2017/09/29 Brugada 症候群 (2)

10 月 10 日の記事に続きがある。

Brugada 症候群という名称は、これを最初に報告した Brugada 兄弟の名からつけられたものである (J. Am. Coll. Cardiol. 20, 1391-1396 (1992).)。 この報告の筆頭著者である P. Brugada は、その後もこの疾患群の第一人者であり続けている。 彼が 2016 年に書いたレビューは、短く簡潔で読みやすいので、Brugada 症候群をよく知らない人は、ぜひ読まれよ (J. Cardiol. 67, 215-220 (2016).)。

Brugada 症候群の、type I と呼ばれる典型的な心電図所見は、V1 〜 V3 誘導における ST 上昇と陰性 T 波である。 これの生じる機序を、どのように説明するか、という問題は現在なお未解決であるが、いくつかのもっともらしい仮説は提唱されている。

最も広く知られている仮説は「再分極説」である。 これは 2009 年の Brugada 三兄弟によるレビューでも採用された (Rev. Esp. Cardiol. 62, 1297-1315 (2009).)。

これは、Brugada 症候群患者の 20 % 程度にみられる SCN5A 遺伝子の変異を Brugada 症候群の原因とみる考え方である。 SCN5A は、心筋細胞の電位依存性ナトリウムチャネルをコードする遺伝子である。 これが機能障害あるいは発現低下していると、心筋細胞の膜電位の phase 1 が深くなり、電位依存性カルシウムチャネルが活性化しない。 その結果プラトーが小さくなり、再分極が早く起こる。 SCN5A は、主に心外膜側の心筋細胞で発現しており、心内膜側では発現が乏しい。従って、この SCN5A の変異の影響は、心外膜側で顕著になる。

ところで、「心内膜側の膜電位と心外膜側の膜電位の差」が心電図と概ね一致する、と考える人々がいる。この考えが、いかなる根拠に基づくものであるのかは、知らぬ。 この考えに基づいて、SCN5A の変異によって Brugada 症候群の type I の心電図を説明できる、という意見がある (Circulation 100, 1660-1666 (1999).)。 前述の P. Brugada の 2009 年のレビューでも、これを採用している。

以上のことを総合して、SCN5A あるいはそれに類するイオンチャネルの異常に起因する早期再分極によって Brugada 症候群の心電図異常が生じるのだ、とするのが再分極説である。 しかし、これは誤った考え方である。 SCN5A の変異というならば、それは心室全体にびまん性に生じるはずであって、V1 〜 V3 に限って ST 上昇がみられるのは、おかしいからである。

そもそも、心電図を「心内膜側と心外膜側の膜電位の差」で説明しようとすること自体が誤りである。 詳細は別のところで述べたが、心電図は、細胞外の電流ないし電位の分布を捉える検査である。膜電位、すなわち細胞内電位は関係ない。 心内膜側と心外膜側の膜電位の差は、一定の条件下で心電図に類似する可能性はあるが、あくまで心電図とは異なるものである。 上述の 1999 年の Circulation に掲載された報告では、それでも pseudo-ECG、つまり「偽心電図」と書いていたから許せなくもない。 しかし、これを引用した P. Brugada は単に ECG、つまり心電図、と書いており、正しくない。 「偽心電図」は、あくまで偽物なのであって、これと本当の心電図を混同してはならない。

こういう論理の不整合を無視して、都合の良い一面だけを捉えて「説明できた」と称するのは、科学的態度ではない。 冷静に論理的に考えれば、SCN5A の変異は、Brugada 症候群に関係はするであろうが、直接の原因とはなり得ないのである。

次回は「脱分極障害説」を紹介しよう。


2017/09/28 Brugada 症候群 (1)

医学科の高学年生や医師であれば、Brugada 症候群という名称ぐらいは、聞いたことがあるはずである。 しかし、この症候群の概念を自信を持って説明できる者は稀であろう。 朝倉書店『内科学』第 11 版は、Brugada 症候群の「定義・概念」を次のように説明している。

Brugada 症候群は, 12 誘導心電図の V1 〜 V2 (V3) 誘導で ST 上昇を認め, おもに夜間睡眠中または安静時に VF (註: 心室細動のこと) を発症し突然死の原因となる疾患である.

鋭い人は気づいたであろうが、これは Brugada 症候群の特徴を述べているだけであって、「定義・概念」としては正しくない。 もし、これが定義であるならば、突然死しなければ Brugada 症候群ではない、ということになってしまう。 また、実際には ST 上昇を伴わない Brugada 症候群もある。 そもそも、Brugada 症候群が一つの「疾患」であるかどうかは、疑わしい。「疾患」の定義については2 年ほど前に紹介した。 さらにいえば、急性中隔心筋梗塞は Brugada 症候群ではないが、上述の「定義」には当てはまってしまう。 朝倉『内科学』は学生向けの内科の参考書として人気であるが、このように定義の記述が甘いので、本当に内科学をキチンと勉強する際には役立たない。

実は我が書棚には Braunwald's Heart Disease のようなキチンとした循環器学の成書が収められていない。 そこで学生向けの参考書である Lilly LS, Pathophysiology of Heart Disease, 6th Ed. (Walters Kluwer; 2016). や、 心電図学のアンチョコ本である Goldberger AL et al., Goldberger's Clinical Electrocardiography, 9th Ed. (Elsevier; 2018). をみても、 Brugada 症候群の定義は述べられていない。 おそらく、疾患概念を曖昧にしたままに臨床的な診断基準 (Heart Rhythm 10, 1932-1962 (2013).) だけが独り歩きするという異常な事態が生じているのではないか。

Brugada 症候群は単一疾患ではないが、特定の「症候」で括られるわけではないので、症候群ともいえない。 疾患群である、と考えるべきであろう。 これは、次のように定義するのが良いと思うが、いかがであろうか。

Brugada 症候群とは、右室伝導路の異常を背景とする不整脈であって、局所のリエントリー回路の形成により致死的不整脈を来すリスクの高い状態が恒久的に生じているものをいう。

中途半端に循環器学を修めた人であれば、「右室伝導路の障害」という表現をただちに攻撃するであろう。 というのも、多くの教科書において、Brugada 症候群では再分極障害はあるが伝導路自体は健常である、などと記載されているからである。 ここでいう再分極障害とは、ナトリウムチャネルの機能障害などにより一部の心筋細胞で早期に再分極する、という意味である。

その考えは、誤りである。 典型的な Brugada 症候群の心電図は、右室伝導路の障害を伴わない再分極障害では、説明できない。 諸君は、教科書やアンチョコ本の記載を鵜呑みにしているから、そういう理屈の通らない説明に騙されるのである。 「教科書を信じるなというなら、一体、何を信じれば良いのか」と言う人もいるが、それに対する答えは簡単である。 我々は、ただ自分の頭脳のみを信ずるべきである。

こういうことを書くと、学識の乏しい人々は悔し紛れに、私に向かって「では、お前は Brugada 症候群の心電図を説明できるのか」と切り返す。 よろしい。説明してさしあげよう。 と、思うのだが、記事が長くなってきたので、続きは次回にする。


2017/09/27 論文の被引用数

日本の、少なくとも一部の領域においては、科学者としての業績を impact factor で評価する風潮がある。 詳細を書くこと自体も腹立たしいが、物の道理を知らぬ者も少なくないであろうから簡潔に書けば、次のようなことである。 ある科学者がこれまでに書いた全ての論文について、その論文が掲載された論文誌の impact factor を合計する。 たとえば最初の論文が impact factor 2.0 の論文誌に、次の論文は 0.5 の論文誌、3 つ目の論文が 10.3 の論文誌に載ったなら、合計は 12.8 である。 この 12.8 点を、その人が持っている impact factor である、とする。 そして二人の科学者の過去の業績を比較するには、この持っている impact factor の大小が目安になる、というのである。

そもそも impact factor は、図書館において限られた予算を効率的に使うために、「利用される頻度が高い資料」を評価する目的で発明されたに過ぎない。 米国の Department of Chemistry, Pomona College の Gross らは 1927 年、限られた予算の中で購入すべき化学論文誌を選ぶ基準として 被引用数を基準とする方法を提案した (Science 66, 385-389 (1927).)。 これを、掲載されている論文数で除すことで補正したのが Garfield の impact factor である (Am. Documentation 14, 195-201 (1963).)。 なお Garfield は、これはあくまで図書館としての利便の問題であって、異なる分野の論文誌を比較するには impact factor は適さない、とも述べている。

つまり impact factor は、「人気があるかどうか」だけを基準に評価しているのであって、その資料が学術的に意義があるかどうかなど、もとより考慮されていないのである。 さらに言えば、これは論文誌の評価尺度であって、そこに掲載されている論文を評価するものではない。 実際、impact factor は様々な理由から、科学者の業績を評価するには不適切であることが知られている。 Med. Sci. Monit. 15, SR1-4 (2009). などは短くて読みやすくまとめられているので、興味のある方は読まれるが良い。 とにかく、impact factor で科学者を評価することは有害無益であり「可及的速やかに抹殺すべき風習」である (Br. Med. J. 334, 568 (2007).)。

ここで私が問題にしたいのは、もっと根本的な点である。 Impact factor で科学者を評価することを批判する人々も「論文の被引用数によって業績を評価する」という基本的な姿勢自体には強く反発しない例が多いようである。 しかし、それは、どうなのか。

この「被引用数で論文を評価する」こと自体を批判する意見を、私が初めて耳にしたのは京都大学 3 年生の時である。 我々が物理工学科原子核工学サブコースに配属された春の、懇親会の席でのことであったと思う。 某准教授が「引用された回数で論文の質を評価できるという考えは、あれは間違いだよ。私は調べてみたことがあるが、全然、そんなことはなかった。」と言った。 准教授が、どうやって調べたのかは知らぬ。 ただ、私には、そもそも「引用された回数で論文の質を評価できる」という発想自体が理解不能であったので、 この准教授の言葉も「そりゃ、そうだろう」ぐらいにしか思わなかった。

だいたい、世の中の論文なるものの大半には、学術的意義がない。 著者の大半は、大した学識もなく、頭脳の水準も高くなく、付和雷同してくだらない報告を量産しているような連中である。 このことは impact factor の有害性を主張する論説の中で、しばしば指摘されていることでもある。 そういう知的水準の高くない連中の多数決で決まる「被引用数」で、どうして、学術的意義を測ることができよう。

George Lundberg は、J. Am. Med. Assoc. の編集者として、引用されやすい論文ばかりを掲載することで同誌の impact factor を押し上げた「功労者」である。 学術論文誌の商業主義化の先駆けであるといえよう。 Br. Med. J. 334, 561-564 (2007). によれば、その Lundberg でさえ「論文の被引用数と科学的重要性の間には、あまり関係がない」という点は認めていたらしい。 また、impact factor を提案した上述の Garfield も「被引用数を基準とする手法は、個人の業績を評価する際には注意して用いなければならない」と述べている (Am. Documentation 14, 195-201 (1963); 再掲)。

研究予算の削減などにより、昨今の科学研究をとりまく環境は、ますます厳しくなっている。 その中で、予算やポストを獲得するために、被引用数を稼ぐための方策を駆使している者も多い。 彼らの事情は理解できるが、科学者の心を持つ者として、私は、そういう姿勢を容認しない。


2017/09/26 留学についての補足

留学について、誤解があるといけないので補足しておく。 私は、留学と称して海外に遊びに行くこと自体を否定しているわけではない。 遊ぶこと自体には、確かに、見聞を広げる価値はあり、日本の自宅に籠って漫画やゲームに興じるよりは、はるかに意義がある。

ただし「学ぶ」ということ自体についていえば、海外に行った方が良いとは思われない。 そもそも、現地語を母国語と同程度には扱えず、しかも医学の基礎すらよく修めていないような者が、フラフラと海外に行ったところで、何を学ぶというのか。 仮に留学先に世界トップクラスの研究者などがいたとしても、基礎のできていないヒヨコが、何を学び取れるというのか。 言葉や文化の壁を考えれば、母国で学ぶ方が、よほど有益である。 海外に行くのは、あくまで遊びなのである。

本当に海外に行って学ぶ価値があるのは、何か具体的な目標がある場合である。 たとえば間質性肺炎に興味があるが、本当に間質性肺炎を一から百まで、しっかりと理解して議論できる者が日本には少ない。 しかし米国の某教授は、間質性肺炎の神様のような人である。ぜひ、その教授に会って語り合いたい。 教授と共に研究し、診療し、そこで得たものを日本に持ち帰りたい。 そういう場合には、ぜひ、米国に学びに行くと良いだろう。

遊ぶのが悪いことであるとは思わない。学会と称して国内外に遊びに行くことも、倫理的問題を別にすれば、とんでもなく悪いことであるとはいえない。 しかし、本当は遊んでいるだけなのに、まるで自分がよく勉強しているかのように錯覚しては、ならない。


2017/09/25 留学

今年の末に、北陸医大 (仮) を卒業して現在は米国の某有名大学で働いている医師を招き「臨床留学について」というような題目で講演が行われるらしい。 あまり興味は湧かないが、せっかくなので、聴きに行こうとは思う。

気に入らないのは、この講演会の予告ビラの記述である。 この医師が現在勤めている病院や診療科について「全米で 3 位にランクされている」などとして、素晴らしい病院であるかのように紹介しているのである。 この「ランキング」が、誰に、どのようにして作成されたものであるのかは知らぬ。 しかし、ろくでもない、取るに足らぬものであることは間違いない。 この病院は確かに有名であり、実際に素晴らしい病院なのかもしれないが、しかし「ランキングで順位が高いから」という理由で「素晴しい病院だ」と判断するのは不適切である。

何より問題なのは、この予告ビラを作成したのが北陸医大の者だという点である。 我が北陸医大は、国立大学医学科の中では入学難易度は比較的低いし、医師国家試験合格率も高くはない。 論文発表数や被引用数も多くなく、要するに、この種のランキングでは、あまり高く評価されない大学である。 ランキングを根拠に大学や病院を評価する者は、つまり「我が大学は大したことがない」と自虐しているに等しい。

あなた方には、誇りというものがないのか。 世間が何と言おうとも我々は優秀なのだ、私こそが明日の医学を背負っていくのだ、という気概を、持っていないのか。

さて、留学についても書いておこう。 どうも一部の医学科生や医師の間には、海外留学というものを必要以上に重視している者がいるように思われる。 あるいは短期留学して遊んできただけなのに、何か重大なことを学んだかのように錯覚している者もいるのではないか。

お茶の水の某国立大学では、短期留学経験者の帰国報告が掲示されているのをみかけた。 しかし、彼らが留学で何を学んだのか、私には理解できなかった。 この種の報告で述べられる内容は、通常、2 つに大別できる。

一つは「世界中から集まった優秀な学生や若手医師と交流することができた」とか「優れた教育者から指導を受けることができた」といった、権威におもねるものである。 諸君は、その学生や指導者が優秀か否かを判断するだけの能力を備えているのか。 単に「有名な大学だから」「偉いと言われているから」「試験の点数が高いから」といった他人任せの根拠で判断しているのではないか。 そもそも我々は、教科書を開き、論文を読むことを通じて、世界中の優秀な頭脳と日々対話しているではないか。 そうした対話で日頃から感動していたならば、たとえば Harvard Medical School を代表する病理学者 Eric S. Rosenberg に会ったとしても 「ほぅ、あれが Rosenberg 教授か」ぐらいには思っても、特段、心を揺さぶられることはあるまい。

もう一つは「プレゼンテーション技術を勉強することができた」「たいへん刺激を受けた」というような空虚な文言である。 プレゼンテーション技術など、本当に鍛える意思があるなら、日本で勉強できる。わざわざ海外留学して学ぶようなことではない。 だいたい諸君は、日本にいる時は「伝われば良いではないか」と、細かな表現へのこだわりや工夫を放棄し、技術を磨くことを怠っていたのに、 留学した途端に「プレゼンテーション能力」などと言いだすのだから、一貫性がないと言わざるを得ない。 なお「刺激を受けた」は論外である。日頃、教科書や論文を読んでも感動しないような感性の乏しい者が、 単に海外に行っただけで一過性に興奮して口にする「刺激」など、信用できない。

もし私が海外留学したなら、報告書には次のように記載するであろう。

「ハーバード大学は世界一であるかのように言われているが、実際には大したことはない。 私程度の学識でも、彼らと互角に論争することができた。北陸医大がハーバードより劣るということはない。」

2017.09.28 リンク追加

2017/09/24 樹状突起と軸索 (2)

三日前の記事の続きである。

MEDSi 『カンデル神経科学』第 5 版には、次のように記載されている。

樹状突起でのシグナルの伝播は, 当初は純粋に受動的であると考えられていた。 しかしながら, 1950 年代に行われた神経細胞の細胞体からの細胞内記録, および 1970 年代にはじめられた樹状突起からの細胞内記録によって, 樹状突起は活動電位を発生しうることが示された。

しかし、この教科書は参考文献の記載が乏しく、よろしくない。 真の科学者であれば、教科書の記載や先生のおっしゃることを盲信せず、必ず、自らの眼と頭脳で根拠を確認するのが当然だからである。

「樹状突起でのシグナル伝播は純粋に受動的である」というのは、現代の言葉でいえば「樹状突起では電位依存性チャネルを介した脱分極は起こらない」という意味である。 しかし私が確認した限りでは、このような考えを実験事実に基づいて主張した文献は、みあたらない。

樹状突起の興奮性をはっきり確認した最初の報告は C. A. Terzuolo と荒木辰之助である (Ann. N. Y. Acad. Sci 94, 547-548 (1961).)。 荒木らは、微小電極を使いニューロンの細胞体と樹状突起で同時に膜電位を測定することで、 樹状突起は細胞体からの刺激の伝播に依存せず、それ自体が興奮可能であることを示した。 なお、荒木らの時代には細胞膜にイオンチャネルが存在することが知られておらず、現在の我々とは常識が大きく異なるため、当時の文献は、かなり読みにくい。

1976 年には、ハトのプルキンエ細胞の樹状突起に電位依存性カルシウムチャネルが存在することが報告された (Proc. Natl Acad. Sci. 73, 2520-2523 (1976).)。 また 1995 年には、ラットの大脳皮質ニュローンの樹状突起に電位依存性ナトリウムチャネルが存在し、通常活動電位は生じないものの、 電気的シグナルを増強する作用のあることが報告された (J. Neurophysiol. 74, 2220-2224 (1995).)。

こうした樹状突起の興奮性の生理的意義については、21 世紀に入ってからも細々とではあるが精力的に研究が続けられている (J. Neurophysiol. 88, 2755-2764 (2002).)。

三日前に紹介した寺島氏の『神経解剖学講義ノート』や、組織学の教科書の記載は、間違っているわけではないが、単純化し過ぎている。 医学や生物学の深淵なることを、学生に適切に伝えているとは、到底、いえぬ。

そして多くの学生や研修医は、単純化した「わかりやすい」ものにばかり飛びつき、世界の真相を知ろうとしないのである。


2017/09/22 名古屋大学からの礼状

「樹状突起と軸索」の続きを書こうと思ったのだが、事実関係の確認に必要な参考文献が手元になく、 北陸医大 (仮) の他キャンパスから取り寄せ中なので、今日は別の話をする。

我が愛する母校、名古屋大学からの礼状を不快に思い寄付をやめた話は以前に書いた。 それと関係はないのだろうが、同大学からの礼状の書式が改善されたようなので、一応、母校の名誉のために事実を記載しておく。

9 月 19 日付で、名古屋大学から寄付に対する礼状が届いた。 私の同大学への寄付は 7 月 31 日が最後なので、たぶん、それに対する礼状なのだと思うのだが、少し遅いような気もする。 9 月の礼状は、定型文であること自体は前月と変わりないものの、書式にいささかの変更が加えられていた。

まず医学部長・医学系研究科長の署名が入った。厳密にいえば「署名を印刷したもの」であるが、以前は記名だけであったのだから、いささか人情味が増したといえる。 次に、名古屋大学医学部のロゴがカラー印刷で入った。 卒業生としては、こういう画像一つ入るだけでも、いささか嬉しく思うものである。

そして「本来なら参上してお例を申しあげるべきではありますが、甚だ略儀ながら、書中にて」云々という白々しい文言が変更された。 礼状としては、たいへん良くなったと思う。

ただ、定型文を毎月送りつけるスタイルは変わらないらしいことが遺憾である。礼状など、半年か一年に一回で充分であろう。 もし毎月送るなら、せめて「今月の一枚」というような具合で写真を載せるなどすれば読む側も楽しくなると思う。

2017.09.28 語句修正

2017/09/21 樹状突起と軸索 (1)

9 月 24 日の記事も参照されたい。

神経細胞には突起があり、「神経突起」と呼ばれる。これは、教科書的には「樹状突起」と「軸索」に区別される。 このあたりは、医学科生はもちろん、高等学校で生物を修めた者にとっては常識であろう。 では諸君は、樹状突起と軸索の定義上の違いを明確に述べられるか。 換言すれば、どこからどこまでが樹状突起で、どこからどこまでが軸索なのか。

高等学校の教科書などは記述が浅薄であるから、「刺激を受ける部分が樹状突起、刺激を送る部分が軸索」とか 「刺激は樹状突起から軸索に向かって伝わる」などと説明しているかもしれぬ。 しかし、中には「軸索 - 軸索シナプス」も存在するし、興奮は双方向性に伝導するのだから、「軸索から樹状突起に向かって伝わる興奮」も存在する。 上述のような説明は、厳密には正しくないのである。

私は名古屋大学 3 年生の頃、神経解剖学を勉強している時に、この疑問を抱いた。 同級生らに問いかけてみると、皆、てんでバラバラ、勝手なことを言うばかりで、キチンとした厳格な認識を持っている者がいない。 そこで手持ちの教科書類を調べてみると、寺島俊雄『神経解剖学講義ノート』(金芳堂; 2011). には明確な記載があった。

樹状突起部における膜電位変化は, 刺激の大きさにより加算されていりうアナログ信号である (樹状突起電位 dendritic potential).

つまり、軸索は興奮するが、樹状突起は興奮しない、というのである。 実は、これと同じ意味の記載が組織学の教科書にも記載されていたのだが、当時の私は、よく理解していなかった。 たとえば伊藤隆『組織学』改訂 19 版 (南山堂; 2005). には

軸索は、神経細胞の胞体の軸索丘から起こる. 軸索丘につづく軸索の起始節 initial segment は ... 軸索丘と同様の構造をもち, 機能的にインパルス inpulse の発生にあずかる.

とあり、また藤田・藤田『標準組織学 総論』第 5 版 (医学書院; 2015). は

初節には電位依存性ナトリウムチャネルが高密度に集まっているため, 活動電位の発火閾値が低く, 活動電位が最初に発生する部位となる。

と述べている。

こうして私は、「樹状突起は、興奮しない」という認識を持つようになったのだが、過日、ふと MEDSi 『カンデル神経科学』第 5 版を読んだ時、驚いた。 224 ページに「樹状突起は電気的に興奮可能な構造であり、活動電位も発生できる」と記載されていたからである。

ここで「興奮」という言葉の定義を確認したい。私は、この語を「活動電位が生じること」という意味で使っていた。 しかし、「カンデル」の上述の記載は、「興奮」を「脱分極」、正確にいえば「電位依存性ナトリウムチャネルを介したナトリウム電流が生じること」という意味で 用いているように思われる。 よく考えてみると、私は、この語を医学部編入予備校 KALS の授業で覚えたのであって、キチンとした成書から学んだわけではない。 そこで手元の教科書を確認してみたのだが、「興奮」という語を明確に定義した記述が、どの書物にも、みあたらない。 興奮性シナプス、だとか、興奮性シイナプス後電位、といった単語はあるが、「興奮」については記載がないのである。 ひょっとすると、これは正式な生物学用語ではないのかもしれぬ。 それならば、いささか冗長ではあるが「活動電位の発生」などと表現するのが正しい、ということになる。 もし、「興奮」という語のキチンとした定義をご存じの方がいたら、教えていただきたい。

(次回に続く)


2017/09/20 精神病理学

「精神病理学」という語の意味は、曖昧である。 私は「いわゆる精神疾患について、その背景にある中枢神経系の解剖学的・生理学的な異常を詳らかにする学問」の意味で、この語を使いたい。 ただし、この学問分野は、少なくとも日本では「生物学的精神医学」と呼ばれており、これを「精神病理学」とは、普通は呼ばない。 この意味における精神病理学は極めて未発達であり、かろうじてアルツハイマー型認知症やレヴィ小体病の器質的異常が僅かに解明されつつある程度に過ぎない。 一方で、この意味における精神病理学の発達を切望する精神科医は少なくない。 私は医学科 5 年生の時の臨床実習の時、病理医志望である旨を述べたところ、精神科教授から「ぜひ、脳の病理をやってくれ」と言われた。

日本の精神医学における「精神病理学」という語の意味は、上述のものとは異なり、いわゆる「記述精神医学」のことである。 医学書院『標準精神医学』第 6 版では「現象学など文科系の方法により精神症状の理解を目ざす学問である. 『異常心理学』もほぼ同じ意味である.」としている。 これを、フロイトなどの精神分析論などに基づく、いわゆる力動精神医学と混同してはならない。 「異常な精神現象に対しては厳密な現象観察を重んじて精神症状を記述するにとどめるべきで, はっきりしないエネルギー論や無意識などの概念を用いるべきではないという立場」が精神病理学である。 つまり、フロイトなどの考えを否定する立場なのである。 なお、金原出版『現代臨床精神医学』改訂第 12 版では「精神病理学」という語は用いていないが、「記述精神病理学」について、上述のものと同様の内容が記載されている。

一方、米国における精神医学の聖典である Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). では、Psychopathology という語を単に `Study of mental disorders.' と説明しており、かなり広い意味で用いている。 Descriptive psychiatry については、医学書院のいう「記述精神医学」と同様の内容を記載した上で、「Emil Kraepelin がその先駆けである」としている。

さて、北陸医大 (仮) の精神科医局の前に第 40 回日本精神病理学会大会のお知らせが掲示されていた。 ここでいう「医局」とは、いわゆる「医局制度」の「医局」ではなく、「医師控え室」という意味であって、こちらが「医局」という語の原義である。 この「お知らせ」の「大会長ご挨拶」が、たいへん結構である。 断章取義はよろしくないので、基本的には原文を参照していただきたいのだが、要点だけを抜粋すると次のようなことである。

... 巷では、これからの大学には実学以外の人文社会科学は無用とする極論が幅を利かせ、 文系の知の砦は経営と法律実務の専門学校化しつつあり ... 理性的思考より大衆感覚的ノリに拠ろうとする反知性主義が跋扈しています。...

自然科学的精神医学の側も ... ``evidence based'' の合言葉の下で量産される知見の 擬似科学性が知れるにしたがって、その科学的基盤がゆらいでいるのです。

「ここが精神病理学の出番だろう!」と主宰者は自らを鼓舞しています。...

昨今の社会情勢において、実学重視の風潮は世界的に強く、直接的に経済的利益を生まない基礎的な学問は実に窮屈な思いをしている。 精神病理学など、壊滅の危機に瀕しているといって良い。 そこで「我々の出番だ」などと奮い立っているのだから、この人達は少し頭がオカしいと言わざるを得ない。 もっとも、精神科医の頭がオカしいのは古くから知られている事実である。北杜夫の「どくとるマンボウ」を読めば、よくわかる。 また『標準精神医学』の最初の 3 ページ「精神医学とは何か」の節を読めば、やはり、この人達は少しオカしい、ということがわかる。

こういう、頭のネジが 2, 3 本、飛んでしまったような人達こそが、本当に科学を前へ押し進めるのである。

なお、この日記を読んでいる人であればわかると思うが、私も、少し頭がオカしい。 私は病理学者であるが、実は精神科医の資質もあるのではないかと、密かに思っている。

2017.09.21 語句修正

2017/09/19 低栄養と血液学的異常 (2)

低栄養状態が造血に与える影響は、Anorexia Nervosa の患者においてよく研究されてきた。 Anorexia Nervosa 患者の骨髄における組織学的変化について最初に報告したのは H. A. Pearson である (J. Pediat. 71, 211-215 (1967).)。 Pearson は、患者の骨髄検体をよく観察し、骨髄低形成に加え、間質に無構造の沈着物の豊富なることを指摘した。 そして PAS 染色やアルシアン青染色の所見から、この沈着物は酸性ムコ多糖であろう、と推定した。 このあたりの特殊染色の話は、月刊「病理と臨床」2017 年 8 月号の「病理組織染色法の基礎講座」で解説されているので、興味のある人は読まれよ。

いわゆる再生不良性貧血では、こうした酸性ムコ多糖の沈着はみられない。 では、これは Anorexia Nervosa に特有なのか。 そのような疑問を抱いた病理学者達は、ホジキンリンパ腫やパーキンソン病などを背景に生じた悪液質 cachekia の患者の骨髄を調べ、 Anorexia Nervosa の場合と同様の酸性ムコ多糖が沈着していることを報告した (Virchows Arch. A Path. Anat. and Histol. 374, 239-247 (1977).)。

こうした骨髄の変化は gelatinous transformation と呼ばれ、その筋では有名らしい。 また、なぜか末梢血中には有棘赤血球がしばしば出現するが、その機序は不明である。 典型的な顕微鏡所見は Int. J. Hematol. 97, 157-158 (2013). などに掲載されている。

骨髄において、なぜ、このような酸性ムコ多糖が沈着するのか。 この沈着が原因となって造血障害が生じる、とする意見がある (Acta Haematol. 100, 88-90 (1998).)。 一方、上述の 1977 年の報告の著者らは、この酸性ムコ多糖の沈着は、脂肪細胞の減少に伴う反応性変化であって、骨髄の構造を支持する効果があるのではないか、と述べている。

理屈としては、酸性ムコ多糖の沈着は造血障害の原因ではなく結果である、とした方が自然である。 原因と考えてしまうと、沈着の機序が謎のまま残るだけでなく、ムコ多糖以外の部分の骨髄も低形成髄様の所見を呈することや、髄外造血が起こらないことを説明できない。 それに対し、栄養不良の状態における造血能低下や脂肪の減少に対する代償性変化である、とするならば、 造血能低下の機序は不明であるものの、ムコ多糖の沈着自体は合理的な生体反応として了解可能なのである。

以上の議論からわかるように、栄養不良によって生じる血液学的変化については、未だよく知られていない。 日本を含め、昨今の先進諸国政府は、いわゆる実学を重視し、こうした「金にならない」分野に研究資源を投入しない方針を明確にしている。 その結果、表面的には多数の「研究成果」が挙げられているものの、実際にはその多くが学術的意義の乏しい空虚な論文であり、 科学を大きく前進せしめるような学問が育たないのである。

これについて、過日、野心に満ちた声が精神医学の分野から発されたのを聞いた。 次回は、その話をしよう。

2017.09.20 誤字修正: 医学→科学

2017/09/18 低栄養と血液学的異常 (1)

過日、「低栄養が原因で、血小板減少を伴わない好中球減少症を来すことは、あるだろうか」という疑問が湧き起こった。 詳細は記さないが、そういう現象が起こっていると想定される患者を診たからである。

低栄養のために汎血球減少を来す、というのは、機序はともかく、ありそうに思われる。 平たくいえば、栄養不足で血液を造れない、という状況である。 では、血小板は造れるが好中球は造れない、という状況は、あるのだろうか、というのが上述の疑問の要点である。

朝倉書店『内科学』第 11 版には、栄養不良が骨髄に及ぼす影響については記載がない。 また、内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Pprinciples of Internal Medicine, 19th Ed. (McGrawHill; 2015). には、 クワシオルコルにおいてはリンパ球減少がみられる、と記載されている。

栄養不良は、マラスムスとクワシオルコルに分けて考えるのが一般的である。 マラスムスは、全ての栄養素が長期にわたり欠乏することによって生じる臨床病型であって、浮腫を伴わない体重減少などを特徴とする。平たくいえば、慢性的な飢餓である。 一方でクワシオルコルは、炭水化物は摂取できているが蛋白質が欠乏しているような状況で生じる臨床病型であって、下肢の浮腫などを特徴とする。 `Harrison' は、先進国におけるクワシオルコルは疾患や外傷などによる急性一過性の栄養障害で生じることが多い、と述べている。 ただし、これには異論もあり、血液学の名著 Kaushansky K et al., Williams Hematology, 9th Ed. (McGraw Hill; 2016). では、これをクワシオルコルに含めていない。

飢餓が人体に及ぼす影響については、1940 年代に米国のミネソタ大学で健常者を対象とする大規模な研究が行われ、 長大な報告書 (Keys A et al., The Biology of Human Starvation, (Minnesota Press; 1950).) にまとめられたらしい。 しかし、この報告書は東京大学、京都大学、長崎大学などには所蔵されているものの、我が北陸医大 (仮) の図書館には収められていないので、私は確認できていない。

一方、神経性食思不振症 Anorexia Nervosa の患者における血液学的異常については、報告が比較的豊富である。 この問題について、よくまとまったレビューは Int. J. Eat. Disord. 42, 293-300 (2009). である。 詳細な議論は割愛するが、Anorexia Nervosa ではしばしば貧血を来すが、これは単純なビタミンなどの栄養素の欠乏によるものではない、と考えられている。 また白血球減少については、`Harrison' がいうようにリンパ球減少もみられるが、好中球減少も稀ではない。 さらに、比較的頻度は低いが、血小板減少も来すことがあるらしい。 従って、冒頭で述べた疑問についていえば、「低栄養により血小板減少を伴わずに好中球減少を来すことは、ある。」ということになる。 なお、好中球減少については、BMI の小さい患者ほど頻度が高いかもしれない、という意見もあるが、はっきりしない (Eur. J. Clin. Nutr. 70, 1305-1308 (2016).)。

この話には、もう少し続きがあるのだが、長くなってきたので次回にしよう。


2017/09/17 勉強会に人を集める

毎週末に、学生と一緒に勉強会をやっている。 「基礎の部」としては基礎病理学の教科書である Kumar R et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (Elsevier; 2015). を 毎週 20 ページ程度の速さで輪読している。 また「応用の部」としては、週刊「The New England Journal of Medicine」の Case Records of the Massachusetts General Hospital を隔週程度で読み、議論している。

教科書を読む、というのは、ただ字面を追うことを言うのではない。 一言一句、意味を吟味し、批判的考察を加えつつ、著者との対話を進めることをいう。 独りで読んでいると、この吟味が甘くなりがちなので、複数人で歩調を揃えて読み進める勉強会形式は有益である。 しかし正直にいえば、これらは、かなり難易度が高い。 Robbins をキチンと読もうとすれば、私の場合、せいぜい時速 4 ページ程度であり、20 ページを読むには少なくとも 5 時間はかかる。実際には 7, 8 時間かかることも多い。 それだけの時間を毎週、勉強会の準備のためだけに割くのは、容易ではない。 平均的な水準の学生や研修医にとっては、甚だ困難であろう。 だから勉強会にあたっては、無理して全ページを読む必要はない、予習して来なくても構わない、ということにしているが、参加者は少ない。

勉強会に人を集めようとするならば、もっと親しみやすい、わかりやすい内容をやるのが良いであろう。 学生を対象にするなら、疾患と組織学的特徴を対応付けて、「わかりやすく」説明するのが良かろう。 しかし、それでは医学ではなくなり、「学ぶ」ということの本質から大きく乖離してしまう。

現在の医学科の教育には、物事を深く探究する、という姿勢が欠如している。 「これは、こうなのだ」と教えられて、その知識を得て満足する、という「勉強」の仕方が主流である。 試験においても、そういう表面的な知識を問うだけの内容が多い。医師国家試験など、ひどいものである。 しかし、それでは、いけない。それでは、医学は進歩しない。 臨床医療においても、ガイドライン盲従のマニュアル診療しか、できなくなる。

なぜ諸君は、前に進もうとしないのか。 医学科に入り、医師免許の取得が事実上保証され、生涯の経済的安泰が保証されたところで、なぜ、立ち止まるのか。 眼前に広がる未開の荒野を、なぜ、開拓しようとしないのか。

名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、多くの学生や研修医は、興味の幅が極めて狭い。 将来、自分が専門にしようとする分野の、それも業務に必要な内容しか、勉強しようとしない。 つまり「必要だから」という理由で勉強しているに過ぎない。 また、臨床実習の学生や研修医が「○○科に興味がある」と言えば、「将来、○○科の医者になることも考えている」という意味に解釈されがちである。 「自分の専門にする気はないが、学問・医療として興味はある」という意味には、解釈されないのである。 「必要はないし専門にする気もないが、面白そうだから」という理由で勉強するという発想が、ないのである。

私が精神医学の名著 Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). を購入したのをみて「病理には必要ないだろう」と言った人がいる。 私は「だからこそ、積極的に勉強するのだ」と答えた。

子供の頃には、誰しも、幅広い好奇心、興味の心を、持っていたはずである。 いつのまにか諸君は、それを心の引き出しの奥にしまい、鍵をかけてしまったものと思われる。

そのまま、一生を終える気なのか。


2017/09/16 お茶の水と本郷

過日、夏休みを取得して東京に行った。 その最大の目的は、あまり医学的でないので、ここには書かない。 いずれ機会があれば、思い出した時に書くことにしよう。 東京を訪れたついでに、東京都心のいくつかの大学病院を偵察してきたので、その報告を記しておく。

最初に訪れたのは、お茶の水の某国立大学である。 狭い敷地に高層の建物が並んでおり、たいそう立派である。 外来受付ホールには多数の患者が座っていた。 建物は大きいが、全体的にやや古びた印象を受けた。 これといって特筆すべきこともなかった。 図書館にも入りたかったのだが、学外者への公開は制限されているようであった。 ウェブサイトをみると、予め目的の書籍を定めて入館申請せよ、とのことである。 我が北陸医大 (仮) の図書館が広く市民に公開されているのとは対照的である。 歓迎されないのであれば、無理して入ろうとまでは思わない。 建物は我が北陸医大より大きいが、大学や病院としての質や度量において、我が方が劣るようには思われなかった。

次に訪れたのは、同じくお茶の水にある某私立大学である。 こちらは、上述の国立大学と同じくらい大きな建物であるが、内装はきらびやかであった。 しかし、外来受付ホールなどに下品な二種類の掲示のあることが遺憾であった。

第一の掲示は医師国家試験合格実績の大学別一覧を示したものであり、「我が大学は、こんなに優秀な教育を行っているのだ」とでも自慢するかのようであった。 言うまでもなく、医師国家試験合格率の高いことは、良質な教育を施していることを意味しない。 むしろ、まともに医学を勉強すれば、国家試験で苦戦することは必定である。 すなわち、あの合格実績の高さは、この大学においてまともに医学教育が行われておらず、国家試験対策に徹した低俗な「教育」が行われていることの証左である。

第二の掲示は、卒業生の一人が医学とは全く関係ない政府の重職に就いたことを宣伝するものである。 学術ではなく、医療でもなく、政治における出世を宣伝するのが、この大学の方針なのだと思われる。

なお、図書館は学外者には開放されていないようであった。

最後に訪ねたのは、本郷の某国立大学である。 さすが日本最古の大学だけあって、敷地は広大であった。 病院内も賑やかである。 感心したのは、病院地下の食堂入口に、白衣での入店を禁ずる旨の掲示があったことである。 医者等が着用している白衣は不衛生であるから、飲食店等に入る際には脱ぐのが世界の常識である。 職員専用食堂ならグレーゾーンであるが、一般人も利用する飲食店に白衣のまま入るのは、不適切である。 しかし医者は怠慢であるから、多くの病院には、白衣のまま食堂に入る者が存在する。 これに対し、この大学は白衣での入店を明確に禁じているのである。たいへん、よろしい。

衝撃的であったのは、図書館である。 この大学では、当然のように図書館が学外者にも開放されていた。 そして書庫に入り、私は驚いた。 病理診断学の聖典である Ackerman の Surgicla Pathology が、1953 年の初版から最新の第 10 版まで、全て揃えて並べられていたのである。 もちろん現代においては、初版は教科書としては全く役に立たない。しかし貴重な史料として、また病理学の歴史的遺産としての価値がある。 これが丁寧に書架に飾られているというのは、我が北陸医大で Ackerman の第 5 版や第 6 版が捨てられかけたのと対照的である。

この大学の学生達は、かかる伝説的名著を座右に置き、日夜、学業に励んでいるというのか。 名古屋大学の学生達が「病気がみえる」などに頼り、医学の真髄に触れることもなしに医師免許だけを掠め取るのとは、雲泥の差である。

と、一瞬だけ思ったのだが、実は、そうではなかった。 図書館で勉強している学生が広げていた書物をチラリとみると、それは、どこぞの低俗な出版社が発行している、くだらない受験対策書であって、医学書ではなかった。 結局、図書館が立派であっても、学生の質がそれ相応に高いとは限らないのである。

東京大学、恐るるに足らず。


2017/09/15 公僕

さて、私はあるとき、ある病院の救急外来で、医療保護入院が実施される現場に立ち会った。 患者は妄想が強いが、それ以外の精神身体機能は健全なようであった。 話している内容も、妄想に関する部分以外は、完全に筋が通っていた。

その人は病識がないようであり、入院には、同意しなかった。 詳しい経緯は知らないが、保健所の職員や親族に半ば騙されるような形で病院に連れて来られたらしい。 入院させる旨を告げられると、激しく抵抗した。

その人が興奮して立ち上がった時、ある若い研修医が「ちょっと座ろうか」と声をかけて制止した。 すると、その人は、ますます怒った。 そういう口のきき方は、ないんじゃないか、というのである。 だいたい、医者にせよ看護師にせよ、あんた達は、いつもそうだ。上から目線で、偉そうにして、見下して。 患者といえども一種の顧客なのであって、たとえ相手が興奮していても、丁寧な言葉遣いで対応するのが、社会人として当たり前ではないか。 と、その人はまくしたてた。

諸君は、医学科を出て医者になるという、世間の常識から隔離された世界で生きてきたから、この患者の言うことを理解できないかもしれない。 しかし、ごく普通の社会常識からすれば、この患者の発言は、至極、もっともなのである。 たぶん私だけでなく、その場に居合わせた保健所職員も、患者家族も、その患者の発言には心から同意していたと思う。

普通の人は、医者と喧嘩しようとは思わないから、そういうことを思っていても、口にはしない。 しかし、この患者は妄想に伴って、いささか、そうした抑制が効かない状態になっていたのであろう。 思っていることを、全て口にしてしまったものと思われる。

民間の商取引は、基本的には、両者の合意があって初めて成立する。 「嫌なら来るな」というのは、法的には、正当な主張なのである。 しかし医師に関しては、医師法で応召義務が定められており、「嫌なら来るな」と断わる権利はない。このあたりは、公務員と同様である。 我々は公僕である、という認識を、忘れてはならない。

なお本記事においては個人等の特定を避けるため、一箇所だけ事実に反する内容を記載しているが、話の本筋には全く影響ない部分である。


2017/09/14 妄想

医者の無礼な態度についての教訓話を書く前に、精神医療の基本的なことについて、いくつか書かねばならない。

妄想とは、精神医学的には 1) 事実に反する; 2) 確信している; 3) 訂正不能である、の 3 要件を満足する思念のことをいう。 だから、たとえば「妻が浮気をしているような気がする」というのは、確信していないから、妄想ではない。 また、「その日はずっと、あなたと一緒にいたじゃないの」と言われて納得するなら、訂正できているので、妄想ではない。 もちろん、本当に妻が浮気しているなら、事実に反しないので、妄想ではない。

統合失調症と呼ばれる疾患群は、妄想の出現などを特徴とする。 その妄想によって社会生活に問題が生じているならば、精神疾患と判断される。 定義上、患者自身は、妄想を「事実に反する」と認識することができない。 従って患者は「自分の状態が異常である」ということを認識できない、つまり病識のないことが稀ではない。 あたりまえのことであるが、その場合、患者本人は入院に同意しないのが普通である。

そこで精神保健福祉法では、精神保健指定医が入院加療の必要ありと認め、かつ本人に同意能力がない場合には、家族等の同意に基づいて「医療保護入院」として 強制入院させることを認めている。 また、精神障害のために自分自身や他人に害を与える恐れがある場合には、「措置入院」として、家族等の同意すらなしに強制入院させることも認めている。

強制入院や身体拘束は、日本国憲法第 13 条の定める「個人の尊厳」を侵し、同第 18 条の禁じる「奴隷的拘束」を行うものであって、 また同第 21 条の表現の自由も妨げるなど、著しい人権侵害である。 このあたりの法学的議論は山本克司「医療・介護における身体拘束の人権的視点からの検討」(The Teikyo Law Review 27, 111-138 (2011).) が素人にも読みやすい。

こうした人権侵害を認めている精神保健福祉法の規定に、違憲性はないのか。

この問題については、一部の法学者らが盛んに議論している。たとえば篠原由利子「医療保護入院・保護 (義務) 者制度を巡る論議の変遷」 (佛教大学社会福祉学部論集 9, 99-121 (2013).) や、 石埼学「精神科閉鎖病棟の憲法学」(亜細亜法學 42, 15-3 (2008).)などは初心者にも読みやすい。 しかし医者の多くは、自分達が国家より偉いと勘違いしているから、こういう法的問題に興味を示さない。 法学者が何かを論じても「彼らは臨床を知らないから」と、耳を貸そうとしないのである。 実に傲慢である。

また「憲法や法律が何といおうと、必要なのだから」などと言う者もいるが、笑止である。 たとえ必要であろうとも違法な「医療行為」は認められない、という基本的事実を認識していないのである。 これが著明なのが堕胎を巡る問題であって、日本においては違法な堕胎に手を染めている産科医が非常に多い。 彼らは彼らなりの正義感に基づいて行っているのだろうが、それは社会の合意を得ていない独りよがりの正義感であって、犯罪者の自己弁護に過ぎない。

さて、話を精神障害者に対する強制入院に戻す。 措置入院については話が簡単で、これは公共の福祉の観点から、患者の人権を制限しているのである。 患者自身のためというより、周囲の人のために、無理矢理、入院させているのである。 こうした人権制限は日本国憲法第 13 条も認めている。

問題は、医療保護入院である。これは、余人のためでなく、患者本人のための入院であるが、しかし患者本人の意思は無視して強制入院させているのである。 私の知る限り、 この精神保健福祉法の規定を合憲であるとする明確な法学上の論理は、存在しない。 「正常な判断能力が保たれていれば、本人も入院に同意するであろう」と推定した上で、 「本人の同意がないから、という理由で治療をせずに放置する方が非道徳である」という情緒的な理由で、臨床は動いているように思われる。

もし、発症前に本人が「私は、仮に統合失調症になっても入院したくない。医療保護入院させないで欲しい。」と明確に意思表示していた場合、どうなるか。 現状では、おそらく、本人の事前の意思表明を無視して家族等が同意すれば、医療保護入院が実施されるのではないかと思う。 しかし、それで良いのか。


2017/09/13 医療の快感

しばらく更新が滞ったのは、夏休みを取得していたためである。 我が北陸医大 (仮) では、研修医には 6 日間の夏期休暇が与えられる。 6 月から 12 月の間で、研修中の診療科と相談の上、自由に取ることができる。連続して休んでも良いし、分割して休んでも良い。 先月に 2 日間の休暇を取得した他、一昨日から本日までの 3 日間も休暇とした。 休暇中には東京に行き、某大学医学部を偵察するなどしたのだが、その話は別の機会に書くことにしよう。

さて、私は臨床医ではないが、さぞ臨床医療行為は快感であろう、とは思う。 悩み苦しむ患者が、助けを求めて自分のところにやってくるのである。 そして基本的には、患者は、自分の指示に忠実に従う。 場合によっては、裸になれ、とか、陰部をみせろ、とか、写真に撮らせろ、とか言うし、患者はそれに黙って従う。 私自身、20 代のうら若い女性と密室で二人きりになって「腋をみせてくれ、写真に撮らせてくれ」と言う、などという恐怖体験をしたことがある。 もちろん、診療にあたり必要な記録を残すためである。 しかし、後で患者から「猥褻なことをされた」と訴えられた場合、弁明が困難になるので、本来、こういう場合には女性看護師などに同伴してもらうのが正しい。 しかし、この時は人員が足りず、やむなく私が単独で撮影を行ったのである。 二度と、あんなことはしたくない。

話を戻すが、医者は様々な薬物を使用して、あるいは外科的な手技によって、患者の身体を操作することができる。 患者の体を、自分が支配しているのである。 そして患者は、感謝を述べ、金を払って去って行く。 これに快感を覚えないとすれば、むしろ、その方が異常である。

時に、外科医志望の学生や研修医の中に「手術は楽しいが、周術期管理は面倒くさい」などと言う者がいる。 これは言語道断である。上述のような快感に呑まれ、医道を見失ったと言わざるを得ない。 本当に患者のことを思い、治療のことを第一に考えているならば、むしろ周術期管理こそが大事だからである。 実際、まともな外科医は、手術手技と同等以上に周術期管理を重視している。

上述のような快感が日常であるが故に、医者の多くは、程度の差こそあれ、人としての基本的なことを忘れていく。 たとえば、患者に対する言葉遣いである。まともに敬語を使えない医者は多い。 年配の患者に対し「痛いの?」とか「座って」とか、無礼な口のきき方をする者は多い。 ろくな経験も技術も学識もない研修医でさえ、自分が患者より偉いと勘違いしているのか、ぞんざいな話し方をする者が少なくない。 少なくとも医学科では、そういう話し方を戒める教育がなされているはずなのに、である。

私は、そうなりたくないので、相手が嬰児であったとしても敬語で話すことを徹底している。 麻酔科研修中などは、全身麻酔で意識のない患者相手でさえ、針を刺す時に「では、ちょっとチクリとします。いきます。いち、にの、さん」などと声をかけていた。 もちろん気管挿管の際には、意識のない相手に「ちょっと、お口を失礼します。大きくあけます。」などと言っていた。 これに対し「すごく丁寧だな」と評する指導医はいても、「言わんでよろしい」などと馬鹿にする者はいなかった。

医者の無礼な態度に対し、内心で不満を抱えている患者は多いであろう。 ただ、患者は大抵、オトナなので、その不満を表明する者は少ない。医者の機嫌を損ね、自分に不利益が生じることを恐れているからである。 実際、そういう苦情を堂々と述べた患者が「モンスターペイシエント」扱いされている場面を、私はみたことがある。

この「医者の無礼な態度」について、たいへん教訓的な場面に遭遇したことがある。 次回、これについて書こう。


2017/09/08 いわゆる二次結核 (2)

いわゆる二次結核の中に、再活性化によるものが含まれているのは事実である。 昨日の記事で紹介した、結核菌のゲノムを調べて再感染を証明した報告 (N. Engl. J. Med. 341, 1174-1179 (1999).) においても、16 例中 4 例は再活性化であった。 近年の話題でいえば、TNF-α 阻害薬であるインフリキシマブや免疫抑制薬などを使用することで、結核の再活性化を起こす例のあることが知られている。 余談であるが、この現象は病理漫画「フラジャイル」でも取り上げられた。

では、抗 CD20 抗体薬であるリツキシマブを使用した場合、結核が再活性化することは、あり得るだろうか。

この問題に私が興味を持ったのは、週刊「The New England Journal of Medicine」8 月 24 日号の Case Records of the Massachusetts General Hospital (N. Engl. J. Med. 377, 770-778 (2017).) を読んだ時である。 この記事では

Reactivation can be seen in patients who have received therapy with glucocorticoids or rituximab ... but is more common in persons who have received therapy with a tumor necrosis factor α inhibitor.

結核の再活性化は、グルココルチコイドやリツキシマブによる治療を受けた患者でも生じることがある。 しかし最も多いのは、TNF-α 阻害薬による治療を受けた患者においてである。

と述べられていた。これを読んだ時、私は「まさか」と思った。 リツキシマブ投与により結核が再活性化するとは考えにくいからである。

潜伏感染している結核菌が人体のどこで生存しているのかは、知らない。 教科書には記載がないし、その他の文献でも読んだことがない。たぶん、誰も知らないのだと思う。 しかし、結核菌はマクロファージに貪食された後にファゴリソソームの形成を阻害することで、マクロファージ内で生存・増殖することが知られている。 このことからは、結核菌は主に肺胞マクロファージ内に潜伏感染する、と想像するのが自然である。 それならば、結核菌の活動を抑えるにあたりインターフェロンなどは関与するであろうが、抗体や B リンパ球は無関係であろう。 リツキシマブは B リンパ球の活動を抑える薬なのだから、これが結核を再活性化させるとは考えにくい。

上述の記事で、該当箇所の根拠として引用されていたのは Int. J. Infect. Dis. 15, e2-e16 (2011). と PLoS One 11, e0153217 (2016). である。 しかし私が読む限り、いずれの文献にも、リツキシマブが結核を再活性化させたことを示す記載はない。 この記事の著者が、どういう解釈に基づいてリツキシマブによる結核の再活性化の可能性を指摘したのかは、理解できない。

ついでにいえば、この記事において、interferon-γ release assay (IGRA) の陰性所見を「偽陰性であろう」と述べている点についても、理解に苦しむ。 この記事の症例では、患者は過去にツベルクリン反応陽性であったことを根拠に latent tuberculosis と診断されたのだが、その後の IGRA では陰性であった。 Latent tuberculosis では生涯にわたり IGRA 陽性となるはずだから、という理由で、著者は IGRA 陰性という所見を「偽陰性」と判断したのである。

なぜ、ツベルクリン反応偽陽性の可能性を考えないのか。ツベルクリン反応の特異度の低さを、知らないのか。 そもそも、陰性という検査結果を単に「偽陰性」と切り捨てるぐらいなら、はじめから検査を実施するべきではない。 臨床検査医学に対する理解が乏しいと言わざるを得ない。

このことからわかるように、the Massachusetts General Hospital の医師といえども、とんでもなく優秀なわけではない。 医師としての見識、水準でいば、北陸医大 (仮) や名古屋大学よりは少しばかり上かもしれないが、我々の手が届く程度の差に過ぎない。


2017/09/07 いわゆる二次結核 (1)

いわゆる二次結核の話をしよう。 学問を語る時には、言葉の定義を正確にすることが重要である。 基本的には、初めて結核菌に感染してすぐに発症する結核を一次結核と呼ぶのに対し、初感染から長い期間を経てから発症する結核を二次結核と呼ぶ。 しかし「二次結核」の厳密な定義については、歴史的に混乱が続いている。 近年では、そもそも「二次結核」という語の使用を避ける識者が少なくないようである。

医学書院『医学大辞典』第 2 版の「結核」の項では、結核菌に感染して「いったん治癒した後, 結核菌が再増殖し, 二次性結核として発症する。」としている。 つまり、潜伏感染していた結核菌が、何らかの事情により再活性化して発症するものを二次結核と呼ぶ、とする立場である。 古典的には、この先行する「初感染」は小児期に起こることが多い、と信じられていた。

一方、基礎病理学の名著である Kumar R et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9th Ed. (Elsevier; 2015). は

Secondary tuberculosis is the pattern of disease that arises in a previously sensitized host. ... It most commonly stems from reactivation of a latent infection, but may also result from exogenous reinfection

二次結核とは、既に結核菌に感作されている患者において生じる病型をいう。... 多くの場合は潜伏感染していた結核菌の再活性化によるものであるが、再感染によって生じることもある。

と述べている。 また、内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Pprinciples of Internal Medicine, 19th Ed. (McGrawHill; 2015). は

it may result from endogenous reactivation of distant LTBI or recent infection

二次結核は、潜伏感染していた結核菌の再活性化によって生じることもあれば、再感染によって生じることもある

という曖昧な記載に留めている。こういう「無難」な表現は、情報量が少ないので、私は好きではない。

さて、感染症学の聖典である Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th Ed. (Elsevier; 2015). は 「二次結核 secondary tuberculosis」という曖昧な表現を避け、「慢性肺結核 chronic pulmonary tuberculosis」について

In countries where the level of contagion is low, most cases of active tuberculosis reflect reactivation of latent foci. However, when contagion is high, exogenous reinfection may be more common.

結核が流行していない地域においては、活動性結核の多くは潜伏性病変の再活性化である。 一方、結核の流行地域においては、再感染が多数を占めることがある。

としている。

二次結核の機序について、以前は、上述の医学書院のような「再活性化説」が広く信じられていたらしい。 たとえば 1958 年頃の文献 (Transactions of the Conference of the Chemotherapy of Tuberculosis 17, 214-217 (1958).) をみると、 あたりまえのように「再活性化 reactivation」という表現が用いられている。 この再活性化説が信じられるに至った歴史的経緯は、知らぬ。

2000 年前後に、少なくとも日本をはじめとする結核流行地域においては再感染の割合が高いのではないか、という議論が盛り上がったようである。 再感染を証明した最も衝撃的な報告は、1999 年の van Rie らによるものである (N. Engl. J. Med. 341, 1174-1179 (1999).)。 Van Rie らは、治療後に再発した結核患者について、初発時と再発時の結核菌のゲノムを調べ、両者が異なる株であることを示したのである。 その後、流行地域においては結核感染は頻回に生じていることなどが報告され、現在では、いわゆる二次結核の多くは再感染であると考えられている。 このあたりの議論は Am. J. Roentgenol. 192, W198 (2009). に簡潔にまとめられている。


2017/09/06 優しい心

私が、やむなく医学転向することを決めた時、幾人かの友人から「君が、医者になるというのか」と言われた。 もちろん、人格的に医者に向いていない、という意味である。 私ほど非常識で協調性がない者も珍しく、患者に優しい医療が提供できるとは思えない、という意味であって、私自身も、そう思っていた。

以前にも似たようなことを書いたような気がするのだが、繰り返して書く。 いざ医学科に入り医者になってみると、恐るべきことに、私は人格的な意味では、相対的に医師に向いているように思われる。 相対的に、というのは、他の学生や医者に比べて、という意味である。 換言すれば、周囲には、私よりもヒドい、医師に向いていない連中が、少なくないように思われる。

治療に対するアドヒアランスの低い患者がいる。 アドヒアランスというのは、治療への積極性のことである。 たとえば、薬を決められた通りに飲むとか、決められた食事制限を遵守するとか、そういったことである。 世の中には、処方された薬を飲まない患者や、糖尿病なのにムシャムシャとチョコレートを貪る患者、 あるいはアルコール性肝障害があるのに禁酒しようとしない患者は、稀ではない。

こういう患者に対し、程度の低い医者は「治す気がないなら、治療できない。帰れ。」と、突き放す。 「なぜアドヒアランスが低いのか」ということを、考えないのである。 病識が乏しいのか、あるいは依存があるのか。それとも何か別の疾患があるのか。 いずれにせよ、医療機関を受診している以上、患者は「治したい」という気持ちを少しは持っているはずなのである。 それなのに、自分自身の治療に非協力的であるとすれば、それは何らかの病気である。 身体的な疾患なのか、精神的な疾患なのかはわからないが、とにかく、病気である。 それを「やる気がないなら帰れ」などと医者が突き放すようでは、本当に医学を修めたのかと、その資質を疑わざるを得ない。

「単に、だらしないだけだろう」などと言う医者もいるかもしれないが、そういう者は、精神医学の勉強をやり直す必要がある。 現実に自身の体を傷つけており、やめたいという気持ちがあるのにやめられないなら、それは精神疾患である。 患者が希望するなら、医師には、その治療に協力する義務がある。

そんなこともわからない、患者の状況を理解する能力の乏しい医者が、遺憾ながら、日本には稀ではない。


2017/09/05 新しいものを創る

私は学生時代、医師国家試験対策予備校のビデオ講座の類はみなかったが、多くの医学科生は、そういう講座で「勉強」する例が多いようである。 よく知らないのだが、この種の講座では「周囲と同じようなことを、周囲と同じようにできることが重要である」と教えられるらしい。 私は中学・高校・工学部時代に独自性を重視する教育を受けてきたが、それとは対極的である。 なぜ、予備校連中がそういう教育をしているのかは知らないが、私は、医師・医学者にとっても独自性が重要であると信じる。

「周囲と同じようなことを、周囲と同じように」という教育には弊害が多い。 他の人がやっていないことは、自分もやらなくて良い、という発想につながるからである。 もちろん、他の人がやっていないことに正当な理由があれば良いのだが、少なくとも現在の医療では、そうではない。 本当はやった方が良いのだが、現実には多くの医者がやっていないことも、多いのである。 たとえば、診察や検査の前に患者に名乗らせて本人確認するべきである、というのは臨床医療の常識だが、 現実には、正当な理由なく省略されることが多い。 あるいは、診察室において、患者が他の患者のカルテを覗きみることができるような配置は不適切なのであるが、 現実には、そうしたプライバシー保護が欠如している診察室は珍しくない。

こうした点について、少なからぬ学生や研修医は、疑問や批判を口にしない。 指導医に対して「この診察室の配置は不適切ではないか」とは言いにくいかもしれないが、せめて研修医同士で「アレは、まずいよね」ぐらいは、言うべきである。 それすら、なかなか、できていないのである。

「新しいものを創ろう」「より良い方向に変えていこう」という意識が、乏しいのである。 変えるべきだ、という意識があったとしても、自分では変えようとせず、他力本願なのである。 そういう教育を、受けてこなかったからである。

外科系診療科では、過重労働が常態化している病院も少なくないのではないか。 さらにいえば、過重労働を「俺達は頑張っている、たくさん仕事している」と誇る風潮すら、あるように思われる。 そういう発言を、外科系志望の一部の学生や研修医から聞くことも珍しくない。

何かを勘違いしている、と言わざるを得ない。 頑張っているかどうかは、関係ない。 むしろ頑張っていることを述べるのは、自分の無能を述べているに等しい。 過重労働せねばならないのは、何か勤務体制に問題があるのではないか。 過重労働ゆえに新人が入らず、より激務になるのではないか。 過重労働は医療過誤の温床である。 その「頑張り」は、あなた方の自己満足にはなっても、患者の利益にはならない。 「医者が足りないのだから仕方ない」「患者がいるのだから診なければならない」というのも、言い訳にならない。 それを変えるのは、あなた方の責任だからである。


2017/09/03 不勉強でアレですが

過日、北陸医大 (仮) の研修医などを対象としたセミナーで、術後鎮痛薬についての話があった。 質疑応答の時間に、私は、NSAID には解熱鎮痛だけでなく抗炎症作用もあるが、これが術後の回復に何か影響するだろうか、という質問を発した。

この種の講演会やセミナーなどで質問する際の作法について、学生時代や研修医になったばかりの頃には私もいささか迷いがあったが、昨今では自分のスタイルを確立している。 たとえば、質問を述べる前に「貴重なご講演をありがとうございます」というようなことを言う人もいるが、私は、これは省略する。時間の無駄だからである。 公開された会合であれば所属と名を述べ、あるいは内輪の会合ならばそれも省略して、いきなり本題に入るのが美しいと思う。

しかし今回は、本題に入る前に「不勉強でアレですが」という前置きをしてから、上述の質問を述べた。 もちろん、周囲の研修医と比較すれば、私は相対的には不勉強な研修医ではないから、これは単なる謙遜であって、事実ではない。 普段であれば、こういう謙遜も無駄なので省くのだが、今回は敢えて入れた。 これには相応の理由がある。

私は、北陸医大の一部の指導医の間で、マニアックでネチっこい質問をする嫌らしい研修医として、少しばかり恐れられていると思う。 その私であれば、NSAID とアセトアミノフェンの相違が術後経過に及ぼす影響について既に勉強済みであってもおかしくない。 そう考えると、本当は「○○の理由で△△の方が優れていると思うのだが、いかがであるか」という形式で質問したかったのだが、 あいにく、この問題については私は未だ勉強していなかったので「何か影響するだろうか」という訊き方になったのである。 すなわち「(私の基準でいえば) 不勉強であって恐縮だ」という意味で上述の前置きをしたのである。 しかし相対的には不勉強ではないのだから、「恐縮」は言い過ぎであるように思ったので「不勉強でアレですが」という曖昧な表現になった。

ところで、質問、で思い出したのだが、 先に書いた病理「夏の学校」では、質問の際に私は敢えて「北陸医大の○○です」と名乗り、「研修医」とは言わなかった。 これも、それなりの思惑あってのことである。 というのも、私としては「北陸医大といえば○○」というような印象を他の参加者に与えたかったので、余計な単語を挟みたくなかったのである。 「北陸医大の研修医の○○です」と言ってしまうと、「研修医の○○」だけが印象に残り、「北陸医大」を覚えておいてもらえない恐れがある。

このように、質問の際の名乗り方、導入の仕方一つとっても、それなりに思惑が込められている。 が、質問し慣れていない諸君は、難しいことは考えずに、思ったままのことを口にすれば良い。 発表者からすれば、質問してくれるということ自体が嬉しいのだから、質問内容などはどうでもよく、くだらない内容で構わない。


2017/09/02 血液培養の恐怖

血液培養というのは、文字通り、血液を検体として細菌や真菌の培養を行う検査のことである。 感染症が疑われている患者について、血中に病原体が存在しないかどうかを調べる目的で行う。 これは奥の深い検査であり、その詳細を語ると非常に長くなるので、それは別の機会にしよう。

詳しい根拠については触れないが、現代においては、血液培養検体を採取する際には、別の場所から 2 回、つまり「2 セット」を採取するのが原則である。 世の中には、空気がないと増えない細菌と、空気があると増えない細菌の両方が存在する。 従って、血液培養は、空気を含む「好気ボトル」と空気を含まない「嫌気ボトル」をセットで行うのが普通である。 つまり「2 セット」というのは、ボトルの数でいえば 4 本分にあたる。1 本あたり基本的には血液 10 mL を入れるので、2 セットで 40 mL である。 これは、血液量としては、なかなか多いようにみえるかもしれないが、成人であれば血液は 4 L ぐらいはあるので、その 1 % を抜くに過ぎず、大したことはない。 ただし体重が 1 kg にも満たないような嬰児の場合、40 mL も血液を抜いたら死んでしまうので、気をつけねばならない。

さて、ある時、静脈からの採血が困難な患者について、左右の大腿動脈から血液培養検体を 1 セットずつ私が採取した。 大腿動脈というのは「足のつけ根」のところにある動脈であり、比較的浅いところを走っている太い動脈なので、血液を採取するのに都合が良いのである。 培養検体採取にあたっては、北陸医大 (仮) の場合、ヨード系消毒薬で皮膚を消毒し、しっかりと乾燥させてから針を刺すことになっている。 この「乾燥させる」という部分が重要で、しっかり乾燥させないと消毒薬の殺菌効果が発揮されず、皮膚についている細菌が検体に混入する恐れがある。 いわゆる「コンタミネーション」である。 実際、ある研修医が採血すると頻回にコンタミネーションが起こる、というので、指導医が採血手技の詳細を確認してみると、充分に乾燥させていなかった、という事例があった。 そこで乾燥を徹底するようにしてからは、その研修医が採血してもコンタミネーションは滅多に起こらなくなったのである。

さて、私は上述の検体採取を、複数の指導医がみている状況で行った。 私は小心者なので、いささか緊張し、あまりモタついてはならぬ、などと焦りが生じた。 そして、今から思えば完全に誤った行為なのであるが、消毒薬が充分に完全に乾燥しきるよりも少しだけ早く、針を刺してしまったのである。 検体の採取自体は、スムーズに行うことができた。

はたして、その血液培養では、2 セットから Staphylococcus aureus が検出された。 これをみて、私はヒヤリとしたのである。

2 セットともに S. aureus 一菌種のみが検出されたことや、S. aureus は表皮の常在菌としては比較的頻度が低いことから、 これは本当に血液中にいた菌が検出されたものと考えるのが自然である。 しかし、もしこれが S. aureus ではなく S. epidermidis であったり、あるいは複数の菌種が検出されていたら、どうであったか。 S. epidermidis は表皮の常在菌として頻度が高いので、消毒方法が不適切であれば、2 セット共にコンタミネーションすることは充分に考えられる。 また、菌血症では一菌種のみが検出されることが多いのに対し、コンタミネーションの場合は複数の菌種が検出されることが多い。 従って、そうした培養結果が 2 セット共に出た場合、「消毒はキチンとやりました」と言えなければ、 コンタミネーションの可能性を否定できず、検査結果の解釈が困難になるのである。

以上のようなことを私は知識としては知っていたのだが、キチンと実践できていなかった。 幸い、患者に害が及ぶようなことはなかったが、採血手技が不適切であると、場合によっては、本来不必要な抗菌薬を患者に投与せざるを得なくなる。 以後、気をつけよう。


2017/09/01 病理「夏の学校」(4)

「夏の学校」は、旧友との再会や、病理医の卵 (あるいは卵になる前の卵母細胞) 達との出会い、某教授らとの語らいと、実に楽しいものであった。 しかし、この日記は赤裸々を旨とするものであるから、残念な点についても、二つ、指摘しておかねばならない。

一つは、質疑応答の時間が乏しかったことである。 「夏の学校」では 5 つの講演が行われたが、いずれもスケジュールに余裕がなく、質疑応答はほとんど行われなかった。 一方的に講師が話すだけであるならば、はたして、はるばる中部全域から篠島に集まって会合する必要が、あるだろうか。 ビデオで配信したり、あるいは雑誌記事にまとめるだけで充分ではないか。 せっかく皆で集まったのだから、皆で議論し、双方向に情報のやりとりがなければ、つまらない。 そのあたりの配慮が乏しかったのは、実に遺憾である。

もう一つは、某大学教員による講演である。 内容の詳細に言及することは控えるが、子供を連れて米国留学した経験についても講演の中で触れられていた。 そこで、米国では幼少の頃よりプレゼンテーション能力を鍛える教育が行われていることなどを紹介していた。 私は、失礼ながら、少しばかり意地悪な質問をした。 「私は工学部出身であるが、工学部であれば、日本でも、それなりにプレゼンテーション技術の教育などが行われている。 しかし医学部では、名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、そういう教育がほとんど行われていないように思われる。非常によろしくない。 その点、あなたの大学では、どのようであるか。」と問うたのである。

単なる臨床病理医であれば「留学して、こんなことを身につけた」という話で良い。 しかし大学教員であるならば、自分が学んだことを教育に活かし、学生達に伝える道義的責任がある。 その意味において、あなたは、自分の留学経験を、自分の大学における教育に、どう活かしているのか、と問うたのである。

現在の病理医には、学生に対する教育への情熱の乏しい者が多いように思われる。 その結果、医学科における基礎病理学の講義も面白味が乏しくなり、学生が病理学への興味を失っているのではないか。 このことが及ぼす悪影響は、病理医を志す学生の数が減る、というだけのことではない。 多くの学生が、病理学を修めないまま、つまり疾患概念をよく理解しないままに、臨床講義や臨床実習に赴くことになり、結果、まともな教育効果が得られないのである。

さて、正直に言えば、たぶん何も行われていないのだろうな、と予想した上で私は上述のような質問をしたのだから、陰湿といえば陰湿である。 ただ、私は「なんとかしなければならないと思っている」というような言葉を引き出したかったのである。 しかし講師氏は「我が大学でも現状、何も特別なことは行っていない」と述べるに留まり、教育に対する情熱は語られなかった。

遺憾である。


2017/08/31 病理「夏の学校」(3)

昨日の記事で最後に書いた名古屋の某教授とは、篠島から帰る船の中で語り合った。 この時、教授は既にアルコールが入った状態であったが、酩酊というほどではなく、まぁ、精神状態は概ね尋常であったと思われる。

私は教授に対し、病理医の存在意義について問うた。 「近い将来、形態学的診断については人間がコンピューターに負ける時代が来る。また免疫組織化学所見のスコアリングに医師免許が必要とは思われず、臨床検査技師で良かろう。 また基礎病理学研究に至っては、もとより医師免許は不要である。そうしてみると、病理医の存在意義は、一体、どこにあるのか。」 病理医の中には「いくらコンピューターが発達しても、それを使う人間が必要である」などと楽観的な意見を言う者がいる。 しかし「コンピューターを使う人間」は臨床検査技師で良く、医師である必要はない。近い将来、我々病理医は、コンピューターによって代替されるのではないか。 これに対し教授は、「疾患概念を構築する人が必要である。」と端的に述べた。

この教授の言葉は、いささか、わかりにくいかもしれない。 教授は、臨床的な診断業務に限るならば、病理医は不要になるかもしれない、ということを暗に認めたのである。 しかし、その上で、医学の発展を先導するのは常に病理学者であり、その任務は疾患概念を形成することであり、 そのために病理学者は臨床の前線で診断に従事することで眼を養う必要がある、ということを暗に指摘したのである。 この「眼」というのは、無論、形態診断の感性を言うのではなく、標本の裏側に隠れている細胞の活動の異常を見抜き、 疾患の本質を論理的に洞察する能力のことを言う。

教授は言及しなかったが、こうした「眼」を備えた病理医の診断は、単なる形態学的パターン認識から脱却することができる。 その場合、我々はコンピューターよりも正確で緻密な診断を行うことができると、私は考える。

また私は教授に、「悪性腫瘍」という語の定義についての疑問を投げかけてみた。 すなわち「前立腺腫瘍や甲状腺腫瘍などの中には、現在の定義に従えば悪性ということになるが、一生放置しても問題ないものが少なからず存在する。 これは、はたして本当に悪性と呼ぶべきなのだろうか。」と述べたのである。 教授は、ただちに私の意図するところを理解し「同様に、脳腫瘍などの場合、異型や浸潤がなく組織学的に良性と思われる腫瘍であっても、生命を脅かすことがある。」と受けた。 そして続けて次のように述べた。 「あなたが悪性と思うなら、悪性と言って良いでしょう。」

この教授の言葉も、余人には理解し難いかもしれぬ。 現在の良悪性の定義に拘泥する必要はない。 より医学的に適切と考えられる方向に定義を修正するのは、次代の病理学者である、あなた方に課された任務である。 そのために、適切な実験的あるいは臨床的証拠を蓄積し、その妥当性を世に問う必要がある。 これこそが臨床病理学の研究であり、病理学者の責務である。 そういう意味を、教授は、上で紹介した言葉に込めたのである。


2017/08/30 病理「夏の学校」(2)

昨日の記事で、名古屋大学時代の同級生のうち病理医になりそうな人の数を「5 人から 6 人」と書いたが、これは「6 人から 7 人」の間違いであったので、修正した。 ある人のことを失念していたものであり、申し訳ない。 この人は私と同様、卒業と共に愛知県外へ出ていった人であるし、今でも病理志望なのかどうかはよく知らないので、数え忘れていたのである。 だいたい、どこの大学でも、病理医になる者の数は一学年に一人ぐらいである。 それを思えば、一学年から 6, 7 人というのは異常に多い。 もちろん数だけでなく、この 7 人は、学生時代から優秀であった者ばかりである。 いずれ我々は、名古屋の病理学黄金世代と呼ばれることであろう。

さて「夏の学校」では、5 つの講演と、1 つの CPC (ClinicoPathological Conference) 形式の討論会が行われた。 CPC 形式の討論会というのは、ある臨床症例を題材に、学生や研修医、若手病理医が、各班 8 人程度の 5 つの班に分かれ、 臨床所見や病理解剖所見についてまとめ、発表するものである。 この試み自体は面白かったのだが、時間の都合上、発表内容に対する質疑応答が乏しかったのは遺憾であった。 なお、若手が構成する 5 つの班の他に、教授クラスをはじめとする熟練病理医のみで構成される「第 6 班」も発表を行った。

私は、この夏の学校に参加するにあたり「北陸医大 (仮) は、単なる地方大学ではないぞ」ということを中部地方の諸君に知らしめることを個人的な目標としていた。 なので、北陸医大を代表して何か一発、病理医諸兄姉が舌を巻くような質問を入れようと狙っていた。 そして CPC で第 6 班が発表した際、とうとう、その機会が巡ってきた。

私は、病理解剖における骨髄の組織像について「破骨細胞様の巨細胞が多数、出現しているが、これらは骨梁から離れ、間質の中に浮いているようにみえる。 一体、これらの細胞は、何をしているのだろうか。」と、質問したのである。 もちろん、これは熟練病理医陣に対し、言外に「あなた方は、この不思議な巨細胞について、疑問を持ったことがありますか」と問うたのである。

明確な回答は、発表者からも、会場からも、返ってこなかった。一本、取ったといえよう。

さて、名古屋大学の某教授は、疑問を持つことを重視する教育の実践者である。 教授は、この私の質問に対し挙手し 「それは、疑問を持った人が解決すべきことである。我々のような老い先短い者ではなく、諸君のような若い世代が担うべきものである。」と述べた。 もちろん、これは、某内科でみたような、興味本位の質問を咎めるような意味ではない。 次代を担う我々を激励し、期待を表明する意味の言葉であった。

2017.08.31 語句修正

2017/08/29 病理「夏の学校」(1)

今月の 26 日と 27 日に、1 泊 2 日で愛知県の篠島において行われた日本病理学会中部支部「夏の学校」に参加した。 愛知や富山からの参加者が多かったが、それ以外の中部地方からも多くの学生や研修医が参加した他、中部以外の地域からやってきた学生もいた。

名古屋大学時代の私の同級生も、私を含めて四人、参加していた。 そのうちの一人については、てっきり腎臓内科志望だと私は思っていたのだが、病理転向を考えているようである。 聞くと、他にも、学生時代は臨床志望であったのだが諸般の事情で病理転向を考えている元同級生がいるらしく、 私を含め、一学年から 6 人ないし 7 人の病理医が生まれそうな勢いである。

また、信州大学から参加した某君とは、学生時代にとある催しで知り合い、医師国家試験の会場などで偶然、会ったことのある仲である。 この夏の学校でまた再会するとは、つくづく、彼とは縁があるらしい。

もちろん、初対面の相手も多かった。 名古屋大学の学生の某君とは、学生時代には面識がなかったのだが、夕食後の二次会で語り合った。 その時、彼から鋭い指摘をいただいたのは、以前に私が書いた病理診断には一定のセンスが必要であると書いた件についてである。 その「センス」とは、一体、何であるか、というのが彼の質問、指摘であった。

私は、即答できなかった。 定義を曖昧にしたまま、なんとなく「センス」という言葉を用いたのは、私の過失である。 しかし彼と話すうちに、次のような結論に至った。 すなわち、センスとは、適切な疑問を抱く能力のことである。

医学科の教育においては、質問をする能力が軽視されている。 センセイの言うことをよく覚えることが重視され、そういう試験が専ら行われているのである。 学生が何か質問をしても、まともに回答できない教員も多い。

では、質問をさせるよう務めることで、その「センス」を学生に身につけさせることは、可能であるか。 彼と話している時には、私は「できるかもしれぬ」と結論し述べたが、後でよくよく考えてみると、それは、容易ならざることであるように思われる。 たとえば病理組織学的に「適切な疑問」を抱くためには、いくら組織標本だけを眺めても、無理である。 組織学、生理学、細胞生物学、生化学、免疫学、あるいは臨床内科学や外科学といった、 医学全般にわたる学識があって初めて、病理学的な本質を突く疑問を抱くことができる。 結局、こうした系統的に積み上げられた学識こそが「センス」の本態であろう。

その意味では、たとえば研修医になってからでも、医学を系統的・網羅的に勉強しなおせば、「センス」を身につけることは、できよう。 ただし、普通、そんな時間はない。 だから我々には、医師免許を取得する前に 6 年間の「モラトリアム」が与えられているのである。 この期間に学問を修めず、試験対策にかまけ、遊興に耽った者は、ついにセンスを身につけないまま医者となり、取り返しがつかなくなるであろう。

2017.08.30 「5 人から 6 人」を「6 人から 7 人」に修正した。

2017/08/28 続・菌状息肉症

勉強の足りない学生や研修医の中には、CD4 や CD8 の発現と T 細胞の分化について無知な者もいるかもしれないから、確認しておこう。 詳細は免疫学の教科書を参照されると良いが、臨床のマジメな教科書である Firestein GS et al., Kelley & Firestein's Textbook of Rheumatology, 10th Ed., (Elsevier; 2017). を参照しても良い。 塩沢俊一『膠原病学』改訂 6 版 (丸善; 2015). は名著であるが、T 細胞の分化についての記述は乏しいので、今回はお勧めできない。

T 細胞の前駆細胞は、CD4 陰性 CD8 陰性の、いわゆる double negative な状態で胸腺皮質に入る。 そこで T 細胞受容体 (T Cell Receptor; TCR) のβ鎖の遺伝子再構成が起こった後、CD4 陽性 CD8 陽性すなわち double positive な未熟 T 細胞になる。 この段階で TCR のα鎖についても遺伝子再構成が行われ、さらに正の選択が行われる。 しかる後に、負の選択を受け、また CD4 または CD8 の downregulation が起こり、成熟した CD4 陽性または CD8 陽性の T 細胞が完成する。 では、負の選択と、CD4 または CD8 の downregulation は、どちらが先に起こるのか。 この点について、Crit. Rev. Immunol., 18, 359-370 (1998). 【文献取寄中】 のように、double positive の段階で負の選択を受ける、とする意見がある。 一方で、塩沢や Firestein の教科書は、この点について明記していない。なぜだろうか。

この問題については、マウスを用いた実験に基づくレビューである Cell. Mol. Immunol. 1, 3-11 (2004). が参考になる。 どうやら T 細胞クローンの選択は、成熟の過程で持続的に起こっているらしく、 つまり double positive の段階で選択を受け、さらに、single positive になってからも一部のクローンはアポトーシスするらしいのである。 これがヒトでも同様に起こっているのかどうかは、知らぬ。

さて、菌状息肉症において CD4 陽性から CD8 陽性への転換が生じる件についてである。 常識的に考えれば、これは菌状息肉症の腫瘍細胞において、CD4 や CD8 の発現を制御する何らかの遺伝子の発現に異常が生じた結果であろう。 CD4 陽性から CD8 陽性への転換自体ではなく、その背景にある分化や増殖のシグナルの変化が菌状息肉症の進行を促すことは、充分に考えられる。 たとえば、上述の 1998 年のレビューによれば、CD4 陽性細胞と CD8 陽性細胞の分岐には Notch シグナルなどが関与しているらしく、 菌状息肉症では、こうした因子に異常が生じるのかもしれぬ。 これだけであれば、まぁ、そうか、という程度の話であって、それほど興奮しない。常識的でありすぎるからである。

しかし、我々の常識というのは、しばしば、世界の真実から乖離している。 従って、時には非常識な空想を働かせることも、科学の発展においては有益であろう。

CD4 や CD8 の発現の乱れが先にあって、その結果として菌状息肉症の腫瘍細胞が増殖・転移したのではないか。 一定の条件下において、そもそも T 細胞には CD4 陽性から CD8 陽性に転換する性質があるのではないか。

上述のように、single positive な T 細胞も胸腺で選択を受けるとすれば、末梢組織で CD4 陽性から CD8 陽性に転換することは重大な問題を引き起こす。 すなわち、CD4 陽性であるが故に自己抗原に反応しなかった T 細胞が、CD8 陽性に転換することで自己免疫応答を惹起することが、理論上、考えられる。 こうした現象が、いわゆる自己免疫性疾患や膠原病の背景に存在するのかもしれぬ。


2017/08/25 菌状息肉症

菌状息肉症というのは、T 細胞性リンパ腫の一種である。 リンパ腫というのは、白血球のうち「リンパ球」と称される細胞が異常に増殖し、かつ腫瘤を形成する疾患の総称である。 リンパ球は、B 細胞、T 細胞、NK 細胞などに分類されるが、このうち T 細胞系の細胞が腫瘍化したのが、いわゆる T 細胞性リンパ腫である。 リンパ腫の多くは B 細胞性リンパ腫であり、比較的よく研究されているのだが、T 細胞性リンパ腫の詳細はよく知られていない。 T 細胞性リンパ腫は、さらにいくつかに分類されるが、有名なのは Adult T-Cell Leukemia Virus (ATLV) によって生じる成人 T 細胞リンパ腫 (ATL) と菌状息肉症である。 あるいは、少しよく勉強した学生であれば、他に血管免疫芽球性 T 細胞リンパ腫 (AngioImmunoblastic T-cell Lymphoma; AITL) や Sezary 病も挙げるかもしれぬ。

菌状息肉症の特徴は、無治療であっても、症状が出てから死に至るまでの期間が非常に長いことであって、20 年以上かかることも珍しくない。 初期には、なぜか腫瘍細胞は皮膚、特に表皮に集まり、内臓障害を来さない。理由は、よくわからない。

さて、T 細胞にもイロイロと種類があるらしいことが近年では知られているが、この菌状息肉症の腫瘍細胞は、どういう種類の T 細胞であろうか。 少しだけ勉強したモハン的な学生ならば「CD4 陽性 T 細胞」と即答するであろう。が、それは誤りである。 確かに、菌状息肉症の腫瘍細胞は「典型的には」CD4 陽性細胞なのだが、一部には「CD4 陰性 CD8 陽性」の症例が存在するらしい。 皮膚科学の名著 Griffiths C et al., Rook's Textbook of Dermatology, 9th Ed. (Wiley Blackwell; 2016). によれば、特に若年発症例において、その頻度が高いらしい。

問題は、ここからである。 オタク向け雑誌である月刊「病理と臨床」2017 年 8 月号の「CPC 解説」のコーナーは、菌状息肉症の症例であった。 患者は 20 歳時に菌状息肉症と診断されたのだが、その際の生検では腫瘍細胞は CD4 陽性 CD8 陰性であった。 ところが 43 歳で死亡した後の病理解剖では、腫瘍細胞は CD4 陰性 CD8 陽性だったのである。 何が起こったのか。

実は菌状息肉症においては、当初は CD4 陽性であった腫瘍細胞が、やがて CD8 陽性に変化する例の存在することがある、と報告されている。 たとえば Brit. J. Dermatol. 175, 821-838 (2016). で報告されているのは、次のような症例である。 当初は紅斑を主体とする皮疹がみられ、腫瘍細胞は CD4 陽性であった。 約 20 年後に潰瘍を伴う腫瘤が新規に出現し、こちらは CD8 陽性細胞の腫瘍であった。 両者の腫瘍細胞について TCR (T 細胞受容体) の遺伝子再構成を調べてみると、どうやら同一の再構成を有しているようであった。

この現象を、どう考えるか。 長くなってきたので、続きは次回にしよう。

2017.08.28 余字削除

2017/08/24 名古屋大学医学科の格

あたりまえのことであるが、「格」といっても、偏差値がどうとか、論文数がどうとか、ましてや論文の被引用数がどうとかいう話ではない。 教育機関としての格、水準についてである。

私は、名大医学部学友会のメンバーである。この学友会というのは、要するに同窓会なのであるが、 厳密には「医学部の同窓会」ではなく「医学科の同窓会」であるらしく、保健学科の卒業生などは含まれていないようである。 いささか不適切な名称であろう。 この学友会は、毎月「名大医学部学友時報」という小冊子を刊行している。 この学友時報 2017 年 8 月号をみて、気になったことが二つある。 そのうち一つは、また後日、紹介しよう。 もう一つの方は、名大医学部の某教授が寄稿した「『ものの言い方』」という記事についてである。

これは、その教授が中学一年生であった時の思い出話である。 試験で「1 週間の最初の曜日を書きなさい」という問いに対し、若き日の教授は Monday と解答したが、正解は Sunday であるとされ、減点を受けたらしい。 教授は抗議したが、教師は「外国は教会でお祈りをして 1 週間が始まるのだ」と答えた。 それに対し教授は「でもここは日本ですよ」と反抗したが、受け入れられなかった。 さらに後日、月曜日から始まるカレンダーを持って行ったが、ダメであった。 そのさらに後日、その教師に偶然会った際 「やはり日曜日が日本でも一般的になっているよ。それよりも授業中に、あのような言い方はダメだよ。 気持ちはよくわかるけど、言い方ひとつで受ける印象が違ってくるから。いろいろと損をするよ」 と言われたそうである。 教授は、当時は教師の言うことを理解できなかったが、後に大学に入った後、別のエピソードをきっかけに理解できたという。 「医者になって 30 年以上たつが、外来診療、IC など、また他科の先生方や、同僚などの人間関係に大いに役立っている。」と結んでいる。

このあたりが、名古屋大学の限界である。 そもそも週の始まりに明確な定義はないし、コンピューターに詳しい人であれば ISO 8601 では週の始まりが月曜日とされていることを容易に想起するであろう。 それを別にしても、上述の教授の逸話に登場した教師は発想の柔軟さを欠いている。 曖昧な出題をした自らの過ちを認めることができない小人であり、教育者としての水準は高くない。 それを、あたかも立派な教えを受けたかのように記している教授の見識についても、残念ながら、いささかの疑念を挟まざるを得ない。

我が母校、麻布中学・高校であれば、「月曜日で始まるカレンダーを示すことにより教師に『なるほど』と言わせ、試験の点数が修正された」 という逸話ならありえても、「言葉遣いに気をつけろ」などというくだらない「教え」が大事にされることは、あるまい。 麻布であったか開成であったか、いずれにせよ質の高い教育を行っている中学・高校には、たとえば次のような逸話が多数、残されている。 地理の試験で島の名前を答えさせる設問に対し「エロマンガ島」と書いたところ、教師は「ふざけているのか」と怒った。 しかし、その生徒は地図帳を示し、そのような名称の島が実在することを説明した。 すると教師は「なるほど」と納得した、というのである。

教育とは、既存の枠組に生徒や学生をあてはめることを言うのではなく、生徒や学生が秘めている可能性を解放し、自由に伸びさせることをいう。 麻布中学・高校では、実にすばらしい教育が行われていたし、京都大学も、悪くはなかった。 しかし私は、名古屋大学で本当の教育を受けた覚えがない。


2017/08/22 名古屋大学の某教授

名古屋大学大学院医学系研究科の某教授が、昨日、傷害容疑で愛知県警に逮捕された。 詳細はよく知らぬが、報道によれば親子喧嘩で娘に暴行を加え、負傷させた、とのことである。 ただし「頭や顔に 2 週間のけが」とのことであるから、それほど重傷というわけではない。 要するに、父親に殴られた娘 (23 歳) が腹を立てて警察に駆け込んだため、教授が逮捕されるに至った、という事件のようである。 娘は「十数発殴られた」と主張しているが、教授は「叩いたのは事実だが、十数発というのは大袈裟だ」と主張しているらしく、暴行自体は認めているとのことである。

言うまでもなく、親子であろうが何だろうが、他人に暴行を加えることは犯罪であるから、自白が真実であるならば、教授の罪は間違いない。 報道によれば、教授は「しつけのため叩いた」と供述しているそうだが、成人した娘相手に「しつけ」でもなかろう。 そもそも、暴力によって相手を戒めるのは「調教」であって「教育」ではなく、これを「しつけ」と称するのは野蛮である。

さて、現在のことは知らぬが、私が名古屋大学 4 年生の時には、架空の症例を題材にして学生同士で議論する PBL と称する実習があった。 8 人程度の学生で 1 つの班を作り、1 回 3 時間程度、1 つの症例について 2-3 回、つまり計 6-9 時間をかけて討論し、 各自文献を調べることなどを通じて医学に対する理解を深めよう、という実習である。 この PBL では、教員が、議論が極端に脱線しないよう監督し助言する役割の「チューター」として配置されていた。 私の記憶が正しければ、初めての PBL の際、私の班のチューターを務めたのが、今回逮捕された教授であり、当時は准教授であった。

少なくとも教育者としては、悪い人ではなかった。 だいたい、親に殴られて泣き寝入るのではなく警察に駆け込むという時点で、娘は自立した、逞しい人物であるといえる。 その意味では、教授の娘に対するこれまでの教育は、立派であったともいえよう。 が、まぁ、何にせよ、暴力は、いけない。


2017/08/21 名古屋大学医学部長からの礼状

私が愛する母校、すなわち京都大学と名古屋大学に対する定期寄付を開始したことは過去に書いた。 もちろん麻布中学・高校のことも忘れてはいないし、むしろ私の麻布に対する愛校心は京大や名大に対するものより強いのだが、 こちらは定期寄付のシステムがないようなので、年末あたりに一年分を一括で寄付するから、しばし待たれよ。

京都大学はともかく、問題は名古屋大学の方である。 私は今年の 5 月から、毎月 5000 円を名古屋大学に継続寄付していた。 すると「名古屋大学医学部長・大学院医学系研究科長」の名で、毎月、礼状が送られてきた。 礼状とはいっても、文面は判で押したように全く同一であり、たかが 5000 円の寄付に対して 「本来なら参上してお礼を申しあげるべきではありますが、甚だ略儀ながら、書中にてご寄付のお礼を申しあげます。」などと書く白々しさも、毎回、同じである。

私は、純粋に愛校心から、名古屋大学に寄付したのである。 名古屋大学時代には、数多くの意欲の低い教員と出会い、 臨床実習の際に暴言を浴び、 謝恩会から追放されるなど、散々な仕打ちを受けたが、それでも私は名古屋大学を愛している。 その純粋な愛校心の発露に対する返答が、この定型文か。

私は何も、個々の寄付者に対して個別の礼状を書け、などと言っているわけではない。 ただ、こんな定型文なら、何も送らない方がいくらかマシではないか、と言っているのである。 だいたい、愛する母校と卒業生が真に固い絆で結ばれているならば、形式的な謝礼の言葉など交わさなくても、心は通じ合うものではないのか。 実際、京都大学からは、こんなくだらない礼状は送られてきていない。

私は、名古屋大学に失望した。こんな、つまらない定型文を送りつけることで人の善意を踏みにじるような大学であるとは、知らなかった。 二度と、名古屋大学に寄付などするものか。

そう思って、定期寄付の解約手続きを行ったのだが、この際に、重ねて名古屋大学に失望した。 解約フォームに、コメントを記入することのできる欄が存在しないのである。 なぜ解約するのか、という理由を、知ろうともしていないのである。 どれだけ我々を馬鹿にしているのか。


2017/08/20 終末期医療

昨日の話の続きである。 現在の医療のあり方に疑問を持っても、それを批判できる研修医は少ない。 「それが標準だから」「○○科では、このようにやっている」などと、他人のやり方を真似するばかりで、それに異を唱えることができない。 私は何も、指導医に向かって異論を述べよ、と言っているわけではない。そこまでする必要はない。ただ、研修医室で、研修医同士で意見交換をせよ、と言っているのである。

批判しないということは、その現状を支持していることと同じである。「まだ研修医だから」というのは、言い訳にならない。 つまり、あなた方自身が、患者の利益を損ね、不必要に入院させ、意に反して最期を病院で迎えさせているのである。

あなた方が、かくも現行体制に従順な態度を示すのは、あなた方の医学への造詣が足りないからではなく、単に、勇気がないからである。 批判をすることで周囲に何か影響を与えることが、あるいは、いずれ自分に批判の矛先が向けられることが、怖いのである。

「知識や経験が不足しているから」などと、批判しないことを正当化しようとする者もいる。言語道断である。 批判するために必要な基本的学識と経験は、学生時代に積んできたはずである。 「知識が足りない」というのであれば、それは学生時代の怠慢を告白しているのであって、 つまり医師たる資質がないと言っているのであり、自身の態度を正当化する根拠にはならない。

だいたい、社会常識、医療倫理という観点からいえば、学生や研修医が最も高い水準にある。 今後、経験を積み、医療行為に慣れていけば、程度の差はあれども、徐々に世間の常識から乖離し、倫理観を失っていくであろう。 だから、今、現行医療を批判できない者は、一生そのままである。

そこで現行の終末期医療のまずさについて私が述べると「ならば、君ならできるのか」「自分でやってみろ」などと言って現行医療を擁護する研修医もいる。 依らば大樹の蔭、とばかりに、無思慮に現状に追従しているわけである。 病理医である私が終末期医療をできなくても、それは恥ずかしいことではない。 しかし臨床医にならんとする者ならば、適切な終末期医療を提供できねばならない。そういった意識すら、欠いているのである。

医者の世界には「同業者を批判することを避ける」という風潮がある。 批判することは和を乱す行為だ、というような意識があるのだろう。 なお、これは「和」というものに対する誤解に基づくものであるという点は過去に指摘した。 波風を立てないこと、上下の別を明確にすることを、彼らは尊ぶのである。 結果として患者に不利益が及んだとしても、それは、やむを得ないのである。 こうした医者の基本的な精神構造は、山崎豊子の『白い巨塔』の時代から大きくは変わっていない。

何が「患者中心の医療」か。

2017.08.25 脱字修正

2017/08/19 医者の思考

我が北陸医大 (仮) の場合、患者に病状説明を行い、治療方針を話し合おうとすると、 「難しいことはよくわからないので、全部お任せします」などと述べ、判断を放棄する患者は稀ではない。 過日、滋賀県の某病院スタッフに尋ねてみたところ、同じような状況では滋賀でもみられるとのことであった。 たぶん、北陸や滋賀といった地方では、医者を聖人か何かと勘違いしている人が稀ではなく、医者に任せておけば安心だと誤解しているのであろう。 医者の方も、医学をよく修めていないから「全て任せてくれるなら、やりやすくて良い」などと思っているのだろう。

いうまでもなく、患者に「全てお任せします」と言われているようでは、病状説明を行ったことにならず、インフォームドコンセントを取得したことにもならない。 これについて内科学の名著 Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (Elsevier; 2015). は次のように述べている。

The fundamental principles of medical ethics require physicians to act in the patient's best interest and to respect the patient's autonomy. These requirements are particularly relevant to the issue of informed consent. ... In every case, the physician is responsible for ensuring that the patient throughly understands these risks and benefits; encouraging questions is an important part of this process. This is the very informed consent.

医療倫理の基本原則として、医師は患者の利益のために行動するとともに、患者の自律性を尊重しなければならない。 換言すれば、インフォームドコンセントが重要である、ということである。 ... いかなる場合であれ、医師には、患者に治療のリスクや利益についてよく理解させる責任がある。 そのためには、質問をさせることが重要である。 これこそがインフォームドコンセントなのである。

北陸医大の医師の中には、研修医も含め、「患者が理解を放棄しているのだから、仕方ないではないか。」などと考えている者がいるようである。 しかし、それは誤りである。患者が理解していないのは、医師の側の問題である。 よほど特殊な場合を別にすれば、自分の身体や精神のことに関心のない者など、いない。 それなのに患者が理解を放棄しているのは、どうせ説明を求めても理解できるようには教えてくれない、 質問をすると医者が不機嫌になるかもしれない、などと諦めているからである。 あなた方が、患者を、そういう風にしてしまったのである。

多くの人が内心では理解しているであろうが、敢えて口にはしないであろうことを、私がここで代弁しておく。 多くの医者は、あなた方の利益のことなど、本当は考えていない。 「癌だから、治療しなければならない」「治療するなら、化学療法しかない」「化学療法するなら入院しなければならない」「これが標準治療なのだ」 という論理なのであって、何が患者の利益なのか、どういう形で最期を迎えるのが望ましいか、といったことは、考えていない。 近藤誠の主張は医学的には正しくないが、しかし現代の癌治療医の多くが患者のことを考えていないと批判した点については、 正しいのである。


2017/08/18 指導医を刺す (2)

米国では梅毒に対しアモキシシリンを投与することは一般的ではない、という事実を知らなかった点において、件の感染症科重鎮氏は梅毒の勉強が足りなかった。 感染症学の範囲は広範にわたるので、その一部について不勉強であるからといって、重鎮氏が感染症科医師としての素養を欠いているということには、もちろん、ならない。 そもそも学問というものは、上の者が下の者に一方的に伝えるものではなく、相互に教えあい、相互に不足を補いあうものである。 だから、たとえば梅毒の治療法について研修医が指導医に教授する、という場面も、時には、あって然るべきである。

この重鎮氏は、なかなか威圧的で貫禄のある人物なので、少なからぬ研修医や若手医師は、彼の前に出ると縮み上がってしまう。 だからこそ今回は、鬼の首を獲ったように「おや、先生は梅毒について、よくご存じないようですね。ニヤニヤ。」と、 梅毒の治療をを巡る問題につい教えてさしあげることで、彼をギャフンと言わせるチャンスである。 そのためには、こちらも周到に準備して挑まねばならない。 生半可な勉強では、重鎮氏を討ち取るどころか、返り討ちにあいかねない。

この問題については、「世界的にはペニシリン G の筋肉内投与が主流だが、日本では認可されていないので経口ペニシリン系抗菌薬を使う」というような記載が、散見される。 しかし、これはガイドラインなどを表面的になぞっただけの記述であり、全く医学的でない。 そこで私が簡潔にまとめたレポートを、インターネット上の某所にアップロードしておいた。 そのうち Google などの検索にも引っかかるようになるだろうから、興味のある人は読まれるとよい。

要点だけをかいつまんで述べると、以下のような次第である。

ペニシリン G は血中濃度半減期が 30 分程度と短いので、梅毒を効果的に治療するには、いかにしてペニシリン G の血中濃度を維持するか、という点が問題であった (J. Bacteriol. 59, 625-643 (1950).)。 そこで米国では、ひとたび筋肉内投与すればペニシリン G を緩徐に放出することで 1 週間以上にわたりペニシリン G の血中濃度を維持できる製剤 (BPG) が開発された (Bull. Wld Hlth Org. 15, 1087-1096 (1956).)。 しかし、この製剤の筋肉内投与は日本では未だに認可されておらず、通常、臨床的に使うことができない。 さらに臨床的にペニシリン G 抵抗性の梅毒も報告され (Ann. Inst. Pasteur 102, 596-615 (1962). [in French] 【文献取寄中】)、 ペニシリン G に代わる梅毒治療薬の模索は続けられた。

海外では、アンピシリンはペニシリン G と同等に有効で経口投与も可能であると報告された (Minerva Dermatologica 39, (1964). [in Italian] 【文献取寄中】; Minerva Dermatologica 40, 150-153 (1965). [in Italian] 【文献取寄中】) が、アンピシリンの経口投与は血中濃度が安定しにくいという問題があった。 一方、日本ではアモキシシリンはペニシリン G やアンピシリンと同等に有効で、しかも経口投与しても血中濃度が安定しやすいことが報告された。

こうして日本ではアモキシシリンが、低侵襲で効果的な梅毒治療法として普及した。 しかし、米国では既に有効な治療薬として上述の BPG が存在することから、アモキシシリンの使用経験が乏しいため、 「サンフォード」などでは「推奨しない」という扱いになっているようである。

以上のことからわかるように、現代において、早期梅毒の治療にアモキシシリンよりもペニシリン G を選択すべき医学的事情は存在しない。 早期梅毒の治療においては、米国よりも日本の方が先進的であるといえる。


2017/08/17 指導医を刺す (1)

また、しばらく間があいてしまった。近頃、少しばかり疲れているようである。いけない。

本日は、研修医が指導医を刺しにいくことについて書く。刺す、というのは、もちろん、比喩的な意味である。

きっかけは、梅毒であった。 血清学的に抗 Treponema pallidum 抗体陽性で、梅毒を疑われる患者に対し、アモキシシリン (Amoxicillin; AMPC) が投与された症例をみたことがある。 少なくとも日本においては標準的な治療法なのだが、私は、これをみて「おや?」と思った。 以前、『サンフォード感染症治療ガイド 2017 (第 47 版)』をみて、梅毒菌 (T. pallidum) やレプトスピラ (Leptosipira spp.) に対しては ペニシリン G が推奨されているのであって、他のペニシリン系薬剤は、アモキシシリンも含めて「推奨されない」と記載されていたことを覚えていたからである。

なぜ、私がそんなことを覚えていたかというと、 The New England Journal of Medicine の 2017 年 7 月 20 日号に掲載された Case Records of the Massachusetts General Hospital (N. Engl. J. Med. 377, 268-278 (2017).) を読んだからである。 この Case Records は、レプトスピラ症の症例を扱ったものである。 レプトスピラ (Leptospira spp.) というのはスピロヘータの一種であって、平たくいえば、梅毒菌 (Treponema pallidum) の類縁細菌である。 このレプトスピラ感染症の症例を巡る検討会の議事録 (抄録) が、上述の記事として紹介されていたのである。 この記事では、レプトスピラ症の治療薬としてペニシリン、セフトリアキソン、ドキシサイクリンなどの薬剤が挙げられていた。 私は「おや、ペニシリンで良いのかい?」と思い、「サンフォード」を参照した。 そこで、梅毒菌やレプトスピラに対して「他のペニシリン系抗菌薬ではなく、ペニシリン G だけが推奨される」という意味の記載をみて、驚愕し、強く印象に残ったのである。

私は、たまたま病院の廊下で出会った感染症科の重鎮医師に対し、「サンフォード」の記載を説明して「梅毒にアモキシシリンというのは、どうなのでしょうか」と問うてみた。 すると、その重鎮は「なぜ、サンフォードにそのように記載されているのかはわからない。少なくとも、梅毒にアモキシシリンは、ごく普通に投与される。」と答えた。 どうやら、日本と米国で、梅毒に対する標準的な治療法が異なるらしいのである。なぜ、そのような違いが生じるのか。

そこで私は、各種の文献を漁り、梅毒に対する治療薬としてペニシリン G とアモキシシリンのどちらが優れているのかを検討した。 詳細について記したいのだが、いささか長くなるので、続きは次回にしよう。


2017/08/13 言葉遣い

少し間があいてしまった。 これには少しばかりの事情があるのだが、今は、それについて説明すべき時ではない。

医師や医科学生の言葉遣いが無茶苦茶だ、という話は、過去に何度も書いた。 検査値の「高い」と「上がる」を混同していたり、 「ワイセ」などのように外国語を不適切に省略して用いたり、 「腫大」と「拡張」を混同したり、といった具合である。 彼らは「伝われば、それで良いだろう」と言うが、実際には伝わっていない。 たとえば血液検査所見で「白血球数が異常高値である」というのを「白血球が上がっている」と言われると、 それが「前回に比べて、より高値になっている」という意味なのか、単に「基準範囲より高い」という意味なのか、わからなくなってしまう。 そのような曖昧な表現でも、彼らは「伝わっている」と思っているらしい。 おそらく、彼らは臨床検査について深く考察していないから、曖昧な表現で理解できたような気分になっているのだろう。 そのような姿勢では、臨床検査から本来は読み取れるはずの情報のうち、ごく一部しか診断に活かされず、患者は迷惑する。 遺憾なことに、現在の日本の医療体制では、そうした「甘い診断」を指摘し批判する者がいないから、医者は「自分は、充分よくやっている」などと勘違いする。

世の中には医師向けの会員制ウェブサイトというものがあって、匿名で情報交換できるようなサービスもある。 私も、ごくたまに、そうしたウェブサイトを覗くことがある。 過日、某新聞の投書欄に「若い医師の中に言葉遣いの乱れた者がおり、気になる」という趣旨の投書があったらしい。 具体的には、救急外来受診時に「めっちゃ具合が悪くなったら……」と医師に言われ、不安になった、というのである。 なお、この「めっちゃ」というのは方言ではなく、いわゆる若者言葉であり、それで投稿者は不安になったらしい。 この投書に対し、そのウェブサイトに書き込まれた (自称) 医師達によるコメントは、ほぼ例外なく投稿者や新聞社を批判するものであった。 概ね「そんなのは些末な問題である。医師にとって重要なのは『腕』であって、言葉遣いではない。」といった論調であった。

話にならぬ。この自称医師達は、「ムント・テラピー」というものを知らないようである。 患者に安心感を与えるために「適切な振舞、適切な言葉遣い」をすることが重要であることは、臨床医学において常識である。 実際、我々は学生時代にも、あるいは医師になってからも、そのように教育されているし、 内科学の名著 Harrison's Principles of Internal Medicine 19th Ed. にも、そのような意味のことが書かれている。

某内科で研修を受けた時、ある指導医から「患者に応対するときは、一流ホテルのホテルマンになったつもりで接すべし」と教わった。 なるほど、と思い、私は患者に対し、言葉遣いや所作について、可能な限りの注意を払って接するようにしている。 もちろん、私の立居振舞は、キチンとした訓練を受けたホテルマンには遠く及ぶまい。 それでも、特に敬語の使い方には気を使い、 また基本的には他の医師のことを「○○先生」ではなく「○○」と呼び捨てにするよう心掛けている。 さらに、原則としてネクタイを着用することで「キチンとした服装の、信頼できそうな医者」にみせかける、という小技も使っている。


2017/08/08 経験すること

医学科の学生や研修医の中には、知識と経験を偏重する者が多い。 自分のことをへりくだって言うときには「知識量が足りない」と表現し、指導医の優秀さを称える時には「知識量が膨大だ」と言うのである。 ほんとうは知識そのものよりも、それを応用する能力の方がずっと重要であるのに、そういう認識を持っていないのである。 医学科の単位認定試験や医師国家試験では、知識だけで押し切れるような出題ばかりが行われており、それに対応するための勉強に専念してきたことの弊害であろう。 同様に、初期臨床研修においては、「どれだけ多くの手技を経験するか」を重視する研修医が少なくない。 これは必ずしも学生や研修医に限ったことではなく、卒後 7, 8 年未満ぐらいの若手医師や、あるいは学問を放棄した熟練医師の中にも、 そうした知識や経験を偏重する者は少なくない。

しかし、大学で指導的な立場にある医師に限れば、そうした知識・経験を偏重する者は少ないように思われる。 研修医が手技の経験を積むことに多大な関心を寄せている現状に対して「本当は、そういうことじゃないんだがねぇ」と苦言を呈する人も少なくない。 ガイドラインや診断基準にこだわることの害悪も、ベテランの指導医陣は、よく理解している

経験を積むこと自体が悪いとは、思わない。 ただし、質の悪い経験を積むぐらいなら、何も積まない方が、いくらかマシである。

たとえば学会での症例報告である。 研修医に、学会、あるいは「地方会」と呼ばれるローカルな会合で症例発表させる指導医は少なくない。経験を積ませてやろう、という「配慮」なのであろう。 もちろん、研修医側が、その症例について充分に理解した上で、責任を持って発表できるのなら、それで良い。 しかし、少なくとも北陸医大 (仮) では、しばしば、自分は実際には担当していない、患者に会ったこともない症例について発表することを命じられる。 これには学術倫理的な問題もあるが、教育としても重大な問題がある。 研修医が、臨床経過を充分に理解しないままに発表する恐れがあるからである。

そもそも並の研修医であれば、自分の担当患者についてですら、診断や治療の経過について充分に理解していないことがある。 「そのように診断した根拠は、何か?」と問われると、たちまち返事に窮し、「上の先生が、そう言ったんだもの」などと意味不明な弁明をするのである。 そういう水準の研修医は、あたりまえであるが、症例報告を発表する資格がない。

さらに、発表の場において、会場からの質問に対して自力で全て回答するだけの用意ができないこともある。 診断や治療の背景に対する理解が乏しく、指導医に「教えられた通りに」発表しているだけだから、教えられていない内容を質問されると、困るのである。 そういう場合に、発表会場では指導医が発表者に代わって質問に答えることもある。しかし、これは極めて恥ずかしいことであると心得るべきである。 質問に自ら回答できない程度の者も、やはり、学会において発表する資格はない。

こういうことを書くと、意識の低い研修医諸君は「初めてなのだから、そんなにできなくても仕方ないではないか。 知識量や経験がまだ足りないのだから、やむをえないではないか。」と言うだろう。 そういう発想だから、諸君は、世間から馬鹿にされるのである。 外の世界をみるが良い。 理学部や工学部を出た連中は、修士課程一年次、つまり諸君でいう医学科 5 年生の頃に、既に、学会等で自力で発表し、自力で回答している。

質問には、何としても自分で回答しなければならない。 発表する以上は、その症例の全てだけでなく、その背景にある問題まで含めて全て理解していなければならない。 そういう覚悟もなしに、生半可な「経験」を積んで勘違いしている研修医は、遺憾ながら、北陸医大にも少なくないようにみえる。


2017/08/06 医者とは

昨日と本日、北陸の初期臨床研修医を対象として、1 泊 2 日のセミナーが開催された。 このセミナーでは、より良い初期臨床研修を実現するために、というようなテーマでのワークショップなどが行われた。 しかし、参加した研修医の多くは、指導医から促されてやむなく参加したものであり、意欲には乏しく、盛り上がりを欠いた。

北陸の指導医には、志の高くない人が多いのではないか、というのが、セミナーに参加した上での私の感想である。 初期研修のあり方を議論する上で、なぜ、厚生労働省が定めた「臨床研修の到達目標」などを気にしなければならないのか。 理想の初期研修を議論した上で、その次に、では到達目標はどうあるべきか、ということを考えるのが筋ではないのか。 指導医のセンセイ方は、お上が定めた「目標」をまず受け入れ、次いで、その実現のための方策を考えようとしている。卑屈である。矮小である。 そんなことだから、我が北陸医大 (仮) は名古屋大学や金沢大学ごときに負けるのである。

そして私が痛感したのは、我々のような病理学や基礎医学、社会医学に進もうとする医師を、臨床のセンセイ方は「医者」と思っていない、という事実である。 彼らの言う「医者」というのは、つまり臨床医のことなのである。 これは病院長のあいさつにも通じるものがある。 初期臨床研修は、「臨床を研修する」ものであって「臨床医のための研修」ではない。 厚生労働省医系技官だろうが、病理医だろうが、初期臨床研修は必要であるとされている。 ところが現行の初期臨床研修制度は、病理学や基礎医学、社会医学、公衆衛生学の分野に進む医師のことを考慮していない。 そして、そのことを指導医のセンセイ方は、何ら疑問に思っていないのである。

二日間の日程で、私はかなり頭にきたので、最後にセンセイ方に対する攻撃を行った。 率直に申し上げて、今日来ていらっしゃる指導医の方々にも、統計学はアヤしいという人が少なくないと思われる。 大学で行われる論文の抄読会などでも、統計解析の部分をキチンと議論している例はみたことがない。 統計の部分は飛ばして結論だけみる、という読み方をしている例が多いのではないか。 しかしそれでは、話にならない。 だから、学生のうちか、せめて初期臨床研修のうちに、きちんと統計を学ぶ機会を確保しなければならない。 というようなことを、述べたのである。 あなた方は臨床医にあらずんば医者にあらず、などと思っているようだが、統計すら読めない程度で何が医者か、という気持ちを込めた攻撃である。 指導医の中にも研修医の中にも、この私の発言に不快をおぼえた者は少なくなかったであろうが、そんなのは、私の知ったことではない。

厚生労働省は、社会のインフラストラクチャーとしての医療を支える労働力の確保に専念しており、明日の医学と医療を開拓することなどは、考えていない。 だから、あのような「臨床研修の到達目標」を作るのである。 それを黙って受け入れて社会の歯車になることを選ぶ医者も必要ではあるだろうが、少なくとも大学の教員はそうであっては、いけない。


2017/08/03 上をみろ

研修医の中には、指導医から与えられた任務を遂行することで満足する者が少なくない。 「研修医の仕事」とされた業務をこなし、指導医から褒められることで満足するのである。 この「研修医の仕事」というのは、しばしば、雑用である。 まるで、この雑用が「一人前の医師になるために必要な修業である」かのように思っている者もいるが、 その雑用には、単に病院の非効率的な運営システムを人力でカバーしているだけのものが少なからず含まれているのではないか。

雑用係として病院の運営を縁の下から支えること自体は、悪いことではない。 しかし、それに時間と労力を注ぐあまり、医学的に深い思考と考察を巡らせることを怠り、教科書を開くこともなく、 教えられたとを実践し、指導医のやり方を真似するだけの研修医になっては本末転倒である。 ただ診断基準やガイドラインを盲目的に適用するだけで、医学的妥当性は疑わしい、程度の低い診療を行っていることを認識できていない研修医は、少なくないように思われる。 研修医向けの低俗な雑誌などに、研修医へのインタビューが掲載されることもあるが、彼らの言葉は大抵、浅薄であり、軽い。 自分が病院の診療業務を助けているという実感に満足する研修医もいるようだが、発想が卑しいと言わざるを得ない。

もちろん研修医の中には、こうした現状に疑問を抱き、抗おうとしている者もいるが、そういう研修医に対して理解のある指導医は、遺憾ながら、少ない。 そこで意欲ある研修医の方も「このくらい考察すれば、研修医としては合格だろう。理想的とはいえないが、周囲に比べれば、ずいぶんとマシなはずだ。」などと考え、 妥協しがちになる。 しかし、なぜ、そこで下をみるのか。 他人と自分とを比較するならば、自分より下がいること、自分が及第点に達していることに安堵するのではなく、 自分より上がいること、自分が満点ではないことを悔しく思うべきではないのか。

なお、正直に書くと、私は他の研修医に比べると、たぶん、かなり優遇されている。 指導医の多くは、私に雑用を押しつけないよう配慮してくれているのだと思う。 だから、諸君が私ほどには自由に振る舞えなかったとしても、それは必ずしも、諸君の勇気と能力が私よりも乏しいことを意味しないので、安心してよろしい。

2017.08.28 脱字修正

2017/08/02 MCV 偽低値

昨晩は、北陸の某大河で行われた花火大会に行った。 家族連れやアベックの姿が多かったが、私と同様に単身の来訪者も少なくなかった。 世間には一人で花火大会に行くことに対して抵抗を感じる者もいるようだが、 世の中には一人で花火大会を開催する猛者も存在するぐらいなので、気にすることはない。

さて、血球自動算定機では、血液検体を低張な溶液で希釈し、赤血球を膨化させてから MCV などを測定するのが普通である。 低ナトリウム血症のために低張な検体の場合、低張な溶液で希釈しても、赤血球はあまり膨化しない。 このため、測定上は MCV が小さいようにみえる (Am. J. Hematol. 12, 383-389 (1982).; Medical Technology 30, 1246-1247 (2002).; Scand. J. Clin. Lab. Invest. 75, 588-594 (2015).) しかし、これは検査の過程における膨化の程度が小さいだけであって、もともと赤血球が小さかったわけではない。 すなわち、MCV が誤って小さく測定されてしまうのであって、偽低値なのである。 臨床的なことでいえば、低ナトリウム血症が背景にある場合、正球性貧血を小球性と、あるいは大球性貧血を正球性と、誤診する恐れがある。

ただし、MCV の値だけをみて短絡的に診断するのではなく、検査値を注意深く読んでいる医者ならば、このような誤診は生じない。 偽低値が生じる機序を考えれば、MCH (Mean Corpuscular Haemoglobin) には誤差は生じない。 従って、MCV の偽低値に対応して、MCHC (Mean Corpuscular Haemoglobin Concentration) は偽高値を示す。 一方、世の中には、MCHC が増大する疾患というものは、ほとんど存在しないと考えられている。 臨床的に MCHC 異常高値となる原因として思い浮かぶのは、溶血のためにヘモグロビンが赤血球外に存在している、などの事情による測定エラーぐらいである

以上のことをふまえると、低ナトリウム血症に MCV 異常低値と MCHC 異常高値が合併した場合、MCV の偽低値を疑うべきであって、安易に「小球性貧血」などと診断してはいけない。 もし諸君が臨床実習や初期研修などで低ナトリウム血症に貧血を合併した患者をみかけた場合、 このことを思い出し「これは偽低値ですよ」と指導医に教えてさしあげると良い。


2017/08/01 低ナトリウム血症と MCV 低値

低ナトリウム血症というのは、血漿中のナトリウム濃度が異常に低くなっている状態のことをいう。 一方、MCV (Mean Corpuscular Volume) というのは、赤血球の大きさの平均のことをいう。 基本的には、低ナトリウム血症と MCV の間には、何の関係もない。

例外は、何らかの事情で急性に低ナトリウム血症が生じた場合である。 この場合、血漿の浸透圧は低下するが、赤血球内にはもともとナトリウムが乏しいのだから、赤血球内の浸透圧はあまり変わらない。 そのため、赤血球内外の浸透圧差によって水が赤血球内に移行する。結果として MCV が大きくなるのである。

一方、慢性低ナトリウム血漿においては、著明な MCV の変化はみられないようである。 MEDSi 『体液異常と腎臓の病態生理』第 3 版によれば、通常の細胞では、細胞外液の浸透圧に応じてアミノ酸などの浸透圧調節物質の量を変え、 細胞内の浸透圧を調節する機能があるらしい。 この機能を赤血球も有しているのか、あるいは赤芽球に限られるのかは、よくわからない。

いずれにせよ、低ナトリウム血症においては、MCV は大きくなることはあっても、小さくなるはずはない、といえる。

ところが臨床的には、低ナトリウム血症において MCV が高値を示す例がある。 私が 5 年生の時、初めて病棟で担当した患者も、そうであった。入院中に低ナトリウム血症が進行し、それに伴って MCV の値が小さくなっていったのである。 当時の私は、この MCV 低値の機序を合理的に説明することができなかった。 指導医に問うてみたところ、「気にしなくて良い」と言われた。 そこで私は「この指導医は、ヘッポコである」と認定し、密かに某教授に相談してみたのだが、教授も、わからなかった。

今ならわかるのだが、この MCV の値は、偽低値である。 つまり、本当の MCV は小さくないのだが、検査上の誤差として、小さな値が出てしまうのである。

この偽低値が生じる機序について書きたいのだが、あいにく、もうすぐ帰りのバスが来てしまう。 今晩は、自宅の近くで県下最大規模の花火大会が行われるので、それを眺めに行くため、病院に泊まらず、自宅に帰らねばならぬ。


2017/07/31 家族性腺腫性ポリポーシスに対する内視鏡的ポリープ切除術

家族性腺腫性ポリポーシスというのは、生殖細胞系列における FAP 遺伝子の機能喪失変異を基礎として、大腸に多数の腺腫性ポリープが生じる疾患である。 大腸癌が必発であるため、現在のところ、予防的大腸切除が行われることが多い。 なぜ FAP 遺伝子の変異で大腸癌が必発になるのか、といった話の詳細は、本日の話題に直接関係しないので、基礎病理学の教科書を参照されたい。

あたりまえのことであるが、大腸癌を予防する目的で予め大腸を取ってしまう、などという手術は、普通、受けたくない。 そこで、定期的に下部消化管内視鏡検査を行い、その都度ポリープを切除することで大腸癌を防ぐ、という治療戦略が考案された。 家族性腺腫性ポリポーシスにおいては、まず腺腫性ポリープが生じ、その後、さらに遺伝子変異が蓄積することで腺癌に転じる、と考えられている。 そこで、腺腫性ポリープの段階で切除してしまえば、腺癌の発生を予防できる、というのが、この治療戦略の発想なのである。

既に臨床試験も行われており、いまのところ、有効そうである、と報告されている (Endoscopy 48, 51-55 (2016).)。 これは、たいへん意欲的で面白い戦略であるが、この報告には重大な問題があるように思われる。 というのも、径が小さく、内視鏡的に悪性を疑う所見のないポリープについては、組織学的検査を行っていないのである。 これは、径が小さいポリープが悪性であることは稀である、という統計的事実に基づく措置であろう。 この治療戦略においては、一人の患者から数百個、場合によっては千個以上のポリープを切除するのだから、イチイチ全部を組織学的に検査していたら大変である。 そこで、悪性である蓋然性が低いポリープについては、組織学的検査を省略することには、一定の合理性はある。

しかし、あたりまえのことであるが、内視鏡的所見だけでは、腺腫と腺癌を正確に鑑別することは不可能である。 臨床的にも、臨床医が「腺腫である」と思っていたポリープが実は癌であった、などということは、それほど稀ではない。 ましてや、この場合、FAP の生殖細胞系列における変異を基礎としているのだから、普通の大腸ポリープと同じような基準で 内視鏡的に良悪性を判定できるかどうかは、疑わしい。

何より重要なのは、この治療法は、未だ、その妥当性を検証する段階にある、ということである。 もし、一般人の大腸内視鏡検査で小さなポリープがみつかった場合、内視鏡的に悪性を疑う所見がなかったとしても、念のため、普通は病理検査を行う。 内視鏡所見だけでは、悪性である可能性を否定はできないからである。臨床においてすら、そうなのである。 研究段階において、ポリープの良悪性を正確に診断する手間を省くことは、科学的誠実さを欠く態度ではないか。

上述のようなことを、この報告を行った人々は、もちろん、よく理解していたであろう。 おそらく、予算等の制約から、やむなく病理検査を割愛したものと思われる。 しかし、その結果、この研究の医学的価値は、どうなったか。

科学は、徹底的な批判なくしては成立しない。 「こうであってほしい」「たぶん、こうだろう」という憶測は、我々に道を誤らせる。 仮説は徹底的に批判する必要があり、その批判に最後まで耐え抜いた理論のみが、正しいものとして認められるのである。 研究計画の中で、予算や人手の都合から一箇所の手を抜けば、たちまち、研究全体の価値が損われる。 それが学術研究というものである。


2017/07/30 いわゆる SAPHO 症候群

某内科の研修において、いわゆる SAPHO 症候群について調べる機会があった。 それなりに頭を悩ませ、労力を費して調べた内容なので、ここに記録しておこう。

SAPHO 症候群というのは、その筋では有名らしいのだが、いまひとつ、概念がはっきりしない。 臨床的には Benhamou の提唱した基準 (Clin. Exp. Rheumatol. 6, 109-112 (1988).) を用いて診断されることが多い。

Benhamou らは、それまで別個の症候群として扱われていた 1) 掌蹠膿疱症; 2) Acne Conglobata; 3) Acne Fulminans; 4) Hidrosadenitis Supprativa、において、 類似の関節病変を生じることがある、と主張した。 すなわち、胸骨、第一肋骨、鎖骨の過形成 (Sterno-Costo-Clavicular Hyperostosis; SCCH) や、慢性再発性多巣性骨髄炎 (Chronic Recurrent Multifocal Osteomyelitis; CRMO) を特徴とする、原因の明らかではない関節病変を Synovitis-Acne-Pustulosis-Hyperostosis-Osteomyelitis (SAPHO) 症候群と総称したのである。 ただし、これらの 4 症候群における関節病変が類似の機序によると考える根拠は示されていない。 また、Benhamou らの基準の臨床的妥当性を検証した報告もなく、臨床的有用性は不明であることに注意を要する (Firestein GS et al., Kelly & Firesten's Textbook of Rheumatology, 10th Ed., (Elsevier; 2017).)。

SAPHO 症候群は、しばしば IgA 血管炎に合併することが古くから指摘されている (日本内科学会雑誌 82, 112-114 (1993).)。 さらに、SAPHO 症候群と IgA 腎症との合併例も報告されており (CEN Case Rep. 5, 26-30 (2016).; Clin. Exp. Nephrol. 11, 97-101 (2007).; Clin. Nephrol. 44, 64-68 (1995).)、 さらには SAPHO 症候群に対し扁桃摘出が有効であるとする意見もある (北海道医学雑誌 89, 17-19 (2014).)。 なお、IgA 腎症に対する扁桃摘出は有効であると日本では信じられているが、世界的には認められていない。 私自身は、これはプラセボ効果ではないかと考えている

話を元に戻すが、SAPHO 症候群については、IgA 血管炎以外の血管炎との合併例も知られている (Schweiz. Med. Wschr. 118, 1803-1807 (1988). [in German]; Dermatol. 186, 213-216 (1993).; Clin. Radiol. 50, 578-580 (1995).; Mod. Rheumatol. 18, 181-183 (2008).)が、 ANCA 関連血管炎との合併例は報告されていないようである。

以上をまとめると、次のようになる。 いわゆる SAPHO 症候群とは、特発性 SCCH を呈する病態を総称したものであり、その中には血管炎を背景として生じる一群がある。 この血管炎は、通常は免疫複合体介在性であり、ANCA 関連 SCCH と呼ぶべき病態が存在するかどうかは明らかではない。

ところで、文献を検索していると、時に、ドイツ語やフランス語で書かれた重要な参考文献に遭遇することがある。 上で参考文献に挙げた Schwiz. Med. Wschr. も、その一例であるが、私は、日本語と英語は一応できるが、ドイツ語は読めない。 そこで、個人的には Google は嫌いなのだが、Google 翻訳を活用している。 機械翻訳は、ヨーロッパ諸言語から日本語への翻訳の質は低いものの、ドイツ語やフランス語から英語への翻訳については優秀であるので、活用すると良い。


2017/07/29 優秀な学生の基準

少し間があいてしまった。 私は、この日記を大学で書いている。私はバスで通勤しているが、本日の最終バスが大学病院を出発するまでに、あと 25 分しかない。 明日の午後に予定されている勉強会の準備がまだ終わっていないが、今日は家に帰って洗濯する予定なので、何としてもバスに乗らねばならぬ。 なので、あまり頭を使わずに、調べ物もせずに書けるような内容で、お茶を濁すことにしよう。

優秀な学生とは、どういう者のことをいうのか。 名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、試験で良い点を取る学生が「優秀」であると言われることが稀ではない。 模試で良い成績を修め、医師国家試験で 90 % 以上の得点率を誇る者もいるが、 私の考えでは、あのような試験で「正解」できる者は、むしろ医師や医学者としての資質を欠いている。

私は北陸医大に赴任した直後より、若手勉強会を主宰している。 これは、教授や熟練の指導医からのサポートを、一切、受けない勉強会である。 若手が独立して自主的にやる、という点に最大の意義があると考えているからである。 参加者は私の他には数名の学生のみであり、遺憾ながら現時点では、他の研修医や若手技師、薬剤師、医師らは参加してくれていない。 それでも幸いなことに、少ならからぬ教授やベテラン指導医からは好意的にみられており、しばしば、励ましの言葉を頂戴している。

注目すべきことは、この勉強会に学生が参加している、という点である。 試験の役にも立たないし、臨床に直結もしない勉強会なのに、参加しているのである。たいへん意欲的であり、また、基礎的な学識の重要性をよく認識しているものと思われる。 こういう人々こそが、私の考える「優秀な学生」である。

現時点における学識の程度、臨床知識の多寡などは、大した問題ではない。 そんなものは、これから勉強していけば、いくらでも身につくからである。 しかし、勉強しようという意欲は、これから学年を重ね、経験を積んだからといって、新たに獲得することは容易ではない。 勉強しようという意欲のない者は、もはや、それ以上、成長しない。 与えられた任務をこなし続けたところで、医師として大成することは、ないのである。

我々の勉強会では、一年と少しの時間をかけて、基礎病理学の教科書の通読を終えつつある。 次は臨床薬理学を予定している。 若手薬剤師や、薬学部の学生が新たに参加してくれることを期待している。

我が北陸医大は、学生の質という点において、名古屋大学に勝るとも劣らぬ。

あと 10 分で、バスが出発する。


2017/07/25 心配しなくても、すぐに 60 歳だ

過日、たまたま病院の食堂で某教授と一緒になった。 その教授は、ちょうど 60 歳であるらしい。 私が 34 歳であると言うと、教授は恐ろしいことを言った。 「なに、心配しなくても、すぐに君も 60 歳になる」

何を馬鹿な、60 歳まで、あと 26 年もあるではないか、と一瞬、思ったが、冷静に考えると、そうではない。 振り返ってみれば、私が医学の世界に足を踏み入れてから、もうすぐ七年になる。 七年間で私が何を成したかといえば、もちろん、何も成していない。 この七年間は、ただ医学を修め、斯界のトップランナー達に近づくためだけの時間であったから、この期間に何らの業績も挙げていないこと自体は、問題ではない。 また、名古屋に移った当初とは異なり、現在ではトップランナー達の姿をはっきりと視界に捉えることができている。 七年間を無為に過ごしてきたわけではないのである。 ただ、時の経つことの存外速いのに、今さらながら驚いたのは事実である。

思えば、私は今まで、一つ所に留まることなく、常に動き続けてきた。 5 年毎の節目でみれば、20 歳は京都の工学部で迎え、25 歳は大阪にある原子炉実験所、 30 歳は名古屋であり、35 歳は、ここ北陸医大 (仮) で迎えるはずである。 40 歳も北陸で迎えるかと思うが、その後は、また、どこか別の地方大学に転出する所存である。京都や名古屋のような「中央」には、戻るまい。 そして北陸医大側に「その気」さえあれば、50 歳ぐらいで、また、この大学に戻りたい。 内科の某医師や、同期で外科の某君らと共に、この大学を日本一の医学教育機関に押し上げるのが、当面の私の野望だからである。 その頃に北陸医大の定年が何歳であるのか、あるいは定年という制度が存続しているのかはわからないが、 65 歳あたりで北陸医大を追い出されたら、その後は海外、インドかベトナムあたりに移り、かの地で野心溢れる若者達を育てる任に就きたいと考えている。

まぁ、みているが良い。


2017/07/24 譫妄に対する抗精神病薬

患者の身体に針を刺したり、薬を投与したりする侵襲的な医療行為は、形式的には傷害罪などに該当する。 これが刑事的に処罰されないのは、適切な診療行為であれば違法性が阻却されるからである。 法医学的には、医療行為の違法性が阻却されるためには 1) 治療を目的としていること; 2) 標準的な医学・医療の見地から妥当な行為であること; 3) 患者が同意していること、の 3 つの要件が満足されねばならない、と考えられている。

このうち、最も問題になりやすいのが「患者の同意」である。 特に、患者の認知能力が低下しており、同意することが不可能あるいは極めて困難な場合は、問題がややこしい。 このあたりについて法整備が必要である旨を 日本弁護士連合会も主張している

さて、譫妄患者に対して抗精神病薬を使うことの妥当性について考える。 普通「もし譫妄になったら抗精神病薬を使っても構わない」というようなインフォームドコンセントを事前に得ておくことはない。 また、譫妄を来してから同意を得ることは、不可能である。 従って、こうした抗精神病薬の投与は、同意なしに行われているのが現状である。 では、この投薬は、違法ではないのか。

中には、家族等の同意を得てから投薬する例もあるかもしれないが、そもそも法的には、家族には患者の代理として治療に同意する権利はない。 臨床的には、トラブル回避の目的で家族からの「同意」を得ることもあるが、これは法的根拠がないだけでなく、場合によって違法なので気をつけねばならない。 というのも、患者本人の承諾を得ずに家族に対して病状を説明することは、守秘義務違反にあたるからである。

また仮に、入院時点で患者本人による「医師の定めた治療方針に同意します」というような、いわゆる包括的な同意があったとしても、医療行為の違法性を阻却することはできない。 法的な意味でいう「同意」というのは、その治療内容を理解した上での意思表示でなければならないからである。 北陸医大 (仮) の場合、病状や治療方針について説明を受けた患者や家族が「よくわからないので、全部、先生にお任せします」と述べているのをみることがある。 医師側も、その言葉をもって「患者は同意した」と判断している例があるようだが、非常に危険である。

以上のようなことを考えると、譫妄患者に対し、同意を得た上で抗精神病薬を投与することは、事実上、不可能である。 こうした場合、投薬の違法性が阻却されるためには、緊急避難でなければなるまい。 つまり、投薬しないことで患者が受ける身体的その他の損失が、投薬することで生じるの副作用や、 患者の自己決定権の侵害などの精神的苦痛よりも大きい、と判断されなければならない。 これは、その時の患者の状態を直接診察せずに判断できるようなものではない。

以上のことを念頭におけば、看護師に対して、「不穏の際には抗精神病薬を」などと安易に指示しておくことは、非常に危険である。


2017/07/23 譫妄

北陸医大 (仮) の研修医室に設置されている印刷機の隣に、勉強会の資料のようなものが遺棄されていた。 どうやら、ICU でしばしばみられる譫妄について、基本的な解説を述べた資料のようであった。 研修医の誰かが作った資料だろうか、と思い、さらりと眺めてみたところ、なかなか、よくできた資料であった。 たとえば、譫妄には過活動型だけでなく低活動型もあることや、譫妄に対しハロペリドールで対応することには反対意見も強いことなどが紹介されていた。 これらは現在北陸医大の臨床医の間ではあまり認知されていないのだが、この発表者は、よく勉強しているようである。

一体、誰が作ったのだろうか、と思って最初のページをみると、作者として見覚えのない名前が記されていた。 もしや、と思って検索してみると、案の定、日本大学医学部附属板橋病院の 伊原慎吾助手が作った勉強会資料であった。 たぶん、研修医の誰かが、譫妄について勉強するつもりで印刷したものを置き忘れたのであろう。

伊原助手は、たぶん短い勉強会の時間的制約からであろう、譫妄への対応についてはガイドラインの内容を簡潔に紹介しているのみである。 しかし私は暇な研修医であるから、今年になって最新版が発行された Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th Ed. (Wolters Kluwer; 2017). の内容を紹介しよう。

日本においても米国においても、譫妄の患者に対して、いわゆる抗精神病薬が用いられることがある。 しかし、抗精神病薬の添付文書には用途として「譫妄」は挙げられていないし、米国でも FDA は認可しておらず、あくまで off-label で使用されている。 抗精神病薬が譫妄そのものを改善するとは思われないが、暴れる患者をおとなしくさせる役には立つので、便利な薬として臨床的には用いられているのであろう。 Kaplan は、譫妄に対し薬物で対応することについて、次のように述べている。

Strong evidence to support the pharmacologic management of delirium is lacking. Thus, the use of psychoactive medications should be reserved for the management of behaviors associated with delirium that pose a safety risk for the patient and others...

譫妄に対する薬物療法を支持する根拠は存在しない。 従って、抗精神病薬の使用は、譫妄による暴力的行動のために患者自身や周囲の人々の安全が脅かされる場合に限定されるべきである。

しかし現実には、病院によっては「患者が不穏状態になったら、抗精神病薬で対応せよ」と医師が看護師に事前に指示しておくことがある。 不穏状態とは、医学書院『標準精神医学』第 6 版によれば、 「イライラして怒りやすく不快感情が亢進した状態 ... が外的 (表情や行動などの運動面) に表現されたもの」をいう。 このように「不穏」というのは非常に曖昧に定義された言葉である。 それにもかかわらず、医師からの事前の指示に基づいて、患者が不穏状態であると看護師が判断したならば、 医師の直接の診察なしに、抗精神病薬が投与されるのである。 Kaplan が述べるような「患者自身や周囲の人々の安全が脅かされる場合」に該当するかどうかは、考慮されていないことに注意を要する。

普段、ガイドラインだとか診断基準だとかを金科玉条の如くありがたがっている人々が、 なぜ、譫妄に対してだけは安易な抗精神病薬投与を抵抗なく行っているのか、私には理解できない。


2017/07/22 服薬アドヒアランス

アドヒアランスとは、決められた通りの治療を受けることをいう。薬についていえば、定められたスケジュールに従って服薬することをいう。 以前はコンプライアンスという語が用いられていたが、これは「遵守」という意味合いであり、 近年では「治療への参加」という意味でアドヒアランスという語が好まれる。

患者の中には、服薬アドヒアランスの低い者がいる。 認知機能の低下などによって薬を飲み忘れる例もあるが、有害事象が不快なので意図的に薬を飲まない例もある。 適切に服薬せねば時には生命にかかわるような薬であったとしても、また、そのことを患者は一応理解していたとしても、それでも、飲まずに薬を捨てる患者もいる。

遺憾なことに、医者の中には、意図的に薬を飲まない患者に対し不快感を露にする者がいる。 「きちんと決められた通りに薬を飲まないなら治療できない」などと、患者を脅す者もいる。 想像力が乏しいと言わざるを得ない。

そもそも、患者は医師の指示に従わねばならない、という発想が間違っている。 もちろん、院内の秩序を守るために必要な範囲においては、患者には病院職員の指示に従う義務がある。 しかし治療内容に関しては、患者には、麻薬の使用方法など一部の例外を除き、医師の指示に従う義務はない。

患者が処方された通りに薬を飲まないなら、医者は、まず、患者が指示に従わない理由を知ろうとしなければならない。 まともな認知能力を有する患者であれば、薬を正しく飲まないことには、相当の理由があるはずだからである。 患者が何かを誤解しているなら、正しい情報を提供するべきである。 また、患者が物事を正しく認識した上で服薬を嫌がるなら、患者が納得できる対応を一緒に模索するのが医者の仕事である。 それを、患者の訴えも聴かずに、叱りつけることで無理矢理、言うことをきかせようとするのは、まともな医者のやることではない。

こうした問題は、服薬だけのことではない。 たとえば手術目的で入院した患者が「やっぱり手術は嫌だ」と言い始めた時、多くの外科医は、何とか説得しようとするのではないか。 しかし本来ならば、説得を試みる前に、なぜ手術が嫌なのかを、しっかりと聴かねばならない。 それをせずに説得しようとすれば、医者と患者の間の溝は深まるばかりである。

諸君も医学科 1 年生や 2 年生の頃は、以上のようなことを、あたりまえに理解していたのではないか。 それが、学年が進み、あるいは研修医になり、医療の現場に参加し、看護師などから「センセイ」と呼ばれるようになって、何かを勘違いしたのであろう。 多くの患者は医者の言うことに素直に従ってくれるので、まるで自分がエラくなったかのように思うのである。 そこで自分達の言うことに簡単に従わない患者が現れると、生意気だ、とばかりに、「それなら治療できない。帰れ。」などと言い出すのである。


2017/07/21 コードブルー

「コードブルー」という病院用語がある。 これは、院内で一人の患者が心肺停止したなどの緊急事態が生じたが人手が足りない、というような場合に、手の空いている職員は直ちに集合せよ、という意味の隠語である。 なぜ「ブルー」なのかというと、これは比較的穏やかな状況だからである。 たとえば自然災害だとか、大規模交通事故などで多数の負傷者が出ている状況では「コードオレンジ」や「コードレッド」が発令されることもあるらしい。 が、私は未だ、そういう場面に遭遇したことはない。

さて、隠語とはいえ、「コードブルー」という語はテレビドラマなどを通じ、割と多くの人が知っているらしい。昨日の記事に登場した患者も、知っていた。 なお、私は、研修医になるまで知らなかった。 とにかく、コードブルー、ということになれば、暇な研修医などの職員は、ソソクサと現場に集合する。 この際、廊下を走る者も多い。

北陸医大 (仮) 附属病院において「廊下を走ってはいけない」という規則があるのかどうかは、知らぬ。 が、社会常識からいって、原則として、病院の廊下を走ってはいけない。 では、コードブルーの際は、例外的に、病院の廊下を走ることは許容されるだろうか。

原則として廊下を走ってはいけない理由は、もちろん、危ないからである。 現場に急行しようとする職員が、廊下を歩いている患者と衝突して怪我をさせるようなことは、あってはならぬ。 廊下を走ることで何秒か早く現場に到着することの利益と、他人と衝突するなどの事故を起こすリスクと、どちらが大きいか、という点を、よく考えねばならぬ。 昨日の記事に登場した患者は、リハビリを兼ねて病院の受付付近を散歩中にコードブルーの招集がかかり、多数の職員が走って現場に向かう場面を目撃したらしい。 「あれは、ぶつかりそうで、ちょっと危ないように思った」との感想を述べていた。 実際、その人は杖を使うことで、なんとか、ゆっくり歩ける、というような状況であったので、慌てて走る職員と軽く接触するだけでも、転倒して大怪我をする恐れがあった。

某大学の救急科教授は、「あわてて走らなければいけないほどの緊急事態というのは、現実には、滅多に存在しない」と述べた。 走るのと、早足で歩くので、どれだけ到着時刻に差が生じるであろうか。 走るのではなく、全力で歩く、というのが適切な対応であるように思われる。


2017/07/20 寄付について

ある患者と話していて、そういえば、と思った話である。

その患者は、難病とされる疾患を患い、診断もはっきりつかない状態で他の病院から北陸医大 (仮) 附属病院の某内科に転院してきた。 我々も頭を悩ませたが、なんとか診断し、治療を開始したところ、幸いにも治療効果は抜群で、すっかり元気になって退院することができた。

退院の一週間ほど前に、病室で雑談した時のことである。 その患者は、我々に対して大いに感謝している旨を述べた。 誤解のないよう書いておくが、医者は患者を治療するのが仕事である。 我々は、本当に言葉通りの意味で、あたりまえのことをやっただけである。 感謝されて悪い気はしないが、「感謝するのが人として当然である」とは思わない。 「金を払っているのだから、適切な治療を受けられるのが当然なのであって、別に医者に対して感謝しようとは思わない」という患者がいても、何らおかしくない。 というより、私自身が、そうであった。 また、病院には多くの職種の人々がいる中で、特に医師や看護師に対して強く感謝の気持ちを抱くことは、冷静に考えれば、おかしい。

ともあれ、その人は、その某内科の人々に対して強い感謝の念を抱いたらしい。 その気持ちを表明する意味で、研究に役立てて欲しい、と、退院したら寄付することを考えた。 寄付ということでいえば、我が北陸医大附属病院の病棟には、大学全体で設けている基金への寄付を依頼するポスターが掲示されている。 この基金に寄付した場合、使途は基金側で決め、大学全体で有効に使わせていただく、ということになっている。 その人は、これが不満であった。 その人は、某内科に対する感謝として、その某内科のために寄付したいのであって、北陸医大全体に寄付しようとは思わなかったからである。

「だから、寄付するのをやめた」と言われて、私は狼狽した。 詳しい手続きは知らないが、寄付先の部局を指定して、この場合でいえば「某内科に」と限定して寄付することも、制度上は可能であったと記憶していたからである。 そこで私は「詳しい手続はよく覚えていませんが、宛先を指定して寄付することも可能であったはずです。 案内窓口あたりで尋ねていただけると幸いです。」と述べておいた。 本当をいえば、詳しい手続をこちらで確認して知らせるのが親切ではあるのだが、まるで寄付をねだるかのような格好になるので憚られた。 一応、寄付の手続については調べた上で、次回以降に役立てることにしようと思う。

なお、こういう寄付の方法があることは周知されていないので、その人が知らなかったのも無理はない。 実際、私が北陸医大のウェブサイトを簡単に検索した限りでは、そういう寄付の方法を説明する記載はみあたらなかった。 この点、たとえば福井大学の場合は簡明な説明が設けられている。 北陸医大も、これを見習うべきである。


2017/07/19 不正な統計解析

この日記では、原則として、個人攻撃は行わない。 ただし、公表された論文の内容に対する攻撃は、行う。 科学者である以上、自身の研究を世に公開する以上、徹底的な科学的批判に曝されるのは当然であって、それを覚悟していない者は科学者たる資格がない。

今回、問題にするのはスペインの David Bernal-Bello を筆頭著者とする Autoimmun. Rev. 16, 461-468 (2017). である。 これは、全身性硬化症 (Systemic Sclerosis) の患者を対象にした後ろ向き研究であって、抗 PM/Scl 抗体陽性であることは発癌リスクであり、 またアスピリン投与を受けていることは発癌しにくい因子である、とする報告である。 しかし、この論文は統計解析の手法が著しく不適切であり、医学的価値がない。 著者は、統計学に無知であるか、あるいは悪意によって恣意的な結論を誘導したものと思われる。

この報告では、多重検定の取り扱いが不正なのである。 たとえば患者が全身性硬化症に対して受けた治療内容と発癌頻度の関係についての「解析」では、 治療内容毎に発癌した患者と発癌しなかった患者の間における p 値を計算し、たとえばアスピリン投与については「p < 0.05 であり有意差があった」としている。 しかし冷静に考えればわかるように、20 種類の治療内容について、それぞれ検定を行って p 値を計算したならば、 本当はどの治療内容についても差がなかったとしても、1 つぐらいは偶然に p < 0.05 となるような偏りが生じるのは自然なことである。 それが p 値というものの、そもそもの定義だからである。 だから、この場合、アスピリン投与について p < 0.05 であったとしても、それをもって「有意な差があった」とするのは不適切である。 このように、検定を繰り返す場合には、単に p 値が小さいことをもって「有意である」と主張することはできない。これが多重検定の問題である。

では、どのように扱うのが適切なのかというと、残念ながら定説はない。 最も単純なのは Bonferroni の方法であるが、これは不当に厳しすぎることが知られている。 Holm の方法は、Bonferroni 法よりは緩く、しかも論理的妥当性を保っているが、たぶん、今回の報告に Holm 法を適用したならば、全く有意差は出なかったであろう。 他には False Positive Rate で評価する流儀もあるが、これも、今回の報告に適用したならば、有意差は認められなかったと思われる。

著者が敢えて多重検定の問題を無視したのか、それとも単に多重検定の問題を知らなかったのかは、どうでも良い。 いずれにせよ著者の科学者としての程度が低いことには変わりがないからである。 問題なのは、こうした統計学的に不当な、はっきりいえば不正な解析を行っている論文が、公然と出版されていることである。 この論文を掲載した Autoimmunity Reviews という雑誌は、一部の研究者が好む Impact Factor でいえば 8.961 であり、割と評価が高い、ということになる。 しかし、この程度の論文を掲載しているようでは、この雑誌の科学的水準は低いと言わざるを得ない。

要するに、Impact Factor などというものはアテにならない。ピアレビューなどというものも、信用できない。 そして臨床医学をやっている人々には、統計学について、あまりにも無知であり、科学研究を遂行する能力に乏しい者が少なくない。


2017/07/18 薄っぺらい研修医

医学科生や研修医、あるいは若手医師の中には、何かを勘違いしている者も珍しくない。 本当は大した学識もないのに、肩書だけを根拠に、まるで自分がエリートである、優秀である、かのように思っているのである。

彼らは大抵、自信に満ちた態度で医学的な話をするので、非医師からすれば、とても優秀な人物であるかのように、みえるかもしれぬ。 が、冷静に彼らの話を聴いてみると、つまり「上級医が、こう言っていた」「ガイドラインに、こう書いてある」という内容ばかりで、 彼ら自身による判断、彼ら自身による分析は、ほとんど、ない。 少し深いところをつつかれると「それは、そういうものなのだ」「そう思うなら、君は、そのようにすれば良い」などと言って、逃げる。 指導医からすれば、よく働く便利な研修医、というような位置付けであって、かわいがられることはあっても、恐れられることは、あるまい。

本当に優秀な研修医や学生というのは、指導医から、ある程度は恐れられるものである。 たとえば症例検討会などで、その研修医が「先生」と言いながら挙手すると、発表者は「来たか」と身構えるのである。

東京の某有名市立病院で研修を受けている元同級生と、過日、電話で話した。 彼が言うには、同期に「意識高い系」研修医が多いことに辟易している、とのことである。 症例発表の場では、患者の細かな検査値をイチイチ暗記して話しているが、一体、何の意味があるのか。 自分達で勉強会などを開催してはいるが、ガイドラインやマニュアルの内容をなぞるだけで、医学的な深みがない。 といった具合である。

だいたい、想像がつく。そういう「一見、専門的で高度な話をしているようにみえるが、よく考えるとペラペラで中身がない」のは、 エラい肩書のセンセイの講演でも、しばしば遭遇する。 要するに、他人のフンドシで相撲を取っているのである。

これは、ひょっとすると私の偏見かもしれないが、そういうペラペラな話をする医者というのは、だいたい白衣の前ボタンをだらしなく開けていたり、 マスクを正しく着用していなかったり、あるいは腕時計や指輪をつけたまま診療したりしているように思う。


2017/07/17 弁別と p 値を巡る詐術

医者の多くは、統計学を識らない。それ故に、臨床においても、研究においても、統計の詐術が蔓延している。 これには、論文を書く側が悪意をもって読者を欺いている場合と、書く側も統計に無知であるが故に誤謬を犯している場合とがあるが、いずれにせよ、論者の罪である。 科学者としては、不勉強であること自体が悪だからである。

ひとくちに「臨床研究」といえば範囲は広いが、何か二つの群を鑑別する方法を検討するような研究について考える。 たとえば、手術に際してのハイリスク群とローリスク群の患者を事前に鑑別する、とか、 ある種の臨床検査において、本当のシグナルとノイズとを鑑別する、とかいう状況を想像していただければ良い。 具体例を示すとわかりやすいのだろうが、悪口になるので、ここでは敢えて挙げないことにする。

程度の低い臨床研究で、しばしばみかけるのが、両群の間に t 検定か何かを適用して p 値が低い、有意差があった、 だから、この方法は両群の鑑別に有用と思われる、というような論法である。 統計学の見地から申し上げれば、笑止である。何の意味もない。そもそも検定とは何か、ということを理解していないから、そういう過ちを犯すのである。

Fisher's exact test にせよ t 検定にせよ、この種の「検定」というものは、「両群が全く同じ確率分布に従っているとはいえない」ということを示すためのものである。 検査所見によって患者を二群にわけた場合について考えれば、両群では、そもそも生理学的あるいは病理学的状態が異なるのだから、 手術の転帰が「全く同じ確率分布に従う」などということは、ありえない。 すなわち、充分な標本数があれば有意差が生じることは、初めからわかっているのである。それを実際に計数して「有意差あり」という結論を確認することには、何の意味もない。 ひょっとすると諸君は「やってみなければ、本当に有意差が生じるかどうか、わからないではないか」と言うかもしれぬ。 しかし、それは誤りである。やらなくても、有意差が出ることはわかっている。 それがわからないのは、単に、諸君が不勉強だからである。

両群の弁別、という観点からすれば、なおさら意味がない。 自称研究者の中には「両群で有意差があったから、このパラメーターを用いてハイリスク群とローリスク群にわけることができる」というような論法を用いる者がいるが、 これは統計学的に正しくない。 たとえば、ある検査値が、ハイリスク群の患者で 100 ± 20, ローリスク群の患者で 106 ± 20, であったとする。 両群の患者数がそれぞれ 100 人であったとすると、標準誤差は両群共に 2 であるから、t 検定で p = 0.05 を閾値とすれば、両群には有意差がある。 上述の自称研究者の論理に従えば、この検査値によってハイリスク群とローリスク群を鑑別できそうだ、ということになるが、もちろん、それは事実に反する。 両群ともに標準偏差が 20 もあるのだから、たとえば、ある患者で検査値が 95 であったとしても、それがローリスク群である可能性は充分にある。 いくら有意差があったところで、この検査値によって両群を弁別することなど、到底、不可能なのである。

「検定」という操作の意味をよく考えもせず、漠然とした非論理的思考によって物事を処理しようとするから、こういう過ちが生じる。 が、無知な相手を欺くには便利なので、こういう統計もどきが、臨床医学論文と称する文献の中には頻出しているのが現状である。


2017/07/16 無責任

学生の頃、諸君の多くは、生化学、生理学、薬理学、病理学といった基礎医学を、ろくに勉強しなかったであろう。 過去問を「勉強」し、試験に出るポイントを「効率的」に暗記して単位を掠め取る者が、名古屋大学においても北陸医大 (仮) においても、多いようである。 彼らは異口同音に「生化学などは、後で必要が生じたら、その時に勉強しなおせば良い」と弁明する。

しかし、いざ医者になってみると、今度は「生化学はよくわからないから」と弁明して、生化学的な問題からは眼をそらす。 詳しい機序はともかく、添付文書やガイドライン、あるいはマニュアル本に書かれている内容に従って投薬すれば良いだろう、と考えるのである。 何か悪いことが起こっても、添付文書に書かれている通りにやったのだから仕方ない、ガイドラインに従ったのだから私の責任ではない、という具合である。 素人は、まさか医者がそんな無責任なことをするはずはない、と思うかもしれないが、遺憾ながら、これが現実である。 学生時代の「後で必要が生じたら……」という言葉は、その場しのぎの弁明に過ぎず、本当は、生化学など一生勉強する気はなかったのである。

ある治療薬の添付文書に「ランソプラゾールとの併用注意」と記載されていた。 ランソプラゾールというのは、プロトンポンプ阻害薬であって、つまり胃酸の分泌を抑制する薬である。 添付文書によると、ランソプラゾール併用した場合、胃内の pH が高くなり、治療薬が溶けにくくなり、結果として吸収されにくくなる恐れがある、というのである。

以前、この治療薬を投与された症例をみたことがある。 かなり多めの量を投与しているのに、薬剤の血中濃度があまり上がらず、また血中濃度の変動も大きく、担当医は首をかしげていた。 私は、併用されている薬剤の中にヒスタミン H2 受容体拮抗薬であるファモチジンが含まれているのをみて、これのせいではないか、と指摘した。 ヒスタミン H2 受容体拮抗薬というのも、胃酸の分泌を抑制する薬であるが、プロトンポンプ阻害薬よりは臨床的な効果が弱いとされている。 ランソプラゾールが治療薬の吸収を抑制する機序が pH の変化によるものであるならば、ファモチジンも同様に吸収を抑制するはずである。 だから、ファモチジンを減らすか、飲み方を変えることで、この治療薬の血中濃度を上げることができるのではないか、と私は述べたのである。

しかし、私の言葉は、担当医には届かなかった。 プロトンポンプ阻害薬との相互作用は添付文書に記載されているが、H2 阻害薬との相互作用は記載されていないのだから、考慮する必要はない、ということらしい。 もちろん、それは医学的には全く正しくないのだが、研修医が何かを言ったところで、ろくに耳を貸してくれる相手ではない。 私は、なんとか担当医を説得できるだけの材料を探そうとはしたのだが、結局、充分な文献的根拠を示すことができず、引き下がらざるを得なかった。

遺憾ながら、薬理学を全く理解していらっしゃらない。 「なぜか血中濃度が上がらない」などということをカルテに書いている医者は、なぜ、自分が薬理学を不勉強であることを反省しないのか。なぜ、今、勉強しないのか。 「臨床には、わからないことが一杯あるんだよ」などと言う者もいるが、その「わからないこと」のうち半分ぐらいは、あなた方が不勉強なだけである。 それを恥ずかしいと思わないのか。


2017/07/14 地元出身者は採らない

北陸ローカルの話である。 北日本新聞の報道によると、富山市で創業した某機械メーカーの会長が、記者会見において、 富山出身者の採用を控える方針であるかのような発言をし、猛烈な批判を浴びている

私は、その会長の発言の全体を聞いたわけではないが、まぁ、会長の言いたいことは理解できるし、同意する。 もっとも、これを言えば世間から誤解され、猛反発を受けるであろうことを予想できていなかったとすれば、企業のトップとしては問題があるかもしれぬ。

会長は「富山で生まれて幼稚園、小学校、中学校、高校、我が社。これは駄目です」というようなことを言ったらしい。 要するに、北陸の一地方都市に過ぎぬ富山で幼少期からずっと過ごし、その狭い社会で人生を完結させようというような人間では、 想像力に自ら限界が生じる、という懸念を表しているのだろう。 実際、「ワーカーは富山から採ります」として、特別な創造性を必要としない労働力としてなら地元民を積極採用すると述べている。 なお、会長は「富山で生まれ (他の) 地方の大学に行ったとしても、私は極力採らない」とも述べたらしい。 これは、いささか際どい発言ではあるが、わざわざ他県の大学に行って、すぐに富山に戻ろうとするのも、やはり視野の偏狭なることの証左とみているのだろう。

富山に限らず、北陸が住みやすい、素晴らしい地方であることは確かである。 しかし、いくら良い場所であっても、その場所に固執し、広い世界に眼を向けぬようでは、人材として大成しない。 そんなことは科学の世界では常識である。

医師についても、同じことである。 北陸で生まれ育ち、北陸医大 (仮) を卒業し、そのまま県内に医師として就職する者は多い。 こうした傾向は、北陸医大に限ったことではない。 名古屋大学医学部医学科の卒業生は、優秀な一部の層は東京などに転出するが、大抵は東海地方に残る。 地元愛が強いことは結構である。しかし、若いうちから地元での安楽な生活に身を任せて、はたして、それで医師として大成するのか。 いわゆる家庭医として、地域に密着した医療を提供するにしても、まずは広い世界に出て、しっかりと勉強するべきではないのか。


2017/07/13 ある教授の見識を見直した話

あたりまえのことであるが、教授という人種が、我々研修医に比べて、必ずしも学識において優れているとは限らない。 教授の方が我々よりも経験豊かであることは間違いないのだが、基礎的な学識においては、時に、我々の方が優れている。 その結果、少なくとも部分的には、我々の方が教授より優れている面があるのは、自然なことである。

正直に書くが、私は、つい先日まで、某教授の見識を少しばかり疑っていた。 論文を量産する能力はあるようだが、医学者としての力量については、いささか疑問を挟む余地がある、と、みていたのである。

過日、ある症例検討会で、その教授と同席した。 その症例では、主たる病変とは別に、低ナトリウム血症を来していた。 血清ナトリウム濃度は 125 mEq/L であるが、尿中ナトリウム濃度は 50 mEq/L 程度、尿浸透圧は 230 mOsm/kg H2O であった。 また、血漿バソプレシン濃度は 0.7 pg/mL であった。

通常、低ナトリウム血症を来すと、バソプレシンの分泌が止まる。 臨床医学の教科書では「バソプレシン濃度は検出感度未満」というような表現をされると思う。 この症例では、125 mEq/L の著明な低ナトリウム血症なのにバソプレシンが分泌されているという時点で、 抗利尿ホルモン不適合分泌症候群 (Syndrome of Inappropriate secretion of ADH; SIADH) と考えられる。 ただし、厚生労働省による SIADH の診断基準は「尿浸透圧が 300 mOsm/kg H2O 以上」という要件が必須とされているため、この症例は診断基準を満足しない。

それにもかかわらず、教授は、血漿バソプレシン濃度 0.7 pg/mL と聞いて「あぁ、では、SIADH だね」と言った。 これをみた私は「この教授は、わかっている」と、みなおしたのである。

SIADH の疾患概念は「ADH が不適切に過剰分泌されることで低ナトリウム血症およびそれに随伴する症候を呈するもの」である。 結果的に、腎集合管における水の再吸収が亢進し、高張尿が排泄されることが多いが、疾患概念としては、高張尿は必須ではない。 ADH の過剰分泌の程度が軽ければ、低張尿が出ても、何の不思議もないのである。 その観点からすれば、厚生労働省の診断基準は、SIADH の病理学的本態を無視しており、不適切である。

凡庸な医者は、安易に「診断基準を満足しないから、SIADH とは言いにくい」などと考える。 しかし本当に医学を修めた人は「診断基準などというものは、参考に過ぎない」として、平然と SIADH の診断を下すことができるのである。

そういえば、昨年度の春、北陸医大 (仮) の某外科の医師は、研修医向けのセミナーで「我々は本当は、ガイドラインなど、くそくらえ、と思っている」と言い放った。 それを聴いた私は「北陸医大に来て良かった」と、安堵したのである。


2017/07/11 保守派と革新派

少なくとも私が直接に見聞した限りでは、医学科の学生や若い研修医などの中には、保守的な連中が多い。 私が何か現状を否定するようなことを言うと「それは、そういうものなのだ」「臨床を知らないくせに」などと言い、現状を擁護するのである。 しかし、よく話してみると、実は彼らも現状に満足しているわけではないことがわかる。 では、なぜ、かくも必死に現状を擁護しようと試みるのか。

どうも彼らは、「批判する」という行為を、「和を乱す、邪悪な行為」とみなしているように思われる。 あるいは「指導医の先生方を批判するなど、おこがましい」と思っているのかもしれぬ。 実際、指導医に質問することは推奨される一方、批判されたり反対意見を唱えられたりすると、途端に機嫌が悪くなる指導医は稀ではない。 医学を本当に理解しているのなら、学生や研修医ごときに批判され、反対されようとも、適切な反論ができるはずである。 さらにいえば、生意気な研修医を論破して、ニヤリ、と勝利の笑みを浮かべれば良いのである。 それができないのは、指導医の側の見識が不足しているからである。 そのことが露呈したが故に、彼らは不機嫌になるのであろう。 要するに、人間ができていない、器が小さいのである。

本当に学識のある指導医や教授などは、私ごときが全力で攻撃したところで、ビクともしない。 あるとき、研修医向けのセミナーで某教授が薬の使い方について説明した際、 私は挙手して「先生、それは違うと思います」などと言い、自説を展開した。 しかし教授は動じなかった。整然とした論理を述べ、私を黙らせたのである。 さらに教授はニヤリとして「負けないよ」と言った。 指導医たるものは、こうでなくてはならぬ。

遺憾ながら「権威」とされるものや指導医を批判できる医科学生や研修医は、少ない。 なんとか言い訳して、現状を擁護しようとするのである。 典型的なのが「まだ知識や経験が乏しいから」という弁明であるが、これが論外であることは過去に何度も述べているので、繰り返さない。

こうした、現状に迎合するばかりで、物事を変えようとしない、新しいものを創ろうとしない連中が、医科には多い。 その点について、ある教授は「そういうつまらない連中を相手にする必要はない。本当にわかっている人とだけ、つき合えば良い。」と私にアドバイスしてくれた。 しかし私は、その教授のアドバイスに従うつもりはない。それには 2 つの理由がある。

第一に、医学研究は我々が担えば良いが、臨床医療は彼らのような「批判する勇気のない人々」にも担ってもらわなければならないからである。 彼らを「つまらない連中」と切り捨ててしまい、彼らがそのまま「一人前」の医師として臨床の前線に出てしまえば、臨床医療が崩壊する。 それで被害を受けるのは、彼ら自身ではなく、患者である。 患者に不幸が訪れることを知りつつ放置したとなれば、それは、我々の罪である。 だから我々は、彼らに対し「学ぶとは、どういうことか」を示し続けなければならない。

第二に、彼ら自身も、本当は変わりたいと思っているからである。 彼らも、内心では現状に不満を抱えている。それを表明する勇気がないだけのことなのである。 そういう人々に対し、何らの手もさしのべることなく切り捨ててしまえば、それは教育者ではなく、教授たるにふさわしくない。

もちろん、医科学生や医者の中のごく一部には、本当に精神が腐敗し、どうしようもない連中も存在する。 そういう者は、さすがに私も、相手にしない。


2017/07/10 同意書を入院時に書かせることについて

病院や診療科によっては、いくつかの医療行為の同意書を、入院時点で予め取得しておく例があるらしい。

たとえば造影 CT であるとか、輸血、あるいは中心静脈カテーテル留置であるとかいった医療行為は、侵襲性が高く、頻度は低いが重大な合併症を引き起こすことがある。 従って、多くの病院では、こうした医療行為を行う前に、患者に対し「同意書」への署名を求めるようである。 同意書というのは、この医療行為の意義やリスクについて、キチンと説明を受けて同意しました、という念書のことである。

同意書は、本来、インフォームドコンセントが得られていることを示すための書類である。 しかし現実には、患者は通り一遍の説明を受けただけで、ろくに内容を理解しないままに署名することを求められる例が多いのではないかと思う。 後でじっくりと書類の内容を読み返して怖くなったとしても、同意を撤回することは、普通、できない。 理屈としては、同意はいつでも撤回できるのだが、撤回しようとすれば、医師や看護師が強硬に説得しに来る。 病院によっては「同意を撤回するなら、治療できないから、退院してもらう」ぐらいのことを言われるかもしれない。 もちろん、こういうやり方で得た同意は、インフォームドコンセントではない。 本当に患者の同意を得たことにはならず、法医学の観点からいえば、医療行為の違法性を阻却することができず、医師らは傷害罪などに問われる可能性がある。 しかし現実には「実際にはインフォームドコンセントが与えられていなかった」ことを証明することは困難なので、医師が刑事責任を問われることは稀である。

ただし民事であれば話は別である。 患者が、後から「何も理解しないままに同意書に署名することを求められたので、やむなくサインしただけだ」と言えば、医師側は窮地に立たされる。 「同意書にサインがある」というだけでは、法律上、患者が本当に同意したことの証明にはならないからである。 ただし、今のところ医事訴訟においては「カルテの記載は全て真実である」という仮定がまかり通っているらしいから、 とりあえずカルテに「患者は納得して同意した」などと書いておけば、たとえそれが事実に反していても、裁判では医師側が有利である。 また、少なからぬ人は「署名してしまった以上、その同意書は有効だ」などと勘違いしているので、そもそも、後から同意を撤回して訴訟に持ち込むような患者は少ないであろう。

以上のことからわかるように、同意書というのは、現実には、患者が後から文句を言うのを封じるための道具として用いられているに過ぎない。 本来の役割からは、大きく逸脱しているのである。 それを端的に示しているのが、冒頭で述べたような、同意書を入院時に書かせる、という手口である。

これは、いざという時に医療行為の内容を説明し同意書に署名してもらう手間を省くため、予め同意書にサインさせておく、という発想である。 もちろん、サインさせる際には「実際には、たぶん、やらないと思う」などと説明するので、患者も比較的、気楽にサインする。 で、実際にそれを行う場合には、既に同意書は取得しているのだから、簡潔に説明するだけで実施できる、という寸法である。たいへん、都合が良い。 たとえば輸血を行う必要が緊急に生じた場合、イチイチ説明して同意書にサインをもらう時間はないから、予め入院時点で同意書を取得するのだ、などと主張する医師もいる。

冷静に考えれば、これは、全く、おかしい。 その処置を行うことに本当に緊急性があるのならば、患者の同意は、得なくとも良い。刑法でいうところの緊急避難に該当するからである。 だから、同意書を、入院時などに予め用意しておく必要はなく、本当にそれを実施する必要が生じた時に、記入してもらえば良いのである。 もちろん、行う可能性のある処置について事前に、たとえば入院時点で、「コレコレこういう場合には、中心静脈カテーテルを留置する必要があり、 その際にはカクカクしかじかのリスクがあります」というような説明しておくことは、望ましい。 ただし、それは説明だけで良く、同意書にサインさせる必要は、全くないのである。


2017/07/09 口論 (2)

閑話休題、特に偉いわけではないのだから、もちろん、医者が非医師の教職員より多くの給料を受け取ることには、何らの合理的根拠も存在しない。 しかし現実には、大学の医師の多くは時給 1 万円程度のアルバイトをすることで高収入を得ている。 それを「汚らわしい」などと非難することはあっても、その高収入自体に憤る人は多くないであろう。

しかし「大学の給料だけでは生活できない」と言われれば、話は異なる。 同じ大学職員なのだから、医者も、他の職員と同程度の給料で生活するのが、本来の姿なのである。 それを「生活できない」とは、何事であるか。 「医者は、他の職員よりも高い生活水準を保つのが当然なのであって、そのためには、大学からの給料だけでは足りない」と、暗に言っていることになる。 それを聴いた非医師の大学教職員が怒るのは、当然であろう。

要するに、あなた方は、たぶん無意識なのであろうが、医師以外の人間を見下しているのである。 そして、そのことを、医師以外の人々は、あなた達以上に、よく理解しているのである。 その他人を見下した態度を如実に表しているのが「大学の給料だけでは生活できない」という言葉なのだから、それで怒らない方が、むしろ、おかしい。

医者の給料は、仕事量の割には多くない、などと言う者もいる。 馬鹿げている。 基礎研究者達が、どれだけ仕事をしているのか、深夜早朝および土曜日曜に、基礎研究棟を覗いてみるが良い。

医者は人の命を預る責任重大な仕事だから、などと妄言を吐く者もいる。 医者が預る命など、どんなに多く数えても、せいぜい年に数百人であろう。 それが、基礎医学、基礎科学、あるいは警察官や自衛隊などに比して、そんなに重い責任なのか。

こういう医者批判を、私は、周囲の人々に対しても、あまり遠慮なく述べている。 これを他人に対する包容力に乏しく、考え方の多様性を認めない、狭量な態度である、とみる人もいるだろう。 しかし、狭い医師の世界でのみ通用する「常識」に固執し、社会に対する協調性を欠いているのは、あなた達の方である。

以上の内容について、たぶん、医師の 9 割は反発し、非医師の 9 割は賛同するであろう。


2017/07/08 口論 (1)

論争、というほど理路整然とした話にはならなかったので、口論、と表現する方が適切であろうと思われる。 過日、私が同期研修医の二人と、夜の研修医室で論じ合った件についてである。 最初は「ワークライフバランス」を巡る雑談であったが、やがて話題は逸れた。 「大学の給料だけでは食っていけない」という、一部の臨床医がしばしば口にする言葉について、 私が攻撃を加えたのに対し、他の二人は擁護にまわる、という形で戦いは始まった。

「大学の給料だけでは生活できない」という言葉が基礎医学研究者や他学部の教員などを激怒させる、という事実を、彼らは、よく理解できないようであった。 これは、彼らの理解力が特に低いということではなく、多くの臨床医や医学科生は、この言葉の何が問題なのか、理解できないのだと思う。 そこで、普通の人からみれば馬鹿馬鹿しい話ではあるのだが、この言葉がなぜ悪いのか、説明しよう。

まず前提として、医者は大学あるいは病院の教職員の中で特に偉い、という事実は存在しないことを認識する必要がある。 これは社会における一般常識なのだが、不思議なことに、多くの医者は勘違いしている。 たとえば、廊下で道を譲られても会釈の一つもしない医者は、多いのである。

話は逸れるが、私は病院内で学生の集団とすれ違う時など、基本的には会釈して道を譲ることにしている。 すると、相手側が知り合いの学生であれば別だが、特に面識のない場合、先方は私に会釈の一つも返さず、目も合わさずに通り過ぎることが稀ではない。 私は人間同士の上下関係というものが嫌いであるが、一応、社会通念上は、研修医は学生よりも上級生であって、場合によっては我々は学生を監督する立場にもなる。 その上級生に対し、会釈どころか一瞥もくれないとは、いかなる了見であるか。 おそらく、彼らは私を非医師の職員と誤認しているのであろう。「上級生が下級生に道を譲る」という状況は、彼らの「常識」では考えにくいからである。 まぁ、そこまでは良い。私も、上級生だからと学生にヘコヘコされるのは、好きではない。 しかし、道を譲ってくれた非医師の職員 (と彼らが認識している相手) に対して会釈もしないというのは、非常識の極みである。

ついでに言えば、病院の清掃員に対しても、多くの医師や学生は非礼な態度で接している。 すなわち、廊下ですれ違う際にも、まるで路傍の石を眺めるが如く、何らの挨拶もしないのである。 清掃員の中には毎朝、我々に「おはようございます」と声をかけてくれる人もいるのだが、それに対しても無反応な者が少なくない。 その結果、清掃員の中には、心の扉を閉ざしてしまった人もいる。 私の方から「おはようございます」と挨拶しても、それが、その清掃員氏に向けたものであるということが直ちには理解できないらしく、返事をしてくれないのである。 そういう人でも、連日、こちらから挨拶すれば、やがて返事をしてくれるようになるのだから、先方の精神が歪んでいるわけではない。

さて、話を元に戻そうと思ったのだが、そろそろ記事が長くなってきたので、続きは次回にしよう。


2017/07/06 Arrowhead

Arrowhead という英単語がある。 これは、矢の先端にある、標的に突き刺さる部品の名称であって、日本語でいえば鏃である。 もちろん「鏃」は「やじり」と読む。 つまり、英語では「矢の頭」である部品が、日本語では「矢の尻」なのである。 ここまでは、日本語の常識といって良い。 しかし、この常識を知らぬ者が、少なくとも医学関係者には多い。

医学に限らず、教科書等において写真の一部を示すのに、矢印を用いたり、「矢印のうち鏃の部分だけを取り出した記号」を用いたりすることは多い。 この後者の記号を、英語では arrowhead と呼ぶのに対し、日本語の教科書では「鏃」ではなく「矢頭」と書いていることが少なくない。 もちろん「矢頭」などという日本語は存在しない。要するに、日本語を知らない翻訳者が、英語の arrowhead を、そのまま「矢頭」と訳してしまったのであろう。 なお、私は工学の世界を離れて久しいので、物理や工学の教科書で、この記号を何と呼んでいたかは覚えていない。


2017/07/05 悪性腫瘍の定義 (2)

医者と称する人々の中には、医学を修めていない者も少なくない。 治療の目的は何なのか、ということをはっきりさせないまま「肺癌だから治療しなければならない」とか 「ステージ IV の○○癌に対する治療法は△△である」というような、安易な決めつけで患者を弄ぶ者も少なくない。 ガイドラインとか「標準治療」とかいうものの位置付けを、全然わかっていないのである。

そういう問題とは別に、そもそも「癌だから放置したら大変なことになる」という論理も正しくない、ということを昨日、紹介した。 そこで我々が知りたいのは、ある患者に小さな浸潤性乳癌がみつかった場合に、 それが「放置したら大きくなる癌」なのか「放置しても大きくならない癌」なのかを鑑別する方法である。

この両者を識別することが原理的に可能であるかどうかは、わからない。 ひょっとすると、大きくなる癌と大きくならない癌の間には、初期の段階では何らの違いもないのかもしれぬ。 最初は全て「大きくならない癌」なのであって、後になって何か偶発的な事情、たとえば何か特定の変異が生じたものが「大きくなる癌」に転じるのかもしれぬ。 その場合、発見した時点で「これは大きくならない癌です」と断言することは、原理的に不可能である。

一方、「大きくなる癌」と「大きくならない癌」が、実はかなり早い段階で分かれており、浸潤能を獲得した段階では既に、概ね未来が決まっている可能性もある。 その場合、何か適切な観察方法を用いれば両者を鑑別できる可能性がある。 真相が不明である以上、そうした鑑別の可能性に期待して探究模索を行おうとするのは、科学者として、医師として、あたりまえのことである。

後者の可能性に期待することには、一定の理論的根拠がある。 Burkitt リンパ腫のように細胞分裂とアポトーシスを高頻度に繰り返す腫瘍を別にすれば、 「大きくならない腫瘍」というのは「あまり細胞分裂しない腫瘍」であろう。 「腫瘍」という語は、単に「外部からの刺激に依存せず増殖する」というだけの意味であって、増殖の速さについては言及していないことに注意を要する。 あまり細胞分裂しない、ということは、常識的に考えれば、ゲノムに変異が蓄積しにくい、ということである。 従って、もともと「大きくならない癌」が、やがて変異を獲得して「大きくなる癌」に転じる、ということは、滅多にないように思われる。 そうしてみると、「大きくならない癌」と「大きくなる癌」との間には、初期の段階において既に、何か決定的な差異があると想像するのが自然である。

もし両者が鑑別可能であるなら、常識的に考えて、それは我々病理医の仕事であり、生検に基づく判定を行う必要があるだろう。 血液検査や画像検査で、そうした繊細な差異を鑑別できるとは思われないからである。 しかし現状では、発見された浸潤性乳癌は基本的には全て治療されてしまうから、それが「大きくなる癌」であったのか「大きくならない癌」であったのかは、わからない。 では、どうやって研究するのか。

解剖である。 乳癌とは関係のない、別の原因で亡くなった人を、解剖させていただくのである。 そのとき偶発的に、小さな浸潤性乳癌がみつかることもあるだろう。 そういう乳癌に何か共通した性質がないか、と、詳しく観察するのである。 我々は病理解剖をするとき、そういう目で患者をみなければならない。 臨床経過で問題があった点だけをみて、臨床医の希望に答えるだけでは、不足なのである。

こうした観察は、その亡くなった人のためではなく、未来の患者のために行うものである。 病理解剖には、そうした意義があること、そして現実にいかなる成果が挙がっているかということを示せれば、少なからぬ患者は、解剖に同意してくれるのではないか。 実際、我々が学生や研修医として患者に会うと、「私をよく診て、しっかり勉強してください」と言ってくれる患者は、多い。 学生や経験の乏しい素人同然の研修医に身体診察されることが愉快であるはずはない。 それなのに、未来の誰かのために、と、我々に協力してくれるのである。 我々に協力する、というよりも、我々を通して、どこかの誰かを助けたいと思っている、というべきかもしれぬ。 そういう篤志家は、現在の日本においても、少なくないのである。 それならば「解剖されるのは嫌だけど、それが本当に未来のため、他の人達のためになるのなら、よろしい」と言ってくれる患者が、それほど少ないとは、私には思われない。

すなわち、現在、病理解剖承諾率が低迷している主たる原因は、解剖の意義を臨床医や遺族が納得していないことにある。 つまり、その意義をキチンと示すことができていない、我々病理医の責任なのである。


2017/07/04 悪性腫瘍の定義 (1)

私は近藤誠氏に謝らねばならない。 2013 年の記事で、氏が創造した「がんもどき」という言葉を不当に攻撃した件についてである。

現在の病理学において「腫瘍」とは「細胞が外部からの刺激に依存せずに増殖する病変」のことをいう。 これに対し「過形成」とは「細胞が外部からの刺激に反応して増殖する病変」をいう。 また「悪性腫瘍」とは「浸潤あるいは転移する性質を有する腫瘍」をいうのであって、「良性腫瘍」は「浸潤や転移を為さない腫瘍」である。 そして「癌」は「悪性腫瘍」と同義である。 従って、無治療で放置しても死なない癌は「がん」ではなく「がんもどき」である、というような近藤氏の主張は、 医学を無視して素人を扇動するだけのものである、と私は攻撃した。 だが、これは私の見識不足であった。

現代の医学・病理学において、「腫瘍」や「癌」といった言葉が上述のように定義されているのは、事実である。その点では、私は間違っていない。 しかし、こうした定義が不適切である可能性について思慮していなかった点が、私の過失であり、近藤氏よりも劣っていた点である。

「悪性」という語の原義は「性質が悪い」というものであって、医学においては「治りにくい、生命を脅かす」という意味になるだろう。 では、なぜ現代においては「悪性腫瘍」が、転移や浸潤の有無によって定義されるのか。 これは歴史的に、「転移や浸潤を来すが生命を脅かさない腫瘍」の存在がキチンと証明されていないために、 便宜上、「転移や浸潤を来すものは放置すれば生命を脅かす」と仮定されているからに過ぎない。 実際、統計をとれば「転移や浸潤を来す腫瘍」は「転移や浸潤を来さない腫瘍」よりも予後不良なので、これを良悪性の定義に用いることは、あまり問題視されて来なかった。 ただし、これは統計の魔術とでもいうべきものであって、上述のような良悪性の定義を正当化する根拠にはならない。 「転移や浸潤を来すが生命を脅かさない、つまり本来なら良性と分類されるべき浸潤性腫瘍」が存在する可能性を否定できないからである。

実際、生命を脅かさない浸潤性腫瘍は、稀ではない。 特に前立腺癌や甲状腺癌、卵巣癌の中には、そうした腫瘍、死ぬまで宿主に害を及ぼさない、 臨床的には気づかれずに病理解剖で初めて発見される latent 癌と呼ばれるような癌が、高頻度に存在するのである。 これを巡り、週刊「The New England Journal of Medicine」の 2017 年 6 月 8 日号 (N. Engl. J. Med. 376, 2286-2291 (2017).) には `Are Small Breast Cancers Good because They Are Small or Small because They Are Good?' と題する記事が掲載されていた。 これは、乳癌検診が普及したことで、小さな乳癌の発見数は大幅に増加したが、大きな乳癌の発見数は、それほど減少していない、という事実を紹介する記事である。 つまり我々は、乳癌検診によって「放置していても大きくならなかった、つまり問題なかった乳癌」を多数発見し、本来なら不要な治療を実施しているのではないか、というのである。

もちろん、これは「乳癌検診など不要」ということにはならないから、近藤氏の主張が不適切であることには違いない。 だが「悪性だから放置したら大変なことになる、治療すべきだ」という論理も、やはり正しくないのである。


2017/07/03 大静脈径の呼吸性変動について

昔の記事を読み返していて、おや、と思ったので、今さらながら訂正しておく。

2015 年 6 月 26 日の記事についてである。 よく勉強した学生や研修医であれば、すぐに気づくと思うのだが、この記事に私が書いた内容は、誤りである。 だいたい合ってはいるのだが、最後の「この変化は僅かであり、 エコー検査などで検出することは極めて困難である。」という部分が間違っている。 特に下大静脈については、超音波検査での描出が比較的容易なこともあり、「この変化」は臨床的に測定されている。 いわゆる「大静脈径の呼吸性変動」というものである。

この記事を書いた二年前の私は、大静脈径が呼吸に伴って変化する、という事実を知らなかったのである。 たぶん典型的な勉強をした医学科 5, 6 年生であれば、ほぼ例外なく、この呼吸性変動の存在を知っているのだろうが、私は非典型的な勉強しかしていないので、知らなかった。

こういうことは、割と、よくある。 周囲の皆が「常識」と思っていることを、私は、しばしば、知らない。 逆に、私が「当然」と思っていることを、周囲の人がほとんど知らないこともある。 学問というのは、そういうものであって、各人の得手不得手に応じて知識に偏りがあるのが普通である。

ところが医学科生や医師の中には、そういう個人差を認めたがらない者も少なくない。 周囲と同じであることを、やたらと尊ぶのである。 「知っておくべきこと」をやたらと覚えたがり、その一方で「知っておかなくても良いこと」にはあまり興味を示さない。

実に、つまらない。


2017/07/02 検索エンジン対策

今日は、医学とは何の関係もない話を書く。

この日記を書き始めたのは、名古屋大学に編入学した後の 2012 年 5 月であるから、現在、この日記は 6 年目ということになる。 初期のアクセスログは残っていないのだが、2013 年 9 月の時点で、一日あたり訪問者数は 65 人程度であった。 これは、検索エンジンの bot と思われるアクセスを極力除外し、同一人が複数ページを閲覧した場合については重複して数えないようにした上での統計である。 それが 2017 年 6 月には一日あたり 688 人であったから、かなりアクセス数が増えたといえる。 もっとも、多くの人は「医学部 編入」というようなキーワードで検索して編入試験のページに辿りついているようであり、 この日記自体の hit 数は月 6000 程度である。

Hit 数というのは、平たくいえば、そのページが開かれた回数、ということである。 たとえばスマートフォンのブラウザで、このページを開きっぱなしにしていた場合、全然読んでいなくても、この hit 数に貢献してしまう。 だから、この日記が実際にどれだけの人に読まれているのかは、私にもわからない。 まぁ、多く見積もれば、一日に 50 ないし 100 人ぐらいが読んでくれているかもしれない。 実にありがたいことである。

Google のウェブ開設者向けサービスには、Google 経由で自分のウェブサイトを訪れた人が、どういうキーワードで検索していたかを教えてくれるものがある。 この日記の場合「医学部 編入」「34 歳 研修医」「博士崩れ」といったキーワードが多いようである。 「博士崩れ」などというのは、普通、検索に使うキーワードではないと思うのだが、たぶん、私のウェブサイトをブックマークする代わりに 「Google で『博士崩れ』を検索すれば良い」と覚えている常連さんがいるのだと思う。

こうしたデータを眺めていて気になったのが、医学的なキーワードで検索している人が極端に少ない、という事実である。 そこで、例として「スターリングの法則 浸透圧」で Google 検索してみたところ、私の日記は、少なくとも上位には表示されない。 たぶん、私の日記は、1 ページの中にあまりに多彩な話題が記されているために、 Google は「スターリングの浸透圧の法則を調べたい人には推奨できない」と判断しているのだろう。

そこで、日記データを元に、1 記事 1 ファイルとなる細切れバージョンを自動生成するように変更してみた。 元の日記データ自体が、いわゆる手書き HTML であり、あまり整った形式になっていない関係上、多少の見苦しい点は残ったが、一応、機能はしている。 現在のところ、私の環境では「スターリングの法則 浸透圧」で検索すると 2220 件中、25 番目と 26 番目が、この日記である。

以上のことからわかるように、この細切れバージョンは検索エンジン対策を意識したものであって、閲覧者の便宜を考えたものではない。 普通の方は、これまで通り、この「数ヶ月分の日記を 1 ファイル」形式の方で読んでいただいた方が便利であろう。

なお「スターリングの法則 浸透圧」で 2220 件しか hit しないという点で、世間の学生諸君が浸透圧について無関心であることがわかる。


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