学会最終日である。 午前の前半は、剖検講習会に参加した。 よく知らないのだが、専門医資格を取るためには、事前に課題レポートを提出した上で、これに参加しなければならないらしい。 が、私は、そういう事情をよく調べておらず、課題レポートというものの存在も、つい一昨日に知ったばかりであるので、当然、準備してきていない。 今回はレポートを出さずに、話だけを聴いた。まぁ、レポートは来年で良かろう。
この講習会は、実際の解剖症例を題材に剖検報告書の書き方をレクチャーするものであったが、一つ、おや、と思う点があった。 この症例は、肺小細胞癌による SIADH (syndrome of inappropriate ADH secretion) を生じており、脳転移もみられ、意識障害や歩行障害などの中枢神経障害を呈していた、というものである。 中枢神経障害の原因は SIADH による低ナトリウム血症と考えられるが、脳転移の影響もあり得る、というような診断例が示された。 しかし本症例では、脳転移はかなり限局した病変であって、症状を呈するとしても巣症状と考えられ、神経解剖学的な観点から、臨床的にみられた症状の原因たりえるかどうか判断できるはずである。 にもかかわらず、脳転移があるのだから意識障害や歩行障害もありえる、と判断するのは、いささか単純に過ぎ、乱暴ではないか。 しかし私は、事前にレポートを書いておらず、組織像もみていないという引け目があったから、敢えて質問には立たなかった。 他のマジメな参加者が、なぜ、そのような質問をしなかったのかは、わからぬ。 もしかすると、私の医学的理解が乏しいだけなのかもしれぬ。 ただし、名古屋時代の同級生である某君に話してみたところでは、もう少し議論の余地がありそうだ、という点で意見が一致した。
午前後半の病理診断講習会は参加せず、ポスターセッションをみに行った。 本日は研修医や学生のセッションがあるので、理想と野望に燃える若者たちの野心的な発表が聴けるものと期待したのである。 残念ながらポスターの多くは「貼り逃げ」状態であった。しかし、それでも何人かの発表者は自分のポスター前で待機し、訪れた人に積極的に声をかける者も複数いたのだから、昨日や一昨日の発表者連中よりも、科学者としての水準が高いといえる。
中でも積極性が突出していたのが、九州大学の飯塚統氏を筆頭とするグループである。彼らは、学生ベンチャー企業を立ち上げ、コンピューターによる組織診断プログラムを開発しており、その宣伝を兼ねた成果報告を行っていた。 発表者が言うには、病理医の少ない国や地域などで診断に使ったり、あるいは病理医による診断の精度を上げる補助に使ったりすることを想定しているとのことである。 私は、診断に特化した病理医から仕事を奪うことを狙ってはいないのか、と尋ねた。 発表者は、それは考えていない、と言い、理由として、過去の文献で、コンピューター単独での診断より、病理医がコンピューターを補助的に使った方が診断精度が高いと報告されていることを挙げた。 しかし冷静に考えれば、その種の報告では「正解」とされる診断を人間が決めているのであって、実は、「正解」の方が間違っている可能性がある。 むしろ、形態的判断に限れば、人間がコンピューターより正確に判断できるとは思われない。 病理医を絶滅させることを狙うべきだ、と、私は述べた。
他に際立っていたのは摂南大学薬学部病理学研究室の学生 3 人組で、中でも、大嶋成奈優氏が突出している印象を受けた。 彼女ら 3 人は、私がアレコレと質問をしたのに対し、すっきりと明快な答えを返した。むろん、傍に指導者はおらず、彼女ら自身の頭脳と言葉で説明したのである。
学術的な問題について私が繰り出す質問というのは、しばしばネチネチしており、面倒くさいものが多い。 北陸医大 (仮) に出入りしている製薬会社の MR (Medical Representative) 氏の中には、私が質問しようとして挙手すると「うわぁ、嫌な奴が挙手しやがった」と言わんばかりの顔をする者がいるほどである。 しかし、私は彼らの製品について薬理学的で基礎的なことを質問しているだけなのだから、答えられないのは、単に彼らが勉強不足なだけであって、私は悪くない。
その私が、相手が学生だからといって加減することなしに、本気で質問したのである。 それに対し、しっかりと回答したわけだから、上述の大嶋氏らの学術的水準は、かなり高いといえる。 そこらへんの、何もわからないままセンセイに言われた通りに実験するだけの医学科生とは、比較にもならぬ。 大学入学時点では、いわゆる「学力」において、かなりの差があったはずであるが、その後の数年間の過ごし方で、はるかに逆転しているのである。 まぁ、薬科のマジメな学生は医科の連中よりはるかに優秀だ、というのはよく知られた事実なので、比較するのも失礼な話なのかもしれぬ。
さて、学生たちが意欲的にポスター発表している以上、年長者である我々が、そのポスターをみないなどということがあっては申し訳ない。 私は、当初はランチョンセミナーに参加する予定であったのだが、ポスターをみる時間が足りなかったので、やむなく宿題報告やランチョンセミナーをサボって、ポスターを読み、適宜、コメントつき名刺を残した。 むろん、ポスターの全てを隅から隅まで読むわけではない。 タイトルがいかにもつまらなそうであれば、そこで終わる。 研究目的が書かれていなかったり、書かれていても曖昧で漠然としているものは学術的価値がないから、それ以上は読まない。 結論が空虚なものも、読まない。 目的と結論が面白そうであれば、そこで初めて、中身を読む。 だいたい他の人も、同じような読み方をしているのではないか。
なお、学生発表の多くが剖検症例の報告であったことは遺憾である。 学生は医師ではないのだから、それらの症例を学生自身が診断したわけではないはずである。 いわゆる gift authorship にあたる。 これは、学術倫理的に問題があるだけでなく、教育的にもよろしくない。 学生自身が完全には理解できていない内容を、学生に発表させてはならない。 実際、質問に対して「共同発表者」である指導者が横から助けを出す場面が、多すぎるのである。
午後は、胎盤の診断講習会に出席した。 まぁ、面白かったが、あくまで診断講習会なので、あまり学術的ではなく、それほど興奮しなかった。
本日の午前の前半は、当初、ある口頭発表セッションに参加したのだが、あまり面白くなかったので、途中で退出してポスターセッションに移った。 今にして思えば、最初から、名古屋の中村教授が座長を務めていたセッションや、慶應の橋口博士が登場するセッションに参加しておけば、面白い話が聞けたのかもしれぬ。
ポスターセッションでは、昨日同様、いくつかのポスターの傍に、質問やコメントを書いた名刺を残しておいた。こういうことをやっているのは、どうやら会場中で私一人のようである。 しかし後に四国医科大学 (仮) の某教授に聞いたところでは、医学系の学会でも、海外であれば、ポスター前で発表者と来場者が激しく討論したり、ポスターの縮刷版を配布したりといったことは珍しくないらしい。 それなら私も遠慮する必要はない。明日は、もう少し堂々と、名刺を残すことにしよう。
ポスター発表では、夕方に一時間ほど「発表時間」というものが設けられており、「座長」とされる人や数人の聴衆を前に、発表者が口頭でポスターの内容を 6 分ほどで説明する時間がある。 しかし、そういう場では声も聞こえにくいし、深く突っ込んだ議論もできず、面白くない。 さらにいえば、若手発表者の場合、質問に対して自分で答えることができず、指導者が救援に入る例も少なくない。 要するに、筆頭発表者であるはずの若手が実は研究の全容を把握しておらず、また指導者も、十分な教育・指導をせぬままに学会に送り出しているわけである。 それを恥ずかしいと思う感性を、はたして彼らは、持っているのだろうか。
まことに遺憾であったのは、東海地方の某名門国立大学からの発表者達である。 ポスターは朝の 9 時 30 分までに掲示することになっている。 かの大学からは、昨日も本日も数名のポスター発表者がいたのだが、その大半は、定刻までに掲示をせず、午後になってからようやく自分のポスターを貼りに来たようである。 かの名門大学の人々であるから、さぞ立派な研究をしているのではあろうが、それを世に示し、堂々と議論しようという姿勢を欠いている。 一体、何のために学会に参加しているのか。
午前の後半は、福井大学の内木教授による、アミロイドーシスについての宿題報告を聴いた。 内木教授は、発表技術も巧く、むろん内容も学術的で、アミロイドーシスの本態に迫る意欲が露わな、楽しい講演であった。 教授は、たぶん意図的に講演を早く終わらせ、質疑応答の時間を長めに確保した。 遺憾なのは質問者の態度であって、「貴重なご講演をありがとうございます」だの何だのと、無意味で冗長な挨拶をして時間を浪費する者ばかりであった。
昼には、ランチョンセミナーで、大腸癌とミスマッチ修復障害の話を聴いた。 Lynch 症候群の原因遺伝子は MLH1, MSH2, MSH6, PMS2 が知られているが、時に、明確な家族歴がないのに、これらの遺伝子が生殖細胞系列で 2 コピーとも失われている人がいるらしい。 これは、de novo 変異が絡んでいることもなくはないだろうが、基本的には両親ともに Lynch 症候群であるが診断されていない、というパターンであろう。 こういうケースは PMS2 遺伝子の異常であることが多いらしい。 たぶん PMS2 遺伝子変異は頻度が高く、一方、浸透率は低いのであろう。
午後の前半はポスターを眺めて過ごした。 私以外にも、ポスターをみている人は多かった。 しかし発表者の方は、座長の前で話すための準備に勤しむ者が多い一方、自分のポスターをみている人に対して積極的に声を掛ける者は、ほとんど、あるいはまったく、いなかった。 現在の日本病理学会の水準は、その程度なのであろう。
午後の後半は、感染症のワークショップに参加した。 渋い分野であるが、真菌感染症を論じた東邦大学の澁谷教授の話が、たいへん面白かった。
明日は学生や研修医のポスターセッションの他、胎盤病理のセッションがある。実に楽しみである。
近頃、日記を書くゆとりが乏しい。これは、実に良くないことである。 なんとしても、日記を書く心の余裕を保たねばならぬ。
本日は、日本病理学会 第 107 回総会の初日である。私は昨日から、札幌市内のホテルに滞在している。 今朝、会場に着くと、名古屋時代の同級生で同じく病理医となった諸君に遭遇した。その中の一人は、私をみて「ツチノコに遭遇したような気分だ」と、再会を喜んでくれた。
まずは「分子病理診断講習会」というセッションに参加した。 病理学会では、学術的色彩の強いセッションと、診断業務に特化したセッションとがあり、これは後者に属する。ここでは、いわゆる「がんゲノム医療」の運用に向けて、いわゆる次世代シークエンサーによる検査を巡る諸問題が解説された。 この「がんゲノム医療」というのは、基本的には、腫瘍細胞の遺伝子を調べて有効そうな分子標的薬を選ぶ、というものである。ただし、この「有効」というのは、基本的には「腫瘍が小さくなった」「生命予後が少し改善した」というだけの意味であって、それが本来目指すべき癌治療のあり方かどうかには、大いに疑問がある。 が、そのあたりは敢えて論じずに「最近は良い薬がたくさんでている」というような発言も聞かれたことは遺憾である。
11 時からは、岡山大学の吉野教授による宿題報告を聴いた。 リンパ腫、特に濾胞性リンパ腫についての報告であるが、当然のことながら、教授は、自分が何を言っているのか完全に理解した上で喋っているので、堂々たる発表ぶりであり、明快であった。 ただし発表技術という観点からいえば、教授ほとんど常に手元のコンピューター画面をみながら話しており、我々聴衆の方にはほとんど視線を向けなかった点が遺憾である。
午後はポスターセッションに顔を出した。 我々工学部出身者からすれば、ポスターセッションというのは、発表者は基本的に自分のポスター前で待機し、訪れた人と活発に議論する、という場である。 ところが、他の臨床医学系学会でも同様らしいが、病理学会のポスターセッションでは、発表者はポスターを掲示した後はどこかに行ってしまう、いわゆる「貼り逃げ」が主流のようである。 ポスターというのは、基本的にはそれを読むだけで、補足の口頭説明なしで理解できるように作られているものであるが、それでも、読んだ上で激しくディスカッションできるのがポスター発表の醍醐味ではないのか。 実際、そういう理由で、口頭発表よりもポスター発表をしたがる研究者は、少なくないのだが、医学界では事情が異なるらしい。 おそらく、「発表した」という事実だけが重要なのであって、だから、自分が診たわけでもない患者について症例報告する、という蛮行が絶えないのであろう。
さて、工学系の学会などでは、ポスター発表者が不在の場合、質問やコメントなどを書き込んだ名刺を残していく、ということをやる者も多い。 しかし病理学会の場合、理由は知らぬが、そういう風習がないらしい。これでは学術的議論が起こらず、何のために学会発表をやっているのか、わからない。 私はあくまで工学系の人間であり、病理学会の悪い風習に染まる気はないから、何件か、そうやって名刺を残して来た。
よくみると、自分のポスター前で待機している、留学生らしき発表者もいた。 少なくとも精神のあり様としては、優秀な学生である。 しかし、彼と活発に議論しようという参加者は少ないようであった。 これでは日本の恥である、と思った私は、彼のポスターを一通り眺めた上で、説明を求めた。 彼はどうやらアジアの某国から来た留学生であるらしい。 率直にいえば、センセイの言うとおりに実験しただけであって、抜群に優秀というわけではないような印象を受けたが、マジメな学生には違いない。
午後の後半は、間質性肺炎のワークショップに出席した。 先頭の関東中央病院の岡医師の発表は、たいへん、ためになった。 というのも、岡医師は、現在主流である Multi-disciplinary discussion (MDD) に対し批判的な発言をしていた。実はこれは、私が密に抱いていた不満と完全に一致していた。 私はてっきり、この分野の「偉い人」は皆 MDD の信奉者であり、私は異端なのだろう、と思い込んでいたのだが、実はそうでもないらしい、ということが、わかったのである。
長崎大学の福岡教授は、安定した演説巧者である。会場が沸いていた。 福岡教授に対しては、山口大学の某氏 (失礼ながら名前を聞き取れなかった) が「原因不明で間質に繊維化があるなら、それは膠原病ではないのか」という質問をしており、たいへん、良かった。 私も全く同意見である。膠原病は自己免疫性疾患であるなどという決まりはなく、抗核抗体や自己抗体の存在は、膠原病の必要条件ではない。 そういう意見を表明することこそが学会の面白さである。 「〇〇が注目されている」「△△とされている」などという、他人の言葉を受け売りするだけの無責任な発表をする者も世の中には存在するが、そういうのは、実につまらない。
明日は、午前中に病理診断講習会と宿題報告、午後はポスターセッションと感染症のワークショップに出席しようと思う。
だいぶ間隔があいた。よろしくない。
日本においては、病理診断は医師しか行うことのできない「医行為」である、とされている。 病理診断とは何か、というような素人向けの説明においては、ほぼ必ず、このことに言及されている。 何が医行為で何が医行為でないのか、という問題について無頓着な医師は多いようであるが、臨床検査技師などは厳しく教育されている。 たとえば、病理部の臨床検査技師は、自分で検鏡して病名を確信したとしても、公には、それを口にしない。 臨床検査技師が診断を行えば医師法違反になるからである。 これは腹部超音波などの生理検査においても同様であって、臨床検査技師は、頭の中では診断を行いながら検査しているのであるが、報告書には、絶対に診断名を書かない。
病理診断は医行為である、という説の根拠は、平成元年に日本病理学会が厚生省に対して行った疑義照会に対する回答 (医事第 90 号; 平成元年 12 月 28 日) である。 私は以前、この回答文の全文をインターネット上で読んだように思うのだが、今検索しても、みあたらない。もう少し探してみようと思う。 この回答の要旨は、組織標本をみて所見を述べるだけであるならば血液検査などと同様に臨床検査技師が行って良いが、 それに基づいて病名をつける、診断する、という行為には医師免許が必要である、ということである。 この厚生省の見解は、現在に至るまで変更されておらず、今でも有効である。
さて、私は週に 8 回か 9 回ぐらい、病院の食堂で食事をするのだが、しばしば、某外科系教授に遭遇する。 教授は、いわゆる「がんゲノム医療」制度の運用開始を引き合いに出し、「これから、ますます病理の重要性が増す」と述べ、「よろしく頼むぞ」というようなことを言っている。
がんゲノム医療、と呼ばれる枠組は、簡潔にいえば、癌のゲノムを調べ、有効そうな薬を選んで投与する、というものである。 なお、この「有効そうな」という言葉には、かなりのマヤカシがあるように思われる。それについては過去にも少し述べたし、また別の機会に詳しく書きたい。 とにかく、この「がんゲノム医療」においては、いわゆる次世代シークエンサーや免疫染色などを駆使することになる。 先の教授が言っているのは、特に免疫染色標本に基づく診断について、病理医の働きが重要である、という意味であろう。
が、冷静に考えると、これは、かなり怪しい。 免疫染色で遺伝子発現をみる、というのは、要するに「染まっているか、染まっていないか」を判定する作業であって、それ自体には医学的判断は含まれていない。 上述の厚生省見解でいう「所見を述べるだけ」の行為であって、医行為ではない。理屈としては、医師免許を持たない臨床検査技師でも行うことができる。 すなわち、教授の言葉とは裏腹に、実は「がんゲノム医療」は、我々病理医の存在意義を脅かすものである。
むろん、我々の仕事が価値を失ったのであれば、我々が廃業すれば済むことである。 実際、免疫染色の結果を読む作業自体は、臨床検査技師に任せてしまって良いと思う。 そもそも標本を読んで、パターン認識に基づいて病名を当てる、などという作業は、もはや、人間が行うべきものではなく、コンピューターに任せた方が速く、しかも正確である。
では、病理医は、何をするのか。 それについては、また別の機会に書くことにしよう。
少し間隔があいてしまった。久しぶりに、まじめな医学の話をしよう。 卵巣奇形腫についてである。 以前書いた甲状腺瀘胞の話の続きは、そのうち、書く。
卵巣奇形腫は、胚細胞由来の腫瘍である、とされている。 ここでいう胚細胞とは何か、という問題も面白いのだが、それは別の機会に論じることにしよう。 とにかく、卵の前駆細胞である「ある種の細胞」が腫瘍化して生じるのが卵巣奇形腫であり、多くの場合は良性である。
典型的な奇形腫では、毛が生えていたり、軟骨や骨、あるいは歯牙を形成したりと、多彩な組織を含む腫瘍となり、これは成熟奇形腫と呼ばれる。 これらは、顕微鏡的にはそれぞれ、正常な皮膚や毛、軟骨、骨、歯牙などと非常によく似た構造をしている。キチンと分化しているのである。 多くの成熟奇形腫は、肉眼所見が特徴的なので、パッとみただけで、だいたい診断できる。
ただし、奇形腫をよく観察すると、ごく一部の領域に、未熟な中枢神経系組織などが含まれていることがある。 未熟、というのは、キチンと分化していない、という意味である。 そういう未熟な組織を含むものは、悪性であると考えられており、未熟奇形腫と呼ばれる。 細かいことをいえば、「多少、幼若な組織を含んでいる」というだけならば成熟奇形腫であり、「未熟な組織を明瞭に含んでいる」ならば未熟奇形腫である、とする教科書もある。 このあたりの「成熟」「幼若」「未熟」という語の使い分けは、あまりはっきりしていないように思われる。 両者の境界は、だから、実は少し曖昧なのである。
以上が漠然とした疾患概念の説明であるが、成熟奇形腫、という疾患を厳格に定義すると、どのようになるか。 何も国連が偉いわけではなく、権威に盲従するわけでもないが、まぁ、この場合は、WHO (World Health Organization) の定義に異論を唱える人は少ないであろう。 WHO Classifification of Tumours of Female Reproductive Organs, 4th ed. (IARC; 2014). によれば、Mature teratoma とは
A tumour composed exclusively of mature tissues derived from two or three germ layers.
三つの胚葉のうち、二ないし三の胚葉成分から成る、成熟した組織のみで構成されている腫瘍
をいう。
ここで注意されたいのは、単一胚葉のみから成る奇形腫は、成熟奇形腫ではない、ということである。 成熟奇形腫よりも、さらに分化がはっきりした奇形腫であれば、単一胚葉のみから成ることもあるだろう。 そういうものは、単胚葉性奇形腫 monodermal teratoma と呼ばれる。
臨床的には、肉眼的に成熟奇形腫であるものの、組織学的には皮膚や神経しかみつからない、という場合がある。 この場合、成熟奇形腫とは呼べない。 ところが上述の WHO 分類では、単胚葉性奇形腫としては、主として甲状腺、あるいは中枢神経系、もしくは脂腺から成るようなものが述べられているに過ぎない。 主として皮膚から成る単胚葉性奇形腫、などというものは、記載がないのである。 これは、一見「皮膚しかない」ようにみえる病変であっても、本当に詳細に検索すれば、中胚葉あるいは内胚葉由来の成分が存在するからである。
すなわち、もし諸君が、「本当に外胚葉成分しか含んでいない、主として皮膚から成る奇形腫」をみたならば、それは、すごく稀な病変だということになる。
ブラックペアン、という医療ドラマが放映されているらしい。みていないので、内容は知らぬ。 文春オンラインの記事によると、このドラマにおいて臨床試験、いわゆる治験の印象が 不当に歪められている、という趣旨の抗議が、臨床薬理学会から TBS に行われたらしい。 要するに、製薬会社から医師に対して不適切な金銭授受などが行われており、それを臨床研究コーディネーター (CRC) が仲介している、というような描かれ方をしており、 事実に著しく反する、というような抗議内容であるらしい。
文春の記事を読む限り、このドラマは演出過剰であって、臨床薬理学会が抗議したくなるのも理解できなくはない。 しかし、製薬会社と医師が癒着し、半ば公然と利益供与を行っているのは事実である。 病院や医師が主催する諸般の催しに対して、製薬会社は積極的に後援して経済面を支えている。 また、ある種の勉強会を医師らが行う場合、形式的には製薬会社が「主催」することで、会場費などはもちろん、タクシーチケットまで支給されることも珍しくない。 むろん、これは製薬会社が「社会貢献」として無償の善意で行っているのだろうが、世間からは大いに「誤解」されかねない。
臨床試験についても、優良誤認させるためのテクニックがたくさんある。 たとえば統計処理ひとつとっても、予め「適切に」試験計画をたてておけば、意図した結果を導くことができる。 わかりやすい例をいくつか過去に紹介した。 「社会常識をわきまえた大人」であれば、学術論文で、スポンサーの製品を悪く書くことはしないであろう。
名古屋大学時代、臨床実習の一環として、臨床研究の支援を行う部門で 1 週間、講義・実習を受けた。 その時であったと思うのだが、製薬会社の元社員であったか、現社員であったか、とにかくそちら方面の事情に詳しい人に対し、私は 「製薬会社などがスポンサーとしてつくことで、ある種の配慮というか、研究成果に不正なバイアスが入るのではないか」と質問した。 すると、その人は「そういうつもりで資金を出しているわけではない、良心に従って公正な結果を公表していただければ良い」と答えた。
それを言葉通りに受け取ることは難しい。 というのも、臨床診療科の皆様は製薬会社と親密な関係にあるが、我々病理や、あるいは純粋基礎医学の人々は、そういった製薬会社との関係を持っていないからである。 我々は、臨床医学以外の科学諸分野の人々と同様に、勉強会には自費で参加し、弁当代は自分で払うという、あたりまえのことを行っている。 もし製薬会社が臨床諸科に対し本当に純粋な厚意と社会貢献の目的で協力しているのだとすれば、 彼らは病理や基礎医学は社会的意義が乏しいと判断している、ということになる。
そういえば先日、病院の食堂で、三年目あたりの若い医師同士が雑談しているのを耳にした。 その医師は製薬会社の MR (Medical representative) に対し、ある種の薬剤の資料をくれるよう、要求したらしい。 MR 氏は、速やかに当該資料を用意し、その医師に渡した。 ところが、それ以来、廊下などですれ違うたびに、その MR 氏から話しかけられるようになって「ウザい」と、その医師は言っていた。 友人らしき 2, 3 人の医師も「それはウザいな」などと同調していた。
この人の頭は、どうなっているのだろうか、と、思った。 MR 氏が我々にヘコヘコと頭を下げるものだから、つい、自分は彼らよりも偉い、彼らは召し使いのようなものだ、などと誤解したのだろうか。 彼らから資料を受け取るということが、社会的にどういう意味を持つのか、わかっていないのである。 こういうところが、医者は世間知らずだ、と言われるゆえんである。
名古屋大学と岐阜大学が経営を統合しようと画策しているらしい。 いわゆる競争的資金ばかり増やされ、純粋に学問をする機会が失われ、金策に奔走することを求められる昨今の大学事情にあって、生き残るための方策なのであろう。 一つの選択肢として、そういう手段もありえるのだろうが、私としては、そういう方向には走ってもらいたくなかった。
一年前に書いたように、私は、名古屋大学への定期寄附を一時期、行っていた。 大学からの慇懃無礼な「礼状」に腹が立ったので中断したが、いずれ、ほとぼりが冷めた頃に再開しようかと思っていた。 が、この経営統合を目指すというニュースをみて、その気もなくなった。 「国立大学法人 名古屋大学」に対してなら寄付する気にもなるが、「国立大学法人 名古屋大学・岐阜大学」に対しては、寄付などする気にはならぬ。 そんな資金があるなら、その分は京都大学や麻布学園への寄付を増額する。
本来であれば、大学における教育・研究は、国家が全面的に支援すべきものである。 自由な教育・研究環境なしに優れた成果が上がるはずはなく、いわゆる競争的資金というものは、学問を破壊する以外の効果を持っていないことは、研究者ならば誰でも知っている。 実際、文部科学省科学技術・学術政策研究所は、専門家に対する意識調査の結果を発表し、 「我が国の基礎研究から、国際的に突出した成果が十分に生み出されていないとの認識が増加しました」などと書いている。
こういう社会情勢にあっては、我々卒業生が主体となって、外から大学を支えていかねばなるまい。 そのためには、変えるべきところは変えつつも、守るべきところは守らねばならぬ。 名古屋と岐阜の経営統合は、その意味において、遺憾である。
朝日新聞デジタルに、米国におけるオピオイド濫用の記事が掲載されていた。 簡潔にいえば、医師による不適切な処方を発端として「ごく普通の人」がオピオイド依存に陥り、生活を蝕まれる例が少なくない、というものである。 これは昨今の米国医療における重大な関心事であり、某娯楽雑誌にも、しばしば記事が掲載されている。 ただし日本では、この問題はあまり注意されていないように思われる。
朝日の記事は、この問題をよくまとめている。 たぶん、日本では、現時点では米国に比して医原性オピオイド依存は少ないと思われるが、今後、増加するであろう。 それに先駆けて警鐘を鳴らす意味で、この記事は、たいへん、よろしい。 強いていえば、「痛みのない人が使うと脳内に快楽物質が出て依存症になるため、通常は医師の処方が必要。」という記載は、いささかの問題があるように思われる。 適切な鎮痛に使う限りであれば依存を来さないかのように読めるが、そのような証拠はない。 一年前に書いたように、適切な鎮痛であっても依存を来たす恐れはあると考えられる。
また、オピオイド以外に、抗精神病薬やベンゾジアゼピン等の、いわゆる睡眠導入剤の依存にも注意を要する。 一部の医師は、譫妄患者に対し安易に抗精神病薬を処方する癖があるように思われるが、 これが医学的根拠を欠くものであるということも昨年、書いた。 特に急性期病院では「てっとりばやく患者を落ちつかせる」ために、こうした薬を処方したまま、他院に転院させる。 すると転院先の病院では、前医で処方されていた薬を止めるには多少の勇気がいることから、漫然と、処方継続される。 退院してからも、外来で処方は継続され、薬物依存患者ができあがる。
あるベテラン医師と、抗精神病薬の濫用について話をしたことがある。 その人も、譫妄患者に対して濫用の傾向があることに多少の懸念を示していた。 ただし、その人は呼吸停止などの急性有害事象のリスクがあることを問題視しているのであって、依存のことではなかった。
不適切な処方による薬物濫用を問題視する声は以前からあり、特に学生は、その問題をよく勉強したはずである。 薬理学の名著である Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th ed. (Wolters Kluwer; 2017). も、独立した章を設けて、濫用を論じている。 ところが臨床実習や、あるいは医師として経験を積むうちに、諸君は基本を忘れ、「そういうものだ」と現実を受け入れ、改革の心を忘れてしまうのである。 ひょっとすると、これは、先生のおっしゃることを無批判に受け入れるよう長年にわたり調教されてきた成果なのかもしれぬ。
これに対し近年、ようやく、薬物の不適切処方を改善しようとする動きが大きくなりつつある。 我が北陸医大 (仮) では、そのような動きはみられないが、県内でも山間部の某市中病院では、そうした問題に大いに関心を向けている。 また、私が名古屋にいた頃にも、臨床実習の際に某市中病院で、多剤併用を懸念し苦い顔をしている医師に会ったことがある。 必ずしも大学病院が小規模市中病院よりも高度な医療を実施しているとは限らない、という実例である。
朝日新聞が、「乳癌診療ガイドライン 2018 年版」について、おかしな記事を書いている。 記事のタイトルは「遺伝性乳がん『もう一方の乳房切除も強く推奨』学会」というものであって、 ガイドラインにおいて予防的乳房切除を「強く推奨する」に変わった点を取り上げたものらしい。
そもそも記者は、ガイドラインとは何かということを、理解していないであろう。 臨床ガイドラインというのは、「正しい医療」「あるべき医療」を定めているものではないし、医学的に正しいかどうかを決めているものでもない。 診療にあたる医師のための参考意見を書いているに過ぎない。 それを、まるで「学会が言っているのだから、基本的にはそうするべきだ」と言わんばかりの論調で朝日は記事を書いているのである。 おそらく、この記者は医学や医療の素人なのであろう。 たとえば、記事の中に「手術を受けた人の死亡率が下がるとまでは言えないが、下がる傾向にあり」などという記載があることからも、この記者が統計学に無知であることがわかる。 この記載の何がおかしいのかは、過去に何度も書いてきた統計学の「よくある間違い」なので、ここでは繰り返さない。
そもそもガイドラインの記載は、遺伝性乳癌については予防切除した方が生命予後が良い、という点を根拠としている。 しかし生命予後を言うのであれば、そもそも閉経後などで、もはや授乳する機会がないであろう女性については、全例、両側乳房切除を行った方が良い。 それにより乳癌を未然に防げ、間違いなく、生命予後が改善するからである。 医学を知らず EBM (Evidence-Based Medicine) を誤解している者は「そのような臨床試験は行われておらず、エビデンスがない」などと反論するであろうが、 理論的に明らかで、疑いの余地がないのだから、臨床試験を実施する必要はない。 この場合、「理論的根拠」が充分なエビデンスなのである。 同様の論理で、子を作るつもりがない男性は全例前立腺切除を行った方が良い。精巣摘出するのも良いだろう。 陰茎も切っても良いが、もともと陰茎癌は頻度が低いから、切らなくても良い。
また、医者の中には、たとえば閉経後の女性患者などについて、子宮摘出を安易に考える者が少なくない。 癌の可能性があるが、診断が難しい、というような場合に「もう使わないのだから、取ってしまった方が良い」などと言うのである。 乳癌について、予防的切除を「強く推奨」などとするのは、これと同列の発想である。
患者が「いらないから、安全のために切ってくれ」というのなら、切ればよい。 しかし医者の側が「切ることが強く推奨されている」などと患者に勧めるのは、誤りである。 医者に「切るべきだ」と言われれば、素人である患者は「切らなければいけない」と思い込んでしまう恐れがある。 そのことに思い至らない医者は、残念ながら、稀ではないように思われる。
朝日新聞の記事によると、自由民主党の石破茂が、 消費税の軽減税率導入に対し慎重な立場を示したらしい。 要するに、医療・年金・介護・育児に対する支援を充実させるために財源が必要であって、やみくもに減税すべきではない、という趣旨である。
なぜ、医療・年金・介護に対する公的補助を充実ないし現状維持する前提なのか。
まず医療費についていえば、現状では、到底、理解できない形での公的補助が行われている。 高価な、いわゆる分子標的薬の癌に対する「有効性」が数多く報告され、臨床的にも高頻度に使われている。 こうした分子標的薬の適応を検索する目的で、腫瘍細胞の遺伝子発現検査を幅広く行うための医療体制も構築されつつある。 現行制度では、費用のうち患者が負担するのは 3 割程度であり、しかも、自己負担額が一定以上になれば「高額療養費制度」により、上限額を超えた分が公費から支給される。 要するに、高い検査や薬を使っても、その費用の大半は公金、つまり「他人の金」から支払われるので、医者も患者も、遠慮なしに高価な診療を行う。 むろん、貧困層の場合には高額療養費制度を使っても自己負担が重いために、事情が異なるのだが、それは別の話なので、ここでは触れない。
それで、高価な検査や薬を使えば癌が治るのかといえば、もちろん、治らない。 医者や薬屋の言う「効く」というのは、「生存期間が少し伸びる」というぐらいの意味に過ぎない。 さらにいえば、その「生存期間が伸びる」のも統計的な話に過ぎず、個々人のことでいえば、むしろ、薬の副作用で命を縮める例もあることを忘れてはならぬ。 そういう延命効果を得るために個人で大金を払うのは、自由である。 しかし、それを「全ての人が享受できる当然の権利」とみなし、公的に補助し、費用を全国民で負担しようとするのは、はたして、適切なことだろうか。 今の日本国に、それほどの経済的余裕があるのか。消費税を増やしてまで、やるべきことなのか。 根治をほとんど期待できない分子標的治療薬等については、公的補助の対象外とすべきである。
年金については、言うまでもない。 老人を養うために、若く貧しい人々から金をむしり取ることが、健全であるとは思われない。 公的年金としての老齢年金制度は、廃止すべきである。
介護も、同様である。 満足に動けない人々を、若者が介護して支える姿が、はたして健全であるか。 寝たきりで、自分で食事を口元に運ぶこともできないような状態で、何年もじっとテレビだけみて過ごす人生を、誰が望むのか。 それが人権なのか。それが人の尊厳なのか。
あくまで本人の意思を尊重することが前提であるが、積極的尊厳死を合法化すべきである。
研修医時代の私の給与明細は、二年前に示した。 昨日、三年目の医師としての初給与の明細が届いたので、その内容を転載しよう。比較のため、研修医時代の金額を括弧内に示す。
現金支給額 | 218,724 (338,174) |
給与期間 | 30. 4. 1- 30. 4. 30 |
減額 | 0 |
本給支給額 | 270,150 (186,350) |
住居手当 | 0 (0) |
時間外労働時間等 | 0 (0) |
時間外労働手当等 | 0 (0) |
特殊勤務手当 | 0 (125,380) |
通勤手当 | 0 (79,380) |
給与支給総額 | 270,150 (391,110) |
控除額合計 | 51,426 (52, 936) |
いくつか補足がいるだろう。 研修医時代の通勤手当は、6 箇月分の交通費 (バス代) を一括で支給されたものであって、毎月、この額を受け取っていたわけではない。 現在は、大学院生の身分も持っている非常勤医、という立場であり、我が北陸医大 (仮) の規定では「大学院医員」ということになる。 通常の「医員」と違い、大学院医員には通勤手当が支給されない。 これは、大学院生がアルバイトとして診療にも従事している、という解釈なのであろう。 学生に通学手当は支給されないのが普通なのだから、まぁ、このような規定になっているのは理解できなくもない。 しかし現実には、我々は診療の片手間に学業をしている、という状況であり、それ自体の是非はあるにせよ、通勤手当を支給しないのは合理性を欠くように思われる。
また、三年目の医師が時間外労働 0 時間、というのに、違和感をおぼえる人もいるかもしれない。 大抵、三年目の医師は、朝から晩まで病院を駆けまわり、仕事をしている、ようにみえるからである。 しかし、少なくとも我々病理医の場合、仕事と趣味と個人的勉強の境界が曖昧である。 仕事といっても、担当分の診断を遂行する、というものであって、当直などはない。 いわば、我々はサッカー選手と同じような業務形態なのである。 形式的には病院に雇用された労働者であるが、実際には、個人事業主に近い。 従って、時間で労働を測ることは難しく、「時間外労働」という概念は、なじまない。
さて、現在の給与と研修医時代の給与を比べると、非常に奇異なことがわかる。 本給は 8 万円程度の昇給となったが、特殊勤務手当 (研修医手当) がなくなったため、通勤手当を除いても 4 万円の減給である。 仕事内容と責任は格段に増えたのに、給与は減ったのである。
これは、大学病院の医師は大抵、アルバイトをしていることを前提としているのであろう。 三年目の医師であれば、健康診断だとか、市中病院の当直だとかに行くことが多いのではないか。 アルバイトといっても、これらは時給 1 万円を超えるものも多いらしい。
そのような妙な給与体系になっている背景は、よくわからない。 いわゆる医局制度が消失しつつあるとはいえ、実態として市中病院が大学病院からの「人員派遣」に依存していることは、以前と変わりない。 本来であれば、医師は大学病院の業務として市中病院に出張し、市中病院は大学病院に対価を払い、大学病院は医師に給与を払う、という形にすべきである。 しかし大学は、公式には人材派遣業を行っておらず、医師個人が副業をしている、という建前になっている。 そのため、「アルバイト代」が非常に高くなるのである。
私は、教授と相談の上、そういう健康診断や当直などのアルバイトは行わないことにした。 時間の無駄だ、という立場からである。そんな暇があるなら、しっかりと医学の勉強をするべきである。 少なくとも病理医としては、そういう副業は、金のための労働にしかならず、自分の勉強としての意義は乏しい。 若い医師がアルバイトをするのであれば、もっと、キチンと勉強になる副業を選ぶべきである。
が、そのような考えをする者は少ないようであり、大学病院の三年目の医師は大抵「大学からの給与だけでは生活できない」などと妄言を吐き、アルバイトに勤しむのである。 フルタイムで働いている三年目の医師で、私より収入が少ない者は、日本中探しても滅多にいないであろう。
なお、このような考えは、私や教授だけが持っているものではない。 研修医時代、放射線科において 中堅医師が三年目の医師に対し「当直のバイトなどは早くやめて、読影などの、自分の勉強になるバイトに切り替えるべきである」と言っていたのを、聞いたことがある。
さきほど、用事があって学内の書店に行ったところ、 メディカルサイエンスインターナショナル (MEDSi) が作成した学生向けの小さなパンフレットが置かれていたので、一部、いただいた。 MEDSi は、医学書を専門とする出版社であって、国産書籍も出してはいるが、翻訳書を幅広く取り扱っている。 代表的なのは『ハリソン内科学』であろうが、現在、私の手元にあるだけでも、他に 神経解剖・生理学の『カンデル神経科学』の他、『ラングマン 人体発生学』は発生学の名著であり、 『CT・MRI 画像解剖ポケットアトラス』は携帯している放射線診断医も多いはずである。 国産の書物としては、『胸部の CT』『MRI の基本 パワーテキスト』が有名である。 私の感覚でいえば、MEDSi の教科書、特に訳書には「外れ」がない。 ただし、同社が扱っているのは主に学生向けの教科書であって、本職の医師が読むような重厚な教科書は、あまり扱っていないようである。
で、その MEDSi が作成したパンフレットのタイトルは 「誰のために分厚い内科学書があるのか?」というものであって、「医学生の教科書選びのための参考資料」というのが副題である。 要約すれば、ハリソン内科学は学生にもお勧めですよ、という趣旨である。 それには、私も全面的に賛成する。 名大時代の私の同級生も、特に優秀な層は、だいたいハリソンを持っていたように思う。 ハリソンは、学生向けの教科書なのであって、「医師になってからも使える」という程度である。
このパンフレットをみて気になったのが、「学生さんたちの生の声」として紹介されているものである。 「必要なことは全て書いてある」という東京医科歯科大 4 年生の声を筆頭に、2-4 年生の意見が掲載されている。 「ハリソン内科学を使ったら 根暗な僕でも彼女ができました!! (中略) パチンコ、競馬でも勝ち続け、負け知らずです!! これもすべてハリソン内科学のおかげです!!」という声もあるのだから、ハリソンの神通力は偉大である。
そもそも、二年生や三年生が「ハリソン」を読むことを、私は、お勧めしない。 そのくらいの学年なら、まず基礎をしっかり勉強するべきである。 「ハリソン」には多少の生理学的背景も記載されているとはいえ、あくまで臨床の教科書であり、基礎医学の学識を有していることは前提として記述されている。 それを、基礎の不充分な二年生や三年生が中途半端にかじったところで、疾患の本態を理解するには至らず、むしろ 表面的な知識の習得のみで終わり、学問のあり方としてはイビツなものになってしまうのではないか。 二、三年生が重厚な書物を読もうと思うのであれば、むしろロビンスの厚い方だとか、 Goodman & GIlman's The Pharmacological Basis of Therapeutics だとか、そういった基礎的な書物の方が適しているだろう。 あるいは、多くの高学年生や研修医あるいは若手医師が生理学に疎いという事実を考えると、「ガイトン生理学」を読んだ方が良いかもしれぬ。 とにかく、三年生に「ハリソン」は、早すぎる。
問題なのが、上述の「必要なことは全て書いてある」という東京医科歯科大の学生の声である。 ハリソンを読んで、そのような感想を抱く学生は、勉強が全く足りない。
誤解している者もいるようだが、「ハリソン内科学」は、内科学の教科書としては浅薄である。 ページ数でいえば、原書第 19 版の本文は 2770 ページしかない。広大な内科学をこの程度のページに収めるには、大事な情報をかなりの程度、割愛せざるをえない。 たとえば、感染症学の教科書である Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Disease, 8th ed. (Elsevier; 2015). は本文が 3577 ページである。 心臓病学の Zipes DP et al., Braunwald's Heart Disease, 11th ed. (Elsevier; 2018). は 1944 ページ、 消化器内科学の Podolsky DK et al., Yamada's Textbook of Gastroenterology, 6th ed. (Wiley Blackwell; 2016). は 3069 ページ、 内分泌学の Jameson JL, De Groot LJ et al., Endocrinology Adult and Pediatric, 7th ed. (Elsevier; 2016). は 2687 ページ、 膠原病学の Firestein GS et al., Kelley & Firestein's Textbook of Rheumatology, 10th ed. (Elsevier; 2017). は 2086 ページである。 これらの他に、呼吸器内科学だとか、腎臓病学だとか、その他の諸分野を包括するのが「内科学」であることを思えば、「ハリソン」が実に薄い本であることが理解できよう。
つまり、「ハリソン」をはじめとする「内科学書」というのは、内科学の総論と序論を述べているに過ぎず、その深淵には到底、届かない。 キチンと勉強した学生であれば、ハリソンを読んで、「痒い所に手が届かない」もどかしさを感じるはずなのである。
学問というのは、修めれば修めるほど、疑問が湧き、謎は深まり、わからなくなるものである。
胎盤病理に関心を持っている。 病理医として、全身諸臓器を診る能力を身につけねばならないのは当然であるが、その中でも専門分野を何か持つのが普通である。 では自分が何を専門にするか、と考え続けてきたが、近頃では、胎盤を専攻しようかと思うようになってきた。 今年の後半に出版される Vogel M et al., Clinical Pathology of the Placenta という教科書を、今から楽しみにしているぐらいには、胎盤が好きなのである。
もともと私は、非腫瘍性肺疾患、特に間質性肺炎に強い関心を持っていたし、今でも、それは変わっていない。 しかし病理診断医としては、非腫瘍性肺疾患は専攻しにくい。 というのも、我が北陸医大 (仮) をはじめとして多くの病院では、非腫瘍性肺疾患の病理診断はあまり行われていないからである。 長崎大学の福岡教授の所などにいけば、そうした疾患に触れる機会も多いであろうが、諸般の理由から、現時点で長崎行きは考えていない。 あの分野において近年流行している Multi-Disciplinary Discussion (MDD) の「診断」方法に強い疑念を抱いている、という事情もある。
それに対し胎盤は、検体数が多い割には、多くの病理医が関心を向けていないのが現状である。 過日、病理関係者が集まる小さな宴席で、今年の抱負を述べる機会があった。 そこで私が「胎盤をよく勉強しようと思う」と述べた所、ある中堅病理医は「渋いな」と言い、ある教授は「こいつは何を言っているんだ」と言わんばかりに顔をしかめた。 遺憾ながら、胎盤病理というのは、そういう扱いを受けているのが現状なのである。
胎盤病理学の教科書として有名なのは `Pathology of the Human Placenta' であろう。 これは 2012 年に出版された第 6 版が最新であるが、そろそろ次版が出そうな頃合である。 我が北陸医大には 2000 年の第 4 版が所蔵されているのみであり、いささか寂しい。 他には、マニュアル本としては Diagnostic Pathology シリーズの `Placenta' があるが、これは次版が今年の末に出るらしく、私の購入予定リストに入っている。 あとはアトラスとして米軍病理学研究所 (Armed Forces Institute of Pathology; AFIP) が出版している Atlas of Nontumor Pathology シリーズの `Placental Pathology' も有名である。
日本語で書かれた胎盤病理の教科書には、立派な成書は乏しい。 有名なのは中山雅弘『目でみる胎盤病理』(医学書院; 2002). という薄い教科書であるが、既に絶版のようである。 そこで私は先日、有澤正義『臨床胎盤学』(金芳堂; 2013). と有澤正義『胎盤が語る周産期異常』(東京医学社; 2015). を購入した。 前者はタイトルこそ教科書風であるが、中身はマニュアル本に近い。また、後者は症例集である。 いずれも重厚な成書とは呼び難いが、診断技術に特化するのではなく、疾患の病理学的背景、生理学的考察に基づいて記載されており、たいへん、よろしい。
この『臨床胎盤学』の「はじめに」は、名文である。同書を手にとる機会があれば、ぜひ一読して欲しいのだが、その末尾は次のように締められている。
私は, 胎盤を検査する時, いつもこの児が悪くなった原因を見つけよう, 次の児を助けようと思って胎盤検査をしています. この思いを, 他の施設の産婦人科医, 新生児科医, 病理医にもっと伝えたいと思いこの本を書きました.
私はこれまで何例かの胎盤を診てきたが、正直にいうと、そこまで強い気持ちを持って診ていなかった。 何か異常はないかな、という程度の態度であって、これという異常がみつからなかった場合には、明らかな異常なし、という趣旨の報告を書いた。 死産児の胎盤であっても、「何が何でも異常をみつけてやる」というほどの情熱ではなかったのである。怠慢であったと言わざるを得ない。
一応、弁明すると、これは私が医師として基本的な資質を欠いていたからではなく、私の胎盤病理学に対する見識が乏しかったからである。 母体や胎児の異常で死産になったのであれば、胎盤に明らかな異常がみつからないこともある、と、思っていたのである。 この点について有澤氏は、『臨床胎盤学』の 152 ページで次のように明確に述べている。
胎盤要因だけでなく, 母体要因・胎児要因はほとんどが胎盤にその証拠が残る
「不明な原因で胎児が死亡したのに、胎盤検査しても異常がみつからない」などということは、滅多にない、というのである。 以後、心して胎盤と向き合う所存である。
過日、愛媛の刑務所から脱走した男が 3 週間あまり逃走し、広島で逮捕された、という事件があった。平たくいえば、脱獄である。 刑法によると、これは「逃走の罪」にあたる。 「逃げること」自体が犯罪なのであって、刑法第 97 条には「裁判の執行により拘禁された (中略) 者が逃走したときは、一年以下の懲役に処する。」とある。
脱獄、で思い出したのが 2009 年のベルギーにおける脱獄事件である。 当時の朝日新聞の記事によれば、同国ではフランス革命思想の影響から「人類の自由への渇望は縛れない」として、脱獄自体は罪に問われなかったのだが、 あまりの脱獄の多さに、とうとう脱獄の犯罪化が検討された、とのことである。 この記事に対する当時のインターネット上の反応をみると、脱獄自体は咎めないフランス的発想に賛同する意見は少なかったようであることが、私には意外であった。
諸君は、どう思うか。 悪事を働いて罰されたのであれば、おとなしく、国家の決定に服従すべきであると考えるか。 それとも、自由を求める心と、その心に従って行動する権利は、自然権の一つであって不可侵であると考えるか。
過日、ある人と、堕胎について論じた。 その人は私に「もし、あなたに子ができたならば、出生前染色体検査や、その結果に基づく人工妊娠中絶を行うか」と問うた。 私は、「染色体異常を理由とする堕胎は違法である。違法である以上、行うことは、できぬ。」と述べた。 ただし、私は、その人に対して誠実でありたいと思っているので 「もし、法がそれを許すのであれば、人工妊娠中絶を行うという選択はある。」と、つけ加えた。
染色体異常を理由とする堕胎は、違法である。 現状では、それを違法と知りつつ、「必要だから、やむなく」と、「経済的理由」ということにして実施している産科医は少なくないであろう。 が、「必要だから」「本人が望んでいるから」というのは、理由にならない。法律というのは、そのように軽いものではない。
人によっては、私の態度をダブルスタンダードだと言って批判するかもしれぬ。 堕胎については法の定めに従うのに、脱獄については違法行為を容認しているからである。 が、その批判は、当たっていない。
国家の定める法には、その法自体が人権を侵害している場合、あるいは国家の転覆を図る場合を除き、我々は従わなければならない。 そうしなければ、社会の秩序は維持できないからである。 従って、脱獄は人権を守るための行動であるから容認されるが、堕胎は、認められないのである。
名大医学科時代について、ふと思い出したことがある。 3 年ほど前に書いたが、四年次の、症例に基づいて調べ討論する PBL 実習についてである。 ある高齢者の認知機能が低下しているために家族の勧めで近医を受診し、ドネペジルを投与されていたが一向に改善しないため大学病院に紹介された、という病歴である。 結論としては、肺小細胞癌をアルツハイマー型認知症と誤診されていた、という症例であった。
この PBL の際、私は現病歴を読んだ段階で、つまり、まだ肺癌については疑われてもいない段階で、次のように述べた。 「ドネペジルは、認知症の治療薬ではなく、アルツハイマー病の治療薬である。この前医は、いかなる根拠でアルツハイマー病と診断したのか。」 私は、これを深く考えて発言したわけではなく、単に、意味がわからないから「わからない」と言っただけであった。 しかし最終的に、ドネペジルを投与した前医の判断が誤りだったのだから、私は、図らずして急所を突いていたことになる。
ドネペジルというのは、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬であって、アルツハイマー型認知症の症状を緩和する薬である。 アルツハイマー型認知症は、中枢神経系の一部のシナプスにおいて、神経伝達物質であるアセチルコリンの放出能が低下することによって発症する。 そこで、シナプス間隙においてアセチルコリンを分解する酵素であるアセチルコリンエステラーゼを阻害すれば、少量のアセチルコリン放出でも 伝達が一応は起こるようになり、症状を緩和できる、というのが、この薬の基本的な作用機序である。 このことからわかるように、アセチルコリンエステラーゼは、症状を緩和するだけの薬であって、細胞レベルでの疾患の進行を抑制することはない。
ところが、一部の参考書では、アセチルコリンエステラーゼによりアルツハイマー病の進行を抑制することができる、というような記載をしているらしい。 また、臨床医の中には、そのような作用があると信じている者も多い。 これは、症状だけをみて疾患の進行具合を判断することによって生じる誤解である。 いわば、癌の骨転移に伴う疼痛に対し鎮痛薬で症状を緩和している状態を「骨転移が抑制されている」と表現するようなものであって、医学的には完全に誤りであり、不適切である。 たとえば薬理学の名著である Golan DE et al., Principles of Pharmacology, 4th ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、このあたりに気を遣って
... these AChE inhibitors have demonstrated beneficial effects ... in slowing the progression of cognitive, functional, and behavioral decline in AD dementia.
と書いている。認知症の症状の進行を緩和する、と述べているだけであり、アルツハイマー病そのものの進行を抑制するとは書かれていない。
ところで、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬を巡る Principles of Pharmacology の記載について、納得のいかない点がある。 この教科書では、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬について「パーキンソン病などによる認知症の治療薬としても、米国の Food and Drug Administration (FDA) は認可している」 と記載されているのである。 パーキンソン病とアルツハイマー病では、病態がだいぶ異なるのであって、常識的には、パーキンソン病にアセチルコリンエステラーゼ阻害薬が奏効するとは思われない。 このあたりの機序について、Principles of Pharmacology は、何も言及していないのである。
確かに臨床的には、パーキンソン病に対しアセチルコリンエステラーゼ阻害薬を投与することで認知機能が改善する例は、あると考えているらしい。 しかし、それは、アルツハイマー型認知症をパーキンソン病の症状と誤診していただけではないのか。 高齢者であれば、パーキンソン病とアルツハイマー型認知症を合併することなど珍しくないのだから、パーキンソン病患者の認知症を安易に 「パーキンソン病による認知症」と診断しては、ならないのである。 実際、薬理学の古典系名著である Brunton LL et al., Goodman & Gilman's The Pharmacological Basis of Therapeutics, 13th ed. (McGraw Hill; 2018). では、 パーキンソン病治療薬としてのアセチルコリンエステラーゼには言及していないようである。
薬理機序を考えず、病理学的考察をおろそかにし、単に「効くことがある」などという経験則だけで投薬するのは、医学ではなく、呪術である。
初期臨床研修医には、研修への専念義務が課されており、副業は禁止されている。平たくいえば、アルバイトは、できない。 これは医師法第 16 条の 3 にある「臨床研修を受けている医師は、臨床研修に専念し、その資質の向上を図るように努めなければならない。」という規定が根拠であり、 厚生労働省は明確に研修医のアルバイト禁止を通達している。
ところが現実には、一部の市中病院では、研修医が公然とアルバイトを行っているらしい。 たとえば職場などの健康診断に派遣され、日当を得る、といった具合である。 この種のアルバイトは、日当数万円が相場であるらしいので、かなりの収入になる。 私が研修で訪れた某市中病院でも、研修医がそのようなアルバイトを行っていたし、 中部地方の某市中病院に勤める友人から聞いた話でも、そこの研修医は当然のようにアルバイトしているらしい。 気づいた方は、ぜひ、厚生労働省に密告すると良い。
この専念義務についてであるが、初期臨床研修と並行して大学院に通うことは 厚生労働省も認めている。 むろん、初期研修の片手間に大学院生をやる、などというのは、他分野の研究者からすれば、眉を顰めるような話である。 研究というのは、そのような生半可な姿勢で遂行できる性質のものでは、本来、ないからである。 あるいは、現在の医学系の博士課程は、その程度のものなのだ、と言うこともできよう。
ついでに書くと、初期臨床研修というのは、医師法第 16 条の 2 「診療に従事しようとする医師は (中略) 臨床研修を受けなければならない。」という規定に基づく制度である。 すなわち、初期臨床研修を受けていなければ、医師免許を持っていても、診療に従事できない。 それならば、初期臨床研修を修了した者に対して医師免許を交付する方が合理的であるのだが、歴史的経緯から、このようになっている。 初期研修医が上述のようなアルバイトをすることは、この点からも問題である。 臨床研修を終えていない以上、研修医は、まだ診療に従事できないからである。
従って現在では、マトモな病院では、研修医単独で診療させることはない。 むろん我が北陸医大 (仮) でも、私の知る限り、研修医の単独診療は行われていない。 しかし一部の病院では、救急外来で研修医が単独診療をやっているらしいのだが、これは医師法違反である。 だいたい医者という連中は、遵法意識が低く、法令よりも自分の価値観を優先するきらいがある。 だから私は、医者という連中が嫌いなのだ。
なお、Wikipedia の「研修医」の項においては、このあたりについて、かなりデタラメな記載がなされているので、注意が必要である。
キチンとした医学書ではなく、平易で不正確なアンチョコ本に頼って勉強してきた学生が、しばしば口にするのが「○○しようとする」という表現である。 たとえば、多量の発汗などにより循環血液量が減少したヒトにおいて、「体液量を維持するために尿量を減らそうとして集合管での水の再吸収が亢進する」という具合である。
言うまでもなく、腎臓は「尿量を減らそう」という意図を持って、水の再吸収を亢進させているわけではない。 生理学的には、たとえば、体液量の減少によって血漿浸透圧が高くなり、下垂体におけるバソプレシンの分泌が亢進し、 そのため集合管におけるアクアポリンの発現が増強され、水の再吸収が亢進するのである。 結果的に体液量は維持されるかもしれないが、「体液量を維持しよう」「尿量を減らそう」というような目的に従って体が反応しているわけではない。
よく知らないが、たぶん多くのアンチョコ本では、読者を「わかったつもり」にさせるために、あるいは「覚えやすく」するために、 「人体は、ホメオスタシスを維持する方向に反応する」という前提で生理現象を「説明」しているのだろう。 素人が一般教養として生物学や生理学をかじる程度なら、そういう「理解」の仕方でも、まぁ、良いかもしれぬ。
しかし我々はプロである。 特に、疾患というものは、大抵、ホメオスタシスが破綻した状態である。 患者の体内で起こっている現象を理解するには、上述のような目的主義とでもいうべき考え方は通用しない。 だから、「○○しようとする」などというゴマカシではなく、ホメオスタシス維持機構の詳細を、我々は理解しなければならない。 生理学の名著である Hall JE, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th ed. (Elsevier; 2016). も、 ホメオスタシスを重視して生理学を語っているものの、目的主義は採用していない。
ついでにいえば、患者に対して病態を説明する際にも、この目的主義を安易に使うべきではない。 腎臓は何も考えていない、などということは小児でも理解できることである。 目的主義を使って説明するのは、科学的見識が乏しく、不正確であっても「わかりやすい」説明を喜ぶような患者に限定せねばならない。
たとえば物理学を修めた者であれば、医者が目的主義で説明すれば「こいつは、ごまかしているな」と、瞬時に見抜くであろう。 あるいは「こいつ、藪医者だな」ぐらいに思うかもしれぬ。 ひとたび、そのように思ってしまうと、もはや質問しようという気も起こらぬ。 そういう不信感を患者に抱かせてしまった場合、それは、あなた方の過失である。
前回の話の続きである。 非アルコール性脂肪性肝疾患 (Non-Alcoholic Fatty Liver Disease; NAFLD) の基準として脂肪化の割合を肝細胞の「5% 以上」とする意見は、どこから来たのか。 これは、NAFLD Activity Score (NAS) (Hepatol. 41, 1313-1321 (2005).) や、 それを修正して開発された SAF score (Hepatol. 56, 1751-1759 (2012).)) が「5%」を基準として用いていることに由来するのであろう。 しかし、これらの文献を読むと、著者は単なる便宜として 5% に閾値を設けただけであって、それ未満の脂肪化は病的意義が乏しい、というようなことは述べられていない。 また、こうしたスコアは臨床試験に適用することなどを前提として作られた客観的な指標である、という点も注意を要する。 客観的、といえば、素人は「公正で正確」というような印象を持つかもしれないが、少なくとも臨床医学の場合、 これは「個々の患者の具体的な背景を無視して統計的な傾向だけをみる」という意味に過ぎない。 従って、生検に基づく診断を議論するにあたっては、この「5%」にこだわることは、病理学的ではない。
さて、NAFLD が進行すると、肝炎が起こり、肝細胞の構造が破壊される。 たとえば、肝細胞の中間径フィラメントであるサイトケラチン 8 (CK8) やサイトケラチン 18 (CK18) が、なぜか失われ、あるいは凝集する。 病理診断の観点からいえば、免疫染色で CK8/18 が陰性化したり、あるいは CK8/18 陽性の Mallory-Denk body が形成される。 こうした肝細胞の変性のことを balooning と呼ぶ。日本語では「膨化」とか「風船化」とか呼ばれるようである。 この 1) 脂肪化; 2) 炎症や繊維化; 3) balooning、の 3 つの所見が揃った状態を、非アルコール性脂肪肝炎 (Non-Alcoholic SteatoHepatitis; NASH) と呼ぶ。
NAFLD のうち、単純性脂肪肝と NASH の中間にあたる病態については、名前がない。いささか不便である。 この部分を診断する時には「NAFLD」としか言いようがないが、本来の NAFLD は、もっと広い意味であることを忘れてはならぬ。
このように、NAFLD は、単純性脂肪肝から NASH, さらには肝硬変までの、一連のスペクトラムから成る。 名前をつけて区分しているのは、単に、病勢を評価するだけの目的である。 従って、前回紹介した「病理と臨床」2017 年 3 月号で述べられているように、「NASH なのか、その手前の NAFLD なのか」という境界は曖昧であるし、 そこを厳密に診断する意義もない、ということになる。
だから、学生時代からずっと私が思っていた「NASH の概念が、よくわからない」というのは、当たり前のことだったのである。 物理学に例えれば、「青色の光は、波長でいえば何 nm から何 nm の範囲なのか、よくわからない」と言っているのと同じことである。 決まっていないのだから、わかるわけがない。
非アルコール性脂肪性肝疾患 (Non-Alcoholic Fatty Liver Disease; NAFLD) や 非アルコール性脂肪肝炎 (Non-Alcoholic SteatoHepatitis; NASH) は、 医科の学生にとって、理解に苦しむ疾患概念の一つであろう。 少なくとも私は、学生時代にロビンスの病理学の教科書を読んで、よく理解できなかった。 正直に言うが、研修医になってからも、NAFLD/NASH の概念をキチンとは理解しないままに、二年間を過ごした。 オタク向け雑誌である「病理と臨床」では、2017 年 3 月号で NAFLD/NASH を含め「びまん性肝疾患」の特集を組んでおり、一応は目を通したが、読んでもわからなかった。
で、専門医資格を持たないヒヨコとはいえ、一応、病理医になったのが現在である。 むろん指導医の監督つきではあるが、北陸医大 (仮) 病理部の診断の一翼を担っているわけである。 あたりまえだが、NASH 疑い、という肝生検の標本も私の所に届く。 あるいは肝癌の手術検体を病理診断するにあたっては、背景肝も、診る。 「NAFLD/NASH は、わかりません」と言える立場ではない。 もし「わかりません」といえば、指導医のセンセイが優しく丁寧に教えてくれるであろうが、こういうのは、教われば身につくという性質のものではない。 自分で勉強し、自分で考え、自分で診断して、初めて理解できるものであろう。 そもそも、指導医の教えてくれる内容が正しいという保証もない。 今のうちなら、もし自分の診断が間違っていれば、指導医が指摘してくれる。そこを信頼して自分の足で歩こうとすることは、甘えではない、と思う。
そういう状況になってから、改めて教科書や「病理と臨床」を開くと、不思議と、理解できるのである。 結局、細胞や組織の変化というものは、言葉で表現できるものではなく、実際にモノをみなければ、わからない、ということなのであろう。
NAFLD/NASH の病態は、いまなお、よくわかっていない。 飲酒が肝障害を惹起することはよく知られているが、ここで議論するのは、それ以外のものである。 アルコール性肝障害と非アルコール性肝障害の異同については、別の機会に述べることにしよう。
肝細胞においては、機序はよくわからないのだが、しばしば脂肪の蓄積がみられる。 そのような脂肪が蓄積した状態を NAFLD と呼ぶ。 炎症があろうがなかろうが、肝細胞に著明な変性があろうがなかろうが、全て NAFLD である。 つまり、この言葉は、非常に幅広い病変を包含するものである。
NAFLD のうち、単に脂肪が蓄積しただけで、炎症は起こっていない状態を単純性脂肪肝と呼ぶ。 この脂肪の蓄積量について、Hepatol. 56, 1751-1759 (2012). のように「肝細胞全体の 5% 以上に脂肪化がみられるものをいう」という基準を設ける意見もあるが、 「病理と臨床」の記事によれば、「5%」という値に科学的根拠はなく、少量でも脂肪化がみられれば異常である。
こうした脂肪の蓄積は、それ自体が、どうやらマクロファージの活性化を通して炎症を惹起するらしい。 炎症を全く来していない単純性脂肪肝を NAFLD に含めない流儀もあるようだが、 病理診断学の聖典 Goldblum JR et al., Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 11th Ed. (Elsevier; 2018). の記載によれば、含めた方が合理的である。 というのも、単純性脂肪肝は古典的には可逆的な変化であると考えられてきたが、実際には脂肪の蓄積自体が炎症を引き起こし、やがて非可逆的な繊維化に至る。 つまり単純性脂肪肝は、既に、非可逆的な NAFLD の初期病変なのである。
少し長くなってきたので、続きは次回にしよう。
4 月 18 日の記事で書いたように、「遺伝率」という概念は、疾患の原因について、 遺伝的要因と環境的要因を分離できる、という前提で導入された概念である。 しかし、この分離は、実際には不可能であると考えられるから、遺伝率というものを厳密に定義することはできない。 この点について、たとえば医学書院『標準精神医学 第 6 版』は次のように述べている。
... 集団内でその疾患を引き起こす危険因子のなかで, 遺伝により引き起こされている部分の割合が, 遺伝率 heritability と呼ばれる (ただし遺伝率は, その時点における環境に依存した値であり, 例えばある疾患のリスクとなる大規模な環境変化が起これば, その疾患の遺伝率は低下することになる).
間違ってはいないのだが、上述した分離の不可能性について言及していないという点において、適切な説明ではないように思われる。
たとえば、ある変異型遺伝子 A' を有する人が、ある化学物質 B に曝露された場合にのみ生じるような疾患があるとする。 A' 遺伝子を持っているだけでは罹患しないし、A' を持たない人が B に曝露されても発症しない。 こういう複合的な要因によって生じる疾患は、現実に珍しくないであろう。 しかし、こういう状況では、前回の記事で紹介したような Genetic variance と Environmental variance とに分離することができず、遺伝率も定義できないのである。 換言すれば、計算方法によって、遺伝率はどのようにも変わってしまう。 『標準精神医学』は学生向けの入門書に過ぎないとはいえ、こういう議論を曖昧にして「わかった気分」にさせてしまうことは、あまりよろしくないように思われる。
精神医学の聖典である Sadock BJ et al., Kaplan & Sadock's Comprehensive Textbook of Psychiatry, 10th ed. (Wolters Kluwer; 2017). は、 こうした問題にもキチンと言及している。 詳細は割愛するが、結局のところ
Heritability has a precise technical meaning and reflects only the degree to which a given trait is associated with genetic factors. It says nothing about the specific genetic factors involved or about the mechanisms through which they exert their influence. Furthermore, the concept of heritability provides no information about how a particular trait might change under different environmental conditions.
遺伝率 は、数学的には厳格な意味を持っているが、ある表現型と遺伝的要因との関連の程度を表しているに過ぎない。 特定の遺伝的要因や、それがどのようにして表現型に結びついているか、といったことには、何も言及していないのである。 さらに、遺伝率の概念は、異なる環境でどのように表現型が変化するかということについても、何の情報も含んでいない。
と、まとめている (1995 ページ)。
「遺伝的要因が占める割合」という漠然とした表現に疑問を抱かない人は、騙されやすいので、注意が必要である。
下に書いた「セクハラと女性問題」の記事において、「遵法意識が低い」は適切な批判ではないので、削除した。
毎日新聞の記事は、下で紹介した朝日新聞とは少し違った印象を与える。 米山が軟弱な男なのは間違いないが、しかし中年の独身男が少し道を踏み外しただけのことであって、人倫にもとることは行っていない。 魅力的な女性に好かれたいと思い、金で歓心を買おうとしたことは、恥ずかしいことではあるが、それだけである。 知事には不適格だというだけのことであって、悪い男ではない。
甲状腺瀘胞と遺伝率の話の続きを忘れたわけではないが、別の時事社会問題を、今日は書こう。
福田淳一という財務事務次官が昨夕、辞任を表明したらしい。 事実関係は知らぬが、テレビ朝日の女性社員から取材を受けた際に「胸触っていい?」などのセクハラ発言を繰り返した、という疑惑を週刊新潮が報じていたらしい。 この問題については、財務省が、被害女性に名乗り出るよう求めるなどという常軌を逸した話もあったようだが、それについては今回は触れぬ。
テレビ朝日の女性社員は、セクハラを受けている旨を自社に相談したが、報道することを認められず、やむなく録音データを新潮に渡したという。 形式的には「取材で得た情報を他社に渡した」ということになる。 朝日新聞の記事によれば、 この点についてテレビ朝日は昨晩の記者会見で、 「取材活動で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切な行為であり、遺憾に思っています」と述べたらしい。 また、朝日新聞の別の記事によれば、録音データを第三者に渡したことについて、当該社員は 「不適切な行為だった、という私ども (註: 上司ら) の意見を聞いて、反省している」 とのことである。
はたして、データを他社に渡した当該社員の行動は、本当に不適切であったのか。 法的には、報道機関に守秘義務は課されていない。 報道機関としての業務を遂行するためには情報提供者からの一定の信頼が不可欠であるために、報道機関側が自主的に、「秘密を守る」という契約をしているに過ぎない。
今回の件は、取材中に犯罪被害に遭った社員が、上司に相談したにもかかわらず、適切な対応を受けられなかったために、やむなく他社に情報提供した、というものである。 問題があるとすれば、社員にそうさせた、上司の対応ではないのか。 なぜ、社員が「不適切だ」と叱責され、反省を求められねばならないのか。 一体、社員はどうするべきだったというのか。
朝日新聞などの報道をみる限りでは、テレビ朝日は記者会見で、社員の行動を擁護する発言をしていない。 「そういう会社」なのであろう。
セクハラとは話が違うが、同様に性的な不祥事で昨日、辞職したのが新潟県知事の米山隆一である。 詳しくは知らぬが、買春していたのではないか、という疑惑を週刊文春が報じたらしい。 事実であれば、売春防止法違反でる。
金を払ってでも女性と「そういうこと」をしたい、という気持ちは、理解できないでもない。 が、それを実際に行ったのであれば、精神が軟弱であり、人としての尊厳が乏しいという点において、知事にはふさわしくない。 辞職すべきである。
ただし、朝日新聞の記事によれば、米山の記者会見は見事であった。 「援助交際と言われることをどう思うか」という記者の質問に対し 「援助交際は漠然とした言葉だが、『売買春』ととられる可能性はあると思う」と答えたのである。
「援助交際」というゴマカシた言葉を否定し、自ら「売買春」と表現したのである。 この男は、知事としては不適格であるが、人間としては信頼できる。
名大時代の友人の一人から、ふと「遺伝率」の話をふられた。 これは疫学用語であるが、特に精神医学の分野で扱われることが多いように思われる。 精神疾患に限らず、大抵の疾患は、程度の差こそあれども遺伝的要因と環境要因とによって生じると考えられている。 そこで遺伝的要因の寄与がどの程度なのか、ということに関心を持つのは自然なことである。 おおまかにいえば、その「遺伝的要因の寄与の割合」のことを「遺伝率」と呼ぶのであるが、その正確な概念は難しい、というより、正確には定義できない。
改めてみると、「遺伝率」をキチンと説明した教科書は、多くない。 私の手元にある書物の中では、小児科学の名著 Kilegman RM et al., Nelson Textbook of Pediatrics, 20th ed., p.628, (Elsevier; 2016). にのみ簡潔に記載されている。 この Nelson の説明によれば、
Phenotypic variance = Genetic variance + Environmental variance + Measurement variance
という関係を仮定した上で、遺伝率 heritability を h で表すことにすれば、
h2 = Genetic variance / Phenotypic variance
と定義される。 ここでいう variance というのは、統計学でいう分散のことである。 上述の式をみると、統計学の初歩を修めた人であれば、分散分析をしようとしているのだな、と想像できるであろう。 分散分析になじみのない人は、小野滋氏が書いた 読めば必ずわかる分散分析の基礎という文書が、正確かつ簡明なので、読まれると良い。
問題は、上述の定義において、遺伝要因による分散と環境要因による分散を加算していることである。 Nelson では、この関係について
The phenotypic variance of a particular trait can be partitioned between the contributions of the genetic variance, environmental variance, and the measurement variance.
と決めつけている。 これは、実は遺伝要因と環境要因が互いに独立に作用する、と仮定することに等しいのだが、常識的に考えて、両者は独立ではない。 現実には、遺伝要因と環境要因は複雑な関係にあると考えられるから、上述の「遺伝率」の定義は、 計算を可能にするための強引で不適切な近似に基づくとみるべきであろう。 この近似を最初に導入したのが誰であるかは知らぬ。 Wikipedia 英語版の記事では O. Kempthorne の `An introduction to genetic statics' (1957). を引用しているが、この文献は北陸医大 (仮) に所蔵されていないので、私自身は確認していない。
さて、この話には続きがあるのだが、長くなってきたので、次回にしよう。
詳しいことは書けないので、曖昧な話に終始することをお許しいただきたい。
カルテをキチンと書かない医師や看護師は、少なくない。書かない、のではなく、書けない、のかもしれぬ。 自分が行った医療行為の正当性を主張する根拠としてカルテは重要であって、「なぜ、それを行ったのか」が他人にわかるように記載を行うのが本来の姿である。 逆に、キチンとした記載がなければ、不正なことをしたのではないか、不適切な医療行為なのではないか、と疑われても仕方ない。 少なくとも私は、学生時代も研修医時代も、そう教わった。
ところが、少なからぬ医師は、そう考えていないようである。 カルテの記載が曖昧で乏しく、不適切な診療を行ったのではないかとの疑念が拭えない状況であっても、 大抵の医師は「これだけでは情報が不足していて、わからない。明かに不正であったという証拠はない。適切な診療だったかもしれない。」と言って、 可能な限り「仲間」を擁護しようとするのである。
冷静に考えれば、この態度は、おかしい。 「適切だった可能性もあるから、責めるべきではない」という論理は、少なくとも医療においては、誤りである。 患者第一を謳うならば、「不適切だった可能性を否定できないから、責められるべきである」という態度をとらねばならぬ。 だから、その「不適切だった可能性」を否定するために、カルテはキチンと記載せねばならないのである。
むろん、キチンとしたカルテ記載を行っている医者もいる。 特にトラブルの多い産科領域などは、常に、訴訟になっても問題のないように精緻な記録を残しているらしい。 が、そういう例は、現状では少数派であろう。
あなたが患者として医療機関を受診し、手術などを受けた場合、特に疑問や不審点がなくても、カルテの開示請求をすると良い。 カルテをみれば、それがマトモな医療機関なのか、そうでないのかは、一目瞭然である。 もし、キチンとした記載がなさそうであれば、医事訴訟を得意とする弁護士にでも相談して、病院相手に戦ってほしい。 そうすることが、適切なカルテ記載の必要性を医師に認識させ、まっとうな医療を実現するために、必要なのである。 あなた自身の利益のためでなく、未来の患者のため、これからの医療のために、不適切なカルテ記載を撲滅すべく、戦っていただきたい。 昨今では、適切なカルテ記載がない場合の医事訴訟は、患者側が圧倒的に有利である。臆する必要はない。
カルテがキチンと書かれていない、ということ自体が、医療行為として不適切なのである。
ある放射線関係企業の広報誌を読んで、憤慨した。 その記事は、水素を検出する材料の開発についての読み物であった。 概要としては、水素があると色が変わるような材料を開発した、というものであり、水素検出器としての応用が期待される、とのことである。 工学的観点からすれば、この記事には 2 つの重大な欺瞞がある。
一つは、次の記載である。
したがって、水素を石油、石炭などに代わるエネルギー源として利用するには、その製造、貯蔵、輸送、そして消費の各段階で、 保安上の問題に配慮しながら新しい技術を開発しなければなりません。
完全に、素人を騙しにかかった記述である。 確かに、水素を次世代エネルギー源として利用しようという話は、何十年も前から研究されている。 ただし、それは石油や石炭の代わりではなく、電気の代わりとして利用しよう、という話である。
現在、我々は石油や石炭、あるいは原子力などを一次エネルギー源として利用しており、そのエネルギーを輸送する手段として電気が広く用いられている。 これに対し、電気ではなく水素で輸送した方が高効率なのではないか、というのである。 だから、仮に水素利用の技術が確立しても、石油や原子力から脱却できるわけではないのに、そこをゴマカシて、素人を勘違いさせようというのが上述の記事である。
ついでにいえば、このゴマカシは、電気自動車などについてもあてはまる。 電気自動車は、確かに走行時には汚染ガスなどを排出しないが、代わりに発電所で多量の汚染物質を産出している。 そして電気は、送電時のエネルギー損失が非常に大きいので、電気自動車というのは、全体としてはエネルギー効率が悪く、環境負荷も大きい。 エンジン効率の高いハイブリッド車に比べて「クリーン」であるかどうかは疑わしいのだが、その点について素人に誤解させる広告戦略が採られている。
そして、元原子力物理学者として私が許せないのは、次の記載である。
この水素検知材料は、ガンマ線の照射に対してほとんど影響を受けない素材で構成されていることから、放射線環境下においても水素検知が可能です。
水素検知と放射線の関係について何も触れずに、いきなり、放射線環境下の話を始めているのである。 これでは素人には何のことだか、全くわからない。 もし、これが、単なる書き忘れ、説明不足であるならば、文章が下手だというだけのことである。 が、おそらく、これは故意に省いたのであり、科学者としての誇りと良心にもとる行為である。
水素は、天然資源ではない。石油などの燃焼エネルギーを変換して生成する必要がある。 実は、水素の発生源として有力視されているのが、原子炉なのである。 現在の原子力発電所は、熱エネルギーを利用してタービンを回して発電している。 これに対し、熱エネルギーをうまく変換すれば水素を生成できるのではないか、というわけである。
このように、原子炉と水素の組み合わせでエネルギーを生成・輸送することを念頭に置いているから「放射線環境下で水素検知」という話になるのである。 しかし原子炉を前提とする技術は、昨今の社会情勢ではウケが悪いから、敢えて省いたのであろう。
諸君には、科学者としての誇りがないのか。 風力だの太陽光だのは、原理的に重大な欠陥を抱えているために、主たるエネルギー源としての利用は不可能である。夢物語に過ぎないのである。 現実に社会を支えるエネルギー源としては、原子力を使用せざるをえない。 そのために、安全な原子力技術の確立をめざして、我々は研究していたのではないか。 なぜ、自分の仕事を貶めるような文章を書くのか。
米英仏が、シリアに対する攻撃を行った。 シリア政府が化学兵器を自国民に対して使用したことに対する対応である、という。 いうまでもなく、この攻撃はシリアの国家主権を侵害するものであり、不法にして不当である。平たくいえば、侵略である。
そもそも今回の件においては、シリアが化学兵器を使用したという証拠はない。 証拠もないのに一方的に非難して攻撃を行うのは、近年の米英が得意とする手口である。 イラクの時も、そうであった。 米英などは、イラクが大量破壊兵器を密かに保有している、と主張した。 イラクは国連決議に基づく査察を受け入れたが、そのような兵器は、全く発見されなかった。 そして査察が継続されている最中に、米軍はイラク侵攻を開始した。 結果として査察は中止され、査察団は、何の証拠も発見できないままに撤退したのである。 ついでにいえば、イラクに対しては米英は湾岸戦争以降も武力攻撃を継続していたのだから、悪質である。
仮にシリア政府が化学兵器を自国民に対して使用したという事実があったとしても、諸外国が武力介入する根拠にはならない。 確かにシリアは、化学兵器の放棄に同意している。 この同意自体が、米国等の武力的威嚇によるものであって無効である、とする意見もありえるが、少なくとも形式的には、放棄に同意した。 だから、その同意を反故にして化学兵器を使用したとなれば、非難されることはやむをえない。 しかし、シリアが約束を反故にしたからといって、シリアに対し武力攻撃を行って良いということにはならない。
国際連合憲章は、各国家の主権を互いに尊重することを、加盟諸国に求めている。 シリアで虐殺が行われているというのが事実であって、それに対し武力介入が必要であるとしても、それを実行するにあたり、 少なくとも国際連合安全保障理事会の決議は必要である。 さらにいえば、安保理決議があれば主権国家に対する攻撃が容認されるのか、という点にも疑問の余地はある。
シリアが現に国際平和に脅威を与えているという証拠がない以上、安保理にもシリア攻撃を承認する権限はないと考えるべきであろう。 だいたい、パレスチナ人に対する虐殺を何十年も続けている某国に対し、米英は制裁を加えるどころが、武器を供与しているではないか。
いずれにせよ、今回の攻撃は、安保理決議なしに、米英仏が独自に行ったものである。 かつてイラク共和国軍がクウェートに侵攻し、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、大日本帝国軍が中華民国に侵攻したのと、全く同じことである。
外国からの不正な武力の脅威が存在するとき、それに対し抵抗し、反撃することは、国際連合憲章においても認められている。 米英仏による不当な侵略が現に存在する以上、これに対し武力をもって反撃することは、正当な権利である。 2001 年の時にも、そういって、対米攻撃を支持する勢力がいた。
甲状腺の話をしよう。 甲状腺は、組織学的に独特の形態を有する瀘胞と、間質から成っている。 瀘胞にはコロイドと呼ばれるゲル状の物質が充満しているが、この「コロイド」は「膠様」という意味であって、紛らわしいがチンダル現象などを呈するコロイドとは意味が異なる。 さて、細胞の観点からいえば、瀘胞を形成する瀘胞上皮と、間質にいる C 細胞とが甲状腺に特有である、と、教科書には記載されている。 このうち瀘胞上皮は甲状腺ホルモンの産生を担い、C 細胞はカルシトニンの産生に与るという。 ただし、細胞の分類というのはたいへん恣意的なものであることに注意を要する。
正直に告白するが、私は、つい最近まで、甲状腺ホルモンの生成過程をよく理解していなかった。 昔、組織学や生化学だかを修めた時に一応は学んだはずであるが、完全には我が物としていなかったために、歳月の経過と共に忘却したのであろう。 要するに、単なる怠慢である。 甲状腺ホルモンの生成機序は、伊藤隆『組織学 改訂 19 版』(南山堂; 2005). にも記載されているが、こういう話は藤田『標準組織学 第 5 版』(医学書院; 2017). の方が詳しい。 しかし、その『標準組織学』でさえ、説明が不完全で、充分に合理的な説明にはなっていない。 いくつかの文献を総合すると、全体像は次のようなものである。
まず、瀘胞上皮がサイログロブリンを生成して瀘胞腔に放出する。その結果、ゲル状のコロイドが形成される。 さらに、瀘胞上皮はペルオキシダーゼを有しており、ヨウ素を活性化して瀘胞腔に放出し、結果としてサイログロブリンのチロシン残基がヨウ化される。 ヨウ化チロシン同士はエーテル結合し、トリヨードサイロニン (T3) やチロキシン (T4) となる。 生化学をキチンと勉強しなかった人は、教科書を開いて、T3 や T4 の構造を確認されると良い。 瀘胞上皮は、甲状腺刺激ホルモンの刺激などに反応してサイログロブリンを細胞内に取り込み、加水分解して T3 や T4 を「解放」する。 これが細胞外に放出され、血中甲状腺ホルモンとなるのである。
問題は、ヨウ素は、どこで活性化するのか、という点である。 伊藤の『組織学』は 「ヨードは細胞内 (註: 瀘胞上皮細胞内) でペルオキシダーゼ thyroperoxidase によって酸化され活性型ヨードイオンとなる.」と述べている。 一方、藤田の『標準組織学』では 「ヨードが蛋白質と結合する場は, 瀘胞腔の中である」としている。 これは、放射性ヨウ素を用いた実験結果に基づく記載であり、瀘胞上皮細胞内では、サイログロブリン以外の蛋白質ともヨウ素は結合していない、という意味である。 ところが、その直後に藤田は 「この反応には, 水解小体 (註: リソソーム) に含まれるペルオキシダーゼが働く」と述べている。 リソソームは細胞内小器官であるから、瀘胞腔には存在しない。記述が混乱しているのである。
常識的には、活性化したヨウ素が蛋白質と結合することなしに瀘胞腔へと輸送されるとは思われない。 従って、藤田が引用した実験結果を信じるならば、ヨウ素の活性化は瀘胞腔で起こっていると考えるべきであり、伊藤の記載は誤りだということになる。 なお、医学書院『医学大辞典 第 2 版』によれば、ペルオキシダーゼは膜蛋白質であり、瀘胞腔側に多いというが、これだけでは伊藤説と藤田説のいずれとも矛盾しない。
こうなると、教科書の記載の根拠となったであろう文献をみる必要がある。 あいにく、本件についての重要論文の一つが我が北陸医大 (仮) に所蔵されていないので、現在、図書館に取り寄せを依頼中である。 到着したら、続きを書くことにしよう。
北陸医大 (仮) で私が普段着用している白衣の背中に「北陸医大 病理」と大きく刺繍が入っていることは以前に書いた。 研修医時代には、左袖に「病理研修医」という肩書と私の氏名も入れていたので、研修医を終えて専攻医となった 4 月からは、新しいものに換えた。 今は「病理専攻医」と刺繍されたものを着ている。
この白衣は、刺繍なしなら一着 5,000 円しないものであって、白衣としては安い部類である。 高級白衣になると、一着 2 万円以上したり、ものによっては 3 万円を超えるようなものもあったと思う。 実際、病院内で医師の白衣を観察すると、やたら高級感のあるものを着ている者も多い。 3 年目ぐらいの若い医師でも、1 万円超えの白衣を愛用している者は少なくないように思われる。
実は私も、少しだけ、迷った。 せっかくだから、と、1 万円クラスの白衣にしようかと思ったのである。 が、結局、やめた。 KAZEN の、学生が着ているのと同じような白衣に刺繍を入れて使うことにしたのである。
価値観は多様であろうが、私の感覚でいえば、もし自分が患者なら、そういう高級白衣に身を包みブランド腕時計をつけているような医者には、診られたくないからである。
なお、白衣の素材については、好みが分かれるであろう。 私は研修医時代、綿 35% ポリエステル 65% で比翼仕立ての KAZEN 110-70 を頻用していた。 今回は、綿 15% ポリエステル 85% でダブルの KAZEN 255-90 にしたのだが、生地がイマイチ好みでない。 少しばかり後悔した。 次に白衣を新調するときは、110-70 に戻そうと思う。
医学の話をしよう。前立腺癌についてである。 前立腺癌を疑う臨床所見としては、直腸診における所見として前立腺が大きく硬くなっている、というようなものもあるが、むろん、感度も特異度も低い。 経直腸超音波検査も、前立腺過形成と前立腺癌を正確に鑑別するのは難しい。 血液検査では、PSA (Prostate-Specific Antigen) が前立腺癌マーカーとして測定されることが多いが、結果の解釈が難しい。 癌以外の原因で PSA 高値になることは多いし、逆に、PSA 低値でも癌は多いのである。 実際、PSA 高値であることから前立腺癌を疑われて生検をしたところ、既に前立腺癌が非常に大きくなっていた、というような事例は珍しくない。 PSA 値をみるだけでは、早期発見に失敗することが多いのである。 そういった事情から、内科学の名著 Kasper DL et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed. (McGrawHill; 2015). は、 PSA 値に cutoff 値を設けることはできない、としている。 さらにいえば、前立腺癌には latent 癌も多いので、癌があったとしても治療するべきかどうかは、実は難しい。
医学科の高学年生であれば、前立腺癌の特徴として「二相性の喪失」があることを知っているだろう。これは「二層性の喪失」と書かれることも多い。 すなわち、正常の前立腺は分泌細胞と基底細胞の二種類の細胞によって形成されているが、通常、癌化するのは分泌細胞である。 分泌細胞が腫瘍性に増殖するとき、基底細胞の反応性過形成を伴わないらしく、結果として、基底細胞を伴わない腺管が形成され、これを「二相性の喪失」と呼ぶのである。
これは、不思議な話である。 前立腺過形成の場合には、分泌細胞と基底細胞とが共に増えるのに、癌の場合は違う、というのである。 なお、前立腺過形成は臨床的には「前立腺肥大」と呼ばれることもあるが、正しくは肥大ではなく過形成である。 最近では、そのあたりに気を遣って prostatic hypertrophy ではなく prostatic hyperplasia と記載している臨床の教科書も増えているようである。 一方、日本語で書かれた組織学の教科書として双璧を成す伊藤隆『組織学 改訂 19 版』と藤田・藤田『標準組織学』は、 いずれも「前立腺肥大」という表現を用いており、遺憾である。
ところで、前立腺には基底細胞過形成、と呼ばれる変化がみられることもある。 これは、通常は単層である基底細胞が反応性変化により過形成して多層になるものであるが、 Mills SE, Histology for Pathologists, 4th Ed. (LWW; 2012). によれば、通常は管腔側に単層の分泌細胞を伴っている。 この基底細胞過形成は、1983 年頃には「稀な良性病変」と認識されていたようであるが (Am. J. Clin. Pathol. 80, 850-854 (1983).) 前立腺癌に対するホルモン療法を行うと、反応性変化として高頻度に出現する (Am. J. Surg. Pathol. 15, 111-120 (1991).)。 ただし、そのことは上で引用した Mills の教科書には記載されていない。
なぜ、癌では分泌細胞のみが増え、ホルモン療法後には基底細胞のみが増え、前立腺過形成では両者が増えるのか。 このあたりについて、遺伝子の発現具合の変化を調べた報告はあるが (Prostate 77, 1344-1355 (2017).) 機序について何らかの仮説を唱えるには、到底、至っていない。
衆議院議員の資産についてである。 朝日新聞が、現職衆議院議員の資産の男女差について報じた。 男性は平均 3116 万円 (新人では 2519 万円) に対し、女性は 1144 万円 (新人は 439 万円) と、著明な男女差があるという。 これについて 「選挙をはじめ政治に金がかかる状況は改善されておらず、こうした男女間の資産の格差も『女性の政治参加を阻む一因になっている』と識者は指摘している」と記載している。 むろん、この記載は正しくない。 女性の政治参加と資産の多寡の関係は、このデータからは読み取れない。 むしろデータからは、「女性であれば、資産がなくても国会議員になりやすい」と解釈する方が自然である。 おそらく、記者は科学や統計学の素養が乏しいために、適切に情報を解釈することができなかったのだろう。
同様に、統計情報を適切に解釈できていない例は医学・医療の分野でも実に多い。 たとえば、食品会社の明治が内閣府の支援を受けて行った「研究」で、まるで「カカオの多いチョコレートを食べると脳に良い影響がある」かのような内容を 発表したのが昨年 1 月である。 これに対し、朝日新聞の科学医療部記者杉本崇などが猛攻撃を行っている。 この問題の重要な点は、明治が、科学的に不適切な「研究」の成果を誇張して発表し、自社製品に対する優良誤認を意図的に誘導しただけでなく、それを政府が後援したことである。
他にも、統計の扱いが酷い事例は多い。 健康診断における「基準値」を巡る問題では、 そもそも血中コレステロール濃度などにカットオフ値を設けて判断すること自体に無理があるのに、そこに目をつぶって、 延々と無益な論争を続けている。 数値の高低により盲目的に判断するぐらいなら、健康診断に医者が関与する必要はない。 さらにいえば、信憑性の低いコホート研究に基づく統計を根拠に、高コレステロール血症の良し悪しを議論しているのも、無茶苦茶である。
そんな中、朝日の Webronza に 4 月 2 日、 学校で教えてくれない「疫学」の大切さという記事が掲載された。 細かい所をネチネチと突くのが好きな私でさえ唸るほどの、見事な記事である。 さぞ高名な疫学者が書いたのだろう、と思って記者をみると、北海道大学の玉腰暁子教授である。 経歴をみると、名古屋大学医学部卒、同大学大学院医学系研究科満了、とのことである。 「満了」ということは「修了」ではなく、つまり、満期になるまで在学はしたが、博士の学位は取得せずに退学した、という意味であろう。優秀であることの証左である。
日本語で書かれた膠原病学の教科書、といえば、塩沢俊一『膠原病学 改訂 6 版』(丸善; 2015). が名著である。 膠原病に関心のある医師ならば、必ず、この教科書を読んだことがあるだろう。 私も、この日記で過去に、この教科書に言及したことがある。 特に、2015 年 11 月 4 日には『膠原病学』の「抗二本鎖 DNA 抗体は SLE に特異的である」という記載に対し噛みついた。
塩沢教授については、2016 年 9 月 25 日の記事において 「九州大学が輩出した優れた教育者である」という趣旨の記載をし、九州大学を賞賛した。 しかし本件について、ある人から「塩沢教授は神戸大学の出身である」というご指摘をいただいた。
私の確認不足である。 塩沢氏を教授として迎えた九州大学の見識が高いことは間違いないのだが、「輩出」というのであれば神戸大学を挙げるべきであった。 たいへん失礼した。
ところで、上で紹介した 2015 年の記事を読み返して、少しばかり恥ずかしくなった。 当時の記事の医学的水準が低い、といっているのではない。むしろ逆である。 医師 3 年目の現在、名古屋大学 6 年生の頃あるいは研修医 1 年目の頃に比べて、はたして医学に対し、より深く真摯な考察を積み重ねるようになっただろうか。 特に病理研修が始まってから、診断業務に直結しない医学的研鑽が、おろそかになっているように思われる。
名古屋大学時代の同級生諸君から「奴も、その程度の医者になったか」と嗤われることのないよう、心して医学と向きあう所存である。
近年の医療界では evidence-based medicine (EBM) という語が好んで用いられている。 キチンとした学術的根拠に基づいて医療を行うべきだ、という意味合いである。 ところが、この「エビデンス evidence」という語の意味は曖昧である。 一応、教科書的にはランダム化比較対照試験や、いわゆるメタ解析などは「エビデンスレベルが高い」つまり信頼性が高い、とされることが多い。 しかし、たとえ二重盲検ランダム化比較対照試験であっても、試験の設計次第では、不適切な結果が意図的に、あるいは意図せずに、誘導されることもあるという事実は、 これまで何度も書いた。 また、現実には、ランダム化や盲検化が不充分で、プラセボ効果や観測者バイアスが大きいと思われる臨床試験も多い。 さらに、理論を軽視して統計が全てであるかのように考える者の少なくないことも問題である。
過日、図書館でたまたま、看護師向けの、診療のエビデンスを解説した本をみかけた。 薄い本で、イラストを多用し、「わかりやすく」さまざまな状況における治療のエビデンスを簡略に解説した書物である。 その中で気になったのが、急性膵炎に対する蛋白分解酵素阻害薬の投与についてである。 症例によって蛋白分解酵素阻害薬を使ったり使わなかったりするのはなぜか、というような項目を設け、その適応条件を「解説」していたのである。
日本では、急性膵炎に対し、蛋白分解酵素阻害薬と称される薬剤を投与することが少なくない。 膵由来の消化酵素の異常活性化による組織傷害を防ぐためである、というのが、その「理論的根拠」である。 ただし、その有用性は統計的には確認されていない。 朝倉書店『内科学』第 11 版によれば 「治療成績向上における明らかな有効性が示されていないことから, 2015 年に改訂された『急性膵炎診療ガイドライン』でも明確な推奨を受けておらず, その適応条件を明らかに示すことが今後の課題となっている」とのことである。
そもそも「蛋白分解酵素阻害薬」という呼称からして、「止血薬」と同様の胡散臭さがある。 「抗プラスミン薬」ならわかるが、「止血薬」となると、実にインチキくさい。 まともに生理学や薬理学を修めた者であれば、そんなもの、あるはずがない、と感じるであろう。 同様に、もし「蛋白分解酵素阻害薬」なるものが本当にあって、それを充分に全身投与したならば、たぶん、患者は死ぬ。 蛋白分解酵素と総称される酵素の中には、全身の細胞の機能を維持するために重要な酵素が多数、含まれているからである。 「キモトリプシン阻害薬」などなら大丈夫かもしれないが、「蛋白分解酵素阻害薬」は、ありえない。
このような「止血薬」「蛋白分解酵素阻害薬」といったものに疑問を感じない、違和感をおぼえない人は、生理学や薬理学を勉強しなおした方が良い。
初期臨床研修が終わり、病理専攻医としてのキャリアが始まった。 北陸に来てから二年間、苦しい研修であった。 むろん、私自身が学んだところは多かったが、はたして、私はこの二年間に、どれだけのものを北陸医大 (仮) に生み落とすことができたか。
率直にいえば、北陸医大を本当の第一志望として志願して我が大学の医学科に入学する学生は、少ない。 国立大学医学科の中では比較的入学しやすいがゆえに選んだ、という者が多いものと思われる。 初期臨床研修あるいは専攻医として就職する者も、地元だから、とか、北陸医大卒だから、というような消極的な理由の者が大半であろう。 私のように、数ある大学の中から敢えて北陸医大を選び、縁もゆかりもないのにやってくる者は、少ない。 が、少ないものの、私以外にも存在する、という点において、この大学の未来を照らす灯は、未だ消えていないといえよう。
過去二年間にも何度か書いてきたが、我が北陸医大の良くない点は、新しいものを自分達が開拓する、時代の最前線を進む、という気概の乏しいことである。 誰かが作った最新技術を取り入れる、とか、北陸地方では一番、というような矮小な志に満足する者が、遺憾ながら、少なくないように思われる。
ところが、よくみると、その北陸医大にあって、なお世界に目を向ける者もいる。 詳しくは知らないのだが、噂では、一部の学生グループが、週刊 The New England Journal of Medicine に連載されている Case Records of Massachusetts General Hospital を読む勉強会を定期開催しているらしい。 具体的な内容は知らぬが、私が学生と共に行っているのと類似の催しであろう。 そういう、試験の役に立たない、臨床にも直結しない勉強を、自分達でやろうと考え行動する姿は、たいへん、よろしい。 精神の有様において、日本有数の水準にあるといえよう。 そして、優れた精神には豊富な学識がおのずから付随するものであるから、彼らが将来、秀でた医師や医学者になることに疑いの余地はない。
そうした学生諸君には、ぜひ、北陸医大に残らず、見ず知らずの地で初期臨床研修を受けてほしい。 いずれ、専門医資格を取得した後などに北陸に戻るのも良いが、別に、戻らなくても良い。
地元に医者を確保しよう、などと近視眼的で姑息的な発想をする大学には未来がない。 我が北陸医大は、21 世紀後半から 22 世紀にかけての日本あるいは世界の医学を牽引する立場にあるのだから、 広く日本中に人材を送り込むべきであって、「我が大学に残ってほしい」などと考えるべきではない。
患者の気持ちを考えろ、というようなことを、私は、言いたくない。 というのも、私は、いささか頭がオカシイようで、世間の標準から少しばかりズレており、要するに非常識な人間だからである。 医学転向する前の私を知っている人であれば、私が「患者の気持ちを考えろ」などと言っているのをみれば噴飯するであろう。
しかし遺憾なことに、医学・医療の世界においては、私は、かなりの常識人であるように思われる。 あまりに医者連中が世間から乖離しているので、相対的に、私はマトモなのである。
詳しいことは、書けぬ。 しかし、救いを求めて病院にやってきた患者を、諸君は、自分と対等の人間として、みているだろうか。 患者の苦しみを、まるで自分のことであるかのように、真摯に受けとめることが、できているだろうか。
医は仁術である。 諸君は、いつのまにか、そのことを忘れ、「助けてやろう」と、上からみおろしているかのような錯覚に、とらわれていないだろうか。
患者に対し、横柄な言葉遣いをする者は少なくない。 高齢者に対し、まるで幼児に接するかのような話し方をする医師や看護師は、なぜか、多い。 些細なことのようであるが、そこには、相手を格下にみる意識が潜んでいる。 そして、そういう意識が、もっと重大な事案を引き起こしているのであるが、本人達は、気づいていない。 悪意がないからといって許されるものではない。