけ講じて悠々と医師免許を奪取する連中が多い。 それを、必死に勉強しなければ合格できないのであるならば、何らかの資質が乏しいと言わざるをえない。 そういう人々に対する教育、指導の体制は乏しい、というのが日本の多くの医学科の現状ではないか。問題とすべきは、そこであろう。
週刊文春、という雑誌がある。 あまり読まないのでよく知らないが、たぶん、知性的な内容というよりは、大衆の好奇心に迎合し、低俗な内容を専らに扱う週刊誌である、と私は認識している。 が、その切れ味は鋭く、「文春砲」という言葉まで生み出されたほどである。 その文春のオンライン版は、まぁ、娯楽雑誌としては、 週刊 The New England Journal of Medicine ほどではないにせよ、面白い。
文春オンラインで、「神童は大人になってどうなったのか?」という特集が組まれたようである。 「神童」は言い過ぎであるが、要するに名門とされる中学・高校の出身者たちの「その後」を報じたものである。 我が麻布中学・高校もその対象となったが、なかなか、悪くない書き方である。 タイトルは「大人になっても反抗期が続く『麻布高校』の神童 --- 60 年以上、東大合格者ランキングで上位 10 校以内をキープ」とある。
東京大学への進学者を養成することは我が母校の目指す所ではないから「東大合格者ランキング」は余計であるが、 「大人になっても反抗期」を読んでニヤリとした卒業生は、多いであろう。むろん、私も、その一人である。
記事の冒頭には
政治家や官僚となれば、国家を支える、体制に従うことが職責のはずなのに、理不尽さを強いられたらとてもがまんできない。
信念を曲げられたら許しがたい。
これが麻布高校出身者の気質なのかもしれない。
とあり、政府や体制に安易に迎合しない政治家連中について記している。 開成を特集した回で「開成のアイデンティティは『現体制を守り抜く』」とあるのとは対照的である。
かつて私は、麻布卒の政治家には自民党に属する者が多いことについて、体制に迎合する低俗な連中だ、などと思っていた。 が、彼らの多くは、政府中枢に近づくために敢えて腰を屈して自民党に属したものの、その主流に安易には乗らず、戦い続けている者も多い。 そういう意味では、悪くない。
私も、工学の世界から落ちこぼれ、医学に流れたとはいえ、医師免許の上に胡坐して安寧を貪る医師の仲間入りはしていないつもりである。 むしろ、この腐った日本の医学・医療の体制を内側から食い破るために、 「医学を知らない素人が、何を言うか」といって外部からの批判を封じようとする邪な連中を抑え込むために、ここに来たのである。 その意味において、文春に取り上げられた官僚達と、根本的には似たようなものであろう。
京都大学時代、ビラ配りやデモに熱を上げ、授業に出ず、学業を疎かにし、留年を繰り返す一部の学生について、私は快く思っていなかった。 そんな方法で日本が変わるのか。ビラ配りなど、誰でもできることではないか。 むしろ、しっかりと勉強して、たとえば官僚になって、それで政治の姿を変えていくことこそが、京都大学の学生に求められる戦い方ではないのか。
そういう観点からいえば、麻布の連中は、なかなか良い戦い方をしている。
病理診断学の分野においても、診断基準、というものはある。 大抵、組織学的に○○の所見があれば△△と診断する、というようなものである。 ところが、同じ診断基準を用いたとしても、病理医によって判断が異なることは珍しくない。 そのためであろう、月刊「病理と臨床」の記事などでは「診断者間の一致率」に言及されることが少なくない。
たとえば、コイロサイトーシス、という現象がある。 子宮頸部においてヒトパピローマウイルス感染がある場合などに、ウイルス由来蛋白質が細胞内に多量に蓄積し、 ヘマトキシリン - エオジン染色の標本において、核周囲に空胞が形成されてみえる現象のことである。 と、いう知識は、医学科で病理学の基礎を修めた学生であれば、誰でも知っている。 ところが、実際の標本をみて、「これはコイロサイトーシスか?」と議論すると、驚くほどに、見解が一致しない。 というのも、核周囲の空胞自体は、ヒトパピローマウイルス感染がなくとも生じることがあるからである。 そのため、コイロサイトーシスと診断するためには、核異型がなければならぬ、など細々したことが教科書等には記載されているのだが、 何をもって核異型と判断するか、などには客観的基準がないため、病理医間でも判断が分かれるのである。
ここまでは理解できるのだが、そこから先が、わからない。 雑誌などでは、あたかも「診断者間の一致率が高い診断基準ほど、優れている」というような前提で記事が書かれていることが多いようである。 しかし、その考えが正しいとは思われない。
素人は、「病理医によって判断が分かれるようでは、その病理診断を信じて良いのかどうか、わからなくて、困る。」と言うかもしれぬ。 その気持ちは分からぬでもない。 しかし、精度の低い診断で一致するのでは意味がない。次のような例を考えていただきたい。
「核周囲に空胞があるものは、核異型などの有無に関係なく、コイロサイトーシスと判断する」という基準を作れば、 コイロサイトーシスについての診断者間の一致率は高くなるであろう。 だからといって、核異型の有無を考慮しないのが適切であるとは、むろん、いえないのである。
臨床試験などの結果を根拠に、細かく分類することを否定しようとする動きも、一部にはみられる。 たとえば大腸腺腫は、低異型度腺腫と高異型度腺腫に分類するのが通例であるが、これは診断者間の一致率が非常に低い。 また、患者の予後について臨床試験を行っても、たぶん、両者で明確な差は認められないだろう。 では、両者を区別することは、意味がないのだろうか。
注意すべきは、臨床試験では、二群の差が統計誤差に比して有意に大きいかどうかに注目されることが多い、という点である。 つまり、統計誤差が大きい場合には「はっきりした差はない」という結論が導かれやすいのである。 診断者間の一致率が低い低異型度腺腫と高異型度腺腫の場合は、診断のブレによる誤差が大きくなるので、結果として、「有意な差」は認められにくい。 そのことを考えると、臨床試験の結果をもって「両者を区別することには臨床的意義がない」と判断するのは、いささか危険である。
だいたい諸君は、「皆が同じように診断する」ということに不気味さを感じず、不安をおぼえないのか。 それは、優秀な病理医と、程度の低い病理医との差がない、ということである。 病理診断というのは、そのような、誰がやっても同じになるような単純作業なのか。
埼玉の某病院における事件についてである。 この病院においては、施設基準を満足していないために腹腔鏡手術の保険適用が認められていないにもかかわらず、 腹腔鏡手術を実施し、開腹手術と偽って診療報酬請求していた、と、先月、報道されていた。 この腹腔鏡手術を実施していたのと同じ医師が、子宮平滑筋肉腫を平滑筋腫と誤診し、本来は開腹手術を行うべきであるのに 不適切にも腹腔鏡手術を実施し、結果として患者は肉腫を再発し、死亡したのではないか、との疑いがかけられている。 本件については、世間やマスコミが、感情に任せて不適切な病院叩きや医師叩きをすることが予想されるので、専門家として、今のうちに見解を述べておく。
まず第一に、問題の患者において肉腫が再発して死亡したのは、「開腹ではなく腹腔鏡で手術したから」ではない、という点に注意を要する。 開腹しようが腹腔鏡を使おうが、それ自体は、再発のリスクに影響はないと考えられる。 ただし、腹腔鏡下で大きな腫瘤を摘出する場合、腫瘤を切断して細かくしてから体外に取り出すことがある。 この切断する作業が、肉腫、つまり悪性腫瘍の場合には危険なのである。 腹腔鏡自体が問題なわけではない、という点を誤解してはならぬ。
第二に、この医師は通常の腹腔鏡研修を受けていなかったとか、ガイドラインに従っていなかった、などという報道もあるが、それ自体は責められるべきではない。 臨床医療におけるガイドラインというのは、「正しい医療」を規定するものではない。 状況によっては、ガイドラインに従った診療が不適切だということもあるし、ガイドラインに反する医療行為が最適な場合もある。 最終的にどうするかの判断は、医師と患者に委ねられる、ということが、大抵のガイドラインに明記されているのである。 従って、ガイドラインに従っていなかった、という事実をもって「不適切な医療行為をしたのではないか」と考えるのは、的外れである。
第三に、腹腔鏡手術を開腹手術と偽って診療報酬を請求するのは違法行為であるが、それは、その腹腔鏡手術自体が不適切だという根拠にはならない。 保険診療としては不正であるが、自由診療なら許されるのである。 しばしば勘違いされるが、「保険が適用できない」というのは、それが医療行為として不適切だということを意味しない。 日本の保険診療というのは、医学的見地からすれば、かなり不適切な規定が多いのである。
そして最後に、この肉腫の再発で患者が死亡した件については、最大の責任は執刀した外科医でも病院長でもなく、病理医にある。 NHK の報道によれば、病院側は、 「手術中に行った病理診断で良性だったのでそのまま進めた。手順に問題はなかった」と説明しているらしい。 この「手術中に行った病理診断」というのは、術中迅速診断のことであろう。 臨床検査医学を修めた者であれば容易に理解できるはずだが、術中迅速診断で「良性である」と確認することは、不可能である。 というのも、「良性である」と確認するためには「どこにも悪性の部位がない」ことを確認しなければならないので、腫瘍全体をくまなく検索することが必須だからである。 術中迅速診断は、検体の一部だけを採取して検査するものであるから、それで「良性である」と確認することは、そもそも無理なのである。
特に、この症例の場合、術前の画像検査で肉腫を疑う所見があったらしい。 それでも「病理が良性と言ったから」という理由で、良性と判断し腹腔鏡手術を敢行したのである。 しかし病理側としては、そもそも良性であることを保証することなどできないのだから、このような術中迅速診断は「不可能である」といって拒否するべきであった。
だいたい、この外科医は、術中迅速診断で良性と確認することは不可能である、という事実を知らなかったという点において、臨床検査医学を修めなかったのだとわかる。 つまり、医師免許を持ってはいるものの、医学を知らない素人なのである。 素人なのだから、誤診するのは仕方ない。それを責めるのは酷である。 だから、そういう素人による誤診から患者を守るために、我々、病理医が存在するのである。 それなのに、その責務が、この病院では果たされていなかったわけである。 つまり、本件については、教育者としての態度を放棄した病理医に責任がある。
なお、この病院には常勤の病理医がいないという。 たぶん、近くの大学かどこかから、非常勤として、俗な言葉でいえばアルバイトとして、病理医が術中迅速診断を行いに来ているのだろう。 自分の本来の所属病院ではないから、ということで、診断に対する態度が甘くなっていたのではないか、との疑いも抱かざるを得ない。
過日、人生最後になるであろう救急当直を終えた。 我が北陸医大 (仮) の場合、研修医が救急当直の任にあたるのは月 1 回程度である。これは、他院に比べると極端に少ないようである。
救急外来こそ研修医の活躍の場だ、というような考えを持っている者もいるようだが、私は、そうは思わない。 そもそも、救急外来は医療の基本でも何でもないのだから、これを初期臨床研修で必修としていること自体、納得がいかない。 さらにいえば、「将来的に救急医療をやらない研修医」を念頭に置いた教育体制が、北陸医大では充実していないように思われる。 このあたりの問題については、過去に何度か書いた。
さて、最後の救急当直を終えてつくづく思ったのだが、やはり私は、臨床の最前線には向いていない。 それが悪いことだとも、恥ずかしいことだとも思わないが、どう考えても、向いていないのである。 これを知り合いの看護師にこぼしたところ、「あなたは、それで良いんですよ」と言われ、だいぶ気が楽になった。
ところで、2020 年度から、初期臨床研修で産婦人科が必修になるらしい。 どうやら、産婦人科医が少ないために、志望者を増やすための方策であるという。 よくわからないのだが、初期研修で経験すれば志望者も増えるだろう、という思考らしい。
この発想には、2 つの問題がある。 1 つは、初期研修を若手勧誘の場と勘違いしていることである。 研修のカリキュラムは、より良い医師を育てることを目的として設計するべきである。 人手が欲しい、などという診療科や学会の都合で必修科目を設けるようでは、医師全体の教育水準や意欲が下がる。
もう 1 つは、そもそも、経験させれば志望者が増えるはずだ、という傲慢な発想である。 自分達が産科学や婦人科学、あるいは産婦人科の臨床を好きで楽しく感じているからといって、他の人も同様に感じるとは限らない、という基本的なことをわかっていない。
実際、私は二年間、臨床諸科で研修して、気持ちが揺らいだことは微塵もない。 1 ヶ月や 2 ヶ月の期間限定で、半ば「お客さん」のような状態で研修するだけならともかく、 これをライフワークになど到底できぬ、と、常に思っていた。 むろん、産婦人科研修の時も、そうであった。
産科学や婦人科学、あるいは産婦人科臨床の面白さ、魅力を伝えたいなら、それは、学生時代に済ませておくべきである。 医学科での教育をおろそかにし、国家試験対策の姑息的勉強に終始する一方、初期研修の名の下に勧誘会への参加を強要するとは、何事であるか。 そういう発想をできる連中が医療界の重鎮を占めているのであれば、なるほど、日本の医学・医療水準が低下するのも、当然である。
日記の更新間隔が長くなってしまっている。よろしくない。
患者を嗤う医者というのは、世の中に、意外と多い。 たとえば、飲まねば命にかかわるような薬を敢えて飲まなかったがために、意識障害を来して救急車で運ばれてきた、というような患者について、 医者同士の雑談で「何やってるんだ、馬鹿じゃないのか」などと嘲笑するのである。 あるいは、病状説明をしてもよく理解しない患者について「理解力が低い」といって、突き放すのである。
あたりまえのことであるが、患者が薬を飲まないのには、それなりの理由がある。 副作用が嫌なのか、認知機能が低下しているのか、それとも生活習慣に問題があるのか、あるいは薬代が高いのか、とにかく、何かの理由がある。 それを理解しようとせず、「どうしようもない患者だ」などと切り捨てるのは、医者としてあるまじき姿である。
病状説明や治療方針について理解しない患者、というのも同様である。 患者の理解力が低いのではなく、医者の話し方が悪いのである。 むろん、患者は素人なのだから、必ずしも医学的に厳密な理解をしている必要はない、というより、それは不可能である。 が、「よくわからないが、医者に飲めと言われたから飲んでいる」というようなことを患者に言わせては、ならぬ。
医者には、教育者としての側面がある。 素人である患者に対し、自身の健康を促進するための適切なアドバイスを提供することは、医者の仕事である。 うまく指導できなかったなら、それは、あなた方の落ち度なのである。 患者を嗤うのではなく、自身の至らなさを反省しなければならぬ。
教育者としての側面があるのは、我々、病理医も同じである。 ただし我々の場合、説明する相手は、主に医者であって、患者ではない。
医者が患者をチラリとみただけで、あるいは CT などの画像をサラリと眺めただけで診断を下すのをみて、素人は「すごい」と感じるかもしれない。 が、いかなる名医であっても、そのような僅かな所見だけで正確な診断を行うことは、不可能である。 各種疾患の頻度などを元に「まぁ、たぶん、この病気だろう」と推量しているに過ぎない。 名医であれば、それで 8 割は「当てる」ことができようが、2 割は外す。 ついでに言えば、そのあたりを自覚している巧い医者は、敢えて診断名をボカして、たとえば「大腸ポリープですね」などと患者に言うので、 まるで 100% 当たっているかのような印象を与える。 しかし、「ポリープ」というのは所見であって病名ではないから、これは診断としては曖昧に過ぎる。 いわば、風邪だか結核だか肺癌だか判然としない患者に対して「発熱ですね」と言っているようなものである。
我々の仕事は、主に、そうした診断に自信を持てない臨床医に対し、適切な診断を与えることである。 「あなたの診断は、合っています」と言うこともあれば、「それは間違っています」と言うこともある。 臨床医だけでは誤診を避けられない「2 割」を拾い上げ、「大腸ポリープ」ではなく「大腸癌」だとか「過形成性ポリープ」だとか、具体的な病名を確定する仕事である。
だから我々は、臨床医が納得できるような病理診断報告をしなければならない。 患者に理解して納得してもらうことが臨床医の仕事であるのと同様に、臨床医に理解して納得してもらうことが病理医の仕事なのである。 臨床医に「臨床所見からは単なる炎症にみえるが、病理が癌だと言っているから、まぁ、癌なのだろう」などと言われるようでは、病理医としては、不足である。 「病理がそう言っているから」ではなく、臨床医自身が納得することが重要なのである。
そういう仕事を、我々は、しなければならぬ。
器質化肺炎、という語は、医学的に誤用される頻度の高い言葉の一つである。 本来、器質化肺炎 organizing pneumonia とは、間質性肺炎の一型を指す形態学的名称である。 すなわち、肺胞構造は基本的に保たれているが、気腔に粘液様間質を背景とする繊維芽細胞の plug がみられるような変化をいう。 特に、こうした変化が、 不明な原因によって生じた場合は cryptogenic organizing pneumonia (COP) と呼ばれ、いわゆる特発性間質性肺炎の一型として扱われる。 いうまでもないことであるが、何の原因もなしに間質性肺炎が生じることはあり得ないのだから、「特発性間質性肺炎」という語はおかしいし、 むろん、cryptogenic organizing pneumonia というのも疾患名ではなく、苦し紛れの診断名に過ぎない。
このように、器質化肺炎というのは、ある種の形態学的変化の名称であって、疾患名ではないことに注意を要する。 また、器質化肺炎の特徴は、病変の主座が気腔にあり、間質は概ね保たれている、という点にある。 従って、たとえば間質に著明な繊維化がみられ、そこに気腔の器質化が加わっているような病態は、器質化肺炎とは呼ばない。
器質化肺炎について印象深いのは、私が学生、確か 5 年生の頃であったと思うのだが、名大医学科の「学生 CPC」でのことである。 これは、6 人程度の学生が一班となり、一つの解剖症例について CPC 形式で発表する、という実習である。 ある時の学生 CPC で、発表者は肺の所見として「器質化肺炎がある」と述べた。 しかし私は、示された肺の組織像をみても、どこが器質化肺炎なのか即座に判断しかねたため、「どのあたりが器質化肺炎なのでしょうか」と質問した。 実を言うと、当時の私は「器質化肺炎」という概念を正確には把握していなかったのだが、発表者が回答に詰まったのをみて 「器質化肺炎という語は、間質性肺炎の形態的分類の一つを表すものである。つまり、本症例の場合、間質性肺炎があったという理解でよろしいか。」 と追撃した。 ここで、発表班の指導にあたった医師が介入した。 「ここでいう器質化肺炎とは、肺に器質化が認められた、という程度の意味であって、間質性肺炎の分類としての器質化肺炎の意味ではない。」というのである。
恐るべきことに、医学書院『医学大辞典』では「器質化肺炎」を「遷延性肺炎」と同義であるとし、 「治療により発熱, 白血球増多, CRP は改善したものの, 肺炎陰影の吸収が遷延する肺炎を呼ぶ。」としている。 要するに、彼らのいう「器質化肺炎」とは「肺炎が遷延している」というだけの意味であって、病名でも何でもないのである。 なお、医学書院は実は医学的にキチンとした書物をほとんど出版しておらず、 むしろ学生向けの低俗な参考書を得意としているので、注意しなければならぬ。
私の知る限り、キチンとした医学書が、医学書院のいうような意味で「器質化肺炎」という語を用いている例は、存在しない。
肉腫、という語は、非上皮性の悪性腫瘍、という意味である。 これに対し上皮性の悪性腫瘍は、癌腫、と呼ばれる。 癌腫と肉腫を合わせて「がん」と呼ぶ、という流儀もあるようだが、平仮名で書くのは間抜けな感じがするので、私は好きではない。
たとえば、平滑筋の良性腫瘍は、「平滑筋腫」と呼ばれる。 平滑筋は非上皮性であるから、これが悪性腫瘍になった場合は癌腫ではなく肉腫であり、つまり「平滑筋肉腫」と呼ばれることになる。「平滑筋癌」ではない。 平滑筋腫、といえば、子宮にできることが多く、臨床的には「子宮筋腫」と呼ばれることが多い。 むろん、子宮に平滑筋肉腫ができることもあるので、臨床的に子宮筋腫を疑った場合、肉腫との鑑別に注意を要する。 というのも、平滑筋腫であれば、放置しても死ぬことはないが、肉腫であれば予後不良だからである。
平滑筋腫と平滑筋肉腫を正確に鑑別するには、現在のところ、組織学的観察が唯一の手段である。つまり、病理診断である。 とはいえ、放射線診断学的にも、ある程度は鑑別可能である。 すなわち、肉腫であれば壊死や出血を伴うことが多く、それを MRI で捉えることができれば、肉腫と推定できるのである。 ただし、肉腫であっても壊死や出血を伴わないことはあるし、逆に、平滑筋腫であっても壊死や出血を呈することがあるから、難しい。
このあたりを正確に理解していない医者の中には、安易に「肉腫なら、壊死や出血がある」などと言う者が少なくない。 「この患者の場合、大きな壊死も出血もなさそうだから、良性の平滑筋腫である」と診断するわけである。 むろん、これは誤りなのだが、そもそも平滑筋肉腫は平滑筋腫に比して頻度が圧倒的に低いので、 こういう不正確な論理で「平滑筋腫だ」と診断しても、大抵、当たってしまう。 当たってしまうから、彼らは、自分の診断論理が正しくないことを、いつまでたっても認識しない。
こうした不正確な論理に満足する風潮は、近年、強まっているように感じられる。 「臨床推論」という語をもてはやす人々の中に、厳密な論理ではなく、不確かな所見の積み重ねによって診断を「当てる」ことを好む一派が存在するのである。 彼らは「感度」や「特異度」の数値を好む傾向にあるが、実は確率論も統計学も修めておらず、的外れな論理を振りかざしている。
要するに彼らの態度は、「8 割の患者を正しく診断できれば、残り 2 割は間違っても仕方ない」というものである。 これに対し「10 割の診断」を強調しているのが、病理漫画「フラジャイル」であって、いささか演出過剰な気はするが、述べていることは概ね正しい。
さて、学生時代から気になっているのが、消化管ポリープに対する臨床診断の正確さである。 病理診断に出された検体をみる限り、9 割以上の症例において、臨床診断は病理診断と合致している。 これは、あまりに的中率が高すぎるのではないか。
理屈として、内視鏡所見で癌と良性腫瘍、および非腫瘍性病変を、本当に正確に鑑別できるはずがない。 それが現状では鑑別できている (ようにみえる) ということは、ひょっとすると、我々の病理診断が間違っているのではないか。
医療現場では、コンサルテーションが、しばしば行われる。 これは、他の診療科や医療機関に対し、助言あるいは介入を求めるものである。 たとえば、皮膚科通院中の患者について、耳の疾患があるように思われるから診てほしい、と耳鼻咽喉科に依頼する、という具合である。 あるいは、リンパ腫疑いでリンパ節生検を行ったが、どうにも判断しかねるから意見を聴かせて欲しい、と他院の病理医に相談する、というものもある。
問題は、コンサルテーションを行った後の対応である。 医師の中には「専門の先生がそのように言っているのだから、そうなのだろう」と判断する者がいるが、言語道断である。 その後の診療を、相談先の医師に引き継いだのであればともかく、自分が担当医として診療を続けるならば、判断の責任は、あくまで自分にある。
学生時代に、実習で、ある市中病院の病理部を訪れた。 そこの病理医は、難しい症例について定期的に、愛知県がんセンターの病理医に相談しており、私も、それに同行した。 がんセンターに向かう車中で、次のように言われた。 「私よりも詳しい、専門の病理医に相談するのであるが、判断の最終責任は私にある。 だから、言われたことを常に無条件に受け入れるわけではない。 アドバイスされた内容に納得できなければ、それとは異なる内容を報告書に書くこともある。 それは、先方も承知しているはずである。」
当然のことである。自分が相談される側の立場だと想像してみればよい。 他の医者から相談されて意見を述べることはヤブサカではないにせよ、もし「じゃぁ、その診断に責任を持ってくれますか」と問われれば、「はい」と言うわけがない。 意見は述べるが、責任など、持てるわけがない。それは、あなたの仕事でしょ、と答えるのが当然である。 さらに言えば「自分で責任を持てないぐらいなら、医者なんか、やめてしまえ」と思うであろう。
それをふまえれば、「エラい先生が、そう言っていたのだから」などという理由でコンサルテーション先の医師の意見に追従するのは、医師として無責任である。 エラい先生の言っていることが正しそうかどうか判断できるだけの学識を、相談する側も、持っていなければならない。
これは指導医と研修医、あるいは指導医と学生の関係についても、同じことである。 「指導医の先生が、そう言っていたから」というのは、理由にならない。 そのあたりのことをよく認識していない学生や研修医が、北陸医大 (仮) には稀ではないようであり、遺憾である。
私は、4 月から正式に北陸医大 (仮) 附属病院の病理部員になる。 それと入れ替わりに、一人のベテラン病理医が北陸医大を退職し、他院に移る。 世代交代であるが、無論、一時的には戦力低下である。
先月からの病理部研修では、一部の症例について、まず私が病理診断報告書を書き、その後に指導医が確認して、必要に応じて修正する、という方式が採られている。 癌の症例については、癌取扱い規約の推奨する項目を報告書に記載することが基本である。 取扱い規約では、組織型の分類などが定められているが、かなり曖昧な表現であることが多く、実務上は、各病理医の経験や慣習によって分類される部分もある。 とはいえ、こうした分類は、医師間の共通言語のようなものであるから、診断者間で大きく相違があっては具合が悪い。 そこで、なるべく、他の病理医と同じように基準で分類することが求められるのである。
その退職するベテラン病理医から言われた言葉が、印象的であった。 「こういう分類というのは、あまり学術的ではないけどね。」というのである。
この規約に従う分類というのは、実務上は、「他人がそうしているから、そうする」という程度のことであって、臨床上は便利かもしれないが、確かに、学問的ではない。 そもそも、あと 10 年、20 年もすれば、病理医ではなくコンピューターが行うようになるであろう仕事である。 工学部的な発想でいえば、人間がやるべき仕事では、ないのである。 コンピューター技術の乏しかった時代の病理医であればともかく、次代の病理医である我々は、この種の技能を研くことに専念するべきではない。
そこで思い起こされるのが、名古屋の某教授のあなたが悪性と思うなら、悪性と言って良いでしょうという言葉である。 病理学者というのは、疾患を既存の枠組に従って分類する作業を行う者をいうのではなく、疾患概念を構築する者をいうのである。
そのために我々は、「神眼」の獲得を志して修練を重ねているのである。 いかなる場合であれ「診断基準でそうなっているから」「ガイドラインに、そう書いてあるから」というような言い訳は、してはならぬ。
京都大学大学院に退学願を提出してから、ちょうど 7 年が経った。早いものである。
4 年前に、顕微鏡の操作法について書いた。 一部の病理医は、顕微鏡で標本を観察する時、ダイヤルを回して顕微鏡のステージを動かすのではなく、 指先でプレパラートを直接、動かすことを好む、という件についてである。 学生時代、私も、その方法を少しばかり練習したのだが、対物 40 倍のレンズ下では、あまり滑らかにプレパラートを動かすことができなかった。 一方、臨床実習で病理部教授の華麗なプレパラートさばきをみて感嘆し、「私も、いずれは、あのようになれるのだろうか。」と書いた。
先月から北陸医大 (仮) の病理部に配属され、私個人用の顕微鏡を貸与された。 そこで、あのプレパラートを直接動かす方法を久しぶりにやってみた。 やはり、できなかった。プレパラートが、滑らかに動かないのである。
なぜ、できないのか。 よくよく考え、試してみたところ、一つの結論にたどりついた。 これは、私の体質の問題なのである。
どうやら私は、指先からの不感蒸泄が、教授よりも少しばかり多いようである。 プレパラートを直接指で触れると、私の指先から発した水蒸気が、冷たいステージの表面で相転移を起こし、液体の水となる。 その結果、ステージ上が僅かに湿る。するとステージとプレパラートが密着し、滑らかに動かなくなるのである。
そこで、綿手袋を装着してプレパラートに触れる、という方法を試してみたが、やはりダメである。 あいかわらず、プレパラートはステージに密着してしまう。
とうとう、私は、諦めた。 これは、私の身体が教授よりも若いために生じている現象なのだから、どうしようもない。 あと 30 年もして、私の指先のエクリン汗腺が萎縮し、分泌活動が抑制されれば、私も華麗にプレパラートを動かせるようになるかもしれないが、今は、無理である。 おとなしく、ダイヤルを回してステージを動かすことにした。
一週間近く、あいてしまった。よくない。 はっきり書くのを忘れていたが、2 月より、病理医としてのキャリアが始まった。 正式に北陸医大 (仮) の病理部に就職するのは来月であるが、2 月から、初期研修の一環として病理部に配属されている。 今月からは、指導医による手厚いサポートの下で、診断業務の一翼も担っている。
本日の話題は、子宮平滑筋腫である。臨床的には「子宮筋腫」と呼ばれることが多いが、病理学的には「平滑筋腫」である。 これは、平滑筋が良性腫瘍になったものであると考えられている。 子宮平滑筋腫があると、症状として過多月経を来すことがある、という話については 5 年ほど前に書いた。 その機序として、日本で広く信じられている説明は「粘膜下筋腫の存在によって子宮内膜の面積が増えるから」というものである。 この説明を初めて私が聞いたのは医学科 4 年生の時であったが、その後、これは疑わしい、と思うようになった。 というのも、子宮内膜の表面積をそれほど大きくは変化させない程度の小さな平滑筋腫であっても、症状としては顕著な過多月経を来すことが稀ではないからである。 婦人科医の中にも「面積説」を信じている者がいるようだが、彼らは、患者をよくみていないか、それとも論理的思考を放棄しているかの、いずれかであって、しかも不勉強である。 私が調べた限り、「面積説」を支持するキチンとした文献は存在しない。
過日、平滑筋腫について勉強する機会があった。 病理診断に提出された検体に含まれていた少量の平滑筋をみて、これが正常な子宮平滑筋なのか、平滑筋腫なのかを、鑑別しようと試みたのである。 私は「攻めの病理医」であるから、その平滑筋繊維の走行が錯綜している点を根拠に「Suspect of Leiomyoma.」という診断を唱えた。 「平滑筋腫疑い」というわけである。 が、指導医から「攻め過ぎだろう」と言われ、結局、削除された。 後から思うに、「Suspect」ではなく「Possible Leiomyoma」、つまり「平滑筋腫の可能性がある」ぐらいにしておけば、通ったかもしれぬ。 惜しいことをした。
平滑筋腫と過多月経の関係について、合理的な記載をしているのは、病理診断学の聖典 Goldblum JR et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th Ed. (Elsevier; 2018). であった。 同書が述べているのは「筋腫の存在によって子宮の収縮が妨げられ、止血されにくくなる」というものである。合理的な解釈である。 気になったので、Ackerman の過去の版も調べたところ、2004 年発行の第 9 版には既に同様の記載がなされていた。1981 年の第 6 版には、みあたらない。
なお、同書によれば、子宮平滑筋腫ではしばしばマスト細胞が著明に認められるらしい。 最近、マスト細胞に注意して標本をみるようにしているのだが、実は彼らは、いたるところに存在する。 炎症があるところには、常にマスト細胞が存在するのではないか。 しかも、教科書的にはマスト細胞の顆粒はヘマトキシリン・エオジン染色ではほとんどみえない、などと書かれているが、 少なくとも北陸医大 (仮) の標本では、かなり明確に染まってみえる。
標本をよく観察すると、診断には直結しないところで、様々な発見がある。
診断に攻めも守りもあるものか、と、諸君は思うかもしれない。 しかし、様々な病理医の病理診断報告書をみていると、やがて、病理医毎に癖があることがわかるだろう。 たとえば、ある病理医は「断言できないので臨床的に判断してください」というような内容を書くことが多い、という具合である。 このように、間違いのないように、慎重な態度に徹する診断が「守りの診断」である。 一方、「こういう可能性がある」ということを積極的に指摘し、結果として間違うことを恐れないのが「攻めの診断」といえよう。
上述のように分類する場合、私は、かなり攻撃的な病理医である。 たとえば、検体に含まれていた少量の平滑筋組織について、よく観察し、思案し、「平滑筋腫疑い」と記載したことがある。 無論、私はまだ研修医に過ぎないから、私の記載は、正式に報告される前に指導医のチェックを受ける。 その際、指導医は「確かに平滑筋腫の可能性はあるが、さすがに、『平滑筋腫疑い』は攻め過ぎであろう」と言い、結局、その部分は削除して報告された。
私は、意図的に「攻め」に偏った姿勢をとっている。 というのも、攻めるためには、標本を隅から隅まで観察し、診断に直結しない所見も余さず捉えなければならぬ。そういう態度が、自分の勉強にならないはずがない。 そうして眼を養い、武器を研くことが、いずれ、臨床病理学の最前線を牽引し、明日の医学を開拓することにつながるのである。
たとえば、神経繊維腫の標本をみたとする。 診断には関係しないような所見も拾おうと、顕微鏡をグッの覗き込み、ジッと組織を眺める。 すると、どうもマスト細胞が多いようだ、ということに気づく。 そこで Goldblum JR et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th Ed. (Elsevier; 2018). を開くと 「しばしば多数のマスト細胞が含まれている」と記載されている。 私の観察と Ackerman の所見が合致したわけであって、嬉しくなる。
さらに観察すると、腫瘍の表面は薄い真皮と表皮に覆われている。 つまり、腫瘍は、真皮の少し深い部分から発生し、圧排性に増大したのであろう。 なぜ、そこから発生したのか。偶然なのか。それとも、神経繊維腫というのは常にそういうものなのか。マスト細胞の生理的な分布と関係するのだろうか。 そのあたりは、私が調べた範囲の教科書には記載されていない。 今後の観察課題である。
念のために補足しておくが、「攻めの診断」をする場合、どこまでが確定的な診断で、どこからが不確実な診断なのかを、 報告書を読んだ臨床医が理解できるように書かねばならない。 その点には、充分に注意を払う所存である。
我が北陸医大 (仮) には、男女共同参画推進室という部署がある。 これは女性研究者の支援・育成を目的として設置されたものであり、そのための活動を積極的に行っている。 北陸医大では、教員全体に占める女性割合が 20% に満たず、教授にいたっては 12% 程度と、非常に女性が少ないことが背景にある。 欧米との比較で考えれば、女性研究者が少ないのは、男女の生物学的差異によるものではなく、主として社会的要因によると考えるのが自然である。
女性教員が少ない原因の一つに、採用時の不当な男女差別が存在する可能性はあるが、基本的には、能力の高い女性研究者が比較的少ないことが主因であろう。 これは、教育の機会が暗黙のうちに奪われていることが問題であるように思われる、ということは過去に何度も書いた。 そこで女性研究者の育成・支援に公的に力を注ぐことは適切である。
ただし、力の入れ方を間違えては、ならぬ。 北陸医大男女共同参画推進室主催の「英語スキルアップ・セミナー」の掲示をみて、私は憤慨した。 この会には定員が設定されており、先着順ではあるが、「女性研究者優先」という但書が付されていたのである。
主催者の意図は、理解できる。 あくまで女性研究者を育成することが目的のセミナーなのだから、女性を優先したい、ということであろう。 しかしセミナーの内容自体は、英語論文の書き方などを説くものであって、女性に特有の問題を扱うわけではない。男性研究者にも同様に役立つセミナーなのである。 それを女性優先で催すことは、それこそ、不当な男女差別ではないのか。
「女性研究者は様々な面で不利益を被っているのが現状なのだから、こういう場では優遇されても良いではないか」と言う者もいるであろう。 しかし、それは違う。 そういう、必然性のない優遇によって「バランス」と取ると、それに対する反動として、現存する、女性に対する不当に不利益な処遇が固定化されてしまうのである。
我々は、「女性は出産や育児によって離職・休職するから、昇進で多少は不利な扱いを受けてもやむをえない」というような野蛮な考えを認めない。 そのために「男女は同等に取り扱われるべきである」という態度をとっている。 それならば、どうして、「バランス」を取るために、セミナーを女性優先で開催しようなどという発想が生じるのか。
だいたい、私は、この男女共同参画室の「室長挨拶」も気に入らない。 「女性研究者が、そのキャリアを磨く時期は、同時に、子どもを産み育てる大切な時期でもあります。」という文言が含まれているからである。 女性研究者が子供を産むのは、自然なことである。生物学的な制約として、子供を産むのは通常は女性であって、男性が出産することは極めて稀だからである。 しかし子供を育てるのは、「女性の仕事」ではない。 男性研究者にとっても、そのキャリアを磨く時期は、同時に、子供を育てる大切な時期ではないか。
男女共同参画推進室が、このような不当な男女差別を推進しているようでは、我が大学における女子教育が改善されるはずがない。
病理部での研修が始まり、適応に時間を要している。日記の間隔があいており、よろしくない。 来月からは、少しマシになるよう、努めよう。
インターネット上や一般向けの新聞などで、素人向けの医療情報をみかけることがある。 むろん、中にはキチンとした医学的内容が記載されているものもあるが、中途半端で不正確な内容も多い。 そういう無責任な記事で、しばしばみかけるのが「○○という報告もある」あるいは「△△とする論文がある」というような表現である。
学問をやっている者にとっては常識であるが、論文に記載されている内容は、あまり正しくないことが多い。 というより、大抵の場合、何かしら間違っている。
数学や理論物理学の場合、単に論理が間違っている、ということが、しばしばある。 これは、難解な学問分野であるために、専門家でさえ、本当に論理が適切かどうか判定することが難しいからである。
実験や統計調査に基づく報告の場合、「間違い」のパターンには、いくつかある。 一つは、純粋なデータの取り間違いであって、これは、一定頻度で生じることはやむを得ない。 もう一つは、悪質なデータの改竄であって、意図した結果を導くために、値を改竄したり、不都合なデータを削除したり、 あるいは恣意的で不適切な解析方法を採用したりするものである。 これは、非常に頻度が高いと思われる。
従って、論文を読む時には、その内容を安易に信じてはならず、自身の学識に照らし、それが正しそうかどうか判断しながら読まねばならぬ。 論文というのは、勉強の足りない学生や研修医が、そう簡単に読めるものではないのである。 「○○という報告もある」という事実には、何の情報価値もない。
ところが、現在の医学教育においては、そのあたりの基礎的なことがキチンと教えられていない。 学生や研修医ぐらいだと、「で、その論文の記載は正しいのか」と問われた際に「それは、知らないよ」と無責任に答える者が多いのである。
同じ年頃の理科や工科、あるいは文科の学生などに比べると、医科の我々は、学術水準が極めて低いといわざるを得ない。
医学科の高学年生であれば、印環細胞癌、という言葉を知っているだろう。 これは胃癌などでみられる組織型の一つであって、低分化腺癌の一型である。
印環、というのは、現代ではあまりみかけないが、指輪型の印章のことである。 印環細胞癌の細胞は、粘液などを産生する性質を保っている一方、周囲の細胞との接着性は損なわれ、正常な腺細胞の形態を保つことができず、 結果として丸くなっていると考えられている。 細胞質には豊富な粘液が蓄えられ、核が細胞の辺縁に押しやられている姿が、印環に似ているのである。
では、この印環細胞の出現は印環細胞癌における特異的な現象なのか、というと、そうではない。 消化管の炎症性疾患などでも、印環細胞が観察されることはある。 そうした非腫瘍性の印環細胞の出現は、Signet-Ring Cell Change と呼ばれ、さらに SRCC と略されることもある。 ただし、この略語は印環細胞癌 Signet-Ring Cell Carinoma と紛らわしい。 両者を区別するために、印環細胞癌を敢えて印環細胞腺癌 Signet-Ring Cell Adenocarcinoma と呼ぶこともある。
Signet-Ring Cell Change については、2000 年代に病理学者達の興味を惹いたようである。 病理医必携の組織学の教科書といえば Mills SE, Histology for Pathologists, 4th Ed. (LWW; 2012). であるが、 この Stacy E. Mills は Am. J. Clin. Pathol. 115, 249-255 (2001). で子宮内膜の Signet-Ring Cell Change を紹介した。 また、病理診断学の聖典である Goldblum JR et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th Ed. (Elsevier; 2018). の J. Rosai も Hum. Pathol. 40, 326-331 (2009). で、胆嚢や子宮頸部の Signet-Ring Cell Change を紹介している。 これらをふまえたレビューとしては Ann. Diagn. Pathol. 15, 490-496 (2011). が簡潔で読みやすい。
なぜ、こうした炎症性病変で印環細胞が生じるのかは、よくわからない。 上皮細胞が炎症により障害を来し、剥離する過程で接着性を喪い丸くなるのではないか、ともいわれているが、 通常は剥離した上皮細胞も印環細胞様の形態変化は示さないのだから、説明としては不充分である。
以前、膵臓の穿刺吸引生検の標本において、印環細胞様の細胞が、一見正常な膵外分泌腺組織中に散在しているのをみたことがある。 厳密に調べたわけではないから、血管が、そのようにみえただけかもしれぬ。 しかし、穿刺吸引生検で組織が挫滅する過程で、一部の腺細胞がそのような形態変化を来すということも、充分に考えられる。
以後、注意して観察したい。
いわゆる多変量解析に対する批判は、過去に何度も書いてきた。 多変量解析というのは、結果、つまり死亡や治癒といった現象が、様々な要因、 たとえば年齢だとか病変の組織型だとかによって複雑に規定されている状況において、 それぞれの要因がどれだけ結果に影響しているかを解析するものをいう。
医学、特に臨床医学の分野では、多変量解析としてロジスティック回帰分析や Cox の比例ハザードモデルが用いられることが多い。 これらの手法それ自体は、理論的にも無理がなく、問題ない。 また、こうした手法を使えば、様々な臨床的要因が、どれだけ予後に影響しているのかを評価することができる、ようにみえる。 が、むろん、そのような魔術のような手法が現実に存在するはずはなく、素人にはみえにくい部分に、陥穽が存在する。
ロジスティック回帰分析や Cox の比例ハザードモデルが交絡因子をほぐすことができるのは、「各々の因子は互いに独立である」という仮定を用いているからである。 この仮定こそが、これらの解析法の核心なのであって、これを満足しない状況においては、これらの手法は全く意味のある結論を出さない。 逆に、このくらい強力な仮定を使わなければ、複雑に絡み合った因子を理論的に分解することなど、到底、かなわぬ。 ところが現実には、このような仮定が満足されることは稀なのだから、現実の問題に対してはロジスティック回帰分析や Cox の比例ハザードモデルは無力である。
多変量解析を実際に行った者なら、様々なパラメーターをいじることで結果は大きく変動することを知っているだろう。 あるいは、それを駆使して「なんとか有意差を出した」という経験もあるかもしれない。 いうまでもなく、そうやって創造した「結果」は、学術的には意味がなく、データの捏造に近い。 良く言っても「不適切な多重検定」にあたる。 そのあたりを理解していない者が、実に多い。
過日、月刊「病理と臨床」2016 年 3 月号を読んでいて、私はフンガイした。 ある記事において、肺癌のある組織型について「多変量解析でも独立した予後因子であった」と書かれていたのである。 もしや、と思い、この記事が引用している元論文を調べた。 案の定、その論文が使っていたのは Cox の比例ハザードモデルであった。
上述のように、Cox の比例ハザードモデルによって疾患の予後因子を調べる場合、それらの因子が互いに独立であることを事前に確定しておかねばならない。 独立性を前提として、それぞれの因子が、どれだけ強い影響を与えているのかを調べるのが Cox の比例ハザードモデルなのである。 それを理解していれば、「多変量解析でも独立した予後因子であった」などと書くはずがない。
医学者を称する人の大半は、統計学を知らずに、統計学をブラックボックスとして使っているのが現状である。 が、思い出されるのは、学生時代の臨床実習で、ある診療科における論文の抄読会に参加した時のことである。
詳しい内容は忘れたが、その抄読会で紹介されたのは臨床試験の結果報告であり、ロジスティック回帰分析を用いたものであった。 私は、「各因子の独立性は検証されているのでしょうか」と質問した。 発表者は私の質問の意図を理解できないようであったので、すかさず、中堅クラスの医師が介入した。 「彼の言う通り、こうした多変量解析は、各因子の独立性を前提として行うものであって、結果をみて独立かどうかを判定すべきものではない。 その意味において、この論文の解析は、いささか疑わしい。」という具合であった。
このあたりは、さすが名古屋大学である。
教科書を買わない学生や研修医は、多い。
北陸医大 (仮) の研修医の給与は、たぶん、医者としては全国最低水準であるが、それでも月の総支給額 31 万円、手取りで 25 万円程度である。 非常勤扱いで、賞与はなく、時間外手当も基本的につかないが、それでも世間の標準に比べれば、大卒初任給としては高給である。 その、ありあまる資金を、諸君が一体、何に使っているのかは、知らぬ。
研修医室の個人机の上をみる限り、教科書に多額の予算を投入している研修医は多くないようである。 1 万円もしないような薄いアンチョコ本は買っても、キチンとした重厚な教科書は、あまり買わない。 だいたい、図書館で借りて済ますのである。 紙ではなく電子版を大量に買っているのだ、という者もいるかもしれないが、たぶん現時点では、多数派ではないだろう。
「はじめての○○」だとか「必ずわかる△△」というような薄い本は、読みやすいであろう。 「病気がみえる」だの「Year note」だのは、簡潔にまとまっていて、わかった気分になりやすいであろう。 しかし患者の立場からすれば、そういう書物ばかり読んで「勉強」している医者に、診られたいだろうか。
地域医療研修として、あるいは患者として、街の医院を訪れたら、診察室をよく観察すると良い。 多くの開業医は、患者心理をよく理解しているから、ハッタリのために、診察室に重厚な医学書を並べているはずである。 それらは、大抵、彼らが学生の頃に、あるいは医者になってすぐの頃に購入した、古い教科書である。 たぶん「ハリソン内科学」だとか「ロビンス病理学」だとかの、20 年ほど前の版であろう。 既に実用性の失われた古い書物であるが、見栄のために、並べているのである。
以前、ある指導医が若い研修医に対し、次のように述べているのを、たまたま耳にした。 研修医のうちから金を貯める必要はない。むしろ今はキチンとした教科書を買って、しっかり勉強するべきだ。 今のうちに投資しておけば、いずれ、ずっと大きくなって返ってくる。
これは自慢であるが、私の貯蓄は、研修医になってから、1 円たりとも増えていない。 酒は飲まず、むろん煙草は喫わず、車も持っていない。いかがわしい遊びに金を使うこともない。 それでも、貯蓄は緩徐に減っている。 キチンと計算してはいないが、二年間で教科書等に 100 万円ほど使っているからである。 だいたい給与の手取りの 15-20 % 程度を投入しており、二年前に述べたことを実行しているわけである。 おかげで、北陸医大病理学教室の私の机に置かれている個人所有の書籍数は、教授には及ばぬかもしれぬが、同室のベテラン病理医には負けぬ。
農協関連の病院では、研修医の給与が非常に高く、月に 50 万円を超えることも珍しくないらしい。 このことを、ある看護師に教えたところ「敢えていいますけど、研修医の分際で、それですか?」と言っていた。 その看護師氏の言う通りで、異常な給与である。 そういう病院に勤めている研修医諸氏の本棚は、さぞ充実していることだろう。
「先輩医師とキャリアを語る会」での、某医師の発言が気になった。 「教えられ上手になるためには」として、「一生懸命、やることだ」と述べたのである。 すなわち、一生懸命にやっている者に対しては上の者も詳しく教えてくれるが、そうでない者に対しては、教え方もぞんざいになる、ということである。 教える側の立場からすれば「気に入った学生や研修医に対しては丁寧に教えるが、そうでない者に対しては粗雑に扱う。」と言っているに等しい。 これについて、そりゃそうだろう、と納得する者は多いかもしれぬ。 実際、北陸医大 (仮) の医学科において、あるいは研修医教育においては、そういう風潮があるように思われる。 しかし、本当に、それで良いのか。
患者を診る時、マニュアルに従って画一的な診察や治療を行うのは藪医者である。 まともな医師であれば、個々の患者背景を考慮して、それぞれの事情に合わせた診療を行う。 同様に、教育においても、個々の学生や研修医の背景を鑑みて、個別の対応をするのが当然である。
重要なのは、一生懸命にやらない学生や、熱意の乏しい研修医をみた時に、「こいつは、やる気がないな」と判断して切り捨てるのではなく、 「なぜ、この者は意欲が乏しいのだろうか」と考えることではないか。
私の専門分野である病理学についていえば、「病理に興味があります」などという学生や研修医は極めて稀である。 しかし、それは、これまでの病理学の修め方、教え方に問題があったからではないのか。 ひとたび病理学の深淵を覗き込んだ時、そこに興味を抱かず、関心を持たず、情熱の炎を燃やさぬ者がいるとは、私には思われない。 病理学に興味を持たぬ学生がいたならば、それは、病理学の講義・実習を担当した者の教え方が悪かったのであって、その学生自身の責任ではない。
名大にせよ北陸医大にせよ、学生や研修医を指導する際に「わからないことがあれば、何でも訊け」と言って済ませる者は多い。 無責任である。 初心者であれば、自分が何を理解していないのかわからず、何を訊けば良いのかもわからないことは、稀ではない。 さらに、「何でも訊け」と言っている指導医が、実際には、訊きやすい雰囲気を作っていないこともある。 これでは、教育とはいえない。
大学というのは、自ら学ぶ場である。 学生や研修医の自主性が重要なのは、いうまでもない。 しかし、それは、教える側が学生や研修医を放置して良い、という意味ではないのである。 そのあたりをはきちがえては、ならぬ。
過日、北陸医大 (仮) では医学科の 5 年生を対象として「先輩医師とキャリアを語る会」が開催された。 これは、初期臨床研修や専攻医研修の説明、および若手医師の経験談を通して、将来について考える機会を提供する催しである。 むろん、病院側としては、北陸医大、あるいは県内の病院で初期臨床研修を受ける者を増やしたい、という思惑もあるだろう。 基本的には、北陸医大の研修・教育体制の良い点を強調するような論調であった。
北陸医大の教育体制は、確かに、悪くない。 診療科にもよるであろうが、私の経験した範囲では、「研修医の仕事」として課される任務は比較的少なかった。 そのため、自分の判断で、自分の好きなように勉強する時間を存分に確保することができ、たいへん充実した研修生活を送ることができた。 これは、東京の某有名私立病院で初期研修を受けた名大時代の同級生の某君が 「課される仕事が非常に多く、ゆっくり勉強する暇がない。研修医になってから、教科書など一度も開いたことがない。 マニュアル本などに従って診療をこなすので精一杯である。」などと言っていたのとは対照的である。
さらにいえば、私は、どの診療科においても研修の初めに「病理医になります」と宣言していたためか、指導医の皆様から多大な配慮をいただいた。 通常、研修医には事務作業に類するような、俗に「雑用」と呼ばれる、あまり医学的ではない仕事が与えられることが多い。 これには、医師免許が必要ではなく、本来なら医師がやらなくても良いのだが、慣習的に医師が行っている、というような作業が多く含まれる。 それを研修医にやらせるのは、面倒だから押しつけている、ということではない。 いずれ、やらねばならないのだから、今のうちに、やり方を覚えさせてやろう、という指導医の配慮なのである。 実際、病理医になる私は、そういう「雑用」を覚える必要はないのだから、指導医の多くは、敢えて私にやらせようとはしなかった。
以上のことからわかるように、時間があれば怠けてしまう、つい遊んでしまう、という者は別にして、 自分の判断で勉強できる者にとっては、北陸医大の初期臨床研修は天国のような環境といえよう。
だが私は、「語る会」の後の懇親会の場において個人的に話をした複数の学生に対し、県外に出るよう勧めた。 確かに北陸医大の研修環境は優れているが、しかし、長年にわたり一カ所に留まり続けるということ自体が、良くない。 北陸医大で 6 年間の学生生活を送ったのならば、初期研修は、別の場所、遠く離れた場所で受けるべきである。 たとえば専門医資格を取った頃になっても、それでも北陸の地が懐しく思われるのであれば、それから帰ってくれば良いのである。
学生生活を送ったこの地で、医師としての活動を始めるならば、安楽で、働きやすいかもしれぬ。 しかし、それは自身の能力を研くという観点において、はたして、有益だろうか。
井蛙になることを、恐れるべきである。
医学分野で AI というと Autopsy Imaging を連想されるかもしれぬ。 これは、死後に CT などを撮影して診断に役立てるものである。 むろん、CT で得られる情報は限られており、正確な診断や病態把握には程遠いので、「解剖の代わり」と考えるべきではない。
本日の話題は、そちらの AI ではなく、Artificial Intelligence の方の AI である。 近頃、この AI という語を無思慮に用いる者が多く、定義は曖昧にされ、コンピューター技術を全て AI と呼ぶような風潮まである。 たとえば本日付の朝日新聞の記事をみても、 単にコンピューターで顧客数のデータを処理しているだけのシステムを AI と呼んでいる。 人工知能、あるいは AI という語の定義は曖昧であるものの、こうした、知性を使わない情報処理技術を AI と呼ぶのは、不適切であるように思われる。
情報処理分野で近年盛り上がっているのは、パターン処理技術である。 たとえば囲碁においては、私が中学・高校の頃は、 「『読み』については人間はコンピューターに及ばないが、『感覚』の部分において人間が圧倒的に強く、まだまだコンピューターは人間に及ばない。」などと言われていた。 ところが近年はパターン処理技術の発展により、その「感覚」の部分においてさえ人間を超えつつある、あるいは既に凌駕した。
いくらコンピューター技術が発達しても、人間がいらなくなることはない。 コンピューターを管理し、使役する役割が必要だからである。 その意味において、世間一般においては、人間がコンピューターに駆逐されることは心配しなくてもよかろう。 しかし、医師にとっては、別である。
医師の中にも、コンピューターを使う役割、責任を負う役割は必要だから、という理由で、自分達がコンピューターに駆逐される恐れはないと主張する者がいる。 笑止である。 ただコンピューターを管理するだけの仕事で、年収 1000 万円以上が保証されると思っているのだろうか。 コンピューターを監督するだけの仕事なら、医師ではなく技師で良く、給与も医師の半分以下で済む。
こうした的外れな発言が出るのは、医師の多くがコンピューターに疎いからであろう。 Windows だの Mac だのの使い方には習熟していても、コンピューターの技術的なことは、ほとんど知らぬ。 それゆえに、コンピューターで何ができ、何ができないのか、区別できないのである。
本当に知性的な作業のできる、知能を有する存在としての AI は、未だ実現していない。 コンピューターにできるのは、過去の経験からパターン認識して予想を立てることだけである。 それを理解していれば、コンピューターに職を逐われないためにどうすれば良いか、自明であろう。
そういう勉強の仕方を、諸君は、しているだろうか。
少し間があいた。 今日も、帰りの最終バスの時刻が迫っているので、簡単に書ける内容を記すに留める。
以前にも何度か書いたが、北陸医大 (仮) には、卑屈な人が多い。 理由は知らぬが、学生も卑屈な者が多いようであり、我々が日本、あるいは世界の医学や医療を牽引するのだ、というようなことを公言する者は、滅多にいない。 遺憾ながら、そういう点において、我が大学は名古屋大学などの後塵を拝しているのが現状である。
現状では、某業界団体の策謀が奏効しているせいか、医師の労働環境は、すこぶる良好である。 医師免許さえあれば、職にあぶれる心配は皆無であり、だいたい日本中のどこにいっても、厚待遇の仕事が山ほど転がっている。 もっとも、世間知らずの医者は「仕事がキツい割に給料は安い」などと言っているが、それは妄言であるので、耳を貸す必要はない。
売り手市場なのである。 医師免許を取得し臨床医になろうとする者は、まず初期臨床研修を受けなければならないが、これは全国どこの研修病院に行っても構わない。 自大学や、いわゆる関連病院に限定する必要はない。 私も、名古屋大学を卒業し、縁もゆかりもない北陸医大に来た。 ところが北陸医大の学生と話をすると、大抵、県内の病院か、あるいは他県出身者であれば地元に戻るか、ぐらいの選択肢しか考えていない者が多い。 京都大学に行こうとか、東京の有名病院で研修を受けるとか、あるいは北海道に行ってみるとか、そういうことは、あまり考えないらしい。 これは学生だけでなく、初期研修医も同様であって、研修終了後に他大学に移ることを考えている者は、稀なようである。
よく話してみると、中には、地元でも北陸でもない他県に移ることを考える者もいないわけではないらしい。 ところが、そういう者も、「○○先生のツテで……」というようなことを言う。 要するに、コネがなければ怖くて行けない、というのである。
なぜ、そんなことを思うのか。 なぜ、実力で勝負しようとしないのか。 いつから、諸君は、そのような卑屈な心を抱くようになったのか。
医学科に入ってから医師免許を取得するまで、学問に向かう姿勢に問題があるのではないか。 名古屋大学では「ガイドラインは使うものではない。作るものだ。」というようなことが公然と言われている。 学問に向かう者は、すべからく、そのような精神を有するべきである。 そういう基本的な部分の教育が、我が北陸医大には、欠けているのではないか。
私は、放射線物理学の元専門家である。 その立場から申し上げるが、放射線医療の分野で慣用的に用いられることがある用語の中に、どうにも容認しかねる語がある。
「放射能量」が、それである。 どうやら核医学、たとえば FDG-PET などで用いる放射性薬剤について、その「放射能」を意味する語として「放射能量」と表現する者が少なくないらしいのである。 しかし物理学的には「放射能量」などという語は、存在しない。 「放射能」という語の意味は、しばしば「放射線を出す能力」などと説明されるために、素人は理解できず、誤用につながっているのではないか。 むろん、この「放射線を出す能力」という表現は曖昧であり、科学的ではなく、不適切である。
物理学的には、「放射能」という語は、次のように定義される。
ある物体の内部で、単位時間あたりに起こる放射性改変の回数を、その物体の「放射能」と呼ぶ。
「能力」ではないのである。 「単位時間あたりの回数」なのだから、単位は、たとえば「s-1」であって、これは「Bq」と同義である。
一部の者が使う「放射能量」という量の単位をみると、通常「Bq」が使われている。 つまり、これは「放射能」のことなのだと思われる。 一体、なぜ「量」などという余分な文字をつけ加えるのか。理解できない。
ある時、某放射線科医に対し、「この『量』は余計であって、『放射能』とするべきではありませんかね。」と言ってみたことがある。 その放射線科医には、私が言わんとしていることが、よく伝わらなかったようで「まぁ、『放射能量』で良いんじゃないか。」などという返事が返ってきた。
よくよく考えてみると、医学科の課程では、通常、放射線物理学をまともに修めない。 医師になってからも、そういう基礎的な内容を学ぶ機会は、あまりない。 放射線科医になろうという人であっても、診断や治療に直結する内容は学ぶかもしれないが、その基礎たる放射線物理学までキチンと修める人は多くないかもしれぬ。
通常、放射線を取り扱う場合、放射線障害防止法の定めに基づいて、毎年、数時間におよぶ放射線業務従事者に対する教育訓練が行われる。 しかし医師などの場合、なぜか、その教育訓練は省略されているのが現状のようである。理由は知らぬ。 そのため、放射線について全く無知な者が X 線などの放射線を扱っている、という恐るべき状態にある。 非密封線源を扱っている管理区域に出入りする際にも、汚染検査を省略する風潮が、多くの病院であるのではないか。
これらの慣習が、いかなる法規に基づいているのか、私は知らぬ。
糖原病 I 型において、なぜ、腎尿細管上皮にグリコーゲンが蓄積するのか。
自然に考えれば、次のような過程が推定される。 まず、原尿中に瀘過されたグルコースは尿細管から再吸収される。 これは、まず尿細管上皮に取り込まれ、次いで間質を経て血管内へと移行するのであろう。 尿細管上皮には、多少なりともヘキソキナーゼが発現しており、グルコースをグルコース 6-リン酸へと変換する。 正常であれば、グルコース 6-リン酸は適宜グルコースに変換されて間質へと放出されるのだが、糖原病 I 型の患者では、それが起こらない。 結果として、徐々にグルコース 6-リン酸が尿細管上皮内に蓄積し、それがグリコーゲンに変換されて蓄えられるのである。
この仮説の最大の問題は、尿細管上皮細胞のグリコーゲン合成能は生理的なものなのか、それとも病的なものなのか、という点である。 グリコーゲン代謝のレビューである BBA Clin. 5, 85-100 (2016). は、次のように述べている。
Glycogen is predominantly stored in liver and skeletal muscle. It has been identified in other human tissues such as brain, heart, kidney, adipose tissue, and erythrocytes, but its function in these tissues is mostly unknown.
グリコーゲンは、主として肝臓および骨格筋に貯蔵されている。 ヒトの場合、他にも脳、心臓、腎臓、脂肪組織、および赤血球内にも存在することが知られているが、それらの機能はほとんど不明である。
残念ながら、この記述には参考文献が付されていないので、腎臓にもグリコーゲンが存在するという記載が病的なものなのか生理的なのかは、よくわからない。
糖尿病患者の尿細管にグリコーゲンが蓄積することは、歴史的によく知られてきた。いわゆる glycogen nephrosis である。 これは高血糖状態が持続することによって生じると考えられており、インスリン投与などによって血糖がコントロールされていれば、生じにくいようである。
ラットに糖尿病を誘発し、グリコーゲンが尿細管のどの部位に蓄積するかを詳細に調べたのが P. Holck らである (Diabetes 42, 891-900 (1993).)。 Holck らによると、グリコーゲンはヘンレの係蹄の太い上行脚を主体に蓄積するが、太い下行脚などにも蓄積する一方、近位尿細管や細い上行脚には異常蓄積はみられなかった。
私が読んだ限りで理解できなかったのは、近位尿細管などに「異常な蓄積」はなかったとしても「正常な蓄積」はあったのかどうか、という点である。 たとえば N. Engl. J. Med. 231, 865-868 (1925). には 「glycogen nephrosis のうち、ヘンレの係蹄で認められたもののみを糖尿病によるものと判断する」というような記載があり、 その他の部位には生理的なグリコーゲン蓄積があるかのように読める。
結局のところ、光学顕微鏡で認識できるほどに明瞭な顆粒を作るかどうかはともかく、多少のグリコーゲン合成能は、ほとんど全ての細胞が有していると考えて良いのだろうか。
糖原病 glycogen storage disease というのは、遺伝性の障害によって、異常な量または形態のグリコーゲンが蓄積する疾患の総称である。 むろん、原因となる遺伝子異常は多様であり、それに基づいて型分類されている。 頻度の高いのは I 型であって、これはグルコース 6-リン酸ホスファターゼの機能障害によるものである。 この酵素は、名称から想像される通り、グルコース 6-リン酸を加水分解により脱リン酸化し、グルコースを生成するものである。 この酵素の生理学的意義については、ここで説明する余裕がないので、生化学の教科書を参照されたい。 『シンプル生化学』のような初等的な教科書にも、一通りのことは記載されているはずである。
糖原病 I 型の臨床的な表現型としては、肝や筋だけでなく、腎にもグリコーゲンの蓄積がみられる、ということは 朝倉書店『内科学』第 11 版などの臨床的な参考書にも記載されている。 問題は、なぜ腎にグリコーゲンが蓄積されるのか、ということである。 腎病理学の教科書である Jannette JC et al., Heptinstall's Pathology of the Kidney, 7th Ed. (Wolters Kluwer; 2015). は、 尿細管にグリコーゲンを豊富に含む細胞がみられる、とのみ述べており、機序はおろか、それが尿細管のどの部位なのかすら言及していない。
この記載の根拠として Heptinstall が引用しているのは Pediatr. Nephrol. 19, 676-678 (2004). である。 これは糖原病 I 型の症例報告であって、尿細管上皮は、グリコーゲンを多量に含んでいることの他、 TGF-β を高発現しており、これが間質の繊維化、ひいては腎障害につながっているのではないか、と述べている。 これについて、著者らは次のように述べている。三箇所の下線は私が付したものであり、その意味は後述する。
Futile cycles within glycolysis, glycogen synthesis, and glycogenolysis occur, depleting high-energy phosphate. Many of the intracellular processes of the renal tubules are adenosine trinucleotide phosphate dependent and are consequently impaired.
(糖原病 I 型では) 解糖系、グリコーゲン合成、グリコーゲン分解のサイクルに異常が生じ、ATP が欠乏する。 腎尿細管の細胞内で起こる現象の多くは ATP 依存的であるから、結果として腎尿細管障害が起こる。
生化学や生理学を理解している人であれば、首をかしげるであろう。 糖原病 I 型で障害を来しているのはグルコース 6-リン酸ホスファターゼであるから、グリコーゲンの分解は問題なく行えるはずである。 従って、少なくともグリコーゲンの蓄積を来している尿細管上皮細胞の中には、グルコースはむしろ過剰に存在するはずであり、ATP が欠乏するとは考えにくい。 尿細管傷害を ATP 欠乏によるものとして説明するのは無理がある。 著者らは、一体、どうして、このような記述を行ったのか。
その理由は、この記載の根拠として著者らが挙げた参考文献である Pediatr. Nephrol. 9, 705-710 (1995). を読むと、わかる。 これは、糖原病 I 型においてみられる腎障害の様式を臨床的に調べた報告であり、著者の P. J. Lee らは、次のように述べている。
Futile cycles within glycolysis, glycogen synthesis and glycogenolysis occur depleting high-energy phosphate. Many of the intracellular processes of the renal tubule are adenosine trinucleotide phosphate dependent and consequently impaired.
おわかりか。先に紹介した Pediatr. Nephrol. の記載は、Lee らの記述に「,」と「are」を加えただけで、丸々コピーしたものなのである。 いくら参考文献として Lee らの報告を挙げているとはいえ、こういうやり方は、科学倫理に反するものではないか。 しかも、自分の観察結果とは矛盾する内容を丸コピーしたのだから、理解できない。 なお、この Pediatr. Nephrol. の報告は日本の某地方大学の小児科学教室によるものである。
結局、尿細管上皮の障害は、ATP 欠乏によるものではなく、むしろ細胞内に異常に多量のグリコーゲンが蓄積したことによると考えるのが自然であろう。
医師薄給説を唱える医師の少なくないことは、過去に何度も書いた。 私は、彼らが何を根拠に、そのような考えを持つに至ったのか、なかなか理解できなかった。 しかし北陸医大 (仮) に来て、一部の研修医や若手、そしてベテランの医師と給与問題について話すうちに、概ね把握できたように思うので、ここに記しておく。
彼らは、自分達の給与を、同等の「エリート群」と比較して「高くない」と述べているのである。 エリート群というのは、つまり高校時代に抜群に成績が良く、いわゆる名門大学に行って、その後も輝かしい出世街道を歩んでいる人々である。 外資系企業や大手商社などで激しい競争を勝ち抜いている人々に比べれば、確かに我々の給料は、それほど多いとはいえないであろう。
読者の中には、おや、と思った人も少なくないはずである。 高校時代に抜群の成績を誇り、京都大学理学部などに入り、大学院に進み、博士となったような人々は、紛れもなく学歴エリートである。 が、そういう人々は経済的には優遇されないのが現在の日本社会である。 彼らに比べれば、我々の給料は、抜群に高い。 そう考えると、エリート群の中で医師の給料は、割と高いのではないか、と思われる。
この点を医師薄給説の論者に対して述べてみたところ、次のような反応であった。 研究の道に進むような人は別だ。 彼らは、それは、厳しい世界だろう。 まぁ、現在のように厳しい社会、経済情勢においては、特に基礎研究などに回す金が少なくなるのは、仕方あるまい。
何も、わかっていない。 厳しい社会情勢、経済状況だからこそ、基礎科学に投資しなければならないのである。 日本の例でいえば、かつて戦争中から戦後にかけて、国に物資も人材も欠乏する状況において、どう考えても戦争にも国民生活にも役立たない「層電対説」などの研究を遂行した 前川教授のような人々がいたからこそ、戦後日本に科学技術が再興し、今日に至る発展がある。 目先の利益を求め、高齢者を死なせない技術にばかり資源を投入する社会に、未来のあろうはずがない。
話を戻す。 医師を、外資系で働く企業戦士と比較して給料の多寡を論じるのも、的外れである。 彼らは、学生時代から、稼ぐための技を研き、他者との差別化を図り、そして今なお研鑽を続け戦い抜いている人々である。 それに対し我々医師は、高校時代には学業成績のエリートであったかもしれないが、大学入学後は、敷かれたレールの上を漫然と走ってきたに過ぎない。 18 歳を過ぎてからの研鑽について、彼我に雲泥の差がある。 それにもかかわらず、我々は企業戦士に比肩するほどの給料を貰っているのだから、医師の給料は高すぎるといえよう。
ひょっとすると、これは高校時代の環境が影響しているかもしれない。 我が母校は違うが、一部の「進学校」では、成績優秀な層の医学部志向が強いと聞く。 さらに世の中には、稼いだ金の量で人の優劣を規定しようとする勢力があるらしい。全く、馬鹿げたことである。 しかし、そういう環境で育った場合、医学科に進む、つまり医師になるということは、優秀であることの証左であって、高い給料をもらって当然だ、という論理になるのかもしれぬ。
名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、学生に対し、自大学で、あるいは、いわゆる関連病院で、初期臨床研修を受けることを勧める医師は少なくない。 が、私は、自大学で初期研修を受けることの利点が、全く理解できない。
名古屋大学も北陸医大も、いずれも、良い大学ではある。 が、国内で最高の環境である、とは言い難いし、欠点も少なくない。 そういう環境に閉じ籠もるのではなく、広い外の世界に出て、幅広い視野を鍛えた方が良いのではないか。 たとえば、実は名古屋大学の医療水準はなかなか高いのだが、これは、名古屋大学の中にいては気づくことが難しい。 外に出て初めて気づくことは、少なくないのである。
北陸医大の人々が学生に対し、北陸医大に残ることを勧める際に、しばしば理由として挙げるのは次のようなものである。 学生として 6 年間過ごし、研修医として 2 年を過ごせば、当然、そこで働いている医師等の知り合いが増える。 すると、臨床上の問題などで悩んだ際に、公式なコンサルト以外に相談したり議論したりしやすくなる。これは大きな利点である、というのである。 似たような意見は名古屋大学時代にも聞いたことがあり、それについては 4 年前に書いた。
これは、一見、もっともらしい意見である。 知り合いが多ければ、医学上の議論もしやすく、診療においても連携が取りやすくなりそうな気がする。 しかし冷静に考えれば、その発想は、おかしい。
名古屋大学や北陸医大では、よそから来た医師は、土着の医師と連携が取りにくく、公式のルート以外での相談もやりにくい、ということなのか。 もし、そうであるならば、そのこと自体が問題なのであって、名古屋大学や北陸医大の風土には重大な欠陥があると言わざるを得ない。
北陸医大にも、他大学などから、一年程度の期間限定で働きに来ている医師は少なくない。 そういう人々は、どのように感じているのか。 その本音の部分は、聞いたことがないので、知らぬ。
実際、自大学に残ることが、その人の医師としての修練に有益だと考えている教員は、ほとんどいないと思われる。 たとえば私は昨年度、某教授に対し「もっと、外に出ることを推奨すべきではないか」と進言したことがある。 すると、教授は次のように述べた。
「それは、まぁ、君、わかるだろう?」
要するに、北陸医大としては、診療を支える人員が欲しい。 若い医師にとっては、地元でヌクヌクと生きるのは安楽である。 そういう利害の一致があるに過ぎず、それが教育として適切かどうかは考慮されていない。
昨日の記事では、優生保護法による強制不妊手術と医療保護入院を同列に並べ、攻撃した。 このうち医療保護入院の法的問題については以前にも書いた。 医療保護入院の制度を廃止すべき、という私の主張には、同調する人は少ないのではないかと思う。 しかし、それは、「あなたは統合失調症だ、妄想にとらわれている」と診断され強制入院させられる恐怖を、よく理解していないからではないか。
研修医同期の某君は、私が少し一般的ではないことを言うと、「どうやら妄想があるようだな。統合失調症かもしれぬ。」などと不謹慎な冗談を言う。 私は「妄想ではない、事実である。」と反論するが、別の研修医の某君も面白がって「いや、事実に反する。妄想だ。」などと便乗する。 私が何を述べようと、いかなる証拠をみせようと、彼らはニヤニヤしながら「いや、君の考えは間違っている。」と述べ、私の意見を認めない。 また、「仮に妄想であったとしても、社会生活に問題はないのだから精神疾患ではない、統合失調症ではない。」と言っても、 彼らは「いや、我々は迷惑しているのだ。君は病気なのだ。」などと言い、さらには「精神科に入院した方が良いのではないか。」と言い出すのである。
これが、精神疾患に対する医療保護入院である。 私は本当は全く正常であるし、どう考えも彼らの発言は冗談である (と、私は確信している) のだが、周囲が勝手に私を病気だと認定し、無理矢理、病院に連れ込むのである。
このあたりまで読むと、私と実際に会ったことのない読者諸氏は不安になるだろう。 「この人は、本当に精神病なのではないか。医者を自称しているが、嘘なのではないか。」といった具合である。
かつて日本には、優生保護法という法律があった。これは悪法であった、という点について異論のある人は少ないであろう。 これは、非科学的な優生思想を基礎とする法律であって、その不合理な部分を削除して新たに制定されたのが、現行の母体保護法である。 この優生保護法では、精神障害者に対し、本人の同意がなくても不妊手術を施行することなどを認めていた。 また、法は術式について卵管結紮などに限定していたにもかかわらず、実際には卵巣摘出などが不法に行われていたらしい。 この法律を根拠として強制的に不妊手術を受けさせられた女性が、国に対し損害賠償を求める訴訟を起こした、 と朝日新聞などが報じている。 この問題について朝日は複数の記事を掲載しているが、基本的には、この強制手術は重大な人権侵害であった、という主張を軸としている。 私は、報道機関は公正な事実の伝達に徹するべきであって、特定の政治的、社会的主張を前面に出すべきではなく、偏向の著しい朝日の姿勢は不適切であると考える。
無論、この不妊手術は人権侵害であり、違憲であり、放置されざるべき問題である。 しかし法医学的見地からは、これは、朝日が主張するよりも、もう少し複雑な問題である。
まず第一に、精神疾患に遺伝的素因があることは、疫学的に知られている。 だから、優生保護法は全く科学的根拠なしに強制手術を許していたわけではない、という点は認めなければならない。
次に、優生思想についてである。 昭和 23 年に制定された優生保護法の第 1 条は 「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する (中略) ことを目的とする。」としている。 すなわち、精神障害者は「不良な子孫」であって、その出生は予防されるべきである、というのがこの法律の基本理念である。
この優生思想自体を批判し、優生思想に基づく不妊手術や人工妊娠中絶を批判する人は少なくないであろう。 しかし、その考え方は、現在の日本社会においては、広く受け入れられてはいない。 「優生思想」という表現は避けられているが、そうした考え方は、むしろ広く認められているのである。 たとえば高齢出産の場合に、染色体異常を懸念し、出生前診断を行う人は少なくないし、是非はともかく、その心情は多くの人が理解するであろう。 もちろん、これは不法な堕胎と表裏一体であるが、それは別の問題である。 また、癌がほぼ必発する Li Fraumeni 症候群や家族性大腸ポリポーシスの患者などの場合、 着床前診断によって、疾患が子に遺伝することを防ぐ、という対応は現実に行われている。 これらは、紛れもなく優生思想であるが、特に後者のような着床前診断については、批判する人は多くないであろう。 従って、優生思想そのものを攻撃の的とすることは、的を外している。
では、本人の意思に反して不妊手術を行ったことは、どうか。 これが違憲で不法な措置であることは確かであるが、だからダメだ、と単純には言えないところに難しさがある。 以前に書いたように、精神保健福祉法は、明確な憲法上の根拠なしに、 本人の意思に反した強制入院である医療保護入院を認めている。 これは、他者を害する恐れのある者を強制入院させる措置入院とは異なり、専ら本人のためを思って入院させるものである。 しかし、本人は入院を拒否しているのを無理矢理に入院させるのだから、身体の自由の侵害であって、理屈としては違憲である。 すなわち、人権侵害だ、というだけの理由で優生保護法による強制手術を批判するのであれば、 現在行われている医療保護入院も、同様に批判されるべきである。
私自身は、優生思想そのものを否定しようとは思わない。 Li Fraumeni 症候群の患者には、それが子に遺伝することを防ぐために必要な科学的措置を受ける権利が認められるべきである。 しかし優生保護法は、人権侵害であるという点において違憲であり、認められないと考える。 同様に、現在の精神保健福祉法も違憲であって、医療保護入院の制度は廃止されるべきである。
諸君は、いかがお考えか。
昨日の記事の続きである。 もっと病理解剖すべきだ、などと言うと、特に若い臨床医などは、遺族は解剖されたくないと思っていることが多い、などと述べて抵抗する。 が、それは、説明の仕方が悪いのである。 「解剖すれば死因が詳しくわかる」というような説明であれば、それで死者が蘇えるわけではない以上、もう体を傷つけたくない、解剖は結構だ、と反応するのは当然である。 しかし病理解剖は、その個人の死因を究明することだけのために行うわけでない。 その患者で何が起こったのかを詳らかにすることで医学の発展をもたらし、未来の患者を助ける、という目的がある。 患者や遺族に対しては、この点をしっかりと説明しなければならぬ。
解剖によって、医学は発展し、未来の患者を助けることができる。 それをしっかりと説明したならば、「お世話になった先生方が、そうおっしゃるのなら」と解剖を承諾してくれる患者や遺族は、少なくないと聞く。 そういう姿勢で患者と遺族に接し、そういう期待に応えられるだけの病理解剖を実施することが、医師の責任である。
私自身のことでいえば、私が死亡した後は、若い病理医か研修医に病理解剖してもらいたいと思っている。 ベテラン病理医に切られるのでは、つまらない。ぜひ学生も見学に加わってほしい。 できれば、どこかの大学で病理学教授として在任中に死亡し、その大学で解剖されるのが望ましい。 病理学教授の最終講義、というわけである。 実に愉快ではないか。
この件については過去に断片的には書いてきたが、まとめて書いたことはないように思う。
病理解剖というのは、死亡した患者を解剖することであり、その人の体の中で何が起こっていたのかを明らかにする行為であって、執刀するのは病理医である。 これを行うには本人または遺族の同意が必要であり、その点が司法解剖とは異なる。 従って、患者が死亡すると、主治医は病理解剖の承諾を遺族から得ようと試みるのだが、我が北陸医大 (仮) の場合、病理解剖実施率は低い。
この解剖実施率の低さは、一つには、臨床医の病理解剖に対する意欲の低さに起因する。 臨床経過について、よくわからない点がある、と主治医が思っている場合には、遺族に対し、解剖を承諾してもらえるよう、積極的に説得を行うことが多い。 一方、主治医が特に疑問を抱いていない場合、自然な経過による死亡であると考えている場合には、 「もし希望されるなら解剖しますが、どうしますか」というような態度で遺族に説明することがあるらしい。 その場合、遺族が解剖を希望しないのは自然なことである。 カルテをみても「承諾を遺族から得られなかった」ではなく「遺族は解剖を希望されなかった」というような表現がなされていることが多い。 しかし本来、遺族の「希望」を問うのではなく、遺族の「承諾」を得られるように試みるべきなのである。
無論、病理医側にも問題はある。臨床医や遺族の要請に応えられるだけの水準で病理解剖を実施できているだろうか。 また、中には、病理解剖を依頼した臨床医に対し「何のために解剖するのか」というようなことを尊大に述べ、臨床医の意欲をくじく病理医もいるらしい。 言語道断である。
病理解剖に、理由は、いらない。 患者が死亡したから解剖する、で十分なのである。 臨床経過に不明な点があるかどうかなど、解剖をするかどうかには無関係である。 そのあたりを理解していない臨床医と病理医が非常に多い、というのが日本の医療の現状であろう。
死に至る患者の体内において何が起こっているのか、本当に理解して診療している医師など、いない。 解剖をしても何も得ることがなかった、などということは、あり得ないのである。 もし、不幸な転帰をたどった患者から解剖を通じて教えてもらうことが一つもないとすれば、それは診療にあたり思慮が不足していたということであって、 真摯な態度で患者と向かい合っていなかった証左である。 あるいは、解剖した病理医の頭脳と腕が悪かったのである。
病理医の、解剖に対する意識の低さは、極めて重篤である。 私は次の 4 月から北陸医大の病理部に所属することになるが、それにさきがけ、来月からは研修医の身分で病理部で研修を受ける。 それに際し、病理解剖の手引き書を入手しておこうとして、愕然とした。
病理解剖を論じた日本語の成書が、存在しないのである。 一応、金芳堂から、清水道生『徹底攻略! 病理解剖カラー図解』や齋尾征直『"わからん" が "わかる" へ 病理解剖』という書籍は出版されているが、 これらはタイトルから容易に想像されるように、アンチョコ本の類であって、成書とは呼べぬ。 また、「病理と臨床」誌の臨時増刊号として 2012 年に「病理解剖マニュアル」というものが刊行されたらしいが、 これは雑誌であって、増刷される性質のものではないから、当然、既に絶版となっている。
キチンとした成書を探すと、舶来物に頼らざるを得ない。 病理診断学の分野では有名な Elsevier `Diagnostic Pathology' シリーズには `Hospitai Autopsy' という書もあるが、 このシリーズは、よくできたアンチョコ本であって、教科書と呼べるような立派な代物ではない。 すると、しっかりした文献としては Connolly AJ et al., Autopsy Pathology, 3rd Ed. (Elsevier; 2016). ぐらいしか、みあたらない。 これは、副題に `A Manual and Atlas' と書かれてはいるが、マニュアルというよりも教科書と呼んで差し支えない書物である。
なぜ、これほどまでに、教科書が少ないのか。 教育に対する病理医のセンセイ方の姿勢には、いささか問題があるのではないか。
トラネキサム酸というのは、抗プラスミン薬である。 いわゆる止血薬として用いられることがあるが、むろん、不適切に使用すれば血栓形成を促すことになり、生命を脅かす。
問題は、トラネキサム酸の抗アレルギー薬、あるいは抗炎症薬としての用法である。 医師の中には、口内炎などに対しトラネキサム酸を投与する者がいるらしいのである。 しかし、少なくとも私が勉強した範囲では、トラネキサム酸のそのような用法を正当化する医学的根拠は存在しない。
日本においては、トラネキサム酸の添付文書に抗アレルギー薬あるいは抗炎症薬としての用法が記載されており、 「効能又は効果」の欄に「口内炎」などが挙げられているのは事実である。 しかし、炎症に対し抗プラスミン薬を投与する、という行為に疑問を抱かない医者がいるとすれば、その者は薬理学を修めなかったのであろう。 遺憾なことに北陸医大 (仮) でも、以前、若い医師が研修医に対し自慢気に「トラネキサム酸は血管を収縮させる薬であって、口内炎などにも効果がある」 と語っているのをみたことがある。
1960 年代後半から 1970 年代にかけての日本では、プラスミンと炎症の関係に注目した一部の医学者が、これを積極的に研究した。 ただし、これらの研究には抗プラスミン薬を販売していた第一製薬が深く関わっていたようである。 現代でも製薬会社と医学関係者の間には不適切な関係が多いが、当時は、今とは比較にならないほど親密な関係にあったであろう。 従って、これらの研究の成果を素直に信じることは危険である。 それを念頭に置いた上で、プラスミンについての研究成果を簡潔に紹介すると、以下のような具合である。
岡山大学の山田らは、プラスミンが血管透過性を亢進させるらしいことを電子顕微鏡的に確認した (プラスミン研究会報告集 14, 364-366 (1974).)。 この血管透過性の亢進は、どうやらアレルギーやアナフィラキシー、あるいは炎症のメディエーターの活性化を促すようである (アレルギー 15, 755-763 (1966).)。 従って、抗プラスミン薬には、臨床的有用性はともかく、抗アレルギー作用や抗炎症作用もあることが予想される。 これをラットで確認したのが岡山大学の山崎らである (日本薬理学雑誌 63, 560-571 (1967).)。 ただし、トラネキサム酸とアミノカプロン酸では、抗線溶作用は前者の方がかなり強いのに、抗アレルギー作用では大きな差はみられなかった。 プラスミンの線溶活性と炎症誘発作用とは、機序が異なるのであろう。
典型的には、炎症があれば凝固系は亢進している。 そこで炎症に伴う浮腫を改善する目的で抗プラスミン薬を投与すると、線溶系が抑制されるのだから、血栓形成がますます亢進することになる。 また、抗アレルギー薬として使うのであれば、トラネキサム酸よりもアミノカプロン酸の方が望ましいのは上述の通りである。 これらを理解した上で、彼らは、抗アレルギー薬または抗炎症薬としてトラネキサム酸を投与しているのだろうか。
なお、トラネキサム酸製剤のインタビューフォームによれば、米国や英国ではトラネキサム酸は専ら抗プラスミン薬として扱われ、 抗アレルギー薬あるいは抗炎症薬としては通常、用いられないらしい。 薬理学的に考えて、当然である。
薬の作用機序を考えずに、添付文書やマニュアル本だけを読んで処方する医者は、藪医者との謗りを免れ得ぬ。
医学書院『標準精神医学』第 6 版は、自我同一性という語を次のように説明している。
自我同一性 (Erikson) とは、自己が一貫し, 連続しているという主体的な感覚である. それは、人からも自分が同様に認知されているという感覚と, 自分が社会のなかで是認される道を歩んでいるという自己評価に支えられている. それは, 幼児期や学童期の重要な人物への同一化とは異なり, それまでの同一化をもとにしながら, 現実社会と想像のなかでのさまざまな役割を試すことを通して新たに獲得される感覚である. これは, 自分のあり方や生き方を問い直し, 自分らしさや自分の生き方を見つけることということもできる.
子どもは, 将来, 何でもできる, 何にでもなれるというような幻想を大なり小なり抱いている. しかし, 学童期の終わり頃より, Piaget のいうように, 子どもの現実検討能力は高まり, 学業面でも運動面でもその他の面でも, 自身の限界がわかりはじめる. そして, 自分が特別な存在ではなく, 皆と変わらない平凡な自分であることに気づく. それは, ある意味での喪失であり, 挫折である. そこで, 改めて「自分とは何者か」が問われてくるのである.
この自我同一性の障害が、現代社会の若者にとって、しばしば問題になる。 自分は特別な存在ではない、となったとき、社会における自分の役割、立場を見失い、困惑するのである。
名古屋大学時代のことを思い返しても、北陸医大 (仮) の学生をみても、程度の差はあれども、そうした自我同一性の障害に悩む学生は多い。 それまで「成績優秀」とされてきた学生も、医学部に入ると、それほど突出した存在ではなくなることが稀ではない。 本当に医学部に来て良かったのか、本当に医者として人生を歩んで行くのか、と悩むのである。 その後、自分なりの回答をみつけて歩み始める者もいるし、研修医になってからも悩み続ける者もいるであろう。 そういった若者達の悩みに対し、周囲の大人からの支援は貧弱なのが現状ではないか。 良くいえば「学生の自主性に任せている」ということなのかもしれないが、その実態は、教育の放棄なのではないか。
一方、これは自慢であるが、昨日の記事に書いたように、私の場合、自我同一性の形成に若干の異常を抱えている。 障害ではない、という点に注意していただきたい。 「障害ではない」という言葉の意味は、それによって本人および周囲の社会生活に問題は来していない、ということである。
私自身は、私が世界一の病理学者だと信じているが、そう思っているのは世界中でただ一人、私のみであろう。 周囲の人は、私を「少しはデキる病理医の卵」ぐらいにみているかもしれないが、世界一、とまでは思っているまい。 すなわち、私には、『標準精神医学』がいう「人からも自分が同様に認知されているという感覚」もないが、 「自分が特別な存在ではなく、皆と変わらない平凡な自分」という認識もない。 いわば、子供のような心を、 35 歳になっても持ち続けている、ということになる。
自分が世界一の病理医だと確信している、というのは、妄想と紙一重ではある。 しかし、妄想の三要件、つまり 1) 事実に反する; 2) 確信であって; 3) 訂正不能、のうち、2) と 3) は確かに満足しているが、1) を満たしているとは限らない。 ゆえに、これを妄想であるとは、いえない。
そのくらいの妄想スレスレの確信がなければ、前には進めない。科学は発展しないのである。
諸君は、高い志を、持っているか。 「志」という語は、「野心」と置き換えても良い。
野心というのは、出世欲、という意味ではない。 大事を成さんとする気概のことをいう。 有名になる必要はない。一人の医師として、市井の人々の健康を支える人生も良かろう。それは大切なことである。 しかし、そういう人生を送るにしても、志は胸に抱き続けるべきである。
北陸医大 (仮) に来て二年が経つが、この大学に対しては一つ、大きな不満がある。権威と呼ばれるものに対し、卑屈な人が多すぎるのである。 教科書の記述を批判し、ガイドラインをなじるような学生や研修医には、ほとんど出会わない。 正しい診療のやり方を教えてもらおう、指導医のやり方を学ぼう、という姿勢はあっても、自分が先頭を進もう、という気概は乏しいのである。
根本的な考え方の問題である。 私は、自分が世界一の病理医、世界一の病理学者であると信じている。 正確にいえば、経験の差を考慮して評価すれば世界一なのであって、「いずれ世界一になる」というのと同じ意味である。 これは、私のウヌボレが特に強いということではない。 京都大学あたりで教授をやっているような連中であれば、例外なく、私と同様に自分が世界一だと信じているはずである。
私が学生時代、同級生の某君から米国 Johns Hopkins University における病理医のあり方を聴いて勇気付けられたことは前に書いた。 Johns Hopkins の病理診断のあり方は、正しい。正しいのだが、実現が容易ではないため、日本では、ほとんど実践されていない。 しかし Johns Hopkins の連中が正しい病理診断を遂行しているなら、世界一の病理医である私は、それ以上に理想的な病理診断を行わなければ恥ずかしい。 そう考えると、「病理医の数が足りないから」「臨床医の理解が乏しいから」「雑用が多いから」などという言い訳は、できようはずがない。 そんなのは、世界一の病理医が口にする言葉ではない。
志というのは、そういうことである。
商品名は出さないことにするが、サリチルアミドやアセトアミノフェンなど 4 種類の薬物の合剤であって、総合感冒薬として市販されている薬剤がある。 要するに、いわゆる風邪薬である。 しかし、薬理学を修めた者にとっては常識であるが、風邪薬などという薬は、存在しない。
まず、インフルエンザの恐れがある場合には Reye 症候群を来す恐れがあるからサリチル酸系薬剤を投与するべきではない、と言われている。 ただしReye 症候群の病態をまともに認識している医者は少ないと思われる。 病態を無視して盲目的に「インフルエンザにはサリチル酸禁忌」などと唱える医者に対しては嫌悪感をおぼえるが、まぁ、とんでもなく間違ってはいない。
では、いわゆる「ふつうの風邪」に上述の合剤を処方するのは、どうか。 問題は、処方の目的は何か、ということである。 他のウェブサイトなどでも解説されているので詳細は述べないが、 この種の合剤には、風邪を治す効果はない。 むしろ、炎症を抑えることで、いわゆる風邪の原因であるウイルス感染自体は遷延させるものと考えられる。 あくまで炎症に伴う諸症状をごまかすだけの薬なのである。
症状を抑えたいのだから、処方するのは問題ないじゃないか、と述べる医者もいるだろう。 そういう者に問いたい。 薬物動態を理解しているのか。 本当にそれが適切な処方だと思っているのか。
我々は、多種類の薬剤を併用した場合に、それらがどのような相互作用を及ぼすのかという点について無知である。 それ故に、複数種類の薬を併用する場合、何が起こるか分からないという前提で、我々は慎重に経過を観察する。 それを、上述の合剤のように、必然性もなしに 4 種類もの薬剤を一度に投与するというのは、薬理学を修めた者のすることではない。 製薬会社が公表している添付文書やインタビューフォームにも、合剤としての薬物動態は不明であると明記されているのである。 だから、副作用の出現頻度を抑えるために、個々の薬物は少なめに設定されている。
まともな内科医は、こうした薬剤は処方しない。 医学的判断として、この薬の処方が適切であるような状況が存在しないからである。
先日、ひさびさに極めて不愉快なニュースをみたので、医学とはあまり関係ないが、書いておこう。 朝日新聞の報道によれば、 昨年 12 月 31 日に日本テレビが放送した「絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス 24 時」という番組で、 ダウンタウンというお笑いコンビの浜田という男が、顔を黒く塗って黒人に扮して出演したという。 これについて批判も出たが、そのダウンタウンの松本という男は 「色々言いたいことはあるんですけども、面倒くさいので『浜田が悪い』でいい」とコメントしたという。 また日本テレビは朝日新聞の取材に対し「差別する意図は一切ありません」とコメントしたが、謝罪はしなかったらしい。
私は、この番組をみていないし、浜田という男も、松本という男も知らないので、朝日の報道のみに基づいて書く。
まず、この「演出」が不当な人種差別であるという点については疑いの余地がない。 それがわからない者は、心の底から人種差別主義者である。 この「演出」をみて不快に思わなかった者も、差別主義者の素質があるから、注意した方が良いだろう。
人種差別主義者は、いつも「差別するつもりはなかった」と弁明するが、そもそも、差別しようと思って差別する者は、いない。 皆、無意識に、そのつもりなしに、差別しているのである。 俳優として、黒人役になりきって演技するならともかく、中途半端な扮装で、おもしろおかしく笑いをとろうとするのは、差別である。 それを「差別ではない」などという連中は、かつての南アフリカのような人種隔離だけが差別だと思っているのか。
精神の未熟な小学生であれば、そうした差別行為をしても叱られるぐらいで済まされるかもしれぬ。 しかし、大人が公共の場でやるのは、重大な過ちである。 もし日本社会がそれを容認するならば、日本社会は、国際社会から容認されぬ。
そして松本という男のコメントは最低である。 自分達の演出が正当であると考えるなら、その旨を弁明するべきであるし、本当に悪かったと思っているなら、謝罪しなければならない。 それを「面倒くさいので」などと小学生のように拗ねることで批判をかわそうとしているのだから、悪質である。
そういう態度を取る以上、松本が言う通り、浜田と松本が全て悪い、ということになる。彼らは差別主義者である。 人種間の対立を煽り、分断を図っている、反社会的勢力である。 それを擁護し、同様に謝罪しない日本テレビも、人類社会に対し挑戦する差別主義勢力ということになる。
私は『論語』は好きではないが、かの書物には、次のように記載されている。
過ちて改めざる、これを過ちという。
医者という人種が、いかに遵法意識に乏しく、自分達が特別だと思っているか、という話である。
近年、ようやく日本でも、医師の不法な過重労働が問題視されるようになってきた。 1 月 18 日にも朝日新聞が、この問題を報道している。 なお、朝日新聞は政治的偏向が強く、あまり信用できないのだが、新聞各社の中では新時代の報道のあり方を模索する姿勢が明確であり、私は嫌いではない。
朝日の記事でも紹介されているが、医者の中には「医師が労働者だというのは違和感がある」というような意見が少なくない。 ここでいう「医師」とは、むろん、開業医ではなく、勤務医のことである。 開業医は労働者ではなく経営者なのだから、好きなだけ、自分の裁量で時間外労働すれば良い。誰も、とがめない。
勤務医が労働者ではない、などという発想は、一体、どこから出てくるのか。 労働基準法を読んだことがないのであろう。 社会人として非常識である。
「患者が待っているのだから」というのも、関係ない。 我々は、あくまで病院職員として、病院の業務として、労働として、診療しているのである。 業務として行う以上、労働基準法の範囲内で行われなければならない。 個人の自由の範疇ではない。
もちろん、単なる一人の医師として、病院組織とは無関係に「待っている患者」のために診療するのは自由である。 ただし、それなら医療法の定めに従って開業しなければならない。 開業医として、病院と業務委託の契約をして、診療しなければならない。
医者の中には、法令よりも個人の価値観や主観の方が優先されると勘違いしている者が少なくないが、そんなことはない。 諸君がある種の正義感、義務感を抱いたとしても、それよりも日本国の法令が優先される。 それが日本社会のルールであることは小学生でも知っているが、ただ医者だけは、それを知らないようである。
こういうことを書くと、イライラした臨床医諸君は、「現実に存在する患者を、どうしろと言うのだ」と言うであろう。
一介の医師の立場で書けば、知ったことではない、の一言に尽きる。 正規の業務時間内に診療しきれないのだから、受診をお断わりするしかない。 それが問題だというなら、何か合法的な方策を考えるのが病院長の責任なのであって、現場の医師には何の責任もない。 間違っても、個々の医師の過重労働で補ってはならぬ。
朝日新聞の記事でも誤解に基づく記載がなされているが、医師の応召義務は、この場合は関係ない。 応召義務というのは、医師法第 19 条が定めているものであり、具体的には次のようなものである。
診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。
すなわち、正当な事由がある場合には、応召義務は生じない。 問題は、何が「正当な事由」にあたるか、ということである。 インターネット上には無責任な言論が多いが、厚生労働省は、平たくいえば「社会通念に照らして判断すべし」との見解を示している。 こちらのページから「いわゆる医師の応召義務に関する規定等」の PDF を確認されたい。
緊急を要する患者がいれば、病院云々とは関係なしに、一人の医師として対応するのは当然である。 しかし、病院が正当な報酬を払っていない状況において、不法な過重労働をしてまで病院の勤務医として労働することを応召義務が求めているとは、社会通念上、考えられない。
そういう意味では、応召義務というのは、医師個人というよりも、本来、医療機関に課されているものなのである。 つまり、時間外労働のことでいえば、応召義務を満足するために病院は時間外手当をキチンと払って医師を確保しなければならない。 応召義務があるから個々の医師が頑張らなければならない、ということには、ならないのである。
「腫瘍」という語を、どう定義するか、という問題である。 臨床医の中には「定義」と「診断基準」を混同している者が少なくない。 多くの臨床ガイドラインでは、診断基準のことを「定義」と書いている例が稀ではないため混乱に拍車がかかっているが、両者は明確に区別しなければならない。 臨床医は、しばしば「○○のガイドラインで定義が変わった」などと表現するが、それは大抵の場合、定義ではなく診断基準である。 医学用語や疾患概念の定義は、そうそう変わるものではない。 が、我々は今、診断基準ではなく、「腫瘍」という語の定義を変えるべきではないか、という問題を議論している。
「腫瘍」というのは疾患名ではない。広範な疾患群、ともいえなくはないが、むしろ病態を表す語であると考えた方がよかろう。 歴史的に、腫瘤性病変は「腫瘍」と「過形成」に大別されてきた。 腫瘍とは、その病変が本質的に細胞増殖性なのであって、その病変そのものに対する治療介入なしには増殖を止めることができないものをいう。 ただし、増殖の速さは問題にしていないので、無治療経過観察でも患者の生活に、生涯にわたり、何らの影響も及ぼさない腫瘍も存在する。 たとえば前立腺や甲状腺などの latent 癌が、これにあたる。 これらは浸潤性腫瘍であるため、現行定義では悪性腫瘍ということになるが、 むしろ良性に分類されるべきではないか、という件は過去に書いた。 一方で過形成というのは、「反応性」と同義であって、病変の外部からの刺激に対する応答として細胞の増殖を来しているものをいう。 原理上、外部からの刺激を遮断すれば増殖を抑制できるのだから、病変そのものに対する治療介入は必須ではない。 それゆえに、腫瘍と過形成は、区別する必要があったのである。
なお、厳密には、細胞増殖を伴わない腫瘤性病変、というものもあり得る。これは腫瘍でも過形成でもない、いわば「第三の腫瘤」ということになるが、現実には多くない。 細胞が膠原繊維などの間質成分を過剰に形成して腫瘤を成す病変は、ヒトの場合、まず例外なく細胞の増殖を伴っているので、腫瘍または過形成にあたる。 本当に細胞増殖を伴わない腫瘤性病変というのは、血腫や浮腫ぐらいであろう。
さて、以上のような事情を考えれば、腫瘍と過形成は必ずしも明確に区分できるものではない、と考える人もいるだろう。 つまり、昨日述べた Inflammatory Fibroid Polyp (IFP) のように、遺伝子異常を背景として、外部からの刺激により過剰な細胞増殖が惹起される病変は、 腫瘍と過形成の境界にあたる、とする立場である。 細胞増殖を促す遺伝子異常がある、という意味では増殖の原因の一部は病変内部にあり、腫瘍のようにみえるが、 外部からの刺激がなければ実際の増殖は起こらない、という意味では過形成である、と考えられなくはない。
とはいえ、「腫瘍と過形成は明確に区別できないのだ、無理に分けなくても良いのだ」と安易に逃げるのは、科学的な態度ではない。 疾患の分類は、天与のものではなく、病態を理解し、診断と治療に役立てるために、人間が恣意的に作り出したものである。 自明な区別がないからといって、区分しなくて良いということにはならない。
現代では、いかなる疾患も、程度の差こそあれ、環境要因と遺伝子要因の複合によって生じると考えられている。 必ず、少しは、遺伝子要因が関与しているのである。 従って、「原因の一部は遺伝子異常にある」という理由で「腫瘍である」と考えるのは、全ての細胞増殖性疾患は腫瘍である、と考えるのと同じことである。 それでは、病態の理解にも、診断や治療にも、役に立たない。
腫瘍と過形成を隔てるのは、「外部刺激に依存する細胞増殖であるか否か」という点に尽きる。 胃癌や肺癌は、その形成には喫煙などの環境要因が関与するが、ひとたび成立すれば、環境要因に依存せずに細胞増殖を来す。これが腫瘍である。 一方、Inflammatory Fibroid Polyp は、その形成に遺伝子異常が関与しているとはいえ、外部からの刺激なしには過剰な細胞増殖を来さない。これは、腫瘍ではない。
すなわち、遺伝子変異が背景にあるから腫瘍だ、という論理は、誤りである。
Inflammatory Fibroid Polyp (IFP) と呼ばれる疾患がある。日本語で何と呼ぶのかは知らぬ。 一応、医学書院『医学大辞典 第 2 版』では「炎症性線維性ポリープ」という訳を当てている。 朝倉書店『内科学 第 11 版』にも英語の名称は記載されているので、よく勉強した学生なら知っているかもしれぬ。
これは、胃幽門腺近傍に好発する隆起性病変、つまりポリープであって、組織学的には繊維芽細胞様の紡錘形細胞に富み、 繊細な膠原繊維を主体とする繊維形成を呈するが上皮細胞の異型は乏しい疾患である。 小腸や大腸にも生じることがあるが、食道では稀である。 遺伝子学的には、PDGFRA (Platelet-Derived Growth Factor Receptor Alpha) の機能亢進変異を伴っていることが多い。
問題は、この病変は腫瘍であるか否か、ということである。 よく勉強した学生であれば、pdgfra と聞くと、GastroIntestinal Stromal Tumour (GIST) や、真性多血症でも高頻度に変異がみられる遺伝子としてピンとくるかもしれぬ。 その pdgfra 遺伝子の変異が、Inflammatory Fibroid Polyp においても同様にみられる、というのであれば、 このポリープも GIST や真性多血症と同様の腫瘍性病変なのではないか、と考えるのは自然な発想である。
病理診断学の聖典 Goldblum JR et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th Ed. (Elsevier; 2018). の態度は曖昧である。 「胃」の章ではポリープの節で紹介しており、非腫瘍性病変として扱い、 pdgfra の変異が高頻度にみられることから腫瘍性病変の可能性がある、と述べるに留めている。 一方で「小腸」の章では、間質腫瘍の節に含められており、暗に良性腫瘍として扱われている。 これに対し消化器病学の名著 Podolsky DK et al., Yamada's Textbook of Gastroenterology, 6th Ed. (Wiley Blackwell; 2016). の態度は明確で、「腫瘍である」と断言している。 ただし、そのように考える根拠は明記されていない。
Inflammatory Fibroid Polyp は、歴史的には、自然史や組織学的所見などから、非腫瘍性の、反応性病変であろうと考えられてきた。 しかし H. U. Schildhaus らは pdgfra の変異が高頻度にみられることを指摘し、腫瘍性病変である、と主張した (J. Pathol. 216, 176-182 (2008).)。 なお、この Schildhaus らの報告では tumour という語が「腫瘍」ではなく「腫瘤」というような意味で使われている。 確かに tumour の原義は「腫脹」あるいは「腫瘤」であるが、この用法は現代では一般的ではない。 さて、この pdgfra の変異は後に J. Lasota ら (Modern Pathol. 22, 1049-1056 (2009).) や S. Huss ら (Histopathol. 61, 59-68 (2012).) によっても確認され、改めて Inflammatory Fibroid Polyp は腫瘍性病変である、と主張された。
注意すべきは、細胞増殖性の遺伝子変異があるからといって、それは腫瘍であるという証拠にはならない、という点である。 腫瘍とは、歴史的には、細胞が外部からの刺激に依存せずに自律性に増殖する病変のことをいう。 その意味では、遺伝子変異が背景に存在したとしても、細胞の反応性の増殖が過剰に起こっているだけの病変は、腫瘍ではなく過形成である。
ただし、そうした古典的な定義に無批判に従うべきではない。 学術の進展に伴い、従来の定義が不合理であるとなれば、我々は、それを変えることを躊躇すべきではないからである。 従って、遺伝子変異を背景とする細胞増殖性疾患を腫瘍という、と定義することの是非も検討せねばならぬ。
結論を先に述べると、この「遺伝子変異の有無によって腫瘍と非腫瘍とを区別する」という考えは、不適切である。 なぜか、ということを書こうと思ったのだが、いささか長くなってきたので、続きは明日にしよう。
昨日の話の続きである。
誤用の頻度が高く、しかも臨床的に重大なのは「インフォームドコンセント」や「ムントテラピー」である。 インフォームドコンセントは、過去にも何度か書いた通り、「病状説明」の意味に誤用されることが多い。 また、しばしば「IC」と略称される。 一方「ムントテラピー」は、現代では原義で使われることはなく、専ら「病状説明」の意味に誤用されている。
いうまでもなく、「インフォームドコンセント」とは「患者が、病状や治療方針について理解・納得した上で同意する」という意味である。 だから、インフォームドコンセントするのは患者であって、医者ではない。 それなのに、「患者に対し病状や治療方針を説明すること」を「IC する」と表現する者が多い。 「インフォームドコンセント」の意味も間違っているし、主語が患者ではなく医者になっているのも、おかしい。
こういうことを書くと、「どちらでも良い」「揚げ足をとるな」などと言う者がいるが、的外れである。 そもそもインフォームドコンセントの概念を正しく理解していれば、医者の分際で「インフォームドコンセントする」などと誤用するはずがないのである。 誤用するという事実は、患者のインフォームドコンセントを尊重する意思を欠いていることの証左である。
原義におけるインフォームドコンセントは、医療行為の違法性を阻却するために、緊急避難にあたる場合を除いては必須の要件であると考えられている。 それなのに、現実には、インフォームドコンセントは、ほとんど行われていない。 医者が一方的に患者に説明し、「わかりました」と言わせ、同意書にサインさせることを「IC」と呼んでいるのである。 「インフォームドコンセントの記録」のような文書をみると、患者や同席者からは特に質問もなかった、というような記載がなされていることも多い。 素人である患者が、自分の身体についての小難しい医療の話を聞かされて、何の疑問も質問も湧かないはずがない。 質問がなかった、ということは、「全て理解した」という意味ではなく、単に「医者に遠慮して訊けなかった」というだけのことである。 だから米国の内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (McGrawHill; 2015). などには、「患者に質問させることが重要である」と記載されている。
医者に遠慮して質問できない患者であっても、自分の身体のことであれば、本当は不安を感じていることが多い。 だから「実は主治医の先生には、あまり詳しいことを訊けなくて」などと、看護師や研修医、あるいは学生などに言う患者は少なくないのである。 また、家族や周囲の人に相談し、不安を述べることもある。 すると家族は「何とかしてあげたい」と頑張り、強い態度で医療従事者に不満や主張を述べることもある。 そこで想像力の足りない医療従事者は、患者の心情を理解できず、「モンスターペイシエントだ」などと判断し、「不満があるなら別の病院に行ってください」と突き放す。 現実に、そういうことが起こっているのである。
中には「キチンと説明したのに、患者がよくわかっていないのだから、患者が悪い」などと開き直る者もいる。論外である。 説明したかどうかは関係なく、患者が理解したかどうかが問題なのである。 患者が理解しなかったのなら、理解できないような説明をした医者が悪い。 私も、指導医が患者に対し「説明」するのを横で聞いていて「こんな説明で、素人が理解できるわけがないじゃないか」と思ったことは、一度や二度ではない。
諸君は、かつて、患者の痛みがわかる、優しい医者になりたいと思ったことであろう。 それが、なぜ、こうなってしまったのか。
私は病理医の卵であり、患者の主治医にはならない立場である。 そこで臨床の諸君は、「君は患者を診ないから、そういうことが言えるのだ」と述べて私の口を封じようとする。 しかし、患者を診ない私に、このようなことを指摘されている諸君は、はたして、それで臨床医だと胸を張って言えるのか。 知識を蓄え技術を磨いても、肝心の人間としての中身が涵養されていない。 そんな医師に診られたい患者が、いるとでも思っているのか。
そもそも、市中の開業医や小規模病院の中には、本当のインフォームドコンセントに基づく医療を行っている医師もいるのである。 私が地域医療研修の一貫として訪れた病院には「私は、どうなるのでしょうか」と述べた患者に対し、 「どうなるのか、ではなく、あなた自身は、どうしたいのか」と問い返す内科医がいた。
そういうことなのである。 患者の中には「先生に失礼があってはいけない」などと意味のわからないことを考え、「余計なことを言わないように」と萎縮して診察室に入る人が稀ではない。 それに対し「ああしろ、こうしろ、この薬を飲め」と医者が命じ、患者はよく理解しないままに従う、というのが、インフォームドコンセントを欠く医療の典型である。 しかし本当の臨床医療は、あなたは本当はどうしたいのか、それを聞き出すところから始まる。 我々は学生の頃、そのように教わったはずである。 それを実践せずに「不満があるなら、よそに行け」などと言うようでは、医師たる資質がない。
諸君こそ、患者を診ていないだけでなく、立派な態度で診療している地域の医師の姿もみていないではないか。
だいぶ間隔があいた。このあたりの事情については、後日、記載しようと思う。
さて、誤用が広まってしまったために本来の意味でも使いにくくなってしまった言葉、というのは少なくない。 たとえば「役不足」という言葉である。 本来、「あなたが、こんな地位についているとは、役不足ですね」といえば、相手を称えている表現である。 あなたは、もっと重責を担う立場にいるべきだ、というような意味だからである。 しかし「役不足」を「力不足」の意味に誤解している人は稀ではないようなので、とんでもなく失礼なことを言っていると誤解されかねない。
「性癖」という誤も、難しい。 白川静の『字通』によれば、「性」とは、生まれながらの本質、性質を言い、「癖」の原義は「消化不良」であって、転じて「くせ」の意味となった。 「性癖」という熟語は、従って「性質、くせ」ぐらいの意味なのであるが、時に「性的嗜好」の意味に誤解されることがあり、日常生活では使いにくい言葉となった。
また「精力絶倫」も、使いにくい。「精力」とは、『字通』によれば「根気」の意味であるが、 「精」の字が「精子」に通じるためか、「性的活動性」の意味で用いる者がいる。 また「絶倫」も、「なみはずれ」が原義であるが、誤の響きが「不倫」に似ているせいか、「淫邪」というような意味に誤解されることがある。 すなわち、「精力絶倫」は「根気があって特に優れている」という意味なのに、「性的活動性が高く、淫らである」というように解釈される恐れがある。
誤用が広まってしまい使いにくい言葉は、医学の世界においても同様に存在する。 「熱感」という語は、「体が熱いと感じる、患者自身が自覚する症状」を表す語であるが、 なぜか「触診上、体の全部または一部が熱い」という身体診察所見の意味で使う医者が少なくない。 冷静に考えれば、触診所見ならば「熱い感じがする」のではなく「実際に熱い」のであって、「熱感」という熟語になるはずがない。 この所見を表わす正しい医学用語は「発熱」である。
「発熱」と聞くと、素人は全身性の発熱だけを連想するであろうが、医学用語としては、「局所の発熱」という概念もある。 医学を修めた者であれば、「炎症の古典的三徴」として「腫脹」「発赤」「発熱」が教科書に記載されていることを知っているであろう。 この「発熱」というのは、全身の発熱を意味するのではなく、炎症が起こっている局所が熱くなる、という意味なのである。 なお、全身性の発熱のことを「熱発」と表現する医療従事者は少なくないが、これは俗語であって、正しい医学用語ではない。
「通じれば良い」「臨床的には、それで通じる」などと言う者もいるが、話にならぬ。 現実に、通じていないからである。 言葉を適切に使っていないにもかかわらず通じた気分になっているのは、諸君が、なんとなく、曖昧にしか物事を考えておらず、キチンとした議論をしていないからである。
検査所見の数値が「上がる」という表現の問題などについては、過去に何度か書いた。 たとえば肝逸脱酵素の「数値が上がる」という事実は、肝細胞傷害を示唆する所見ではあるが、実際に肝細胞傷害があるかどうかは別の話である。 検査誤差や、他の要因の寄与を考えなければならないからである。 だから「数値が上がっている」という事実を認めたら、次に生理学的、病理学的な考察をしなければならない。 しかし実際には、その過程を省略し、「肝酵素高値だから○○をする」というような言い方をし、実際にカルテにそのように記載する医者が少なくない。
論理が甘いのである。 物事を考えていないから、言葉遣いが緩くなるのである。
「反対するなら対案を出せ」というようなことを言う人は、少なくない。 詳しくは調べていないが、この種の言葉は、ドイツのアドルフだとか、英国の「鉄の女」だとかいった連中が、剛腕で敵対勢力を捻じ伏せるために好んだという。 冷静に考えれば、皆が納得できるような政策を立案するのが政治家や首相の仕事なのだから、この論理は、おかしい。 もしサッチャーが「反対するなら対案を出せ」と言ったなら、我々は「まともな案を出せないなら辞職しろ、私が代わりにやってやる」とでも言えば良い。
医療の世界でも同様である。 医師の過重労働について「でも、患者がいるのだから、診なければならない」「医者が足りないのだから、仕方ない」などと述べて、 不法な時間外労働を正当化しようとする勢力が存在する。 それに対して「不法なものは、やめなければならない」と指摘すれと、彼らは「それで、どうやって臨床をまわせというのか」と反論するのである。
それを考えるのは、我々の仕事ではない。 それを何とかするために、病院長をはじめとした病院執行部が存在するのである。 だから我々は、対案を出す必要はなく、不法なものを不法であると指摘するだけで十分なのである。
とはいえ、対案を出せるなら、それに越したことはないだろう。それを述べる。
まず、私が病院長であったら、どうするか。 厚生労働省に対し、医師を増員するよう働きかけたとしても、実現するには時間がかかるであろう。 そこで私は、まず患者の数を減らすことを考える。 入院患者については、入院期間を短縮させる。 本当にどうしても入院しなければならない患者以外は、速やかに退院させる。 たとえば「グルココルチコイドを使っていて感染のリスクがあるから」などという理由での入院は、認めない。 感染してから入院させれば良い。 それでは患者の健康に害が及ぶ、などと主張する者がもしいるならば、そう考える根拠を示していただきたい。 また退院後の患者は、基本的には地域の開業医を受診してもらう。私の病院の外来に通院することは認めない。 どうしても通院したいという患者には、「紹介状なし受診」として、特別料金を払ってもらう。 入院する予定がない患者が外来に定期通院することも、もちろん、認めない。
この方針に従わない医師や診療科に対しては、病院経営を損ねるものとして、懲戒処分も辞さぬ構えで望む必要がある。 そうすれば、業務を大幅に減らすことができ、過重労働などしなくても臨床はまわるはずである。
なお、以上の内容は、実は私が特別に考案したわけではない。 厚生労働省が推奨している内容そのままなのである。 私は、お上の方針を忠実に遂行する、と言っているだけである。
次に、私が厚生労働省であったなら、何はともあれ医師の数を大幅に増員する。 医師が職にあぶれるぐらいに、増員する。 医師国家試験の受験資格を医学科卒業者に限定せず、広く「修士課程修了程度」ぐらいに設定してしまうと良いだろう。 医師国家試験の内容も、もう少しまともな形に変更した方が良いであろうが、それは急がなくて良かろう。
この案に対して、少なからぬ医者は「医師の質が下がる」と言うであろうが、そんなことはない。 どうせ、現状、医者の多くは大した学識もなく、ろくに頭も使わない仕事しかしていないのである。 医学科で学んだことなど、ほとんど覚えていないであろう。 むしろ工学部を出て大学院を経験した連中などの方が、ずっと良い医者になるのではないか。 そうやって医者の数が増えれば、医者が余るようになり、安い給料でたくさんの医者を雇えるようになる。 過重労働の問題は、一気に解決する。
ここでいう「諸君」とは、大学院経験者で、挫折して医学転向を考えている同志諸君のことである。 おそらく、諸君は多少なりとも自信を喪い、いささか卑屈な精神状態となって、医学への逃亡を考えているであろう。 私も、7 年前は、そういう状態であった。 夢破れ、何とか医学に活路を見出そうとしていたものの、本当に自分の能力や経験が役に立つのか、半信半疑であった。
時は流れ、医師となって、臨床医学・医療の世界を垣間みた。 名古屋に移った 6 年前には教授陣の後姿も捉えることができなかったが、今は違う。 未だ医学のトップランナーには及ばぬが、その背中は、はっきりと視界に入っている。
7 年前の自分にメッセージを送ることはできないが、今、かつての私と同様に悩み迷っている諸君には、伝えたいことがある。
医学の世界では、人材が欠乏している。 当然であろう。高校時代に試験の点数が高かっただけの連中が大挙して医者になっているのが現状なのである。 「医学科に入学した」というだけの理由で、実は大した仕事もしていないのに、自分が高い給料と世間からの尊崇を受けて当然だと思い込んでいるのである。 現在の医療の問題点を探し、何がまずいのか、いかにすれば解決できるか、と考えるのではなく、できない言い訳と自己正当化をまず考える者が多いのである。
エリートコースしか知らず、最初から医師免許に守られ安寧の中で生きてきた連中に、どうして学問の茨の道を歩むことができよう。 どうして社会を改革し、人類と科学の未来を築くことができよう。
諸君は、敗れたとはいえ、一度は戦った勇者である。 自分の足で立ち、自身の意志と信念にのみ依って歩く人々である。 その事実は、諸君が思っている以上に、重大である。
むろん、この道には、辛いことも多く待ち構えている。 周囲には、諸君の経歴と能力を軽んじる者も多い。 しかし、それと同数、あるいは、それ以上に、密かに諸君に期待を寄せる人々も多いのである。 私は、名古屋大学時代にも北陸医大 (仮) に来てからも、少なからぬ若い医師から侮られてきたが、 一方で教授陣をはじめとした多くの重鎮医師からは、暖かい励ましと期待の声を頂戴してきた。
これからの医学を拓くために、諸君のような人物を、我々は必要としている。
第一生命保険が、子供を対象とした大人になったらなりたいものアンケートの結果を発表した。 これは、同社が毎年行っている恒例行事であって、作文コンクールと同時に行ったアンケートである。 当然、かなりのバイアスが入っているはずであって、日本の子供全体を代表するものではない点には注意が必要である。
将来なりたいものとして、男子は「学者・博士」が 1 位に上昇したという。 ただし、スポーツ選手については「野球選手」「サッカー選手」「水泳選手」などと種目別に集計しているのに対し、 「学者・博士」は人文科学と自然科学の区別もないのだから、これを「1 位」と表現するのは不公平である。 また、冷静に考えると「博士」というのは資格であって職業ではないから、他の選択肢と並列におくべきではなかろう。 とはいえ、男子の 8.8 % が「学者・博士」を選んだという事実は、学問に対する憧憬の存在を示すものであり、喜ばしい。
気になるのは女子の結果である。 「学者・博士」は 10 位以内に入っておらず、比率としては 2.5 % 未満であるらしい。 この男女差は、一体、何なのか。 これが生物学的な男女差によるものであるならば問題はないのだが、はたして、そうなのか。 科学的思考や自然への関心を育むような教育は男子に対して行われることが多く、女子に対する科学教育が遅れているためではないのか。
こうした暗黙のうちに設けられた男女差は、その後の教育にも大きく影響している。 文部科学省の学校基本調査によれば、 現在、高等教育を受ける人の割合では男女に大きな差はないが、女子は短期大学に進む者が比較的多い。 すなわち、四年制大学に限れば、女子の大学進学率は男子よりも、かなり低い。 また四年制大学の中でも、京都大学や東京大学など、いわゆる有名大学、特に理工系学部においては、かなりの男女差があるのが現状である。
上述のアンケート結果に話を戻す。医療分野についても、著明な男女差がみられる。 男子では「お医者さん」が 6.4 % であるのに対し、女子は「看護師さん」9.5 %, 「お医者さん」 6.6 %, 「薬剤師さん」 3.4 % となっている。 男子では「看護師」は上位に入っていない。 なぜ、看護師が、女子にこれほど人気なのか。
「病気の人を助けたい」というような漠然とした理由だけで医療職を選ぶなら、医師より看護師を選ぶことはないように思われる。 むろん、現実には、患者をより近くで支えたいと思うなら医師より看護師の方が適しているであろう。 従って、高校生ぐらいを対象としたアンケートなら、医師ではなく看護師になりたい、と考える女性が多かったとしても、おかしなことではない。 しかし、そういう具体的な理由で、小学生以下の女児が「お医者さん」よりも「看護師さん」を選んだと考えるのは無理がある。
何か、偏見があるのではないか。 「お医者さん」よりも「看護師さん」の方が、女の子らしい仕事であるかのような印象が作られているのではないか。
「男は男らしく」「女は女らしく」という考え自体は悪くないかもしれない。 しかし、何が男らしさなのか、何が女らしさなのか、という点については注意が必要である。 世の中には、外科医を男らしい仕事、看護師を女らしい仕事とみる者が一定数、いるのではないかと思われるが、極めて不適切である。
近年、若手医師の中に病理医志望者は増えつつあると思われる。 名古屋大学時代の私の同級生でも、最大で 7 人、ひょっとしたら 8 人、病理志望者がいる。 むろん、学生時代から優秀だった者ばかりであり、いずれ名古屋病理学黄金世代と呼ばれる人々である。
一方、他の臨床医学分野でも同様であろうが、臨床病理学においても、研究医の養成を推進することが急務とされている。 確かに病理医志望者は増えているものの、診断業務に特化した者が多く、病理学研究の大海原を往こうとする者は少ないと聞く。
月刊「病理と臨床」の今月号には、基礎病理学研究に従事する若者を育成する目的で、筑波大学などが行っている取り組みが紹介されていた。 似たような試みは、我が北陸医大 (仮) も含め、諸大学で試みられている。 個々の大学によって特徴はあるものの、概ね、病理診断医としての研鑽と並行して研究に従事し、キャリアを形成するための道筋を作ってやろう、 という制度であると私は理解している。
教授陣の苦労が忍ばれる。 たぶん、センセイ方は全てわかった上で、敢えて、そうした制度を作っているのであろう。 私がこれから書く内容は、センセイ方を批判しているのではなく、センセイ方が言いたくても言えないことを代弁するだけのものである。
本当は、「充実した教育システム」というような、既存の枠組の中に自ら入っていこうとする精神が、そもそも、違うのである。 科学というものは、学術研究というものは、誰も知らない、何もないところに、新たに何かを組み立てる作業である。 与えられたコースに乗って、提示されたシステムに入ろうとする時点で既に、研究者としての基本的な精神の自立が乏しいと言わざるを得ない。 とはいえ、この人材の窮乏を凌ぐために、なんとか人を呼び込むために、上述のようなキャリア形成支援制度を設けようとしているのが現状である。
対照的なのが文科や理科の研究者達である。 現状では、大学院博士課程を修了しても就職に有利にならないどころか、むしろ圧倒的に不利になる。中退は論外である。 それでも、学問が楽しいから、必要なことだからと、将来の安寧を放棄して、人類の未来と科学の発展のために学問の道に踏み込んだ人々が、彼らである。 むろん、死屍累々である。博士課程修了者の数に比して、就職先の数は圧倒的に少ないのである。 あぶれた人々は非正規雇用で何とか凌いでいるのであろうが、正確なことは誰も把握できていない。 そういう未来を知った上でなお、我が身を顧みずに、彼らは戦っている。
私も、その敗残兵の一人である。 敗れはしたが、まだ、死んではいない。
月刊「病理と臨床」というオタク向け雑誌がある。 今月号の特集は「免疫チェックポイント療法と病理」というものである。 題名から想像される通り、近年、日本でも流行しているニボルマブなどの、いわゆる免疫チェックポイント阻害薬に関係する記事である。 こうした薬剤は極めて高価である一方、どの程度の効果があるのかは、はっきりしない。 転移のある悪性腫瘍に対して長期生存をもたらした、とする非盲検の報告もあるが、信憑性が乏しいことは過去に書いた。 いまのところ、これらの薬剤は免疫組織化学的所見によって適応が決まる、とされているらしい。 たとえば、抗 PD-L1 抗体であるペムブロリズマブを使うには、PD-L1 を高発現していることを組織学的に確認せねばらなない、という具合である。 こうした、薬剤の適応を判断し、治療方針を決定するための診断を「コンパニオン診断」などと呼ぶ。 そうした状況をふまえて「病理と臨床」誌などは、病理診断に求められる役割が増している、というような論調の記事を多数、掲載している。
これに対し少なからぬ臨床医は、冷ややかな視線を送っているように思われる。 病理診断といっても、結局、臨床医からの求めに応じて、プロトコール通りの免疫染色を行い、陽性細胞を鑑別し数える作業である。 私は実務経験がないから大きな声では言いにくいが、素人目には、特に高度な学識や知性を要求される作業ではないように思われる。 いずれコンピューターに代替されるべき業務であろう。 また、特に医学的判断を要する作業ではないのだから、現状においても、病理医ではなく臨床検査技師が実施して良いのではないか。
そういった議論が、業界誌である「病理と臨床」に掲載されないのは、なぜか。 遺伝子診断などが普及するにつれ、古典的な組織学的診断の価値が相対的には低下しており、我々病理医の存在価値が問われる時代が到来していることに対し、 多くの病理医は薄々と危機感を抱いているであろう。 そこで「組織学的コンパニオン診断」と聞いて、「これこそ病理医の仕事だ」とばかりに安堵しているのではないか。 しかし、それは本当に、医者の仕事なのか。
特に今回の特集で気になったのは、皆が同じようなことを書いている、という点である。 免疫チェックポイント阻害薬は画期的だ、進行癌でも長期生存が期待できる、もはや標準治療の一部である、コンパニオン診断として組織学的検査が重要だ、 といった具合で、細かい技術的なことを別にすれば、異口同音に、同じことを多数の著者が書いているのである。 センセイ方は、本当に、ご自身の頭脳で考え抜いて、免疫チェックポイント阻害療法の有効性を心の底から信じて、そのように主張しているのだろうか。
たとえば免疫チェックポイント阻害薬の有効性を予想するバイオマーカーについて、弁別能と有意差の違いのような 統計の基本的なことを忘れてしまったかのような記載が少なくない。 また、不適切な暗黙の多重検定によって誇張された Kaplan-Meier 法のデータを無批判に引用した記事もあった。
臨床医が眼前の患者を助けたいあまりに前のめりになって、冷静な判断力を喪い、科学的思考を忘れてしまうのは理解できなくはない。 しかし病理医は、常に、沈着冷静でなければならぬ。
利権や期待を抜きにして、本当に冷静に科学的に評価した場合、いわゆる免疫チェックポイント阻害薬は、どこまで有効なのか。 北陸医大 (仮) の某外科系診療科で研修を受けていた際、ある指導医がポツリと漏らした言葉は印象的であった。
「オプジーボで本当に良好な経過をたどった患者など、みたことがない。」
私は、病理漫画「フラジャイル」を読むために、月刊アフタヌーン誌の電子版を購読している。むろん、「フラジャイル」の単行本も買っている。 以下、いわゆるネタバレを含む。
先月のアフタヌーン誌に掲載されたのは、病理医が誤診する話である。 「あからさまな悪性黒色腫」を母斑細胞性母斑と誤診した、という事例なので弁明の余地はないのだが、たいへん良かったのは、その病理医 (伍代) と岸とのやりとりである。 「人間のやることに絶対なんてない」と逃げる伍代に対し、 岸は次のように述べる。
「そりゃ あんたが病理診断をただの絵合わせゲームだと思ってるからです」
「見た目だけじゃ白黒つけられない診断なんていくらでもある だから病理医は言うんです」
「『なぜ そう思った』『これでは わからない』『確かめよう』『証拠を探そう』」
「臨床医と怒鳴りあいもする」
「そして最後に必ず病理医も臨床医も納得する診断に たどり着く」
「これが 10 割の診断です」
コンピューター技術の発展により、「絵合わせゲーム」においては人間が機械に負ける時代が、すぐそこまで迫って来ている。 形態学的診断に特化した病理医は、やがてコンピューターに駆逐され、職を失うであろう。 それが患者の利益であり、社会のためになるのだから、我々病理医は、そうした時代の流れに抵抗するべきではない。
ただし、そうしたコンピューターはパターン認識に基づいて「絵合わせ」をしているだけであって、何かを考えているわけではない。 知性的な活動は行っていないのだから、「人工知能」と呼ぶのは不適切であろう。 この意味において、本当に知能を有するコンピューター技術は、いまのところ存在しない。
すなわち我々は、未だコンピューターの及ばない、本当に知性的な、頭脳と知能を駆使した診断を行うべきである。 病態を理解するために病理組織学を勉強し研究する必要はあるが、 実際の診断における「絵合わせ」の部分は、将来的には、コンピューターと、それを扱う技師に任せるべきである。
組織診をコンピューターに任せるなら、病理医などいなくても、臨床医と技師だけで十分ではないか、と考える者も、いるかもしれない。 が、少なくとも現状において、それは不可能である。 今月 1 日の記事にも書いたように、本当に医学を修め、理解し、冷静に考えられる臨床医は稀だからである。
なお、内科や外科の領域においても、上述の議論と同じようなことがいえよう。 近い将来、多くの臨床医が、診断能力においてコンピューターに敗北する時代が来る。 典型的症例については、看護師と技師がコンピューターの指示に従って診療した方が、医師よりも優れた治療成績を挙げられるようになるだろう。 手術にしても、手技だけなら、コンピューターガイド下に技師が行う時代が来るであろう。 実際、少なからぬ外科医は手術手技以外の部分を重視し「切るだけの外科医など、いらなくなる」という旨の発言をしている。
コンピューターが間違えたら誰が責任を取るのか、などと抵抗する者もいるが、くだらない。 機器の製造ミスならメーカーの責任、管理ミスなら技師の責任、オーダーミスなら医師の責任で、誰のミスでもないなら、誰の責任でもない。 そんなのは、血液検査などを人間ではなく自動測定器で行うようになった時、既に議論が尽くされており、今さら蒸し返すようなものではない。 そもそも、医師が間違えた場合には誰も責任を問われずにウヤムヤになるのが現状なのだから、むしろ、機械化した方が責任が明確になって、よろしい。
昨日の記事に対し、ひょっとすると、意識の高い看護師の中には反発する人もいるかもしれない。 我々だってプロであり、責任感を持って職務を遂行しているのだから、看護師に責任がないとは心外だ、という具合である。
看護師が高度な専門職なのは事実であって、それ故に、給与も高い。 しかし、それは世間の標準と比較した場合であって、失礼ながら、臨床医からすれば看護師というのは低賃金労働である。 実際、臨床医は、看護師の概ね 2 倍から 3 倍の給与を得ているのである。 なぜ、それだけの賃金格差があるのか。
言うまでもなく、臨床医の賃金が高いのは、某業界団体が政治団体を組織し、多額の政治献金を行うことによって、自分達に有利な政策を誘導しているからである。 平たくいえば、贈賄によって「望ましい」医療政策を実現しているわけである。
医師の中には「高度な技能職なのだから高賃金は当然だ」というようなことを言う者もいるが、最先端の科学者や技術者が冷遇されている日本の現状をみれば、それは的外れである。
また「仕事がキツいことを思えば給料は安い」などと妄言を口にする医者もいるが、 むしろ夜勤を含む不規則勤務を遂行し、患者を傍で支え続ける看護師の方が、身体的にも精神的にもキツかろう。 さらにいえば、医師は自分の判断と裁量で動ける範囲が広いが、看護師は基本的には医師の指示に従って診療を補助する立場に過ぎず、裁量が乏しい点も精神的に厳しい。
私は大学院を中退した時、実は進路として看護師も考えたことがある。 過日、そのことをある看護師に言ったところ「血迷いましたね」と笑われた。 あなたに務まるわけがないでしょう、という意味である。私も、そう思う。 私なら臨床医にはなれるかもしれないが、看護師のようなキツい仕事が務まるはずがない。それどころか、看護実習の段階で、泣いて逃げ出すであろう。
結局、実態はともかく建前としては、医師の高給は、その責任に対する報酬なのである。 誤った輸血について、看護師にも責任がある、などと言うぐらいなら、医師は給与の半分を返還すべきである。
あまり他院の悪口は書きたくないが、医師としての自覚と責任を欠き、事故の責任の一部を看護師に転嫁するかのような表現に対しては、攻撃せざるを得ない。
朝日新聞や 読売新聞の報道によると、 某病院で、誤って血液型不適合輸血を行った後に患者が死亡した、という事故があったらしい。 ただし、病院や経営母体のウェブサイトには、私が探した限りでは、なぜか公式のプレスリリースがみあたらない。
朝日によると、患者は大動脈解離に伴う心停止の状態で救急搬送され、数日後に死亡したという。一度は心拍が再開したのであろう。 その際、患者の血液型は B 型であるのに、看護師が誤って A 型の血液製剤を医師に渡し、280 mL が輸血されたという。 これに対する病院の見解として、朝日は「同課は『異なる血液型の血を投与した際の副作用は出ておらず、死亡との因果関係はない』と説明している。」と記載しており、 読売は「異なる型の輸血が原因で赤血球が壊れる副作用はみられず、同病院は『ミスと死亡との因果関係はない』としている。」としている。
朝日の書き方は曖昧であるが、読売の表現を信じるならば、病院は「著明な溶血は起こらなかった」と主張していることになる。 ただし、心停止し、輸血も行っているような状況において、溶血が起こっていないことをどのようにして確認したのかは、よくわからない。
問題は、この事故についての病院側の見解である。朝日は「同課は『看護師の確認不足。再発防止を徹底する』と説明している。」と記載しているのに対し、 読売では「別の患者に使う輸血パックと取り違えたことに、看護師や麻酔科医が気づかなかったという。 同病院の植嶋敏郎事務部長は『再発防止のため血液型の照合を徹底する』と話した。」という表現になっており、食い違っている。 すなわち、朝日の記事を信じると、病院は「看護師が悪い」と言っていることになるが、読売の表現では「看護師と麻酔科医の両方が悪い」ということになる。 病院のプレスリリースがないので、実際のところ、どういう見解なのかは、よくわからない。
いずれにせよ、報道された通りなら、この病院の見解は、おかしい。この事故について、看護師に責任はない。
もし通常の病棟業務であれば、医師の指示に従って看護師が血液製剤を確認し、看護師が輸血を実施することはある。 その場合、複数人の看護師で血液型などが合っていることを確認し、電子カルテ端末などでコンピューター認証を行うのが普通である。 そうした本来の手順を遵守する限り、過誤によって ABO 式血液型の不適合輸血が行われることは、あり得ない。 少なくともコンピューター認証の段階で、エラーとなるからである。 それなのに、本来の手順を無視した結果として誤った輸血が行われたならば、むろん、看護師の責任である。 しかし本件は、そういう状況ではない。
手術室の中であれば、普通、輸液や輸血は麻酔科医が管理するのであって、「医師の指示に従って看護師が輸血する」という状況は考えにくい。 読売の報道から考えると、急いだ看護師が誤って違う血液製剤を持って来たのに、麻酔科医はキチンと確認せず、本来の手順も省略して輸血開始し、 しかも製剤を全て投与し終わるまで気づかなかった、ということになる。
看護師の職務は診療の補助であって、緊急避難にあたるような場合を除いては、薬剤の投与などを判断する権限はない。 権限がないのだから、責任もないのは当然である。 この場合であれば、「誤った製剤を持ってきた」という点において、看護師にも過失はあった。 しかし、時には看護師が間違えることもある、という前提で病院のシステムは動いているのであり、 それゆえに、面倒でも認証の手順をふんでから輸血することになっている。 それにもかかわらず正規の手順を省略したのも、血液型の確認を怠ったのも、最終的に投与することを決定したのも、全て、医師である。 誤投与については、あくまで医師の責任なのである。
それなのに「看護師の確認不足」だの「看護師や麻酔科医が気づかなかった」だのと、看護師にも責任があるかのように表現するのは言語道断である。
年が明けた。
臨床医療の基本は、患者の話を聴いて、診察して、検査して、診断し、それに基づいて治療を行い、患者の健康状態を改善することである。 厳密なことをいえば、予防医療の場合はだいぶ異なるし、本当は「治す医療」より「予防する医療」の方が重要である。 しかし予防医療は公衆衛生の色彩が強いように思うから、ここでは便宜上、「臨床医療」に含めないことにする。
大抵の学生や非専門家であれば、上述の内容に異論はなかろう。 ところが、中途半端に臨床をかじった学生や研修医、あるいは一部の医者などは、これを忘れてしまっているらしい。 患者の話は聴くし、診察も検査も行うが、なぜか診断せずに、治療を行うのである。 正確にいえば、極めて曖昧で漠然とした診断しか行わずに、なんとなく治療するのである。
たとえば血液検査でヘモグロビン濃度の低下をみれば、ほとんど全ての医者は貧血を疑うだろう。 普通の医学を修めた医師ならば、貧血の原因は何か、と考え、患者の病歴や検査所見から論理を組み立て、原因を特定する。 そして可能なら原因を取り除くし、それが不可能なら対処方法を患者と一緒に考え、実施する。
ところが実際の医療現場では、そのような手順が踏まれることは、むしろ少ないのではないか。 少なからぬ医者は、まず輸血が必要かどうかを考える。 次に、特に患者が若い女性であれば、まぁ鉄欠乏性貧血であろう、と決めつけ、ろくに検査もしないまま鉄の投与を行う医者は稀ではない。 もし消化管出血があるなら、そのせいだろう、と決めつけ、それ以外の原因が併存する可能性を考えない医者も少なくない。 検査結果に多少の不自然なところがあっても、気にしない。「まぁ、そういうこともあるだろう」と、強引に納得するのである。
その結果「出血による貧血のために MCV の著明な低下を来した患者」というような、現代の医学では理解不能な病態がカルテに記載されることになる。 おかしいではないか、なぜ MCV が小さいのか、などと指摘されても 「そういうこともある」「教科書通りにはならない」「患者の状態が悪くなったら、その時に考えれば良い」などと述べ、考えることを放棄する者は少なくない。 これは、学生や研修医だけでみられる現象ではない。 さすがに大学病院では比較的少ないのであろうが、全国的には、そういう不合理な診断が横行しているのが日本の医療の現状であろう。
確かに、生命は神秘的なものであって、人体においては、時に、現在の科学では説明できない現象が起こる。 しかし、それ以上に、あなた方の思い込み、勘違いによる誤診は、高頻度に起こっているのではないか。 「現代医学では説明できない検査値の異常」などというものは、あなた方が思っているほどの頻度では出現しないのである。
医者は、誤診しても痛くも痒くもない。苦しむのは患者であって、自分ではない。 そして、誤診を他人から指摘されることも滅多にないから、社会的立場が悪くなったり、プライドが傷つくことも、まずない。 検査結果の不自然な箇所について患者から説明を求められても、「そういうこともある」で押し切れば、素人である患者は、それ以上、何もいえない。 そういう杜撰で非道徳な診療を行う医者は極めて多く、しかも、それを改めようという気運もみられない。 こうした医療の現実を改めるには、まず医学教育から改善しなければならず、一朝一夕には成らぬ。 今、現に苦しんでいる患者の皆様には申し訳ないが、あと 20 年ないし 30 年の時を、いただきたい。
自分が誤診や見落しをしているのではないか、と常に恐れている医者は、名医の資質がある。
医学とは関係ない、コンピューターの話である。 私は、最近はコンピューター業界から離れているが、もともと、いわゆるパソコン (PC) オタクであった。
PC 本体を既製品ではなく、いわゆる自作するのは当然であるが、工学部時代には Linux From Scratch でシステムを組み、最大 5 台のサーバーを自宅で運用して遊んでいた。 狭義の linux というのは、フィンランドのコンピューターオタクである Linus が開発した Operating System であって、 厳密なコンピューター用語でいえば kernel 部分のみを指す。 Kernel というのは、コンピューターの動きの全体を司るソフトウェアであって、これ自体はユーザーからの入力を受け付ける機能や画面に絵や文字を表示する機能を持っていない。 そうしたユーザーインターフェースの部分は、shell と呼ばれる別のソフトウェアなどが担う。 こうした、実際にコンピューターとして使うために必要なソフトウェアと kernel とを組み合わせたものが Operating System である。 Kernel を指すときには linux と小文字で書き、linux を軸とした Operating System を指すときには Linux と大文字を使うことが多い。 Linux の Operating System に、便利なソフトウェアを組み合わせてパッケージ化したものを配布している団体や企業もあり、これらは Linux のディストリビューションと呼ばれる。 多くの Linux ユーザーは、何らかのディストリビューションを使っているだろう。 それに対し、本当に自分好みの、必要十分なシステムを作りたい、という人のために、全てのソフトウェアを自分でカスタマイズしてコンパイルし、 Operating System を組み立てる方法を指南しているプロジェクトが Linux From Scratch である。
要するに、Linux の Operating System を自分で作るのが Linux From Scratch なのであるが、 手間がかかり、メンテナンスも大変なので、極めて不便で実用的ではなく、趣味の代物である。 が、楽しいし、システムをよく理解できるようになるので、興味のある人は、ぜひ、やってみると良い。
Linux は、古くからある UNIX に似せたオープンソースの Operating System である。 UNIX というのは、Operating System の規格の一つであり、UNIX である旨の認証を受けた Operating System のみが UNIX を称することができる。 UNIX 準拠のオープンソースの Operating System には、Linux 以外にも、*BSD とか BSD 系とか呼ばれる NetBSD, FreeBSD, OpenBSD などがある。 なお、この *BSD の Operating System は、カーネルだけでなくシェルなども含めた Operating System として開発されている。 Linux や *BSD は、いずれも UNIX 認証を受けていないので厳密には UNIX ではないが、 UNIX に準拠して開発されているため、UNIX-like あるいは Unix などと呼ばれる。 なお、私は現在、主に NetBSD を使っている。 これは、NetBSD が UNIX-like の Operating System の中でも、シンプルで、古典的な UNIX に似せたシステムだとされているからである。
さて、個人が使うコンピューターのための UNIX としては、昔から Sun Microsystems 社の Solaris が比較的、普及していた。 Solaris は、*BSD や Linux とは異なり、認証を受けた正真正銘の UNIX である。 Solaris は従来、独自仕様の SPARC ハードウェア上で運用する前提で開発されていた。 SPARC は、PC の多くが採用している x86 規格の CPU とは互換性がない。平たくいえば、Solaris は PC 上では動かない。 厳密には、一応、x86 ハードウェアで動作する Solaris も開発されてはいたのだが、制約が多く、機能に劣り、「まがいもの」のような扱いを受けていたように思う。 なので、Solaris を使いたければ SPARC のハードウェアを Sun Microsystems から買うことになるのだが、かなり高かった。
ところが、私が工学部 3, 4 年生の頃であったか、修士課程の頃であったか、よく覚えていないが、Sun Microsystems から廉価な Solaris が発売される、と、 インターネット上で話題になったことがある。 商品名は覚えていないが、ハードウェアと Operating System がセットで 15 万円程度であっただろうか、とにかく UNIX としては破格に安かった。 一応は SPARC のシステムだったように思うのだが、ハードウェアは安物 PC と同程度で性能が低い、といった理由で、結局、あまり流行らなかった。
このように、私や、あるいはもう少し上の世代のコンピューターオタクからすると、UNIX というのは、垂涎の的なのである。
過日、我が北陸医大 (仮) 附属病院の某所において、Solaris が動いているのをみて、私は大興奮した。 ある医療機器の制御をするコンピューターが、Solaris だったのである。 この機器は、昭和の終わり頃に導入され、大きな故障をすることもなく稼動し続け、そろそろ現役を終えようとしているという年代物である。
私はこれまで、実際に UNIX で動いているコンピューターをみたことは、ほとんどない。 インターネット越しに UNIX サーバーを操作したことが少しある程度である。 大学院時代の研究室には Solaris のワークステーションもあったが、既に運用されておらず、埃をかぶっていた。
それが、目の前で、Solaris によって医療機器が制御されているのである。 若い技師は「古くて不便なコンピューターである」などと言っていたが、むしろ私は内心「ウヒョー」と盛り上がった。
前回と前々回に紹介した N. Engl. J. Med. 377, 2445-2455 (2017). における多重検定の扱いを検討する。
この報告において著者らは、死亡その他 13 個の secondary outcome について検定を行い、多重検定に際しての補正として Benjamini-Hochberg 法を用いた。 細かい理論的なことは別の機会に述べたいが、概略としては、これは次のような考え方を定式化したものである。
13 個の検定結果の全てが p < 0.05 であるならば、全ての検定を「有意差あり」と判定しても False Discovery Rate は 0.05 未満となるであろう。 これに対し、1 個の検定結果のみが p < 0.05 であり、これを「有意差あり」と判定した場合は、どうか。 偶然による p < 0.05 の検定結果は、13 回の検定を行えば、期待値として 0.65 回、生じる。 従って、実際に 1 回だけ生じた p < 0.05 の検定結果が偽陽性である「確からしさ」は 0.65 と推定され、つまり False Discovery Rate は 0.65 ということになる。 一方、1 個の検定結果のみが p < 0.0038 であった場合、13 回の検定で偶然にそういう結果が生じる回数の期待値は 0.049 となる。 つまり、この 1 個の検定を「有意差あり」とした場合の、False Discovery Rate は 0.049 であると考える。
要するに、13 個全部を「有意差あり」と判定する場合の p の閾値は 0.05 で良いが、1 個だけを「有意差あり」と判定する場合の閾値は 0.0038 である。 一般に、13 個のうち n 個を「有意差あり」と判定する場合の閾値は 0.0038n である。 「有意差あり」となる項目の数が少なければ少ないほど、閾値が厳しくなるのである。
この手法は、一見、もっともらしい。実際、理論は間違っていない。しかし、臨床試験の解析に使うには、まずいのである。 臨床試験は、どういった secondary outcome が実際に有意差を生じるのか、よくわかっていない状況で行われることが多い。 様々な項目を検定して、その中で有意差のある項目を拾い上げたい、というのが試験の目的なのである。 その意味では、前々回に例示したマウスの実験において発現に差が出る遺伝子を探したい、というのと状況は似ている。
ところが、本当は差がない項目をたくさん検定対象に含めてしまうと、Benjamini-Hochberg 法では、判定基準がたいへん厳しくなる。 もし「死亡率」には本当は差があり、低い p 値が得られたとしても、実際には差がない項目を検定対象に含めることで、 Benjamini-Hochberg 法では False Discovery Rate が高くなり、有意差なし、となってしまう。 これは、Benjamini-Hochberg 法の理論が暗に、真の陽性がかなり多いことを前提として開発されたことによる。
つまり、臨床試験において 13 個もの項目を検定してしまうと、Benjamini-Hochberg 法で有意差を検出することは、かなり歴然とした差がある場合を除き、難しい。 そのような統計学の基本的なことを、著者らが認識していなかったとは思われない。 すなわち、臨床試験の計画段階において、13 項目の Benjamini-Hochberg 法を用いると決めた時点で、実は著者らには、有意差を検出する気がなかったのであろう。 「有意差なし」という結果を出したくて実施した臨床試験なのだと思われる。
もし本当に有意差を検出する気があるのなら、もう少し手の込んだ解析が必要であった。 しかし週刊 The New England Journal of Medicine などの娯楽雑誌では、解析手法の妥当性の評価が甘いから、 こういう安直で不適切な解析でも査読を通過し、掲載されるのである。
前回紹介した N. Engl. J. Med. 377, 2445-2455 (2017). に対する批判の続きである。
この非盲検のランダム化比較対照試験は、妊娠 30 週未満で生まれた早期産児について、 臍帯を直ちに結紮する群と、30 秒ないし 3 分程度遅れて結紮する群とで、予後を比較するものである。 予後は、死亡あるいは重大な合併症を来すかどうか、で判定する。 重大な合併症というのは、重大な中枢神経系障害などであって、死亡も含めて 13 項目が評価対象とされている。 業界用語でいえば、「死亡または重大な合併症を来たしたかどうか」が primary outocme であって、 その 13 項目についてが secondary outcome である。
まず primary outcome については、相対リスクは 1.00, 95 % 信頼区間は 0.88-1.13 と報告された。 これについて著者らは、結論として
delayed clamping of the umbilical cord did not result in a lower incidence of the primary outcome
と述べているが、不適切である。 たぶん「有意差なし」ということを言っているのだろうが、過去に何度も書いている通り、 「有意差なし」という結果は「差がない」という意味ではなく、「統計誤差が大きく、よくわからない」という意味である。 むしろ、95 % 信頼区間が 0.88-1.13 であるということは、遅延結紮は最大で 12 %、重大な合併症を減らす可能性がある、といえる。期待はできる結果なのである。 非劣性試験の考え方をすれば「遅延結紮は重大な合併症を 12 % 以上は減らさなかった」とは統計学的に言えるが、「重大な合併症を減らさなかった」とまでは言えない。 それなのに上述のような誤った内容が記載されたのは、著者や査読者が統計学に無知だからであろうか。 たぶん、違うだろう。
統計学的には、遅延結紮は重大な合併症を最大で 12 % 減らすようであるが、最大で 13 % 増やす可能性もあり、何ともいえない、というのが正確である。 しかし「何ともいえない」ではセンセーショナルではない。 むしろ、統計学的には不適切であっても「primary outcome の頻度を減らさなかった」と書いてしまった方が、臨床医受けは良いであろう。 平たくいえば、他の論文に引用されやすくなる。 結果として The New England Journal of Medicine の impact factor を引き上げる効果が期待できる。 そういう思惑の下に、このような不正確な記述がなされたものと思われる。 学術的には、邪である。
ここまでは臨床医療統計でよくある「不適切な解析」なので、ちょっと詳しい人なら、容易に見抜けるであろう。 しかし secondary outocome については、かなりわかりにくいので、「ちょっと詳しい」程度の医師では騙されるかもしれない。
Secondary outocome の筆頭は「死亡」であって、相対リスクは 0.69, 95 % 信頼区間は 0.49-0.97 と、遅延結紮群の方が少なそうな結果であった。 しかし、これは多重検定を行ったものであるから、Benjamini-Hochberg 法で補正すると p = 0.39 となり、有意な差ではない、と著者らは述べている。
本当だろうか。 次回、この多重検定の詐術を攻撃する。
The New England Journal of Medicine 2017 年 12 月 21 日号に、早期産児の臍帯を結紮するタイミングについての臨床試験の結果報告が掲載された (N. Engl. J. Med. 377, 2445-2455 (2017).)。 私は最近、産科学に関心を寄せているので、この報告をチラリと拾い読みした。 そして、憤慨した。
この報告は、研究の背景についての記載が乏しいのでわかりにくく、参考文献に挙げられている Cochrane Database Syst. Rev. 8, CD003248 (2012). を参照する必要があった。 現在の主流派は、分娩に際して臍帯を速やかに結紮する。 しかし、これを 30 秒ないし 3 分程度、遅らせた方が良いのではないか、とする意見があるらしい。 というのも、母親から出て来た胎児を、やや低い場所に少しの時間置くと、胎盤や臍帯から胎児に血液が流れ込む。 体重の軽い早期産児の場合、この血液は無視できない量になり、新生児の予後を改善するのではないか、とする意見がある。
これに対し、今回の報告は、妊娠 30 週未満で生まれた児に対し、非盲検のランダム化比較対照試験を行ったところ、 結紮を遅らせることは予後を改善しなかった、とするものである。 しかし、この報告の解析は不適切である。 平たくいえば、著者らは「結紮を遅らせることは予後を改善しない」という結果を誘導するために、意図的に誤差を大きく評価したものと思われる。
著者らは、多重検定の問題について Benjamini-Hochberg 法を用いて解析したらしい。 Benjamini-Hochberg 法のやり方については、ここでは詳しく説明しないが、多重検定の教科書だけでなく、インターネット上にも解説した記載が多いので参照されると良い。 ただし、インターネット上の解説は、間違ってはいないものの、内容を真に理解して我が物とした上で書いたわけではなく、 教科書の記載を丸写ししたような記載も多いので、注意が必要である。
Benjamini-Hochberg 法が威力を発揮するのは、多数の検定を繰り返し、その大半の検定結果が「有意差あり」となるような場合である。 逆に、大半の検定は「有意差なし」となり、ごく一部でのみ「有意差あり」となるような場合の False Discovery Rate を評価するには、不当に厳しくなり、不適である。
False Discovery Rate とは何か、という点について、ここでは厳密には解説しないが、概ね次のような具合である。 たとえば、ある新薬を投与されたマウスにおいて、従来薬を投与されたマウスに比べ、遺伝子の発現具合がどう異なるかを、 マイクロアレイなり RNA シークエンシングなりの手法で解析したとする。 これらの薬は似た機序を持っているので、遺伝子の発現具合は、それほど大きくは違わないとしよう。 仮に 100,000 個の遺伝子 (非翻訳領域を含む) を調べたとして、たとえば 500 個の遺伝子だけで本当に発現具合が異なるとする。 実は厳密なことをいえば、この仮定は非現実的で、あり得ないのだが、それは別の話になるので、ここでは気にしないことにする。 さて、この状況において p = 0.01 を閾値として検定を行うと、1,000 個ぐらいの遺伝子が偽陽性となるであろう。それに対して真の陽性は 500 個なのだから、偽陽性より少ない。 つまり、検定で「有意差あり」となった 1,500 個の遺伝子のうち 1,000 個は偽陽性ということになるので、False Discovery Rate は 67 % である、と考える。
以上の議論において、我々は「500 個の遺伝子では本当に発現具合が異なる」という事実を最初から知っていると仮定したから簡単に False Discovery Rate を計算できたが、 実際には「何個の遺伝子で本当に発現具合が異なるか」は未知なので、この False Discovery Rate を正確に評価するのは難しい。 そこで、この False Discovery Rate を推定する様々な手法が編み出された。Benjamini-Hochberg 法も、その一つである。 しかし、詳細は別の機会に述べたいが、上述の例のように偽陽性が多い状況においては、Benjamini-Hochberg 法は無力である。 換言すれば、この手法は理論には整っているものの、実際に有効な場面は、かなり限られているのである。 そのことを、教科書を眺めただけで実際に統計を扱ったことがない者は、なかなか理解できない。
では、こうした状況において、どのような方法で解析すれば良いかというと、定説はない。 私は名古屋大学時代、この問題に少しばかり取り組んで、「こうすれば良いのではないか」という案をひねり出したものの、結局、未発表で終わってしまった。 たぶん、これを学術的な場で発表する機会は今後しばらく訪れないであろうから、いずれ、この日記かどこかに書こうと思う。
閑話休題、臍帯結紮の話に戻りたいのだが、だいぶ長くなってきた。続きは次回にしよう。
いわゆる「ふるさと納税」の制度についてである。 これは、「住民税を任意の自治体に納めることができる制度」などのように表現されることもあるが、基本的には寄付金控除の一形態である。 制度の趣旨としては、是非はともかく、地方の活性化などを目的とするものであった。 しかし実態としては、高価な「返礼品」を目的とした「寄付」が横行していることは周知の通りである。
たとえば 10 万円の寄付をして、3 万円相当の「返礼品」が贈られるならば、正味の寄付額は 7 万円とみるべきであろう。 それならば、この場合、所得税や住民税から控除される額は 7 万円を上限とするべきである。 それなのに、現行制度では 9 万 8 千円が控除されるので、結果として「2 千円を払うと 3 万円相当の返礼品が貰える」という、おかしな状況になっている。 結果として、郷土愛などとは無関係な「ふるさと納税」が、盛んに行われているのである。 むろん、差額の 2 万 8 千円は、結局のところ、国庫や、その納税者の居住自治体の予算で負担されるのであって、天から降ってくるわけではない。 日本全体でみれば、公共の予算を逼迫するだけの制度であって、その支出は増税で賄わざるを得ない。 そういう制度なのである。
なお、形式的には寄付金控除であることから、高額納税者ほど「ふるさと納税」で多量の返礼品を獲得でき、大きな恩恵を受けることができる。 累進課税の理念に逆行するものといえよう。
さて、臨床医というのは、大抵、金持ちである。 「ふるさと納税」の恩恵を受けやすい立場なのであって、実際、 臨床医同士の雑談で「ふるさと納税」を「やらねば損だ」「すごく得する」などと話している場に、何度も遭遇したことがある。
それが、寄付というものなのか。
クリスマス休暇を挟んだため、少し間があいた。
臨床検査結果を、キチンと評価してカルテに記載する医師は少ない。 評価はしているが、忙しいから細かくはカルテに記載していないのだ、という言い訳をする者もいるが、大抵の者は、キチンと評価していない。
たとえば前回書いたトロンボポエチンの話である。 臨床的に、多少の血小板増多がみられたとしても、多くの医師は「問題ない」と判断し、カルテに何も記載しないと思われる。 学生時代、私は、具体的に何であったか忘れたが、血液検査の何かの項目の軽度の異常をみて、 理解しかねて指導医に「なぜ、このような異常値が出ているのでしょうか」と問うたことがある。 すると指導医は「その程度の異常は、よくあることだから、気にしなくてよい」と述べた。 冷静に考えれば、「よくあるかどうか」と「気にするべきかどうか」は関係ない。 要するに、その指導医は、何も考えていなかったのであろう。
学生や研修医であれば、細かな検査所見についても「なぜ?」「どうして?」と疑問を持ち、解決に努めるべきである。 そのためには、前回述べたようなトロンボポエチン産生の調節機構についても、必然的に、関心を向けなければならぬ。 それを「臨床的には重要ではない」と安易に切り捨てる者は多いが、一体、諸君は何を学んでいるのか。
一応は検査結果を評価し、カルテに記載はしていても、その思考過程を明確には書かない医師もいる。 「○○の測定結果から、△△病ではない」などと簡潔に記すスタイルである。 まぁ、その判断が自明であるような場合には、それでも良いかもしれぬ。 たとえば「ヘモグロビン値が 15.2 g/dL であったから、貧血ではない」という論理には、ほとんど隙がないといえる。 それでも、細かいことをいえば、高度の脱水があれば貧血でもヘモグロビン値 15.2 g/dL という結果はあり得るから、注意は必要である。 さらに問題が大きいのは、論理が明確でないにもかかわらず、思考過程を省略している場合である。
たとえば、多血症、つまりヘモグロビン値が 20 g/dL などと異常高値の患者について原因を精査したところ、肝腫瘤がみつかったとする。 もしやエリスロポエチン産生腫瘍ではないか、と考え、血清エリスロポエチンを測定して、結果は 20 mU/mL であったとしよう。 医学書院『臨床検査データブック 2017-2018』によれば、基準範囲は概ね 8-30 mU/mL である。 そこで不勉強な医者は「基準範囲内だから、エリスロポエチンは異常高値とはいえない」と考え、カルテに「エリスロポエチン産生腫瘍ではない」などと書くかもしれぬ。
むろん、この考えは誤りである。 エリスロポエチンの産生は、生理的にはヘモグロビン濃度、正確にいえば組織への酸素供給の程度に応じてフィードバック制御を受けている。 両者の関係については、「臨床検査データブック」366 ページや、 Aster JC et al., Pathophysiology of Blood Disorders, 2nd Ed. (McGraw Hill; 2017). の 20 ページの図を参照されると良い。 すなわち、ヘモグロビン値が 20 g/dL もあるような患者では、このフィードバック系が保たれているならば、エリスロポエチンは低値になる。 それが 20 mU/mL もあるならば、フィードバック系が破綻しているといえる。エリスロポエチン産生腫瘍を強く疑う所見なのである。
それを単に「エリスロポエチン産生腫瘍ではない」とカルテに書かれてしまうと、読んだ側は、困る。 その医者が不勉強ゆえに間違えているのか、それとも何か別の深遠な思慮の末に「エリスロポエチン産生腫瘍ではない」と結論したのか、わからないからである。 カルテは他の医療従事者や患者本人が読むための記録である、という基本を忘れてはならぬ。
トロンボポエチンというのは、血小板の産生を促すホルモンである。 具体的には、巨核球あるいはその前駆細胞に作用し、血小板の放出を亢進させる。 私は、トロンボポエチンは肝臓で産生されると思っていたし、それは大きく間違ってはいないのだが、あまり正確ではないらしい。 血液学の学生向けの教科書である Aster JC et al., Pathophysiology of Blood Disorders, 2nd Ed. (McGraw Hill; 2017). によれば、 トロンボポエチンは肝の実質細胞や内皮細胞の他、骨髄間質細胞でも産生されるらしい。 さらに血液学の名著である Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGrawHill; 2016). によれば、少量ではあるものの腎や筋でも産生されるという。
上述の Pathophysiology の教科書によれば、トロンボポエチンは構成的に産生されている、つまり生理的には産生量は変動しない。 一方で血小板はトロンボポエチンを分解するらしい。 結果として、血小板が多いときには血漿中のトロンボポエチンは少なくなり、逆に血小板が少ないときにはトロンボポエチンが多くなる。 この負のフィードバックのために、血小板数は概ね一定に保たれるのである。
臨床的にも、何らかの事情で急性に血小板数が減少すると、数日してから、今度は血小板数が基準範囲よりも多くなる、という現象がみられる。 これは一過性のものであって、さらに数日すれば、勝手に正常な範囲に戻る。 上述の血小板とトロンボポエチンの関係を考えれば、血小板数がこのように変動するのは自然なことである。
また、脾臓が腫大している患者において血小板数の減少がみられるのも、このためである。 つまり、脾臓は血液が豊富であるが、それ以上に血小板数が多い。 循環血に比べて血小板濃度が高い、と言い換えても良い。 従って、脾臓が腫大していると、より効率的にトロンボポエチンの分解が行われることになり、結果として血小板の産生が抑制されるのである。 いわゆる脾機能亢進症による血小板数減少である。 なお、もし循環血中と脾臓中で血小板濃度が同じであるならば、脾臓が腫大してもトロンボポエチンの分解は亢進しないことに注意を要する。簡単な算術である。
問題は、ここからである。 学生時代であったか研修医になってからか覚えていないが、私は、巨核球もトロンボポエチンを減らす作用がある、と聞いた。 当時は、まぁ、そうかもしれぬ、ぐらいに思ったものの、それ以上は深く考えなかった。 なお、私は学生時代には上述の Pathophysiology の教科書で勉強したのだが、この教科書は、この点について曖昧な書き方をしていた。
過日、機会があって、この問題について少しだけ調べてみた。本当に、巨核球はトロンボポエチンを減らすのだろうか。
Williams の教科書は、この点について明記はしていないが、 巨核球減少を伴う血小板減少症の患者においてはトロンボポエチンは増加しているようだ、と記載している。 また Marder VJ et al., Hemostasis and Thrombosis, 6th Ed. (Wolters Kluwer; 2013). は、 自己免疫性血小板減少症 (Immune ThrombocytoPenia; ITP) の患者においては、血小板数が少ない割にトロンボポエチンが比較的少ない理由について、 骨髄中で巨核球が増加しているためではないか、と述べている。
これらの観察事実からすると、巨核球も血小板と同様にトロンボポエチンを減らす、と推定するのが自然である。 ただし、あまりキチンと調べた人はいないようなので、どこかに陥穽があるかもしれぬ。
我が母校が、50 年近く前に起こした医療事故についての報告を公表した。 1970 年に手術を行った際にガーゼを体内に置き忘れたらしく、それが腹腔内腫瘤として 2014 年に摘出された、というのである。 損害賠償などの手続が全て完了し、患者の同意が得られたため、昨日、公表したとのことである。 過去に事故が起こっていたこと、それによって患者に重大な害が及んだことは極めて遺憾であるが、それに対する病院当局の対応には問題がない。
なお、本件について 朝日新聞、 産経新聞、 読売新聞は、いずれも不正確な報道をしている。 名大の発表文には、この患者は 2014 年に骨盤内腫瘍と診断されて手術を受けたとあるが、それが本当に腫瘍であったとは記載されていない。 むしろ、キチンと意識して「骨盤内腫瘤」という表現が用いられている。 だいたい、医学の常識からいって、ガーゼを体内に置き忘れたからといって腫瘍ができるとは考えにくい。 炎症が起こり、肉芽腫を形成し、腫瘤となるであろうが、それは腫瘍ではない。 朝日は見出しで「体内にガーゼ 腫瘍の原因?」と書いているし、産経は「腫瘍に布のような物が含まれていた」、 読売は「腫瘍になり、14年の手術で人工肛門を付けることになった」と、いずれも名大のプレスリリース文とは異なる内容を報道している。 もしかすると、記者会見では口頭で誤って「腫瘍」と言ったのかもしれないが、医学の基礎を学んだ者であれば、それが「腫瘤」の言い間違いであることは容易に理解できる。 おそらく、医学に無知な記者が誤解して書いたのであろう。 伝統的に、新聞社では政治部や社会部が花形とされており、自然科学などは扱いが低いという。そうした無関心が、こうした水準の低い記事を生んでいるものと思われる。
さて、詳細は書かぬが、病院において、他の医療機関で不適切な診療を受けていたことが明らかになることは、それほど珍しくはない。 検査の過程で、過去に医療事故が起こっていたことが判明することもある。 これらに気づいた場合、医師としての対応は容易ではない。
一番簡単なのは、患者には黙っておくことである。知らぬが仏であり、カドが立たない。平和である。実際、多くの医師が、そうしているのではないか。 ただし、この対応をするためには、医師としての良心を捨てなければならない。
道義的観点から最も理想的なのは、患者の意向を確認した上で、ありのまま、全てを患者に伝えることである。 ただし、その「不適切な診療」を行っていた医療機関や医師との関係が悪化する恐れがある。 本来、そんなことは気にするべきではないのだが、病院や医院の経営のことを考えると、そこを躊躇する医師の気持ちは理解できなくはない。 現実的なのは、患者にカルテの開示請求を勧め、必要な助言を提供する、というものであろう。
名古屋大学附属病院は、事故を隠さない、という姿勢を徹底している。 不適切な事例があった場合には、誰でも、学生でも、匿名でインシデントレポートを提出できる。 情報を共有し、反省し、より良い医療を実現しようということである。 私も学生時代に、たまたま遭遇したインシデントを報告したことがある。
病院によっては、インシデントレポートを匿名で提出することができなかったり、 あるいは部署の責任者を通して提出することになっていたりする。 この場合、部署ぐるみでの「インシデント隠し」が行われることもある。 実際、ある病院で私は、そういう事例をみたことがある。
今回の名大の事例にしても、黙っておけば、平和であった。 摘出した異物は廃棄して、よくわからない肉芽腫がありました、というだけで済ませておけば、名大は事故を公表する必要がなく、賠償せずに済んだのである。 それを、わざわざ検査して「ガーゼらしきもの」だと確認し、証拠は不充分だが自分達が過去に失敗したらしい、などと認め、賠償したわけである。
名古屋大学にいた頃は、こうした名大病院の姿勢について、そんなの当然ではないか、と思っていたのだが、外に出てみると、そうではなかった。 学生時代の私は、名大はレベルが低い、などと言っていたのだが、実はそうでもなかったのである。
名古屋大学は、意外と、水準が高い。
昨日書いた研修医症例発表会の話の続きである。 私は「病理医の卵から臨床の皆様へのお願い」と題して、反省症例を提示しつつ、病理診断と臨床のあり方について思う所を述べた。 詳細は書かないが、不穏当というより、過激な発表であったと思う。 むろん、表彰はされなかった。
私の発表に対し、質問の手を挙げたのは某内科教授である。 来年から、君自身は病理診断を行うにあたり、どのような姿勢で望む意向であるか、と問うたのである。
私は小心者であり、自分の発表がやり過ぎだったのではないか、攻め過ぎだったのではないか、と内心では思っていたから、 この教授の質問に対して腰の引けた回答をしてしまった。 すなわち、病理診断報告書を可及的速やかに記載する、というような、あたりさわりのない、つまらないことを述べたのである。 すると教授は、フフン、と、せせら笑って次のように指摘した。 そんなことは技師でもできる。医師であるならば、病棟に来て患者をみるとか、そういうことを言うべきではないのか。
小生意気な研修医をとっちめてやったぞ、と言わんばかりである。が、これは、教授の指摘が全面的に正しい。 病理診断にあたり臨床所見が重要であることは Anna-Luise Katzenstein が著書 `Surgical Pathology of Non-Neoplastic Lung Disease' で述べた通りである。 また診療の質を向上させるには、病理医が患者と接することが重要であるということは 病理診断学の聖典 J. Rosai, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10th Ed. (Elsevier; 2011). にも記載されている。 さらにいえば、学生時代に Johns Hopkins University で短期の実習を受けた元同級生の某君によれば、かの地では病理医が手術室に出没していたらしい。 日本ではほとんど実践されていない教科書上の「理想像」が、体現されているというのである。
なお、この Surgical Pathology の教科書の最新版は第 11 版であり、今月になって出版されたばかりである。 この教科書は、もともと Lauren V. Ackerman が著し、Juan Rosai が引き継ぎ、第 10 版までは単著であった。 しかし第 11 版からは、Rosai の仕事を引き継げるだけの人物が存在しなかったために、多数の著者による共著となっている。 さらに、総論が大幅に削減され、各論もページ数が減ったようである。 各論はともかく、前版の総論には病理診断にあたっての心構えなども記載されていたのだが、それは削除された。 単著の教科書には一貫したストーリーが生まれるという大きな利点があるが、それが失われてしまったようであり、遺憾である。 なお、私はあと 20 年ほどしたら、単著で病理学の教科書を書こうと思っている。
閑話休題、私は教授の質問に対し、本当は病棟や手術室にも行きたいのであるが、それを実現するには 10 年ほどの猶予をいただきたい、と述べた。 実際、病理医が当然に病棟や手術室を往来するような病理診断体制を日本で実現するには、そのくらいの時間を要するであろう。 が、後で冷静に考えると、日本全体のことはともかく、私個人のことだけならば、来年からでも、ある程度は実行できるのではないか。
以前、九州医大 (仮) の某病理学教授と、次のような会話をしたことがある。 教授は「リーダーというのは、将棋の駒でいえば、どれにあたると思うかね?」と問うた。 私が「まぁ、歩でしょうね」と答えると、教授はニヤリとして「その通りである」と言った。
術前術後に患者の診察に行き、カルテを記載するぐらいなら、大して時間もかからない。 それを実行しないのは病理医の怠慢ではないか、と言われれば、反論することができない。 診断以外の業務も多く抱えているエラい先生方が、今までのスタイルを変えて臨床現場に顔を出すようにする、などというのは、現実的には極めて困難である。 革命を起こすのは、常に、若い力である。 最初に一歩、前に出る者こそがリーダーなのである。
発表会の後に開かれた懇親会において、研修医同期の中で抜群に優秀な某君をつかまえて、私は、反省した旨を述べた。
過日、北陸医大 (仮) の研修医症例発表会が行われた。 これは二年次研修医が、これまで経験した症例などについて発表するものであるが、内容は必ずしも症例報告でなくても良い、ということになっている。 発表内容を指導医などが採点し、最優秀賞と優秀賞が表彰された。
たいへん良かったのは、泌尿器科に進む某君の発表である。 これは、発表スライドの作り方について述べたものであって、フォントをどうするか、背景をどうするか、などの技術的なことを簡潔にまとめたものである。 他大学はよく知らぬが、名古屋大学や北陸医大の医学科では、こうした発表技術についての教育は、ほとんど行われていない。 その教育システムの問題点を補完しようという試みであって、彼の発表が最優秀賞どころか優秀賞にすら入らなかったというのは、採点方法に問題があるのではないか。
この発表会では、どこかの小さな学会で発表した内容を転用している研修医が多いようである。 そのこと自体も問題であるが、発表内容には指導医がかなりの程度介入している例が多いらしいことは、もっと問題である。 つまり、発表会の本来の趣旨である「研修医自身が学んだことを発表する」という目的が達されていないのである。 また、発表者がその患者を実際にはみていない、いわゆるギフト オーサーシップにあたる例も少なくないようであり、不適切である。
それはさておき、今年は発表会の後に、北陸医大の基礎の某教授による 30 分の短い講演も行われた。 私は北陸医大出身ではないから、基礎の教授陣とはあまり面識がないのだが、実はこの教授には 6 年前、医学部学士編入試験の時に会ったことがある。 教授は私のことを覚えていてくれたらしく、たいへん感激した。 私の記憶によれば、教授は編入試験の面接の挨拶で 「諸君には、他の医師に対する教育、あるいは研究などを通じて、指導的な立場として活躍することを期待している」と述べた。 この言葉に、私はたいへん、勇気付けられたのである。
さて、発表会の後に教授は基礎医学研究の重要性について講演したのだが、その内容は、おそらく、ほとんどの研修医には伝わらなかったと思われる。 質疑応答の際、私は、次のような質問をした。 近年では、医学科教育においても、卒後教育においても、基礎医学はたいへん軽んじられている。 特に、医学科において臨床実習の期間を伸ばすために基礎を削るという動きがあり、とんでもない話である。 それに対し、基礎の先生方を中心に様々な対応が練られていることは承知しているが、我々、若手の立場から、何かできることはないだろうか。
私としては、基礎を疎かにして闇雲に臨床を学ぶのは砂上に楼閣を建てるようなものであって、 若手の立場ならではの方法で医学教育の改善に貢献できないだろうか、と問うたつもりであった。 が、私の質問の意図を教授は理解されなかったようで、だいぶ異なる回答が返ってきた。 たぶん、研修医からそういう発言が出るとは想定していなかったために、即座には理解できなかったのであろう。
過日、北陸医大 (仮) で、米国への臨床医としての留学を考えている学生や研修医などを対象とした講演会が行われた。 私は米国留学は全く考えていないのだが、宣伝チラシの文面から、臨床医として留学することの意義などについて面白い話が聴けるものと期待して参加した。 しかし実際には、「米国でレジデントになりたい」と考えている学生などを対象に、 手続や試験などについて経験者が語るだけの内容であったので、私としては、全く面白くなかった。
そもそも「米国に留学したい」という発想が、理解できない。 「The Massachusetts General Hospital に留学したい」「The Johns Hopkins Hospital で勉強したい」というような、具体的な病院を限定しているなら、わかる。 たとえば、マサチューセッツの病理診断の有名人である Rosenberg の近くで仕事をしたい、というような、特別な事情があるからだと想像がつくからである。 そういう「事情」というのは、ミーハーではあるかもしれないが、理解はできる。 しかし、件の講演会で対象としたのは「特定の病院というわけではなく、100 や 200 の候補のうちから、とにかくどこでもいいから、米国の病院で働きたいのだ」 というような意味での「米国に留学したい」学生である。 なぜ、米国に行きたいのか。
一つには、「米国の方が医学が進んでいる」という思い込みがあるのだろう。 「進んでいる」の意味もわからないし、何を根拠にそう思っているのか知らぬが、そういう偏見は、世の中にあるだろう。 もちろん、入院期間の短縮をはじめとして、米国の臨床医療には日本よりも優れた点が少なくはないが、それは、はたして米国への留学を希望する理由になるのだろうか。
広く世界を知る、異文化に触れる、というのは重要である。 しかし、それならば、日本の中にあっても広く周囲をみわたすべきである。 医学科の学生に、物理や化学、数学、あるいは人文科学に興味を持っている者が、どれだけいるのか。 自分の専門分野のことにしか関心を示さず、狭い医療と医師の世界に引き籠もっているような連中が「広く世界に」などとは、笑止である。
留学経験者の講演を何度か聴いたことがあるが、一度として、感心し感動したことはない。 むしろ、エラい先生について勉強しました、というような、くだらない報告は何度も聴いた。 言うまでもなく、エラい先生の下についたからといって、自分が立派で優秀な医者になるということはない。 どちらかといえば、虎の威を仮る狐になる者が多いのではないか。
要するに、彼らのいう「留学したい理由」は、全部、後付けなのである。 本当の理由は「なんとなく、留学すれば成長できるような気がするから」というようなものであろう。
現在の日本の医学教育が、医学部教育だけでなく、卒後教育も含めて、極めて低質であることは間違いない。 しかし、そこで「レベルの高い場所」を求めて漠然と米国を目指す学生が、本当に高い志の持ち主であるとは思わない。 自ら学び、修めるのが大学である。 大学の教員は、学生に知識や技を授けるのではなく、共に学び、先輩として少しの助言を与えることが仕事なのである。 少なくとも 15 年前の京都大学工学部には、そういう空気があった。これは旧制第三高等学校時代から受け継いだ伝統であり、たぶん、現在でも保たれているであろう。 そういう意識を持った学生であれば存分に学ぶことができるぐらいには、日本の医学教育システムの質は保たれている。
本当に何か目指すものがあって、心の底から納得できる理由があって留学するならば、良い。 しかし、そもそも諸君は、現在、しかるべき学問を修めているのか。 安易な試験対策に奔走し、医学と向き合わず、ただ「米国留学」の豪華な経歴で身を飾ろうとしているのではないか。
とはいえ、私は、外科志望の女子学生に対し、海外に出るのもよろしかろう、と勧めたことがある。 現在の日本の医師連中、特に外科医の中には、不条理な性差別を行っている者が少なくないからである。セクハラも多い。 そんな、くだらない連中に混ざって苦労するよりも、米国なり欧州なりに行った方が良いのではないかと思う。 この場合は、「とにかく欧州に行きたい」と考えるのも、充分に合理的な発想である。
私は、スウェーデンの連中と一緒に仕事をしたい、インドで仕事をしたい、とは思う。 スウェーデン人科学者の仕事には敬意を抱いているし、インドの国家のあり方を尊敬しているからである。 しかし、それは私が一人の病理学者として認められるようになってからの話である。 勉強するために留学したい、とは思わない。
過日、テレビドラマ「コウノドリ」をみた。 出生前診断にダウン症候群と診断された胎児について、生むか、中絶するか、というようなテーマを扱うものであった。 たいへん、不満であった。
3 年ほど前に書いた通り、日本国において、胎児がダウン症候群であることを理由として堕胎することは違法である。 現状では、母体保護法の曖昧な規定のために、その違法性を刑事的に立証することが困難であるがゆえに、司法が黙認しているに過ぎない。 従って、出生前診断にあたっては、事前に遺伝カウンセリングを行うのが当然ではあるが、 その際に「異常がみつかれば中絶する」という選択肢を提示することは、できないはずである。 ところが日本の医者には、自分達が法律よりエラいと思っている連中が少なくないから、 平然と「中絶するという選択肢」を示す医者がいるらしい。
この「染色体異常を理由とする堕胎は違法である」という点について、「コウノドリ」の作中では、問題にされていなかった。 まるで、この堕胎は法的には問題なく、純粋に倫理的な問題であるかのような扱いだったのである。 犯罪を促すような作品である、といわざるを得ない。
なお、これも 3 年前の記事で書いたが、私自身は「生命を選択する権利」が両親には与えられるべきだと思っている。 「まるでダウン症候群の子供は生まれてはいけないと言っているようだ」などと感情に訴える者もいるが、それは被害妄想である。 生まれても良いが、生まれることは胎児が持つ当然の権利とまではいえない、というだけのことである。 その決定権は両親のみが持ち、両親の価値基準に従って行われるのであって、社会としての価値判断ではない。
だから、私は、そういう堕胎が不道徳であるとは思わない。 しかし、法律で禁止されているのだから、現在の日本において、そういう堕胎は行ってはならない。
メチル基転移反応について考える。 ヒトの場合、蛋白質などをメチル化する反応は、基本的にはメチル基転移反応によって行われる。 入村達郎他訳『ストライヤー生化学』第 7 版 (東京化学同人; 2015) によれば、メチル基供与体としては テトラヒドロ葉酸が使われることもあるが、多くの場合は S-アデノシルメチオニンが用いられる。 このあたりの代謝経路については Podolsky DK et al., Yamada's Textbook of Gastroenterology, 6th Ed. (Wiley Blackwell; 2016). の 558 ページの図が、たいへんよろしい。
テトラヒドロ葉酸は、5,10-メチレンテトラヒドロ葉酸となった後、dUMP をメチル化して dTMP とする反応においてメチル基供与体として使われる。 葉酸欠乏症において DNA 合成障害を来し巨赤芽球性貧血を呈するのは、このためである。 この 5,10-メチレンテトラヒドロ葉酸の一部は、還元されて 5-メチルテトラヒドロ葉酸となる。 この 5-メチルテトラヒドロ葉酸は、ビタミン B12 を補酵素とするメチオニンシンターゼの作用によりテトラヒドロ葉酸に戻る。 血液学の名著である Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGrawHill; 2016). によれば、 ビタミン B12 欠乏症において巨赤芽球性貧血が生じるのは、このメチオニンシンターゼの作用不全のためにテトラヒドロ葉酸が不足するからである。
さて、メチオニンシンターゼは、ホモシステインをメチル化してメチオニンを生成する酵素である。 メチオニンは、アデノシル化されて S-アデノシルメチオニンとなって様々なメチル基転移反応に用いられることは既に述べた。 そうしたメチル基転移反応の結果として S-アデノシルホモシステインが生じ、脱アデノシル化されてホモシステインとなる。 ビタミン B12 欠乏症においては、このホモシステインが適切にメチル化されず、メチオニンが再生されない。 他にもビタミン B12 は、メチルマロニル CoA からサクシニル CoA を生成する反応の補酵素でもあるらしいが、そちらの詳細は、よくわからない。
Love S et al., Greenfield's Neuropathology, 9th Ed. (CRC; 2015). によれば、 このビタミン B12 依存的な 2 つの反応は、細胞膜や髄鞘の形成に必須であるらしい。 そのため、ビタミン B12 欠乏症においては、脊髄後索や側索を主体とする脱髄病変、 subacute combined degeneration を来すと考えられている。
では、もし仮に、葉酸欠乏が脱髄その他の神経障害を来すとすれば、どのような機序が考えられるか。
葉酸が欠乏すれば、ビタミン B12 依存的なメチオニン生成反応が抑制されるであろう。 その意味では、葉酸欠乏症においてもビタミン B12 欠乏症と同様の神経障害を来しても、おかしくはない。 しかし通常は、そうはならない。 食事から充分なメチオニンが摂取されていれば、ある程度ホモシステインが蓄積した段階で、ビタミン B12 の多少の作用不足があっても、 必要量のメチオニンは再生されるであろう。 この場合の反応速度は、5-メチルテトラヒドロ葉酸の濃度とホモシステイン濃度の積に概ね比例するからである。 一方でビタミン B12 欠乏症の場合、酵素活性が低下しているのだから、基質を増やしても反応速度の向上は乏しい。 従って、メチオニンを摂取していても神経障害を生じるのである。
以上の議論から、葉酸欠乏そのものは神経障害を来さないと考えられる。 しかし、葉酸欠乏症にメチオニン摂取不良を合併すると、ビタミン B12 欠乏症と同様の神経障害を来す恐れがある。
葉酸欠乏症と神経障害の話の続きを書くつもりであったが、12 月 7 日の記事に重大で恥ずかしい誤りがあったので、 東エルサレムの話を書いてパレスチナ人に詫びることにする。
7 日の記事で「現在は東エルサレムがヨルダンの、西エルサレムがイスラエルと称する武装集団の支配下に置かれているのは事実である。」と書いたが、そのような事実はない。 東エルサレムはパレスチナが領有しており、現在はイスラエルの占領下にある。 なぜ、このような誤りを記載したのかは、自分でも理解できない。お詫び申し上げる。
パレスチナのことを、日本のマスコミ等は「パレスチナ自治区」あるいは「パレスチナ自治政府」と呼ぶ習慣があるようだが、言語道断である。 「自治」という言い方は、その上位に別の政府が存在することを前提としている。 現在はヨルダンはパレスチナの領有権を主張しておらず、ヨルダン川西岸の領有を主張しているのはパレスチナ政府とイスラエルのみである。 従って「パレスチナ政府の上位」に別の政府があるならば、それはイスラエルだということになる。 しかし、過日の記事で書いたように、ヨルダン川西岸地区がイスラエル領だと考える国際法上の根拠は存在しない。 国連決議ですら、イスラエルによるヨルダン川西岸地区やエルサレムの領有までは認めていないのである。 パレスチナはパレスチナであって、自治区ではない。
週刊 The New England Journal of Medicine の 11 月 16 日号の Case Records of the Massachusetts General Hospital を読んでいた時に「おや」と思った。 葉酸欠乏症でミエロパチーやポリニューロパチーが生じることがある、と記載されていたのである。 私は学生時代に「ビタミン B12 欠乏症では神経障害が生じることがあるが、葉酸欠乏症では神経障害は生じない」と教わっていたからである。 念のため学生時代に使っていた教科書の最新版である Aster JC et al., Pathophysiology of Blood Disorders, 2nd Ed. (McGrawHill; 2017). をみると、確かに
patients with folate deficiency rarely, if ever, develop neurologic manifestations.
と、ある。
他の教科書は、どうか。 血液学の名著である Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGrawHill; 2016). も「葉酸欠乏症では神経学的徴候を呈さない」としている。 ところが朝倉書店『内科学』第 11 版では、葉酸欠乏症の臨床症状として「神経障害」を挙げている。 一方、米国の内科学の名著である Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (McGrawHill; 2015). は、 葉酸欠乏が神経障害を生じるかどうかについて「よくわからない」としている。 なぜ、このように意見が分かれているのか。
この問題については、神経病理学の名著 Love S et al., Greenfield's Neuropathology, 9th Ed. (CRC; 2015). が最も正確に、次のように記述している。
The role of folate deficiency in CNS disease in the adult is controversial. Low serum folate levels are relatively common, especially in the elderly, alcoholics and those with gastroenterological disease. A wide variety of symptoms ... have been attributed to folate deficiency with little consensus. Nevertheless, Parry did describe 20 patients with neurological abnormalities in which folate deficiency was demonstrated in the absence of B12 deficiency and in which symptoms improved with folate supplementation.
葉酸欠乏が成人の中枢神経系に与える影響については、議論がある。 血清葉酸レベルの低値は、特に高齢者やアルコール依存症、あるいは消化管疾患の患者においては、比較的、頻度が高い。 様々な神経学的症状について、葉酸欠乏症との関連が指摘されてきたが、広く認められてはいない。 一方、Parry は、葉酸欠乏があり、ビタミン B12 欠乏はなく、神経学的症状を呈する患者に対し、葉酸を投与することで症状が改善した症例について レビューし、20 例が該当することを指摘した。
この Parry の報告というのは Presse Medicale 23, 131-137 (1994). のことである。 しかし、この Parry のレビューは、症例報告をまとめただけのものであって、コホート研究ですらなく、 葉酸欠乏により神経障害を来すと考える根拠としては脆弱に過ぎる。 とはいえ、もし、葉酸補充により神経症状が改善したというのが事実であるならば、両者には何らかの関係があると考えるべきであろう。
次回、葉酸と神経障害の関係について、理論的側面を検討する。
リチウム投与が甲状腺機能低下症を引き起こす、という意見はあるが、はっきりしない。 臨床的な統計は、交絡因子が多すぎて、因果関係を証明するのは極めて難しいからである。 では理論的側面は、どうか。
ラットにおけるリチウムの毒性試験の結果が 基礎と臨床 7, 1299-1332 (1973). に報告されている。 これによると、リチウム投与を受けたラットにおいて、組織学的に上皮細胞の腫大などの変化がみられた。 これは、体重 1 kg あたり 40 mg/day の炭酸リチウムを投与されたラットの一部において軽度にみられ、投与量を増やしたラットでは組織学的変化も増強したらしい。
問題は、投与量である。 添付文書上、炭酸リチウムの投与量は最大で 1200 mg/day であり、維持量は 200-800 mg/day である。 体重を 40 kg としても、体重 1 kg あたり 5-20 mg/day ということになる。 昨日紹介した Schou らの報告によれば、ヒトとラットで、血漿中と甲状腺でのリチウム濃度の比には大差ないらしい。
以上のことから考えると、もし臨床的な量のリチウムを投与されたヒトで甲状腺障害が生じるならば、 ヒトの甲状腺上皮細胞はラットに比べて、リチウムに対する傷害をかなり受けやすいはずだ、ということになる。 逆に、そうでないならば、臨床統計においてみられる「リチウムによる甲状腺機能低下症」は、何らかの交絡因子によるものであって、 リチウムそのものが原因ではない、と考えざるを得ない。 どちらが正しいのか。
この問題を考えるには、ヒト甲状腺上皮細胞とラット甲状腺上皮細胞を用いた in vitro の実験によって、リチウムへの感受性を調べる必要がある。
近年では、臨床統計を偏重し理論を軽視する風潮があり、こうした基礎的な実験が疎かにされている。 臨床統計の方がインパクトファクターを稼ぎやすい、という事情もあるだろう。 また、若い学生や研修医の中には、思考停止して「臨床統計でそうなったのだから、そうなのだろう」などと述べる者も遺憾ながら少なくない。
本当に科学的に意義のある研究をしようと思ったら、安易に臨床統計に奔るのではなく、こうした基礎研究を積み重ね、医学理論を構築せねばならない。
リチウムが甲状腺機能低下症を引き起こす可能性を最初に指摘したのは、1968 年のデンマークの M. Schou らの報告であろう (Brit. Med. J. 3, 710-713 (1968).)。 これは、リチウムを 5 ヶ月から 2 年の間、投与された双極性障害の患者 330 名のうち、12 名に甲状腺腫大が生じた、というものである。 なお、甲状腺腫大のことを普通は甲状腺腫と呼ぶが、この名称は甲状腺の腺腫と紛らわしいので避けた方が良いと思う。
近年、リチウム投与を受けた患者のうち、特に女性の方が甲状腺機能障害を来しやすい、と報告された (Bipolar Dis. 16, 72-82 (2014).)。これは Kaplan の教科書が参考文献として挙げているものである。 この報告は、リチウム投与を受けた患者では TSH の検査値異常に男女差があったが、リチウム投与を受けていない患者では男女に有意差はみられなかった、というものである。 ひどい論文である。著者はトルコの A. Ozerdem らであるが、統計学を修めていないか、あるいは識った上で敢えて詐術を弄したかの、どちらかである。
「有意差がない」という言葉の意味は、「統計誤差が大きいため、差があるかないかわからない」という意味である。 それを理解していれば、「リチウム投与群では男女に有意差があったがリチウム非投与群では男女に有意差はなかった」とう結果には、何の統計学的意義もないことがわかる。
本当に女性の方がリチウムによる甲状腺機能障害を来しやすいかどうかを調べたいならば、次のような解析を行わなければならない。 まず女性について、リチウム投与を受けた人と受けていない人の間で、甲状腺機能障害が生じる頻度の差を調べる。 同様にして、男性についても差を調べる。 すると、「リチウム投与により甲状腺機能障害が生じる頻度の男女差」を表す確率分布を、正規分布として得ることができる。 この正規分布が中心から 2 σ の範囲に 0 を含むかどうかで、リチウムに対する感受性に男女差があるかどうかを評価できる。
検定に必要な数値は全て Ozerdem らの報告に記載されていたので、上述の検定をやってみた。 なお、Ozerdem は甲状腺機能低下症と甲状腺機能亢進症を区別せずに「甲状腺機能障害」として解析したが、 ここでは、リチウム投与で問題とされる甲状腺機能低下症に限定して解析した。 結果は、次の通りであった。
女性における甲状腺機能低下症の有病率は、二項分布に基づいて計算すると、リチウム非投与群で 0.258 ± 0.040, リチウム投与群で 0.353 ± 0.041 であった。 男性における甲状腺機能低下症の有病率は、リチウム非投与群で 0.157 ± 0.044, リチウム投与群で 0.317 ± 0.046 であった。 リチウム投与による有病率の増加量は、女性で 0.095 ± 0.057, 男性で 0.160 ± 0.063 であった。 この「有病率の増加量」の男女差をみると、男性の方が 0.066 ± 0.085 だけ高い。 これを両側検定すると p = 0.441 である。
以上のことから、女性の方がリチウムによる甲状腺機能低下症を来しやすいとはいえない。 むしろ、男性の方が感受性が高いかもしれないぐらいである。 Ozerdem らが見出した「男女差」は、単に、「リチウムとは関係なしに、女性の方が男性より甲状腺機能障害の頻度が高い」という事実を反映しているに過ぎない。 なお、Ozerdem の解析において、リチウム非投与群で有意差が出なかったのは、単に患者数が足りなかったからである。
さらにいえば、女性の場合、リチウム投与で甲状腺機能低下症が増えるかどうかも怪しい。 両側検定すると p = 0.098 であり、明らかな有意差はないのである。
甲状腺機能低下症は、甲状腺自体に障害がある一次性と、下垂体からの甲状腺刺激ホルモン分泌が低下している二次性とに大別するのが普通である。 一次性甲状腺機能低下症の原因としては、自己免疫性慢性甲状腺炎、いわゆる橋本病の頻度が高い。 他に、医原性甲状腺機能低下症もあり、あたりまえであるが、たとえば甲状腺癌のために甲状腺を全摘出した人などがこれにあたる。 その他に、精神医学領域で有名な医原性甲状腺機能低下症として、リチウムの副作用によるものがある、とされる。 リチウムは、臨床的には炭酸リチウムとして、双極性障害の治療薬として用いられ、治療域が 0.4-1.0 mEq/L と狭いことが特徴である。
リチウムの作用機序は、基本的には、他の一価陽イオンに依存する蛋白質の作用を阻害するものと考えられている。 薬理学の名著である Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、 甲状腺刺激ホルモンによるアデニル酸シクラーゼの活性化をリチウムは阻害するために甲状腺機能低下症を来す、と述べている。 一方、内分泌学の名著 Jameson JL et al., Endocrinology Adult and Pediatric, 7th Ed. (Elsevier; 2016). は、機序はよくわからない、と述べている。
この Endocrinology の教科書によれば、リチウムを長期投与すると半数の患者で甲状腺腫大が生じ、 20 % の患者で subclinical hypothyroidism が、また 20 % の患者では overt hypothyroidism が生じる、としている。 また精神医学の聖典 Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). も同様に subclinical hypothyroidism と overt hypothyroidism がそれぞれ 20 % の患者で生じる、としている。
このように書くと、リチウムが甲状腺機能低下症を惹起することは、広く知られた事実であるかのようにみえるが、本当だろうか。 「リチウムを投与したら甲状腺機能低下症になったのだから、リチウムが原因だったのだろう。」などというのでは論理が粗く、科学的でない。 正しい医学理論を打ち立て、次代の医療の礎を築こうとするならば、感染症学におけるコッホの 4 原則に代表されるような、緻密な論理を重視せねばならない。 現代の臨床医の中には、「治れば良い」などとして科学的思考を放棄する者も多いが、そういう態度を医者がとるようでは、早晩、科学としての医学は失われ、 呪術や祈祷と大差ない「治療」が蔓延するようになるだろう。 実際、現時点で既に、医学的にデタラメな「治療」が、巷ではしばしば行われているのである。 医学における理論軽視の風潮を厳しく批判した人物として京都帝国大学の前川孫二郎教授について 4 年ほど前に書いた。
臨床医学の分野において、理論を最も重視するのは精神医学の人々であろう。 臨床医学の教科書のうち、「疾患」という語の定義を明確に述べているのは、私の知る限り、精神医学の教科書のみである。 また逆に、キチンとした精神医学の教科書であれば、必ず、こうした語の定義を明確に述べている。 細かな表現については教科書によって多少の違いがあるが、医学書院『標準精神医学』第 6 版の 「特定の原因, 病態生理, 症状, 経過, 予後, 病理組織所見がすべてそろった場合」を疾患と呼ぶ、という記述が簡明である。
もし「リチウムの投与によって甲状腺機能低下症を来す」というのであれば、いかなる機序によって、いかなる組織学的異状を伴って、それが生じるのかを考えなければならない。 それをしないのであれば、医者などいらぬ。コンピューターと看護師で代替可能である。
甲状腺機能低下症の話の続きより先に、エルサレムについて書こう。医学の話ではない。
報道によると、米国は 12 月 5 日、エルサレムをイスラエルの首都と認める旨を非公式ながら表明したらしい。 本件について、朝日新聞や 産経新聞などは、 パレスチナ政府が東エルサレムを「将来の首都」としている点を挙げ、紛争を激化させる動きとして報じている。 おそらく、歴史と政治に無知で無関心な若い記者が書いたのであろう。
現在イスラエルと称する集団は、1947 年の国際連合総会決議に基づいて「建国」されたものであるが、 これが国連憲章に反し、国家主権を踏みにじる不当な決議であることは 3 年ほど前に書いた。 しかも、この国連決議においてですら、エルサレムはイスラエル領に含まれていない。 エルサレムをイスラエル領とみなす根拠も、ましてや首都と認める根拠も、存在しないのである。
現在は東エルサレムがヨルダンの、西エルサレムがイスラエルと称する武装集団の支配下に置かれているのは事実である。 これは第一次中東戦争の停戦ラインであって、ヨルダンとイスラエルの間の平和条約で認められたものであるが、あくまで停戦ラインであって、国境ではない。
第二次世界大戦以降、武力を背景とする領土拡大は認めない、というのが国際的な合意となっている。 ロシアがクリミアの自国への編入を宣言した時でさえ 「クリミア自治共和国が自主的にウクライナからの離脱およびロシアへの帰属を決定した」という形にしなければならなかった。 むろん、この「自主的な決定」はロシアによるクリミア占領下で行われたものであって、ウクライナ憲法に反しており、国際的には無効とみなされている。
日本の例でいえば、竹島は韓国による占領下にあるが、あくまで日本領である。
千島列島の問題は、さらに複雑である。 サンフランシスコ条約では日本による千島列島の領有放棄が明記されているが、 ソ連は同条約に不参加であるから、この条約を根拠にロシアが領有権を主張することはできない。 すると、千島の帰属を規定するのは千島樺太交換条約ということになり、日本共産党が主張する通り、千島列島全体が日本領と考えるべきである。 なお、いわゆる北方領土、すなわち択捉、国後、歯舞、色丹のみについて領有権を主張するのは、筋が通らない。 以上のことから、理屈としては千島列島全体が日本領のはずであったのだが、日ソ共同宣言で歯舞、色丹のみを日本に引き渡す、として合意してしまった。 こうなると、日本が千島列島、あるいは択捉や国後の領有権を主張することはできない。 千島列島について特には宣言文に記載されていない以上、「まずは歯舞、色丹を返還して、千島列島はその後に交渉しましょう」などという勝手な理屈は、認められないのである。 このように、択捉、国後を含め千島列島について日本が領有権を主張することは難しいのだが、 ロシアの占領下にある、という事実自体は、この列島がロシア領であるとする根拠にならない点に注意を要する。
繰り返すが、武力による占領地は、領土ではない。 仮にイスラエルなる国家の存在を認めるとしても、少なくともエルサレムはイスラエル領ではないのである。 それを指摘しない朝日新聞や産経新聞の記者連中は、不勉強が過ぎる。
すこし間隔があいた。 何回かに分けて、甲状腺機能低下症について書こう。英語でいえば hypothyroidism である。
甲状腺機能低下症は、臨床的に overt hypothyroidism と subclinical hypothyroidism に分類される。これらを日本語で何と呼ぶかは、知らぬ。 内分泌学の名著 Jameson JL et al., Endocrinology Adult and Pediatric, 7th Ed. (Elsevier; 2016). によれば、 Subclinical hypothyroidism とは
The first step in the spontaneous development of primary hypothyroidism is a slight decrease in thyroid secretion of thyroxine (T4), which causes increased release of TSH. The decreased T4 secretion results in a modest decrease in the serum concentration of free thyroxine (FT4), which still remains within the normal reference range, but serum TSH increases to values above the upper normal limit because of the exquisite sensitivity of the pituitary thyrotroph for circulating thyroid hormone (giving rise to the log-linear relationship between serum TSH and FT4). The condition is known as subclinical hypothyroidism.
一次性甲状腺機能低下症の初期においては、まず甲状腺からのチロキシン (T4) の分泌が僅かに減少し、結果として TSH の放出が亢進する。 T4 の分泌減少により、遊離チロキシン (FT4) の軽度の減少を来すが、正常な基準範囲内に留まる。 一方、血清 TSH レベルは正常上限を超える。 これは、下垂体の甲状腺刺激ホルモン産生細胞が血中甲状腺ホルモンレベルに高い感受性を持っているからである。 こうした状態は subclinical hypothyroidism と呼ばれる。
この教科書は優れた臨床医学書ではあるが、厳格な医学的思考を放棄している点が遺憾である。 Subclinical hypothyroidism というのは、ある病態を意味する言葉であるから、検査値が基準範囲内だとか正常上限だとかいうことによって定義されるべきではない。 そもそも原文にある normal reference range という言葉は意味不明であるし、normal range というのも意味が曖昧である。 現代の臨床検査医学では、正常範囲 (normal range) という不正確で曖昧な言葉は使わず、統計に基づいて定義された基準範囲 (reference range) を用いるのが普通である。
Subclinical hypothyroidism という語を、病態に基づいて定義すれば、次のようになるだろう。 「早期の一次性甲状腺機能低下症においては、下垂体からの TSH 分泌が亢進することで甲状腺ホルモンの分泌能低下が代償される。 この状態を subclinical hypothyroidism という。」
ついでにいえば、TSH は T4 よりも T3 をやや選択的に分泌させるので、T4 と T3 の比をみることも、subclinical hypothyroidism の診断に役立つ。 いずれにせよ注意すべきことは、これらは頭をカラッポにして検査値を眺めれば自動的に判断できるようなものではなく、 あくまで病態をよく考えて診断すべきものだ、という点である。 まともな学生であれば「そりゃ、そうだろう」と思うだろうが、恐るべきことに、中途半端に経験を積んだ研修医や若い医師は、そのあたりのことを忘れてしまうのである。